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BIOGRAPHY

20.K-BALLET COMPANYへのゲスト出演

スコティッシュ・バレエへの客演を終えた2000年秋、アダム・クーパーはひょっこりと日本を訪れた。彼はその翌年の2001年1月末から3月末にかけて、熊川哲也が率いるK-BALLET COMPANYにゲスト出演することが決まっていて、その打ち合わせのためにやって来たのだった。

クーパー君はこのゲスト出演を機会に、自分に振付作品を提供させてもらえるよう申し出ていた。熊川君はこれに賛成し、それで二人でどんな作品にするかを相談したのである。

アダム・クーパーと熊川哲也は、ロイヤル・バレエ上級学校での同級生であり、ロイヤル・バレエでの元同僚でもあった。でも熊川君がいうには、ただの同級生とか、同僚とかいうだけの浅い付き合いではないんだという。二人が対談した記事なんかを読むと、確かに親友同士といった感じはする。

熊川哲也は1998年9月(正式な発表は10月)にロイヤル・バレエ団を退団したが、このときはちょっとした騒ぎになった。ロイヤル・バレエの現役プリンシパル2人、ファースト・ソリスト2人、ファースト・アーティスト1人、合計5人の男性ダンサーが、熊川哲也と同時に退団したからである。前にも書いたけど、この1998年というのは、ロイヤル・バレエがマジでつぶれかけた微妙な時期だった。よりによってそんなときに、ロイヤルの上位ダンサー6人が、一挙にごっそりと退団したのである。しかもそれは、この6人がそろって、日本を本拠地とする新しいバレエ・カンパニーを設立するためだった。その新カンパニーが、現在のK-BALLET COMPANY(1999年1月結成)である。

熊川哲也は、ロイヤル・バレエの当時の状況と自分たちの退団とは、直接的な因果関係はない、と言っている。しかし、上位のダンサーが一度に6人も退団するというのは、やはり異常なことである。熊川哲也の自伝である「メイド・イン・ロンドン」(文春文庫)から読み取れるのは、クーパー君がロイヤル時代に抱いていたのと同じような不満を、熊川君も抱いていたらしいということだ。他の5人も事情は似たりよったりだろう。いずれにせよ、そのままロイヤル・バレエにとどまり続けるよりは、新カンパニーを設立して日本を活動拠点にした方がよい、と彼らが判断するほどの、何らかの理由や事情があったのである。でもやはり時期が時期だっただけに、誇り高いイギリス人、しかもロイヤル・バレエを愛する人々は、大いに面目を傷つけられたように感じたのだろう。

熊川哲也にこのイギリス人ダンサー5人を含めた、K-BALLET COMPANYの主要なメンバーは、ほぼ全員がクーパー君の同級生か元同僚であった(ただし、このイギリス人メンバー5人のうち、1人が2000年7月に、もう1人が2001年1月にK-BALLET COMPANYを退団した)。クーパー君は彼らと元々親しい間柄であったばかりか、彼らのダンサーとしての特徴や傾向などもよく知っていた。熊川哲也はクーパーに、振付作品はストーリー性のあるものにしてほしいこと、熊川哲也とクーパーを含めた6人の男性ダンサーが踊ること、そして公演にヴァイオリニストが参加する予定であることを考慮に入れるよう話した。

ところで、熊川哲也を除いた5人のイギリス人ダンサーは「ボーイズ("Boyz")」、たとえば「バレエ・ボーイズ」とか「5ボーイズ」とか新聞で呼ばれている。熊川君もクーパーも、彼らのことをボーイズ、ボーイズ、と呼んでいる。ずーっと不思議でならなかったんだけど、この5人は、年齢的にいって「ボーイズ」とはとてもいえないと思うのだが、なんでそう呼ぶんだろう。

クーパー君が2000年秋に来日した折のインタビューや写真は、日本のバレエ雑誌に掲載されている。またどこかのサイトで、この来日時のクーパー君と熊川君とが一緒に写っている写真を見たことがある。クーパー君はヒゲがびっしりと生えていて、体格がひと回り大きくなっている感がある。バレエ雑誌に掲載された写真を見ても、やっぱりアゴの線がやや丸くなっているように思える。休みで油断したのかな。最初見たときはジョージ・ルーカスかと思った。

ロンドンに戻ったクーパー君は、振り付け作品の美術を担当してくれることになったレズ・ブラザーストンと、どういう作品にするかを話し合った。ヴァイオリニストという要素をとりいれた作品の主人公として、ブラザーストンはパガニーニの生涯はどうかと提案した。そこでクーパー君は、さっそくパガニーニの伝記についてあれこれ調べ始めた(←このへんはさすがにマシュー・ボーンの影響だ)。

パガニーニ(Niccolo Paganini)は、18世紀から19世紀にかけて実在したヴァイオリニスト、また作曲家である。私はいつだったか、「パガニーニ」という映画を観たことがある。題名どおり、パガニーニの生涯を描いた作品なのだが、主人公のパガニーニを演じたのが、クラウス・キンスキーという俳優さんであった。姓から分かるように、彼はナスターシャ・キンスキーのお父さんである。でも、娘とは違って、クラウス・キンスキーは、決して美男ではない。広い額に、頬がげっそりとこそげた、ややエラの張った骨ばったゴツゴツした顔、目は白目がちでぎょろっとしており、むしろ醜怪といってもいいだろう。目の大きいフランケンシュタイン、といった感じである。演じる役柄も、よくいえば個性的、わるくいえばキワモノというか、はっきりいってアブナイ人物(一部は人間以外)が多い。

で、この「パガニーニ」という映画でのキンスキーが、危険度200%全開バリバリなアブナさだったのである。水を得た魚とは、まさにこのことだろう。この映画には、全体として禽獣めいたエロティックさと、グロテスクな雰囲気とが充満しており、正直いって、なにもここまでやらんでも、と私は不愉快だった。大体、私は18世紀末から19世紀にかけてのヨーロッパがあまり好きでない。「アマデウス」でさえイヤなくらいである。ましてキンスキーの演技があまりに凄かった。ぼさぼさの黒髪、背中を丸め、バイオリンに顔を押し付けるようにして、白目をむくように、上目遣いに前を睨みつけて演奏しているシーンは、今でも思い出すと生理的嫌悪を感じる。そのせいで、私はパガニーニの音楽も嫌い。気持ちが悪くなる。

この映画でのパガニーニの人物描写でも分かるように、パガニーニについては、色々と奇怪で不気味な逸話が伝わっているようである。クーパー君は、パガニーニのキャラクターを、踊るダンサーの数に合わせて6つの面に分け、1人のダンサーが1つの面をそれぞれ踊っていく、という作品にすることにした。つまり1人の人物を6人のダンサーが踊るワケである。作品名は「シックス・フェイセズ(Six Faces)」。まんまやんけ。

「6つの顔」とは、精神的に不安定な人、殺人者、ロマンティスト、天才作曲家、悪魔的人物、精神に異常をきたした人、だそうだ(熊川君の説明による)。で、熊川君は悪魔的な面、クーパー君は殺人者としての面を踊ることになった。どのダンサーにどの面を割り当てるかは、クーパー君が決めたそうだ。じゃ、クーパー君は、ワザと自分に殺人者の役を割りふったワケだ。ホント、そーゆーキャラ好きだなあ。

熊川君とクーパー君は、熊川君のロンドンの自宅で、連日パガニーニの曲をひたすら聴きまくって音楽を決めた。なんかスコティッシュ・バレエのために振付けた作品で、連日ジャズを聴きまくって音楽を決めたのとよく似ている。凝り性なのね。アタシなら1日でキレるな。そしてそれからクーパー君が振り付けを施した。

2001年1月下旬、アダム・クーパーはK-BALLET COMPANYのツアーに参加するために再び来日した。ところで、2000年秋にイギリスで公開された映画"Billy Elliot"は、日本でも2001年初春から公開されることになった。邦題は「リトル・ダンサー」。こーゆーとこ、クーパー君はつくづく運の強い人だ。およそ1ヶ月にもわたるK-BALLET COMPANYへのゲスト出演と、見事にドンピシャのタイミングで、チョイ役出演した映画が日本で公開されることになったのだから。

K-BALLET COMPANYのツアーが始まる直前の1月末、「リトル・ダンサー」の試写会が東京で行われる。クーパー君は熊川哲也とともに、この試写会に招待されて舞台挨拶をした。チョイ役のクセに。日本ヘラルドのサイトにそのときの記事と、小さいけどクーパー君の写真がある(→ ここ。 日本ヘラルドさん、リンクのご許可をどうもありがとうございます)。左の写真で、クーパー君の右隣に立っているのは、あの有名な戸田奈津子か?

クーパーが振付けた「シックス・フェイセズ」の衣装と舞台美術をデザインしたレズ・ブラザーストンも、このときに一緒に来日していたようである。クーパー君は「危険な関係( Les Liasons Dangerous )」のバレエ化に取り組んでいて、この作品でも、ブラザーストンが美術を担当してくれることになっていた。

この「危険な関係(バレエ作品名は"Liasons")」については、二人が来日していたこの1月末、かなり具体的な進展があったようだ。クーパー君はブラザーストンと連名で、Bruce MarriotさんのサイトBallet.coの掲示板に、日本からこの「危険な関係」の上演予定時期と出演予定のダンサーについて書き込んでいる。掲示板に自身で書き込む有名ダンサーなんて初めて見たな。もうかなり見つけにくくなっているので、直リンしてもいいだろう(→ ここ )。

ちなみに、クーパー君は、自分がフリーランスであるがために、ファンが自分のスケジュールについて情報を得にくい、というのを自覚しているそうだ。でもなぜだか、自分の公式サイトを立ち上げるつもりはないらしく、このBallet.coの掲示板を使って(多く間接的に)、自分のスケジュールについて時々情報を流している。自分の公式サイト作ってそこで発表した方が、話は早いと思うんだけど。(と思ったら、今日いきなりクーパー君のオフィシャル・サイトができちゃいました。ドメインちゃんと取れたみたい。よしよし。2003年2月23日チャウ後記)

K-BALLET COMPANYがこの2001年春にツアーして回ったのは・・・富山、名古屋、札幌、東京、大阪、神戸、福島、広島で、公演数は全部で19、いや20?まあどっちか。同じ演目で、これぐらい日本中をツアーして、これほどの公演数をこなすバレエ団は、日本ではかなり珍しいんじゃないの?チケット代もすごいな。一番高い席で18,000円、一番安いのでも9000円か・・・。でも完売になっている公演が約半数もある。

クーパー君はこのツアーでは、上記の「シックス・フェイセズ」の他に、「牧神の午後」を踊った。音楽はもちろんドビュッシーの有名なあれだが、振付はニジンスキー版ではない(クーパー君があの衣装を着ている姿はあまり想像したくない)。クーパー君が踊ったのは、クリスチャン・ウボリが振付けたヴァージョンだそうだ(ほっ)。

2001年の1−3月かあ、つくづく無念だ。私がクーパー君のファンになったのは、この1年後だ。観たかったなあ。特に「牧神の午後」・・・クーパー君、上半身ハダカに、下はジーンズだぜ。うおう、キレイや〜。胸毛もヘソ毛もないつるるんクーパー君。剃ったなああ〜。ワキ毛はどうだったんだろう。

まあ「思春期を迎えた初々しい少年の甘酸っぱい性への目覚め」を描いた作品なのなら、濃い毛はナイ方がよかろう。毛があると「第二次性徴をまんべんなく終えたむさ苦しい男のなまぐさい性への欲望」になってしまうから。もっともクーパー君なら、私はそれでも一向にかまわないが。でも日本人の中には、外人独特の毛深さが苦手な人もいる。・・・ってことは、今度の「白鳥の湖」はどうなるんだ?お剃りになるのでしたら、わたくし、ぜひお手伝いしたいですわ。一人じゃ剃りにくいところもありますものね。

「シックス・フェイセズ」は、いかにもブラザーストンのデザインだ。黒い舞台装置、ダンサーは全員、白いシャツの腕をまくり上げ、黒い皮のベストに、黒いズボン、黒い靴。それぞれが真っ赤なヴァイオリンを手にしていて、ほとんど口の端まで伸びたもみ上げを顔に描き加えている。私、今、「メイド・イン・ロンドン」の口絵写真を見ているんだけど、6人いるはずなのに5人しかいないよ・・・クーパー君はどれ?それとも写ってないのか?日本のバレエ雑誌に掲載された写真でも、どれだか分からん。

K-BALLET COMPANYのツアーに長期にわたって参加したことと、そしてこの来日期間中に、「リトル・ダンサー」が話題になっていたことによって、この時期、クーパー君の記事が日本の雑誌にちらほらと掲載されるようになった。彼の日本における知名度は、ここで急速に高まったことだろうと思う。

検索サイトで、キーワード「アダム・クーパー」でヒットするページは、ほとんどが「リトル・ダンサー」と、このK-BALLET COMPANY公演に関するものである。まったくもって、「リトル・ダンサー」、そして熊川哲也さまさまだ。このとき、私はいまだアダム・クーパーの存在さえ知らない。かへすがへすも、いと口惜しきことなりけり。

ちなみに、彼がK-BALLET COMPANYのツアーに参加したときの様子や、この公演を観た人の感想などを知りたい方は、「アダム・クーパー」と「熊川哲也」等のように、キーワードを複数にして検索してみるといいと思う。

この時期に行われたインタビューで最も面白いのは、「フィガロジャポン(FIGARO japon)」(TBSブリタニカ刊)に掲載された、クーパー君と熊川君との対談である。これ、クーパー君の写真がすごくいい。地顔に近いと思う。映像とかバレエ雑誌に載っている写真とは、顔つきがぜんぜん違う。表情を作りさえしなければ、彼はこれほどカワイイのよ〜。

それに対談自体も、二人の素の仲がかいま見られるようで、えらいこと面白い。個人のインタビューだと、どうしても作ったり気取ったりするからね。クーパー君、はしゃいでるはしゃいでる。親しい人に対しては、いつもはこうなんだろう。あの熊川哲也に対して、皮肉っぽい冗談を言ってからかってさえいる。イギリス人。二人が知り合ったばかりの頃の逸話も興味深い。

熊川君については、「インスパイアされたアーティストは氷室京介」発言と、「『ロミオとジュリエット』でマキューシオが死ぬ場面の演技は、長渕剛の『とんぼ』から取った」発言が、やはりダントツのヒットだといえるだろう。クーパー君は、氷室京介が誰なのか最初分からず(知ってる方がおかしいが)、教えてもらうと何も言わずにただ大爆笑した。分かるよ。私も大爆笑したからね。でも、熊川哲也、こういうことをこういう席でマジに言うか。

2001年3月、日本での長い仕事を終えて、久しぶりにイギリスに戻った後も、クーパー君は超忙しかった。いいことではあるんだけど、スケジュールがぎゅうぎゅうに詰まっていた。それにこの2001年は、仕事の面でも私的な面でも、彼にとっては変化の激しい年だったと思う。この年以来、現在に至るまで、彼はまるで機関車みたいに、がむしゃらに走り続けていくのだった。他人事ながら、少し止まって休めば?と言いたくなる。

(2003年2月20日)

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