Club Pelican

BIOGRAPHY

21. “彼は今、どうしてるの?”

2001年の1月末から3月にかけて、熊川哲也率いるK-BALLET COMPANYのツアーにゲストとして参加したアダム・クーパーは、1ヶ月余りにわたる日本滞在を終え、イギリスに帰国した。

5月初旬、彼は“First Class Air Male”という一風変わったミックス・ビル公演に参加した。それは4人の男性ダンサーが次々とソロを踊っていくというもので、振付者は4作品ともに異なり、作品によっては振付者自身によって踊られた。作品はいずれもモダン、というよりは前衛に属するものであった。たぶん私にはとてもついていけないと思う。

クーパーは“Can’t Bark”(Jan de Schynkel振付)という作品を踊った。音楽はシュニトケ(Schnittke チャウはコンサートで1度だけ聴いたことがある。正直言って早く終わってくれと思った)を使ったらしい。

スタートはベルでなく野獣の咆哮によって告げられた。この作品はまず衣装からして奇妙だった。クーパーはキーキーと音の鳴る、黒い男根状の尻尾がついているトラジマのズボンをはき、首輪をつけて鎖に繋がれていた。とはいえ、これはそっち方面のものではなく、野獣をイメージしたものである。 クーパーは人のような犬のような、怒り、粗暴、滑稽さに満ち、嫌悪感を覚えさせるほど獰猛な野獣ぶりであったという。彼は首輪に繋がった鎖を握りしめ、自分の尻尾を乱暴にこすり(分かるね)、気が狂ったように踊って観客を睨みつけた。シュニトケの音楽が効果的に使われたらしく、音楽が高まるに従ってクーパーもいよいよ凶暴な動きを見せた。

彼は鉤爪で獲物に飛びかかるような動作をしきりにしていたが、ふと舞台脇から釣り下げられたバナナがぶらぶら揺れているのを見て動きを止める。そしてクーパーは複雑で巧緻なオフ・バランスの振付によって混乱を表現し、それからバナナを必死でつかまえようとする。ついにバナナをつかんだ彼は、バナナを床にたたきつけて足でぐちゃぐちゃに踏み潰してしまい、その間、彼の尻尾は勝ち誇ったようにキーキー鳴いていた。・・・という作品だったようである。

こういう男性の性欲をあからさまに描いた作品は、イギリス人振付家にはほとんどみられないそうで、この“Can’t Bark”を振付けたJan de Schynkelはフランス人である。奇妙な作品ではあるけれど、クーパーが踊ると、それは奇妙というよりは危険さに溢れていて、クーパーはその独特の個性と動きと迫力とで、舞台全体を支配してしまったそうだ。でもやっぱり私にはついていけないと思う。

5月末、クーパーはロイヤル・バレエの公演にゲストとして再び招聘される。2001年8月をもって、15年に及んだ芸術監督の地位を退くことが決定したアンソニー・ダウエル(Anthony Dowell)の引退記念公演、題して“A Knight at the Ballet”に出演するためである。

この公演はガラ形式であって、ダウエル自身による司会のもと、ロイヤル・バレエのダンサーや外部からのゲスト・ダンサー、そしてロイヤル・バレエ学校の生徒らによって、ダウエルとなじみ深い演目から、その名場面や有名な踊りが披露されていく、というものであった。ゲスト・ダンサーとしては、クーパーの他に、イーサン・スティーフェル(Ethan Stiefel、アメリカン・バレエ・シアター)、カルロス・アコスタ(Carlos Acosta)、熊川哲也、ヴィヴィアナ・デュランテ(Viviana Durante)、イーゴリ・ゼレンスキー(Igor Zelensky、キーロフ・バレエ団)、ロベルト・ボッレ(Roberto Bolle、ミラノ・スカラ座バレエ団)などが参加した。

このガラでの演目やシーンは、ダウエルが特に好んだ、また彼の当たり役として知られたものばかりであって、従って男性ダンサーの役割が殊に強調されたものが多かったという。またダウエルがよく相手役をつとめたアントワネット・シブレー(Antoinette Sibley)とのパートナーシップを彷彿とさせる演目も多く、特に目立ったのはフレデリック・アシュトン(Frederick Ashton)の振付作品であり、その多くはダウエルが作品の完成に直接に携わったものであった。他にもケネス・マクミラン振付の「三人姉妹」、「大地の歌」、また「白鳥の湖」、「ドン・キホーテ」、「ジゼル」など、バレエ・ガラではおなじみの演目がラインナップされていた。

ダウエルはロイヤル・バレエ学校の出身、卒業後はロイヤル・バレエに入団してスター・プリンシパルとして大活躍し、その後は芸術監督を10数年もの間つとめあげた。ロイヤル・バレエ生粋であるのはもちろん、彼はロイヤル・バレエの、ひいてはイギリスにおけるクラシック・バレエの伝統の、正統的継承者の総代表みたいな存在である。このガラ公演が行われた当時、ロス・ストレットン(Ross Stretton)が、ダウエルの後を継いでロイヤル・バレエの次期芸術監督として、9月から就任することはすでに決まっていた。ストレットンは、ロイヤル・バレエとはそれまでほとんど関わりのない人物であったうえに、しかもイギリス人ではなくオーストラリア人であったから(実はここが大きなポイントだと思われる)、ダウエルを賞賛し、彼の退任を惜しむ声は余計に高まっていた。

バレエ・ガラとして以外にも、この公演はいろいろな面で興味深いものとなった。ひとつには、かつては“English style”を体現する男性ダンサーであり、イギリスのクラシック・バレエの正当な継承者であるダウエルのロイヤル・バレエ芸術監督在任時期、ロイヤル・バレエ学校出身のダンサーや、イギリス人ダンサーたちの多くが冷遇されており、ロイヤル・バレエでの自分のキャリアに見切りをつけた彼らは、続々とロイヤル・バレエを退団して出て行ったという事実が舞台に反映されていた。「この公演で決定的に印象づけられたのは、豊かなすばらしさに溢れたこの世界における、イギリス人ダンサーの世代的な欠落という、声に出されることのない問いである。」

現に、イギリスのクラシック・バレエの伝統と特徴とをあらためて強調する場であるはずの、この記念碑的公演の舞台に登場した男性ダンサーのほとんどは外国人であり、ロイヤル・バレエ学校出身であるダンサーもごく僅かであった。ある評者は言う。「明らかにダウエルの継承者たるにふさわしいダンサーはいなかった。ただデンマーク出身のヨハン・コボー(Johan Kobborg)を除いては。身体的にはダウエルには及ばない。しかしコボーにはダウエル的な純正の質が備わっている。完璧なコントロール、配慮の行き届いたパートナリング、そして自分への喝采を敢えて求めない、内なる確固とした信念。」

だが、コボーよりも先輩で、ロイヤル・バレエお得意のヘッド・ハンティングで外部から入団してきたロイヤル・バレエのスターたち、ロイヤルにはさんざん世話になったはずの彼らが、間の悪いことにさまざまな理由でこのガラには出演できなかった(イレク・ムハメドフは他の仕事、シルヴィ・ギエムはケガ、ダーシー・バッセルは妊娠のため)。だから、この“a very English Royal Ballet event”は、ゲスト・ダンサーの方が比率的に目立つという格好になってしまった。

そのゲスト・ダンサーの多くもイギリス人ではなく(そもそも、この舞台に立っていたロイヤル・バレエ所属の上位ダンサーも、ほとんどがそうだったが)、更にまた皮肉なことには、そのうち数人は、確かに「ゲスト」ではあるけれども、ロイヤル・バレエに不満を抱いて退団していった、ロイヤル・バレエ学校出身の元ロイヤル・バレエ団員であった(熊川哲也、ヴィヴィアナ・デュランテはもちろん、大まかに分ければクーパーもこうした“renegades”に入るだろう)。

またこのガラ公演は、表向きはダウエルの功績を讃えるために催されたものであったが、より大きな目的は、ロイヤル・バレエ上級学校の移設資金を集めるための「チャリティー」であったらしく、チケットの値段が通常に比して異常に高く設定された。各タイプのシートは、通常より平均で300ポンド(約57,000円)も値上がりし、最も高価な席に至っては、なんと1,000ポンド(約190,000円)であった。おかげで、この1回の公演で、ロイヤル・バレエは700,000ポンド(約1億3370万円)以上の収益を上げることができたそうである。

しかし、ダウエルが本当に感謝すべき(だと思われる)ロイヤルの常連客のほとんどは、あまりに高価すぎてチケットを購入することができなかった。ある新聞はこう皮肉った。「だががっかりすることはない。このガラ公演での最もすばらしい演目のほとんどは、この7月に行われるロイヤル・バレエのサマー・シーズンにも再演されるだろう・・・たぶん、もっとよくリハーサルを重ねたキャストたちによって。」

ま、とにかく、この“A Knight at the Ballet”に参加するという光栄に預かったアダム・クーパーは、サラ・ウィルドーと一緒にアシュトン振付の“Varii Capricci”(1983)の1シーンを踊った。役柄は“Elvis-cool”な“spiv”(悪党)だそうだ。“Elvis-cool”???「エルヴィス風にかっこいい」っていう意味ですか?エルヴィスって、エルヴィス・プレスリーのこと?例の髪型して、例のピラピラ衣装着てたのかしら。

このガラ公演終了後のダンサーたちの集合写真が、熊川哲也の自伝「メイド・イン・ロンドン」の巻頭に載っている。サラ・ウィルドーはちゃんと最前列に、横顔を向けて笑顔で写っている。でも、クーパーは写ってないと思う。よくみると、最後列のダンサーたちの顔のスキマに、ターミネーターみたいな男性の顔が辛うじて写っているんだけど(心霊写真でよくあるパターン)、まさか、これ?そういえば、同じ熊川哲也の自伝に載っている「シックス・フェイセズ」の写真にも、ナゼかクーパーだけ写ってなかったな。・・・熊川君とクーパー君って、ホントに仲いいの?

さて、2001年6月。フリーランスとはつらいものである。カンパニーに所属していれば、1ヶ月くらい音沙汰がなくても誰も気にしないだろう。が、クーパー君の場合は、たった1ヶ月のあいだ目立った動向がなかった、というだけで、さっそく某バレエサイトの掲示板に「アダム・クーパーは今どうしているのか」というスレが立てられる始末である。引退したとか外国のカンパニーに移籍したとかいうダンサーについてなら分かるが、イギリスを拠点に現役で活動しているダンサーについてこんなスレを立てるな、といいたいところだ。まるで「往年のスター」扱いである。

実際には、2001年のクーパー君はコンスタントに仕事をしていたのであるが、こういう「流れ者ルカ」タイプのダンサーは、その動向が実に分かりにくい。(ところで、“The Car Man”日本公演パンフレットのあらすじを書いたのは、いったいどんな人なんだろう。私はその中にあった「流れ者」という日本語にびっくりして、思わず「子連れ狼」や「眠狂四郎」を連想した。)当時、クーパー君はまだま〜だ自分の公式サイトを立ち上げてはおらず、Bruceさんのballet.coのpostings pageを使って自分の予定を(ごくたまに)流すだけだったから、まあこんなスレが立つのは仕方なかったかもしれない。(ついでだけど、クーパー君に自分の公式サイトを開くよう強く助言したのも、たぶんBruceさんだったのだろうと私は憶測している。)

しかも5月に引き続き、クーパー君はこの年(2001年)からひそかにロイヤルづいてきていたのであった。同年7月初旬、クーパー君はロイヤル・バレエのワシントン公演に参加する。なんで?

ロイヤル・バレエのワシントン公演は、ワシントンD.C.のケネディ・センターでおよそ一週間にわたって行われた。退任を目前にしたダウエルに率いられたツアーには、吉田都、ヨハン・コボー、リャーン・ベンジャミン、アリーナ・コジョカル、サラ・ウィルドー、タマーラ・ロッホ、ジョナサン・コープ、シルヴィ・ギエム、イナキ・ウルレザーガ、アシュレイ・ペイジ、ウィリアム・タケット、ジェーン・バーンらロイヤル・バレエの主要ダンサー、そしてまたなぜかニコラ・ル・リッシュ(パリ・オペラ座バレエ団)、イーサン・スティーフェルも参加した。

クーパー君はツアーの前半3日(7月5‐7日)だけに参加し、リャーン・ベンジャミンと一緒に、アシュトン振付の「タイス・パ・ド・ドゥ」(“Thais Pas De Deux”)を踊った。 忙しくて緊密なスケジュールが大好きなクーパー君は、その後イギリスにとんぼ返りし、7月7‐8日に行われるエクセター・フェスティバル(Exeter Festival)に参加、というかプロデューサー兼ダンサーとして赴いたのである。

ちょっとまて、じゃあ7月7日はダブル・ブッキングしたんじゃないか、とみなさんお思いになるだろう。私も実に不思議だったが、でも、この前のAMP「白鳥の湖」日本公演で、彼はどうやら、夜公演終了後に成田空港に直行して帰国、渡米、帰国、再来日、その翌日に公演という超ギリギリな離れワザをやっていたようである。おそらく彼はこのときも、それこそ時差を利用してでもなんでも、この二つの公演をやってのけたのだろう。

エクセターはイングランド南西部のデヴォン州の都市である。ある方が教えて下さったことには、エクセター・フェスティバルが行われるエクセター大学は、あの「ハリー・ポッター」シリーズの作者の出身大学なんだそうです。クーパーは2001年以来、イーアン・ウェッブ(Iain Webb)とともにエクセター・フェスティバルを共同プロデュースしている。

ただし、今年(2003年)のエクセター・フェスティバルについては、ballet.coにも長文のレビューが掲載されたし、幸いにも日本人でこの公演を観に行かれた方もいて、私たちはその貴重なレビューを読む機会に恵まれたが、2001年の「エクセター・フェスティバル」については、詳細はほとんど分からない。

公演が小規模なものであったこと、またロンドンから遠いこと、そしてチケットが手に入れにくかったこともあってか、たとえばballet.coのpostings pageに、いつも詳細なレビューを書き込みしているようなファンですら観に行けなかったようである。この2001年のエクセター・フェスティバルを観た、という人の書き込みはちらほらとあるのだが、短かったり簡単すぎたりしてよく分からない。その中で特に面白かったのが、「この公演を観た友人から聞いたところでは、『眠りの森の美女』のパ・ド・ドゥが踊られた」と書いていた人がいたことである。たぶんこれはそのご友人のカン違いだろう(クーパー君ファンのあなたなら、その理由はお分かりでしょう)。

ましてや、イギリスの大手新聞で、このローカルでスモールなダンス・フェスティバルを取り上げた記事やレビューを、私はついぞ見かけたことがない。バレエネタのめっきり乏しくなる8月に行われるのなら、それがたとえ「ミュージカル」であろうと、大挙して劇場に押し寄せては、新聞にレビューを連日これでもかとばかりに寄稿する“ballet specialist”、あるいは“dance critic”たちも、ロンドンでのバレエ鑑賞が忙しいこの7月には、エクセターまで足を運ぶ時間も、また興味もなかったのだろう。

というわけで、2001年エクセター・フェスティバルの詳細は私にとって謎だったが、クーパー君の公式サイトの“biography”上の記載によって、ようやくその演目が明らかとなった。ピーター・ダレル(Peter Darrell)振付の“Othello”、アシュレイ・ペイジ(Ashley Page)振付の“Room of Cooks”(クーパーはロイヤル・バレエ時代、この作品の初演をつとめている)、デイヴィッド・ビントレー(David Bintley)振付の“Flowers of the Forest”より“Scottish Dances”、そしてアダム・クーパー振付の“The Art of Touch”であった。出演者はクーパー、ウィルドー、ゲイリー・エイヴィス(Gary Avis)、マイケル・キャシディ(Michael Cassidy)、ローラ・モレラ(Laura Morera)、あとこれはどなたなのか、私は存じ上げないんだけど、Cerveraという男性ダンサー(後でちゃんと調べてみます)ら10人のダンサーであった。

そしてこのエクセター・フェスティバル以降の約2ヶ月間、クーパー君の動向は再び不明になる。彼はLondon Studio Centreのボーイズ・クラスのディレクター(早い話がバレエの先生。現在は教えるヒマがなくなったらしく、アドヴァイザーみたいな名前だけの役職になっている)も担当していたので、その発表会(といってもかなりレベルの高い公演だったそうだ)に姿を現したりした。

同年9月末になって、アダム・クーパーの名前が、再びイギリス各紙の紙面やネット上を大いに賑わすようになる。クーパー君にとって、それはダンサーとしてのキャリア上、非常に大きな意味を持つことになったが、また同時にイギリスのクラシック・バレエ界を揺るがした大騒ぎに、ある意味巻き込まれることにもなった。

(2003年8月16日)

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