Club Pelican

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That's MY “Swan Lake”

by ひな


第1回 音楽

「白鳥が全部男性?」と聞いて、思い浮かべたのは「トロカデロ・デ・モンテカルロ」でした。 しかも読んだ批評が悪かったんでしょう。「オカマバレエ」だの「ゲイの白鳥の湖」だの、予備知識としてはあまり良いとは言えない状態でした。それでも、まぁ面白そうだし観てみるか、的な感覚で観に行ったんです。

もう度肝を抜かれました。観終わって「素晴らしかった!」という言葉しか出てこなかったほどです。

どこが素晴らしかったのか、冷静に分析したり説明したりなど、とてもできませんでした。あれほど感動したのは、ずいぶんと久しぶりです。その後、DVDを何度も繰り返し観て、やっと少し冷静に考えられるようになったみたいです。

AMPの「白鳥の湖」のどこにそれほど感動したのか?たくさんの理由がありますが、一番の大きな要因は音楽の使われ方でした。

まず最初にお断りしておきますが、私はバレエに関してはまったくのド素人です。

なので、バレエファンの方からすると「何言ってんの?」な発言も多々あると思います。その点、ご容赦くださいませ。それと、文章中で「古典」という言葉を使っている場合、これはおおむねプティパ/イワノワ版の振付を想定しているとご了解ください。

「白鳥の湖」の音楽自体、非常に完成された音楽だと思います。厚みのある響き、一度聴いたら忘れられない美しい旋律。これは音楽だけを聴いても、十分に満足できるであろう作品です。初演時には、音楽が豪華すぎて、ダンサーではなく音楽が主役になってしまうのではないか?それによって、ダンサーたちがやる気をなくすのではないか?などと、信じられないような懸念もあったそうです。

さてここで素人の私は「バレエは総合芸術なんだから、どっちが主役とか関係ないんじゃ???」という疑問にかられます。

まぁ、チャイコフスキーが「白鳥の湖」を作曲した当時は、バレエ音楽とはあくまでも踊り、ひいてはそれを踊るダンサーを引き立てるための物だったという事情はありますが。実際、「白鳥の湖」もダンサーの要望に合わせて、いろいろと追加・改訂されています。ヒドイものになると、チャイコフスキー本人の了承ナシに、別の人が改訂して上演された事もあるそうです。著作権の確立した現在ではあり得ない事ですが、当時はそれが普通だったようです。

そんな時代に作曲されたのですから、古典バレエでダンサーの動きに合わせて音楽のテンポが速くなったり、遅くなったりするくらいの事は、現在でもバレエ関係者には当たり前なのでしょう。「黒鳥のパ・ド・ドゥ」などはそれの顕著な例です。あの有名な32回転のためには、音楽のテンポは二の次になってしまう、というのもわからないではありません。しかし、音楽にはある程度、適正なテンポというものがあると思います。あのコーダの軽快な音楽をゆ〜っくり演奏するというのはどうなんでしょう?踊っているダンサーを観ながらならば、まだ我慢できるでしょうが、これで音楽だけ聴いたら?きっと変な感じがするのは私だけではないはず。

これは振付に音楽を合わせている、つまり振付のほうが音楽より大事、という状態に思えます。演出上の効果から音楽のテンポをある程度変えるというのは理解できます。でもなぜ振付に合わせて、しかも音楽が変に聴こえてしまうほど変えるのか?古典バレエを観るたびに、どうしてもその点に納得がいきませんでした。

ところが、その「ダンサーが主役、音楽は脇役」というバレエのイメージを、劇的に塗り替えてくれたのがAMPの「白鳥の湖」でした。

マシュー・ボーンも「(振付は)チャイコフスキーの力強い音楽が導いてくれた。」と言っていますが、本当にそのとおりだと思います。そう、ボーン版はその全編において、非常に音楽にマッチしていると感じます。始めて観た時にはなぜそう感じたのかわからなかったんですが、DVDで何度か観直しているうちに、ボーン版が音楽に合わせて振付られているからだとわかりました。

古典版の振付は、曲ごとに、曲全体に対して振付られていると感じます。なので途中で、たとえばリフトの時や、バレリーナのターンの時に、音楽のテンポや拍と、踊りがズレたりしても、全体の流れとして観ればプロの方々は気にならないのだと思います。中にはそのリフトやターンに合わせて、音楽を遅くしたり速くしたりする場合もありました。

それがボーン版になると、フレーズごとに振付られているようです。ちょっと飛躍した表現になりますが、古典版が一曲を一小節として捉えているとすると、ボーン版は一曲が何小節にも分かれている、という感じです。特にわかりやすいのは、第1幕、王子と王妃が赤じゅうたんの上を舞台正面奥から出てきて、両脇にわかれ、また赤じゅうたんの上を舞台奥に戻る場面。仕官たちが4列で踊るところです。ここは私は非常に好きな場面なんですが、ここの振付を見るとわかりやすいと思います。フレーズごとに1セットの振付になっているはずです。これならば、音楽のテンポを変える必要はありません。音楽の流れに乗って、音楽の抑揚に合わせて、ダンサーたちは踊っているわけです。

振付の技術から考えたら、古典版のほうが高度な技術なのでしょう。実際「ボーンはボキャブラリー(振付の種類)が少ない」という批評も読んだ事があります。しかし、観ているほうは、とても歯切れ良く、なおかつ華やかに感じます。これは音楽だけ聴いた時に感じる印象に非常に近いのです。この場面、音楽そのものは、同じリズムで音程だけが違うもの、または同じフレーズが繰り返し出てくるわけで、「音楽に合わせて振付る」というのはこういう事かと、ボーン版を観て非常に納得しました。だからボーン版は「音楽に合っている」と、もっと言うと「この音楽だからこの振付なんだ」と実感したのでしょう。

そしてもっと嬉しかったのは、ボーンにとって音楽は、情景を表すだけの物でも、ましてや踊りを引き立てるための物でもなかった事です。ストレートプレイで言えばセリフ、もしくは登場人物の心理状態、ミュージカルで言えば歌そのものでさえあるのです。

これは「総合芸術」という言葉がもっともふさわしい映画でも、なかなかできる事ではありません。「アマデウス」という傑作映画を覚えている方は多いと思いますが、この作品が傑出している点は、音楽をBGMとしてではなく、もう一つの主役として扱っている点にあると思います。この作品で全編に流れるモーツァルトの美しく完成された音楽は、時には登場人物の心理状態をセリフよりも雄弁に物語っています。既成の曲でこれをやるには、相当音楽を聴きこみ、イメージを膨らませる必要があると思います。その場面のために作曲された曲を使うよりも、ずっと感性がいる難しい手法です。

ボーンはそれを言葉という媒体のないバレエで、しかも本来は脇役として作曲されたと思われている「白鳥の湖」でやってのけたんですから驚きです。王子が王妃に愛情を請う場面も、スワンクバーの場面も、音楽は王子の心理状態を表現していきます。この音楽の使い方、というか音楽が心理状態を表現するように演出・振付する方法は、4幕で最高潮に達します。

もう一つ、1幕ではやはりスワンクバーは大きな驚きの一つでした。「白鳥の湖」現代版、とは言っても、やはり王室が舞台なわけで、一般庶民の私にしてみれば、どこか大時代的なイメージはあります。それはクラシック音楽、しかもロマンチックバレエの音楽を使うからにはある程度しょうがない部分かな、でも「現代版」って感じじゃないよな、と思っていました。

ところが、ところが。スワンクバーでそんな感覚も一掃されました。あの曲によくもこの場面を思いついたものだ、と拍手したい気持ちです。退廃的な場末のバーが、'60年代のファッションが、こんなにピッタリだなんて。

あれだけ視覚的にも強烈なものを見せられては、これからはあの曲を聴いたら、あのスワンクバーしか思い浮かばなくなるんじゃないかと思います。これは今後、多くの模倣者を生むんではないでしょうか。ボーンにはあの曲がファンキーに聴こえたんですね。今は私もファンキーに聴こえます。

さて、1幕で「音楽で心理状態を表現する」という方法を成功させたボーンですが、ゆったりとして叙情的で感傷的な音楽が連続する2幕はどうするのか?しかもついに、上半身はだかで、羽ズボンの男性白鳥たちが登場するわけです。期待の反面、批評が頭をよぎったりして、多少の不安があった私の前に、これは世界で一番美しい物の一つだ、と思わせてくれるものが登場しました。アダム・クーパーの白鳥です。

というわけで、次回は2幕、アダムの白鳥について語らせてくださいませ。

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第2回 美

最初にアダムの白鳥を観て思ったのは、「なんという美しい体なの!」でした。舞台左手奥にアダムの白鳥が登場します。前に大きくかがんだポーズから、ゆっくりと伸び上がって体をそらす。あごから腰、さらにはつま先にかけてのラインの美しい事。ダンサー、特に男性の、無駄なく鍛えられた筋肉が美しいというのはわかっていますが、アダムの体の美しさというのは、筋肉で作られたものではなく、顔、腕、足のバランスや骨格の美しさという、持って生まれた部分が大きいと思います。肩幅からお尻の形まで、これほど均整の取れたプロポーションの人がいるなんて。

それにしても、この存在感は一体、、、周りの白鳥たちの中でひときわ大きく美しく見えるのはなぜなのか?これは均整の取れた美しい体だけではない。その理由は、白鳥たちの集合場面でハッキリとわかりました。ポーズが他の誰よりも美しいのです。あごの角度、腕の角度、手首から先の角度、足の角度。動いている時でさえ、一つ一つのポーズが静止画のように決まっています。連続撮影したら、きっとどの写真もスチル写真として使えるのではないでしょうか。体の美しさをさらに際立たせるポーズの美しさ。だから、どこにいてもアダムに目がいってしまうほど、大きな存在感があるんだと理解しました。

そして、白鳥たちの美しい群舞が終わり、アダムの白鳥が舞台右袖から、ハープのリズム音に合わせて一歩ずつ下がりながら登場します。王子と白鳥のデュエットです。ゆったりとした叙情的なワルツに乗って、白鳥が少しずつ王子に心を開いていく場面が展開されます。

「なんてセクシーなの!」そう思いました。直接的にセクシーな踊りではないし、表情は無表情です。それなのにこのセクシーさ。呼吸のためでしょうが、半開きにした口、王子の肩に片腕をかけ体を寄せる時、こころもち上向けたあご、手首から先だけをピクっと動かす仕草、その動きの1つ1つに強烈なセックス・アピールがあります。

このデュエット、白鳥は父性であり母性であり男性であり女性であると感じました。その力強さと存在感、優しさと包容力、これは父親がなく、母親にも十分な愛情を受けていない王子には、その両方だと感じられただろう事が理解できます。その白鳥は、あくまでも男性的な外見でありながら、王子に寄り添う姿は女性的。アダムのセックス・アピールは男性的でもあり、女性的でもあります。これは、振付にも現れています。

ここの振付は、王子が白鳥をリフトする場面と、白鳥が王子をリフトする場面が出てきます。基本的に、観客はリフトされる側を女性的と感じるでしょうから、リフトされるのが白鳥だけだと、白鳥は女性的に見えると思います。ところが、白鳥はデュエットの最後には王子を優しく抱きかかえさえします。白鳥の見せるさまざまな面が、王子まで男性的に見えたり女性的に見えたり、また子供のように見えたりさせているのではないでしょうか。その上で、白鳥が王子にだんだんと心を開いていくのが理解できるようにもなっています。この絶妙な振付に、アダムの強烈なセックス・アピール。これは王子は完全にノックアウトされただろうと、完全にノックアウトされた私は呆然と観入っていました。

ところが驚いた事に、美しい体も美しいポーズも強烈なセックス・アピールも、アダムの持つ本質的な「美」の前では、単なる片鱗でしかありませんでした。白鳥のソロ。この場面でアダムは、その「美」の本質を見せ付けてくれたのです。

舞台左袖から出てきて、右前方で腕を前に交差し、片足を少し後ろに引いたポーズで白鳥が静止します。この場面の音楽は、前半にゆったりとした同じ型のフレーズを4回繰り返した後、後半に軽快なフレーズを2回繰り返す構成になっています。音楽だけを聴けば、この構成はすぐにわかるはずです。振付はここでもフレーズごとに1セットになっていて、前半部分では少しずつ変化していく4セットの振付、後半部分でやはり少し変化していく2セットの振付で、一気に盛り上がって終わります。都合6セットにわかれているわけです。つまり、音楽を目で観られる振付になっているのです。しかしこれを実現するには、ダンサーに相当な音感が要求されるはずです。しかもこの場面は群舞ではなくソロです。必然的に観客は1人のダンサーだけを観る事になります。これでダンサーが音楽にピッタリと合わせて踊る事ができなければ、この場面はブチ壊し。ところが、アダムはブチ壊すどころか、さらに大きな喜びを与えてくれました。

この場面、アダムの踊りは「拍に合っている」程度のものではありません。拍に合わせて着地、静止するなんて事は当たり前。それ以上に、音楽が完全に体の中に入っているのです。そう、まるでこの場面の音楽を、アダム自身が奏でているかのようです。まるでアダムが楽器そのものであるかのようなんです。アダムは完全に音楽を体現しています。それがもっとも良くわかるのが、後半部分です。舞台一周のジュテ。何度もジャンプと着地を繰り返すのに、「音楽に合わせている」という不自然さがまったくありません。それどころか、なんと美しく観える事でしょう。音楽の流れを崩していないから、完全に音楽に合っているから、だから美しく自然に感じるのだと気付きました。拍と拍の間にも当然音は流れているわけですから、ジャンプと着地の間、空中にいる時にも音を感じていなければ、音楽と合わなくなってしまいます。しかし、空中で体をコントロールするのは物理的に不可能に近い。となると、体が完全に音楽の流れを把握していなければ、このアダムの自然さは実現できないのか、だから古典で見かけた、リフトやターンの時に音楽がダンサーに合わせる現象が起こるわけかと、納得しました。ゆったりとした前半部分でも、弦楽器の抑揚にピッタリと合った腕や足の動きの美しい事。このアダムの美しさ、これはまさに音感の賜物です。

頭の中で音楽の流れを把握する事は、その音楽を聴きこみさえすれば、それほど難しい事ではありません。しかし、これを表現するとなると話は違います。体に音感が備わっていなければ、手や足を音楽のとおりに動かす事はできません。クラシックの演奏家には、時々こうした抜群の音感を持った人がいますが、クラシックの演奏家は自分で演奏しているのですから、自由自在に音楽を操ればいいわけです。ところがアダムの場合、演奏そのものは他人がしている上、動き自体も他人の振付です。それでいて完全に音楽を体現しているように感じるのですから、とんでもなく音感がいいのです。これほどの音感は訓練で身につくものではありません。まず間違いなく天性のものです。批評でよく見かける「存在感」とか「セクシー」などの表現、それももちろんそのとおりだと実感しましたが、体の内に持っている、この天性の音感こそが、アダムの「美」の本質だったのです。

アダム、王子、他の白鳥たちが同じ振付で踊る場面でそれを確信しました。アダムを基準に、王子や他の白鳥たちと比較すると一目瞭然です。アダムの頭のてっぺんから指先、つま先にいたるまで、その全身の動きが、どんなに音楽にピッタリ合っているかよくわかります。アダムの踊りは音楽そのものです。だからあれほど美しいのだと、これは世界で一番美しいものの1つだと、それを観る事ができた喜びをかみしめました。

さて、初見ではアダムの白鳥の「美」に目を奪われたまま、何も考えられない状態でしたが、この2幕、冷静に観ると、非常に濃い内容を持っている事がわかりました。まずは音楽の使い方。1幕では音楽で心理状態を表現したボーンですが、2幕では演出と構成上、その手法は困難です。では2幕では音楽をどう使うのか?

次に、1幕ではセットデザイン以外はそれほど目立たなかった舞台美術。バレエが総合芸術であるからには当然、舞台美術にもダンサーや音楽と同等の価値があるはずです。それを2幕で見られるのか?

というわけで、次回も2幕、もっとじっくり観ていこうと思います。

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第3回 総合芸術

冒頭、古今東西のバレエ音楽の中でもっとも有名な「情景」の旋律が流れます。ここでも音楽は単なる情景ではなく、失意のうちに死を決意するまでの王子の心理状態を表現していきます。その後ろにはぼんやりと白鳥たちのはばたく姿が。そして音楽がクライマックスに達する部分、一羽の白鳥が舞台奥を横切っていきます。後ろに手を組み、首を少しうなだれた、古典でもよく観られる白鳥のポーズ。本当に男性の白鳥なんだと、実感した場面です。でもなぜ、ボーンは白鳥を男性にする必要があったのでしょうか。

死を決意した王子が公園に入ってきます。ここでは、音楽が長調から短調に変調するところを上手に使って、王子が「遺書を書かなきゃ」という気持ちになったのを表現しています。可哀相に、、、と思ったところへ白鳥が舞台左袖から飛び出してきます。白鳥は舞台を大きく回りこんで、王子の目の前で静止します。もうこの時点ですでに、私の一番の不安は解消されました。

私の一番の不安、それはあの衣装でした。

スチル写真で見てはいましたが、実際に踊っているのを見るまでは、失礼ながら「笑ってしまうかも?」と思っていました。1幕を観て、この舞台はジョークどころか、思いっきりシリアスだと理解していましたから、核になる白鳥が、登場しただけで笑えてしまってはブチ壊しです。…などというのは、素人のあさはかさであったと、アダムの白鳥が登場した途端、思い知りました。

古典の、優雅で今にも折れんばかりの繊細な白鳥と違って、あくまでも力強く生命力にあふれた白鳥。この場面で、ボーンはいきなり自分の白鳥像を提示します。ボーンの白鳥は本物の鳥でした。しかも野生です。王子を見てもひるむ事などなく、それどころかにらみつけて威嚇するような獰猛な白鳥だったのです。男性だからこその躍動感、そして残酷さが必要だったのだと、だからボーンは白鳥を男性に踊らせたのだと理解できました。ならば、その男性を意識させるには、上半身が裸である以上に効果的な衣装はないでしょうし、羽ズボンがなければ、白鳥だとわからないでしょう。長い腕が白鳥の大きな翼に見え、肩甲骨のくぼみが翼の付け根のように見えます。この衣装は過不足なく、ボーンの白鳥像を表現できている優れものです。その上、あのメイク。あの獰猛なメイクが、余計に白鳥が野生であるのを感じさせてくれます。

そんな事を考えているうちに、アダムの白鳥とそれを追う王子は舞台袖へと消え、次々と他の白鳥たちが登場します。群舞です。

後で読んだ批評に「群舞の動きがバラバラ」と批判しているものがありましたが、この舞台を観て本当にそんな事が気になったのでしょうか。何度も観ていると、そういう部分が気になるのかな?とも思いましたが、DVDや舞台、何度観ても私には一向に気になりませんでした。それどころか、逆にバラバラだからこそいいのでは?とさえ思います。この白鳥たちは、悪魔に呪いをかけられて白鳥にされた人間ではなく、本当の野生の白鳥なわけで、野生の白鳥が一糸乱れぬ動きをするなんて事はありません。バラバラだからこそ存在感があり、生命力を感じるのではないでしょうか。

ボーンもそれを意図していたのでは?そう思える場面がすぐ後に続きます。

スチル写真でよく見た、白鳥たちの集合場面。アダムを頂点に白鳥たちがピラミッド型に集合し、王子を横目で威嚇しながら片腕を揺らす場面です。この白鳥たちの腕の動き、それぞれ少しずつ動かす速度が違っています。ここで白鳥たちの腕の動きがピッタリ同じだったら?それはやはり「作られている」という感じになってしまい不自然です。視覚的にも違和感があるでしょう。それでは2幕の中でもっとも美しいこの場面の効果は半減してしまうのではないでしょうか。ボーンは映画に多大な影響を受けているわけですから、当然「作られたイメージ」というのはもっとも避けたい現象でしょう。だから群舞での一糸乱れぬ動き、というものは要求するつもりは毛頭なかったと思うのです。

そしてこの後に続く群舞で、音楽に合わせた振付が非常に有効な点の1つに気付きました。ここの群舞は、白鳥たちが1羽づつ順番に舞台袖から登場し、マスゲームのようにポジションや隊形を変えながら踊るところです。1幕に比べるとずっと飛んだり跳ねたりする事が多くなっています。

さて、古典を観ていていつも非常に気になる事、それはトゥシューズが床にぶつかる音でした。特に生の舞台の場合、音楽の途中に何度もカツカツという音が聞こえてきます。これはバレエファンには気にならない音なのかもしれませんが、私にはどうしても雑音に聞こえます。これがボーン版ではほとんど気にならないのです。もちろん裸足で踊っているのもその一因でしょうが、それだけではありません。フレーズごとに振付されているため、音の出る着地が、小節の最後、もしくはフレーズの終わりにくるようになっているからなのです。

時にはわざと、音楽に合わせてバタバタと音をたてている場面もあります。これを観た時には、きっとボーンもあのトゥシューズの音が気になっていたに違いない、と思いました。音をたてるにしても、きちんと音楽に合っていれば、それは音楽の一部として認識される、という事を証明してくれたのだと思います。きちんと音楽に合っていれば、演奏されている以外の音であっても、雑音にはならないのです。

これは、2幕での音楽の使い方とも関連があります。2幕では1幕で使った、音楽で心理を表現するという手法は使えません。白鳥が野生である限り、そこに心理の入り込む余地はありませんし、マイムの多かった1幕に比べて、2幕はほとんどが踊りで構成されているからです。では音楽をどう使うのか?

それはバレエならでは、バレエだからこそ可能な使い方でした。ボーンは2幕では、音楽を目で観せてくれたのです。

まずは2幕半ば、群舞の終わり部分。白鳥たちが4列に並んで、1列目から次々と順番に同じ振付で踊る場面があります。ここの音楽は1フレーズの中で、フルート、オーボエ、クラリネット、バスーンが順番に同じ旋律を奏でています。また2幕最後、コーダの群舞。白鳥たち、王子と白鳥がグループに分かれ、同じ振付で次々と登場する場面。ここでは音楽が同じフレーズ、またはその変奏を繰り返す構成になっています。どちらの場面も、音楽の構成そのものを目で観ているわけです。これは白鳥のソロでも観られました。

しかしこれだけではありません。ボーンは音楽の構成だけでなく、音楽のイメージまでも目で観せてくれたのでした。

それは「4羽の白鳥の踊り」、ボーン版では「ヒナ白鳥の踊り」と言ったほうがしっくりきますが、その場面でよくわかります。ここの音楽も非常に有名ですが、「白鳥の湖」全曲を聴くとわかるとおり、全曲中もっともコミカルな印象があります。その音楽の印象そのままに、ヒナ白鳥たちの踊りは、必ず観客から笑いが出る踊りです。ヒナたちがちょこちょこ羽をバタつかせ、パタパタと跳ねる動きは、音楽の抑揚にピッタリと合わせて振付られています。しかもなんて面白い振付なんでしょう。音楽がコミカルなのを目で観ているわけです。また、ヒナたちがバタバタと足音をたてながら登場するのも、音楽のテンポと印象を瞬時に理解させる、上手い方法だと思いました。

大きな白鳥たちの踊りも、ダイナミックな印象の音楽にダイナミックな振付。音楽の抑揚に合わせて、高くジャンプしたり、大きく腕を広げる白鳥たちは大迫力です。デュエットの直前の場面、ハープの美しい音そのもののように、羽を開く白鳥たち。この辺りもわかりやすいと思います。ですが、この手法に気付きさえすれば、2幕でアダムも含め、白鳥たちが踊る場面はすべて、音楽の構成とイメージを目で観ているんだとわかるはずです。

これだけ音楽的な振付ならば素人の私にもわかりやすいですし、なにより白鳥像を印象付けるのにも効果的です。その上、観客の感情をある程度コントロールする事さえできてしまいます。ボーンの意のままに、笑ったり、迫力に息を呑んだり、美しさにため息をもらしたり。

ここで、あ!これはまさに、王子の感じている事そのままじゃないの!と気付きました。私は2幕が全幕中もっとも好きです。それは、1幕では王子の苦悩を外から眺めている感じですが、2幕では完全に王子に同調していると感じるからなのです。目と耳で、王子と同じ感覚を体験していたのでした。

しかし、この手法には、素晴らしい効果があるのはわかりましたが、1つ大きな問題もあるのに気付きました。これを実現するには、ダンサーに相当高度な音感が要求されるはずです。なにしろ音楽を目で観せるのです。いくら振付でそれを表現したところで、ダンサーが音楽に合わせて踊れなければお話になりません。群舞はまだ、人数がいて華やかさがある分、それほどではないと思いますが、ソロが問題です。しかしこんな老婆心も、白鳥のソロを観てすぐに杞憂であったとわかりました。

音楽を目で観せる振付、そしてそれを文字通り体現できる、アダム・クーパーという天性の音感を持ったダンサー。これはまさに奇跡の組み合わせだと思います。こうしてボーンは、2幕では「音楽を視覚的に表現する」という手法を成功させました。

また、2幕では、踊りのつなぎ方にも工夫が凝らされています。アダムの最初の登場シーンのすぐ後の群舞、最初に大きな白鳥たち、次にヒナ白鳥たち、続けて中白鳥たちが2組にわかれて、次々と登場しては舞台袖へ、という動きをする場面。どのグループも必ず、フレーズの1小節前から振りに入っています。フレーズの最初から「せーの!」で踊り始めるよりも高度な技術だと思います。これはここだけでなく、2幕ではたびたび観られましたが、これが白鳥たちの入れ替わりや、交互に同じ踊りをする振付をスムーズに見せているのでしょう。音楽の流れを途切れさせないように使われた振付だと思いました。

さて、白鳥には心理はないとは言え、いぜんとして王子の心理は物語の核になる重要な部分です。2幕で王子の心理を表現しているもの、それは照明ではないでしょうか。王子が、夢の世界に迷いこんだように、うっとりした気分になったとわかるのは、白い照明が青く幻想的な色に変わった時。この後は夢のようなデュエットです。そして最後、冒頭と同じ「情景」の音楽が流れています。でも冒頭とは違って聴こえます。それはもちろん、ここまでの展開で、王子がもはや自殺するどころか、幸せの絶頂で生きる喜びを見出している事がわかっているからでもありますが、それだけではありません。明るいオレンジの照明が、舞台上を暖かく見せているから、王子の心理を実感できると思うのです。白く無機質だった月も、オレンジ色に変わっています。その上で、音楽は長調に転じ、王子が喜びのうちに走り去るフィナーレを迎えます。危うく立ち上がって拍手しそうになるほど、見事な終わり方でした。

音楽、振付、ダンサー、舞台美術。すべてが一体となって、どれもが同等の価値を持って存在している。2幕は「総合芸術」という言葉がふさわしい、素晴らしい場面が次々と展開されました。王子が至福の表情で走り去る時、私も客席で至福の気分を味わっていたのは、言うまでもありません。

次は3幕です。起承転結の「転」にあたる部分。1幕で王子の問題が提起され、2幕で一応の解決をみたかに見えます。しかし、、、

というわけで、次回は3幕。これまでは他に目がいっていたため、あまり注目しなかった演出を楽しみたいと思います。

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