Club Pelican

Stories 2

That's MY “Swan Lake”

by ひな


第4回 演出

3幕。1幕、2幕と、音楽自体にストーリー性があり、それぞれの曲に関連性があるのに比べて、3幕は、もともとディベルティスマンのための音楽が多い場面で、それぞれの曲の独立性が高い上、後から追加された曲があるのですから面倒です。音楽で心理を表現するには、ストーリー性が足りず、音楽を視覚的に観せるのでは、物語が進まない。これは難関です。

3幕では音楽を「情景」としての音楽と、「伴奏」としての音楽に大別して使っています。ストレンジャーの登場場面や、王子の錯乱場面から続くクライマックスなどは、「情景」のもっとも顕著な部分ですし、3幕最初の出席者全員によるワルツや、「スペインの踊り」などは「伴奏」の顕著な例です。

しかしそこはボーン、単純に大別しただけではなく、「伴奏」の最中にも物語を展開させます。最初のワルツ、出席者が華やかに踊る途中、ガールフレンドの立場が説明され、王子に各国王女が紹介される、という場面が挟まれています。

なるほど、3幕では物語を語る、もしくは展開させる事に重点を置いた演出がされているわけかと、気付きました。ボーンは3幕では「音楽に合わせて物語を展開させる」という方法で、音楽上の難関を解決するようです。それゆえの音楽の使い方、というわけです。これはよく考えたら、古典での音楽の使い方と大差ありません。ボーンにしては平凡な気がします。しかし、ここでもう1つ気付いた事があります。情景としての音楽、この使い方をしている物が他にもありました。映画です。映画では音楽は主に、情景を表現するのに使われます。

音楽だけではありません。物語に重点が置かれている点、登場人物たちの個性がハッキリしている点、小物を使った演出、そして劇的な展開。3幕は全幕中、もっとも映画に近いのです。「ロシアの踊り」「ナポリの踊り」「チャルダーシュ」等、ディベルティスマンのための音楽でも、登場人物たちのセリフが聞こえてきそうなくらいです。それにしても、セリフのないバレエで、ここまで物語を意識させられるのはなぜなのでしょうか?

これはもちろん、ダンサーたちの演技力も重要でしょうが、それ以上に、演出上の細かい配慮があるからだと思います。ストレンジャーの登場場面、舞台正面、他の人たちより1段高い位置に登場します。この時、音楽、舞台上の他の人たちの動きの両方が止まっています。これにより、観客の目は必然的にストレンジャーに集中するわけです。そして音楽が劇的に変調、今後の波乱が予想される展開です。舞台上の人たちがすべて、ストレンジャーに注目しています。中には、王女をストレンジャーから遠ざけようとするエスコートもいます。この演出上の効果で、この人物が今後の波乱の中心となる人物で、この場にいる誰よりも魅力的である事を、観客は理解できるわけです。さらには、あの白鳥とそっくりである事、ロートバルトの知り合いであるらしい事もわかります。王妃の腕をなめ上げ、ムチを取り出すのを観て、その不遜な性格も理解できます。これだけの情報を、数分の間に観客に理解させる演出は見事です。観客の目を1点に集中させる演出、短時間で状況を説明する演出、これはとても映画的な演出だと思います。

その上、アダムのあの演技力。登場した途端、ストレンジャーが誰よりも魅力的である事を、一瞬で納得させられます。演出上の効果だけでも「理解」はできますが、アダムの演技力はそれを「納得」させてしまうのですから驚きです。長い足、歩き方、表情、仕草、なんてカッコイイんでしょう。この人は、美しく踊るだけでなく、演技力もあるんだと感嘆しました。

この場面を観て、3幕は映画的なんだと考えていましたが、それだけではありませんでした。さらに、舞台ならではの演出がされていたのです。

1幕の劇中劇「蛾の姫」で、音楽が同じように使われていました。この場面の音楽はすべて、「蛾の姫」の情景として使われています。ところがこれとは別に、ロイヤルボックスでは物語が同時進行しています。これをスケールアップして、幕全体に広げたのが3幕です。

例えば「スペインの踊り」の場面。舞台ではスペイン王女とエスコートたちが、華やかに踊っています。その後ろでは、ストレンジャーが次々と各国王女を誘惑しつつ、ナポリ王女のところまで舞台を半周しています。「ハンガリーの踊り(チャルダーシュ)」では、ガールフレンドはそっちのけで、王子とストレンジャーがにらみ合う、というドラマが展開される後ろで、各国王女たちのお相手が、最初のエスコートと変わっていたりなど、舞台正面だけではなく、あちこちでいろいろなドラマがある3幕。DVD版ではウィル・ケンプの演技が印象的だったイタリアン・エスコートだけでも、1つの物語ができそうなくらいです。

また3幕は、登場からずっと、ストレンジャーの独断場、という展開ですが、この展開を際立たせるのが王子の存在です。王子はストレンジャーの動向を見つめ続けます。各国の王女を誘惑する時、王妃を誘惑する時、王子は舞台を移動しながら、時にはムチを持ったりしながら、目はずっとストレンジャーに向けられています。この演出により、ストレンジャーの存在が際立ち、さらには王子の心理状態がわかるようになっているわけです。

観客が自由に視点を変えて観る事ができるのが舞台の魅力です。これは確かに、舞台ならではの演出だと思いました。この演出ならば、観るたびに違う発見があって、何度も観たくなるでしょう。リピーターを生むわけです。

さらに、3幕では振付がとてもクールに感じました。カッコイイんです。これまでと同様に、フレーズごとに音楽に合わせて振付てあるのはもちろんですが、2幕では旋律や音楽の流れに重点を置いて振付られていたのに対して、この3幕では、特にリズムに重点を置いて振付られています。

3幕で非常に耳に残るのが、タップ音やクラップ音です。最初の出席者全員のワルツでも、男性陣がタップを踏んだり、後ろ手をパチンと鳴らしたり、腰の辺りをバンと叩く振付が出てきます。これらはすべて、リズムにアクセントを付けているんですが、これが踊りにキレを感じさせるので、それが「カッコイイ」というイメージになるのではないかと思います。このワルツでは他にも、女性陣がワルツのリズムそのままに、1、2、3と足を上げるところや、男性陣が手招きしながら腰を揺らすところ、最後のほうで、片腕を上に上げ、前に大きくかがんだポーズでビシッと静止するところなど、ほとんどの振付がリズムにアクセントを付けています。その上、なんと印象に残る動きなんでしょう。リズムにアクセントを付けた、音楽的でなおかつユニークな踊り。このワルツの振付は、一度観たら忘れられないほどインパクトがあります。

さらに極め付けに音楽的な振付が、「チャルダーシュ」の前半に出てきます。ゆったりしたテンポの部分、男性陣が片腕を上に上げ、ひらりひらりと上半身をひるがえす振付。これは音楽のリズム、旋律、イメージと一体となった見事な振付だと思いました。これにはさらに、衣装の秀逸さが一役かっています。

3幕では王妃以外は全員、黒を基調にした衣装ですが、注目したいのは衣装の色ではなく、丈です。男性陣の衣装は、丈がかなり長めな上、裾がひらひらする素材で作られているようです。これが非常に効果的なのです。ストレンジャーが「ロシアの踊り」の最後に、魅力を誇示するかのように踊る場面があります。この踊りもとても印象的ですが、あの裾が、踊っている時にひるがえって、さらにストレンジャーのかっこよさを強調しています。3回転や、王妃のテーブルに座る時など、なんともかっこよく見えるのは、演出や振付、アダムの魅力、それに加えてこの衣装があるからだと思います。「チャルダーシュ」の名振付も、上半身をひるがえす時にひらりひらりと一緒にひるがえる衣装の裾が、この振付をますます音楽的にしているのです。また「黒」という色の持つクールなイメージも、プラスアルファな要素なのでしょう。

さて、3幕には最大の難関があります。それは「黒鳥のパ・ド・ドゥ」です。この曲はオリジナルでは1幕にあったのですが、プティパ/イワノワ版で3幕に移され、古典では全幕中最高の見せ場として有名になっています。12分弱という長さに加え、4つのまったく異なったパートに分かれた構成です。これほど色合いの違う音楽が4曲も並ぶ構成で、古典では最高の見せ場となる場面を、ボーンは一体どう扱うのか?

3幕を観る前には、そんな事を考えていましたが、いざ観てみると、いつ「黒鳥のパ・ド・ドゥ」が始まったのか、それさえ気付かないくらい自然に、音楽が物語に溶け込んでいました。王妃とストレンジャーが戯れるのを、ムチを片手に見つめる王子、ストレンジャーにもて遊ばれる王子、それを客たちに見透かされ笑われる王子、1曲ごとに確実に王子が追い詰められていく状況が展開され、いたたまれなくなった王子が、ホールから逃げ出す気持ちが痛いほど伝わります。音楽は、まるでこの場面のために作曲されたかのように、的確に情景を表現していきます。まさに、音楽に合わせて物語が展開していったのでした。

「黒鳥のパ・ド・ドゥ」はあと2曲、ワルツとコーダです。この2曲は伴奏として使われています。ワルツでは、女性全員が踊るのを品定めするかのように見ているストレンジャー。邪魔な王子がいなくなり、ストレンジャーの好き放題なのがわかります。そしてコーダ。賛否両論あるようですが、私はこの場面は素晴らしいと思いました。それは何より、音楽なのです。

古典では、かの有名な32回転が中心になる場面。バレリーナの技術の見せ場になるため、とてもゆっくりと演奏される事の多い音楽です。しかしこの音楽、allegro molto vivace(アレグロ モルト ヴィヴァーチェ)の表示になっています。ゆっくりではないのです。快活に、しかもかなり速く演奏する、というのがチャイコフスキーの意図だったわけです。

そのとおり、なんと軽快に楽しく演奏されていることでしょう!そして「ウェストサイド物語」を彷彿とさせるダンス。そうです。この音楽は、観ているこちらも熱くなるような、そういう音楽なのです。踊っているダンサーたちも楽しいらしく、公演では何人かのダンサーが、かけ声を上げているのを聞きました。テーブル越えも、32回転に負けず劣らず華やかです。

私が観たかったのは、私が聴きたかったのはこれだ!軽やかに踊るアダムと王妃を観ながら、心の底からそう感じていました。

そして、舞台上でも、観客席でも、そこにいる人々すべてが、高揚した気分になったであろうその時、物語は劇的な展開に達します。追い詰められた王子の錯乱、ガールフレンドの死、高らかに勝利を味わうストレンジャーとロートバルト。まるで一編の映画を観たかのような幕切れでした。高揚感、そしてそれを上回る悲劇。なんと観客の心を上手に掴む演出なのでしょう。これはもう、終幕の4幕が素晴らしい出来である事は疑いを挟む余地はありません。そこには大きな感動が待っているはずです。

というわけで、次回は4幕。集大成です。

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第5回 そしてカタルシスへ

ボーンは1幕で「音楽で心理状態を表現する」という手法を成功させました。この4幕で、それは最高潮に達します。というのも、4幕は全幕を通して、音楽が王子の心理状態を表現していると思えるからです。

私は、4幕はすべて、王子の心の中の出来事だと解釈しました。冒頭の手術の場面、手術自体は実際の出来事だとしても、ロートバルトそっくりの医者や、王妃そっくりの看護婦たちは、王子の心がそう見せているわけです。王妃の姿が大きく浮かび上がる照明演出、閉塞感のある白い壁と高い窓という舞台装置も、王子の心を強調しています。この照明演出と舞台装置はDVD版にはなかったので、この場面の王子の心理をさらに強調するために後から付け加えられたのでしょう。衣装や舞台美術も一体となって、王子の心理状態を表現する意図が明白です。となれば当然、音楽はこの場面では情景を表すものではなく、王子の心理状態を表現しているものであるわけです。そんな理屈を考えるまでもなく、この場面の音楽は、なんとも哀しく切実に聴こえてきます。

次は、一応の落ち着きを取り戻して眠る王子のベッドの下から、白鳥たちが次々に登場する場面です。この場面のゆったりとした幻想的な音楽。これは王子の夢なのだと理解できます。白鳥たちの踊りが2幕と同様、音楽の構成とイメージを表現する振付になっているのもハッキリとわかるはずです。

目覚めた王子は、思い通りにならない自分の体に混乱します。この場面の音楽は、まさに王子の心理状態そのものに聴こえます。

そして白鳥が枕の下からなまめかしく登場。王子を苦しめたストレンジャーではなく、あの、美しい白鳥だと納得した王子が、しばしの心の平安を取り戻す場面です。この一連の場面、音楽は、驚き、とまどい、平安と続く王子の心理を見事に表現していきます。

しかし、束の間の平安も、白鳥たちの登場によって破られます。ここからの場面、「音楽で心理状態を表現する」という手法が、全幕中もっとも効果的に使われている場面だと思いました。ここからの音楽が表現する心理は、王子のものだけではありません。白鳥のものでもあるのです。それはつまり、今ここに見えている白鳥は、王子の心の中の白鳥であり、ひいては王子自身でもあるという事です。2幕では無表情だった白鳥は、この場面では感情をハッキリと表情に表します。野生ではなくなった白鳥が、仲間の白鳥たちに迫害される構図も理解できるようになっています。王子の嘆きは白鳥の嘆きであり、だからこそ他の白鳥たちには異質に感じられる。王子と白鳥は排除されるしかないのです。そうした展開が劇的に語られているのもこの場面の特徴です。その上、3幕で使った映画的な演出も盛り込まれています。

白鳥たちが1羽ずつベッドの上に集まり、王子と白鳥を威嚇する場面。ボーンはかのアルフレッド・ヒッチコック監督の傑作映画「鳥」をイメージしたと言っていましたが、なんと効果的に使われた事でしょう!この場面、美しさ、残酷さ、そして怖さを合わせ持ち、その上でビジュアル的にも鮮烈です。これほど強烈なイメージを観客に焼付け、舞台の1点に観客の目を集中させる演出は見事としか言いようがありません。

というような事を冷静に考えられたのは、当然、後になってDVDを何度も観直してからでした。3幕の終わりですでに、この話は悲劇になる以外、なりようがないと思ってはいても、引き離され、傷つけられる王子と白鳥の姿は涙なしでは観られません。そしてクライマックス。王子に向かって、白鳥たちの中に倒れ込む白鳥の姿の、なんと劇的で美しく哀しい事でしょう。ある意味、ベタと言えなくもない場面で、きっと音楽なしで振付だけを観たら「おおげさすぎる」と感じたかもしれません。しかし、ここは音楽が最高潮に達する場面、音楽、演出、振付が、観客の心も最高潮へと向かわせます。そして、観客が感じている悲痛な気持ちは、そのまま、王子の心情でもあったのでした。

絶望のうちに死んでゆく王子。初めて我が子を抱きしめ、涙にくれる王妃。ここで音楽は長調へと転じ、物語を収束させます。余韻の残るフィナーレの音楽です。思わず「スゴイ!」と声を出してしまった場面でした。王子の死だけで終わっていたら「悲劇」という言葉で表現されたであろうこの物語を、ボーンは最後の最後で「カタルシス」へと昇華させたのでした。幼年の王子を抱く白鳥、そしてその白鳥がそっと王子に頬を寄せる演出。最後の一音まで、王子の心理を表現して終わるとは。これはもう、立ち上がって「ブラボー!」と叫ぶしかないような終わり方です。まったくなんと素晴らしい作品を作り上げた事か。3幕が終わって想像したとおり、いや想像以上の感動が待っていたのでした。

このAMPの「スワンレイク」という作品。「古典の「白鳥の湖」の新解釈」という言葉が良く使われているのを目にしました。男性のみが踊る白鳥たち、コンテンポラリーとクラシックをミックスしたような振付、同性愛の要素を感じさせる物語と、そんな部分が「新解釈」という言葉につながるであろう事は理解できますし、それは確かに斬新な事なのでしょう。しかし、この作品でもっとも斬新なのは、物語でも振付でも演出でもなく、チャイコフスキーのバレエ音楽「白鳥の湖」の新解釈だと実感できる点だと思います。バレエ「白鳥の湖」の新解釈や新振付、新演出、そうした作品は他にもあるでしょう。でも、バレエ音楽「白鳥の湖」に新解釈をし、それをメインに作り上げられた作品は、このAMP「スワンレイク」だけではないかと思います。これは決して、古典「白鳥の湖」の新解釈などではない。まったく新しい「白鳥の湖」だと思うのです。今後、バレエ音楽「白鳥の湖」を聴くときに思い浮かぶのは、スワンクバーであり、青い照明の中、美しく舞台を一周するアダム・クーパーの白鳥であり、額から鼻に黒い線を引くストレンジャーの姿であり、ベッドの上に集まって羽ばたく白鳥たちの姿でしょう。

バレエ公演では、一流の指揮者とオーケストラが演奏をする事は、まずめったにありません。それはダンサーがメインとなるバレエでは、ダンサーに合わせる技術が必要となるからです。以前、世界的なチェリスト、ムスティラフ・ロストローポーヴィチ氏が「ロミオとジュリエット」のバレエ公演でオーケストラの指揮をとり、「なぜダンサーがテンポを決めるのか。指揮者がテンポを決めるべきだ。」と言った有名な話がありますが、古典の「白鳥の湖」の振付で、指揮者がテンポを決めて好きなように演奏してしまったら、ダンサーは踊れなくなってしまうでしょう。ですが、AMPの「スワンレイク」ならば、音楽に合わせて振付られたこの作品ならば、それも可能なのではないかと思えます。

ただ、バレエ音楽「白鳥の湖」の新解釈、だからと言って、この作品が音楽がクローズアップされた作品になっているとは思いません。同様に、振付や演出がメインではありません。この作品の振付が、古典の黒鳥の32回転のように、後の世まで残る振付になるかは疑問です。ですがこの作品自体は、今現在、実際に舞台を観た、またはDVDで観た人たちに、バレエなどまったく知らない素人にさえ、大きな感動を与えてくれたのは事実です。この作品は、振付や演出や音楽で語られるのではなく、「スワンレイク」というひとつの作品として語られるのだと思います。それは「総合芸術」であるからで、だからこそ私は「これが私の「白鳥の湖」だ。」と思えるのです。


追記:思いがけず、長い連載になってしまいました。私のつたない文章を読んでくださった方々、そして、掲載してくださったチャウさんに、言い尽くせないほど感謝しています。「スワンレイク」という傑作と出合った事、アダム・クーパーという素晴らしいダンサーを知った事、その感動が少しでも伝われば幸いです。さて、今月は「On Your Toes」観劇で、ロンドンまで行ってきます。あの美しい白鳥とは違ったアダムを観られる楽しみでいっぱいです。(2003年8月6日)


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