第一幕はいきなり客席のライトが落とされて始まったが、第二幕は開演に先んじて客席が暗くなった。客席が静まり返る。それから静かな音楽が始まり、黒装束の召使が白い幕の端を持って、ゆっくりと幕を開けていった。薄い幕の向こうには、客席に背を向けた状態で置かれている8脚の椅子が見える。
日本公演ではこんなことはなかったように覚えているが、今回は脇から絡め取られる白い幕に椅子が引っかかって倒れるアクシデントが数回あった。波打つ幕に椅子の背が巻き込まれてしまうのである。召使役の人は椅子が倒れると直していたし、幕を開けるときも実に注意深く幕を持ち上げ、椅子が引っかからないようにしていた。
夕暮れのような暗いオレンジ色の明かりの中で人々が談笑している。そしてみなが席につき、ロズモンド夫人がアリアを歌い始める。ヴァルモンはトゥールヴェル夫人の横に座ろうとするが、メルトイユ夫人がそれを遮って、自分がトゥールヴェル夫人とヴァルモンの間に座る。観客はこの様子を見て笑い声を立てた。
ヴァルモンとメルトイユ夫人は顔を寄せ、ヴォランジュ夫人と話し込んでいるジェルクールを見てあざ笑う。ジェルクールは自分の婚約者(セシル)が他の男と関係を結んだのを知らない。小さな演出だけど、原作にあったメルトイユ夫人の言葉が次々と浮かんだ。
「ジェルクールが将来自分の妻となるべき女に大事をとり、妻に欺かれるという夫として避けがたい運命も避けてみせるという思い上がりには、お互いさまにずいぶん悩まされたものです」、「だからあなたと私と二人して、彼がよくよくおめでたい男だという証拠を見せてやりましょうよ」、「箱入り娘でなく一人前の女をジェルクールに呈上したいと考えています。」
人々は客席に背を向けて座ったまま、姿勢を直し、首を回してお互いを見やる。観客は面白そうに笑っていた。登場人物の顔が見えない、という時点ですでに笑いを誘われるらしい。また登場人物たちが同時に似た動きをして、横顔だけを見せて笑いあったり、睨みあったり、見つめあったりするのも可笑しいらしかった。
アリアの2番目が始まったところでセシルが入ってくる。セシルは淡いブルーグレーの布地に小花模様が散ったドレスを着ていた。メルトイユ夫人に駆け寄ったセシルは、ヴァルモンがちらつかせていた鍵を奪い取り、そのままジェルクールの隣に座らされる。ヴァルモンはそんなセシルに平然と「やあ、元気?」といった軽い調子で手を振る。
ヨーロッパの観客の神経はよく分からん。観客はヴァルモンのこの仕草に笑っていたのである。また、ここでも小さいが大きな効果を持つ演出。ヴァルモンとメルトイユ夫人は、椅子に座ってうつむいているセシルを見つめてこっそり笑う。これも原作のヴァルモンの手紙に同じ記述がある。ヴァルモンは処女を失った翌朝のセシルの様子を、面白がってメルトイユ夫人に書き送っている。
セシルがやって来たどさくさにまぎれて、ヴァルモンはトゥールヴェル夫人の隣に席を占める。ヴァルモンがトゥールヴェル夫人の座っている椅子の背に、ジェルクールがセシルの座っている椅子の背に、同時に手を伸ばす。顔の見えない左右対称のユーモラスな仕草、立ち上がったメルトイユ夫人がヴァルモンの手を振り払う。その都度、観客の間からクスクス笑いが漏れる。
きわめつけが、プレヴァンが入ってきてメルトイユ夫人の隣に座り、今度はメルトイユ夫人がプレヴァンの座っている椅子に手をかけるシーンである。ヴァルモンは立ち上がって彼女の手を振り払う。しかしメルトイユ夫人は動じることなく、すかさず手をプレヴァンの手にバチンと重ねてキスを受ける。観客はこれでかなりウケていた。
日本公演では、メルトイユ夫人もヴァルモンも本気で嫉妬しているような感じだったが、今回はお互いにゲームをして遊んでいるような、悪戯っぽい雰囲気だった。メルトイユ夫人は「まあ、おいたはダメよ」という表情で、ヴァルモンは「やれやれ、なかなかやりますな」といった表情である。
最高だったのがバーネビ・イングラムのプレヴァンであった。イングラム氏はすごい演技力があり、彼のジェルクールもプレヴァンもユーモラスで憎めないヤツで、私はともに好きである。プレヴァンが最初に現れると、メルトイユ夫人はわざとヴァルモンの前でプレヴァンとイチャついてみせる。そのときのイングラム氏のプレヴァンがすごい笑える。ふんぞりかえって、傲慢で自信たっぷりな目つきでヴァルモンを見下ろすの。アダム・クーパーにそんなデカい態度が取れるなんてすごいぞイングラム。
ロズモンド夫人のアリアが終わって一同がダンスをする。その前にセシルはメルトイユ夫人を部屋の脇に引っ張り寄せ、ヴァルモンの仕打ちを訴える。しかしメルトイユ夫人はセシルの背を押し、無理やりヴァルモンと組んで踊らせる。
ダンスが始まる。舞台の最前列にいるのはメルトイユ夫人とプレヴァンである。このダンスのシーンでは、プレヴァンが割といい位置を占める。今回のプレヴァン役は、イングラム氏の他にマイケル・コピンスキ(元バーミンガム・ロイヤル・バレエ団)が担当した。
コピンスキ君は長身の美青年(というより美少年にみえる)である。やっぱりバレエ・ダンサーは動きですぐ分かるのね。コピンスキ君の手足の動きのなんと流麗だったこと!横向きで肩膝ついて、腕を後ろに振り上げるとこなんて、一瞬だったけどその優雅な動きに見惚れましたよ。静止したポーズも実にきれい。このコピンスキ君、後のシーンでもすごく印象的な動きをしていた。ヴァルモンの悪夢の場面ね。顔は隠していたけど一発で分かった。後述します。
この群舞は、音楽も踊りも私の好きなシーンの一つである。8人の登場人物が組む相手を次々と替えて、時に整然と、時に入り乱れて踊っていく。見た目にもめまぐるしいが、それに加えて、この8人は誰が誰と組んでも(野郎以外)、結局どこかで関係のある人々同士だから、この物語の複雑な人間関係をそのまま体現していて、まるで万華鏡のような踊りである。観ているこちらも彼らの関係に巻き込まれていくようだ。
メルトイユ夫人は踊りに紛れて巧妙に立ち回る。とかくセシルをヴァルモンと組ませ、トゥールヴェル夫人と踊ろうとするヴァルモンを制してセシルと踊らせる。日本公演ではマイムでセシルを説得していたが、今回はセシルをヴァルモンと踊らせることで、セシルがヴァルモンを受け入れる気になるよう仕向けていくのである。
ちょっとしたシーンながらも怖かったのが、トゥールヴェル夫人と組もうとしたヴァルモンをセシルに押し付けた後、メルトイユ夫人は自分がトゥールヴェル夫人と手を取って踊る。ここのサラ・バロンの顔がおっかないのよ。だって平然とにこやかに笑っているんだもの。自分の大嫌いな女に。
セシルはヴァルモンと踊っていくうちに態度が変わってくる。意味ありげな視線でヴァルモンを見つめ、口元には微かに笑みが浮かんでいる。ダンスが終わると、セシルはヴァルモンの手を引いて離れたところへ行き、微笑みながらヴァルモンに部屋の鍵を渡す。メルトイユ夫人は遠くからそれを見つめ、会心の笑みを浮かべる。
照れたように笑いながら走り去るセシルのお尻を、ヴァルモンは面白そうにポン、と叩く。うーむ、あのですね、私はこれは納得がいきません。部屋に入ってきたときは明らかに傷ついていたセシルが、ほんの短い時間ヴァルモンと踊っただけで、どうしてあんなに態度が一変するの?
そりゃあ、原作でも、セシルはメルトイユ夫人からの一通の手紙だけで、実にあっさりとヴァルモンと関係したことを肯定的に考えるようになる。でもそれは、ヴァルモンと関係した時点で、セシルはヴァルモンに対してまんざらでもない気持ちを抱いていて、次の逢瀬まで約束した、という伏線があるから納得できるのね。
でもこの舞台では、ヴァルモンはセシルを明らかに強姦している。あの強姦シーンで、セシルはヴァルモンに惹かれたような表情や仕草を一瞬みせるけど、でも総じてみれば、やはりあれはかなりどぎつい強姦シーンでしょう。当然セシルは尋常じゃなく傷ついたに決まっているし、部屋にやって来たときもショックから脱け出せていない。それが、ほんの数分踊っただけで、なんでああいう媚を売るような態度になれるのだろう。
確かに日本公演では、セシルがなぜ男を手玉にとったり、二股かけたり、ヴァルモンを受け入れたりするようになるのか説明不足だった。でも今回の公演でも、フォローが逆に矛盾を生み出しているように思える。作る側がうまく辻褄を合わせたように思っても、観る側が同じように感じるとは限らない。
ヴァルモンはトゥールヴェル夫人を引き留め、彼女に恋文を読ませる。ここの「ああ、奥様、お慈悲です!」踊りは、相変わらず大仰でわざとらしくてよい。クーパー君がトゥールヴェル夫人の反応を見ながら、時折こっそりとみせる邪悪な笑みも絶好調である。
跪いて頭を垂れたヴァルモンをトゥールヴェル夫人が助け起こす。この舞台で私が最も好きな踊りは、ここからのふたりのパ・ド・ドゥ(?)と、トゥールヴェル夫人に暴力を振るってしまった自分に混乱するヴァルモンのソロなんです。後でヴァルモンとトゥールヴェル夫人が結ばれるシーンのパ・ド・ドゥもきれいだけど、この最初のパ・ド・ドゥは、ふたりの気持ちが変化して180度転換しちゃうのが、見事な振付で雄弁に説明されている。
ここの振付は「名作劇場」で書いたと思うので(たぶん)、あまりくどくど書きません。でも特に印象に残った振付をいくつか書かせて下さい。最初はヴァルモンを拒んでいたトゥールヴェル夫人は段々と混乱する。ヴァルモンに脇を支えられて歩きながら徐々に膝が崩れてくる。それからヴァルモンがトゥールヴェル夫人の後ろに立ち、ふたり同時に上半身をぐにっと後ろに曲げる。トゥールヴェル夫人がヴァルモンの片腕を両手でつかみ、それを支えにして片脚を最初は後ろ、次に前に思い切り上げる。
これらの踊りは、音楽にバッチリ合わせてある振付はもちろん、ウィルドーのしなやかで緩急をつけた絶妙な踊りと、クーパー君とウィルドーのタイミングというか、パートナーシップ(←こんな言葉を使うのは少し恥ずかしいが)が完璧であったせいで余計にすばらしくなった。ここはややこしい振りが多いが、とにかくズレない、もたつかない、間がない。
また、ヴァルモンがトゥールヴェル夫人の頭を両手で挟み、トゥールヴェル夫人がヴァルモンの手の上に自分の手を重ねて、そのまま引きずられる振りはこのシーンのベスト振付賞。頭はその人物の心だから、ヴァルモンはトゥールヴェル夫人の心に触れ、ヴァルモンの手を介して、トゥールヴェル夫人も自分の本心に触れている。
ふたりが背中合わせに立って、トゥールヴェル夫人がヴァルモンの頭や顔を撫で(このへんで音楽が盛り上がってくる)、それからふたりが両腕をくるくると回して、肘を組むところもきれいでかつ音楽に合っていてよかった。ふたりの表情も、踊りとともに変わってくる。
トゥールヴェル夫人は、「道徳心で自分を保っている→男に恋心を打ち明けられて混乱する→自分の本心を自覚する→戸惑いながらも男の求愛を受け入れる→自分の情熱をはっきりと表現する」という変化が分かる。一方のヴァルモンも、「邪悪な下心→いつのまにか我を忘れて本気になっていく→本気で恋する喜びに夢中になる」のである。
そしてヴァルモンはトゥールヴェル夫人を床に押し倒し、トゥールヴェル夫人はヴァルモンを情熱的に抱きしめる。ここでヴァルモンの表情が変わり、彼は今までにない自分の気持ちを自覚して愕然とする。
このシーンの最後で面白いことが起こった。ヴァルモンはトゥールヴェル夫人から離れて立ち尽くす。それを訝ったトゥールヴェル夫人は、ヴァルモンの両手を自分の背に回して抱きしめさせ、身を反らせて両腕を広げる。ある日の公演で、ウィルドーが両腕を広げるタイミングが速くて、しかもばっ、と一気に広げたので、「ヘイ、カモ〜ン!」という感じになり、客席から笑いが起こってしまった。
ここで笑ってもいいのかなあ、それにトゥールヴェル夫人の清楚なイメージと違うなあ、と思って次の公演で確かめた。そしたら、彼らも前回の公演で笑いが起こったのは心外だったらしく、ウィルドーは両腕を広げるスピードをゆっくりにして、腕の動きもなめらかに、肘から先を緩やかに広げる、というふうに変えていた。こうすると美しい動きになり、もちろん笑いは二度と起きなかった。同じ動きでも、ほんのわずかな違いで奇妙になったり、美しくなったりするんだな、と実感した。
そういえば、クーパー君の突然おフランス語「マタント!」で観客は絶対に大爆笑するはず、と私は予想していた。ところが意外にも、誰一人としてぜーんぜん笑わなかった。これが日本人キャストオンリーの舞台だとして、ダンサーがいきなり「マタント!」って叫んだら爆笑モノじゃない?実は、私は日本公演でも、クーパー君の「マタント!」には内心ひそかに笑いを堪えていたのだ。イギリス人は容赦ないからさぞ大笑いするだろうと心配していたが、笑わなかったのでホッとした。
あわてて駆けつけたロズモンド夫人に対して、トゥールヴェル夫人は切ない気持ちを必死に訴える。苦しげな表情で胸を押さえ、両手を激しく振り回す。押さえられていた彼女本来の感情が一気に爆発したような振りである。ロズモンド夫人が歌って語りかけると、トゥールヴェル夫人は踊りとマイムでそれに答える。なんか映画の「ピアノ・レッスン(The Piano)」を思い出す。主人公のエイダは表情と手話だけで「話す」んだよねえ。実に雄弁に。
ロズモンド夫人はトゥールヴェル夫人に、この館から去るように勧める。これは原作とは少し違っている。原作では、ヴァルモンへの恋心に苦しむトゥールヴェル夫人が、何の予告もなくロズモンド夫人の館を去ってしまう。
トゥールヴェル夫人は後でロズモンド夫人に手紙を書き送り、ヴァルモンの名前は明かさずに、このままでは自分はきっと「過ち」を犯してしまうから、それを避けるために去らざるを得なかった、と明かす。ロズモンド夫人は返信の中で、あなたが恋している人物が誰なのか自分には察しがつく、あなたが去ったのは正しい選択だった、と彼女を慰める。ロズモンド夫人は、ヴァルモンとトゥールヴェル夫人の危なっかしい関係に気づいていた。だから舞台でも、ロズモンド夫人はヴァルモンの手紙を握りつぶすのである。
ヴァルモンとメルトイユ夫人は、その様子を奥の窓の向こうから見つめている。ヴァルモンはトゥールヴェル夫人を追いかけようとするが、その前にメルトイユ夫人が立ちふさがる。ここからのメルトイユ夫人の様子が、サラ・バロンとヨランダ・ヨーク・エドジェルとでは大きく違っていた。
バロンは妖艶な、ほとんど粘着質といってもいい不気味な笑みを浮かべている。彼女はヴァルモンの手を彼女の胸に這わせて、彼を「自分たちの世界」に引き戻そうとする。だがヴァルモンはメルトイユ夫人の手を振り払う。それから主旋律のない伴奏だけの音楽の中で、メルトイユ夫人がヴァルモンの背後にくっつくようにして、ふたりは同時にゆっくりと片脚を上げて数歩あるく。私はここの振りも好きなんですね。緊張感あふれる伴奏にすごく合っていて、踊りが主旋律の役割を果たしている。
それからふたりは交互に腰を支えてリフトしあい、激しく速く回転した挙句に(バロンがクーパーを片手でリフトしていたのはやっぱりすごい)、ヴァルモンはメルトイユ夫人を突き飛ばし、床に叩きつけてしまう。ここはバタッ!という大きな音が響くと同時に、メルトイユ夫人が「ウウッ!」という呻き声を上げる。あまりの激しさに、本当にケガをしたんじゃないかと思うほどだった。
うろたえて近づくヴァルモンに、メルトイユ夫人は伏していた顔を上げ、彼を睨みつけたまま膝だけを立てて「膝行」しながらヴァルモンに近づく。これは怖かった。片膝を立ててはそれを床に沈めて歩き、上半身を機械のように上下させながらヴァルモンに詰め寄る。
日本公演では、ここはいかにも爬虫類とか動物を連想させる野性的な動きだったが、今回は静かながらも不気味さと緊張感の漂う動きになっていた。メルトイユ夫人の膝に頭を乗せて甘えるヴァルモンを、メルトイユ夫人は激しく振り払う。床に倒れこんだヴァルモンに、バロンのメルトイユ夫人は唾を吐いて立ち去る。
ヨランダさんの場合は、トゥールヴェル夫人を追いかけようとしたヴァルモンを遮るとき、平然とした優雅な微笑を浮かべている。ヴァルモンに突き飛ばされ、「膝行」しながら彼に近づくシーンでも、まったくの無表情。去り際にヴァルモンを突き放すところでも、ヨランダさんは唾を吐きかけるという仕草はしていなかった。ただようやく激したように両腕を上げて一気に振り下ろし、ヴァルモンを睨みつける。
次はメルトイユ夫人がダンスニーとプレヴァンを手玉にとった後、プレヴァンを罠にはめるシーンである。ここでもバロンとヨランダさんの表現はかなり違っていた。
その前に、ダンスニーがソファーに緊張した面持ちで座っていると、上着を肩に引っかけたプレヴァンが入ってくる。ここでもプレヴァンを演ずるバーネビ・イングラム氏の演技が大いに笑えた。
イングラム氏のプレヴァンは、倣岸不遜な身振りで入ってくると、ダンスニーを見て「なんだコイツ」という表情をし、彼をじろりと一瞥する。それから横柄な態度で、ダンスニーが座っている同じソファーにどっかりと腰を下ろす。気まず〜い雰囲気が流れる中、プレヴァンは横目でちらちらとダンスニーを盗み見する。イングラムって、なんか座っているだけで笑える。こういう人材は貴重ではないかしら。
そこへ緋色のドレスに着替えたメルトイユ夫人が華やかな笑顔で入ってくる。さっきまでの凄まじい形相との落差がすごい。ダンスニーとプレヴァンは同時に立ち上がって彼女に駆け寄ろうとするが、プレヴァンはダンスニーを突き飛ばし、自分がメルトイユ夫人に近寄る。
すごすごと立ち去ろうとするダンスニーをメルトイユ夫人は引き留め、プレヴァンと手をつないで同じ振りで踊った後に(ここの振りが妙に音楽に合っていて、チャウさんはけっこう好みである)、プレヴァンとダンスニーを両腕で押さえつけるようにしてソファーに座らせる。彼女はプレヴァンに親密な態度で囁きかけると同時に、片方の手でダンスニーの太股(内側)にさわさわと手を這わせる。
男二人に自分を持ち上げさせて踊った後、メルトイユ夫人はプレヴァンに耳打ちする。プレヴァンは途端にスケベ根性丸出しな、鼻の下を伸ばしたマヌケな表情でうんうんと頷く。ここのイングラム氏の表情もすごく笑える。プレヴァンが嬉々として去った後、メルトイユ夫人はダンスニーにも席を外させる。
一人になったメルトイユ夫人は、ソファーの上に座って、両手で自分の胸から下腹部をなぞる。このシーンでは、バロンは仕草も表情も非常にエロティックで、いかにも欲情しています、といった雰囲気を漂わせていたが、ヨランダさんは押さえ気味であった。表情は静かで、体をソファーの上でやや反り返らせた姿勢をとっていただけである。そのポーズが上品で美しかった。
そこへ前もってメルトイユ夫人に言い含められていたプレヴァンがやって来る。メルトイユ夫人にタイを解かれて顔に巻きつけられ、タイを銜えて犬のように引っぱられ、彼女がソファーの上でプレヴァンを激しい勢いで組み伏せて、彼のシャツやズボンのボタンを外すシーンでは、会場から「ホッホッホ」という笑い声が起きていた。イギリス人は様々な愛の形に寛容らしい。
だがメルトイユ夫人はいきなり顔を上げて悲鳴を上げ、プレヴァンを力任せに引き寄せて自分の上にのしかからせる。駆けつけたヴォランジュ夫人がプレヴァンを引っぺがす。プレヴァンは立ち上がるが、何事が起きたのかまだよく分かっていない表情で頭を掻く。そのプレヴァンの後頭部を、ヴォランジュ夫人がデカいクッションで思い切りぶん殴る。プレヴァンは眩暈を起こして前につんのめる。ここでもイングラム氏のどつかれリアクションが見事で、観客は大爆笑していた。
プレヴァンに責められたメルトイユ夫人は、わざとらしく白目をむいて額を押さえ、失神するフリをしてソファーに倒れこむ。ヴォランジュ夫人はプレヴァンの服を拾い上げ、それをすごい勢いで彼に叩きつけて追い立てる。この間、観客は笑いっぱなしで、これはクーパー君の狙いどおりだったろう。
事情を明かされていたセシルとメルトイユ夫人は高笑いする。その笑い声は、地声+エコーをきかせた効果音である。笑い声の効果音は当日のメルトイユ夫人役に合わせて変えてあった。バロンは低い声で「うわっはっはっは!」、ヨランダさんは高い声で「きゃははは!」という感じである。
ダンスニーが現れると、メルトイユ夫人はセシルを彼の許へと押しやる。セシルは何のためらいもなくダンスニーに駆け寄る。ここでも微妙な変更があって、メルトイユ夫人はさっさと姿を消すが、セシルとダンスニーは抱き合って見つめあったまま、しばらくそこに留まる。
これはたぶん、セシルが罪悪感を感じることなしに、ヴァルモンとダンスニーと二股をかけていることを示しているんだろう。でもそんなに効果があるとは思えない。セシルの変貌を説明する演出は、なんかみんな間に合わせ的な感じがするなあ。クーパー君には悪いけど。
次のシーンはトゥールヴェル夫人の寝室。背景にある、二人の人物が顔を寄せ合っている絵については、london dance.comで行なわれた「アダム・クーパーとチャットしよう!」で質問が出ていた。オリジナルではなく原画があるそうだ。クーパー君は「でも絵の名前を忘れちゃったから、あとでレズ(・ブラザーストン)に聞いとくね〜♪」と答えていた。でも、どーやってそれをみんなに教えるのだクーパー君。
絵の描いてある壁の扉が開いて、トゥールヴェル夫人が追いつめられたような表情で現れる。それからトゥールヴェル夫人のソロ。最初に彼女が登場したときに踊る、爽やかで伸び伸びとした振りと、すぐ前のシーンであったメルトイユ夫人の妖艶な仕草を足して二で割ったような踊りに変化している。
特にトゥールヴェル夫人の腕は、制御の利かない別の生き物のように勝手に動く。その手の動きはメルトイユ夫人にそっくりである。だがトゥールヴェル夫人の反応は違う。最初に登場したときのソロでの動きにも似ているが、今度は自由を望んで伸びやかに動いているのではなく、勝手に暴走している感じである。トゥールヴェル夫人は必死にそんな自分の腕を叩いて押さえようとする。
トゥールヴェル夫人の心情を表現する主な手段として、腕の動きを採用したクーパー君はえらい。また、それを見事に実現してみせたサラ・ウィルドーもすばらしい。トゥールヴェル夫人を踊らないなら離婚する、とクーパー君はウィルドーを脅したそうだが、そのくらいの労力を費やした甲斐はあったな。
またウィルドーが舞台の左側で、両腕と左脚を同時にゆらりと高く上げる動きがとても美しかった。でもトゥールヴェル夫人が神に祈ろうとして止める仕草がなくなったのは遺憾だ。さて、音楽がなくなり、チン、チン、チン、という鐘の小さな音だけが響く。舞台の奥にあるガラス戸がガチャッと開く音が聞こえる。トゥールヴェル夫人はソファーから身を起こし、恐る恐るドアに近づく。
彼女はドアを細めに開けるやいなや、あわてて閉めようとする。その瞬間、白いシャツを着たヴァルモンの腕だけがドアの隙間からばっと現れ、それを遮る。ここでドラムがドーン!と大きく鳴る。観ているほうも思わずぎょっとする異様な光景である。扉をこじ開けてヴァルモンが荒々しく入ってくる。
ドアがバン!と閉まる音、ヴァルモンが上着を床に投げつける音、トゥールヴェル夫人がヴァルモンの上着を彼に叩きつける音、そしてヴァルモンが再び上着を床に投げ捨てる音と、緊迫感に溢れる音楽が合わさって、ここは一瞬で終わるけど印象的に残るシーンである。
トゥールヴェル夫人は泣きながらヴァルモンに出ていくよう命じる。ヴァルモンは無表情のまま踵を返してドアへ向かうが、途中でちらっとトゥールヴェル夫人のほうを振り返る。ここは日本公演版のように、脇目も振らずにとっとと去っていくほうがよかったなあ。途中で振り返ると未練がましくなって、あ、まーたヴァルモンは相手の反応をうかがって悪巧みを考えてるな、というふうに見えてしまう。
出て行こうとするヴァルモンの背中に、トゥールヴェル夫人がしがみついて目を閉じる。ああ、このふたりのポーズは美しいんだから、もっとキープしてくれ〜、という不満はさておき、ここからのヴァルモンとトゥールヴェル夫人とのデュエットはとてもきれいだった。ヴァルモンとセシルとのデュエットと同様、たるみ、もたつきや間がなく、一気に押し寄せるように次々と激しくかつ美しい踊りが展開されていく。
ヴァルモンがトゥールヴェル夫人を振り回すたびに、黒地に金糸の刺繍の入った彼女の長いガウンの裾が扇形や円形に広がって、微かに輝きながら翻る。また素足が見えたときのウィルドーの脚のポーズが美しい。クーパー君がウィルドーの体を肩に乗せて回転すると、ウィルドーのガウンの裾がめくれて彼女の両足が見える。その両脚の曲げ方や足の甲の向きが実に美しさのツボにはまっている。ここは日本公演ではあまり上手くいかなかった部分だが、今回は見事に決まっていた。
ソファーの上でガウンを脱いだトゥールヴェル夫人の足元に、ヴァルモンが思いっきりスライディングしていくシーンは、あれはよくケガしないものだなあと思っていた。すごい勢いでずずーっと滑っていくので、クーパー君のズボンの尻から発火するんじゃないかと心配した。舞台の右端で踊っていたクーパー君がダッシュして、舞台の真ん中あたりから腰を落としてスライディング、舞台の左端にあるソファーの下でピタッと止まる。
だがもっとすごいのがウィルドーである。クーパー君がソファーの下で止まるのを待ってないのだ。彼がまだ滑っている最中で、ソファーの上で立った状態から、体を前にがっ、と倒してダイビングするのである。落ちたところを見事にクーパー君がキャッチする。
振付は日本公演とさほど変わってはいない。ヴァルモンとトゥールヴェル夫人が手を取り合って回転し、それから並んで両足を揃えてくるくると回り、最後にふたり一緒に左足を後ろに上げながら半回転するところは、いつみてもドラマティックできれいである。それからクーパー君がものすごい斜め回転ジャンプをした後、ウィルドーが回転しながら飛び上がったところを、クーパー君が空中でキャッチして振り回す。
ヴァルモンとトゥールヴェル夫人が結ばれる瞬間のポーズは少し変更されていた。日本公演版ではあまりに「そのまま」すぎるとでも思ったのか、下にいるヴァルモンは両の肘を床につけ、身を大きく反り返らせて目を見開く、というふうになっていた。ちょっとした変更だけど、不思議なことにこうすると印象が大きく違ってくる。「そのまま」っぽくなくなって、劇的な効果が強まる。
ヴァルモンがトゥールヴェル夫人を抱き上げ、ソファーに運んでいくところでは、クーパー君がゆっくりと回ったときにウィルドーが片腕を横に伸ばして微かに揺らす、というふうになっていた。これも小さなアレンジだけど、暖かくて穏やかな雰囲気が漂っていてとてもよかった。
ただ私の好きだったいくつかの振りがなくなったのが残念。その一つが、ヴァルモンがトゥールヴェル夫人の腰をつかんで頭上に持ち上げ、トゥールヴェル夫人がヴァルモンを包み込むように腕を緩やかに曲げて、彼を見下ろすポーズである。これは悪人ヴァルモンが初めて「心から大切に思う存在を得る」ような感じでよかったのに。
また、トゥールヴェル夫人がヴァルモンの首に自分の十字架をかけてやるシーンも変わっていた。日本公演では、トゥールヴェル夫人がヴァルモンの手を片手ずつ取り、手首をくるくると回してから「愛する人を抱きしめる」ことを教える感じだったが、今回はそういう雰囲気がなくなっていた。
更に、日本公演では、ヴァルモンは戸惑いながら、トゥールヴェル夫人からもらった十字架に不器用にキスをしていた。だが今回はヴァルモンのそうした戸惑いや不器用さがなくなった。十字架をもらったヴァルモンは、トゥールヴェル夫人とがばっ、と抱き合って長く熱い口づけをする。
個人的には、「色男」ヴァルモンが実は本物の恋愛にはウブであり、トゥールヴェル夫人によって初めて自然な愛情表現を知る、という日本公演の設定のほうが好きだった。なぜ今回の公演では、トゥールヴェル夫人からこの意味ある役割を取り上げたのかよく分からない。
このデュエットは、激烈な熱愛一直線ではなく、ヴァルモンにとってトゥールヴェル夫人はどんな存在なのか分かるとか、またトゥールヴェル夫人の存在によってヴァルモンの意外な一面が明らかになるとか、他の意味が付加されていた点では、日本公演版のほうがよかった。
ここのデュエットを観てると、同じような振りが繰り返されているのに気づく。ヴァルモンがトゥールヴェル夫人を持ち上げてぐるぐる振り回す、という振りが多い(5回くらい)。しかもみな似たようなタイプ、パターンである。それから熱き口づけシーンが多い(3回)。確かに振り回すときれいだし、キスすると情熱的だけど、ま〜た振り回すのかよ、ま〜たキスかよ、とつい思ってしまった。またスライディングやらダイビングやら、とかくオーバーアクションが目立つ。クーパー君、本当に申し訳ない。
とにかくひたすら情熱的で激しくて、ぐるんぐるん振り回して、むちゅちゅちゅ〜、とキスをする。このデュエットは、ヴァルモンとトゥールヴェル夫人の愛情を描いているのだから、これでいいのだ、と言われれば返す言葉がないんだけど、私はね、感情を大振りな踊りやオーバーアクションでそのまま垂れ流すことが「ドラマティック」だとは思わないのね。
ある人から言われて考えさせられたことがある。つまり、「表現」と「表出」は違うということ。元々の話題は絵画についてで、これは後で「旅日記」にでも書きます。その人は、ゴッホの初期の絵は「表現」だから好きだけど、晩年の作は「表出」だから好きじゃない、と言った。
つまり、自分の感情なり意見なりを、自分の中できっちりまとめた上で、他人に見せたり聞かせたりすることを意識して(つまり見聞きする人のことを思いやって)外に出すのが「表現」で、自分の感情をまんま外にぶつけるのが「表出」だということらしい。
これをヴァルモンとトゥールヴェル夫人のデュエットに当てはめると、前のデュエット、彼らがお互いに対する愛情を自覚するに至る一連の踊りは「表現」だったけど、このデュエット、ヴァルモンとトゥールヴェル夫人が結ばれる踊りは、「表出」の面が強かったように思う。同じような振りと情熱的なキスの繰り返しで、さすがに途中でお腹いっぱいになってしまった。
キツイことを言うが、ここのデュエットは、ヴァルモンとトゥールヴェル夫人の愛の「表現」ではなく、アダム・クーパーとサラ・ウィルドー夫妻の愛の「表出」になってしまったところがある。作品全体からみても、このデュエットだけストーリーから浮いているという印象が残った。
激しい愛情を表すにしても、やはり舞台上で観客に見せるものなのだから、ただ激情をそのまま発散したような踊りにするんではなくて、より多くの「語彙」と、ある程度の秩序や抑制の利いた形式美があればもっとよかった。秩序や形式美ばかりに囚われると意味がないけど、適切な秩序や形式美は絶対に必要だ。こういう性質の踊りの場合は特に。
でもこれは贅沢な不満というもので、このデュエットは基本的にすばらしかったから、あえて私個人が気に入らなかった点を書いた。「オン・ユア・トウズ」の頃とは違って、クーパー君の振付に対して、躊躇なくこういうことが書けるようになって嬉しい。批評家の厳しい感想も、ようやくクーパー君も容赦なく批判してもらえるような振付ができるようになったことを証明しているのかもしれない。
このデュエットでのベスト振付賞。ふたりが腕を交互にひらりと翻らせながら、ヴァルモンが立ったままかがんで、彼の背中にトゥールヴェル夫人が仰向けにもたれかかるところ。この振りは見た目にもきれいで音楽にもピタリと合っていて、更に「悪夢」の後のシーンでも、トゥールヴェル夫人がヴァルモンに自分たちの愛情を思い出させる象徴として再現される(ピアノみたいな音色が流れる)。
(2005年9月10日)