Club Pelican

London Diary 2005

2005年5月12日

午前9時半に成田空港に着いた。出発は11時である。チェックインカウンターでチェックインを済ませて荷物を預けた。あと小一時間、まずは旅行保険に入った。それから最も大事なこと、お金をどうやって持っていくかを遂に決断しなければならない。

なにしろ3泊4日なので、トラベラーズ・チェックにするのは面倒くさい。クレジット・カードでいいじゃん、と思われるだろう。しかし、私はクレジット・カードが携帯電話と同じくらい好きでない。でも今の世の中、持っていないと色々と不便なので仕方なく作った。実際のところ、大いに役に立ってくれている。

しかし買い物はできるかぎり現金で明朗清算したい。イギリスが小切手・カード社会なのはよく分かっている。それに「地球の歩き方」に現金を持ち歩くのは危険だと書いてあった・・・どうしよう・・・やっぱり現金にしよっと。

ロンドンにいるのは実質3日間。5万円くらいあれば充分だろう。で、ポンドに変えた。円は安くなっているらしい。5万円で240ポンド。念のため日本円も持っていく。2万円。それから困ったときの最終手段、クレジット・カード。これでOK。

機内に乗り込む。今回は航空会社から直にチケットを買ったので、通路側の席を早々に確保できていた。私は元来頻尿女で、また血栓症を避けるためにも酒と水分を多く摂取し、トイレに備えなければならない。腹が減ったときにサービスのお菓子や飲み物を取りにいくのにも便利。

ロンドンと日本の時差は8時間、今日のこの12日は32時間あることになる。タフな一日だ。機内でなるべく休息することが必要だ。確かに通路側の席で、これは最大の安心要素だった。しかし想定外のことが起きた。私の席の前後左右は、謎のスペイン人集団で固められていたのである。

謎のスペイン人集団(スペイン語だと思うがナニ人かは不明)は、ほとんどが20〜30代の男ばかり、だが女性も少数いた。彼らは完全に修学旅行のノリで、頻繁に席を立っては仲間のところに遊びに来るのだった。

これは最悪のポジション、と思ったが、彼らのおしゃべり自体はさほどうるさくはなかった。節度を弁えているようだ。だが、彼らには申し訳ないのだが、やはりうるさいのだ。何がって。顔が。

濃い黒髪、ほとんどつながってるカモメ眉毛、どこまでがもみ上げでどこからがヒゲなのか分からない、顔の下半分を覆っている毛、ヒゲのないヤツも、そりあとが黒ゴマのように顔全体に散らばっている。ああうるせえ。

しかもみな超大柄な男ばかり。スペイン人たちは通路を頻繁に行きかう。でも、「声がうるさいから静かにして下さい」とは言えても、「顔がうるさいから静かにして下さい」とは絶対に言えない。

だが機内食が出た後、謎のスペイン人たちはほとんどが寝入ってしまった。離陸後3時間余りで、機内の明かりは消されて5時間くらい「おねむの時間」になる。わたくしは食事の時に出されたワインの小瓶をちびちびやりながら、機内放送の映画を観ることにする。

リストを見るとあまり面白くない。なんだつまらん、と思いつつ次のページをめくる。すると、おお、「ビリー・エリオット(リトル・ダンサー)」があるではないか!これはわたくしの今回のワガママを神様がお許し下さった証拠、ではなく、ただ単に今ロンドンでミュージカル版「ビリー・エリオット」が上演されているので、「ロンドンではぜひ観劇してね♪」と航空会社を抱き込んで宣伝しているのであった。

でも、ラストで出てくるクーパー君を目にするために、つい連続で3回も観てしまった。あああ、このたくましい背中、首から肩にかけての隆起した筋肉、しなやかに反り返る足の甲、力強い飛翔、色っぽく反り返る上半身、お世辞にも上手とは言えないピルエット、なんてすばらしいの!結局眠ったのは小一時間くらいであった。

ロンドンまでの11時間、あっという間に過ぎてしまった。でもエコノミー席でずっと座り続けたのだから、肩が凝ってパンパンに張っている。肩を動かすとパキパキッ、と変な音もする。トイレの傍の座席のない場所で、小さな窓の外に広がる澄んだ青空を見ながらストレッチをする。

イギリス現地時間12日午後4時前にヒースロー到着。入国審査は空いていた。ラッキー。余裕でロイヤル・バレエのトリプル・ビル(夜7時半開演)に間に合う。チケット本体はもう郵送してもらっていたから、ボックス・オフィスで受け取る必要もない(開演前はかなり混みあう)。

さて、今回の入国審査官の質問。滞在日数、渡英の目的、同行者の有無、ここまではいつも聞かれていること。それに加えて、今回は以下のような質問をされた。渡英の目的は、バレエを観ることだけなのか(←んなわきゃねーだろ)、イギリスに友人、知人、家族はいるか(←いないこともない)、滞在先として記入されているホテルは本当の宿泊先なのか(←本当です)。

このような質問は、私を不法滞在と移民目的で渡英したのではないかと疑っていることから出されたものである。もちろん私はイギリスの法を厳正に遵守し、それを犯すつもりは毛頭ありません。それに、誰がこんな不便で物価も高い国に住みたいと思いますか。

とにかく時間との戦いである。それに私は疲れている。今回もヒースロー・エクスプレスのお世話になることにする。ロンドンのパディントン駅までわずか15分(地下鉄のピカデリー・ラインに乗ると小一時間かかる)。でも、去年は片道13ポンドだったのが、14ポンドに値上がりしていた。イギリスに住んでいる人から、好景気のせいでインフレが起きていると知らされていた。ああ、ホントだ、と実感する。

今回は幸運なことに、ヒースロー・エクスプレスは順調に運行され、5時前にはパディントン駅に到着した。予約しておいた駅前の安宿(B&Bともいう)にチェックインする。ロイヤル・バレエのトリプル・ビル開演まであと2時間半。余裕である。

まずは部屋でコーヒーを飲んで一息つく。その後顔を洗い、歯を磨き、化粧をし、そこそこ小ぎれいな服に着替える。それから夜に帰ってきたときに備えて、近くの雑貨屋で水やサンドウィッチ、お菓子、カップラーメンを買い込む(9.5ポンド)。狭い空間にありとあらゆる商品が詰め込まれている。見ているだけで楽しくなり、ついたくさん買い込んでしまった。

備考。飛行機では座っているだけなのに飲み食いさせられてばかりいる。だから飛行機に乗っている12時間弱で確実に1〜2キロは太る。そんなわけで、飛行機から降りた直後は食欲がまったくない。

地下鉄がいきなり止まるかもしれないことを考慮し、6時半には宿を出てコヴェント・ガーデンへ出かける。地下鉄ゾーン1・2の往復切符を買った。去年は3.6ポンド(たぶん)だったのが、4ポンドになっていた。コヴェント・ガーデンに着いたときはちょうど7時、もう開場している。さっさと入ってプログラムを買い、フリーのパンフレットやリーフレットを漁り、トイレを済ませて席に着く。

ロイヤル・バレエの公演プログラムは5ポンドで、これは値上がりしていない。しかしチケットの価格は年々上がっている。3年前に比べて10ポンド近くも値上がりした演目もある。ちょっとやりすぎだと思うが、演目によってチケット代は異なるため、なかなか文句は出にくいだろう。またバレエを観に来る人々は一応金持ちが多いらしいから、たかたが10ポンドの値上がりなど気にしないのかもしれない。

ロイヤル・バレエのトリプル・ビル、"The Dream"は面白かったが、その後のクリストファー・ブルースの"Three Songs-Two Voices"はさっぱりワケが分からない。旅行中は一種の緊張・興奮状態にある。だから疲れはさほど感じない。無謀にも隣のおばちゃんにこの作品はどう理解すればいいのか聞く。色々な話が聞けて面白かった。「モダンは難しいから、とにかく何度も観なさい」という助言をもらう。

"The Rite of Spring"は、原曲のおかげでなんとか流れが分かった。隣のおばちゃんが「この作品はどう思った?」と尋ねてきた。私は「とてもグロテスクで残酷です」と答えた。それを聞いておばちゃんがどう思ったのかは分からない。

帰りはまた地下鉄でパディントンへ。宿への道を歩いていると、前からお揃いのアメリカン・フットボールのユニフォームみたいな赤い長袖Tシャツを着て(いわゆるカラー・ギャング)、下はジーンズを穿いた3人のデブの青年(少年?)が歩いてきた。その中の1人が私とすれちがいざまに「ユー・ビッチ!」とつぶやいた。うるせえよこの白ブタ野郎。

さて、長い一日が終わった。シャワーを浴びて、買い置きしていたものを食べた。イギリスのカップラーメンとサンドウィッチ。カップラーメンは、ずいぶんとあっさり味のスープだな、と思っていたら、カップの底にスープの粉が固まってへばりついていた。

イギリスのいいところはサンドウィッチの具の種類が豊富なことだ。雑貨屋で売っているようなサンドウィッチでもいろんな種類があって充分においしい。しかしこの夜食癖が、後にとんでもない事態を引き起こすことになる。食った後、ベッドに入ってテレビをぼんやりと観ながら、電気を消して寝た。


2005年5月13日

今日は午後1時半から「兵士の物語」昼公演が始まる。観光などはできそうもない。前日の夜、午前1時くらいに眠ったが、起きたのは8時くらいであった。疲労と寝不足の後の7時間は決して充分な睡眠時間ではない。しかし私は朝ごはんを食べたかった。宿泊費込みですからね。吝嗇が眠気に勝利し、私は着替えて食堂に下りた(安宿の食堂は大体地下にある)。

メニューはコーヒーか紅茶、トーストした薄いパン2枚(バター、ジャム付き)、目玉焼き、ベーコン(日本のベーコンとはまるきり違う。ロース肉をうす切りにしたもの。チャウさん大好物)、安物のソーセージ。飲み物とパンはおかわり自由。

あとはセルフサービスで果物のジュース(オレンジ、パイン、グレープフルーツ)、そしてシリアル類多種。日本ではお目にかかれないシリアルに「ウィータビクス(名前うろおぼえ)」というものがある。たぶん小麦を殻ごと粉砕してハンバーグ状に固めたもので、そのまま食べてもいいが、パサパサして味がしない。

周囲の客を見ると、牛乳に浸しておかゆみたいにしたり、ジャムをつけたりして食べていた。今日は牛乳に浸して食べてみた。あまりおいしくない。明日はジャムをつけて食べてみよう。

どうせ観光はできないから、急がず10時過ぎにようやく宿を出た。ワン・デイ・トラベル・カード(地下鉄、バスの一日乗り放題チケット。4.7ポンド)を買って、サドラーズ・ウェルズ劇場に行った。「危険な関係」のリーフレット(厚手の紙のチラシ)を探すためである。リーフレットはまだ出ていなかったが、サドラーズ・ウェルズ劇場サマー・シーズンのガイド・ブック(無料)があった。「危険な関係」も見開き2ページで掲載されている。何冊かもらった。

サドラーズ・ウェルズ劇場の最寄り駅、Angel駅の前に「タイ・ビュッフェ」という軽食屋がある。3年前にそこで食べて、あまりのマズさに心中激怒し、サービス・チャージを払わないで店を出た。こんな店は早晩つぶれるだろうと思ったが、まだありやがった。

なにせ昨日の午後に到着したばかりで、身体は疲れている。スター・バックスに入ってぼーっとしていた。帰国したらまたすぐに仕事だ。今回ばかりは、観光は一切あきらめ、とにかく疲れないように時間を見つけて休むことに決めていた。

昼前にレスター・スクエアに行った。腹が減ってきたので、中華街に行って昼食を食べることにした。1人で食事をするには、中華街の店は格好の場所なのである。中華料理はおいしい料理だと思うが、イギリスに進出すると途端に味がイギリス化する。それでも水分の多い食事ができて満足した。

それからロイヤル・オペラ・ハウスに行った。少し時間的余裕をもってボックス・オフィスに行き、予約しておいたチケットを受け取った。1時になってリンバリー・スタジオへのドアが開かれた。会場ではチケットのチェックとともに荷物検査があった。とはいっても形式的に中をざっとあらためるだけである。

ロビーに入ってプログラムを買った。1部2ポンド。これも去年と変わらない。ただしチケット代は、去年は15ポンドだったが、今年は18ポンドに値上がりした。「兵士の物語」を観ていて、舞台をこんなにも間近で観られる嬉しさを痛感する。目の前1メートルに立っている兵士役のクーパー君の草色の軍服は、色褪せてところどころ擦り切れて破れている。どうやってここまでボロボロにできたのか、と不思議だ。

こんなに近いと、クーパー君を生の人間として実感できる。彼の体温まで伝わってくるようだ。彼の瞳がライトを反射してきらきらと光っている。微かな息づかい、衣擦れの音、すべてが生々しく聞こえてくる。

キャストは総勢4人だが、彼らの誰一人として、ステップを踏んでもジャンプをしても、ほとんど音を立てない。彼らの履いている靴は、一見すると普通の靴だが、じつは柔らかい素材で作られているダンス・シューズなのが見て取れた。

クーパー君のメイクもはっきりと見える。アイブロウ、アイライナー、ハイライト、血のりなど。激しい踊りを踊ったあとに額を流れる汗。でも息切れは決してしない。そのまま平然とセリフをしゃべる。舞台人はすごいなあとあらためて実感する。

「兵士の物語」終演後、知り合いの人々と合流した。なんとも意外な展開で、かの超有名高級ホテル「サヴォイ」で、本格的なアフタヌーン・ティーを頂くことになる。一生縁がないと思っていた場所に足を踏み入れる緊張感で胸がドキドキする。

ラウンジに入り、ピアノの生演奏(!)が流れる中で、ふかふかのソファーに座っておしゃべりしていると、サンドウィッチ、ケーキ、スコーンがそれぞれ載った三層の銀盤と、ポットに入ったお茶が運ばれてきた。わたくしとてやはり女、夢のような展開に心が躍る。

アフタヌーン・ティー基本中の基本、キュウリのサンドウィッチは絶対にハズせない。ゴマの入った香ばしいパンでおいしかった。小さなケーキはかわいく、チョコレート系、クリーム系、フルーツ系と各種揃っている。スコーンにはブルーベリー・ジャムとクローテッド・クリームが添えられている。クローテッド・クリームは、日本の国産品よりもあっさりしていておいしい。

ウェイトレス、じゃないよな、何と呼ぶべき人々なのか、愛想がよくて優しく親切に対応し、美しい発音の英語で話す女性の係員が何かと声をかけてくれる。もっとケーキはいかが?スコーンは?サンドウィッチは?お湯は?茶葉をお変えいたしましょうか?・・・・・・

この日にお会いした人々とは初対面だった。でももちろんメールのやり取りはしていたから、初対面という気があんまりしない。話もとても楽しかった。私は自分の人生しか生きられないが、こうして他の人々の話を聞くことで、人それぞれに色々な人生があり、当たり前だが世の中は広いことを知る。

それによって私は自分の狭い内側から、一瞬ではあるが抜け出して、外側から自分を冷静に見つめることができる。観劇しか予定していなかったこの旅行で、予想もしていなかった、こんな楽しい、いい思い出になる経験ができるとは。

そこで聞いた面白い話をいくつか。その一。イギリスはここ数年好景気が続いている。経済成長率は去年に比して3%近く上昇し、これは他のヨーロッパ諸国の中でダントツである。しかし好況のせいで物価が年々上がっている。自国の力のみで経済成長を支えることができると踏んだブレア政権は、今まで受け入れてきた移民や外国人居留者を排除する政策に転じた。

労働ビザや就学ビザの発給は極力制限され、埒もない理由で(理由がないときもある)拒否される。ビザ発給の手数料も2倍に跳ね上がった。たかが2、3年間の長期ビザを発給してもらうために、日本円にして10万円近くも「手数料」として取られた人もいる。

観光であれば、日本のパスポート所有者はノービザでイギリスに入国できる(3ヶ月まで)。短期間の滞在でイギリスにお金を落としていってくれる観光客は大歓迎だが、長期滞在はなるべくやめてほしい、いや、理由をつけてなんとか追い出してやる、というわけだ。ブレアは本当に労働党か?保守党化していないか。

その二。イギリス人は一生の間に何度も家を買う。1回目:成人に達すると親の家を出て一人住まいをする。2回目:恋人や配偶者ができれば二人用の家を買う。3回目:子どもができればもっと広い家族用の家を買う。4回目:子どもが成人して家を出ると、二人で老後を過ごすのに適した小さな家を買う。

家は築年数が古ければ古いほど高値がつく。イギリスは地震がないので柱などはもちろんない。鉄筋、鉄骨などはすでに論外。レンガと漆喰をひたすら積み重ねているだけである。それでも不思議と壊れない。火事になっても箱(レンガの外壁)は崩れない。外壁を洗って塗り直し、内装を変えるだけでいつまでも保つ。・・・・・・そういえばロンドン塔なんかはまさにその象徴だ。

その三。イギリスでもアンティーク家具は大人気である。アンティーク「調」ではなく、本物の骨董家具。ある日本人が掘り出し物のヴィクトリア朝の引き出し付き鏡台を購入し、日本の家に送ってもらった。ところが、その日以来、夜になるとどこからか人の話し声が聞こえてくるようになった。

その話し声をたどっていくと、なんとあの鏡台から話し声が聞こえてくるではないか。それも引き出しの中から。思い切って引き出しを開けた。その途端、話し声はピタリと止んだ。恐れをなして、鏡台を購入したイギリスの骨董商に電話して返品を申し出た。

骨董商はため息をついて言った。「またですか。前にあの鏡台を買った日本人も、同じことを言って返品してきたんですよ。話し声くらい何でもないでしょう。悪さをするわけじゃないんですから!」 イギリスでは古いものには高値がつくが、更に幽霊つきだともっと高値がつく。幽霊物件、幽霊つきの家具は、アンティーク好きな人々の間で大人気である。

サヴォイのラウンジにあるトイレは"Clothing Room"という。中は超豪華で、20畳くらいの部屋にトイレの個室、大理石ばりの手洗い、大きな鏡つきの化粧台が複数据えつけてあった。私が泊まっているB&Bの部屋の何倍あるんだろう。

手を洗ったらペーパー・タオルか温風乾燥機、なんてセコイものはなく、サヴォイのロゴが入った白いハンド・タオルが、丁寧にたたまれた状態で山のように重ねて置いてあり、それで手を拭いて使用済みタオル入れの籠に放り込むのである。1枚くすねてくればよかったな。(←貧乏人)

"Clothing Room"というとおり、中では着替えている女性もいた。TPO(注:和製英語)に合わせて、カジュアルな服やフォーマルな服に着替えるという、いかにもイギリスっぽい雰囲気を感じた。

話は尽きなかったが、私ともう一人は夜にロイヤル・バレエの「オンディーヌ」を観ることになっていた。あっという間に7時近くなっていたので、そこで散会となり、サヴォイを後にする。帰り際に、サヴォイの女性の係員はほほ笑みながら、「お楽しみ頂けましたでしょうか?」と丁寧な口調で言った。

そういえば私は、イギリスで本物のイギリス人と話をしたことがあったろうか?劇場で隣り合わせた客はイギリス人だ。でも、B&Bのフロント、部屋の掃除係、食堂のウェイトレス、雑貨屋のオヤジ、コーヒー屋の店員、中華街の店の店員、みな移民ではないか。

「オンディーヌ」は面白かった。でも時にひたすら大がかりで派手な古くさい演出も目立つ。よりによって、大きな見せ場で噴き出していた観客もいたという。クラシカルなマイムを多用しているのもアシュトンの特徴である。この人は20世紀の振付家だが、古典バレエの全幕物となると、途端にお決まりの形式的な演出や踊りに走るところがある。3月に観た「モノトーンズII」はストーリーのない小品だったが、あれを振り付けたのと同じ人の作品とは思えない。

一緒に観た人と休憩時間にラウンジで落ち合う。吉田都はすばらしい!という意見で一致する。ファースト・キャストであるタマラ・ロホもすばらしかったそうだが、吉田都は踊りが精緻でしなやか、音楽性が豊かで、しかも高い技術を持ち合わせている。身体的素質にも恵まれているとみた。

しかし彼女はそれらの長所を押し付けがましく強調することなく、実にさりげなくやってのける。オンディーヌのソロ「影の踊り」(勝手に命名)で、ハープのみの静かな音楽の中で、腕を緩やかに波打たせ、本当に音ひとつ立てずにポワントで長時間踊り続ける。踏み切った音も着地音もしないグラン・ジュテもはじめて目にした。

また、私がこのダンサーはすごい!と感じるのは、動きが変化していく過程が連続写真のように一つ一つ止まって見えるときである。そうしたダンサーは、私は今までアダム・クーパーしか見たことがなかったが、吉田都の動きも止まって見えた。

生クーパー君が踊る舞台を実際に目にするまで、私は動きが止まって見えるのは、ビデオ・デッキやDVDプレーヤーの再生速度の問題だと思っていた。でも吉田都の踊りを観て、連続写真のような軌跡を描きながら踊るダンサーはやはり本当にいるのだ、とあらためて思った。

そして日本のプロのバレエ・ダンサーの多くが、実際にはバレエがとても上手なだけの人に過ぎないのと違い、吉田都は本物のプロのダンサーである。ところで、この日は13日の金曜日であった。キリスト教と縁の薄い日本人だから吉田都を出演させたのか?と思って一緒に観た人に聞いたら、イギリス人は13日の金曜日とかは、基本的にあまり気にしないのだそう。でもいろんな国の人が寝泊りするホテルでは、やっぱり13号室はない。

11時過ぎに宿に戻った。雑貨屋がまだ開いていたので、水と夜食を買った。店の中は客がけっこういた。ターミナル駅の近くの安宿街で、夜はけっこう物騒である。後をつけてくる不審者がいないか注意しながら宿の外鍵を開けて中に入った。

アフタヌーン・ティーでお腹がいっぱいになり、夕食はいらないと思っていた。ロイヤル・オペラ・ハウスでもアップルサイダーやポート酒を飲んだ。でもやっぱり腹が減った。寝る寸前にカップラーメンとサンドウィッチを食べてしまった。いいんだ旅行だから体力使うし、と言い訳しつつ。そしてまたベッドに入ってテレビをぼんやりと観ながら1時過ぎに寝た。

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