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BIOGRAPHY

9. ロイヤル・バレエ退団

1996年秋から冬にかけて、クーパーは、ロイヤル・バレエの新シーズンの公演と、AMP「白鳥の湖」ウエスト・エンド公演との、両方に日替わりで出演していた。彼はロイヤル・バレエでは、事前にキャスティングされていた役に加えて、突然の代役にも何回も駆り出された。ロイヤルは、彼を伝統版「白鳥の湖」の王子役に、正式にキャスティングしてくれた。しかし、それ以外の部分では、ロイヤルの彼に対する態度は、基本的に変わらなかった。ロイヤルが彼をあいもかわらず便利屋扱いすることに、クーパー君は、心外ではあったが、しかし納得もしたという。ロイヤル・バレエは、ダンサー個人への熱狂的人気を好まないのだそうだ。でも、ダンサー個人への熱狂的人気を、ちゃっかり商売に利用してる気はするんだけど。

彼は文句一つ言わず、代役はすべて引き受けた。自分の容量の限界をわきまえず、無理をしたことで自分が損失を蒙っても、それはその人自身の責任だろう。もういい大人なんだし。とはいえ、当時のクーパーにとっては、ロイヤルでの仕事も、AMPでの仕事も、放棄することができない状況にあっただろうことは想像できる。ダンサーとして価値あるキャリアを積んでいきたいという面では、つかんだ好機は、すべて離したくなかったんだろうし、ロイヤル・バレエの正団員という立場では、他のダンス・カンパニーに出演していることへの遠慮もあったと思う。彼はすべての仕事をこなそうとしたが、12月に入ると、足の負傷が深刻な状態にまで悪化した。結局、彼はロイヤルでの仕事も、AMPでの仕事も、あきらめざるを得なくなった。彼は降板を余儀なくされた。もちろん、伝統版「白鳥の湖」の王子役も。

それから翌年の1月にかけて、ほぼ一ヶ月間、彼は舞台に立つことができなかった。1996年の末ぐらいに、マシュー・ボーンはクーパーから、あることについてうち明けられていたらしい。クーパーは、この頃から、「ロイヤルに入団して2年も経った頃から模索し始めた」という、ロイヤル・バレエを退団し、フリーランスのダンサーとして独立することについて、再び真剣に考え始めていたのである。「(AMPの)『白鳥の湖』を踊ってから、それからロイヤルに戻る、ということをしていたとき、僕の自信は失われていく一方で、今ここを出ていかないなら、自分はもう二度と踊りたいとは思わなくなるだろう、と感じるくらいだった。」

「AMPの『白鳥の湖』がうまくいって、すべての可能性の幅を広げてくれた。突然、人々は僕に関心を持ち、僕と仕事がしたいと持ちかけてきた。」とはいえ、彼はそれでもロイヤルを退団することには躊躇していたようだ。彼は退団してから現在まで、インタビューの中でことあるごとに、フリーランスであることの得失を率直に語っている。いちばん大きいリスクは、仕事、そしてもちろん収入の保証がない、ということである。フリーランス・ダンサーといえば聞こえはいいが、これは無職であるというのと、どれほどの違いがあるだろうか。今は人気があって仕事があるとしても、これからはどうなるのか。人気なんて、水の泡みたいなものだ。

バレエ・ダンサーは、ダンス業界では確かに高度な専門職かもしれないが、そんなに需要があるとは思えない。日本でもイギリスでも、この状況はそう大差ないと思う。仕事口はかなり少ない、というより、ほとんどないのではないか。だからこそ、仕事を得ること自体が大変なことだろうし、ましてそれで生活していくなんて、大部分のダンサーにとっては困難なことだろう。だからこそ、競争が激烈になりもするし、成功すればその分ステイタスも高くなるわけである。ただし、それもあくまでカンパニーに属している限りにおいて。ロイヤル・バレエに属していれば、仕事上の選択の自由はあまりないかもしれないが、一定の仕事と収入とが保証される。でもフリーランスになれば、こうした安定した条件がすべてなくなる。誰も守ってはくれない。彼は危険の大きさを心配した。

話はさかのぼるが、95年、マシュー・ボーンの「白鳥の湖」は、サドラーズ・ウェルズ劇場で、2週間半にわたる、初めての公演を行なった。この際、噂を聞きつけた多くの業界関係者たちも、内外から押し寄せたが、その中には、アメリカからやって来ていた人々もいた。AMPのプロデューサーたちは、そして敢えていっておくけれど、AMPの芸術監督であるマシュー・ボーンは、アメリカの「ショウビズ界」の関係者たちと、このときコネクションを持った。そしてこの時点で、AMP「白鳥の湖」ロスアンジェルス公演の話が持ち上がったのである。その後、この計画は具体的に進み、97年の春から夏にかけて、ロス公演を行なうことが決定した。

クーパー君は、このAMPロスアンジェルス公演に参加するため、ロイヤル・バレエに休団を申請した。ロイヤルでの籍は温存したまま、AMPの海外ツアーに参加するという、安全策をとろうとしたのである。しかし、ロイヤル側はそれを拒否した。彼には、AMPのロス公演が行われる頃、新しい振付作品のリハーサルに参加するスケジュールが組まれていた。休団の交渉はうまくいかなかった。

97年2月末、ロイヤル・バレエは、アダム・クーパーが、3月をもってカンパニーを退団することを、公式に発表した。折しも話題の、超人気ダンサーのロイヤル・バレエ退団の一報に、マスコミは騒然となった。その僅か数日後、クーパーに直接取材したある批評家によれば、彼は「晴れ晴れとしているというより、むしろショックを受けている様子だった。」彼は素直に認めて言ったという。「僕は自分が独立して他のことをやりたがっている、と自覚していた。でも、複雑な感情がある。退団は、僕とアンソニー・ダウエル(当時のロイヤル・バレエ芸術監督)との間で出した、共通の結論だった。4月半ばから7月半ばにかけては、AMPのロスアンジェルス公演がある。それに、僕はAMPの新作の『シンデレラ』では主役もやる予定になっていて、それも7月から本格的な準備が始まることになっている。こうしたことのすべてが、ロイヤル・バレエを去るいい潮時だと決めさせた。」

クーパーの奥さんのサラ・ウィルドーは、「アダムは退団してからしばらくの間、とても落ち込んでいた」と後に語っている。クーパーも当時の自分を振り返って言う。「辛かった。その後の10年間を、ロイヤルで過ごそうと思えばそうできたし、ロイヤルにはたくさんのいい友だちがいたから。でもその段階では、僕はただ、これがぼくのやるべきことだと分かっていた。」

ロイヤル・バレエを退団するということは、安定した身分を捨てるということであったと同時に、ロイヤルでクーパーがレパートリーとしていた、それこそ多くのバレエ作品を踊る機会を失なう、ということでもあった。カンパニーに属すのでない限り、バレエ作品、とりわけ大きなカンパニーでないと上演不可能な全幕作品を踊ることは、まずできなかった。ロイヤル・バレエに対して、常に不満を漏らしているシルヴィ・ギエムでさえ、なんだかんだ言っても、ロイヤル・バレエとの契約を現在でも放棄しようとはしない。ギエムほどのダンサーでさえ、完全な意味でフリーランス・ダンサーになろうとは、しないのである。もっとも彼女の場合、作品の上演権保持者たちに警戒されてしまっているらしく、敢えてロイヤルに「信頼保証」してもらっている、という側面もあるようだ。「孤高のダンサー」であることの代償だろう。

まして、ギエム、ヌレエフやバリシニコフのような、超人的な技術と、バレエ・ダンサーとして確立された評価と神話を持つわけでもなく、熊川哲也のように、経済的な面での将来を高程度保証できる、頼りがいのあるスポンサーやエージェントがついたわけでもなく、マラーホフのように、ヨーロッパ大陸やアメリカ全体で、高い名声や人望を有するわけでもなく、強みといえば、専らイギリスで重視される、演劇的な才能があるだけのアダム・クーパーが、フリーランスのダンサーになったとして、いったいどれほどの見通しがあるというのか?大体、ロイヤル・バレエ内部での競争にさえ負けていたダンサーが、ロイヤル・バレエの外に出て、イギリスで、まして世界で、多々いる優秀なダンサーたちと、どうやって伍していけるんだろう。

それに、ボーンの「白鳥の湖」は、総体としては圧倒的な大成功を収めた一方で、それだけにバレエ界、クーパーの属するまさにその業界の、一部の人々の間で、すさまじい反感と敵意も巻き起こした、ということもあった。バレエ界の一部の人々は、ボーンの行為を積極的に評価したものの、しかしまた一部の人々は、ボーンのやったことを、バレエへの侵犯であり、嘲弄であり、侮辱であり、挑戦であるとみなした。そのように考える人々にとっては、その主役を踊って大成功したクーパーは、自分の名声のために、バレエを汚すことに荷担した人間である。

クーパー君は、成功とひきかえに、こういうマイナス効果もしょいこむ危険があることを、もちろん予想しただろうし、自覚もしていただろう。だからこそ、彼はボーンの振付は「バレエの要素が濃厚だ」などと主張しなければならなかったのだ。後にリン・シーモアが、「マシューはバレエの名作を改編してくれているのよ」と、弁明しなければならなかったように。クーパー君は、バレエ界ではちびっと微妙な立場になっていた。

あとはひょっとしたら、ロイヤル・オペラ・ハウスの苦しい台所事情も、クーパーを体よく「リストラ」する背景にあったのかもしれない。会社を休んでアルバイトに精を出す社員を、わざわざ給料を払ってまでおいておく理由もない。その社員が以前どんなにサービス残業をしていようが。それに、彼を辞めさせても、彼は即座に生活に困ることはないだろう。アルバイトの方で儲けてるんだし。こういう状況なら、追い出してもそう非難はされないだろう。

こうした事情を知るほとんどの人々が、アダム・クーパーは、バレエ界から永久に去ったとみなした。お節介な人々は、クーパーとウィルドーとの仲も、これでご破算だと言いたれた。後年になって、ウィルドーは言う。「ご存じかしら。・・・私たちの関係に対するみなさんの興味を、私は本当に楽しんでいるの(注:これは皮肉なんだろか)。私は以前にあるインタビューを受けたわ。そして、その記者はこう記事に書いたのよ。アダムがロイヤル・バレエを退団したから、私が彼との関係にとても幻滅していて、私たちはおそらく破局を迎えるだろう、って。誰も私たちを信じてくれなかった。ただ二人で始終一緒にいる限り、二人は一緒にやっていける、と人々は思いこんでいるの。それはひどく悲しいことだったわ。」

マシュー・ボーンにも、クーパーのロイヤル退団について、質問の矢が向けられた。ほとんどの人々がクーパーの前途は暗い、とみなしているのに対し、ボーンは「もうアメリカでは、みんながアダムのことを噂しているよ。彼がロスアンジェルスに行く前から、彼はスターとして、すでに向こうで有名になっている。彼は舞台では、すばらしい存在感と知性と、驚嘆すべき男性的な美しさとがある。彼は映画出演の依頼を多く受けることになるだろう」と、クーパーを擁護するコメントをした。映画スターへの道だって開かれているんだし、というちょっとヘンな励ましである。逆にいえば、これぐらいしか励ましようがなかったんだろう。やっぱりクーパー君のダンサーとしての未来は、カナーリ絶望的だったんである。

ところがボーンは、最後にこうつけ加えた。「でも僕としては、彼にはダンサーとしてのキャリアを続けていってほしい。フリーランスになることは、不安なことかもしれない。でも、彼の未来は、すばらしいものになると思う。」

(2002年11月10日)

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