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BIOGRAPHY

10. フリーランス・ダンサー

1997年3月、アダム・クーパーは、ロイヤル・バレエの"Dance Bites"ツアーに参加、イギリスの各都市で踊った後、およそ8年間を過ごしたロイヤル・バレエを退団した。彼の「さよなら公演」となった"Dance Bites"は、新進の若い振付家、Cathy Marston、Mathew Hart、Ashley Page、Christopher Wheeldon、William Tuckett、Tom Sapsfordらの作品を、いくつかまとめて上演したものであった。彼は、その中で"The Magpie's Tower"(William Tuckett)、"Room of Cooks"(Ashley Page)、"Ebony Concerto(Ashley Page)"などを踊った。ロマンティック・バレエの全幕作品で、王子役とかを踊って、ロイヤルの舞台を降りればまだ劇的だったかもしれないが、偶然とはいえ、彼は最後もやはりモダンでシメた形となった。・・・まあ、クーパー君が最も嫌いだという、「眠れる森の美女」のネコだのオオカミだのいう「かぶりもの」キャラとか、またはヘンデルとかバッハみたいな、横ロールの長髪ヅラをかぶった求婚者とかじゃなかった(そもそもありえないが)だけ、まだよかったのかもしれない。

彼は特定のダンス・カンパニーに所属せず、専らゲスト・ダンサーとして自由に仕事を請け負うという、「フリーランス」のダンサーになった。ロイヤルにいたときとは違い、意味なく酷使されることもなく、やりたくもない仕事を押しつけられることもない。大嫌いなロココ調の衣装とヅラを着けて舞台に出なくてもいい。やりたい仕事がやれる。

彼は退団発表直後のインタビューでは、ショックを受けている様子を隠しきれなかった。でもそれから何ヶ月か経った頃には、退団したことに積極的な意義づけをするようになる。「ロイヤル・バレエを退団することは、いささか危険なことだった。でも、僕は長い間、退団することについてずっと考えていたから、これはそうたいした打撃ではなかった。これだけは確かだと思うんだけど、古巣に留まり続ける限り、有名にはなれないし、成功もできない。有名なダンサーは、いまやみんな古巣から去っている。」

「ロイヤル・バレエにいたときより、僕は自分のキャリアを制御できていると感じている。僕はいまや、一連の決定を自分自身で下している。それは特定のバレエ団に所属している限りは不可能なことだ。(バレエ団では)しょちゅう、一日の半分を費やしてがむしゃらに練習したのに、それでも結局は、自分自身が踊れると分かっている役を、踊ることができないかもしれない。でも今は、僕はどの役をいつ踊るか、ということを決めることができる。」

もっと後年になってからの感想。「突然、僕は自由なのだという感覚が訪れた。僕はすばらしいと思った道を選択し、かねての念願を実現する好機を手に入れたのだから。仕事に従事するもう一つの形があることを実感する。選択することだけができるということは、大きな自由だ。」

ところが、アダム・クーパーといえど、その船出の当初は、ちょっとばかし不安に満ちたものだった。彼はAMP「白鳥の湖」の公演が行われる限り、そのリーディング・キャストとしての仕事が見込めたし、マシュー・ボーンの新版「シンデレラ」でも、その企画段階から製作に参加していて、主役を踊ることも決定していた。でもそれら以外には、仕事の依頼はいつ舞い込んでくるのか、まったく予測できなかった。

「フリーランスであることには、いい面と悪い面とがある。長いこと何も仕事がない、という期間があることだってあり得る。でもそうしたリスクは常につきものだ。だけど、僕はそうしたリスクとつきあう覚悟はできている。もしも、僕が仕事に取り組むことができたとき、そのリスクは、僕が本当に本当にやりたかったことのためのもので、僕がいずれ受け取ることになっているものと引き替えだ、というのなら。幸いなことに、ほとんどの場合、僕は、僕が不定期な休みを取るにやぶさかでないような、充分なものを受け取ることができている。」最近の彼のオーバーワークぶりには、こうした背景があるんだと思う。やりたい仕事は、絶対にすべてやってやる、っていうどん欲さみたいなものが。

AMPはロスアンジェルスのアーマンソン劇場で、1997年4月下旬から7月中旬までという、えらいこと長い公演を行なった。チケットの売れ行きがよかったから、こんなにクソ長い公演期間になった、というワケではなく、あらかじめ決められていた期間だったそうだ。ちなみにチケットは一番安いのが15ドル、一番高いのが60ドルで、キャストは一週間以内に事前に発表される、だそうだ。いいなあ(笑)。ところが観客のほとんどは、アーマンソン劇場のチケット予約の制度上、演目が何かに関係なくチケットを購入していた人々で、特にAMP「白鳥の湖」、ましてアダム・クーパーを観たい、というのではなかった。

とはいえ、ロスでも「白鳥の湖」は好評を博した。ボーンによれば、アメリカの観客たちの反応は、ロンドンでの反応よりもよかったということだ。特に、お笑いの場面、イギリスのマスコミが揃って無視したイギリス王室の諷刺や、小バレエ「蛾の姫」は、大ウケだったそうである。また、場所柄、公演には、ハリウッド・スターたちが続々と「ご降臨」あそばされた。彼らは終演後にクーパー君の楽屋を訪れ、彼に賞賛の言葉をかけたという。「あなたのその羽根ズボンを舐めたいわ〜ん」と、きわどいセリフをクーパー君に投げかけた大女優もいた。クーパー君は謹んで辞退申し上げたそうだが。

クーパーに対する人々のイメージは、やはりここでも「すっごいセクシー」には違いなかった。イギリスのマスコミもそうだが、素アダム君を取材した記者は例外なく、舞台での彼のイメージとの大きな落差に驚くのである。ロス地元紙の記者もそうだった。「クーパーは舞台や写真では荒々しくみえるのだが、舞台を降りるや、彼の顔つきは途端に優しいものとなる。25歳にしては子どもっぽく、その言葉には、何年ものあいだ矯正しようと努力しているという、サウス・ロンドンなまりが残っている。彼はよく笑い、落ち着きなく自分の手をスタイリッシュに短く刈り込まれた頭にやっている。」かわいいね(笑)。これは今も変わってないと思う。デマチすると、ホントに舞台とはぜんぜん別人なんでびっくりする。雰囲気はもちろん、顔もぜんぜん違うのよお!!油断してると本人だと分からないと思う。

96-97年頃のインタビューでしゃべっているクーパー君は、まだやっぱりコドモコドモしているとこがある。ボーンの「白鳥の湖」の王子は「父性愛に飢えている」とかいう発言もそうだが、このインタビューでも、ロイヤルを飛び出した自分を、祖国から脱出したヌレエフやバリシニコフになぞらえていたりしている。あのなー、問題の大きさが根本的にチガウだろが。他にも、ロスに滞在している間、博物館や美術館に行ったり、読書をしたり、買い物をしたりして過ごすとか答えているんだけど、犯罪小説が好きとか、ロンドンより安いから洋服を買うとか、バカしょーじきに庶民的なことを言うなよ〜。そんなのテキトーに言っときゃいいんだよ〜。読むのはディケンズかな、とか、ブランド服以外は買わない、とか、もっとカッコつければいいのに。来年の日本滞在では、コイツ、ヒマなときに渋谷ドンキ(ドン・キホーテ。激安大型雑貨店。家電から「看護婦プレイ」用の衣装まで充実した品揃え。渋谷店はオーチャード・ホールの真向かいに位置)とかマジで行きかねない。「ドンドンドンッドンッキー♪」とか一緒に歌ってたりして。ユニクロとかもぶらついてそうだ(ロンドンにもユニクロがある。しかも、リージェント・ストリートという、ロンドンど中心の繁華街に。たまげた)。

同じ97年に収録された番組でもインタビューに答えていて、なんでか知らないが、すごい無表情で、無愛想に、おまけにすげえアクの強い英語でしゃべっている。ところが、話している内容は、サラと踊れることについてのおノロケなんである。あんたね、テレビのインタビューだからって、顔ばっかり硬派に作ってもね・・・つくづくいいヤツだ。

ところで、彼はロイヤル・バレエを退団していたにも関わらず、AMPロス公演真っ最中の筈の6月末、ナゼか突然、ロイヤル・バレエ日本公演に参加した。退団したばかりの人間が、どうしてツアーに参加するのかもよく分からないし、ロスで二日に一回の割合で、主役を踊っている最中だというのに、なんではるばる日本まで来るのかも理解しがたい。大体、リハーサルする時間があったのか?頼まれるとイヤといえない性格が、また出ちゃったのだろうか。この日本公演では、彼はダーシー・バッセルの相手役として、「ロミオとジュリエット」でロミオを踊った。このときの写真は、日本のバレエ雑誌に何度か掲載されたことがあり、彼は地毛と同色のブロンドでオールバックの、明らかに分かりやすいヅラをかぶっている。

上記のロス地元紙に載ったインタビューの写真では、彼はほとんど丸刈りな短髪になっており、見た目かなりフーリガン入っている。とーぜんロイヤル・バレエ日本公演が行われた時だって、彼は丸刈りだったハズである。ロミオがフーリガンというのは、ロイヤル・バレエとしても観客としても、なんとか避けたいところだ。マキューシオやベンヴォーリオと三人で踊るシーンでは、まるで「ウエスト・サイド・ストーリー」(ジョージ・チャキリスら三人が踊っているシーン)になってしまうし、ティボルトと対峙するシーンでは、どちらが悪役なのか分からなくなってしまうだろう。それにセクシーでワイルドなロミオが、キャプレット家の舞踏会にバルコニーからガムを噛みながら現れた途端、ジュリエットが心奪われるのはいいとして、ロザリン、ジュリエットの友人の令嬢たち、果てはキャプレット夫人や乳母、ひょっとしたらパリスまで彼にメロメロになっては、物語の進行上おおいに不都合だ。それは理解できるが、このヅラは、はっきり言って彼には似合っていない。ヅラの髪の分量が異常に多く、ヅラの生え際もはっきり分かってしまい、ヅラ全体が顔部分から浮き上がっている。

ヅラヅラヅラヅラと連発して申し訳ないヅラヅラ。が、私はバレエのヅラが嫌いだ。いずれ「バレエからのヅラ追放を推進する会」を旗揚げしようと密かに計画している。但し、ゲーハーのダンサーに関しては、その特殊な事情を考慮し、ヅラの装着を特別に許可するつもりだ。私の「バレエヅラワースト3」。第3位:ロイヤル・バレエ「ロミオとジュリエット」(1984年収録)に出てくる、3人の娼婦の一人がかぶっている、「鉢かつぎ姫」みたいな超すげえおカッパヅラ。第2位:またもロイヤル・バレエ「マノン」(1983年収録)で男性全員がかぶっている、ロベスピエールとかルイ14世みたいな、「な、なんなの!?その目は!?文句があるならベルサイユにいらっしゃい!!」(by ポリニャック夫人)的ベルばらロココヅラ。そして栄えある第1位:同じく「マノン」第二幕に出てくる、娼婦たちがかぶっている、パパイヤ鈴木アフロヅラ!!いくら70'sからまだ遠くない頃とはいえ、バレエでここまでファンキーにすることはないだろう。第一幕は何とか我慢して観たが、第二幕でこのアフロ・ヘアーな娼婦たちが目に飛び込んできたとき、私の受けた衝撃と悲痛な心情とがいかに大きなものだったか、みなさんご理解いただけるだろうか。私はこの「マノン」映像版を鑑賞するときには、目の焦点をビミョーにダンサーの頭からズラすなどして、なるべくヅラの存在を認識しないように努めているヅラ。

・・・なんでヅラの話になったんだっけ?まあいいや。ほぼ3ヶ月に渡るロス公演を終えた後、彼はロンドンに戻った。ボーンが前もって記者に明かしたとおり、クーパーにはハリウッドから声がかかっていた。「キャスティング・ディレクター」と称する人々が、彼に接触をはかってきたのである。彼らはクーパーに映画出演の話を持ち込み、ハリウッドに居を移すよう説得した。

しかし、クーパーは結局、これらの話をすべて断ってしまった。「ロンドンに家を購入したばかりだし、恋人のサラと3匹のネコたちが、その家で自分の帰りを待っているから」というのが、その理由だった。敢えて言わせてもらおう。コイツはアホだ。どうせ冗談だろうが、でもかなり本気入ってたかもしれない。サラと離ればなれになっていた3ヶ月間、彼は「サラが恋しくてならず、本当に辛かった」そうだから。

私が彼のインタビューや、彼の現在までのキャリアから、多分に印象で憶測したことだけど、彼は自分について、あくまでダンサーであるというイメージしか持っていなかったのではないだろうか。彼は、イギリスの地方のダンス・フェスティバルで踊る自分、というイメージは受け入れることができたが、世界各国の映画館のスクリーン上で、セリフをつぶやいたり、アクション・シーンを演じている自分の姿は、たぶんイメージできなかったのだ。

ハリウッド・スターとしての自分をイメージできなかった、というと、ちょっとマイナスな意味にとらえられてしまうかもしれない。どういったらいいのだろうか。・・・つまり、彼の中には、「映画スターになる」という概念がなかったのだと思う。そうした概念を持つ必要がなかったからだ。彼は確かにフリーランスで、不安定な身分になっていた。しかしそれでも、彼はもうすでに、社会的にも自分的にも、「ダンサー」として確立した存在だったのだ。彼のインタビューを読んでいて思うのは、彼は自分に対して、かなり強固な自信を持っているし、明確に「ダンサーである」という位置づけをしていることだ。これはすごい強みである。安易に目先の安心にとびつかないほどの余裕は持てる立場だったのだろう。

だから、アダム・クーパーは、フリーランスのダンサーとしては、かなり恵まれている方だといえる。彼でさえ恵まれている方に入るのだから、逆に言えば、それほどダンサーという職業でやっていくのは、ほとんどの人にとっては、非常に難しいということだと思う。

帰国後、クーパー君は、97年秋に初演予定のボーンの新作、「シンデレラ」の本格的なリハーサルに参加する。

(2002年11月24日)

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