Club Pelican

BIOGRAPHY

5. マシュー・ボーン「白鳥の湖」 (1)

アダム・クーパーと直に知り合う以前から、マシュー・ボーンは、クーパーのロイヤル・バレエでの舞台を数多く目にしていた。「彼はダンサーとして、僕に強い印象を与えていた。彼はとても男性的だ。そして特に僕が考えたのは、白鳥の役にとって、最も強く人に訴えかけることになるだろう要素は、アダムの腕の使い方だ、ということだった。それに彼の仕事ぶりの中には、すばらしい知性を見出すことができた。」ボーンは再びクーパーと話をするため、イーアン・ウェッブを介して、クーパーを食事に誘い出した(どの国でも踏む段取りは同じらしいす)。「彼と直接に会ってみて、僕は彼が一緒にうまくやっていける人間だと感じた。そしてこれは、僕にとってとても大事なことだった。」その席で、ボーンはクーパーに、男性が白鳥を踊るアイディアについて話したのである。

「僕はその時、アダムについて何ひとつ知らなかった。僕には、彼はロイヤル・バレエでは立場の弱いプリンシパル・ダンサーだけど、でもロイヤル・バレエは、彼を主にモダンや新しい振付作品で用いている、という印象があった。それは僕には好都合だ、と思ったんだ。彼はそれまでウィリアム・フォーサイスの作品もいくつか踊っていたから。」この時、彼らはバレエ全般について、率直な意見を交換し合ったのか、ボーンは、クーパーがバレエの古典作品にも、深い愛情を持っていることを認識させられたという。「それが、アダムが『ハイランド・フリング』を楽しめた理由だった。彼は、伝統的な振付に取り組むという考えも、伝統版とは違うことに取り組むという考えも大好きだったんだ。」

クーパーはボーンのアイディアを聞いて、最初はどう思ったのだろう?まずボーンの受けた印象。「僕が彼に踊ってもらいたいのは白鳥だ、ということを彼に話したとき、彼はすごく驚いただろうと思う。明らかに、白鳥役を依頼されるとは、彼には思いもよらなかったんだ。彼はおそらく、実際に驚いたほどには、さほど驚かなかったような振りを装っていた。僕は、この白鳥に取り組んだ経験のすべてが、彼を大きく変えたと思っている。でもその当時には、彼はまだ少し不安がっていた。」

何をだろう?決まってる。スキャンダルをだ。ボーン版「白鳥の湖」の白鳥は、ゲイの役だと嘲られるのが怖かったのである。「彼が後になって僕に話してくれたんだけど、彼は王子役もいると分かって驚いたんだ。だけど、僕らがどんなふうに白鳥役を作り上げていくかについては、僕は彼に細かく説明することは、一切しなかった。僕は白鳥はゲイだとは言わなかったし、ゲイでないとも言わなかった。僕はただこう説明しただけだ。王子がいて、白鳥がいる、と。僕は彼に、物語についての基本的なアイディアと、そして白鳥は、王子の想像の中での存在だということを話した。それがすべてだった。僕は、彼に役について逐一話して聞かせるようなことは、しなかったんだ。」

ボーンはおそらく、自分はクーパーに、彼の役柄について、最初から事細かな設定を押しつけるようなことはしなかった、と言いたいのだろう。そしてボーンは、クーパーに白鳥役を依頼した段階では、クーパーが第三幕で、あの極めて「男性的」な「見知らぬ青年(黒鳥)」役も演じることになるとは、話さなかったというのである。そうすると、クーパーは、男の王子と男の白鳥が登場する、という僅かな情報しかない状況で、白鳥役を引き受けたのである。これはよく承知したものだと思う。クラシック・バレエの、しかもロイヤル・バレエのプリンシパル・ダンサーが、性的な面でのスキャンダルを引き起こしかねない作品に手を出して、もし失敗していたなら、クーパーはそれまでの地位にとどまり続けることが、果たしてできたかどうか。彼が白鳥役を引き受けた当時は、そのような危険性は多分にあったのだ。

今でこそマシュー・ボーン振付の「白鳥の湖」はすばらしい作品である、という評価が定着している。あれだけの大成功を収めた今となっては、誰もこのことに文句を付けられるような勇気はないだろう。作品の評価を決定するポイントとは何なのか、よう分からん。少なくとも、それは名作だとみながいうなら名作だろう。私も、DVDになって出てるくらいだから、これは駄作だろうとは思わなかった。自分に理解できようができまいが、とにかく良い作品だとされているのには違いない、と。ところが、ボーン版が成功する前はどうだったのだろう?オデット/オディールばかりか、白鳥はすべて男が踊る、というアイディアは、人々にどのように受けとめられたのか?バレエ界に属する人々、振付家、ダンサー、古参のバレエファン、批評家のみならず、特にバレエファンでない人々でも、違和感や抵抗感を抱いた人は多かったに違いない。

当時の人々の立場に立つため、別の古典的名作で想像してみましょう。・・・ジゼルと妖精たちがもし男だったら?シルフィードたちがもし男だったら?ジュリエットやリーズやオーロラやマノンやキトリがもし男だったら?「ライモンダ」がオール男だったら?どうです、気持ち悪いでしょ?イヤでしょう?私は絶対イヤです。これと同じで、ボーンの「白鳥の湖」のアイディア自体、当時は荒唐無稽な思いつきだと見なし、これに軽蔑感や反発を覚えた人々は多かったはずである。しかも、伝統版「白鳥の湖」は、なにしろ有名すぎる。バレエに詳しくない人々でも、白鳥のお姫様と王子との美しい悲恋物語、ぐらいの知識と、白いチュチュを着て踊るバレリーナのイメージは持っている。

実際、当時の偏見はすごかったのだ。1995年にボーン版が初演される直前の新聞記事。「ボーンは記者に、男の白鳥たちが並んでいる宣伝用写真を見せてくれた。白い羽根風の半ズボンを穿いた、むき出しの裸の上半身。美術担当のレズ・ブラザーストンが考案したものだ。で、つまりはおカマのパロディ劇なんでしょう?『いいや、お笑いは劇中に多少あるけれど、だけどパロディ劇をやるなんてとんでもない。』じゃあ、ゲイ版「白鳥の湖」なんですか?『違う。そう読みたいのなら、そうとも読めるだろうけれど。複数の視点からこの作品を読み解くことはできるしね。』」

また別の記事。「自らが危険を冒そうとしていることを、ボーンは自覚すべきだろう。『ああ、一部の人々が、これをゲイの恋愛物だと見なそうとすることを、僕は否定しない。でも、僕にとっては、白鳥は性的なものではなく、情愛であり、優しさなんだ。それは、王子が自分の現実生活で得ることができない、すべての感情だ。』しかし、王子の幸福の理想像が他の男性だとするなら、当然この作品は、ゲイのラブ・ストーリー、ということになるのではないか?『そういう解釈が成り立つことを否定はしない。』ボーンは言う。『もちろん、この作品をそういう面から読むことはできる。なぜなら、これはありのままの自分でいることができない、人間の物語だから。でもこの作品の中には、それ以上のたくさんの要素があるんだとも、僕は思うんだ。』・・・なるほど?じゃあこれは、自分の妄想上の人生を、一羽の白鳥に投影させた、狂気じみた夢想家の話のつもりなんですね?しかし、もしクーパーが舞台上に初めて登場したとして、観客がその不自然な扮装に笑い出したら、ボーンはどう感じるのだろう?『うーん、そんなに幸福な気分では、ないだろうね。』」

アイディアだけでもスキャンダルを巻き起こす危険はあったのに、実際に公演されたとして、もし失敗していたなら、観客や批評家、新聞の支持を受けられなかったとしたなら、その主役を踊ったクーパーは、果たしてどうなっていたのか。あいつは「ゲイ」だ、「オカマ」だ、などと嘲笑され、ロイヤル・バレエのみならず、バレエ界全体で大恥をさらすことになり、地位も面目もすべて失っていただろう。観客層も、感覚的に可笑しいと思えば、即座に笑いを隠さず表現するであろう人々である。「白鳥」役をすばらしく踊れるかどうか、役柄への解釈を深められるかどうか以前に、まず人々の偏見をうち消して、まともに観てもらえるか自体、予測不可能だったのだ。クーパーは、すべてがお膳立てされた安全な環境で、白鳥という役柄への「新解釈を確立」したり、ダンサーとして「新境地を開いた」のではない。

今度はクーパーの発言。「初めてこの作品への出演を打診されたとき、僕はこれは面白いぞと思った反面、これを真面目に受け取る人なんているのか、とも思った。なんでかっていうと、チュチュとタイツを身に着けている男たちの姿が、すぐに思い浮かぶだろう?たとえ、そんなことは全然ないと僕が知っていたとしても。」ハイ、その通りです。私も最初はチュチュを着た志村けんの姿を想像しました。ごめんなさい。「僕たちがやろうとしていたのは小さな公演だったけど、でもリスクは大きかった。どんな結果になるのか、思いもつかなかった。僕は、これは僕を破滅させるだろうと思ったと同時に、僕を成功させるかもしれないとも思った。これからどうなるものやら、何の見通しもつかなかった。」

つまり、リスクは承知の上で、可能性の方に賭けてみようと思ったのである。彼に決断させたのは何だったのか、これは彼自身が何度も説明してきた。彼は成功したかった。ダンサーとして名を挙げたかった。しかし、ロイヤル・バレエでは将来の展望は開けないと踏んでいたのである。ちなみに、白鳥役を引き受けた、この94年春の時点で、彼はプリンシパルに昇進してから、僅か3、4ヶ月しか経っていない。「チャンスなんてやって来ないだろう、と思っていた。バレエ・ダンサーには、そんな機会は滅多にあるものじゃないから。でも、マシューが『白鳥の湖』を作った。それで僕は思った。今これをやらなかったら、もう二度とやる機会はないだろう、と。だから僕はやった。」

自分がプリンシパルに昇進したのは代役要員としてだ、という彼の言葉、これは、後に成功した人にはありがちな、謙遜とか冗談の部分もあると思う。だけど、彼のロイヤル現役時代に関する見解は、退団してから今までのおよそ5年間、不気味なくらいに変わりがない。彼はよほど執念深い性格なのかもしれないけど、ワタシ的には、彼は本当に、ロイヤルで自信をなくすような思いをしたのだと思える。また、強い人間が持つ独特の上昇志向もあるだろう。たとえスターでなくとも、プリンシパルという肩書きさえあれば御の字で、不満を感じないダンサーだって、いるんじゃないでしょうか?昇進できなくても、ロイヤル・バレエのダンサー、というだけで幸せな人や、不満でも妥協する人だっているでしょう。ある人が言っていたのですが、自分に満足するか、絶えず要求を高くして不満を感じるかどうかが、その人が向上していくかどうかの分かれ目になるのでしょう。現にクーパーが一番キライなのは、「自分に満足すること」だそうだから。

そして、ある批評家や、そして彼自身が言っていたように、彼が純粋なバレエ畑出身の人間ではなかったこと、これが幸いしたのだとも思う。バレエ界で主流派に属したいならば、保持することを要求される、バレエについての伝統的な概念、思想、道徳などから、彼はある程度離れた位置にあった。というか彼そのものが、そうした基準によって、主流派から外された人間だったのだから。

また、バレエ界における「男女不平等」の問題もあった。バレエでは、あくまで女性ダンサーが主役なのであり、男性ダンサーはその添え物にすぎない、とみなされている部分があるそうだ(ヌレエフの登場以来、この状態は徐々に変わってきているそうだが)。そうすると、いきおい男性ダンサーが活躍できる作品は、おのずと数が限られてくるだろう。ボーンの「白鳥の湖」が成功を収めた後、クーパー君はインタビューに答えてこう言っている。「通常は女性ダンサーに結びつけられている役を演じる機会が持てるなんて、本当に楽しい。これはとても骨の折れる仕事だし、過酷な役だ。でも、男性ダンサーがこういったことに取り組む機会を持っても、そろそろいい時期だ。」

さて、クーパーの内々の承諾を得たボーンは、同じ1994年の夏、今度はロイヤル・バレエの正式な許可を得るため、当時の芸術監督、アンソニー・ダウエルの許を訪れた。ボーンはダウエルに、彼らのプロジェクトの大体や、クーパーに白鳥を演じてほしいことを主に説明した。「それから、男の王子もいます、と僕が口にしたとき、ダウエルは目をパチパチさせながら、『おお・・・』とだけつぶやいて絶句した。」

ボーンは振り返って言う。「実際の話、ダウエルは、このプロジェクトのアイディアは、非常に面白いと考えたんだと思う。ダウエルがアダムに白鳥を演じることを許可した一番の理由は、ダウエル自身が、自分のダンサーとしてのキャリアにおけるその時点で、ああいうことをやりたがっていることを自覚していたからだ、と僕は確信している。男性ダンサーが、全幕バレエで主役を演じる機会が如何に少ないか、ダウエルはよく分かっていた。それが、ダウエルがダメだとは言えないと感じた理由だと思う。それは彼の中にあるダンサーとしての判断だった。」

アンソニー・ダウエルって、ビデオで出ている「マノン」のデ・グーリューとか、「三人姉妹」のクルイギンを踊ってる人だよね。あと、シルヴィ・ギエムのドキュメンタリーにも出てた。なんか気の弱そうなオジさん。ロイヤル・オペラ・ハウス改築記念ガラ・コンサートでも舞台で挨拶していた。声が震えてた(感動のせい?)。前髪前線もハゲしく後退していた。まあそれはどうでもいい。クーパーに筋を通させてロイヤルを退団させ、また、後にクーパーをゲスト・ダンサーとして復帰させた人だ。断固とした合理的な判断力と、融通の利く優しさとを併せ持った、理想的な管理職だろう。

というわけで、1994年の秋から、クーパーはAMP「白鳥の湖」のリハーサルに参加し始めた。ボーンの仕事の進め方は、クーパーにとって、まったく新しい経験であった。

(2002年9月29日)

この続きを読む


このページのトップにもどる