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BIOGRAPHY

30.オン・ユア・トウズ (1)

2002年3月末から4月末までの間、サラ・ウィルドーはスコティッシュ・バレエ公演「二羽の鳩」(The Two Pigeons、フレデリック・アシュトン振付)に、主役の「少女(The Young Girl)」を踊るためゲストとして参加した。スコティッシュ・バレエ側は当初、ウィルドーの相手役としてクーパー君の出演も希望していた。しかしそれは叶わなかった。クーパー君はミュージカル「オン・ユア・トウズ(On Your Toes)」に主演することになっていた。公演期間は2002年5月3日から25日までである。

しかしクーパー君がレスターで「オン・ユア・トウズ」の準備をしている間、ウィルドーは時間を見つけては彼のところへやって来た。ウィルドーは冗談めかして言った。「私はかなり容赦ないわよ。毎晩、彼に踊りのラインを叩き込んでいるの。」(「ファイナンシャル・タイムズ」2002年3月23日)

レスター(Leicester)は、ロンドンから汽車で1時間半くらいのところにある、イングランド中部の小さな街である。「オン・ユア・トウズ」が上演されるのは、レスターの中心部にあるレスター・ヘイマーケット劇場(Leicester Haymarket Theatre)であった。座席数800にも満たない小さな劇場である。

レスター・ヘイマーケット劇場の芸術監督であるポール・ケリソン(Paul Kerryson)は、数々の有名ミュージカルの音楽を作曲したリチャード・ロジャース(Richard Rodgers)の生誕100周年を記念して、「オン・ユア・トウズ」の再演を計画した。クーパー君は主役であるジュニア・ドーラン役に起用され、また振付も担当することになった。

「オン・ユア・トウズ」は、作曲はリチャード・ロジャース、作詞はローレンツ・ハート(Lorenz Hart)、監督・脚本はジョージ・アボット(George Abbott)により、1936年にニューヨークで初演された。この作品は史上初のバレエ入りミュージカルであり、専ら歌が中心だったそれまでのミュージカル形式を一変させたといわれている。

ロジャースは「オン・ユア・トウズ」の中に、クラシックとジャズという2種類の音楽に合わせたバレエ・シーンを盛り込んだ。振付を任されたのはジョージ・バランシンである。バランシンによる「オン・ユア・トウズ」の振付も、ブロードウェイ・ミュージカルにおけるダンス形式を変えてしまったそうである。

「オン・ユア・トウズ」は当初、フレッド・アステアの主演映画として製作が進められた。しかしアステアは他の仕事で忙しかったのと、ジュニア・ドーランという役が、シルクハットに燕尾服という自分の優雅なイメージと異なるために気乗りがせず、「オン・ユア・トウズ」への出演を断った。

このように、「オン・ユア・トウズ」はミュージカル史における記念碑的な作品だった。が、レスターは小さな街であり、レスター・ヘイマーケット劇場もまた小さな劇場に過ぎなかった。にも関わらず、このプロダクションは公演前から大きな注目を浴びることになった。「オン・ユア・トウズ」はめったに上演されない作品であること、また「バレエ・ダンサー」であるアダム・クーパーが、踊りに加えて、セリフをしゃべるばかりか歌まで歌うこと、更に彼の役柄がコミカルな三枚目という、クーパーと今まで縁のなかったキャラクターであること、などの理由による。

この2002年以前、「オン・ユア・トウズ」がイギリスで上演されたのは、1984年(1983年ブロードウェイ公演版)が最後であった。なぜ「オン・ユア・トウズ」はめったに上演されないのか、批評家Ismene Brownはこう説明している。

「第一に、(初演)当時はきちんとしたプロットなど必要とされなかった。ほんの数名の役柄と大量の歌がありさえすればよかったのだ。ニューヨークの一介の音楽教師がいきなり、マフィアの暗殺者が彼を殺そうと狙っているその前で、ロシアのバレエ団の公演で主役を踊る、というのをストーリーだとみなすのなら話は別だが。」 これはつまりストーリーがお粗末だ、という意味である。

「第二に、ディアギレフのバレエ・リュスが、この作品では嘲笑の的になっており、しかもバレエ・リュスのジョージ・バランシンが初演の振付者であった。これがこの作品を新たに振り付けようとする者にとって、脅威的な基準となってしまっている。」

「第三に、中心的な役として、非常に稀有の人材が要求されるからである。ドラマティックな存在感はもとより、そのセリフ回しにおいても、身体的な優美さと同等に魅惑的でなければならない一人のバレリーナが。」(「テレグラフ」2002年5月10日)

しゃべるバレリーナとはヴェラ役のことである。更に、しゃべる男性バレエ・ダンサーも必要だった。ヴェラのパートナー、コンスタンティン役である。主役のジュニア・ドーランも、タップとバレエの両方ができなければならなかったし、セリフをしゃべって歌わなければならなかったのだ。振付家も「両方の世界(コマーシャル・ダンスとバレエ)に通暁していなければならないのである。」(「オブザーバー」2002年5月12日) 群舞にも多くのタップ・ダンサーとバレエ・ダンサーを動員しなければならなかった。

だが幸運なことに、「オン・ユア・トウズ」のキャストは実に恵まれたものとなった。バレエ・ファンの関心を呼んだのは、前年秋にロイヤル・バレエを退団したばかりのイレク・ムハメドフが、コンスタンティン役を引き受けたことである。またヴェラ役も、ロイヤル・バレエの元プリンシパルであるマーガリート・ポーターが担当することになった(彼女は2003年春に行なわれたボーン版「白鳥の湖」日本公演で、女王役を担当したダンサーである)。こうして、ポーター、ムハメドフ、クーパーと、ロイヤル・バレエの元プリンシパル3人が集まることになった。

マーガリート・ポーターはクーパー君と知り合いだったはずである。彼女はボーン版「白鳥の湖」ブロードウェイ公演(98年9月-99年1月)でも女王役を踊っていた。だが、当然クーパー君と知り合いではあるが、イレク・ムハメドフが「オン・ユア・トウズ」に出演することになった経緯ははっきりしない。クーパー君は以下のように語っているだけである。

「ぼくとイレクは同じロイヤル・バレエに所属していたけれど、当時からぼくは彼のことをとても尊敬していた。だから、その彼と仕事するなんて、最初はちょっと恐かったんだ。でも、実際、一緒に仕事をしてみると、イレクはすべての面において、素晴らしいダンサーでした。いい仕事ができたと思う。あらためて、彼から大きな刺激を受けることができました。」(「ダンスマガジン」2004年3月号)

2001年9月、クーパー君はムハメドフがプロデュースしたガラ公演に参加した。そのとき、クーパー君はムハメドフの指導の下、ロイヤル・バレエのタマラ・ロホと「スパルタクス」のクラッススとイギーナのパ・ド・ドゥを踊った。また、ムハメドフは2003年夏の「オン・ユア・トウズ」ロンドン公演にも参加している。だからクーパーとムハメドフの仲が悪い、ということはたぶんありえないのだが、もしクーパー君のほうからムハメドフに声をかけたのなら、クーパー君の「天然性怖いもの知らず症候群」がいい結果をもたらしたことになる。

更に、主に歌の面で重要な役割を担うキャストでも、優れた実力とキャリアを持つカスリン・エヴァンス(ペギー役)とラッセル・ディクソン(セルゲイ役)が出演することになった。結果、小都市レスターの小劇場での公演にしては、この上なく理想的なキャストが出揃ったのである。

キャストに関する難しい問題はほぼクリアできたが、大きな不安要素がまだ残されていた。それは他ならぬ主役のジュニア・ドーランを担当するアダム・クーパーであった。人々の注目は、クーパーの振付能力よりは、クーパーのミュージカル能力、つまりタップ・ダンス、セリフ回し、歌唱力が果たしてどんな水準なのかに集まった。

「アダム・クーパーは、クラシック・バレエを踊ることに飽きたという理由でロイヤル・バレエを去った。しかし、彼がミュージカルに出演することになるなんて、いったい誰が予測しただろうか?」(「ガーディアン」2002年5月7日) こんな疑問を抱いた人々は多かったらしい。

クーパー君は後に「いやあまいったよ。テレビやラジオ、新聞といろいろインタビューを受けたら、誰も僕が演劇学校でトレーニングを受けていたことを知らなくて。(←当たり前だ) そうでなくとも、人間、ひとつのことをやっていて、ほかのこともなんてできっこないと思われちゃったみたいでね。」(「SPUR」2004年3月号)とぼやいている。

彼はそんな人々の不信感を払拭するため、取材を受けるその都度いちいち説明しなければならなかった。メディアにどう書かれるかは重要である。彼は自分とミュージカルとは本来縁が深く、むしろ自分のバック・グラウンドはミュージカルに近い、と強調した。

「僕は『オン・ユア・トウズ』をやることに心惹かれた。この作品はダンスのあらゆる要素を含んでいるから。これは僕がミュージカルの世界へ入る足がかりのようにみえるだろう。でも本当は、この作品のラスト、『10番街の殺人』で、僕は自分本来のテリトリーにいる、ということなんだ。」(「タイムズ」2002年4月22日)

「『オン・ユア・トウズ』のすばらしい点は、僕のパフォーマーとしてのすべての様々なトレーニングを有効に活用できることだ。僕は明らかにダンサーとして知られているけど、僕はずっと歌うことを楽しんでいたし、ダンスのキャリアの中にあっても、ずっと歌唱レッスンを続けてきた。だから歌って演技して踊れるなんてすばらしいことだ。」(「シアターナウ」2002年12月10日)

「僕は子どもの頃ずっと歌っていたし、歌唱試験だって受けた。(←また出たぜ) 今はただ歌唱力を高める段階にあるに過ぎない。こう言う人々がいるだろうことは分かっている。『自分がダンサーだというだけで、いったいどうして彼は自分がミュージカルもできるだなんて思っているんだ?』と。」

彼がボイス・トレーニングを続けていたのは事実らしく、99年の初めくらいから練習を再開していたそうだ。この時期は彼がボーン版「白鳥の湖」でアメリカでも人気を確立した、文字どおりの絶頂期である。そんな時期にも関わらず、彼がダンス以外の活動を視野に入れたトレーニングを始めていたとは興味深い。

「僕は自分が優れたミュージカル・スターだ、なんて言い張るつもりはない。でも、これは僕のバックグラウンドの範囲に含まれていたことなんだ。それに僕はクラシック・バレエ一筋のトレーニングを受けてきたわけじゃない。僕は16歳まで(つまりロイヤル・バレエ・アッパー・スクールに入学するまで)、あらゆるジャンルのトレーニングを受けていたんだ。歌うことは僕の人生で大きな部分を占めてきた。演技は僕の人生で中心的な地位にある。最近は振付もそうだ。だから、僕はこれらを一つの大きな籠の中に一緒に放り込んで、そしてそれを外に送り出すに過ぎない。」(「タイムズ」2002年4月22日)

「問題は、僕をあくまで狭い箱の中に押し込めておきたがる人々の存在だ。『なぜ彼は自分がミュージカルをやれるなんて思うんだ?バレエだけに集中すればいいものを?』と考える人々が出てくるのは目に見えている。その答えは実に簡単だ。僕は自分ができると分かっているからだよ。どうしてやっちゃいけないんだ?」(「ガーディアン」2002年5月7日)

人々はまた、アダム・クーパーが初めてコミカルな三枚目を演じることにも非常に注目した。「今シーズンのつい先日、ロイヤル・バレエでクーパーの上品で傲慢なオネーギンを目にした人々、彼の発狂したルドルフ皇太子、彼の魅惑的なスワンをよき思い出として留めている人々にとっては、ジュニアはびっくりするものになるだろう。ジュニアはダサ男なのだから。しかし、クーパーはこの役に突進することを、とても楽しみにしているのだ。」

「クーパーはイギリスのバレエ界において、代表的なセックス・シンボルかもしれない。しかしそれは、彼が自分の中にあるまぬけさを発見することができない、ということではない。(『そういう部分はきっと僕の中のどこかにあるはずだ。』)」(「タイムズ」2002年4月22日)

クーパー君はこのジュニア役を通じて、自分に貼られたレッテルや固定してしまったイメージを壊そうとしていた。その最たるものはボーン版「白鳥の湖」のスワンである。「ジュニア役が持つ強い喜劇的要素は一種のリスクになるかもしれない。とはいえ、それはスワン役も同じことだったのだ。スワンの肖像は観客のクーパーに対する見方を永遠に変えてしまった。」(「タイムズ」2002年4月22日) アダム・クーパーといえばスワン、という人々はまだまだ多かった。

マシュー・ボーンは1997年製作の「シンデレラ」で、わざとクーパーのこうしたイメージを覆すようなキャラクター、「パイロット」役を彼に担当させた。クーパーもスワン/ストレンジャーに代表される、彼に対する固定したイメージとは正反対なパイロット役を大いに好んだ。彼はパイロット役とジュニア・ドーラン役には類似点がある、と指摘したという。

また、2001-02年、ロイヤル・バレエのオネーギン役で彼は大成功を収めたが、オネーギン役はボーン版「白鳥の湖」のストレンジャーとどこか重なるところがあった。黒衣に身を包んだ倣岸不遜な男、というイメージである。アダム・クーパー=セクシーなワル、という図式を打ち破り、タイプ・キャストから脱け出したかったのだろう。

「僕は新しいことに興味がある。同じことを繰り返したくないんだ。僕はロミオを再び演じる気はない。僕にとってロミオは死んでしまった役だ。『白鳥の湖』のスワンでさえも、僕はあの役を大切に思っているけれど、もう僕にとってはエキサイティングなものではあり得ないだろう。これが、僕がバレエの世界の向こうを見つめている理由の一つだ。」(「ガーディアン」2002年5月7日) といいつつ、彼はこの年の暮れには、「スワンをまた踊りたい気持ちはある」とか言い出すのだが(もちろん翌年の日本公演を意識してのものと思われる。現金なヤツ)。

ついでにアダム=スワンのイメージがあることについて、彼はこうも言っている。「作品と自分を切り離すことはできないけど、役のイメージが固まりすぎてしまうのにも抵抗がある。いつでも自分が持っているいろいろな側面を見せていきたいと考えているからね。エモーショナルでシリアスなもの、コミカルで軽いものなど、質の異なるパフォーマンスを広く手がけていきたい。」(「TITLE」2004年9月号)

クーパー君は「オン・ユア・トウズ」のストーリーについて、「とてもしゃれているし、充分に想像をかきたてられるよ。それにとても面白い」と語り、ジュニア役についても、ロミオ、ジークフリード、デ・グリュー、ティボルト、レスコー、ヒラリオン、スワン、ストレンジャー、ホフマン、オネーギンと同じように、大真面目な態度で詳細に深く掘り下げて探求し解釈してみせた。

「僕は彼(ジュニア)をできるだけ人間的に表現したい。1930年代に設定されたストーリーも、現代の観客にとって現実味のあるものにしたい。ジュニアはヴォードヴィルの世界の出身で、彼の中にはエンターテイナーの血が宿っている。でも彼の両親によって、彼は音楽教師になるために外へ送り出されてしまう。そして彼はダサ男という仮面を自分自身にかぶせてしまうんだ。だから人々は彼を真面目に受け取っている。」

「でも、心の深い部分では、彼は依然としてエンターテイナーなんだ。注目を浴びたいし、スターになりたい。ちょっとクラーク・ケントのスーパーマン入ってる。彼の心の底には、パフォーマンスをしたいという激しい炎が燃えさかっている。僕は完全にそれに共感できるんだ。」(「タイムズ」2002年4月22日) このように、何事についても常に真摯で一生懸命なのがクーパー君のいいところである。

クーパー君はなおも言った。「僕は観客にジュニアはアホだ、と言わせたくない。彼はアホじゃなくて、誤解されているだけなんだ。」(「ガーディアン」2002年5月7日) クーパー君、申し訳ない。私、「オン・ユア・トウズ」を観て、ジュニアはアホだとずっと誤解してました。そうじゃなかったのね。このように、狙いが時に空回りするのも、クーパー君のいいところだ。

タイプ・キャストの危険から自らを救い出したい、という目的の他にも、クーパー君には考えるところがあった。クーパー君はロイヤル・バレエ学校にも、ロイヤル・バレエにも最後まで馴染めなかった。そして、先にはアーツ・エデュケイショナル・スクールで、後にはマシュー・ボーンの下で、なまじバレエ以外の世界を知ってしまったがために、バレエの閉鎖性をなおさら強く感じることになってしまった。

後年、イレク・ムハメドフは「オン・ユア・トウズ」の出演については何も語ろうとしなかった(質問されたが答えなかった)。2004年の春には「オン・ユア・トウズ」日本公演が行なわれたが、ムハメドフは参加しなかった。同じ時期に行なわれたロイヤル・バレエの「マイヤーリング」公演にゲスト出演していたためである。

ムハメドフにとっては、日本でアダム・クーパーの「添えもの」となり、また日本のバレエ・ファンから「ミュージカルに出演するなんて」と同情の目で見られる屈辱よりも、ロンドンのロイヤル・オペラ・ハウスで主役を踊ることのほうが、もちろんはるかに重要なことだった。しかも、これがムハメドフのロイヤル・バレエにおける事実上のフェアウェル公演だったのだから。

クーパー君もロイヤル・バレエ2002-03シーズンの「マイヤーリング」出演を打診されていた。だが、折しも「オン・ユア・トウズ」ロンドン公演の話が持ち上がっていて、その公演期間が「マイヤーリング」と重なっていた。そのため、彼はロイヤル・バレエからの依頼を断ってしまった。2002年秋の「オン・ユア・トウズ」ロンドン公演は結局実現せず、クーパー君は再びルドルフ皇太子を踊れる貴重な機会を逸することになった。

しかしこのことによって、クーパー君にとっては、彼が最も好きな作品だという「マイヤーリング」より、「オン・ユア・トウズ」のほうがはるかに重要だったことが分かる。

大方のバレエ・ダンサーとは異なり、クーパー君はそのバックグラウンドやキャリアによって、ミュージカルとはバレエより低俗なジャンルである、という価値観がもともと希薄だったのではないかと思う。大体、彼がダンスを始めた動機からして、「フレッド・アステアのように踊りたい」というものだったのだ。だから「ミュージカルへの出演=バレエからのドロップ・アウト」という実感があまり湧かなかった。

ただし彼は同時に、ダンスの世界において、バレエが現実的に占めている優位性をよく承知していた。彼はよくインタビューなどで、バレエを選んだのは偶然だ、という意味のことを冗談めかして口にするが、そんなことあるわけない。以下のコメントが、たぶんクーパー君の本音だろう。

「僕は『バレエをやれば他のダンスはすべてできる、その逆はあり得ない』と実感していたので、バレエを選んだ。」(「バレエ・ガイド2004」) 彼が賢明だったのは、「下から上に昇る」ことはできないが、「上から下に降りる」ことはできる、という現実的な可能性の有無を充分に弁えて、後にそれを実現したところである。

「いまや、クーパーは新たなる方向転換に乗り出そうとしていた。それによって、彼は自分が両方の世界を共有できることを証明しようとしているのである。文化の雅俗、つまりバレエの世界とミュージカルの世界とを区分する障壁を取り払ってしまおうと、彼は初めてとなるミュージカル、『オン・ユア・トウズ』に出演し、また振付を担当することになった。」

クーパー君は言った。「僕はロイヤル・バレエに囚われていると感じていた。そこはとても狭い世界で、しかも浅はかな上流崇拝が充満している。一部の人々は、バレエこそがダンスにおける唯一絶対の形式だと考えている。そして一部の舞踊批評家は、彼らが担当している仕事(舞台批評)によって、そうした価値観を永続させている。」

「でも現実には、探求すべきダンスの分野がはるかにたくさん存在している。僕は狭い役柄だけに限定されるのではなく、自分のすべてを活用したいと強く思っている。」(「ガーディアン」2002年5月7日)

「僕はバレエのキャリアも続けているけど、同時に演技や歌唱にもずっと興味を持っていた。そしてこの作品(『オン・ユア・トウズ』)は、僕にそれらを披露するチャンスを与えてくれるものだ。」(「シアターナウ」2003年7月22日)

クーパー君はミュージカルに出演することに抵抗感がなく、むしろコマーシャル・ダンスとバレエの間にある壁を取り払えないかと考えた。「オン・ユア・トウズ」はそれにうってつけの作品だったのである。

「バリアを取り払うのって、とてもいいことだと思うんだよね。バレエとタップといった、ダンスのジャンルについてもそうだし、AMP版『白鳥の湖』のように、高い芸術性と、噛み砕いたわかりやすさの両方を兼ね備えて、ちょうどその真ん中にいるというのも、素晴らしいスタンス。"真ん中"にあるということ自体、実は今まで誰もなしえていない、新しいことだったわけだからね。」(「婦人公論」2004年4月7日号)

後年、そうした彼の意図は、「雨に唄えば」(2004年)の振付にいっそう明らかに反映されていた。更に彼は、もっと融通が利いて既存の形式に縛られないダンスのあり方を模索していた。これが「危険な関係」(2005年初演)である。

彼は「オン・ユア・トウズ」の振付も担当することになった。しかし振付については、ジュニア役としての出演が決まった後に、あらためて振付もやってみないかと勧められたのである。結局は承諾したが、怖いもの知らずなクーパー君もさすがに考え込んでしまったという。

「歌うことは僕が絶対にやりたかったことだった。僕は『オン・ユア・トウズ』の台本を読んで、これは僕にとってすごくいいと思った。振付もやらないかという話が来たのはその後だった。でも僕は『あつかましくないか?』と思った。」(「イヴニング・スタンダード」2003年7月29日)

なんであつかましいのか。これはもちろん、初演の振付者がジョージ・バランシンであったからである。

(2005年10月30日)

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