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BIOGRAPHY

29.Dancing in a minefield

2002年1月、クーパー君は引き続いてロイヤル・バレエの「オネーギン」に出演した。彼はこの半年後の2002年7月にも、再び「オネーギン」に出演する予定であった。また、彼が初めて「オネーギン」を踊った2001年11月の時点で、アダム・クーパー振付・主演によるミュージカル「オン・ユア・トウズ("On Your Toes")」が、2002年5月にイングランド中部の小都市レスター(Leicester)にあるレスター・ヘイマーケット劇場で初演されることも決まっていた。

クーパー君にとってはまあまあ順風満帆にみえたこの2002年2月末、彼とサラ・ウィルドーは、「テレグラフ」紙のインタビューを受けていた。このインタビューが紙上に掲載されたのは、1ヶ月後の2002年3月末である。ウィルドーがゲスト出演する、スコティッシュ・バレエのアシュトン版「二羽の鳩」公演(2002年3-4月)に合わせたのである。だが、このインタビューには変わった見出しが付けられていた。"Dancing in a minefield"というものである。

インタビュアーは舞踊批評家のIsmene Brownで、いつも比較的くだけた調子で分かりやすいレビューを書くが、一方で聞きにくいことを当の本人にズバリ尋ねたりする人である。着任早々にダンサーのリストラを断行したロイヤル・バレエ芸術監督ロス・ストレットンにも、リストラの経緯やリストラされたダンサーたちとの関係を直接に問いただしている。このインタビューも、クーパーやウィルドーが触れられたくないことを主に尋ねたものであった。

ウィルドーが触れられたくないことは、やはり前年のロイヤル・バレエ退団についてであった。退団といっても事実上の解雇だったわけだが、彼女は退団した当時は多くを語らなかったのである。ブラウンはウィルドーから退団の真相を聞き出した。ウィルドーは、自分の「退団」が強制されたものであったことを打ち明けた。ストレットンが彼女に提示したスケジュールには、彼女が主役を踊る公演が一切なかったのである。

クーパーが触れられたくないこととは、彼の作品である「危険な関係("Les Liaisons Dangereuses")」の上演計画の頓挫についてであった。この前年の2001年1月には、「危険な関係」は同年の秋に初演されることになっていた。美術、音楽、振付は完成し、出演するダンサーもほぼ決まっていて、ロイヤル・バレエ、ノーザン・バレエ・シアターなどのダンサーが出演する予定であった。だが、プロデューサーのカザリン・ドレがこの仕事から降りたために、上演のメドがつかなくなってしまっていた。

いまや夫婦ふたりがともにフリーランスの身分となり、クーパーもウィルドーも自分たちの将来について、どこかで不安を感じていることを否定はしなかった。だが、彼らにはとりあえずの予定が多く入っていた(その中には実現したものも実現しなかったものもある)。このインタビューは、それらの予定によって希望を漂わせつつ終わっている。

このインタビューの直後、クーパーとウィルドーは日本へ飛んだ。日本のスターダンサーズ・バレエ団の公演「マクミラン"カレイドスコープ"(MacMillan Kaleidoscope)」にゲスト出演するためである。この公演は2002年3月2日、3日の2回行なわれた。監修はケネス・マクミラン夫人のデボラ・マクミラン(Deborah MacMillan)、企画構成と振付指導はモニカ・パーカー(Monica Parker)である。

「マクミラン"カレイドスコープ"」はマクミラン作品のガラ・パフォーマンスである。だが、構成がかなり変わっていた。普通のガラ公演みたいに、各作品の見せ場である有名な踊りを次々と上演していくのではない。マクミランの2作品、「エリート・シンコペーション("Elite Syncopations"、1974年)」と「ソリテイル("Solitaire"、1956年)」をベースにして、その中にマクミランの、どちらかというとマイナーな作品の踊りを織り込む形で展開していった。

この構成はモニカ・パーカーが独自に考え出したアイディアらしい。パーカーはマクミランのアシスタントを25年にわたって務め、また舞踊記譜法の一種であるベネッシュ・ムーブメント・ノーテーション(Benesh Movement Notation)を研究し、またそれを指導する立場にあった。デボラ・マクミランは祝辞の中で、「彼(マクミラン)の作品の再現を可能にしてくれたベネッシュ・ノーテーションに感謝いたします」と書いているから、マクミランの作品はこのベネッシュ・ノーテーションで記録されているのかもしれない。

公演は第1部と第2部に分かれていた。第1部では「エリート・シンコペーション」を下敷きに、その間に「マノン("Manon"、1974年)」、「日の終わり("La Fin du Jour"、1979年)」、「四季("The Four Seasons"、1975年)」、「七つの大罪("The Seven Deadly Sins"、1973年)」の踊りが組み込まれた。

第1部では、クーパー君は「マノン」第二幕の泥酔したレスコーのソロ、「七つの大罪」で「欲望("Unzucht")」のパ・ド・ドゥ、最後に「エリート・シンコペーション」の「ベティーナ・コンサート・ワルツ」、「キャタラクト・ラグ」を踊った。ウィルドーは、「七つの大罪」から「ストリッパー(傲慢、"Stolz")」、クーパーとともに「欲望」、最後に「エリート・シンコペーション」から「キャタラクト・ラグ」を踊った。

クーパー君が踊ったレスコーの酔っぱらい踊りはすばらしかった。映像版、このまえ(2005年7月)のロイヤル・バレエ日本公演で、同じソロを踊ったダンサーの踊りとは、テクニック、ダイナミックさ、華やかさの点でまったく違っていた。

「七つの大罪」はクルト・ヴァイルの音楽を使っていたが、歌がなかった。また踊りに合わせてテンポも遅くしていたため、クルト・ヴァイルの「七つの大罪」だと気づくまでに時間がかかった。「七つの大罪」は歌のあるバレエ音楽として作曲され、1933年にパリで初演された。振付を担当したのはジョージ・バランシンである。

だが、「七つの大罪」の演奏を数ヴァージョン聴いても、この音楽でどうしたらバレエを踊れるのか想像できない。しかも、バレエ音楽とはいえ、この作品では歌が非常に重要な役割を担っているため、歌がないと音楽も物語も崩れてしまう。断片しか観ていないが、マクミランの「七つの大罪」は、振付は非常に面白かった。でも音楽から歌を削除し、また演奏のテンポを遅くしたために、キレがなくてもたついた踊り、という印象が残った。

ちょっといい話。舞台上でクーパー君が踏み消したタバコの吸殻を、女性ダンサーたちが争って拾う、という演出があった。タバコを吸っていたクーパー君は、タバコを床に落とすと、火がついている部分だけを靴の爪先でそっと潰した。吸殻全体をぐいぐい踏んだりしなかった。踏みつけた吸殻を女性たちに拾わせたくなかったのだ、と私は勝手に思っている。

「エリート・シンコペーション」のフィナーレは華やかで明るい音楽である。クーパー君は笑いを抑えつつも嬉しそうな顔になり、実にノリノリに踊っていた。ああ、彼はこういう踊りのほうが好きなんだな、と当時の私はなんとなく感じた。

第2部では「ソリテイル」を下敷きに、「コンチェルト("Concerto"、1966年)」、「イサドラ("Isadora"、1981年)」、「三人姉妹("Winter Dreams"、1991年)」、「レクイエム("Requiem"、1976年)」の踊りが織り込まれていた。

クーパー君は「三人姉妹」のマーシャとヴェルシーニンの別れのパ・ド・ドゥをウィルドーとともに、そして「レクイエム」の「奉献唱("Offertoire")」をソロで踊った。ウィルドーは「イサドラ」から子を亡くした母親のソロを、またクーパーと「三人姉妹」のパ・ド・ドゥを踊った。

彼らが踊った「三人姉妹」のパ・ド・ドゥの振付は、映像版とまったく同じであった。今年(2005年)になって、私はシルヴィ・ギエムとニコラ・ル・リッシュが踊る同じパ・ド・ドゥを観たが、一部の振付が映像版とは異なっていた。これは考えすぎかもしれないけど、クーパーやウィルドーはマクミランの原振付を忠実に守っていたのだと思った。

「レクイエム」では、クーパー君は全身レオタードもすごく似合う、ということをまず発見。音楽はフォーレの「レクイエム」である。振付は音楽に合わせてゆっくりとした、寂寞とした雰囲気の漂うものだった。床運動みたいな感じの(ヘンな喩えですみません)静かな振付だけど、実は強い筋力と持久力が必要な踊りである。

クーパーとウィルドーがこの公演で踊った作品で特に面白かったのは、「七つの大罪」、「イサドラ」、「レクイエム」である。これらは、たぶんロイヤル・バレエでもめったに上演されなくなっている演目だろう。この公演を企画・構成したモニカ・パーカーは、プログラムの中でこう語っている。

「わざとポピュラー上演されていないようなマクミランの作品を持ってきたいなと考えました。いわゆる通常のガラ公演みたいなものではないようなものにしようと思ったのです。一般的にガラというのは、ポピュラーな作品の中からパ・ド・ドゥ等を単に並べるのが普通の形ですが、私が考えたのはそうではなく、マクミランでいちばん有名な『ロミオとジュリエット』のパ・ド・ドゥなどは、あえてはずしました。」

クーパー君もインタビュー(「バレエ」2002年7月号、音楽之友社刊、現在は廃刊)の中で、「『七つの大罪』と『イサドラ』なんて、僕自身もビデオでしか観たことがなかった」と言っている。じゃあ、他の作品は、すべて生の舞台を観たことがある(もしくは踊ったことがある)わけか。

また、パーカーはマクミラン作品の特色について言う。「彼にとっては、人間の暗い面に光をあて、それを訴えることはとても重要なテーマでした。それまでバレエの中で描かれる人間というのは、美しく、かわいらしくてきれいなものでした。そうではなくて、人間というものはもっとリアル、現実的ですから、きれい事ではなく、傷ついたり憎みあったり、そういうものこそが非常に重要だし、表現したいと考えていました。」

この公演でクーパーとウィルドーが受け持ったのは、ほぼすべてが「人間の暗い面」を表現した作品であった。「マノン」のレスコーのソロは酔った卑俗な男の醜態であり、「七つの大罪」はグロテスクなほどにエロティックな男女のセックスであり、「イサドラ」は子どもを悲惨な形で失った母親の絶望と孤独であり、「三人姉妹」の別れのパ・ド・ドゥは愛し合いながらも別れざるを得ない男女の苦悩であり、「レクイエム」はマクミランのよき理解者であった友人(ジョン・クランコ)の死に対する悲しみであった。

一方、スターダンサーズ・バレエ団のダンサーたちが踊ったのは、明るいか、抒情的か、また見た目に美しくきれいな振付の作品ばかりであった。マクミラン作品の中でも、「美しく、かわいらしくてきれいな」踊りである。

以下はこの点に気づいたある観客の言葉である。

「サラはあの舞台でかかとが高くて細いヒールを履いて踊り、裸足で踊り、トゥシューズを履いて踊りましたよね。

マシュー・ボーンの『シンデレラ』で踊ることになった時、ダウエル(チャウ注:アンソニー・ダウエル、当時のロイヤル・バレエ芸術監督)から、許可を出す条件にポワントの練習を怠らないように、と言われたという記事を読んだことがあるので、1回の舞台の中で、それだけ種類の違うダンスをするのは、大変なことだと思っています。

踊ったダンサーの中で彼女ひとりでした。あんなにたくさんの種類のダンスをしたのは。

そして、今思い出しても、アクの強い娼婦のような役や、子をなくした母の嘆きや、夫ある身の妻の恋心を一瞬のうちに素晴らしい演技で踊り分けていました。」

クーパーとウィルドーは、おきれいなだけではない、人間の内にある複雑さや暗く切ない面を表現した様々な踊りをこなした。私はこの公演がバレエ初生鑑賞だったので断言はできないのだが、たぶん客の入りは良かったんではないかと思う。2日目の公演ではプログラムが途中で売り切れてしまったため、購入希望者には後で増刷して郵送する、という措置が取られていたから。

しかし、サラ・ウィルドーに関しては、日本の一部のバレエファンや舞踊批評家が、残酷な非難を加えていた。私は当日の公演会場で、女性の観客たちがかなり下品な言葉でウィルドーを罵っているのを実際に耳にした。その中には「退団した後は妊娠でもするのかと思ってたけど」という言葉もあった。「仕事先も辞めたことだし、今度は子どもでも生んでみようか」と軽率に考える女性はたぶんいないだろうし、もっと踊りたかったのにやむなくロイヤル・バレエを退団したウィルドーに対して、この言葉はあまりに残念なものだった。

また、ウィルドーへの非難を文字にしてネット上に書き込んだ人々も少なからずいた。「マクミラン・カレイドスコープ」と「スターダンサーズ・バレエ団」などのキーワードを組み合わせて検索してみれば、そのいくつかは今でも見つかるだろう。

これは舞踊批評家も同じことで、公演1ヶ月後に発行された雑誌「バレエ」(2002年5月号)では、女性の舞踊批評家が「サラ・ウィルドーのぽっちゃりとした体つきには驚かされた」とわざわざ触れていた。彼女の踊りそのものは褒めていたにしても。また、ある男性の舞踊批評家は、自己のサイト(Sho's Bar)でウィルドーのことをこう書いた。「ただのデブおばさん」、「妊婦が出てきたのかと思った」。

果てには、共演したスターダンサーズ・バレエ団の女性ダンサー(現在は退団)までもが、「サラの太りようが話題になっているようですが」と、彼女個人のサイトだったか、バレエ団の公式サイトの掲示板だったかに書き込んでいた。私は、まさか共演者がこんなことを書くとは思いもよらなかった。掲示板に実名で堂々と書いていたくらいだから、彼女はバレエ団内でも同じことを平気で口にしていたのではないか、とつい疑ってしまう。

ダンサー、舞踊批評家、バレエファンといえど普通の人間である。よって当然のことながら、常識や思慮というものがやや足りないらしい一群の人々が存在する。それでも素人ファンが自分のサイトで書くぶんには、素人ということで大目にみてやれるところがあるのだが、困ったことに、一部の舞踊批評家やダンサーは自らの立場をわきまえず、言うべきでないことや書くべきでないことを言ったり書いたりする。

そこにあるのはどうしようもない鈍感さと無神経さであり、これらの人々はその立場や仕事内容からみれば、常人よりもはるかに繊細で鋭い感性と深い思慮が必要とされるはずなのだが、往々にして常人よりも無感覚で無思慮でありながら芸術を云々し、その軽率な言動が新聞、雑誌、ネットを通じて公開されることになる。彼らは、書くこととは常に他人を傷つける可能性をはらんでいる、ということも、また自分がいかなる価値観によって物事を判断し評価しているのか、ということも自覚しておらず、実に無邪気にこうした失言をやらかす。

ウィルドーの体型はバレリーナとしてふさわしくない、というのがバレエの世界での価値観なのだとしたら、そんなことは鏡の前で毎日レッスンをしていたウィルドー本人がいちばんよく知っていただろう。このことで最も苦しんでいるのは、他ならぬ彼女自身なのではないか、ということを、彼らはなぜ想像できなかったのか。

イギリスの多くの批評家は容赦がないし、的外れで頑迷固陋な感想や評価などもよく目にするが、それらのほとんどは自分の価値観を堅守しているのであって、あくまでこの一線は譲れないぞ、というだけである。また、言うべきことと言う必要のないこととを心得ているのだろう、彼らはダンサーのパフォーマンスに非難を加えることはあっても、パフォーマンス以外の点でダンサー個人を罵倒することはない。

クーパーはこの翌年の2003年春、マシュー・ボーン「白鳥の湖」日本公演のために来日した。彼はあるインタビュー(「Marie Claire」2003年8月号)の中で、日本のバレエ・ダンサーについて、「たいがい技術が優れている」と述べ、新国立劇場バレエ団とともに、「昨年、共演したスターダンサーズ・バレエ団のダンスも感動的だった」と称えた。これは共演者に対する常識的な態度と言動というものだろう。

イギリスに帰国後、ウィルドーはスコティッシュ・バレエ「二羽の鳩」公演のため、クーパー君は「オン・ユア・トウズ」公演のため、それぞれ本格的な準備にとりかかった。クーパー君はこのほか、ロンドン・スタジオ・センター卒業公演に提供する作品と、2002年末にスウェーデンのストックホルムで上演される「ガルボ・ザ・ミュージカル」の振付という仕事も抱えていた。が、目下のところ、やはり「オン・ユア・トウズ」が最も重要な仕事であった。これは彼にとって初の全幕物振付、そして初のミュージカル出演であったからである。

(2005年10月5日)

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