Club Pelican

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28.But who cares?

しかし、ファンにとっては嬉しい、クーパー君ベタ褒め評も多くある。「アダム・クーパーによる解釈では、オネーギンはほとんど悪魔のような人物である(チャウ注:私はこれには異論がある)。黒ずくめの衣裳と視線の冷たさで、彼は舞台を支配した。オネーギンが読書好きな少女タチヤーナと出会ったシーンでの彼の踊りは計算し尽くされ、そして物憂げであった。・・・その夜の舞台はこのアンチ・ヒーローに属していた。上流社会特有のアンニュイから道徳的な退廃へと、オネーギンの変遷は特筆に価するほど完璧である。このバレエ作品は欠点を有してはいるが、しかしクーパーの優雅さと激しさは、それらの欠点を補って余りあるものであった。」

それに、寄らば大樹の蔭とはいうが、有名どころの批評家になればなるほど、クーパー君に好意的な書き方をしているのは嬉しいことである(まあ高名な批評家は立場的に寛容で公平な姿勢を保つことが求められる、というせいもあるだろうが)。

「きちんとなでつけられた髪、ハンサムな高慢さを備えたゲスト・ダンサーのアダム・クーパーは、オネーギンという役柄の弱点、つまり徹底的な悪人であるという弱点に味付けを施し、更に最後のシーンでは悔恨に溢れた激情に自身を没入させていた。最近の彼の踊りは鋭利ではないが、しかしそんなことは大した問題ではない。彼は完璧に圧倒的な魅力を有するオネーギンであり、神秘的な魔力を持ったアンチ・ヒーローである。」

「アダム・クーパーは、人を魅惑し得る、そして慄然とさせるような、オネーギンの歪んだ自己中心的な本質を把握できていたことで好スタートを切った。彼は洗練された優雅な身のこなしで魅力と残酷さの両方を表現し、そしてより悲劇的な見せ場を作り出していた。」

「初日のキャストによる感情の調和とドラマティックな衝撃に匹敵する他のキャストは存在しない。しかし他のキャストたちの中にも、各人各様の強力な役柄解釈がみられた。・・・4人の人生を破滅させるこの傍若無人な男、オネーギンについての異なる役作りを目にして、意外にも心乱された。クーパー、コボー、ロバート・テューズリーは、オネーギンが邪悪な人間なのか、それともただ単に哀れな愚か者なのかについて、みな違った考えを持っていた。」

あまり注目されなかったが、グレーミン役のクーパーについて、この批評家はふざけて書いている。「天真爛漫なオリガ役のマリアネラ・ヌニェィスよりも明らかに年上なため、(タチヤーナ役の)ガリアッツィは婚期を過ぎていて、ちょっとアセっているようにみえた。そして、(オネーギン役の)テューズリーが最後のシーンで、すでに結婚しているタチヤーナを探してやって来たとき、タチヤーナは、彼女が手に入れるだろうとは想像もしていなかったものを、オネーギンに破壊させるつもりなはずはなかった。なぜなら、タチヤーナの夫がアダム・クーパーによって演じられたために、女性の観客はその理由を完璧に理解できたのである。」

一方、ballet.coの掲示板でも「オネーギン」が取り上げられ、公演開始から2週間も経たないうちに4つもスレが立てられるまでに大いに賑わった。クーパーが第1キャストのオネーギンとして初日を踊ることが明らかになったとき、彼らの多くがそのキャスティングに批判的な意見を書き込んだが、公演が始まってからは、ここが外人の不思議なところ(いいところ?)で、意外にもそんなに感情的な批判はみられず、「オネーギン」という作品を抵抗なく受け入れたようである。

「アダム・クーパーとイーサン・スティーフェルは、名利欲が強く、冷笑的で無感情なオネーギンと、夢想家で理想主義的なレンスキーとして、それぞれの人物描写においてすばらしい仕事をした。アダムは驚異的なダンサーであると同時に優れた俳優であり、イーサン・スティーフェルはレンスキーをアメリカン・バレエ・シアターで踊っているので、彼らはそれぞれの役において信頼に値する出来であった。」

「アダム・クーパーはオネーギンという役が似合うけれど、パートナリングでの重労働では明らかに四苦八苦していた。」

「私はクーパーのファンではなく、彼のファンには申し訳ないけど、彼のオネーギンには説得力がなかったと思う。単なる底の浅いワルに過ぎず、どうしてタチヤーナが彼を好きになったのか分からない。魅力に欠けている。」

「まさに彼にふさわしい役でロイヤル・バレエに帰ってきたアダム・クーパーと、そして彼女のドラマティックな才能を見事に全開できる役をつとめたタマラ・ロホとを目にできたことはすばらしい経験だった。・・・ロホの少女らしい一途さと、クーパーの尊大さと残酷さは、驚嘆すべき化学反応を作り出した。そこには、私が予想もしていなかったようなパートナーシップが存在していた。」

「若いタチヤーナの初々しい憧れを悲劇的な結末で無情にもはねつける、暗い魅力を持つ洗練された人物であるオネーギンという役柄は、アダム・クーパーにうってつけであろう。彼はAMPの『白鳥の湖』におけるダークでセクシーなストレンジャーのように、すさまじいインパクトを与えていた。クーパーがロイヤル・バレエに在籍していたころ、彼はたとえ脇役であっても、綿密な人物造形をすることで抜きん出ていた。しかし、彼は第一幕では、めずらしく曖昧で希薄なようにみえた。が、彼のオネーギンはゆっくりと活気を帯びはじめた。第一幕終盤でのパ・ド・ドゥ、そこで彼はタチヤーナの想像上の恋人として、夢の場面で鏡の中からすべり出てくるが、クーパーとタチヤーナ役のタマラ・ロホとの双方にも問題はほとんどなかったように思われた。・・・クーパーとロホは、以前には息があっていなかったが、この公演を通じて、彼らのパートナーシップははるかに説得力のあるものに変化した。第三幕最後のパ・ド・ドゥは、彼らが醸し出し得る激情と迫力とをリアルに表現していた。そこでは、葛藤する感情が、抑えがたい衝動をともなったステップを通じて湧き出していた。」

「アダム・クーパーは他者の追随を許さないが、しかしヨハン・コボーのほうがよりふさわしかった。コボーは自分の役柄にドラマ性を投入するに足る、大きな技術的余裕がある。」

「私が観た公演よりも恵まれたキャストを見つけることは難しいだろう。アダム・クーパーは闇の魅力に満ちたオネーギン役には完璧である。・・・この公演から判断するに、オリガがタチヤーナの妹であることは間違いない!(←チャウ注:いくら英語では"her sister"としか表記されないとはいえ、原作をひととおり読んで、オペラをひととおり観るだけで察しがつくことを、この人はしていないらしい。ちなみにこの人は、かつてサラ・ウィルドーの技術について、バレエの専門用語〔?〕を駆使〔?〕して彼女を徹底的に非難する書き込みをした人である。) ・・・スティーフェルはこの公演では最高のダンサーであったかもしれないが、彼にはアダム・クーパーほどの存在感はない。しかし、スティーフェルは彼のソロで本領を発揮していた。」

「クーパーは、彼の昔の踊りのスタイル(チャウ注:バレエのこと)を取り戻した。それは間違いなく、スティーフェルという技術的な才能に恵まれた人物と同じ舞台に立ったことで影響を受けたのだ。クーパーの優れたパートナリング、演技力、舞台を支配する力は、終始非の打ちどころがないものであった。」

「ヨハン・コボーのオネーギンを最初に観てしまったからかもしれないが、私はクーパーにはさほど感動しなかった。明らかにクーパーの踊りはコボーと同等の質を有していないが、しかし私はドラマティックな点でも同じことを感じた。コボーに比べて、クーパーは自分の周囲で起こっていることにやや無関心である(もちろん、オネーギンはそういう役なんだろうけど、でも私はそのことだけを意味しているのではない)。それに、クーパーの『鏡のパ・ド・ドゥ』でのパートナリングは、やや不安定であることに私は気づいてしまった。それはコジョカルとコボーほどになめらかではなかった。」

「『ヨハン・コボーのオネーギンを最初に観てしまったからかもしれないが、私はクーパーにはさほど感動しなかった。明らかにクーパーの踊りはコボーと同等の質を有していない』、これはどういう意味なのか、誰かはっきりと説明してくれませんか?」

このように、一部の批評家の意見と同様、第2キャストのオネーギンで、ロイヤル・バレエのプリンシパルであるヨハン・コボーを称賛している書き込みはとても多い。上には引かなかったが、コボーがいかにすばらしかったか、ということを、幕ごとに長々と書き連ねた投稿もあった。アダム・クーパーが「よそ者」の代表にされたのに対して、ヨハン・コボーは、ロイヤル・ファンが擁護すべきロイヤルのダンサーたちの象徴にされてしまったようである。ロイヤル・バレエの「放蕩息子」vs.「孝行息子」対決である。

だが、新聞での批評と同じく、最後はやはり中立的な意見で落ち着いた。「キャストによってストーリー、キャラクター、そしてそれらへの反応が大きく異なってくるというのは、とても興味深いことだ。」

他には、「オネーギン」の音楽CDや映像版の有無とか、上演時間とか(それくらいロイヤル・オペラ・ハウスに電話して聞けよ)、果てにはタチヤーナとオリガはどっちが姉でどっちが妹なのか(だから原作とかオペラとかにも目を向けなさいよ)、というつまんねえ、おっと失礼、細かいことでも熱心にやりとりをしている。

また、「○○役が誰それだったらよかったのに」とか、「○○役は誰それで観てみたい」という意見もとても多い。たとえば、シルヴィ・ギエムのタチヤーナはさぞすばらしいだろうに、とか、あと圧倒的に多かったのは、オネーギンをジョナサン・コープで観たい、という意見である(意外なことにイレク・ムハメドフのオネーギンを観たい、という声は少ない。退団したダンサーへの未練は意外にあっさりと断ち切れるものらしい)。

「オネーギンをコープで!」という書き込みは、なぜか「クーパーとロホの踊りはどうだったか」というテーマのスレに多くみられる。このへんがちょっとイヤらしいところだ。知的な人々がマイナスな感情を表現するときによくみられる独特のクセである、と受け取れないこともないかもしれない。

分かるでしょ〜?クーパー君のバレエに関するレビューやスレを読むと憂鬱になってくるのよ。ロイヤル・バレエ所属のダンサーで、ここまでけなされている人はいないんでスよ。やっぱりアダム・クーパーというダンサーには、一部バレエファンの癇に障るツボがあるらしい。そしてそれは、バレエのあるべき姿とは何か、というおなじみの問題にまたもや帰着する、と私は思うんである。

確かに、ヨハン・コボーの方が、クーパーよりもはるかに優れていたのかもしれない。ジョナサン・コープのオネーギンが実に待望されたのかもしれない。ただ、やはり前々からの疑問も捨てきれない。バレエのあるべき姿とは、いったいどんなものなのか?それを具体的に言うなら?それは絶対的なものと決まっているのか?一体どういう根拠によって?

大体、クーパーの踊りは、本当にバレエとしてクオリティが高くないのか?レベルが低いダンサーが、どうしてここまで話題になるのか?物議を醸すのか?レベルの低いダンサーを、シュトゥットガルト・バレエの芸術監督は、なぜ第1キャストに決めたのか?また、ロイヤル・バレエもなぜゲストとして招聘するのか?クーパーがこれだけけなされているんだから、少しはいいだろう。ヨハン・コボーやジョナサン・コープの無味無臭で没個性な踊りの方が、どうして絶対的に優れているといえるのか。

これは結局、本質的に正統であるというよりは、現在のバレエの世界で正統とみなされているかいないかの違いに過ぎないのではないのか?クーパーのバレエと彼のダンサーとしての在り方は、そんな仮の正統性に当てはまらないから、またバレエの正統性の不安定さを人々に思い起こさせるから、手放しの賞賛と徹底した批判という、両極端な反応を引き起こすのではないか。これは負け惜しみかなあ?

ここ数週間、「オネーギン」に関する新聞のニュースや舞台批評、そしてバレエサイトの掲示板の書き込みばっかり読んできて、すごく憂鬱だった。クーパーへの批判が気にならなくなった、って前回には書いたものの、さすがに彼の踊りがけなされていたり、あるいは不自然に無視されていたりするのを目にすると、彼の立場の複雑さを痛感する。クーパー君、ホントにハードな道を進んでる人だよなあ、と他人事ながら気の毒に思う。もっとも、彼自身は自分のことをかわいそうとは全く思っていないようなので、私が勝手に気の毒に思ってやる必要はないのだが。

現に、「オネーギン」でのクーパー君の踊りは、一部の人々にとっては批判の対象になったが、前に引いたいずれかの批評家が"but who cares?"と述べたように、しかしそれはもはや、単にバレエが上手かヘタかという次元の問題ではなくなっていた。要は、それがアダム・クーパーの「踊り」なのである。

私がクーパーのオネーギンを観て感じたことだが、「名作劇場」や「雑記」に書いたのと重複するけど、批評家や批評的な観客に気に入ってもらえるような踊り方をするつもりは、クーパー君にはもうないみたいだった。クラシック・バレエの理想がどうであろうと、必要な部分以外では、いちいち躍起になってボクは正統的なクラシック・バレエのテクニックをきちんと持っているんですよ!と言い訳がましい「披露」をすることはない。

それはバレエがヘタなんだというより、故意にやっているという感じで、仮に彼はバレエがヘタなんだということにしておいても、そこには少なくとも彼の強い意志みたいなものが感じられたのである。私のファンとしての欲目が入っているのは確かだが、それでもやはり、ただ単に「テクニックがない」という一言で片づけるにはためらわれるような、何か確固としたものがあった。

クーパー君は、オネーギン役の解釈の大部分を原作に拠っていたのではないかと思う。プーシキンの語調は終始オネーギンには批判的である。タチヤーナはオネーギンが田舎を去った後、失恋やレンスキーの死から立ち直れずにいたのだが、オネーギンが置いていった彼の蔵書やそれらに残されていた彼の注記などから、自分が恋した男の本性を徐々に悟り、彼に対して怒りや軽蔑の念を抱くようになる。

バレエ「オネーギン」第三幕で現れたクーパー君のオネーギンは、やつれて疲れきった初老の男であった。若い頃の冷徹さや傲岸不遜さの面影など微塵も残っていない、精彩のない表情をしていた。力ない足どりで椅子を探して座りこみ、踊る人々から背を向けている。グレーミン公爵と踊っているタチヤーナを、舞台の端を左から右へと回り込むように、とぼとぼと歩きながら見つめているクーパーのオネーギンは、背中をまるめ、卑屈で羨ましげな表情をしていた。オネーギンはタチヤーナを愛して彼女に求愛したのではなく、自分が自分自身のせいで失ったものを都合よく取り戻そうとしていたのである。

原作では、今や公爵夫人となったタチヤーナは、自分の足元にひれ伏して求愛するオネーギンに言う。「あのころは、そうじゃありませんか、あんな片田舎で、浮き名の誉れから遠くはなれていたために、あなたは私がお気に召さなかった。・・・・・・それならば、なぜ今は私を追いまわしておられるのです?なぜ私があなたのお心を引きつけるのでしょう?今の私が上流の社交界に顔を出さねばならないから、私がお金持ちで身分が高いから、私の夫が戦争に出て名誉の負傷をしたから、そのために私どもが宮中の覚えがめでたいからじゃありませんか。私がいま不義を犯せば世間じゅうに知れ渡って、それがあなたに社交界で誘惑者の名誉をもたらすからじゃありませんの?」(池田健太郎訳「オネーギン」)

だからクーパーは、一見すると傲慢で自信たっぷりで自由奔放な風の魅力にあふれているものの、その実は浅はかで愚かで気の弱い哀れな男の正体を、そのまま舞台上で徐々に明らかにしていったのだ。第一幕では、クーパーのオネーギンは、何か秘密めいたダークな魅力を漂わせている(だからタチヤーナにも観客にも彼の本質がよく分からない)。しかし第二幕では、徐々にオネーギンの気の弱さや後先考えない軽率さが露わになってきて(それによってタチヤーナ、レンスキー、オリガの関係が破綻していく過程が観客にはよく分かり、ついにタチヤーナもオネーギンに対して怒りを露わにするに至る)、第三幕では、彼が自業自得で失ったものの象徴であるタチヤーナに、愛情を名目に見苦しいまでにしがみつき、彼のそれまでの生き方の自然な帰結として、悲惨な末路をたどる。

クーパー君の最近の踊りは、表面的にはスマートで謙虚(?)だが、その実は頑固なまでに強い自信が感じられる。去年(2003年)行われた、マシュー・ボーン「白鳥の湖」日本公演でのクーパー君の踊りにも、私はおんなじものを感じていた。それは映像版でのクーパー君の踊りとはかなり違っていて、映像版での彼の踊りにみられる、ある種のバランスの悪さ、コンテンポラリーとクラシック・バレエとの折り合いがまだついていないような不安定さが、去年の公演では消え失せていた。

これはおそらく、一部のファンにとっては逆に物足りなく感じられたんではないかと思う。スワン/ストレンジャー役については、クーパーには彼独自の強固な解釈が確立していて、その踊りにはやはり他人が口を挟むことのできないような、彼の強い信念、自信のようなものが常にあった。たとえここではもっとクラシック・バレエっぽく踊ってほしい、と観客の私が個人的に思った部分があっても、彼の踊りは(当たり前だが)変わらなかった。

2002年夏の「オネーギン」でもそうだったのだ。ここはもっと脚を開いて高く飛んで、と観客が期待した部分でも、彼は明らかにできそうなのに、絶対にそうはしなかった。彼はおそらく、ここでは大仰な技を見せる必要はないと判断したのだろう。しかし、また「名作劇場」と重複になるが、音楽に合わせて動きも大きく劇的にする必要があるシーンでの、クーパー君のジャンプはすごかった。私は彼の左脚があそこまで後ろに大きく反りかえるとは思いもしなかった。

マシュー・ボーン「白鳥の湖」1995年の初演前には、スワンについて「王子は父親の愛に飢えていて、それで白鳥が王子の父親的存在になる」などと、「ゲイ・スワン」説に必死に反駁したクーパー君は、2003年には「白鳥は動物だから、動物の気持ちなんて僕には分からないよ」と笑って言えるまでになった。同時にストレンジャーについても、1997年ごろには「彼はすべてを自分の思いどおりに支配しようとし、そのことに対していささかも躊躇しない人間」と説明したが、最近では、ストレンジャーは現実の人間だが、王子の妄想の中ではああいう人物として映っている、と単純明快に言ってのけ、スワンであれストレンジャーであれ、あくまで王子の妄想の中でのキャラクターに過ぎない、と実に分相応な解釈をしてみせた。

このようなクーパーの揺るぎない(あるいはすっかり開き直った)強さは、彼とともにスワン/ストレンジャー役を担当した他のダンサーが、あくまでクーパーといかに差をつけるか、違いを持たせるか、という目的に沿って、自身の踊りを変化させていったことでも明らかとなった。そのダンサーは、自身の「クラシック・バレエ向き」の身体的資質や技術をひたすら強調するという方向に走った。奇しくも、1998年末に行われたボーンの「白鳥の湖」ブロードウェイ公演で、クーパーとともにスワン/ストレンジャー役を担当したアメリカン・バレエ・シアターのダンサーも、ボーンの言によれば、同じような「クーパー対抗策」をとったとみうけられるように。

だがクーパーの踊りは、相手の王子役が誰かによって、それに合わせていくつかのタイプの踊りで対応していた以外には、その基本的な踊り方は最初から最後まで一貫して変わらなかった。自信の有無は踊りにすぐ出るようだ。これは興味深いことである。つい最近、あるテレビ番組で日本人女性のバレエ・ダンサーが踊りを披露し、その後でインタビューに答えていたのを観た。彼女はある全幕バレエ作品から2分くらいのヴァリアシオンを踊ったのだが、彼女が非常に驚異的な身体的資質に恵まれていることはすぐに分かった。

でも、カメラワークがよくなかったせいもあると思うが(爪先が切れていた)、彼女の踊りはなんだか不安定というか、一生懸命というか、焦っているというか、ほら、私はバレエがこんなに上手なんです、どうか見て下さい、分かって下さい、と必死に訴えているようで、観ている方が痛々しく感じるものだった。その後のインタビューでの彼女の表情や言葉から、私は、おそらく彼女は今、精神的に相当まいっている状態なのではないか、と感じた。聞かれてもいないことを必死な口調で一気にしゃべり(それで彼女の抱えている問題が大体予想できた)、司会者がフォローに困っている。精神的に安定しているときの彼女の踊りは、おそらくあんなものではないと思う。

ボーンの「白鳥の湖」映像版が収録された1996年には、クーパーはまだロイヤル・バレエのダンサーだった。当時の彼にとっては、クラシック・バレエがダンスのヒエラルキーの最上位にあっただろう。彼は後になって、ボーンの「白鳥の湖」を踊るためにピカデリー劇場、ロイヤル・バレエで踊るためにロイヤル・オペラ・ハウスと、日替わりで往復していたこの時期には、バレエ・ダンサーとして最も自信を失っており、踊ることをやめるかどうかを考えるまでに、精神的に追いつめられていたと語っている。

でもロイヤル・バレエを退団した後、狭い世界の中で彼を自信喪失にまで追い込んだ、正統的なバレエの「絶対性」の危うさを、彼は客観的に眺められるようになったのかもしれない。逆にロイヤル・バレエを去ってから今まで、クーパーの踊りはどんどんよくなっている。あくまで私が映像版や実際の公演で観た、ごく少ない数の「点」をつなぎ合わせた結果としての感じだけど。2003年12月に行われた、ロイヤル・バレエのミックスド・ビルでのクーパー君も実にすさまじかった。これのどこが「テクニックがない」だあ?「鋭さがない」だあ?「パートナリングが不安定」だあ?と痛快に思った。

さて、話は戻って、2001年11月〜2002年1月にかけて行われた、ロイヤル・バレエ「オネーギン」公演におけるアダム・クーパーについては、批判、称賛、いろんな意見が渦巻いたが、たぶんイギリスで最も権威ある舞踊批評家の1人でさえも、結局はこう総括せざるを得なかった。

「たった3ヶ月前、彼はジョン・クランコの全幕バレエ、『オネーギン』でタイトル・ロールを踊るため、ゲストとしてコヴェント・ガーデンに復帰した。オネーギンは難しい役柄であった。なぜなら、オネーギンはハンサムな悪党で、ひどく魅力的ではあるが、タチヤーナの愛に値しないような人物でなければならないからである。しかしながら、クーパーは悪人を演じる機会を心ゆくまで楽しみ、そして彼の官能的で傲慢なオネーギンは、莫大な成功を得たと判断された。」

(2004年4月24日)

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