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27.放蕩息子の帰還 (3)

遅ればせながら、ロイヤル・バレエ「オネーギン」初演でキャスティングを担当した、シュツットガルト・バレエ(Stuttgart Ballet)芸術監督リード・アンダーソン(Reid Anderson)のインタビューが見つかった。公演初日(2001年11月22日)直前のインタビューである。今日あらためて検索しなおしたらありました。ずっと以前に集めた資料だけで書いていたのだけど、やはりやりなおしてみるものですな(ていうかサボリはいけない)。で、「オネーギン」キャスティングの過程がおおよそ分かった。

キャストとキャストの出演順位を決めたのは、やっぱりロス・ストレットンではなく、このアンダーソンであった。アンダーソンは当初、ロイヤル・バレエのプリンシパルたちの中から、オネーギン、タチヤーナ、レンスキー、オリガら4人の主役を選ぶつもりであった。しかし彼はロイヤル・バレエのダンサーたちのことをよく知らなかったので、ロンドンに何度も足を運んではレッスンでのダンサーたちの様子を観察し、また彼らに「オネーギン」のパ・ド・ドゥの一部分を踊らせてテストした。

だがアンダーソンが合格点を出したプリンシパルは、たった4人(男性、女性各2人)しかいなかった。これは数だけでいえば主要キャスト1組分にしかすぎない。残りの主要キャスト数組をどうするか。そこでアンダーソンは、ソリスト級のダンサー、そしてゲスト・ダンサーへと選考対象の範囲を広げざるを得なかった。それでソリストの大抜擢と、ゲスト・ダンサーの多数出演、というキャスティングになったのである。

ダンサーの序列の違いがあるとはいえ、タチヤーナ役とオリガ役は、すべてがロイヤル・バレエのダンサーだし、初日もプリンシパル2人がタチヤーナとオリガを踊る。しかし、初日のオネーギンとレンスキーはともにゲスト・ダンサーが踊り、しかもロイヤル・バレエのダンサーでオネーギン役を踊るのはわずか2人である。インタビュアーがアンダーソンに質問する。

「これはロイヤル・バレエの男性ダンサーにとって、ひどい侮辱なのではないですか?アンダーソンは答えた。『私はそんなふうにはとらえていない。私は誰にも侮辱など与えたくはない。私はロイヤル・バレエをとても好きだからね。初日の舞台をつとめるにふさわしいタイプは誰かと思案するなら・・・私はアダムがふさわしいだろうと考える。私は彼をゲスト・ダンサーだと思ったことはない。私からすれば、彼はロイヤル・バレエの一員だ。彼はいわゆる放蕩息子のような存在なんだ。』 振付者であるクランコ、彼もまたロイヤル・バレエ・ファミリーの一員だった。しかし、これまたクーパーのように、クランコも他の場所に新しいチャレンジを求めて去ったのである。」

???どういうこと?バレエ「オネーギン」の振付者であるジョン・クランコは南アフリカの出身で、戦前までは彼の地でバレエを学び、またすでに振付にも取り組んでいた。1946年になって、彼はイギリスに渡ってサドラーズ・ウェルズ・バレエ学校でバレエを学びなおし、そしてサドラーズ・ウェルズ・バレエに入団する。彼はダンサーでもあったが、23歳の若さでダンサーを引退し、以後は振付家としてサドラーズ・ウェルズ・バレエ、そして後のロイヤル・バレエで作品を創り続け、また他のカンパニーにも新しい振付作品を次々と提供した。

バレエ「オネーギン」も、クランコは本来、ロイヤル・バレエでマーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフのために提供しようとした作品であった。ところがロイヤル・オペラ・ハウス理事会はその上演を認めなかった。クランコは1961年、シュツットガルト・バレエの芸術監督に就任するためロンドンを後にした。以後1973年に没するまで、彼はシュツットガルト・バレエの芸術監督をつとめ、彼の在任期間中、小さなカンパニーだったシュツットガルト・バレエは、世界的に有名なバレエ団の一つへと大発展を遂げ、同時に優秀なダンサーや振付家を多く輩出し続けた。

クランコ作品の多くが、今や洋の東西を問わず、多くのカンパニーで上演されるメジャーな演目になっているのに対して、なぜかロイヤル・バレエでは、クランコの作品が上演されることは皆無に等しかった。ケネス・マクミランは1970年から77年にかけてロイヤル・バレエの芸術監督をつとめていたが、その在任中の1977年、彼はクランコの「オネーギン」(結局1965年にシュツットガルト・バレエで初演された)をロイヤル・バレエで上演しようとした。しかし舞台装置の問題で実現できず、代わりに「じゃじゃ馬馴らし("Taming of the Shrew")」(1969年)を上演した。

先のインタビュアーは記事の中でこう述べている。「クランコは20世紀における最も有名なバレエ作品のいくつかを作り上げたにもかかわらず、20年以上もの間、クランコの作品がコヴェント・ガーデンで、ロイヤル・バレエによって上演されることはなかった。今シーズンに『オネーギン』を上演する決断を下したことで、ロイヤル・バレエ新芸術監督のロス・ストレットンは、ついにこの無視と放棄の期間を終わらせようとしている。」

実に25年ぶりのクランコ作品の上演となる「オネーギン」上演を決めたのは、オーストラリア人でロイヤル・バレエとはほとんど何の関係もなく、ことあるごとに批評家やロイヤル・バレエ愛好家たちの攻撃にさらされていた新芸術監督、ロス・ストレットンだった。ストレットンはクランコを「イギリスから追放された」と表現したことがある。クランコは、当時は名もないカンパニーだったシュツットガルト・バレエに新天地を求め、そしてロイヤル・バレエは、クランコの作品を意固地なほどに上演しようとしなかった。う〜む、つまりは、クランコは何かの権力闘争に負けてロイヤル・バレエを追い出されたんだな。それで、クランコ作品の上演もずっとタブーになっていたんだろう。

ロイヤル・バレエにとってはよそ者でオーストラリア人の新芸術監督ロス・ストレットンが、ロイヤル・バレエから放逐された南アフリカ出身の振付家、ジョン・クランコの「オネーギン」をロイヤル・バレエのレパートリーに加え、カナダ人でロイヤル・バレエ学校出身ながらも、シュツットガルト・バレエに入団してクランコの指導を受け、今はその芸術監督になっているリード・アンダーソンが、その公演初日の主役を、ロイヤル・バレエに帰属感を感じることができずにそこを飛び出したイギリス人の元プリンシパル、アダム・クーパーに踊らせることを決定した。

・・・・・・そうだったのか。単なる話題づくりや客寄せのためだけじゃなかったのね。象徴でもあったワケだ。「アダム・クーパーはロイヤル・バレエの一員だ」なんて、ロイヤル・バレエの関係者やファンはもちろん、クーパー君自身ですら思ってもいなかっただろうに。このインタビューを見つけることができてよかった。クーパー君よ、あなたの気持ちや立場を理解している人は、バレエ界にもいたんだよ。ああ、なんだか自分のことのようにうれしいわ。

実際、クーパー君は1997年春にロイヤル・バレエを退団した後も、クラシック・バレエと縁を切ったのはほんの一時期に過ぎなかった。退団からわずか数ヵ月後、彼はAMP「白鳥の湖」ロスアンジェルス公演の合間を縫って、ロイヤル・バレエ日本公演の「ロミオとジュリエット」で代役のゲストとしてロミオを踊った。その後もあちこちのバレエ・ガラ公演に参加しているし、スコティッシュ・バレエにも定期的に客演、また小さなバレエ・フェスティバルを自らプロデュースし、ロイヤル・バレエの舞台にも折に触れて姿を現している。彼は事実上、クラシック・バレエとはもちろん、そしてロイヤル・バレエとも常に関係を保っていたといってよい。

ところが、ロイヤル・バレエの「オネーギン」に主演することが決まると、人々はクーパーがバレエの世界に、そしてロイヤル・バレエに「帰ってきた」とみなした。特定のカンパニーに在籍していないフリーランス・ダンサーのキャリアとは、こんなにも人々の注意を引きづらいものなのである。やはりバレエ・ダンサーとしての立場を確立したいなら、そして新聞の芸術欄やバレエ雑誌などに自分の記事を載せてもらいたいなら、特定のバレエ・カンパニーに属するにしくはない。

「オネーギン」初日の直前に行われたインタビューで、クーパーはまずこのように紹介されている。「知名度をワット数で計るなら、アダム・クーパーのそれは3ケタに達することだろう。しかし、ヌレエフやバリシニコフが鉄のカーテンを飛び越えて、バレエの舞台における名声から大衆の意識に入り込んだのに対し、クーパーはロイヤル・オペラ・ハウスの壁を飛び越えて、より広いウエスト・エンドの観客たちの許へと去ったのだった。アドベンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズの男性版『白鳥の湖』によって。そして今、この放蕩息子は再び壁を優雅に飛び越えて、その中に舞い戻ってきたのである。」

この記者は、クーパーの特殊な立場を実に的確に表現している。「彼の華々しさは、必然として非常に曖昧な様相を呈してくる。彼はバレエ界のプリンスなのだろうか?それとも劇場街の大衆芸人か?または顔だけのアイドル?それとも俳優か?彼はまた振付家でもあり、そしてロンドン・スタジオ・センター(London Studio Centre)のバレエ部門では、ボーイズ・クラスの主任教師である。」

「彼は1999年になって初めて、ロイヤル・バレエに客演するために戻ってきたのだが、この年、彼はAMP『白鳥の湖』ブロードウェイ公演によって、トニー賞にノミネートされていたのである。このことは彼を尋常ならざる存在にした。商業演劇の劇場は、二度と古巣に帰ることのない元バレエ・ダンサーたちでいっぱいだ。彼らは概してバレエの世界に戻ることはないし、まして双方の世界を同時にまたいでみせることなどあり得ないのである。」

これによって、クーパーがバレエの世界において、そして商業演劇の世界において、そこに属する大方の人々からどんな風に思われていたのかが分かる。簡単なことである。うさんくさい目で見られていたに違いない。(この状況は現在でも変わっていないだろう。)

しかし、この「放蕩息子」は、自分のあやまちを反省する気は全然なかった。すでにこの時点で、クーパーが翌年(2002年)にミュージカルである"On Your Toes"を振付し、踊りはもちろんセリフも歌もあるジュニア役を担当することは決定していた。記者はその他にも、クーパーがダンス版"Dangerous Liaisons"のプロジェクトを進めていることなどにも触れている。「彼が言うには、彼はいつも他のことをやりたがる類の人間だということである。まだ30歳とはいえ、ひとつの人生でその全部をなし遂げることはできないだろうことを、彼は承知している。」 クーパーは言ったという。「でも、できるだけやってみるつもりだ。絶対に。」

ロイヤル・バレエ改革の意欲に燃える新芸術監督ロス・ストレットンの就任は、保守的なロイヤル・バレエの関係者やファンたちにとって、もともと歓迎されていなかった。そして、イレク・ムハメドフとサラ・ウィルドーが、ストレットンによって強制的に退団させられた。ストレットンはアシュトンやマクミランの作品を極端に減らした上演計画を立て、更に「オネーギン」のキャスティングは混乱し、ロイヤル・バレエの男性ダンサーを二番手に回すという結果になり(これは彼のせいではないが)、それによってストレットンに対する反感と不信感は余計に高まった。そしてアダム・クーパーもそのとばっちりを受け、人々の反発の標的になっていた。

そんな最悪な状況の中で、クーパー君は「オネーギン」初日の公演で主役を踊ることになったのである。それなのに、彼はのほほんと、「ロイヤル・バレエ学校での学生時代に戻ったみたいだ」とか、ロイヤル・バレエが彼をいまだに「学校から上がってきたアダム君」扱いする、とか言って、ケラケラ笑っていたという・・・。

ロイヤル・バレエ初の「オネーギン」公演は、2001年11月末〜2002年1月末にかけて行われた。公演回数は16回、クーパー君は初日を含む5回の公演でタイトル・ロールであるオネーギンを、4回の公演でグレーミン公爵を踊った。

さて、アダム・クーパーのオネーギンは成功したのか?ファンとしてはそれが最も気になるところだ。今となっては、当時の新聞に掲載されたレビューや掲示板への投稿から読み取るしかないのだが、先に言ってしまうと、結局はよく分からない。ロイヤル・バレエの公演についてレビューを掲載したり、感想や意見を投稿したりする人々は、多くがロイヤル・バレエに並々ならぬ愛着を持っている人々である。そうした人々の「オネーギン」に対する見方は、前事情の複雑さによって、通常より以上に感情や先入見に左右されてしまっていた可能性がある。

現にこういうことがあった。クーパー君は2002年7月の「オネーギン」公演でもオネーギンを踊った。私はその公演を観て、「オネーギン」という作品やクーパーのパフォーマンスをとても楽しんだし(詳細は「名作劇場」を見てね)、ロイヤル・オペラ・ハウスの観客たちもクーパーに大喝采を浴びせていた。

それまで私は、ボーンの「白鳥の湖」以外にクーパーを全幕で観たことがなかったため、専ら新聞や雑誌の批評、また掲示板への投稿を読んで、クーパーのバレエについてのイメージを作り上げていた。批評や投稿は概してダンサーには厳しいが、特にクーパーに対しては殊更に手厳しい言い方をしているものが多いので、私はクーパーはバレエがヘタなのだ、といつのまにか思い込んでいた。だから、彼のパフォーマンスが「意外にも」すばらしかったこと、そしてロイヤル・オペラ・ハウスの観客たちが、「意外にも」彼にとても好意的な反応を示したことが嬉しかった。

ところがその後、同じ公演についての新聞のレビューやballet.co掲示板への投稿を読んだら、まず目に飛び込んできたのがクーパーをひどくけなしているもので、それは私が劇場で感じた楽しい雰囲気とあまりにも乖離していた。私はそこでようやく、レビューや投稿の類はあまり真に受けずともよく、とにかく自分が感じたことがいちばん正しいのだ、というふうに思うことにしたのである。それ以来、クーパー君に批判的な記事を読んでも、あんまり気にならなくなった。

さてみなさん覚悟はつきましたか?話の流れとしては、クーパー君はロイヤル・バレエに華々しく主役として復帰しました、観客や批評家もクーパーを大絶賛しました、めでたしめでたし、となればさぞ感動的だろうが、やはりそうはならなかった。だがそれはあくまで、ロイヤル・バレエの公演に通ってレビューを寄稿し原稿料を得て、ロイヤル・バレエの公演を喧々諤々と議論することで、自己実現を果たしている人々の意見を通じて浮かんだイメージによれば、である。

これらの人々は、他のキャストと比較できなかったせいで、初日の時点ではクーパーに文句がつけられなかった。ある批評家のレビューを引用する。「ゲストとしてロイヤル・バレエに帰ってきたアダム・クーパーは、オネーギン役を踊るために生まれてきたようなものだ。舞台照明の魔術の下で、彼の容貌はなんと冷酷な魅力に輝いていたことか。彼の踊りは、時にやや力強さに欠けていたかもしれないが、しかし彼のパートナリングはよく、彼の演技はすばらしかった。オネーギンの物憂げな傲慢さは、まさに詩的な苦悩とつまらない自己陶酔の混合がより合わさっていってこそ、完璧なロマンティックさへと移行を遂げるのである。」

ただ、この批評家は「オネーギン」のキャスト問題に触れたうえで、ジョン・クランコの作品にもケチをつけた。「これら4人のダンサー(チャウ注:クーパー、イーサン・スティーフェル、タマラ・ロホ、アリーナ・コジョカル)はいうなればスペシャル・キャストであって、それが起こした化学反応は、時に彼らの名声の結合が約束したとおりに感動的なものであった。他のキャストにとっては、さほど嬉しくはないことであるが。このバレエは36年前より以上の昔に作られたかのように古くさく、大仰なしぐさや粗けずりで深みのないキャラクター設定は、ダンサーたちを不当にも面白味のないものにみせることになった。『オネーギン』はその崇高な中心的悲劇性によって、ロイヤル・バレエのレパートリーにとどまるだろう。しかし、アシュトンやマクミランによるいくつかの偉大な物語バレエとは違い、ロイヤル・バレエにとっては一級の演目ではない。」

主要キャストが全員ロイヤル・バレエのダンサーで占められる公演が行われると、この批評家は、今度は女性キャストの起用に不満を述べ、更にロイヤル・バレエの男性ダンサーをほめたたえる。「ロイヤル・バレエ初の『オネーギン』公演を監督したリード・アンダーソンが、ロイヤル・バレエで最も若く、また経験の浅いダンサーたちの数人に限って用いたことは、徹底的にひねくれた選択という印象を強く与える。シルヴィ・ギエム、サラ・ウィルドー、ゼナイダ・ヤノウスキーは、みなすばらしいタチヤーナになったことだろうが、しかしそのいずれもアンダーソンのリストには載らなかったのである。」

「オネーギンとして、コボー(チャウ注:Johan Kobborg、ロイヤル・バレエのプリンシパル)には、アダム・クーパーほどのカリスマティックなアクの強さはないものの、しかし彼の踊りの方がはるかにすばらしかった。コジョカルとのデュエットでは、より明瞭なディテールによってオネーギンとタチヤーナの関係が描写されており、同時に彼のオネーギンのソロは、オネーギンの変わりやすい気分のムラを、より正確に計算したものであった。全体的に、コボーとコジョカルは、このやや大げさな物語バレエに昂揚と旋律とをもたらしたのである。」

この批評家の感想は、いささか感情的になったロイヤル・バレエの熱烈なファンの意見を代表しているだろう。似たようなレビューを書いた批評家は他にもいる。面白いのでまた引用しよう。「アダム・クーパーのバイロン(チャウ注:イギリスの貴族で詩人。オネーギンと同様、自分探しの旅に出て各国を放浪した挙句、最後は正義感に駆られてギリシャ独立戦争に参加して戦地で病死した、結局は何をやりたかったのか分からない人)的オネーギンは、タチヤーナが夢の中で彼と踊ったパ・ド・ドゥで、彼女を美しく飛翔させることができなかった。クーパーの容姿は理想的だが、彼のパートナリングは心もとないものであった。」

コイツもやっぱりクランコの振付にケチをつけている。「すべてのキャストの演技と踊りは、初演ではいまだはっきりした形になっていなかった。それはクランコの振付がマクミランほどに一貫した表現性を有していないせいでもある。ソロやアンサンブルはお約束どおりで、まるでオペレッタの音楽みたいである(チャウ注:オペレッタはオペラに比べてなぜか一段低くみられている)。それぞれの踊りが終わると、みんなが大急ぎで登場人物のキャラクターを思い出さなくてはならない。これらの踊りは時代遅れのかたまりであり、ロイヤル・バレエはこうしたものを無理に取り繕うことに慣れていない。」

ところが、キャストが全員ロイヤル・バレエのダンサーたちである公演になった途端、コイツもまた手のひら返したよーにホメまくった。「第2キャストが舞台を席巻してはじめて、ロイヤル・バレエの『オネーギン』は明瞭なものとなった。プーシキンの物語のクランコ版は非常に難しい役柄解釈を課す。彼の振付がそのストーリーを語るに充分なものであると仮定しての話だが。タチヤーナ役のアリーナ・コジョカルとオネーギン役のヨハン・コボーによって、その感情的な、そしてフィジカルな輪郭は正しく読み込まれ、彼らの踊りの明晰さは、彼らの俳優としての個性がなし遂げたのと同様に、それらのキャラクターをはっきりと浮き彫りにしてみせたのである。」

私が読んだ中で、クーパー君のオネーギンについての最もキョーレツな批判はこれである。「ゲストとして召集され、そして相変わらずセクシーなアダム・クーパーは、タマラ・ロホの繊細さに対して、鋭く表出された正反対な質を持ち込んだ。あらゆるジェスチャーにおいて残酷で無表情、恐ろしいほどに自身の圧倒的な魅力に自覚的、彼のオネーギンは最も非現実的な悪人であった。いかなる複雑さも、いかなる葛藤もなく、ただひたすらに悪い、悪い、悪い人物。いったい何が、一人の男性の中に、こんなにも徹底して邪悪で冷笑的な姿勢を形成させたのか、私は不可解に思わざるを得なかったことを認めよう。」 (←それは自分がただ単に人の表情を読めないバカだからじゃないの)

「その完全な一本調子によって、クーパーのオネーギン解釈は、振付者であるクランコの意図、すなわち、一連の奇妙な突発的行動が、単なる邪悪さよりも、むしろ感情的な燃えつきを示唆しているのとは、やや食い違っているように見受けられた(チャウ注:私には食い違っていないように見受けられたが)。しかし、圧倒的な存在感と確固たる信念によって、クーパーはオネーギンをうまくやり遂げた。が、オネーギンが愛の償いをするためにタチヤーナの部屋へと駆け込む、すでに結婚している彼女との最後のデュエットでは、クーパーの過度に筋肉系なパートナリングは、愛のシーンを終始レスリングのようにしてしまった。このパ・ド・ドゥの本質的な感動は、そのせいで表現されていなかった。」

みなさんは今、非常に不愉快な気分になっているかもしれない。実は、ここではわざと批判的な記事ばかりを引いたんです。ごめんなさい。ただ、一部の批評家がどんなに頑張ってクーパーを批判しても、ロイヤル・バレエのダンサーについては口を極めて賞賛しても、私はおそらく、クーパーのオネーギンは少なくとも失敗ではなく、成功したか失敗したかの二分律で片づけるならば、むしろ成功したといってもいいのではないかと思っている。

それは、私がいいと思ったからいいんだもん、という個人的感情を抜きにすると、一つには、クーパーに対する批判のほとんどが曖昧で歯切れが悪い一方、ロイヤル・バレエのダンサーへの称賛は過剰なほどで、なんか排他的な雰囲気が漂っていること、二つには、やはりキャスティング批判とクランコ批判とクーパー批判が繋がって出てきているのは、それがロイヤル・バレエの新体制に対する反感に裏打ちされていることを表している、と思えること、三つには、2002年の夏に行われた「オネーギン」公演で、クーパーが出演する日のチケットの売れ行きだけが異常に好調で(だからオンラインでは一般販売されなかった)、実際の公演でもクーパーは観客の大喝采を浴びていたことによってである。

(2004年3月29日)

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