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BIOGRAPHY

24. テクニックと情感 (3)

サラ・ウィルドーがレパートリーとしていた役の中で、特に彼女の当り役として例示されていることが多いのは、「オンディーヌ(Ondine)」のオンディーヌ、「真夏の夜の夢(The Dream)」(Frederick Ashton振付)のティターニア(Titania)、「マノン(Manon)」(Kenneth MacMillan振付)のマノン、「ラ・フィーユ・マル・ガルデ(La Fille mal gardee)」(Ashton振付)のリーズ(Lise)、「ジゼル(Giselle)」(振付)のジゼル、「コッペリア(Coppelia)」(振付)のスワンヒルダ(Swanhilda)、「ロミオとジュリエット(Romeo And Juliet)」(MacMillan振付)のジュリエットなどである。これから分かるのは、彼女は物語性の特に濃厚な全幕作品に、しかもフレデリック・アシュトンやケネス・マクミランの振付作品で評価を受けていたということである。

ところが、彼女がある作品の主役を踊ったことで、それがバレエ・ファンの論争のきっかけになってしまったことがある。それはみなさんも読んでいるBallet.coの掲示板においてである。最初はウィルドーのその公演での出来がどうだったかを云々していたのが、それからウィルドーのバレエ全般はどうかという論点に移り、果てには踊りとしてのバレエのすばらしさは何なのか、観る側がバレエを鑑賞するときの視点や姿勢はどうあるべきなのか、といった大きな議論に発展した。

論点は微妙に横すべりしても、対立する双方のそれぞれの言い分や意見の応酬のパターンは同じだった。ウィルドーを批判する人々の大半は、彼女の「テクニックの弱さ」を指摘した。それに対して、ウィルドーを擁護する人々は、彼女の表現力や演技、彼女が踊り演ずるそれぞれの登場人物に対して、彼女がそれぞれに適した役作りをして、生き生きと表現してみせる能力のすばらしさを強調した(マシュー・ボーンもウィルドーをこのように評価していた。そしてこれが、ボーンが「シンデレラ」でウィルドーに出演依頼した大きな動機だった)。

議論が白熱してくると、対立する両論の真ん中をとった意見が出始める。たとえば、ウィルドーの「テクニック」は確かに弱いかもしれないが、彼女の踊りは優雅な動きと情感の表現を重んずる“English style”、“English style tradition”のバレエを継承したものであり、それはイギリスのバレエの遺産として評価されなければならない、とする意見、そして、短所のないダンサーなんていないんだから、すべてのダンサーを認めて尊重するべきである、とする意見など。この論争は、バレエにおいて何が注目すべき事項とみなされているのか、という点で非常に興味深い。以下に代表的なものを抜粋して順番どおりに引用する。

「サラ・ウィルドーは最もつまらないリーズであり、非常に不適任であった。彼女は『オンディーヌ』とか『真夏の夜の夢』とかにしがみついていればいいのだ。なんでこんな下らない議論が彼女によって引き起こされるのかは一目瞭然、ロイヤル・バレエは小柄でちまちましたダンサーか、大柄で派手なダンサーしか好まないからだ。」

「私はサラの感動的でそしていたずらっぽい雰囲気のパフォーマンスを楽しんだ。私は時として(まあほとんどの場合)単純な神経の持ち主であり、私にとっては、彼女はリーズを現実味のある人物としていた。」

「ウィルドーはとても魅力的であったと思う。おかげさまで、私も単純で教養がないために、バレエ・テクニックに関するあまりに豊富な知識に凝り固まることなく、彼女のようなパフォーマンスを楽しむことができる。」

「ウィルドーは演技面ではよい出来だった。でも、『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』は、テクニック面で高いものが要求されるので、非常に優れたテクニックを持つ人物によって踊られるべきだ。ウィルドーはマクミラン作品のいくつかにおいてはよい出来だ。とりわけそう高い要求が課されるわけでもないジュリエットは。でも、私は彼女がそれより難しい役を踊っているときに、彼女が悪戦苦闘している様を目にしたことがある。」

「個人的には、なぜウィルドーがプリンシパルになったのか不思議だ。彼女はあんなにも限られたダンス・スタイルしか持っておらず、『白鳥の湖』や『眠れる森の美女』のような古典の大作をこなすことができない。そしてそれは、あんなにも多くの優秀なファースト・ソリストと一緒の『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』で、彼女がリーズをこなすことができなかったことで、彼女自身が証明した。なぜサラ・ウィルドーが昇進したのか、これはまったく間違った選択だ。キャラクター的にもスタミナ的にもさほど強靭なわけでもないのに。彼女はクリスマス・シーズンに上演された『くるみ割り人形(Nutcracker)』のSugar Plumでも悪戦苦闘していた。」

「サラ・ウィルドーがひょっとするとリーズ役には理想的でないかもしれない、という見方には賛成する。彼女のジャンプは強靭でなかったため、彼女が踊ったパ・ド・ドゥにおけるヴァリアシオンのインパクトは弱くなってしまった。しかしながら、彼女はアシュトンの振付にふさわしい情感と、キャラクターの核心を的確に把握できるという、ドラマティックな面での確固とした能力を持っている。・・・サラのオンディーヌやクロエ(“Daphnis and Chloe”、アシュトン振付)は傑出しており、私が思うには、彼女はひょっとすると、現在のロイヤル・バレエにおける、『イングリッシュ・スタイル』バレエの最も優秀な模範だ。それは優美さ、音楽性、自然な演技を強調したバレエである。もしロイヤル・バレエに、プリンシパルとして、サラのようなタイプのダンサーのための場所が存在しないならば、我々が自国のバレエ遺産を正しく遇する能力に、私は危惧をいだくであろう。」

「サラが象徴しているのは、貴重なイングリッシュ・スタイルの伝統が、変化する柔軟性を保ちながら継承されていることと、コリアー(Lesley Collier)やシブレー(Antoinette Sibley)を通じて、フォンテーン(Margot Fonteyn)やその遥か以前にまでさかのぼれるような、身体による高次の表現性とである。我々がこれを失うことは、それ自体が災厄となるだろう。加えて、彼女はたぐいまれな音楽性に満ちたダンサーであり、これは実に得がたい価値あるものである。しかし、多くの人々は、それらの存在にも不在にも気づかないようだ。」

「私が個人的に気づいたことには、ウィルドーはテクニック的には脆弱で、それは彼女の多くの優れた点を見劣りさせてしまっている。私が『コッペリア』で踊る彼女を観たとき、私は彼女をもう二度と観たくない、と思ったものだ。」

「ああ、テクニック、テクニック、テクニック・・・最近耳にすることといえば、この言葉ばっかりだ。テクニックをそんなにご大層なものと決めつけると、テクニックと同じ価値を有する他のすべての要素は、徐々に大事でないようにみえてくる。情感はどうなったのか?・・・『ジゼル』も古典の大作であり、そしてそれは彼女によってすばらしく踊られた、ということを忘れてはならない。」

「フォンテーンだって限られたジャンプ能力しかなかったとかなんとか言われているけど、でもそれは何の影響もなかった。ダンサーのテクニックは目的を達成する手段であるべきで、テクニック自体が目的なのではない。サラ・ウィルドーは美しいイングリッシュ・スタイルを有している。彼女はアメリカのダンサーみたいではないけれど、でもそれは、私にとってはなんでもないことだ。私は『ロミオとジュリエット』でサラのジュリエットを観てすばらしい満足感を覚えた。彼女は私の隣に座っていた観客と私の両方に感動の涙を流させた。これがすべてを物語っていないか?」

「テクニックに関するちょっとした知識をひけらかすことが、そんなに偉いことなのだろうか?私はひたすらすべてを楽しむ。たぶん9割方の観客は、私と同じ楽しみ方を共有していると思う。」

「私は自分を(バレエの)エキスパートだと言うつもりはないけれど、でも私は『素直さ』というか、自分が観るすべての作品やダンサーに対して、より『広い度量』を保つよう努力している。あるパフォーマンスをどのようにして気に入るのかで大きな役割を果たすのは、観る側がどういう姿勢でそれに接するかだと私は信じている。私自身についていえば、ダンサーたちを極度に批判的に観察するのは、彼らが私の好きなダンサーでないか、もしくは私が彼らを偏見で判断しているからだ。一方、自分が好きなダンサーたちであれば、私はほとんど何でも許してしまう。」

「彼女は『白鳥の湖』、『眠りの森の美女』、『ラ・バヤデール(La Bayadere)』を踊ったことがない。彼女のジャンプは平均的で、開脚は認容しがたいレベルだし、彼女のバランスはしばしば頼りない。そして決定的なことには、とりわけ彼女がソロで踊っているとき、彼女が自己の能力の限界ぎりぎりのところで踊っている、という感がいつも漂っている。」

「『認容しがたいレベルの開脚』とは、彼女が『6時』の形に開脚できないとかいうことか?彼女の足先の開きが180度でなく不十分だとか、あるいはより精密な何かのことか?『ジャンプが平均的』とは、これはつまりどういう意味だ?『バランスが頼りない』って、なぜだ?あなたの持論からすればか?誰にとって頼りないのか?彼女自身にとってか?それとも観客にとってか?」

「すべてのダンサーは、いくら優れているとはいえ、みないちじるしい長所と短所とを併せ持っている。絶対に短所のないダンサーなんていない。フォンテーンしかり、ヌレエフしかり。パブロヴァやニジンスキーも完璧ではなかったに違いない。でもこれらのダンサーたちは、バレエとは何か、ということの真髄をつかんでいた。そして、私にとっては、サラ・ウィルドーもそうだ。」

「私はすべてのダンサーを認め、尊敬する。そして、最高位に登りつめたダンサーたちは疑いようもなくすばらしい。私たちがそれぞれに持つ個人的な好みに関わらず。私たちみんなにはお気に入りのダンサーたちがいて、彼らを賞賛する一方、私たちは時として他のダンサーたちを批判することに陥りがちだ。ダンサーたちはそれぞれに異なった長所を有しており、それは他のダンサーたちを中傷することなしに、価値あるものと認められなければならない。」

これらの中で、どの意見や判断が正しいのか、私にはさっぱり分からない。ただ分かったのは、バレエはどうあるべきなのか、という問題について、主にどのような見方が存在するのか、ということと、どの見方もこの問題を解決する決定打には絶対になりえない、ということである。要は正しい結論など最初から存在しない。だから「みんな違ってみんないい」的な結論に落ち着くよりほかない。

私にとっては、サラ・ウィルドーが主役を踊ったことで、これだけの大きな論争が巻き起こったという事実の方が、彼女が大きな影響力を持つ特別なダンサーであることを証明してしまっていると思える。「ウィルドーごときで、なんでこんな大騒ぎを!?」と書いた人もいたが、そう書いた本人が、その後もムキになったかのように、ウィルドーの「テクニックの問題点」を逐一挙げながら書き込みを続けていたのである。

上の引用では削除したが、特にウィルドーを批判する人々は、他の現役ダンサーの名前を挙げ、彼らの方がウィルドーよりもこういう点でずっと優れている、と比較している場合がかなりある。しかし、ウィルドーよりもはるかに優れている例として名前が挙がったダンサーたちの踊りが、これほどの大論争を惹起することはほとんどないのである。

ウィルドーがロイヤルを退団したときも、同じような論争が起こった。このときは、ロス・ストレットンが芸術監督に就任したことによって、ロイヤル・バレエにも「テクニック至上主義時代」が到来し、「イングリッシュ・スタイル」の伝統が失われるのではないかという危機感が高まったこともあり、いっそう「テクニック派」と「情感派」の対立が際立った。

「ロイヤル・バレエにとっては、なんとも悲しむべき損失だ。サラは、ロイヤル・バレエでは、アシュトン作品の解釈の第一人者にまでのぼりつめた若きイギリス人ダンサーだ。」

「ロス・ストレットンさん、どうかロイヤル・バレエを破壊しないで下さい。その伝統を忘れないで下さい。」

「ウィルドーの解雇を支持したい。ウィルドーは舞台上ですばらしい個性を発揮する優秀な女優だ。でも技術的には、彼女はロイヤル・バレエの他のプリンシパルたちの水準にまったく達していなかった。・・・私は常々、ウィルドーはソリストの地位に留まって、マクミラン作品やパンの精(私が観た中で最もすばらしい)に集中していればよいと思っていた。」

「ウィルドーを失うことは実にゆゆしきことだ。アクトレス・ダンサーは貴重であり、ロイヤル・バレエはこのようなアーティストなしには、その遺産であるレパートリーを上演することも、その独特の味わいを保つこともできないのだから。」

「変化するのは恐ろしいことだ。だが、もし我々の誰かがロイヤル・バレエの芸術監督になったなら、やはり変化を生み出そうとするのではないか。・・・すべてのダンサーはすばらしいし、このような場合において、我々が彼らのために、そしてお気に入りのダンサーたちのために感じていることは正しい。しかし、芸術監督というのはカンパニー全体のあり方を、そしてそこで働いているダンサーたちを改良するために雇われるものだ。それを行なっている最中に、ダンサーたちの顔ぶれは、たとえ意義あるものでも変化してはいけないと要求することで、芸術監督に制約を課してはならない。たとえそれがどんなに痛みをともなうものであっても。」

「イギリスはドラマティックなバレエとダンサーたちという長い伝統を持つ。イギリスの人々はダンサー・アクトレスを好むのであって、テクニカルなダンサーを好むのではない。」

「サラ・ウィルドーは昔のヴィック・ウェルズ(チャウ注:Vic Wells Ballet。Sadler’s Wells Balletの前身で、サドラーズ・ウェルズ・バレエが現在のロイヤル・バレエとなる)・スタイル、ロイヤル・バレエの伝統を引き継ぐアクトレス・ダンサーである。彼女を失うことは恐ろしいことだ。バレエに関心のある人々にとっては、その未来は暗いものとなりそうだ。・・・ロイヤル・バレエが、ほとんど聞いたこともないような人物を、オーストラリア・バレエ団から芸術監督として招聘したのには驚いた。」

「正直にいえば、彼女は最近行われたロイヤル・バレエのワシントン公演では、かなり規範から外れているようだった。彼女のテクニックは全然印象的ではなかった。何シーズンか前に観た『真夏の夜の夢』では彼女のティターニアをとても楽しめただけに、私は『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』での彼女のリーズには余計に失望した。今年は、あの鋭いピケでの足の動きは失われかけていて、笑いのタイミングでさえもハズしていた。彼女は少しオーバーウェイトのようにさえみえる。ウィルドーはただ単純にスランプに陥っているのだろうか。それは過去における彼女の姿から思い起こせるものとはほど遠かった。」

「ワシントンで行われたロイヤル・バレエ『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』公演について、2人の批評家がどう考えたか、これで前の書き込みとのバランスをとるのは適切なことだろう。・・・『ウィルドーはアシュトンの振付に完全な造形と真の価値をもたらした。』『ロイヤル・バレエの財産は保たれている。サラ・ウィルドーはリーズの役を演じているというよりは、リーズとして生きていた。ウィルドーは最も音楽性に優れたダンサーだ。彼女は最初のステップから音楽の中にきちんとおさまり、そして旋律の頂点へ向かって流れていきながら、音楽と一体となって踊っている。』」

「このニュースを聞いてとても残念だし悲しい。私はこれがテクニックに秀でたダンサーたちを押し出して、ダンサー・アクターたちを放棄するという芸術監督の方針を指し示しているのではないことを望む。」

「私はいつも、ウィルドーは踊りのスタイルと個性とをあわせもった、最も個性的なダンサーたちの1人だと思っていた。彼女がプリンシパルの資質でないなどと、どうしていえるのか。彼女は非常に印象的な顔立ちをしているダンサーの1人であり、彼女のテクニックが、名前の挙がっている他のダンサーたちほど完璧でないかどうかなんて、私はぜんぜん気がつかなかった。私は驚異的なテクニックで観客の目をくらませるために、公演の間じゅう役柄からはみ出ているようなダンサーは好きではない。」

サラ・ウィルドーの踊りの何が、そんなに彼らの気にかかるのか。それはやはり、彼女の踊りの中に、彼らがついムキになって論争したくなるような、バレエ通のツボにはまる要素があるからだろう。じゃあ、サラ・ウィルドーの踊りはどんな感じ?という方は、「マイヤーリング(Mayerling)」(Kenneth MacMillan振付、Franz Liszt音楽)映像版(パイオニアLDC、PIBC1019)でルイーゼ王女(Princess Louise)を踊っている彼女や、Royal Academy of Dance監修の「マイム事典(MIME MATTERS)」(新書館、DD03-0404)で、スワンヒルダとリーズのマイム・シーンを模範演技している彼女の映像を観てみればすぐ分かる。

「マイヤーリング」では、彼女は第一幕の冒頭、ルドルフ皇太子とシュテファニー王女との結婚記念舞踏会のシーンで、ルドルフ役のイレク・ムハメドフとともに踊っている。「MIME MATTERS」では、「コッペリア」から、スワンヒルダがコッペリウス博士の家に忍びこみ、コッペリアにちょっかいをかけて彼女が人形であることを知るシーン、「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」から、リーズが自分の結婚式や結婚後の生活を想像するシーンを実演している。

彼女が主役を踊っている全幕作品の映像はないけれど、これらの映像だけで、彼女がどういうタイプのダンサーなのかは分かると思うし、上に引いた論争で人々が指しているのがどんなことなのかも察しがつく(だいたい、「MIME MATTERS」で、えらく長いマイム・シーンを2つも担当していること自体、彼女のダンサーとしての特質を示している)。

ウィルドーの踊りの質を理解する一助として、またまたマーゴ・フォンテーンの言葉を引用する。「第二次世界大戦後まで、イギリスには王立バレエ団のようなしっかりしたバレエ団の組織がありませんでしたから、イギリスのバレエ団史を築いたのは個人の力であり、また、ショウ・ビジネスの力でもありました。バレエがショウ・ビジネスの世界で生きるためには、広い客層にアピールするものでなくではなりません。・・・振付家たちも、これまでのバレエを踏襲するより、観客にアピールする劇的要素の多いドラマティック・バレエを創り出すことに努力専念しました。つまり、純粋に踊りのパターンを創るより、ユーモア、ウィットのある筋を考え出し、そしてそれを演じることを舞踊家たちに要求したのです。イギリスのバレエの伝統は、バレエ・スタジオから発展したものであり、それと同時に舞台演劇から引き継がれてもいるのです。」(「バレエの魅力」、湯河京子訳、新書館)

「イギリスがバレエ界に果たしたいちばんの貢献は、現代の三幕物バレエでのイギリスの振付家による作品だということは定評のようであります。そして、そのトップの三大振付家はアシュトン、ジョン・クランコ、ケネス・マクミランなのです。このような全幕ものバレエは、現代の舞台芸術に欠かせない重要なものなのですが、ここで物をいうのが、作品を創る芸術家の人物描写であり、それがしっかりしていてこそ、初めて、ストーリーのある長いバレエが成立するのです。ストーリーとか、人物描写がしっかりしていることは大切なことであり、また、あまりテクニックばかりがバレエで強調されると、舞踊家はテクニックを完成する以前に、年をとり、現役をしりぞかねばならなくなってしまうことにもなりかねないのです。」(同上)

ある舞踊批評家は、サラ・ウィルドーを「ロイヤル・バレエによって生み出された、この数十年の間で最もドラマティックで、感動的で、音楽的で、繊細でそしてコミカルな才能に恵まれたバレリーナ」と表現する一方、こうも述べている。「ストレットンの不満の原因は彼女のテクニック面での能力だった。今や、私が知る限り、誰も彼女をすばらしいクラシカルなダンサーだと言おうとしない。柔らかい脚と弓なりの足を持つ、小柄なエセックス出身のブロンドの女性が、彼女が当初そうなるよう約束されていたはずの、イギリスの最も偉大なバレリーナの1人になるために、自分の弱点を矯正するサポートを得られなかったのは、アンソニー・ダウエルの責任に帰せられるべきであろう。」

「思うに、過去20年間以上にわたって、テクニックに関する致命的な自己満足が、ロイヤル・バレエの機能を汚染していた。イギリス以外の世界は、ロイヤル・バレエのドラマティックなリアリズムとレパートリーとを称える反面、ダーシー・バッセル(Darcey Bussell)を除いては、ロイヤル・バレエのダンサーたちのテクニック面での能力をさほど評価してはいない。・・・私はテクニックに関する強固な指導体制が保持されることを期待する。これは悪いことではない。もしそれが、バレエはひどく辛い努力が要求される神聖な職業であるというよりは単なる趣味に過ぎない、という考えを正すのであれば。」

この批評家は、テクニックの重要性を認める一方で、それでも比類ないテクニックはバレエ鑑賞の初心者には楽しいものだが、2、3回も観ているうちに、観客は情感や想像力、ボディ・ランゲージの知的で洗練された優雅さ、人生の息吹とかを求めるようになる、とかなんとか言っている。

部外者が口を挟むとすると、なんでテクニックにそんなにこだわる必要があるのか、なんで「白鳥の湖」や「眠れる森の美女」や「ラ・バヤデール」を踊らないと優秀なダンサーじゃないのか、なんでイングリッシュ・スタイルとか情感とかは重要だとわざわざ言い訳しなければならないのか、なんで彼女はオーバーウェイトだとか超失礼なことを言うのか、なんでバレエが神聖な職業でないといけないのか、こんなことで言い争いをしていること自体が不思議な気がする。

「テクニック」の定義って何かね?オデット/オディールやオーロラ姫を踊れないといけない?王子役をやらないと「勝ち組」男性ダンサーではない、ていうのと同じくらいバカバカしい基準だ。「情感」はわざわざ他人から価値付けされないといけないものなの?オーバーウェイト?そんなことを問題視する無神経さの方がよっぽど問題なんじゃないかね。「バレエは神聖な職業」・・・あのなー。私はね、「バレエは趣味で好きでやってます」って言う人の方が、はるかに人間として健全だと思うんですけどね。

ウィルドーの踊りについての議論は、イギリスのバレエの伝統が云々という意見に代表される「情感」と、ロイヤル・バレエが立ち遅れているとされている「テクニック」との対立を象徴していた。そしてそれは同時に、「バレエのよさとは何なのか」という、バレエを踊ることや鑑賞することを自己実現の手段としている人々の足元を崩しかねない大きな問題にも繋がっている。

足元を崩しかねない、というのは、バレエはこうあるべき、と彼らがバレエを評価するときに用いている基準や価値観は、本質的には正しくもなければ間違ってもいない、つまり本来的に確固とした何らかの質を有してなどいないことが、彼らには分かっているからである(視覚的な外形、あるいは目に見える表現形式が存在しない、という意味ではなく、その視覚的な外形や表現形式自体に是非や優劣があるわけではない、という意味です)。だからある人は、バレエになんとか科学的な根拠を与えて客観的に確立した存在にしようとし、またある人は、バレエを曰く言い難い至高の精神性を持つ芸術、とみなそうとする。

バレエが、そしてバレエ・ダンサーがどうあるべきかなんて、私はあんまり興味がない。でも、私は意味づけや解釈が大好きだ。その上で作品や登場人物に共感できればもっと嬉しい。そういう点で、サラ・ウィルドーの緻密な演技や、タイミングを見事にとらえた動きの美しさは、モロ私の好きなタイプである。まあいちばんの理由は、彼女がクーパー君の奥さんで、そしてとても優しい感じの人だったからなんだけど。私は「テクニック派」でも「情感派」でもなくって、「人情派」なのよ。

後にアダム・クーパーがロイヤル・バレエで主役を踊ったときにも、同じような議論が巻き起こった。おおざっぱにいえば、上の引用の「ウィルドー」を「クーパー」に変えれば、アダム・クーパーのバレエについての論争とほぼ同じ内容になる(クーパーがジゼルやスワンヒルダやリーズやジュリエットを踊るのかよ、というツッコミは入れないでね。その姿も想像しないでね。オエッ)。ただし、クーパーについては、彼が「イングリッシュ・スタイル・バレエ」の継承者である、といった光栄な意見はみえない。コイツの場合、「クーパーはバレエ・ダンサーといえるのか」という超笑えるテーマで議論されている。つくづく、クーパー君は面白いヤツである。

「イングリッシュ・スタイル」、「ヴィック・ウェルズ・スタイル」、「ロイヤル・バレエの伝統」・・・いろんなふうに表現されたサラ・ウィルドーのバレエは、ロス・ストレットンという、アメリカン・バレエ・シアターで副芸術監督として働き(おそらくこの時期にアメリカ流企業マネジメント術でも習得したのだろう)、オーストラリア・バレエ団で芸術監督として「実績」を上げた新芸術監督からは否定された。

ロス・ストレットンには彼なりの信念があった。それに照らし合わせると、アダム・クーパーだって、ストレットンの方針には適合しなさそうだった。クーパーの場合、ロイヤル・バレエ退団後は「演技はテクニックと同じくらい重要」と公言し(それは自明の理だ、と言いたい人がいるかもしれないけど、でもテクニックの方がはるかに重要視されているのが、バレエ界の現状ではないか?)、実際の踊りでも、大事な見せ場以外では、テクニックをこれみよがしに強調することはほとんどない(強調できるほどテクニックがないという見方もあるが)。

ところが、ストレットンの「ダンサーの好み」からしても、またクーパー君がひどいやり方でロイヤル・バレエを追放されたサラ・ウィルドーの夫だという事情からしても、とても不可解な事態がクーパー君の身の上に起こった。そして、やっぱりまた大騒ぎになったのだった。

(2004年2月22日)

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