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BIOGRAPHY

23. テクニックと情感 (2)

サラ・ウィルドー(Sarah Wildor)は、ロイヤル・バレエの1999年サマー・シーズンで「オンディーヌ(Ondine)」(Frederick Ashton振付、Hans Werner Henze音楽)のタイトル・ロールを踊った。このとき、すでにロイヤルを退団していたクーパー君がオンディーヌの恋人、パレモン役でゲスト出演し、ふたりが再度ロイヤルでの共演を果たしたことは前に書いたとおりである。

そのときに書きそびれたのでここで記しておきたい。バレエ「オンディーヌ」は、マーゴ・フォンテーン(Margot Fonteyn)とマイケル・サムズ(Michael Somes)が踊った全幕の映像(たぶん)が残されている。これは1959年に映画用に撮影されたもので、製作・監督はパウル・ツィンナー(Paul Czinner)、バレエ監督はニネット・ド・ヴァロワ(Ninette De Valois)である。だからほぼ初演時(1958年10月)に近い映像であるといってよい。

私が観たのは日本で販売されているビデオで、題名は「ローヤルバレエ」(発売元:東北新社、VZ‐982)である。ローヤル。ローヤル・ゼリーみたい。サウンドトラックのCDも発売されている。私が買ったのもやはり日本で販売されたもの(ユニバーサル・ミュージック、UCCG‐1104/5)で、演奏はロンドン・シンフォニエッタ(London Sinfonietta)、指揮はオリヴァー・ナッセン(Oliver Knussen)による。

フォンテーンが踊ってこその名作といわれた「オンディーヌ」の再演で、サラ・ウィルドーのオンディーヌは大好評を博した。彼女はこの成功によって、正式にプリンシパルに昇格した。

2001年9月半ばにロイヤル・バレエの新芸術監督に就任したロス・ストレットンは、就任のわずか2週間後、有無を言わせない強硬な手段でイレク・ムハメドフを解雇した。その翌日の9月25日、ロイヤル・バレエは、サラ・ウィルドーがロイヤル・バレエを退団すると発表した。連日の騒動で、マスコミはもちろん、ロイヤル・バレエのダンサーの間にも衝撃が走った。

なぜウィルドーが退団することになったのか、その詳細は公にされなかった。ただ、ウィルドーとストレットンが直に話し合いをした後に、彼女の退団が決定したらしい、ということが漏れ伝わってきた。ロイヤル・バレエは彼女の「声明」を発表した。曰く、「私は自分のキャリアにおいてある段階に達した。私はアーティストとして、方向転換することが自分のためになると感じている。私はロイヤル・バレエでのすばらしいキャリアに楽しく取り組んできたが、今は新しい挑戦に臨みたいと思う。」

いろんな噂が駆けめぐった。ウィルドーは、ストレットンから与えられた新シーズンでの自分の役に失望したのだ、彼女に割り当てられたのは、彼女がそれまで踊っていたプリンシパルの役ではなく、格下のソリストの役ばかりであった、と。ロイヤル・バレエ側は、ウィルドーとストレットンの間には何の対立もなかったが、彼女に与えられた役についてはコメントできない、と言うだけであった。ウィルドーも沈黙を守った。

クーパーもそれらの噂の中に巻き込まれた。ウィルドーが退団を決意したのは、クーパーが自分の振り付けた全幕バレエ“Liasons”に彼女を出演させたいがために、彼女をそそのかしたのではないか、というものである。

退団が発表された4日後、ウィルドーはインタビューに応じた。しかし、彼女の口から出てくるのは、曖昧で抑制された表現の言葉がほとんどであった。ロイヤル・バレエの説明を敷衍するかのように、彼女はくりかえした。ストレットンとの間には、罵りあいも、嫌がらせも、大ゲンカもなかった。「私は争いが嫌いです。そんなことをするには、私はあまりにイギリス的すぎる人間ですから。」

彼女はストレットンを非難するようなことは一言も口にしなかった。自分がわがままなのだ、あくまで自分が決めたことだ、と強調した。しかし、彼女は慎重な言い回しで、彼女の退団をめぐって囁かれている噂が、真実であることを認める発言もしている。「私はロイヤル・バレエと、ロイヤル・バレエで上演される演目を愛しています。でもその愛情を後悔に、ひょっとしたら恨みにさえ変貌させてしまう危険に自分がさらされている、と感じたのです。」

「周知のとおり、新しい芸術的な方向の下では変化がつきものです。私にとっては、それは危機を意味していました。私はこれから数ヶ月、自分がどういう思いをするだろうかと自問自答しました。そして私は、私が数週間後に感じていることは、おそらく悪化することはあっても、それ以外の変化は生じないだろう、と悟ったのです。」

そのカンパニーを出ることは、そのカンパニーで自分がレパートリーとしていた役柄を踊る機会を失うことだった。クーパー君がロイヤルを退団したときと同じである。特に彼女は、ロイヤルの特色とされているアシュトンやケネス・マクミラン(Kenneth MacMillan)の作品を得意としていた。「退団することで、これらの作品を踊る機会を失ってしまうことは分かっています。もちろん、分かっています。」

「でも、それは私が選択しなければならない道でした。これはとても話しにくいことです・・・なぜなら、私は野心的で、踊ることを大いに必要としています。かといって、私は自分が欲しいものを、他人を蹴散らしてまで手に入れようとは思いません。」 この言葉は、他のダンサーから役を奪うような真似はしたくない、という意味である。これは、彼女に割り振られた、新シーズンにおける主役としての役柄や出演回数が、極端に少なかったことを示している。

しかし、ウィルドーの夫であるアダム・クーパーが、自分の振付作品のために彼女をそそのかしてロイヤルを退団させたのではないか、という噂については、彼女は「アダムは私をそそのかすけど、それは自分の仕事を頼みたいからじゃないわ」と一笑に付したという。

退団してからおよそ半年が経過した2002年春、ウィルドーはようやく退団の詳細を明かした。噂はやはり本当だった。彼女に提示された、彼女の新シーズンでの役には、プリンシパルが務めるべき主役が含まれていなかった。また、ロイヤル・バレエが発表した彼女の「声明」は、ロイヤルの管理部門によって予め作成されていたものだったことも、彼女は明らかにした。 「もし私が(ロイヤル・バレエに)留まり続けるなら、私は醜い、イヤな人間になってしまう。それで、留まって不平不満を言う代わりに、・・・私は考えた。物事を自分に良い方向にコントロールできるのは、私自身しかいないのだ、と。だから私は立ち向かうことにした。そして、退団を申し入れた。」

ウィルドーがロイヤルを退団した当時、クーパーもこのことについては、まるで他人事のように、婉曲にこう答えただけだった。「つまりは、新シーズンが成功を目ざして向かっていこうとしている道においては、彼女の機会は恵まれたものではない、と彼女はみなしたのではないでしょうか。」

後でウィルドーが明かしたことには、当然のことだろうけど、クーパー君はやっぱりずいぶんと彼女のことを心配していた。「辞めるという決断を下すにあたって、アダムはとても助けになってくれたわ。彼はこうしろ、ああしろというのではなく、私自身の選択を最優先してくれたの。」 クーパー君自身は言う。「むずかしい問題だった。僕は外の世界を知っているから、そのほうが解放され、自由になれると信じていた。でも、それを彼女に先に伝えたのでは、彼女自身の選択にはならないからね。サラに唯一いったのは、『僕はいつでもそばにいるからね』ということ。」 ああ、そーですかっ。(←ひさしぶりのフレーズ) でも、彼女にとっては、これは最も心強い助言だったと思う。

ウィルドーもクーパーと同じように、フリーランスのダンサーになる、という道を選ばざるを得なかった。フリーランスのリスクを身にしみて知っているクーパー君は、彼女からその決意を打ち明けられたときにはさすがに心配したという。「でも、よく話し合った結果、彼女はロイヤル・バレエを出た方が、より幸せになれるだろうことは明らかだった。」

退団してからの半年間を、彼女は「80パーセントはワクワクし、20パーセントはビクビクしていた」と表現した。しかし、彼女はクーパーが1997年にロイヤルを退団したときのことを引き合いに出し、「アダムがロイヤル・バレエを去ったとき、彼はしばらくの間うちひしがれていた。でも、彼が組織を去ることで、彼の身の上に起きた変化はとてもすばらしいもので、それは目を見張るほどだった。思えば、(ロイヤル・バレエにいた頃は)私はあの組織に属していることが、狭い視野しか持てないけど安全であることが、心地よかった。今は、私は安全という概念について違った考えを持っている」と冷静に振り返った。ウィルドーの発言を読むたびに思うんだけど、彼女、すごく頭のいい人だね。

それでもクーパー君は、ストレットンがウィルドーを退団に追い込んだやり方には、実は非常に怒っていたらしい。ウィルドーが自分の退団について、上記の「そして、退団を申し入れた」というセリフを言ったところで、クーパーがいきなりその話題に割って入った。彼はウィルドー自身が答えるよりも先に、「そして、ストレットンはそれを承諾した」と言ったのである。ウィルドーが記者に退団の経緯を説明している間、彼は徐々に怒りがわいてきて、たまらず口出ししてしまったんでしょう。クーパー君は人に話をしたがるタイプというよりは、人の話を黙って聞くタイプだと思うので、これはよっぽど感情が昂ぶってのことだと思う。

皮肉なことに、ウィルドーが退団した直後、クーパー君はロイヤル・バレエの「オネーギン」公演に出演するため、まるで彼女と交代するかのようにロイヤル・オペラ・ハウスに足を踏み入れることになった。そのとき彼は「奇妙な感じがした」という。

ウィルドーは、彼女が退団を申し入れたときのストレットンの反応を、簡単にこう描写した。「彼は待ってました、とばかりに承諾した。」 イレク・ムハメドフのときと同じである。ウィルドーが自ら申し出た退団とはいえ、それは実質的な解雇だった。ストレットンは、プリンシパルなのに主役を与えないという方法で、ウィルドーが自分から退団を申し出るのを最初から狙っていた。仕事を与えないで辱しめ、いたたまれなさに自分から退職願を出すように仕向ける、という企業みたいなリストラ方法である。

私は冷徹な合理主義者ではない。だからシンプルな感想を述べたい。ストレットンのやり方は非常にセコく、そしてなによりも卑劣きわまりない。薄っぺらい形だけの「合理主義」のモノマネなんぞするな。・・・勧善懲悪的な結末として述べるのも、たまにはいいかもしれない。ストレットンは、就任後1年も経っていない2002年夏、今度は自分がロイヤル・バレエの芸術監督を「辞職」した。彼の当初の契約期間は3年あったはずだった。したがって、これはもちろん実質的な解任であり、今度は自分が一方的にクビにされたのであった。因果応報。

ただ、ストレットンがとったこの情け容赦ないやり口は、ワザとだったんではないかと思える。ストレットンは、ウィルドーが言ったように、彼なりの「新しい芸術的方向」を目ざそうとしていた。彼は「ロイヤル・バレエを復活させることが必要だ。新たな刺激が加えられなければならない」、「新しい芸術監督が入っていくことで、ダンサーたちの闘志を燃え上がらせることができるかもしれないし、新しい振付家が入っていくことが、彼らにやる気を出させるかもしれない」と就任前から公言し、その具体的な方針や内容も明らかにしていた。

まず、レパートリーの刷新である。ストレットンは、ロイヤル・バレエのレパートリーに、イリ・キリアン(Jiri Kylian)、モーリス・ベジャール(Maurice Bejart)、ナチョ・ドゥアト(Nacho Duato)、アンジュラン・プレルジョカージュ(Angelin Preljocaj)など、現代のヨーロッパの有名振付家たちの作品を積極的に取り入れるつもりであった。

ストレットンは、アシュトンやマクミラン作品も尊重する、と言った。しかし彼は、自分はロイヤル・バレエのことをよく知らない、と認めた上で、「ロイヤル・バレエは、バレエ団の中心に極めて近い位置にいる人々によって育まれてきたのだろう。私には、こうあるべきと当然のごとく期待されているような、いかなる先入見もなしに、バレエ団に必要なものを冷静に判断することができる」と言ってのけた。

それに加えて、ストレットンは自分からは言わなかったが、彼の「バレエ団を蘇生させる方法」には、もうひとつの重要な特色があった。団員の回転を速くすること、つまり、どんどんクビにして、どんどん入団させる、という方法である。オーストラリア・バレエ団芸術監督時代、ストレットンがクビにした主役級ダンサーの最高記録は、最初の1年間で22人、というものであったらしい。ギネス・ブックに申請すれば載るんじゃないか。

これによって、ストレットンが芸術監督になればどんなことになるのか、大体は予想がついた。アシュトンやマクミランの作品があまり上演されなくなり、ロイヤル・バレエの伝統的特色がないがしろにされるのではないかという不安、そしてストレットンから必要ないと判断されたダンサーたちが、リストラされるのではないかという不安が高まった。ウィルドーも、ストレットンが就任すれば、自分の立場が危ういことになるかもしれないことは承知していた。彼女は2000年春のインタビューで答えている。

「ダウエルの退任は私に変化をもたらすかもしれない。でもできることといえば、ありのままの自分でいることと、ベストな状態の自分でいることしかない。もしそこにとって好ましくないと判断されれば、そこを引き払うことになる。私はロス・ストレットンとは挨拶しかしたことがないから、彼がどんなふうにするつもりなのか、見当もつかない。・・・1人でやっていくのは、とにかく勇気のいることだと思う。私は自分がアダムと同じくらいの勇敢さを持っているかどうか分からない。それは難しいことよ。」

ストレットンとしては、ロイヤル・バレエとはまったく関係がなかった自分が、芸術監督としてロイヤルに入ることの分の悪さを、前もってよく承知していたに違いない。彼には、自分がロイヤル・バレエ内部の人々、観客、批評家、ひいてはイギリスのバレエ界から歓迎されていない、ということが最初から分かっており(後にあのマシュー・ボーンですらストレットンを非難した)、それだけに自分の支配力を強固にするためのパフォーマンスが必要だったのだと思う。

それが、ダウエル時代のロイヤル・バレエを象徴する、そして彼の方針に合わないダンサーたちを、内外に大きなショックを与えるような方法で追放することだったのだろう。素朴なパワー幻想がもたらした悲劇、なのかもしれない。巻き込まれたダンサーたちと、そしてストレットンとの双方にとって。

ロス・ストレットンがサラ・ウィルドーを退団に追い込んだことは、確かに大きなショック効果をもたらした。なぜかというと、サラ・ウィルドーは、夫であるアダム・クーパーに負けず劣らず、バレエをめぐる白熱した議論の的となってきたダンサーだった。彼女は、古き良きロイヤル・バレエの伝統を象徴すると同時に、「イングリッシュ・スタイル」のバレエの伝統を象徴する存在だったのである。彼女の退団は、再燃を繰り返しては解決することがなかった議論、すなわちバレエとはテクニックなのか情感なのか、というスケールの大きな議論を、再び引き起こすことになった。

(2004年2月7日)

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