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BIOGRAPHY

22. テクニックと情感 (1)

2001年秋、アダム・クーパーは、London Coliseumで行われる、イレク・ムハメドフ(Irek Mukhamedov)主催のバレエ・ガラに参加することになった。9月に入ると、そのリハーサルがロイヤル・オペラ・ハウスで本格的に始まった。公演日は9月30日。このガラは、障害を持つ子どもたちのためのチャリティー公演であった。クーパー君は、自分がロイヤルであまりパッとしなかったのは、ムハメドフをはじめとした外国人ダンサーの存在が影響していたから、と恨みがましく言っていた。そのくせ、当のムハメドフの誘いに応じてガラ公演に参加し、“On Your Toes”では、今度は自分がムハメドフに出演依頼したのだから、なんかヘンな人たちである。外人はあんまり後を引かないんだろうか。

参加予定のダンサーは、もちろんムハメドフ、そしてロイヤル・バレエからMara Galiazzi、吉田都、Tamara Rojo、Martin Harvey、佐々木洋平、イングリッシュ・ナショナル・バレエ(English National Ballet)からDaria Klimentova、Yat Sen Chang、ポーランド・ナショナル・バレエ(Polish National Ballet)からSlavomir Wozniak、ボリショイ・バレエ(Bolshoi Ballet)からAlexander Vetrov、キーロフ・バレエ(Kirov Ballet)からアルティナイ・アスィルムラトヴァ(Altynai Asylmuratova)、そしてロイヤル・バレエの元プリンシパルであるアダム・クーパーとヴィヴィアナ・デュランテ(Viviana Durante)と、東西にまたがった、実に多彩な顔ぶれとなった。

この他、子どもたちのためのチャリティー公演とあって、公演にはイングリッシュ・ナショナル・バレエ・スクール、アーツ・エデュケイショナル・スクール(Arts Educational School)の学生たちも多数参加することになっていた。アーツ・エデュケイショナル・スクールは、もちろんクーパー君の出身校である。ムハメドフの娘も当時この学校に在籍していて(Sashaちゃんという名前らしい)、彼女もこのガラに参加し、父親との「共演」を果たすことになった。てことは、ムハメドフの娘は、クーパー君の学校の後輩ということになる。彼女も今はロイヤル・バレエ・スクールで学んでいるのかな。ムハメドフの奥さんはMashaさんといい、ボリショイ・バレエの元ソリストだそうである。

当初、クーパー君はこのガラで、吉田都と“Daphnis and Chloe”(振付:Frederick Ashton、音楽:Maurice Ravel)を、ガリアッツィと“Fearful Symmetries”(振付:Ashley Page、音楽:John Adams)を踊る予定であった。

ところが、公演の12日前になって大きな問題が生じた。出演予定だったボリショイ・バレエのダンサー2人が参加できなくなってしまったのである。この2人は“Spartacus”(音楽:Aram Il’yich Khachaturian)から、クラッスス(Crassus)とイギーナ(Aegina)のパ・ド・ドゥを踊ることになっていた。

バレエ「スパルタクス」の主なヴァージョンには3種あり、1つ目が1956年にキーロフで初演されたヤコブソン(Leonid Jacobson)版、2つ目が1958年にボリショイで初演されたモイセーエフ(Igor Moiseyev)版、3つ目が1968年に同じくボリショイで初演されたグリゴローヴィチ(Yuri Grigorovich)版である。これらの中では、最後のグリゴローヴィチ版が最も定着しているらしい。いずれも旧ソ連時代に製作されたものであり、ムハメドフや新聞の言及から察するに、旧ソ連の、そして今はロシアのバレエ団しか上演できないような、かなり特殊な作品であるようだ。従って、ボリショイ・バレエのダンサーが参加不可能となり、このパ・ド・ドゥを上演するのは非常に困難な局面になった。

しかしムハメドフはこの演目の上演をあきらめなかった。「それでも、私は『スパルタクス』のこの踊りを(演目の中に)残しておきたい。なぜなら、私は観客たちに、私はボリショイ出身者なのだ、ということを思い出してもらえるようなものを見せなければならないからだ。だから、ボリショイのレパートリーである作品からの演目を置くことは重要なのだ。」 なんかムハメドフだと、「私は」とか「・・・なのだ」とか、カタい日本語で訳したくなる。クーパー君だと、「僕は」とか「・・・なんだよ〜ん」とか訳したくなる(ちなみにもし熊川君だったら、「まあ・・・かな(笑)」とか「まあ・・・だろうね(笑)」とかになる)。

それでムハメドフはどうしたか。「我々は『スパルタクス』を残す。しかし、(予定とは)異なるダンサーたちが踊ることになる。おそらく観客たちは、アダム・クーパーがこの作品でクラッススを踊ることを知って満足することだろう。」

なんとムハメドフ、公演12日前になって、イギリスやアメリカ人振付家の作品を主なレパートリーとするクーパー君に、いきなり超ソ連で激ボリショイな作品を踊るよう勧めたのである。それでいーのかムハさんよ。ムハメドフによれば、「アダムはクラッススを踊ることを快諾した。この役は彼にとって新しいものだったからだ。クラッススの役はアダムにふさわしいと私は思うし、さぞすばらしいものになるだろう。」

「スパルタクス」は、古代ローマ時代が舞台である。冷酷無慈悲なローマ人の将軍クラッススの圧制に対し、奴隷の1人であるスパルタクスが、仲間の奴隷たちを率いて武力蜂起し抵抗する、というお話。主人公はもちろんスパルタクスで、とーぜん被搾取者、つまり正義を象徴している。対するクラッススは悪役で、イギーナは奸智にたけた娼婦でクラッススの愛人役。つまりクラッススは、日本の時代劇でいえば悪代官とか悪勘定奉行の役だと思えばよい。

ムハメドフがクーパー君に踊らせたのは、もちろんグリゴローヴィチ版「スパルタクス」である。グリゴローヴィチ版の映像を観る限り、クラッススの方がスパルタクスよりもかなりオイシイ役だと思う。私が観た映像版は、クラッススをMaris Liepaが踊っている。とにかくすごいハンサム。踊りは無論のこと演技もすばらしい。なにしろ目が完全にイッちゃってる。鬼気迫る堂に入った悪役ぶりだ。なるほど、確かにキャラはクーパー君にピッタリだと思う(踊りはどうか知らないが)。「トスカ」でのスカルピア、「メフィストーフェレ」でのメフィストーフェレのように、主役に完全に取って代わりそうな脇役である。

クーパー君は「ダフニスとクロエ」を降り(Stuart Cassidyが急遽その代わりを務めることになった)、またイギーナはタマラ・ロホが踊ることになった。「スパルタクス」の踊りを指導できるバレエ・マスターは、もちろんムハメドフしかいなかった。公演まで2週間もない中で、ムハメドフは超特急でクーパーに「スパルタクス」の踊りを教えた。えらく困難な踊りなのか、公演1週間前になっても、リハーサルでの踊りはまだ十全な出来というにはほど遠かったようだ。振付を覚えるのが速く、よく覚えてない振付でも何とかその場でしのぐことができるクーパー君でさえ、しこたま苦労したらしい。

ボリショイ・バレエの映像版からすると、クーパー君とロホが踊ることになった、クラッススとイギーナのパ・ド・ドゥとは、たぶん第二幕の終わりのほう、世界征服の夢に燃えるクラッススとイギーナの踊りだと思う。新聞が書いているように、振付がエロティックだし、クーパーとロホの「スパルタクス」リハーサル写真で、ふたりがとっているポーズと似ている振りがあるから。でも、こんな言い方はなんだが、これほどの踊りを、クーパー君がホントに踊れたのか?ステップもムーヴメントもリフトも、超絶技巧の息もつかせぬ連続技で、しかも踊っている時間が長い。すげえなソ連。

ムハメドフはそれでも好意的にこう書いている。「アダムはとても勇敢だ。私は挑戦をいとわないダンサーが好きだ。なぜなら私もどんな挑戦もいとわないから。私はリスクを背負うのが好きだ。『スパルタクス』は、イギリス流どころか、ヨーロッパ流の振付でさえないことは承知している。これは実際、ソヴィエトの共産主義者流の振付だ。振付を体に覚えさせるのは簡単だ。でも、努力したのに見合う好反応は得られないだろう。みなはすぐにボリショイ・バレエと比較してしまうだろうから。アダムとタマラ・ロホがこの作品を一緒に踊ることになっているが、私が彼らに求めたのは以下のことだった。」

「彼らは(ボリショイの)真似をする必要はない。彼らは絶対に物真似はできないだろう。彼らが真の意味で再現することができる、(ボリショイ・バレエとは)異なるスタイルで、彼らは彼らの踊りを完成させなければならない。これはまったく興味深いことだ。イギリスのダンサーたちが、このようなことをする能力をいかに秘めているかを、実際に目睹するというのは。彼らはとにかく、すばらしく踊ることだろう。・・・私たちはすでにリハーサルをしたし、一緒にビデオを観た。まだ完全に解決はしていないが、私たちはこの週のあいだ、もっとリハーサルを重ねるつもりだ。」

「スパルタクス」をイギリスのダンサーが踊る、というのは、このガラ公演のちょっとした話題となった。なんでも、アダム・クーパーとタマラ・ロホは、「ボリショイ・バレエのレパートリーの王冠にある宝石ともいうべき『スパルタクス』を踊る、最初のイギリスのダンサーたち」だったそうだ。ムハメドフはまたインタビューに答えて言う。「イギリス人ダンサーでクラッススを踊るにふさわしい人物がいるとしたら、それはアダムだ。彼はこの役が必要とするドラマティックな、また身体的な力をすべて兼ね備えている。」

とはいえ、公演の日が迫っても、まだトラブルは続いた。衣裳の問題である。ムハメドフは「スパルタクス」の衣裳をボリショイ劇場からレンタルすることにしたのだが、「ロシアのお役所仕事」のせいで手続きが間に合わなかった。そこでムハメドフは、ボリショイ劇場の衣裳部門で働いている友人に頼み、「スパルタクス」の衣裳をこっそり送ってもらえるよう手配した。「それらの衣裳がアダムとタマラのサイズに合うことを祈るのみだ。」

「スパルタクス」の衣裳のサイズは、クーパーとロホになんとか合ったようである。ムハメドフの所謂「まったくもってソヴィエトの共産主義者スタイルの振付」である「スパルタクス」には、この作品が元来好きではなかったらしい批評家でさえも、いちおうは好意的な反応をみせた。「最も強烈な光景はグリゴローヴィチ振付の『スパルタクス』であった。ムハメドフがボリショイ・バレエで活躍していた頃の、かつての彼を象徴するバレエである。しかしここでは、悪役の将軍クラッススと、彼の愛人イギーナとの、ドラマティックな、もしかすると大仰に過ぎるパ・ド・ドゥが踊られた。」

「参加が予定されていたというボリショイ・バレエのダンサーたちが来なかったおかげで、我々は、派手な仰々しさを威厳に置き換えてみせたアダム・クーパーと、優美なジゼルを踊った後に、ぞくぞくするほど官能的な濡れ場において名女優ぶりを発揮した、イギーナを踊った変化自在のタマラ・ロホという、恵まれた光景を目にした。悪趣味なバレエがこのようにすばらしく踊られたとき、それは非常に鑑賞に堪えうるものとなる。」

このムハメドフのバレエ・ガラは、結果として、ただ単に20世紀の偉大なダンサーの一人が企画・組織し、世界各国から多くの有名ダンサーたちを集めて多様な演目を上演した、というのとはまた別の意味で、より大きな注目を集めることになった。

なぜなら、ガラ公演まで1週間を切った頃、貸衣装のサイズが合うかどうか、という問題なんぞとは比べものにならない、はるかに大きなトラブルが、ムハメドフの身の上に降りかかっていたからである。ロイヤル・バレエ2001‐2002年シーズンの到来に先立ち、ロイヤル・バレエ側は、これ以上イレク・ムハメドフとの契約継続をする意志はない旨をムハメドフ自身に伝えた。

ムハメドフは1990年にボリショイ・バレエを去って英国ロイヤル・バレエに移籍した。彼は1998年にロイヤル・バレエを「退団」したが、それは最上位ではあるが、一般の団員であることには変わりのないPrincipalから、“Principal Guest Artist”という、それよりも一段上の身分に上がっただけだった。これはシルヴィ・ギエムと同格の身分であり、今までどおりロイヤル・バレエの舞台に一定頻度で(主役として)出演することが約束され、また一方では自分の裁量で、自由に他のカンパニーと仕事をしたりすることもできる立場であった。

だから1998年以降も、ムハメドフがロイヤル・バレエの「顔」であることに変わりはなかった。今まで以上に特別待遇になっただけである。当時、アダム・クーパーがロイヤルの舞台に立つと、クーパーが客演した、と観客は認識し、新聞もそう書いた。しかしムハメドフが出演しても、ムハメドフがロイヤルに「客演」した、と思った観客はほとんどいなかっただろう。だいたい、ムハメドフのロイヤルでの肩書きが変わったことに気づいた観客などいたのだろうか?シルヴィ・ギエムについても同じで、感覚的にギエムをロイヤル・バレエの団員としてとらえている観客は多いことだろう。

よってロイヤル・バレエが、イレク・ムハメドフとの契約更新を拒否したことは、これはムハメドフに対する事実上の解雇通告だった。

10数年に渡ってロイヤル・バレエの芸術監督を務めたアンソニー・ダウエル(Anthony Dowell)は、2000−2001年シーズンをもって退任した。ダウエルに代わって新たに芸術監督に任命されたのは、オーストラリア人のロス・ストレットン(Ross Stretton)であった。ムハメドフの解雇はストレットンによって決定されたことだったが、そのやり方は非常識、というよりは陰険とも受けとられかねないものだった。ムハメドフの許にメッセンジャーが現れ、彼にただこう告げたのである。「あなたはもう必要とされていない」と。

クーパー君がロイヤルを退団したときでさえ、それは当時の芸術監督であったダウエルと、クーパー君自身が話し合いをした上で決めたことだったという。しかし、今回のムハメドフの場合は一方的な通告であった。更に、前の公演シーズンが終了して、新しいシーズンはまだ始まっていなかった。よってムハメドフには、ロイヤル・バレエで引退公演をする機会も与えられなかった。「優秀な芸術家であり、かつ巨大な人気を誇るパフォーマーを扱うにしては無礼なやり口だ」と新聞は非難した。

ムハメドフはマスコミのインタビューに即刻応じた。「(ガラ公演では)ロンドンの私のファンの人々にさよならを言いたい。なぜなら、ロイヤル・バレエで彼らに感謝を伝える機会が与えられなかったから。私がロンドンで踊ることは二度とないだろう。」 記者によれば、ムハメドフは辛い心中を露わにしようとはせず、静かな威厳ある態度を終始崩さなかった。でも、「もうロンドンでは踊らない」というこの言葉は、明らかにかなり怒っている。

「過去3年間、私は公演の都度、これが最後の出演になるかもしれない、と覚悟を決めていた。でも、こんなやり方でそれを聞くことになって、大いに失望した。私は、自分が少しはロイヤル・バレエの役に立ってきたかもしれない、と思っていた。しかし結局は、私は何ほどの存在でもなかったようだ。私はまるで役立たずのように蹴り出されたのだから。」

ロイヤル・バレエ側は弁解するかのように説明した。ロス・ストレットンは、ムハメドフへの通知方法におけるいかなる非礼も遺憾に感ずるものである。ストレットンは、ムハメドフと話し合うためにロイヤルの上位スタッフ2人を派遣した。ゲスト・アーティストとしては、ムハメドフはバレエ団の一般の団員と同じような立場を占めることはない(注:恒常的な出演はもうできない)。しかしながら、ストレットンはムハメドフに対して大きな尊敬の念を抱いており、将来的にはムハメドフと再び仕事をすることを視野に入れていないわけではない(注:ひょっとしたらいつかは出演依頼をすることもあるかもしれない)、と。まわりくどいんだよイギリス人。

ムハメドフが解雇された理由として、まず思いつきやすいのは、彼の年齢である。ムハメドフは1960年生まれで、このとき41歳であった。男性ダンサーのキャリアは、女性ダンサーのそれよりも短いらしい。体力的な負担が女性ダンサーよりも大きいからだそうだ。男性は女性よりも体が硬い上に、技術的には女性ダンサーに比してよりダイナミックでパワフルな動きが求められ、また最も大きいのは、女性ダンサーのサポートやリフトで体に大きな荷重がかかることであるという。サポートやリフトがなければ、男性ダンサーの負担がかなり減ることになり、ダンサー生命も延びるのではないか、とどこかで読んだことがある。

パリ・オペラ座バレエ団(Paris Opera Ballet)などはダンサーに定年制を導入しており、女性エトワールであっても40歳で退団しなければならないらしい。40歳というのは、バレエ・ダンサーにとって、キャリアの区切りとなる一つの目安であるようだ。つまり、年齢による体力的な、また技術的な衰えが、ストレットンがムハメドフを解雇した最も大きな理由である、というわけである。

他には、2000年末、すでにロス・ストレットンが次期芸術監督に決定していたにも関わらず、ムハメドフはロイヤル・バレエの芸術監督に就任したいという意向を公然と示したため、これがストレットンとの関係に悪く影響したのではないか、という見方もある。真偽のほどは定かでない。後になってクーパー君が明かしたことには、彼にもロイヤルの芸術監督に立候補しないか、と誘った人々がいたらしい。クーパー君は「今は踊ることを優先させたいし、自分の作品を作ったりする自由がほしいから」という理由で断ったそうだ。ひょっとしたら、ムハメドフにもそういう誘いをかけた人々がいて、ムハメドフはそれに乗ってしまったのかもしれない。

ストレットンは、ロイヤル・バレエの芸術監督に就任するまでは、オーストラリア・バレエ団の(Australian Ballet)の芸術監督であった。彼にはオーストラリア・バレエ団での芸術監督在任時代、バレエ人気を若い客層にまで広めることに成功した、という実績があった。ロイヤル・バレエを経営するロイヤル・オペラ・ハウスの会長と理事会が、ストレットンを新しい芸術監督に選任したのは、この点が大きかったといわれている。彼らがストレットンに期待したのは、「明らかにあまりにも過去にとらわれ過ぎているように見受けられるバレエ団に、新鮮なアイディアを取り入れてくれるであろう」ことであった。

ストレットンもロイヤル・バレエを次のようにみなしていた。「ロイヤル・バレエを生き返らせることが必要だ。ロイヤル・バレエには力があるのに、まだまだおとなしすぎる。新たな刺激が与えられなければならない。」 彼は「ロイヤル・バレエはオーストラリア・バレエ団とは非常に異なるカンパニーだ。私は同じ方法でロイヤル・バレエにアプローチすることはできない」と言いながらも、「オーストラリア・バレエ団は歴史の浅いカンパニーだが、ダンサーたちは冒険心に富み、恐れを知らず、好んで限界ぎりぎりまで挑戦したがる。オーストラリアのバレエを急速に進歩せしめているのは、この点だ」と述べた。つまり、現在のロイヤル・バレエはそうでないという意味である。

また、ストレットンがロイヤル・バレエの次期芸術監督に選出されたのは、2000年3月のことである。彼が任命された経緯については、その当初からある噂がつきまとっていた。彼がロイヤル・オペラ・ハウスの主席理事、そしてロイヤル・バレエ学校最高幹部との人的なコネクションを持っていた、という背景である。もしムハメドフが立候補したのなら、ロイヤル・オペラ・ハウス側がバレエ団の新芸術監督に期待していたこと、また政治的な人脈からいって、ムハメドフがストレットンに勝利できる可能性は、最初から薄かったといえる。

クーパー君は2001年春頃に行われたあるインタビューの中で、「一つのカンパニーで踊って、すぐ次のカンパニーに行くということをやっていると、カンパニーの政治性に巻き込まれずに済むから気楽。バレエはこの政治性のためにずいぶん悪くなっているところがあると思うので、僕はそういういざこざの中に入らないことが快適なんです」と語っている。クーパー君が頭に思い浮かべていたであろう、「政治性のために悪くなっている」カンパニーの中には、間違いなくロイヤル・バレエも入っていたんじゃなかろうか。

クーパー君は芸術監督立候補の話を持ちかけられたとき、たぶんそこに強い「政治性」を感じたのだろう。ロイヤル・オペラ・ハウスの理事会が、どういう基準でバレエ団の新芸術監督の候補者を絞り、またストレットンはどういう方針でロイヤル・バレエを経営するつもりなのか、ということは、大体は予想がついたことのようだ。なぜなら、ロス・ストレットンが新芸術監督に決定する前後、往年のロイヤル・バレエの名ダンサーや、ロイヤル・バレエ愛好家の批評家たちが、新聞を通じて自分の意見や主張を展開する、という形で牽制をかけ始めたからである。

彼らのメッセージは共通していた。「ロイヤル・バレエの伝統を守れ」である。水面下での動きはもっと激しかったことだろう。クーパー君はロイヤル・バレエでは「負け組」プリンシパルだっただけに、このテの話に乗る危険を敏感に察知したのだと思う。ある集団の利益の保持を代表する存在に祭り上げられてしまうのは、非常に危ないことだ。敗北したら身を滅ぼす可能性が高い。ダンサーとしての人気と政治力とは、また別々のことなのだから。ずっと強い立場にあって負け知らずできた人は、自分の影響力や人望の有効性を過大に評価してしまうときがある。踊りは実力勝負の世界かもしれないが、人事はそうとは限らない。

またムハメドフが立候補しなかったとしても、ダンサーとしてのイレク・ムハメドフの存在そのものが、ロイヤル・オペラ・ハウス会長が述べた、ロイヤル・バレエがとらわれ過ぎているという「過去」の象徴に他ならなかった。

ムハメドフほどのダンサーでも、41歳という年齢で、ロイヤル・バレエでの仕事を失ってしまったら、それはダンサーとしてのキャリアが終わった、とみなされやすかった。1997年、まだ26歳のクーパー君がロイヤルを退団したとき、バレエ・ダンサーとしてのアダム・クーパーは終わった、と扱われたのと同じで、特定のカンパニーに所属していないことは、特にバレエ・ダンサーにとっては致命的なダメージだった。

しかしムハメドフはダンサーを辞めるつもりはなかった。「踊れるうちは踊る。若いダンサーたちができないような、とても多くのことが私にはまだできる。それに私は振付を意欲的に行なっている。私はできるだけ長く振付と踊ることの両方に取り組みたい。」 実際、ムハメドフは現在(2004年)もダンサーを引退していない。この春にはロイヤル・バレエにもゲスト出演する(ロイヤル・バレエの芸術監督をめぐる騒動の顛末は後述)。

こうして、ムハメドフが組織するバレエ・ガラ公演には、ムハメドフのさよなら公演という意味も付け加わった。「私は人々に、私がやってきたことを思い起こしてもらいたい。また私が最も得意としたことを人々に見せたい。そして同時に、観客たちにありがとうと言いたい。」

ムハメドフは気丈にガラ公演のリハーサルを進めていった。ロイヤル・オペラ・ハウスで。すごいタフな精神力である。ところがガラ公演4日前の9月26日になって、再びショッキングなニュースがマスコミ中を駆けめぐった。ムハメドフに引き続き、今度はサラ・ウィルドーのロイヤル・バレエ退団が発表されたのである。

(2004年1月31日)

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