Club Pelican

BIOGRAPHY

16.凄絶なる調和 (2)

ボーンとAMPの「カー・マン」に出演しなかったことについて、クーパー君は「スケジュールが合わなかったから」と説明する。それが本当かどうかは知るよしもないが、この「カー・マン」は、クーパー君が出演しなかったという事実が、非常に納得できる内容の作品になった。むしろ出演していたなら、ちょっとマズかったんじゃないかと思えるくらい。

ボーンが当初からこの「カー・マン」に、こうした効果、つまりAMPからバレエ・ダンサーを一掃する効果を、期待していたのかどうかはわからない。ある新聞には、ボーンはクーパーの出演を念頭において「カー・マン」の脚本を書いたのだが、クーパーが報酬に不満で出演を辞退してしまった、とか書いてある。もしこの話が本当なら、ある意味、逃した魚は大きかった、かもしれない。でも彼がバレエの世界との関わりを保っていたい、という希望を持っていたのなら、これは結果的には正しい判断になった、と私は思う。いずれにせよ、ボーンの作品への、AMPへの恒常的な参加がなくなったこの99年夏から、アダム・クーパーにとっては、本当の意味でフリーランス・ダンサーとしての、大きなリスクと隣り合わせのキャリアが始まったのである。

やはりダンサーは、どこかのカンパニーに所属してなんぼ、というところがあるのは否めない。個人の力量だけで成功を勝ち取り、名声を維持していくのは、実に大変なことだろうと思う。○○バレエ団、もしくは△△ダンスカンパニーの誰それ、というほうが、舞台で目にする機会は圧倒的に多いし、ファンだって応援しやすい。そのチームを離れると、とたんにファンがいなくなるどころか、なぜか敵意さえ持たれてしまう、というのは、野球やサッカーなどと同様に、バレエ・ダンサーにもいえることだ。

2001年秋、あるダンサーが、ロイヤル・バレエにプリンシパルとして移籍することになった。ロイヤル・バレエのファンも批評家も、揃ってそのダンサーを熱烈歓迎した。ところが、そのダンサーは正式に移籍して半年も経たない2002年の秋、突如として退団を発表した。途端に、一部の人々は手のひらを返したように、そのダンサーが「演技が下手」だの「テクニカルでない」だの、「印象が薄い」だの「特に秀でている点がない」だのと、ひどい悪口を言い始めた。クーパー君についてだって、ロイヤルを退団したことで、またAMPに参加しなくなったことで、彼への興味がなくなってしまったとか、また、彼を見下すようになってしまったとかいう人は必ずいるだろう。仕方のないことではあるのだけど。

私がバレエを観るようになってから、身にしみて感じるようになったのは、バレエでは、特定ダンサーのファンでしかない、ということは、好ましからざることなのである。私は、アダム・クーパー以外の部分では、バレエやダンスに全く興味がない。でも、他のダンサーや作品と比べない限り、クーパー君の踊りはこうです、とか、ボーンの作品にはこういう特徴があります、とか、このサイトでエラソーなことがいえないので、しかたなく他のダンサーや作品を観ている。で、特にバレエっていうのは、一人のダンサーばかりでなく、バレエ全般に対する興味と知識、そして深い理解とを持つ、ということが強く求められる。私みたいに、ひたすらアダム様ひとすじよっ、というイタイファンは、「にわかファン」とか「ミーハー」の烙印を押されてしまうんである。

ところが、特定カンパニーのファンであることは、特定ダンサーのファンであることよりも、はるかに受け入れられやすい(それでもやはり幅広い関心と知識、鑑賞経験は必要とされるが)。ある組織や集団を応援することでもたらされる仮の帰属感が、非常に頼もしい感覚であるのに加え、私たちはそのカンパニーに、何らかの正義、たとえば由緒正しい伝統、芸術的な正統性、あるいは真に芸術的な道徳性、といった正義を託す。マシュー・ボーンやAMP(現在ではNew Adventures)には、芸術的な正義ばかりか、人道的な理想まで寄託する人々が多いようである。

マシュー・ボーン自身は、自分はこの作品にこういうメッセージをこめた、などとは絶対に口にしないし、そうした質問に答えることを拒否する。しかし、人々はとかく、マシュー・ボーンに「万人に普遍の」、「偏見のない」、「自由で開かれた」、「言葉の壁を越えた」、「差別のない」、「弱者に優しい」、「平等で公平」、「金もうけ目的でない」などといったイメージを寄せる。そうなると、「アダム・クーパーばかりが不当に目立っている」とか(←しょうがないじゃん)、AMPのプロデューサーであるカザリン・ドレは「興行収益優先の商業主義者」だから、彼女のプロダクションが行なう公演(つまり現在のAMPの公演)について、「ボーンが関与しているのならボイコットはしない」とかいった考え方になりやすい。

ロイヤル・バレエばかりか、マシュー・ボーンとも距離をとることになったクーパー君の立場は、実に難しいものになった。彼は今度こそマジで根無し草になった。マシュー・ボーンの所謂「コンテンポラリー、バレエ、コマーシャルという三大ダンス派閥」のいずれにも属さない、中途半端な立場になっちゃったのだ。これは彼の強みでもあるし、また弱みでもある。私はこういうさすらいのダンサー人生を頑張っている彼が好きだが、でもやっぱり、機会があるなら、彼はどこかのカンパニーなり組織なりに、正式に籍を置いた方が、つまり自分の立場をはっきりさせた方がいいんではないかと思っている。その方がたぶんずっと楽になると思う。なにも一人で「パフォーマーとしての新しいあり方」を体現しなくてもいいよ。一人でやるにはしんどすぎるから。

クーパーの去就については、スコティッシュ・バレエ、もしくはノーザン・バレエ・シアター(Northern Ballet Theatre)の芸術監督に着任するのでは、などという噂がささやかれた。実際にそういう話があったことを、クーパー君は後年になって認めている(なんとロイヤル・バレエの芸術監督に立候補しないかという誘いもあったという。笑止千万)。

しかし、彼はこうした誘いには乗らなかった。理由はおそらく、現役ダンサーであるうちは、やはりダンサーとしての仕事に専念したかったのと、あと、組織内部での人間関係のごたごたに巻き込まれるのを避けたのだろう。スコティッシュ・バレエやロイヤル・バレエなどは特に顕著だが、芸術監督の選任というのは、ただカンパニーの芸術的な方向を決定する、という意味だけでなく、組織内での人事抗争としての意味をも持っている。

大体、人が二人いれば、どっちが上でどっちが下かの競争が始まるものだが、政党から幼稚園にいたるまで、人がたくさん集まれば、内部にいくつかの派閥ができて、それぞれが決定的な権力を掌握(笑)しようと躍起になる。で、頭のいい人々は、自分は対立の矢面に立つことなく、誰かを神輿に担いで、その人を抗争の当事者にしてしまう。勝てばおすそわけに与れるし、負けても自分は不利益をこうむらない、というわけである。くわばらくわばら。大体、20代の若造に芸術監督なんて話を持ち込むほうがおかしい。クーパー君がこんなヤバイ話に乗らなかったのは、本当によかった。

クーパー君は、ロイヤル・バレエにダンサーとして復帰したいという希望はあったが、でも現実的な問題としては、そんなことが実現するとは期待していなかった。ロイヤルを退団して一年以上が経過した、1998年7月に行なわれたインタビューで、ロイヤル・バレエにゲスト出演する気はあるのかと問われ、彼はこう答えた。「ぜひそうしたい。もしロイヤル側がそうした依頼をしてきたなら。でも、そんなことは起こりえないだろう。彼らはおそらく、一般の団員としてなら、僕を呼び戻してもいいけど、僕をゲスト・ダンサーとして受け入れる意志はないと思う。」彼は、ロイヤル・バレエにとって、自分はわざわざゲストとして呼ぶほどの価値はないダンサーだと言っているのだ。

AMPに参加した3年間で、彼はロイヤルに所属していた7年半とは比べようもないほどの、高い評価と名声とを手にしていた。それでも彼は依然として、ロイヤル・バレエに対しては、不可解なほどぎこちない、時に反抗的といってもいいほどの皮肉な言動をとり、そしてバレエ・ダンサーとしての自分に対しては、卑屈といってもいいほどの低い評価しか与えようとしなかった。マシュー・ボーンの「白鳥の湖」も「シンデレラ」も、彼に心底からの自信や自尊心などをもたらしはしなかったのだろうか?この徹底した劣等感はいったいなんだろう。「でも」彼は付け加える。「ぜひ戻りたい。僕はロイヤルからの依頼が来るのを、ひたすら待っている。」

彼はバレエ・ダンサーとしての自分に自信が持てなかったが、でも同時に、バレエを捨てることもできなかった。劣等感の反動としての反発、敵意、軽蔑、無視、嘲笑、放棄、傲慢などは、よくある反応だ。そうした方が、気持ち的にはいっそのことラクなのだ。ありのままに辛い気分を味わうよりは、はるかにマシだ。ところがクーパー君は、バレエに対する劣等感も、そして憧憬の気持ちも隠そうとはしなかった。たとえロイヤル・バレエからの「離反者」、または「造反者」呼ばわりされようとも。この人は強い人間だと私が思うのは、こういうところである。

一時的に本拠地を失ったロイヤル・バレエは、ロンドンやイギリス各地の劇場をツアーするという形で公演を続けていた。1999年7月10日、ロイヤル・バレエはロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場で、トリプル・ビル公演を行なう。最後の演目であるアシュレイ・ペイジ(Ashley Page)振り付けの“Fearful Symmetries”が始まったとき、観客たちは驚いた。ほの暗い舞台に黒い衣装で跳びだしてきたのは、2年前にロイヤルを去ったアダム・クーパーだったのである。「イレク・ムハメドフのために振付けられた“Fearful Symmetries”の中心的役柄は、常にこの一人のスターの独壇場となりがちであった。この舞台の最後に出演するゲストとして、ロイヤル・バレエに帰ってきたアダム・クーパーが、この役を請け負うまでは。」

このときのクーパーの踊りは、迫力に満ちたすさまじいものだったらしい。「ムハメドフのダークな輝きに匹敵するのは、不可能なことなのかもしれない。しかしクーパーは、彼独自の魅力的な踊りのスタイルを創出していた。イギリス的上品さを持つ人間が、粗野で卑しい男へと変貌を遂げ、それによってこの作品は、彼の思うがままに、鋭い閃光を迸らせ続けた。パートナーとして、クーパーは技術的に臨機縦横、かつ貪欲さをみなぎらせ、才気に満ちた、官能的な悦楽を発散させるサラ・ウィルドーとともに、彼はこの作品の中心をなす長いデュエットに、肉体的な官能性と、危険な魅力とをもたらしたのである。」

そうだったのか。“Fearful Symmetries”が、クーパー君が踊ってすばらしかった作品なのなら、音楽を消せば「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド」と区別がつかない、なんて悪口を言うのはもうやめます。

(2003年1月10日)

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