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BIOGRAPHY

15.凄絶なる調和 (1)

1998年10−12月のAMP「白鳥の湖」ブロードウェイ公演に引き続き、1999年春、今度は「シンデレラ」が、ロスアンジェルス公演を行なうことになった。1997年9月−1998年1月のウエスト・エンド公演版は、ボーン本人が率先して認めて言うことには、説明不足な箇所の多い未完成作であり、またおそらくはこのことが、興行的な面にも影響したため、このロス公演に際して、「シンデレラ」には大きな再編作業と改訂とが施されることになった。

マシュー・ボーンは、この「シンデレラ」再編の過程について、特に強調して次のように述べている。「僕たちは、この仕事をしていく中で、自分たちが最も大事にしていた原点に立ち戻ることができた。改訂作業の全過程には、同じ仲間としての親密な感情が、よりはるかに満ち溢れていたし、ダンサーたちはこの作業を楽しみ、それに誇りを持つことができた。」

「シンデレラ」ウエスト・エンド公演で、第一キャストのパイロットを踊ったアダム・クーパーは、この「シンデレラ」ロス公演にも参加することになった。彼としては、ウエスト・エンド公演で共演を果たしたサラ・ウィルドーの参加も希望していた。このため、彼女はロイヤル・バレエに4ヶ月間の休団を申請した。

クーパー君が、AMP「白鳥の湖」ロス公演のために休団を申し入れたとき、ロイヤル側はこれを許可しなかった。彼はロイヤルかAMPか、どちらか一方を選ばなくてはならなくなり、リスクは高いが成功する確率も高いAMPを選択し、リスクは低いがキャリアアップの可能性も低いロイヤル・バレエを去った。しかし、ウィルドーの今回の休団申請については、ロイヤル・バレエはこれを受け入れ、彼女はロス公演に参加できることになった。

ロイヤルが了承したとはいえ、ウィルドーもこれを機会に、ロイヤルを退団するのではないかという噂が出回った。1997−99年にかけてのおよそ2年間は、ロイヤル・バレエにとっては困難の多い時期であったという。ロイヤル・オペラ・ハウスの財政難(この莫大な負債を少しでも埋めるため、チケット代が異常に高く設定されている、と聞いたことがある)が原因で、ロイヤル・バレエも公演規模を縮小せざるを得なくなり、従来の演目を再演するばかりで、レパートリーの開拓や新作の上演を控えるという状況に陥っていた。

演目が固定化してしまっていたため、とりわけ男性ダンサーたちの間で、かつてクーパー君が抱えていたようなフラストレーション、つまり自分に与えられる役が固定化し、新しいことにチャレンジする機会が得られない、という不満がいっそう高まった。それに加え、バレエ団の規模も縮小されることになり、人員削減(ここではダンサーのリストラ)が行なわれ、更には老朽化したロイヤル・オペラ・ハウスを改築するため、ロイヤル・バレエは本拠地である劇場を一時的に失なうことになったのである(この辺の事情は熊川哲也君の自伝に詳しい)。98年には、男性プリンシパル・ダンサーが一挙に5人も退団するという事態にまで至り、ロイヤル・バレエの前途に対する不安はいよいよ強まっていた。

そうしたタイミングと、夫のクーパーが退団していたこととによって、サラ・ウィルドーもロイヤルを去るのでは、などという噂がたったのだろう。しかし彼女は98年末のインタビューで、AMPロス公演への参加は、ロイヤル・バレエからの退団を意味するものではない、と否定した。

1999年4−6月、AMPはロスアンジェルスにおいて、「シンデレラ」改訂版の上演を行なった。今回の公演は9週間、およそ2ヶ月にわたるものであった。前回のウエスト・エンド公演とは違い(初演をウエスト・エンドで行なったこと自体が誤りだった、とボーンは最近語った)、綿密な改訂作業と周到な準備とを経て再演された「シンデレラ」は、「ロスアンジェルスで、(ウエスト・エンドよりも)はるかに大きなヒット作となりうることを証明してみせた。」

ボーンもこう語る。「『シンデレラ』ロス公演は、僕たちにとって、とても幸福な経験となった。ダンサーたちは、まさに自分たち自身のために、ショウを心から愛しはじめていたし、自分たちが置かれていた環境を心底楽しんでもいた。そして、公演が始まるやいなや、ダンサーたちは、自分たちがそこで本当に受け入れられている、と感じていた。」逆にいえば、ピカデリー劇場ではそうではなかった、ということだ。「シンデレラ」ウエスト・エンド公演までの過程を追ったテレビ・ドキュメンタリーで、準備時間が足りない、とボーンが語っていたこと、初演を目前にしたダンサーたちの、あのナーバスな雰囲気は、ただ単に初演前には当たり前にある緊張、というだけではなかったのかもしれない。

クーパー君が「白鳥の湖」ロス公演の際に経験したのと同じく、サラ・ウィルドーにも、ハリウッドからの誘いの声がかかった。またもや「キャスティング・ディレクター」なる人々が、ウィルドーに目をつけたのである。だが彼女もこれらの話をすべて断った。彼女にとって、AMP「シンデレラ」への参加は、「二度と起こりそうもない、珍しいことの一つであり、それをやる機会が訪れたのなら、是が非でもやるべきことの一つ」であったし、そしてそれは「狭い視野しか持たない、ということにならないために、必要なときには、自分の翼を広げられるようでありたい」からであった。彼女は、ロイヤル・バレエをより深く愛していた。

ウィルドーの以下のような言葉は、彼女の人柄が窺われるものであると同時に、クーパー君がハリウッドに対して、実際のところは、どういう印象を持っていたのか、という点でも興味深い。「ハリウッドというところは、なんていうのか、世界の果てなの。そこに住んでいる人々にとっては、ハリウッドがすべてで、ハリウッドが世界を動かしている。でも本当はそうじゃないのよ。ほとんどの時間は、ひたすら仕事で忙しいあまりに、そうした幻想のすべてを信じこんでしまう。でも休みの日になると、私たち二人は、街から逃げだして、人のいない静かな砂漠へと出かけたものだった。」

「シンデレラ」ロス公演が終了した1999年6月初旬、クーパー君とウィルドーは、連れ立ってニューヨークを訪れ、トニー賞の授賞式に参加した。クーパー君は、AMP「白鳥の湖」ブロードウェイ公演でのパフォーマンスが高く評価され、ミュージカル部門のベスト・アクターにノミネートされていた。ウィルドーは「私は彼の妻として参加した」と、自嘲気味に語ったという。この女は気が強いな。でもダンサー同士の夫婦っていうのは、やっぱり多かれ少なかれ、キャリアの面でライバル意識があるんだろうなあ。「(授賞式は)とても面白かった。リムジン、真紅の絨毯。私たちはゴールデイ・ホーンとカート・ラッセルの真後ろについて入場した。私はすっかり舞い上がっていたけれど、アダムは完全に落ち着いていた。」

AMPとクーパー君との「蜜月」は、そろそろ終わりを告げようとしていた。この頃すでに、クーパー個人への熱狂的人気をめぐって、AMP内で「ある種の緊張」が生じていたという。AMPは、「無意識のうちに舞台を盗んで我がものとしてしまう、バレエ界からの魅力的なよそ者たちに、観客の注意が集中してしまう危険性」を、非常に警戒するようになっていた。AMPとは「一個の総体であり、とりわけ、マシュー・ボーンの才能を発現するための媒介物」(カザリン・ドレ)なのだから。

これはまた、表面的には専属ダンサーを持たないAMPの、そのシステム上のスキを突いたようなことを、クーパー君が結果としてやってのけたことも、あるいは関係しているのかもしれない。彼はAMPの公演に参加したことで自分に支払われる報酬について、AMPの干渉を一切受けないような、「特殊な形態の」契約を結んだ。

通常はどういう仕組みで報酬の支払いがおこなわれるのか、私は詳しくないのだが、要はこういうことらしい。つまり彼はAMPとではなく、AMPの作品を上演する各劇場と一時的な契約を結び、その報酬がAMPを通さず直接に自分に支払われるようにしたのである。そしてそれは、AMPが早い段階で補助金を打ち切られてしまったアーツ・カウンシル(イギリスの文化・芸術関係のお役所。個人芸術家や芸術団体への資金援助や助成を行なう)の、経済的なバックアップによってなされたものだった。

AMPは国家の援助が受けられなかったために、いわゆる「商業的な」戦略をとらざるを得なかった、という側面があると私は思う。スコティッシュ・バレエがつぶれかけたのは、アーツ・カウンシルからの助成を一時的に打ち切られたからであり、ロイヤル・バレエが殿様商売をやっていられるのは、アーツ・カウンシルに年間予算の多くを助成してもらっているからである。

AMPが国の援助なしで予算をやりくりしているときに、クーパー君は、自分だけ国からの援助が受けられるようにした。AMPの中には、不満に思う人もいたかもしれない。なにぶんお金に関するなまぐさい話だけに、これ以上のことは全然わからない。でも私はクーパー君のファンだから、彼のやることはなんでも支持する。それにダンサーに対して、報酬面では作品とか公演ごとの一時的な契約しか結ばないくせに、道義面ではカンパニーへの絶対的忠誠を要求するなんて、ちょっと都合がよすぎる考えだと思うし。

この当時、マシュー・ボーンがロイヤル・バレエのために作品を振り付け、その作品は2000年春に上演される、という噂も出回っていた。こうした話があったのは確かで、ロイヤル・バレエ側は、ボーンにクルト・ヴァイルの「七つの大罪(“The seven deadly sins”)」の振り付けを提案した。ボーンは、アイディアや音楽自体は気に入ったものの、脚本がよくない(「各罪悪の描写が不明瞭」)、また音楽が「ロイヤル・オペラ・ハウスには不向きである」という理由で躊躇していた。ヴァイルの「七つの大罪」(1933年、パリで初演された)は、「歌付きバレエ(“Ballet with song”)」という付記がなされているのだから、ボーンの後者の言い分は少し理解しにくい。この計画はいまだに実現していない。たぶん立ち消えになったんだろう。

また、この99年の6月の時点で、ボーンとAMPの中核メンバーたちは、新作の準備に取り掛かり始めていた。今度の新作は「カルメン」に着想を得た作品(実際には「カルメン」とは似ても似つかないストーリーになった)で、「カー・マン(Car Man)」という題名である。この作品はビゼーの音楽を採用することになってはいたが、舞台は小さな自動車修理工場で、ボーンはこれを「粗野でセクシーでリアルな」作品にするつもりであった。2000年8月に初演されたこの作品には、アダム・クーパーは最初から参加していなかった。

(2003年1月10日)

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