Club Pelican

BIOGRAPHY

1. 学生時代とローザンヌ・コンクール

アダム・クーパー(Adam Cooper)は、1971年7月22日、ロンドンに生まれた。お父さんはピアノの先生、また合唱指揮者、お母さんはケース・ワーカーで、サイモン(Simon)という年子の兄ちゃんがいる。アダム君がダンスを始めたのは5歳の時で、お父さんに連れられ、兄ちゃんと一緒に、あるダンス学校の一般公開日に見学に行ったのがきっかけらしい。二人はタップ・ダンスにとりわけ興味を持ち(きっとガキだから、飛び跳ねるのが好きなんだよな)、週末のクラスに通い出したが、まもなくそれに加えて、平日のバレエのクラスにも通うようになった。

兄ちゃんが11歳でアーツ・エデュケイショナル・スクール(Arts Educational School)に入学したのに続き、その後アダム君も同じ学校に入学した。そこで彼は多岐に渡るトレーニングを受けた。バレエの他にも、タップ、モダン、ジャズ・ダンスを学び、更にはヴォイス・トレーニングはもちろん、コーラル・シンギングなど歌唱の訓練も積んだという。んでアダム君は「歌唱試験」で「8級」取得してるんだと。まー、そーなの、エライわね〜。おねーさん感動。アダム君曰く、「だからミュージカルの道に進む可能性もあった。でも僕はまあバレエを主にやることになった。」

ていうか、彼はインタビューで自分のバックグラウンドに話が及ぶと、自分はバレエに限らずオールラウンドな教育を受けた、ということをえらく強調する。あと、音楽教師であるお父さんの影響で、音楽は自分にとって重要な部分を成しており、ダンスを本格的にやる前には楽器(ヴァイオリン)をやっていたので、音楽家になるか、ダンサーになるか迷った、とかね。彼が音楽に造詣が深いばかりか、独特の「音楽と一体化する」能力があるそうなのは、マシュー・ボーンも言及している。私は「なんかこの人、動きが妙に音楽と合ってるな〜」程度の表現しかできないけれど。だけど、自分はオールラウンド・プレイヤーです、なんて、わざわざ口に出して言わなくてもいいよねえ。やっぱり彼にはどこか、自分は正統的なバレエ・ダンサーではない、という引け目というか、劣等感みたいなものがまだあるのかもしれない。別にそんなこと気にしなくていいのになあ。・・・でも私らだって、自信がないと、ついつい多弁になって弁解しちゃう時があるか。

で、学校では、兄ちゃんのサイモンにはクラシック・バレエの才能があるが、アダム君はバレエには向いていないと見なされてたそうだ。「僕の先生たちは、僕はクラシック・バレエのダンサーにはなれないだろう、と僕に言った。僕は美しいライン(この「ライン」が何なのか、私、いまいち分からない。ポーズのこと?それとも動きのこと?)を出せない。僕はこのために、何年も何年も、狂ったように努力しなければならなかったし、いまだにこれと戦わなくてはならないでいる。」

そして、兄ちゃんのサイモンは、ロイヤル・バレエ上級学校(Royal Ballet Upper School)に進学する。弟くんにありがちなことだが、アダム君は、どこでもお兄ちゃんの後をついてまわっていたらしく、兄ちゃんがそうしたからというだけの理由で、自分もロイヤル・バレエ上級学校を受験することにした。が、周囲の人々は、やめた方がいいとずっと忠告していたそうだ。

アダム君はそれにもめげずに受験してめでたく合格、ロイヤル・バレエ上級学校に入学できた。時に1987年、アダム君16歳の時のことである。ところが、これからが大変だった。ロイヤル・バレエ学校で、幼いときからバレエだけを集中的に訓練されてきた、ロイヤル生粋の学生たちとは違い、バレエをさほど専門的に学んでこなかった、外部からの途中入学生にとっては、追いつかなければならないことがたくさんあったそうである。クラシック・バレエの才能があると考えられていた、兄ちゃんのサイモンでさえ、「僕は先生たちのお気に入りではなかった」と言っているくらいである。

ましてアダム君にとってはなおさらだったろう。同級生には熊川哲也やウィリアム・トレヴィットら「優秀なクラシック・バレエのダンサー」がいたから、アダム君は自分の進路については、どこかのダンス・カンパニーに就職できればいいな、程度にしか期待していなかった。「ロイヤル・バレエに入れるなんて、考えたこともなかった。」

しかし、彼は努力した。放課後も居残ってバレエの技術を練習した。で、このころから、彼は振り付けも始めるようになり、いくつかの小品を作った。在学中の1988年、17歳の時、彼はウルスラ・モアトン振付コンテスト(Ursula Moreton Choreographic Competition)で優勝している(でもこれ、そんなに御大層なコンテストでもないようだが)。私には、振付(あと演出)っていうのは、ダンサーが引退間近になるといきなりやり出す、という印象があり、クーパーもダンサー引退後を目してやってるんだと思ってた。でもちょっと違ったみたい。ごめんね。

一方、兄ちゃんのサイモンとは、このころ関係が一時悪化してしまった。弟が兄の学年に「飛び級」(そんなシステムがあるの?)してきたのが直接のきっかけになったようだ。兄弟で競争関係に陥ったため、彼ら二人の間には深刻な緊張が生じるようになった。兄ちゃんサイモンは言う。「最悪なのは、最後の学年だった。なぜならアダムは何でもできたから。あの年頃は影響を受けやすいもので、物事を深刻にとらえてしまう。たとえ自分が意識的に競争しようとしなくても、どうしても比較されてしまう。」

私は兄弟たちとは、ライバル意識なんて持ちようがない程度の年の開きがあるから、なんでそうなるのか理解しにくいけど、やっぱり男の子の兄弟で、しかも年子っていうのはこうなりやすいんだろうなあ。しかも、ひたすらお兄ちゃんのマネをしていた弟くんが、お兄ちゃんを凌駕してしまった、っていうのは、特にお兄ちゃんにとっては、すごいショックで屈辱的な話である。とはいえやっぱり実の兄弟で、兄ちゃんは弟が好きだったろうから、かなり辛かったろう。

でもこれはもう子供の頃の話で、二人の兄弟は今は再び仲が良いそうだ。1997年、AMP「白鳥の湖」のウェスト・エンド上演時、その頃ロイヤル・バレエの公演とかけもちで出演していたアダムが、足のケガがひどくなり、降板せざるを得ない状況に陥った。アダムはその時サイモンを代役に推薦し、サイモンは弟の代わりに白鳥を踊った。で、マシュー・ボーンはサイモンをいたく気に入り、次作「シンデレラ」の主役としても、サイモンに出演依頼したそうである(サイモンが辞退したので実現しなかったが)。でも、兄貴を自分の代役に推すなんて、結局アダム君も、「白鳥」の役を赤の他人に取られるのがヤだったんだよなあ。兄ちゃんならある意味自分自身だもんね。いかにも弟くんだ。「お兄ちゃんじゃないとヤダヤダヤダー!!」とかダダこねたのかな。

卒業を控えた1989年の1月、アダム君は、ローザンヌ・コンクール(Prix De Lausanne)に出場することになった。でもこれ、どうも誰でも自由に出場できるワケではなく、しっかりした推薦がないといけないらしい。たぶん学校推薦枠、みたいなものもあるだろう。アダム君はこのコンクールで賞を獲得したのだが、なんとクーパー君、元々はこのコンクールに出る予定ではなかったのだ。本来参加するハズだったある学生が、突然のケガで出られなくなり、クーパー君はその「代役」(わはは)としていきなり出ることになったのである。なぜクーパー君が駆り出されたかというと、本人の説明によればこうだ。「学校側は、僕が振付の面でホメられるかも、と考えていたんだよ。」つまり踊りそのもので期待されてたワケではなかった、ということである。

急な代役ということもあったのだろうけど、彼はコンクールで披露する自分の踊りを、すべて自分でせっせと振り付けた。彼は「海賊」の有名なソロを踊ることにし、その中に熊川哲也から教えてもらった技術をまんべんなく詰め込んだ。ちょっと妄想だけど、私はこの記事読むと、ガキのクーパー君が、学校のバレエ・スタジオの端っこに座り込んで、試行錯誤しては、ノートに一生懸命ちまちまと振付を書き込んでる姿が浮かんでくる。おねーさん保護欲がうずくの。ところが、クーパー君は、実にあっけなく「プロフェッショナル賞(professional prize)」を受賞したのである。この人は、なんか妙に運がいいというか、タナボタというか、オイシイとこ取りというか、そういうところがある。出るはずじゃなかったコンクールに偶然出て、なぜか賞を取った。そしてこれが、また更なる幸運を連鎖して引き起こした。

ロイヤル・バレエの振付家ケネス・マクミランが、このローザンヌ・コンクールの様子を見て、クーパーに目をとめたのである。どこかのダンス・カンパニーに就職できればいいや、くらいに考えていたクーパー君は、同年9月、18歳でロイヤル・バレエに就職した。彼はバレエに向いていない、と思っていた周囲の人々は仰天したが、最も仰天したのはクーパー自身であったという。「信じられなかった。ロイヤル・バレエに所属できるワケがない、といつも思っていたから。」

(2002年9月6日)

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