Club Pelican

THEATRE

「ゾロ」
"Zorro"
台本・作詞:スティーヴン・クラーク(Stephen Clark)
音楽:ジプシー・キングス(The Gipsy Kings)
音楽監督:ジョン・キャメロン(John Cameron)
原脚本:スティーヴン・クラーク、ヘレン・エドマンドソン(Helen Edmundson)
振付:ラファエル・アマルゴ(Rafael Amargo)
装置・衣装:トム・パイパー(Tom Piper)
照明:ジェームズ・マッケオン(James McKeon)
フラメンコ・ギター指導:フラヴィオ・ロドリゲス(Flavio Rodrigues)
アクション指導:テリー・キング(Terry King)
マジック指導:スコット・ペンローズ(Scott Penrose)
監督:クリストファー・レーンショー(Christopher Rensshaw)


注:このあらすじは、2008年3月12〜15日にイギリスのサリー州ウォーキングのニュー・ヴィクトーリア・シアターで行なわれた公演に沿っています。なお、もっぱら私個人の英語聴き取り能力と記憶に頼っているため、作品のストーリー、シーンの順番、登場人物の性格や行動の描写、踊りの振付などを誤って記している可能性があります。


ウォーキング(Woking)はロンドンから急行電車で30分ほどのところにある小都市である。ロンドンのベッド・タウンであるようで、ここからロンドンに通勤している人が多く住んでいるらしい。ロンドンからの交通は非常に便利で、数分ごとにウォーキングに停車する、またはウォーキング行きの電車がウォータールー駅から出ている。ウォーキングからロンドンへの電車も夜の零時過ぎまで運行されている。

ウォーキングの街はピーコック・センターという大きなショッピング・モールを中心としている。ピーコック・センターの前には、大きな記念碑(戦没者慰霊碑らしかった)が建てられた広場、向かいには教会、隣にはウォーキング図書館とウォーキング・インフォメーション・センター、後ろにはバス・ターミナルがある。このピーコック・センターにはビルがくっついており、その中には6つの映画館と2つの劇場がある。劇場の1つがニュー・ヴィクトーリア・シアターである。

ニュー・ヴィクトーリア・シアターは中〜小規模の劇場で、席数はおそらく1,000もない。しかし、客席の天井を高くし、奥行きを浅くして3階席まで設けてある。また、オーケストラ・ピットは地下にあるようで客席からは見えない。狭いスペース上、そうするより他なかった合理的な構造なのかもしれないが、結果として客席と舞台との隔たりがまったくないという、観客にはありがたい設計になっている。

劇場の内装は現代的で、ロンドンの古い劇場とはまったく違う。日本の劇場や多目的ホールとさほど変わらない簡素な内装である。ただ、このビルの中央には大きな螺旋階段があって、螺旋階段を上り下りして1階席、2階席、3階席の入り口へ行くようになっている。客席への入り口があるそれぞれの階には飲み物やお菓子を売るカウンターやバーがあって、椅子と机がいくつも置かれたラウンジが設けられている。「観劇は娯楽だから飲食も大事」という考えが見て取れる。このへんがいかにもイギリスの劇場である。

舞台の横幅はそんなにないが、天井は恐ろしく高く、奥行きも深い。客席に入ると、舞台の幕はすでに上がっていた。舞台の天井から、穴の開いた幾重もの黒いカーテン(←ゾロの黒いケープを象徴しているらしい)が吊り下げられていて、天井の左から舞台の中央に向かっては真紅のカーテンが吊り下げられ、床にまでとぐろを巻いている。これは血を表わしているのだろう。

小さな街なのにどこからこんなに客が湧いて出てくるのか、客席は毎回ほぼ満員だった。以前にレスター市の劇場で、アダム・クーパーが主演した「雨に唄えば」を観に行ったときには、いささか辟易したものだった。観客がいかにも田舎者ばかりだったからである。だらしない、センスのよくない服装、ひっきりなしのジャンク・フードやジュースの飲み食い、どことなく漂う粗野な雰囲気、レスターは古代ローマ時代からの歴史を持つ、史跡探索には面白い街ではあったけれど、あの客層には心中うんざりした。

ところが、このウォーキングの観客は、レスターの観客とはかなり違っていた。レスターの観客たちに抱いてしまった嫌悪感を、ウォーキングの観客たちにはまったく感じなかった。ウォーキングの観客の服装には別に違和感を持たなかったし、一様になんか洗練されていて品が良い感じさえする。ロンドンに近いことが大きな原因だろうか。また、以前はロンドンに住んでいたとか、職場はロンドンにあるとか、そういう人たちが多いに違いない。


プロローグ・第一幕

舞台の真ん中には、木で作られた5メートル四方の正方形の台が置かれ、その縁に沿って椅子がいくつも並べられていた。やがてギターを持ったジプシー・キングスをはじめとする数人の男女が、にぎやかにしゃべりながら舞台上に現れて椅子に座った。みな現代の服装をしている。ついに開演である。

主なキャスト。ディエゴ(ゾロ):マット・ロウル(Matt Rawle);ラモン:アダム・クーパー(Adam Cooper);ルイサ:エイミー・アトキンソン(Aimie Atkinson);イネズ:レスリー・マルゲリータ(Lesli Margherita);ガルシア:ニック・カヴァリエール(Nick Cavaliere);チェゴ:ダニエル・ジェントリー(Daniel Gentely);アレハンドロ:アール・カーペンター(Earl Carpenter)

彼らは椅子に座ると、スペインを代表する人物は誰かについて話し始める。誰かが「ゾロ!」と言うと、みなが手を打って賛同する。「あれは100年前?」 「いいえ、200年前よ!」 「そう、200年前、スペインの植民地時代のカリフォルニアで・・・。」 ジプシー・キングスがギターを演奏して歌いだす。同時にキャストたちも木製の舞台の上で一緒に歌い、足を踏み鳴らし、手を打って拍子をとり、そして男女が真ん中でフラメンコを踊り始めた。この公演には10名くらいのフラメンコ・ダンサーが参加している。フラメンコの見せ場は彼らが担当している。激しく床を叩きつける靴の音が、鋭く細かく力強く、しかもリズミカルで聴いていて心地よい。

歌と踊りが終わると背後の黒いカーテンが開いた。その奥に白い壁が現れ、上部の中央が大きく切り抜かれている。ちょうど画面のようになっていて、画面の中にはアレハンドロ(アール・カーペンター)と息子のディエゴ(マット・ロウル)が向かい合って立っている。アレハンドロの背後に、安っぽい作りのヤシの木だったか、サボテンだったかのセットがあった。どーやらここはカリフォルニアらしい。こーいう余計で笑える演出はやめましょう。

アレハンドロとディエゴは口論している。ディエゴは父親の反対を振り切って、故国のスペインへ行こうとしている。「父さんは冷たい人間だ。ここの人々を厳しく統治して、仕事ばかりで、家族をほったらかしにして・・・母さんが死んだのに!」 「それが私の任務だ。」 「僕は絶対に父さんのようにはならない!僕は父さんを軽蔑する!」 ディエゴは父親に唾を吐きかける。観客が「おお!」と驚きの声を上げた。

アレハンドロは思わずディエゴに向かって激しい勢いで手を上げる。ディエゴは観念したように体を硬直させる。だが、アレハンドロは途中で手を止めて、両手でディエゴの肩をしっかりと抱きかかえる。ディエゴも父親に抱きつく。アレハンドロはディエゴに自分の剣を差し出す。「これを持っていきなさい。元気でな。」 しかし、ディエゴは「こんなもの、僕にはいらないよ」と言い、父親が差し出した剣を押し戻して去っていく。

舞台が暗転し、そこはスペインのバルセロナ。幌車の前でジプシーの一団が手品ショーを披露している。ジプシーたちの真ん中で手品を披露しているのは、なんとディエゴである。ディエゴとジプシーたちは、いかにもラテン系な明るく陽気なメロディの“Baila Me”を歌いながら、ちょっとアヤしげな手品(?)を繰り広げていく。“baila”とはスペイン語で「踊る」という意味。ディエゴ役のマット・ロウルの艶のある歌声と豊かな声量に感心。明るい栗色のくせっ毛の髪、大きくて少し垂れた目、無精ヒゲ、ラテン系に着崩したジョニー・デップ(←言い過ぎかな)みたい。なかなかの色男である。

そこへ、白い帽子をかぶり、白いシャツに白いズボンという風体の人物が、男たちに追われて駆け込んでくる。男たちはその人物のカバンを無理やり奪おうとする。ディエゴは男たちをぶちのめし、白い帽子の人物を助け起こそうとするが、やはり強盗とカン違いされて振り払われる。その人物が身を激しくよじった瞬間、帽子が落ちて、中から長い黒髪がバサッと流れ落ちる。この人物は男装した女性だったのだ。

彼女はなおもディエゴから逃れようとして、ハッと気づく。「ディエゴ!?」 今度はディエゴが驚く。女性はディエゴに言う。「私よ、ルイサよ!」 ディエゴはようやく思い出して、ルイサ(エイミー・アトキンソン)に近づく。「ルイサ・・・君か!大きくなったね。昔の君は・・・」 ディエゴはルイサの胸のふくらみに思わず目が行く。「・・・こんなになかったよね。」 観客が大爆笑する。

ルイサはディエゴに「カリフォルニアに帰ってきて!」と懇願する。しかし、ディエゴはおちゃらけた態度を崩さずにはぐらかしてしまう。「あそこには父さんがいるのだから、僕が帰る必要はないだろう。」 ルイサは必死に言う。「あなたのお父さまは亡くなったのよ。」 ディエゴははじめて真顔になり、椅子に深く座って考え込む。ずっと笑って見ていた周囲のジプシーたちも厳粛な面持ちになる。「あなたのお父さまが亡くなった後、軍隊がカリフォルニアを制圧してしまったのよ。軍のせいでみんな苦しんでいるわ。あなたのお父さまの後を継いで正義を取り戻すのは、ディエゴ、あなたしかいないのよ。」 この舞台では“justice”という言葉が飛びかう。義賊ものの定番語である。

ジプシーのイネズ(レスリー・マルゲリータ)が言い出す。「いいじゃない、その『カリフォルニア』に行きましょうよ!ジプシーは流浪するものよ。」 イネズ役のレスリー・マルゲリータは朱に近い赤のドレスを着て、ウェーブのかかった黒髪を長く垂らし、髪に花飾りをつけている。目鼻立ちのはっきりしたラテン系な顔つきの美女である。スタイルはいわゆる「ボン、キュッ、ボン!」のナイス・バディ。ルイサ役のエイミー・アトキンソンは目が小さく顔が地味で、舞台に立っているときは、そんなに美しいとかかわいいとか思えなかったが、楽屋口で見たら、顔立ちの整った、思わずギョッとするほどの美人だった。

ところは変わってカリフォルニアである。舞台の奥に壇があり、重厚な造りの立派な棺が安置されている。壇の下には椅子が並べられ、18世紀末〜19世紀初のデザインの礼服を着た男性たち(植民地統治に関わっているスペイン貴族たち)が、厳かな表情で座っている。棺のすぐ前には、軍服を着た男性が客席に背を向けて立ち、祈りを終えると胸の前で十字を切ってから前を向く。軍司令官のラモン(アダム・クーパー)である。

“Zorro”のポスターでは、クーパー君は黒い衣装を着ていたので、これはカッコいいとすっごく期待していたのだが、実際の衣装は違った。赤と青で肩に金モールの飾りが付いている長い上着、白いシャツ、白いベスト、真紅のベルト、アイボリーのズボン、黒いブーツという、ナポレオンみたいな軍服だった。率直に言って、この衣装には失望した。あんまり(てか全然)カッコよくない。(デマチのときに直球で「あなたの衣装が気に入らない」とアダム・クーパー本人に言ったら、笑いながら「ごめんなさい」と謝られた。)

でも、頭は横ロールの銀髪ヅラではなく、額はオールバック、黒髪の直毛のロン毛を後ろに束ねていた(もちろんヅラ)。この髪型と、暗い色合いのリボンがおしゃれなのが救いだった。「危険な関係」のヴァルモンそっくり。

前に向き直ったラモンと貴族たちは“Senor”を歌う。アレハンドロの死を悼む歌である。最初にラモンがひとりで歌って、途中から貴族たちが混じって一緒に歌う。前を向いたクーパー君を見た瞬間、私は「あれっ!?」と思った。なんというか、今まで見てきた彼の体型じゃないのだ。首から肩、背中にかけてのきれいなすっきりとした線がない。下っ腹が少し出ている(気がする)。それにフトモモが太い。かさばる衣装のせいか、膨張色の白いシャツとベスト、アイボリーのズボンのせいか、それとも恰幅よく見せるために「詰め物」でもしているのか、と訝しく思った。

西城秀樹の「ローラ」みたいな高音のサビの部分を、クーパー君は絶叫してよく頑張って歌っていたが、いかにも「一生懸命に限界まで声を出して歌ってます」といった感じで、プロフェッショナルなミュージカル歌手の余裕ある歌いぶりにはほど遠いレベルである。いつ声枯れするか心配で、聴いていて非常にハラハラした。

“Senor”の最後をクーパー君が高音で歌い、そのままセリフに移行する。「しかし!」とラモンは大声で言い、「偉大なアレハンドロ・デ・ラ・ヴェガの亡き後は、ぜひ私の率いる軍隊がこの地を防衛し、自由を尊重し、平和的に統治したい。いかがでしょうか?」 そう言いながらラモンは左右に目配せをする。すると兵士たちが出てきて、貴族たちに向かって長銃を構える。貴族たちは驚いて周囲を見わたすと、気まずそうに黙り込んでしまう。

しかし、1人の貴族がラモンにくってかかり、軍隊が植民地を統治することなど許されない、と抗議する。貴族の男はラモンを嘲笑する。「大体、貴様はスペイン貴族の血を引いていないではないか!」 ラモンの表情が一変する。ラモンは即座に「こいつを逮捕しろ!」と怒鳴り、兵士に両脇をつかまれた貴族に向かって、冷たい笑いを浮かべながら言う。「私の立場に、どうかご理解のほどを。」 貴族の男はそのまま連行されていく。

誰もいなくなったところで、ラモンは再びアレハンドロの棺が安置されている壇に上がり、棺の上に覆いかぶさるようにしてつぶやく。「僕にスペイン貴族の血を与えてくれてありがとう、セニョール。」 これは後の伏線となる重要なセリフである。「スペイン貴族の血を引いていない」と罵られたラモンが、こっそりと「スペイン貴族の血をありがとう」とアレハンドロの棺に対して言うのは矛盾するはずで、観客に「えっ!?」と思わせなくてはならない。

しかし、このシーンはあまりにさくさくっと終わってしまうので、観客に「このラモンには複雑な事情がありそうだ」と感じさせる余裕がないように思えた。クーパー君は静かな声音に変えて、粘着質な手つきで棺を撫でて、効果を出そうと頑張っていたようだけど、なにせ充分な時間がとられていないために、せっかくの演技が功を奏していない。これは演出に問題がある。ラモンという人物の描写と彼が背負っている複雑な事情の説明については、改善を要する舌足らずな演出がこの後も多く見られた。

ラモンがひとりで現れる。彼は床の上にある引き手に手をかけ、地下室に通ずる扉を持ち上げる。ラモンは地下室の中に向かって、嘲った口調で呼びかける。「貴様はまだここにいたのか?」 ラモンは中から初老の男を引きずり出す。それは死んだはずのアレハンドロ・デ・ラ・ヴェガであった。アレハンドロはラモンによって、地下の牢獄に幽閉されていたのである。

ここで、ラモンがアレハンドロを拉致して幽閉し、アレハンドロは死んだと偽りの発表をして、自分が政治・軍事両面にわたる権力を奪取してのけたことが明らかとなる。つまりラモンはクーデターを起こしたのだ。ラモンは憎しみに満ちた表情でアレハンドロの胸ぐらをつかんで罵り、殴る蹴るの乱暴を働く。ところが。アレハンドロは叫ぶ。「私はお前を息子だなどと思ったことはない。私にはディエゴがいる。ディエゴが帰ってくれば、この地に正義を取り戻してくれるはずだ!」

ということは、ラモンもアレハンドロの息子だっていうことだ。ラモンは激昂する。「ディエゴだと!ディエゴが帰ってくるはずがない!ディエゴの名を口にするな!」 ラモンは一気に叫ぶと、次には優しく父親の頬を撫でながら、優しい口調で「死ぬがいい、ゆっくりと。愛しているよ」とささやき、アレハンドロの頬にキスをする。そして「父さん!」と嘲って呼び、アレハンドロを地下牢に蹴り落とす。

このシーンもほんの数分で終わっちゃったんだよね。ここはもっと時間をかける必要があるでしょう。ラモンがなぜクーデターを起こしたのか、なぜアレハンドロを殺さずに幽閉しているのか、なぜラモンがこれから次々と野蛮で残酷なことをやり続けるのか、それを説明する決定的に重要なシーンなのだから。同時に、アレハンドロがディエゴが自分に逆らっても許すけど、ラモンが自分に逆らうと許すどころか憎悪するような人物だということや、ラモンが庶子であるという理由で自分の姓を名乗らせず、軍の司令官に取り立てて、それで親としての責任を果たしたようなつもりになっていた軽薄な父親だということも、このシーンで充分に説明できるはずである。

クーパー君も、アレハンドロ役のアール・カーペンターも熱演だったけど、なにせ時間がないものだから、実の親子であるアレハンドロとラモンの間にある、複雑で根深い確執の悲しさを感じる暇もないままに次のシーンになってしまった。また、クーパー君とカーペンターさんの息はぴったり合っていて、冷たくて暗い緊張感と同時に、どこか近親姦的な、またSMチックな、エロティックな雰囲気も漂わせていた。だからなおさらもっと時間をかけると印象的なシーンになると思う(←耽美好き)。

それにしても、やっぱりガタイが一回り大きくなったような気がするなクーパー君。でも顔の大きさは変わらないのね。もともと小さい顔がますます小さく見える。それとも、衣装が膨張色だから体が大きく見えるだけなのかしら・・・(←無理やり自分を納得させようとしている)。

カリフォルニアに向かう船の上。舞台の奥に太いマストが立ち、大きな帆がふくらんでいる。ディエゴ、イネズ、ジプシーたちは、相変わらずのお気楽な調子ではしゃいでいる。イネズとジプシーたちは“A California”を歌う(確か)。ルイサだけが深刻な表情で、隅っこにひとりで座っている。イネズはルイサをからかう。「お嬢ちゃん、ごきげんいかが?」 ディエゴとイネズはふざけて剣を持って闘う真似をする。イネズはディエゴに負けそうになると、「きゃあ、いや〜ん♪」とディエゴの腕の中に身をもぐりこませたり、ディエゴの股間に剣を差し込んだりし、ディエゴもイネズと一緒になって大笑いする。

イネズは子どもに話しかけるような口調で、ルイサに「お嬢ちゃん、これは剣よお〜」と言って手渡す。ディエゴのおちゃらけに呆れ果てたルイサは爆発し、剣をとってディエゴに向かう。ディエゴは必死に防戦するが、ルイサは鋭い華麗な動きで剣を操り、ついにディエゴの剣を取り上げてしまう。ディエゴは両手を上げて降参する。ルイサはニヤリと笑って、ディエゴのシャツを剣で切り裂く。そして、2本の剣をイネズに差し出し、子どもに話しかけるような口調で「これは剣よお〜。あ、これもだわ〜」と言って剣をイネズに手渡す。ルイサの上手な仕返しに観客が大笑いする。

イネズとディエゴは船底に眠りに行き、ルイサは船上で物思いにふける。すると寝に行ったはずのディエゴが再び起きてくる。ディエゴはさっきとは違って真面目な顔つきになり、これからは改心してカリフォルニアに正義を取り戻す、とルイサに約束する。ここでディエゴとルイサが“Our Passion Burns”を歌ったのかな?ちょっと覚えてません。前方を見ていたジプシーが叫ぶ。「陸地だ、カリフォルニアだぞ!上陸だ!」

船のマストや帆が取り払われると、舞台の奥の左右に、ペンキがあちこちはげかけた、白い壁の半円状の建物のセットが姿を現わす。建物の下や階上には、白い粗末なドレスを着た、表情の冴えない女性たちが、力なくぼんやりと座っている。

そこへイネズたちがやって来る。イネズは訝しげな表情で辺りを見回す。イネズはそれでも無理に「すばらしいところだわ!輝く太陽、澄んだ青空、きれいな空気、美しい家々・・・」と叫んだところで、ボロい家々や生気のない女性たちを見て黙り込む。

青と赤の軍服を着た、背の低い小太りの兵士(ニック・カヴァリエール)が現れる。兵士はイネズに尋ねる。「誰だい?」 イネズは答えずに尋ね返す。「あんたは何をしてるの?」 兵士は「何をしているかって?それはな、俺にも分からん!」 観客はなぜかこのセリフで異様にウケる。兵士はあらためて尋ねる。「あんたは誰だい?」 イネズは答える。「イネズよ。あんたは?」 兵士は答える。「ガルシアだよ。ところで、あんたは誰だい?」 イネズは白目をむいて呆れたように答える。「イネズよ。ずっとイネズだったし、これからもイネズよ。」

兵士ガルシア役のニック・カヴァリエールは、ロンドンのピカデリー劇場で上演された「ガイズ・アンド・ドールズ」に出演し、特に個性的な「ビッグ・ジューリ」役で好評を博した人である。現在(2008年4月)、「ガイズ・アンド・ドールズ」はウエスト・エンドでの上演を終え、イギリスをツアーして回っているようである。ニック・カヴァリエールは小柄な人であり、それだけに「ビッグ・ジューリ」という名前との落差が笑えた。たぶん「ガイズ・アンド・ドールズ」UKツアーに際しても、カヴァリエールは「ビッグ・ジューリ」役としての出演を打診されたと思われるが、成功するかどうか未知数な「ゾロ」のほうを選んだとは興味深い。

カヴァリエール演ずるガルシアの姿形は、明らかにナポレオンをパロっている。黒髪で、筋状の前髪が斜めになって額に貼り付いていて、後頭部はハゲである。フレデリック・アシュトンの「シンデレラ」といい、イギリス人はナポレオンをバカにするのが本当に好きなんだなあ。

いきなり兵士たちが1人の男性を引きずってやって来る。女性がその後にすがって叫ぶ。「彼は無実です!何の罪も犯していないわ!連れて行かないで!」 女性は兵士に突き飛ばされ、男性は家畜小屋のような汚い牢獄に放り込まれる。兵士たちは冷然として去ってゆく。いつのまにかディエゴが1軒の家の屋上に座っていて、その様子をじっと見つめている。

イネズが激怒してガルシアにくってかかる。「なんなのあれは!人間を、まるで動物のように扱うなんて!」 お色気たっぷりなイネズは、実は強い正義感を持つ女なのである。それに呼応して、うつろな目で座っていた白いドレスの女性たちが生気を取り戻す。女性たちは怒りのこもった表情で足を踏み鳴らし始める。フラメンコっぽいリズムで、抵抗の意味を込めているらしい。女性たちは口々に叫ぶ。「軍人どもは悪行三昧よ!」 「みんな怯えて暮らしているわ!」 「毎晩毎晩、軍人どもは女たちに乱暴を働いているのよ!」

女性たちは足を踏み鳴らし、あるいは椅子の背を持ち、椅子の脚を床にガンガン打ちつけて音を出して踊りながら“Por La Libertad!”を歌う。“Por La Libertad”とは、「自由のために」という意味だそうである。椅子の脚を使うというのは面白いアイディアだ。人間の靴音と椅子の脚の音とが混じって非常に大きな音が客席内に響きわたり、音だけでも相当な迫力があった。隣のおばさんは「ホホホッ」と面白がっていたし、後ろのおばさんはスペイン人なのか、スペイン語圏の人なのか、スペイン語圏に住んだことがあるのか、とにかく踊りの見せ場のたびに「オレ!」とつぶやいていた。

ディエゴは家の屋上に座ったまま、怒りに燃える女性たちの踊りを見つめている。これはディエゴが「ゾロ」として活動することを決意するに至る伏線である。だけど、ちょっと説得力に欠けるかな。ディエゴは黙って見つめているだけだから、注意していないとディエゴが舞台上にいることに気がつかない。伏線としては効果が弱い気がする。ラモンの背景説明と同じである。脚本と演出は要改善だ。

ジプシーの幌馬車の上。ディエゴが夜空を見つめながら横たわっている。ディエゴ役のマット・ロウルは仰向けに寝たまま“Look To The Sunrise”を歌う。寝たままでもあれだけ声が出るなんてすごいな〜、と思った。それに、ロウルは本当に歌声が美しい。艶があってぴかぴか光っている感じの美声で、「およげたいやきくん」の子門真人がテノールになったような感じである。

ディエゴは口が利けないジプシーの少年、チェゴ(ダニエル・ジェントリー)にひそかに相談する。チェゴ役のダニエル・ジェントリーは小柄で本当に少年のようだ。髪型は坊主頭で、なんとなくナイナイの岡村に似ている。口が利けないという設定なので、表情や仕草での演技一本で勝負した。結果、実に好演であった。

「チェゴ、僕はこの土地に正義を取り戻したい。でも、正体をさらさずにやるにはどうしたらいい?」 チェゴは身振り手振りでそれに答える。ジェスチャー・ゲームのようなお笑いシーンになったが、具体的に何を言っていたかは忘れた(もしくは意味が分からなかった)。

チェゴは武器を取り出す。まずは剣。ディエゴは叫ぶ。「これは父さんの剣だ!」(←プロローグで、ディエゴは父親が自分に贈ろうとした剣を突っ返したはずなのに、どうして持っているのか。ルイサが渡したんだっけ?) チェゴは次に長い鞭を取り出して床に打ちつける。片手に剣、片手に鞭を持って、チェゴはやみくもに両手を振り回す。「チェゴ、それでは忙しすぎるよ。」 観客が笑う。

次は衣装である。チェゴは幌馬車の中に飛び込んで、いろんな衣装を手当たり次第に外に放り出す。幌馬車から衣装が次々に出てきて空を舞う。呆然としてそれを見つめるディエゴ。マット・ロウルはマジで噴き出しそうになっていたようだった。観客がクスクス笑う。衣装が途絶えると、幌馬車の小窓が開き、チェゴ役のダニエル・ジェントリーが顔を出してニッと笑った。それが妙におかしい。マット・ロウルは笑いをこらえたあまりに顔が引きつり、観客は堰を切ったようにドッと笑った。

チェゴは自分でいろんな衣装を着てみせる。中でもおかしかったのが、ナポレオンみたいな黒い帽子をかぶり、軍服のような上着を着て、肩に鳥の人形を乗せ、杖をついて、片脚で立つ。そう、「宝島」のジョン・シルバーである。観客がまたもや爆笑した。やっぱりイギリス人はみんな知っているのね〜。もちろん原作を読んでいるんだろうなあ。私は危なかった。よかった、子どものころにアニメ「宝島」観といて。

次にチェゴは黒い帽子をかぶり、黒いマスクを当てて、真紅のマントをはおる。マントが真紅なので、チェゴは女性のようにしなを作る。ディエゴがツッコむ。「チェゴ、それ裏と表が逆。」 チェゴはマントを裏返してはおる。マントはこれまた黒であった。ディエゴは叫ぶ。「それだ!」 「ゾロ」の扮装の誕生である。ちなみに、マントと書いているけど、実際の舞台では“shawl(ショール)”と言っていた覚えがある。「ショール」というと女性がはおるもの、というイメージがあるけど、ゾロのマントも英語的には「ショール」になるわけか。

ルイサも街に戻ってくる。女性たちが「ルイサ、帰って来たのね!」と口々に言って駆け寄る。ルイサは女性たちを励ます。「もう大丈夫よ!ディエゴが帰って来たから!」 だが女性たちは反論する。「ディエゴ!?あのドラ息子に何ができるっていうの!」 「ディエゴは私と約束したのよ。改心して、この土地に正義を取り戻す、って!」 ルイサが必死にみなを説得していると、どこからともなく賑やかな音楽が流れてくる。

音楽とともに現れたのはジプシーたちの幌馬車である。その先頭にはディエゴがいて、「さあ、ジプシー・ショーだよ〜ん!」といつものおちゃらけた調子で呼ばわっている。ルイサは呆気にとられる。硬い表情の女性たちにかまわず、ディエゴは陽気に歌いながら、赤いバラの花を女性たちに配って歩く。女性たちは憤然としてバラの花を投げ捨てる。ルイサはディエゴに詰め寄る。「どういうこと?約束したじゃない!」

だが、ディエゴはルイサを相手にせず、おちゃらけた態度のまま、幌馬車を率いて行ってしまう。チェゴだけが、ディエゴが正体を隠して正義のために活動する決意を固めたことを知っている。チェゴは失望したルイサを心配そうに見つめながら、ディエゴの後を追って歩いていく。女性たちは去り、ひとり残されたルイサは悲しそうな表情で“Luisa”を歌う。

橋の上。ラモンが立って何やら大声で指図している。口うるさいヤツである。囚人たちを監督している兵士たちに命令しまくっているらしい。そこへディエゴがやって来る。ラモンはディエゴが背後に立っても気づかない。ディエゴは「精が出るね」とラモンに声をかける。ラモンはギョッとして振り向く。「ディエゴ!・・・帰ってきたのか。君にまた会えるとは思わなかったよ。」 どうやらディエゴとラモンは昔からの知り合いらしい。てことは、ラモンはディエゴが自分の異母兄弟だと知ってて付き合ってたことになる。ディエゴはどうなのか?

ラモンは姿勢を正して、ディエゴにお悔やみを述べる。「君の父上が亡くなられたのは、本当に残念なことだった。」 ああ、ディエゴはラモンが自分の異母兄弟だとは知らないのね。ディエゴは「別に、父さんが死んだからといって、どうということはないさ」と、特に気にかけてもいない様子である。ラモンは声を大きくして、「君の父上は本当に偉大だったよ!」とディエゴに抗議するように言う。このセリフには、ラモンのどんな気持ちが込められているのだろう?ディエゴを騙すための演技に過ぎないのか、それとも半分本気で言っているのか。だからさー、同じセリフでも、演じる側の解釈によって、観客に対していろんなふうに伝えられるのよ。クーパー君はいったい、ラモンのどんな心情を表現したかったのか。

それにしても・・・やっぱり体が大きくなった・・・よね?下っ腹が出ているように見えるのは、腰に巻いた幅広の帯のせいかもしれないけど・・・。フトモモも太いよね・・・。「危険な関係」で、クーパー君は膨張色のオフホワイトの衣装も着たけど、あのときには、こんなふうに脚が太くは見えなかった。舞台の進行とともに、私は現実を直視せざるを得ない状況へと徐々に追い込まれていった。

ラモンはディエゴのことを露ほども疑っていない様子である。ディエゴに対してはよき友人として振る舞っており、粗暴さのカケラもない。ラモンはディエゴをすっかり信じきっており、ルイサと結婚するつもりだ、と嬉しそうに話す。ディエゴは表情を変えないばかりか、ニヤニヤしながら、「それはおめでとう!」と祝福さえする。ラモンは素直に照れる。クーパー君のこのへんの演技はよかった。そしてラモンは何気なく、明日の早朝に死刑囚たちを絞首刑にする予定だと漏らす。ディエゴはやはり大して関心のない様子で聞き流す。だが、ラモンが軽い気持ちで漏らしたこの一言が、ラモンの前に手ごわい敵を登場させることになる。

夜が明ける。白い朝日の光が広場を明るく照らしている。だが、広場には大きな絞首刑用の台が置かれている。街の女性たちが悲しげな表情で家々から現れる。兵士たちがやって来る。兵士たちは台に上がり、囚人を吊るす太い縄を引っ張って強さを確かめる。女性たちは棒立ちになり、むせび泣くような声で“In One Day”を歌う。女性たちが歌う中を、3人の囚人たちが兵士たちに連行されてくる。囚人たちはあきらめたように、おとなしく首に縄をかけられる。

ラモンが階上に現れる。この舞台では、ラモンが階上に立って様子を眺めていたり、階上から兵士たちに命令を下すシーンがとても多い。だから、ふと気づくとクーパー君が階上に黙って立っているので油断ならない。クーパー君の体は少し大きくなったようだけど、小さくてほっそりとした、鼻筋のすっと通ったきれいな横顔は変わらない。

ラモンは冷たい表情で「吊るせ!」と命ずる。だがその瞬間、「やめて!」という叫び声とともにルイサが駆け込んでくる。ルイサはラモンを見上げて訴える。「この人たちは無実よ!どうしてこんなひどいことをするの!」 クーパー君のラモンは無表情で黙ったまま、必死に抗議するルイサを見下ろす。好きな女の訴えであっても、聞き入れるつもりは毛頭ないらしい。ラモンは再び「吊るせ!」と命令する。

兵士が囚人たちの足元の板を開けようとしたとき、黒い帽子、黒いアイ・マスク、黒いマント姿の男がロープにつかまって広場に飛び降りてくる。怪傑ゾロ、初登場!観客が「おお!」と愉快そうな声を上げてどよめく。

ゾロは遮ろうとする兵士を剣で跳ね飛ばし、あっという間に絞首台に上ると、囚人たちの首にかけられた縄を次々とぶった斬る。どういう仕組みなのかは分からないけど、絞首刑用の縄には途中に継ぎ目があって、剣でその継ぎ目に触れると縄が離れる構造になっているらしい。だがこれはどういう仕組みなのかよく分かった。このゾロは、実はスタントマンであった。1回目に観たときは気づかなかったが、2回目からはもうバレバレであった。ゾロ役のマット・ロウルとは身長も体型も違う。

謎の黒衣の男の乱入で広場は騒然となる。だがラモンは低い声で「その男を殺せ!」と兵士たちに命令する。しかし、黒衣の男は兵士たちの剣をたやすくかわしてはねのけ、姿を消したかと思うと別の方向からまた現れて兵士たちを翻弄する。ちなみに、クーパー君の「その男を殺せ!」には参った。ドスを利かせた(つもりらしい)低い声でゆっくりと「キ〜ルヒ〜ム!(Kill him)」と叫ぶんだけど、かなり棒読みな感じで凄味がまったくない。聞いているほうが恥ずかしくなり、思わず「キ〜ルミ〜!」と心の中で叫んだ。

黒衣の男はロープをつかむと、それだけに頼って高い壁(少なく見積もっても10メートルはある)をするすると登り、壁の向こうに姿を消す。レスキュー隊とかがよくやってる訓練みたい。さすがプロのスタントマンである。安全ベルトなど着けない。

ラモンと兵士たちは黒衣の男を追う。広場に残った人々は歓声を上げる。そこへ、ディエゴが何事もなかったかのような顔をして現れる。ゾロがスタントマンだと分かったのは、ゾロがロープをつたいながら高い壁を上って消えかけ、まだマントが壁に引っかかってるときに、マット・ロウルが地上から現れたからだった。あのせいで、ゾロのアクションはマット・ロウル本人ではなくスタントマンがやっている、とかなりバレちゃったと思う。

人々はいきなり現れて囚人たちを救った黒衣の男について話す。「彼は誰なのだろう?」 「名前を付けよう・・・そうだ、『ゾロ』がいい!」 「よし、『ゾロ』だ!」 「ゾロ」というのはディエゴが自らそう名乗ったのではなく、人々が付けた愛称なのであった。スペイン語で「ゾロ」っていう単語があるのかな?人々はゾロを称えて“Viva El Zorro!”(「ゾロ万歳!」)を歌う。

どのシーンとどのシーンとの間にあるのかは忘れたけど、面白いシーンがあったので付け加えておきます。たぶん第一幕だったと思います。ルイサが自室で入浴していると、兵士たちに追われたゾロがルイサの部屋に逃げ込む。ゾロはルイサが入浴しているのに気づいてギョッとし、「おっと失礼!」と言いながら顔をそむける。しかしルイサは「女性が入浴しているところに入ってくるなんて!」と言いつつも、バスタオルで体を包んで衝立の陰に入り、「私の下着を取ってちょうだい」と平然とゾロに言いつける。

ゾロは「し、下着!?」と照れながら言い、「ああ、君の『服』だね」と言い直す。そして、まずシュミーズを衝立越しにルイサに手渡す。次にゾロが手にしたのはルイサのショーツである。ゾロはショーツを広げてしみじみと眺める。正義の味方といえども所詮は男、思わずエロ心が出てしまったのである。観客が爆笑する。ルイサは衝立の上から手を出してひらひら動かし、「早く!」と催促する。ゾロはあわててショーツを手渡す。

ルイサは衝立越しにゾロと話す。「一体あなたは何者なの?」 「私は正義の味方だよ、ルイサ。」 ルイサはツッコむ。「どうして私の名前を知っているの?」 ゾロは「しまった」という顔をしながら(←ルイサには見えない)、声だけ重々しくして「私はなんでも知っているのだ」とカッコつけて言う。そしてルイサの下着を見たことが嬉しいあまり、エロ全開のニヤニヤした表情で「な〜んでも」とつぶやく。またもや観客が大爆笑する。

そこへ、「ここを開けろ!」と兵士たちがルイサの部屋のドアを叩く。ルイサはあわてて「屋上に隠れるといいわ」と言い、天井にある窓からゾロを逃がす。兵士たちがなだれこんでくる。兵士たちは「確かにここに逃げ込んだぞ!」とルイサに詰め寄るが、ルイサは「私は何も知らないわ。お風呂に入っていたし」としらばっくれる。

いきなり天井に通じる窓が開き、ゾロが床の上に飛び降りてくる。突然のことに兵士たちはあわてふためく。ゾロは「私は屋上をちょっと拝借していたんだよ!迷惑をかけてすまなかったね、お嬢さん!」とルイサをかばい、部屋の扉から逃げていく。兵士たちはあわててその後を追う。

ある日の公演で、ゾロが天井から床に飛び降りた瞬間に、翻ったマントがゾロ役のマット・ロウルの顔にかぶさってしまった。それで、マントが頭にかぶさったままのゾロが、剣を構えて兵士たちと対峙する、という奇妙な光景になった。ところが、マット・ロウルはまったくたじろぐことなく、あえてマントをかぶったまま、黙って兵士たちと向かい合った。最初はざわめいていた観客たちが愉快そうに笑い始め、やがて館内は爆笑の渦となって、大きな拍手と喝采が飛んだ。観客の笑い声が止むのを待って、ロウルははじめてマントを振り払って顔を出した。アクシデントを上手に利用し、観客の笑いを引き出して場を大いに盛り上げるという、ロウルのこの当意即妙なアドリブには、「さすが主役!」と心の中で舌を巻いた。

ゾロの正体は、チェゴ以外は知らない。ディエゴは兵士たちとも気軽に付き合う。ガルシアはディエゴに相談をもちかける。「好きな女ができたんだけど、どうしたらいいのか分からないんだ。」 ディエゴは自信たっぷりな態度で、身振り手振りでレクチャーする。「いいかい?最初は彼女を見ちゃいけない。あえて背を向けるんだ。それからゆっくりと、ゆっくりと振り返る。・・・まだ彼女を見るな!目を逸らしながらゆっくりと彼女に近づけ・・・。」 ディエゴはガルシアを女性に見立てて実践してみせる。

「ゆっくりとためをおいてから、彼女に近づけ・・・目の前まで近づいた瞬間だ!彼女の目を一気に見つめろ!一気にだ!」 ディエゴはガルシアに近づいて彼の目を真っ直ぐ見つめる。ガルシアはうっとりした表情になる。観客が笑い始める。ディエゴは続ける。「彼女の体に自分の体をくっつけて・・・。」 ディエゴはガルシアの体に自分の体をくっつける。「そして、腰を軽く振る。」 ディエゴはガルシアに体を密着させて腰を振る。ガルシアはアブない目つきになり、ディエゴに抱きついて叫ぶ。「愛してる〜!」 観客はこらえきれずに大爆笑、そしてイネズが足音を忍ばせて、ガルシアの背後からゆっくりと近づく。

イネズはわざとらしく嘆いてみせる。「ひどいわ!あなたたちがそういう関係だったなんて!」 ガルシアは飛び上がって驚き、そそくさと去っていく。そんなガルシアの後ろ姿を見て、ディエゴとイネズは大笑いする。

ジプシーたちが開いた酒場。イネズをはじめとするジプシーの女たちがいる。今日は飲み放題ということで、兵士のガルシアまでやって来る。だが、ガルシアはいきなり女たちに背を向ける。そしてゆっくり振り返る。ディエゴに教わった「女の落とし方」を実践している(つもり)らしい。観客がクスクス笑う。イネズはニヤニヤしながら見ている。ガルシアはイネズを「ゆっくりとためをおいてから」、「一気に見つめる」。観客は爆笑。

やがてジプシーの男たち、街の人々も集まってくる。みんなは“There's a Tale”と“Bamboleo”を賑やかに歌いながら踊る。私はジプシー・キングスについてはほとんど知らないけど、“Bamboleo”は以前にどっかで聴いた覚えがある。すべてが「ゾロ」のためのオリジナル曲ではないらしい。

イネズ役のレスリー・マルゲリータの歌と踊りが非常にすばらしかった。耳に心地よい、低いガラガラ声の歌声はビンビンとよく響くし、上手にビブラートを利かせて歌う。踊りを踊れば動きが鋭くて流れるように美しく、片脚を前にブンと振り上げる動きが特に魅力的だった。隣のおばさんが「ワオ!」と唸ってたくらい。それに、マルゲリータにはとにかく華がある。ひどく美しい人だが、プラスして人目をひきつけるオーラがある。

プログラムを見ると、マルゲリータの経歴は実に華麗である。彼女はなんとカリフォルニアの出身で、たくさんの映画、テレビ、ミュージカルに出演しているスターらしい。そんなマルゲリータが「ゾロ」に出演したことは、ヒロインのルイサ役であるエイミー・アトキンソンが「ゾロ」に出演したことより、はるかにすごいことのようだ。対するアトキンソンの経歴は少し寂しくて、何度も改行してやっと11行になっている。ちなみにマルゲリータの経歴は改行なしの20行。“Bamboleo”が終わると、後ろに座っていた観客が、「あのジプシー役の女の子がいちばんすばらしいわね」と連れの人につぶやいていた。

みんなが楽しく歌い踊っていると、ディエゴに連れられてラモンがやって来る。人々はラモンの姿を見たとたん、歌や踊りをやめてシーンと静まり返る。キャストに混じって舞台上にいたジプシー・キングスのおっさんまで、ギターを弾くのをやめて顔をそむける。ラモン役のクーパー君が一瞬浮かべた少し寂しげな表情を見て、私はラモンがすごくかわいそうになってしまった。大体ディエゴはさー、一人だけいい子ちゃんぶって、おいしいとこ持っていきすぎじゃない?ラモンは実の父親にさえ愛されなかったから、劣等感と人間不信のかたまりになってしまって、権力や軍事力の他に信じられるものや頼れるものを見出せなかったのよ。

そんなラモンはみんなの嫌われ者で、ラモンの複雑な心情を全く知らないディエゴは、ラモンを騙して親友のフリをして、表面的には仲良くして、ゾロのときにはラモンを徹底的に痛めつける。正義漢ぶったディエゴはゾロとして人々から慕われて称賛されるのだ。確かにラモンは悪党だが、ディエゴはもっとタチの悪い偽善者じゃないのか?

ラモンはイネズに「今日は飲み放題だと聞いたが」と声をかける。イネズは嫌味な口調で「そうよ」と言い、間を置いて付け加える。「友だちはね。」 ああ、ますますラモンがかわいそうだ

ディエゴとラモンは杯を交わしながら話に興じている。ふとラモンは席を立ち、離れた席に座っているルイサに近づく。ラモンはルイサに自分と一緒に踊るよう頼む。ルイサはいったんは断るが、ラモンの強い態度に押されて、ラモンと一緒に踊り始める。ラモンはルイサとワルツのステップを踏んで踊る。このシーンでは、クーパー君はステップを踏むたびに半爪先立ちになっていた。普通に靴のかかとを浮かすのではなく、完全にバレエの半爪先立ちだった。やはりバレエ・ダンサーの癖がつい出てしまうのだろう。思わず笑ってしまった。

でもなんかやっぱり、今まで見てきたクーパー君の踊りではないのだ。身のこなし、姿勢、動きに、彼独特の優雅さや流麗さがあまり感じられない。ルイサを演ずるエイミー・アトキンソンの本業は歌手で、まだあまり演技や踊りが覚束ないところがあるので、クーパー君はアトキンソンのレベルとペースに合わせたのかもしれないが。

ラモンはルイサと踊りながら彼女を口説く。だがルイサはラモンの求愛を拒否し、しかもラモンの悪行を激しい言葉で罵る。ルイサはラモンを激怒させる地雷を踏んでしまう。「あなたはスペイン貴族の血を引いていないじゃないの!ドン・アレハンドロの正統な後継者はディエゴだわ!」 それを聞くなり、ラモンは獣のような雄叫びを上げて、机をひっくり返し、椅子をブン投げて、逃げるルイサに詰め寄っていく。「俺が卑しい身分だというのか?俺を見下しているのか?」

激昂したラモンはついにルイサをつかまえる。ラモンは無理やりルイサを抱きすくめ、なんと彼女のスカートをたくし上げ、その下に手を入れようとする。そんなラモンの背後から、剣がラモンの首筋に押し当てられる。またもやゾロが現れたのだ。不意を衝かれたラモンは動けなくなる。

ゾロはルイサを逃がすと、ラモンの首に剣を押し当てたまま、ラモンを自分のほうに向きなおさせる。ラモンは客席に背を向けた格好になる。ラモンの前に立ったゾロは、「これから貴様は、死ぬまで毎晩、鏡を見るたびにこの傷を見ることになるのだ」と冷たい口調でゆっくりと言う。次の瞬間、ゾロは剣を素早く振り回す。ラモンが呻く。ゾロは姿を消す。

ラモンは苦痛にあえぎながら前を向く。すると、白いシャツを着たラモンの胸いっぱいに、大きな“Z”の形に血が滲んでいる。ラモンは絶望した表情で「ああ!」と呻き、両腕を広げて天を仰ぐ。あまりの屈辱と苦痛に歪んだクーパー君の表情がよかった。舞台は暗闇となり、第一幕が終わる。

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第二幕

セーフティ・カーテンが上がって第二幕が始まろうというとき、黒い人影が舞台に現れ、舞台前面の中央に置かれた木の椅子に座った。やがて舞台の真ん中だけがぼうっと明るくなった。椅子に座っているのは、ラモン役のアダム・クーパーであった。しかし、ライトは彼の脚から下だけを照らし、またクーパー君は頭を下げているため、彼の表情は見て取ることができない。クーパー君は力なくだらんと腕を下げて、今にも椅子からずり落ちそうな姿勢で座っている。

ところが、ライトに照らし出されたクーパー君の片足が、いきなりガタン、を大きな音を立てて床を蹴った。それから彼の両足は細かくリズミカルに、また徐々に速度を増しながら、交互に床を蹴っていく。おしゃべりしていた観客は黙り込み、客席全体がシーンと静まり返って、その場に緊張感が張りつめた。全員がアダム・クーパーの激しい足の動きを注視し、また彼の両足が床を蹴る鋭い音に耳を澄ませている。

ライトがアダム・クーパーの全身を舞台の中に浮き上がらせる。クーパー君は相変わらず頭を下げ続けている。その姿勢のまま、彼は両腕を大きく左右対称に旋回させた。そして両腕を頭の上でぴたりと合わせて静止する。ここでようやくクーパー君は顔を上げた。その表情は苦しげである。上半身裸で、その胸には赤い色をした“Z”の大きな傷跡が残っている。ゾロが予言したように、ラモンは胸に傷を刻まれた屈辱に毎夜苦しんでいるのだった。

踊り始めると同時に、クーパー君は渋いスペイン風のメロディで、歌詞なしで唸るように低く長く歌う。そして歌の切れ目で、腕を大きく動かし、足をリズミカルに激しく床に叩きつける。クーパー君は動きと歌の途中で静止し、肩を上下させて苦しげに荒い息を吐く(←もちろん演技)。彼は歌いながら立ち上がり、全身を使って踊り始めた。動きが次第に大きくなっていった。

クーパー君は円を描くように両腕を振り回し、時おり椅子の上に片膝を載せ、体の側面を見せてポーズを取る。それからまた手足を鋭く大きく複雑に動かして踊る。かなり激しい動きで構成された振付だった。フラメンコとバレエとコンテンポラリー・ダンスが混合したような振付である。

踊りの振付そのものはすばらしかった。しかし、肝心の踊り手がいけない。確かに旋回するアダム・クーパーの両腕は闇の中になめらかな流線を描いており、それはいかにも「アダム・クーパー」らしい動きだった。しかし、アダム・クーパーの腕の動きはこんな程度ではないはずだ。彼独特のとびぬけた流麗さ、シャープさ、キレのよさがまだ足りない。

そして、クーパー君は最後に片足だけだったか両足を揃えてだったか、ともかく回転でこのソロを終えた。しかし、その回転も不安定でぎこちなく、ちょっとのろのろしていて(男性バレエ・ダンサーの、コントロールされたゆっくりな回転とは違う)、おっかなびっくりやっているようだった。

この踊りは歌いながらやるので、ひょっとしたら、なかなか両者のバランスがうまくとれないのかもしれない。歌なしの踊りオンリーだったら、もっと違った可能性もある。また、クーパー君が踊りながら歌った“La Ira De Ramon”(「ラモンの怒り」)は技術的にかなり難しい歌だと思う。こういう歌を歌うには、クーパー君はまだまだ歌唱力が足りないのは明らかだ。

総じていうと、彼の踊りは全体的に重たい感じがしたし、歌詞なしで唸るように低音で歌うところは、歌というよりはまるで地獄の底から聞こえてくる亡者のうめき声みたいだった。

クーパー君がこのソロを踊り終えると、観客は待ってましたとばかりに大喝采を浴びせた。アダム・クーパーをよく知らない観客たちにとっては、あんな踊りでも充分にすばらしく見えるのかもしれない。しかし個人的には、あの程度の踊りがアダム・クーパーの踊りだと思われては困る、と思った。アダム・クーパーの本来の踊りは、決してあんなものではない。

また、この舞台で、アダム・クーパーの体が以前に比べて一回り大きくなったように見えるのは、膨張色の白い衣装を着ているせいではなく、またかさばる衣装を重ね着しているせいでもない、とはっきり分かった。

クーパー君の裸の上半身を見て、現実を認めないわけにはいかなくなった。以前のアダム・クーパーが持っていた、肩から腕にかけての美しく盛り上がった筋肉、引き締まった胸筋と腹筋、形の良い大腿の筋肉が落ちていた。筋肉が形作っていた美しい肩は単なる撫で肩になっており、激しく踊るたびに胸や大腿がぶるんぶるんと震えた。腹筋の割れ目はなくなって、ズボンから腰と腹の肉がわずかにはみ出ている。

これらの変化が1年半も舞台に立っていなかったブランクに由来するのは明らかだ。おそらく、舞台に立っていなかった間に、エクササイズやレッスンのために時間を取ることができなかったか、もしくは本人があえて努力と鍛錬を怠ったかのどちらかだろう。アダム・クーパーのこの変貌を最初に見たときには頭が真っ白になった。これはなにかの間違いだと思った。こんなことが起こるはずがないと思った。でも、少し太るくらいならまだ許せる。だが、踊りに影響が出るほど筋肉が落ちるのは許しがたい。

まずはクーパー君に対して、私は失望と怒りの感情を抱いた。そして次には、彼の周囲にはシビアに彼に助言する友人や知人がいないのか、提灯持ちしか、イエスマンしかいないのか、または彼がおべんちゃらを言う人しか近づけなくなっているのか、と不安な気持ちになった。彼の歌は明らかにあまり上手でないし、踊りも(私の「アダム・クーパー・スタンダード」に照らし合わせれば)そんなによくない。どうして音楽監督や振付家は厳しくダメ出しをしなかったのか、と歯がゆい思いが湧き起こってきた。

踊り終えた後も、ラモンは険しい表情をして、肩を激しく上下させながら荒い息を吐いている。そこへ祝祭(フィエスタ)の仮装をしたガルシアがやって来る。ラモンのただならぬ様子を見たガルシアは、おそるおそる「祝祭を許可してもよろしいでしょうか?」とラモンに尋ねる。興奮のおさまらないラモンはガルシアに顔を向けず、声をしぼり出すようにして「よろしい!」と激しい調子で答え、その場を出ていく。

舞台が明るくなり、にぎやかな音楽が演奏され始めた。それと同時に、台の上に据え付けられたマリア像を担ぎ、仮面をかぶって派手な扮装をした人々が、客席の左右の入り口から現れて、通路を通って続々と舞台に上がっていった。バレエは舞台の上しか使わないことがほとんどだけど、ミュージカルは客席も舞台の一部として使うことが多いような気がする。

仮面をかぶってカラフルな衣装に身を包んだ人々は、マリア像を押し戴きながら、舞台の中央で“The Fiesta”(「祝祭」)を歌いながら楽しげに踊る。

ところが、舞台の真ん中で人々がにぎやかに祝祭を楽しんでいる一方、その人々を取り囲む建物の上では別のドラマが進行する。ここの演出は面白かった。歌と音楽が一瞬止まるたびに、舞台上のライトが落とされる。同時に舞台の脇や建物の上にゾロ、ガルシア、ラモン、イネズが現れて、彼らだけにライトが当てられ、彼らが会話を交わす。会話が終わると再び舞台が明るくなって人々が歌い踊る。そしてまたいきなり歌と音楽が止み、ライトが落とされて、主要人物が会話を交わし・・・という具合(分かりにくい説明ですみません)。

舞台の一隅では、祝祭を楽しむガルシアの背後にゾロが忍び寄り、ガルシアの首に剣を当てる。「秘密の囚人がいるだろう、お前はどこまで知っている?」 ガルシアは怯えながら答える。「俺は何も知らないよ。ただ、ラモン司令官が『名無しの囚人』を秘密の牢獄に閉じ込めているっていう噂しか・・・。」 また別の一隅では、ラモンがイネズを問いつめる。「ジプシー女、ゾロが誰なのか、お前は知っているんだろう?」 「知らないわよ。」 するとラモンはイネズの髪を乱暴につかみ、イネズを自分のほうに引き寄せる。「俺はルイサと結婚する。邪魔をするなよ。ルイサと結婚できなかったら、ルイサを殺してやるまでだ。」 ラモンはイネズを突き放す。

兵士たちも祝祭の仮装をして、人々の歌や踊りを見物している。ゾロが背後から忍び寄り、1人の兵士の口を塞いで物陰に引きずりこむ。踊りに気を取られていた兵士が気づく。「カルロス(←この名前じゃなかったが、とにかくスペイン系にはよくある名前だった)はどこに行ったんだ?」 「酔っ払ってどっかをふらついてんだろ。」

祝祭が終わる。ラモンが舞台中央の建物の屋上に立つ。仮装したままの兵士たちはその下に整列する。ラモンは兵士たちに告げる。「明日の明け方、『名無しの囚人』を処刑する。準備しておくように。」 兵士たちは敬礼する。が、1人の兵士が後ろを振り返って客席のほうを向く。なんとそれは兵士と入れ替わったゾロだったのだ。観客がざわめく。ゾロはなるほど、というふうにうなずく。ゾロすなわちディエゴは、父親のアレハンドロがまだ生きていることを確信する。

ラモンに脅されたイネズはルイサの姿を見つけると、ルイサに駆け寄って必死に言う。「ルイサ、お願いだから、私たちのキャンプに隠れて。私を信用してちょうだい!」 ルイサは不思議に思って尋ねる。「どういうことなの!?」 イネズはラモンに脅されたことを言わない。「どういうことかって・・・それはつまり、私は葬式がキライなのよ(あなたに死んでほしくないのよ)!」 観客がドッと笑った。

翌日の夜明け前。広場には誰もおらず、ただ粗末な木の台車の上に、これまた粗末な布を頭からすっぽりとかぶせられた1人の囚人が、木の樽にもたれて座っている。そこへ、天井からゾロがワイヤーをつたって下りてくる。これはスタントマンではなくマット・ロウル本人である。安全ベルトを装着していたから。ゾロは地上に降り立つと、台車に座らされている囚人に素早く近づき、いたわるような声で「お気の毒に!でももう大丈夫、助けに来ましたよ!」と言う。

ゾロが近寄った瞬間、その囚人は頭からかぶった布を外す。なんとそれはラモンだった。ラモンはしてやったりと笑いながらゾロに言う。「思ったとおりやって来たな。」 ラモンはゾロをおびき出すために、わざと「名無しの囚人」を処刑するとホラを吹いたのである。ところで、クーパー君にはわるいけど、私はクーパー君が布の下から現れた瞬間、思わずぶー、と噴き出しちゃいました。なにも軍司令官みずからが囮になることはないじゃないですか。そんなの部下の兵士にでも任せておけばいいのに。

ラモンの声とともに、兵士たちが現れてゾロを取り囲む。ゾロに逃げ場はもうない。ラモンはゾロをあざ笑う。「逃げられるものなら逃げてみろ。」 すると、ゾロは台車の上に置いてあった木の樽の中に身を隠そうとする。もとより逃げ切れるはずもなく、ばかなことを、とラモンと兵士たちは大声で「ふおっふおっふおっ」と嘲笑する。

ちなみにこのシーンでのクーパー君の表情と笑い声はかなりわざとらしく、私は心の中で「悪役商会(『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』に毎回出てきて、毎回最後に成敗される悪代官、悪勘定奉行、悪商人、悪用心棒、悪浪人、悪親分、悪子分を演じている役者さんたちの団体)でいっぺん修行しなさい」と思った。てか、いくら痛快娯楽アクション劇とはいえ、この演出と脚本はあんまりだわ。こんな下らない演技をさせられるクーパー君がかわいそう。

ところが、ゾロは陽気に笑い、樽の中に完全に身を隠す前に、ラモンと兵士たちに向かって手を振ってみせる。ゾロが樽の中に隠れた瞬間、樽のたがが外れて、樽が分解する。中は空である。ラモンは一転して「奴を追え!」と怒鳴る。これはどういうトリックなのかさっぱり分からなかった。樽が置かれた台車と舞台の床の間にはすき間があったから、樽の中から奈落に下りることは不可能なはずだ。う〜ん、ミステリー。

ジプシーたちのキャンプ。焚き火の傍でルイサが眠っている。ルイサはイネズに言われたとおり、ジプシーたちのキャンプに寝泊りしているのである。ルイサは悪夢にうなされたのか、いきなり悲鳴を上げて飛び起きる。離れて眠っていたジプシーの口の利けない少年、チェゴがそれに気づき、心配そうにルイサに駆け寄る。ルイサは胸を押さえながらも「大丈夫よ」とチェゴに言う。

そこになんとゾロが駆け込んでくる。ディエゴはジプシーたちと行動をともにしているので、当然ゾロもジプシーたちのキャンプを本拠地にしているわけである。ただし、ディエゴ=ゾロであることを知っているのは、今のところはチェゴだけである。ゾロはルイサの姿を見て驚き、足早にルイサの前から去ろうとする。だがルイサはゾロに追いすがり、ゾロの腕をつかんで放さない。ゾロはルイサを振り切ろうとするが、ふと踵を返してルイサを強く抱きしめると、ルイサに熱い口づけをする。呆然とするルイサを放し、ゾロは走り去っていく。

橋の上。ルイサとディエゴが橋の左右に立って、“A Love We'll Never Live”を歌う。彼らは互いの存在には気づかずに歌う形になっているが、ちゃんとした二重唱になっている。橋の下では、白いシュミーズ姿の少女と、上半身裸に白いズボンを穿いた少年が踊る。これは劇の本筋とは関係ない「挿入舞」らしい。この踊りの振付はバレエの動きがメインで、たまにラテン系ダンスの振りが入ったものである。動きを見て分かったが、ふたりともバレエをバック・グラウンドとする役者だろう。特に男性の踊りがすばらしく、ポーズや動きもきれいだった。

男性の余計な肉のまったくない、筋肉だけの上半身を見て、またきれいなポーズや動きを見て、本来のクーパー君なら、こんな若造には負けてないのに、と悔しく思った。もちろん、第二幕冒頭でのクーパー君の踊りの振付は、あらゆるジャンルの踊りの振りが混合された難しいもので、クーパー君はそれを見事に踊ってみせた。また、クーパー君の踊りには舞台慣れしたプロフェッショナルな雰囲気と余裕と威厳があった。しかし一方では、彼の体はまだ元に戻っておらず、更に動きもまだ本調子ではないことも確かであって、それを思うと、キャリアの浅いであろう若い役者の踊りにさえ、私は嫉妬してしまうのである。

早朝。イネズたちをはじめとするジプシーの女たちがだるそうに、頭を押さえながら今日も「ジプシー酒場」の開店に取りかかる。祝祭で飲みすぎてみな二日酔いらしい。彼女たちは痛そうに顔をしかめて、机や椅子を並べる。そこへガルシアがやって来る。

ガルシアはジプシー女たちと軽口を叩きあい、ラモンがゾロによって胸に大きな“Z”字型の傷をつけられたことをつい漏らしてしまう。その後ろから、当のラモンがゆっくりと近づく。ジプシー女たちは一斉に「ヤバい」という表情になり、身振り手振りでガルシアにやめろと伝えようとするが、ガルシアは平気でしゃべり続ける。観客がクスクスと笑う。

ラモンは不気味な微笑を浮かべて「ガルシア軍曹!」と声をかける。ガルシアは途端に背筋を伸ばしてすくみあがる。ラモンはガルシアを叱り飛ばすことはせず、ただ今晩再びゾロの捜索に取りかかる、と伝えて去る。うーむ、ここでラモンを登場させる意味はなんだろう?お笑いのシーンにラモンを登場させても、ラモンは筋金入りの悪役という設定だから、クーパー君は観客を笑わせる演技をすることは役柄上できない。やっぱり脚本と演出はまだまだ改善の余地あり、だなあ。

イネズはビールを注いでガルシアに飲ませる。ガルシアとジプシー女たちが“One More Beer”を一緒に歌い始める。非常に明るい調子の軽快で陽気な曲である。この“One More Beer”は、どっかのサイト(サウザンプトンの劇場のサイトだっけ?)にあった「ゾロ」リハーサル映像で、ガルシア役のニック・カヴァリエールと女性キャストたちが歌っていた。ガルシアは“One more beer!”と叫びながら、ビールを次々と飲み干す。

歌っていたガルシアの様子が徐々におかしくなり、股間を押さえて苦しげな表情になる。ビールの飲みすぎで急激な尿意を催したらしい。ガルシアはふらついた足取りで立ち上がると、舞台の脇に立って、客席に背を向けて立ち○ョンをする。観客は“Oh!”と声を上げて爆笑した。もちろん真似だけで本当にやったわけではないけど、「ほー、殿方はこうやって用を足すのね」と勉強になった(知ったところで何の役にも立たないが)。終わった後は腰を上下にゆさぶって、「水気」を切るらしい。

ガルシアは千鳥足でジプシー女たちのところに戻り、何を思ったか、洗っていない手でいきなりイネズの手を握る。イネズは「ひえっ!」と悲鳴を上げて、あわてて握られた手を振り払い、自分の手を汚そうに見つめる。観客はまた大爆笑。やっぱり洗ってない手で握られるのは、世界共通、どの民族の女でもイヤなのね〜。

ガルシアは「俺は背が低いし、男前でもないから、どうせ女にはモテない」とぼやく。それを聞いたイネズは静かな顔でガルシアに近づき、今度は自分からガルシアの手を取る。イネズは「こっちの手はここ、こっちの手はこんなふうに」と言って、ガルシアの手を取って自分の腰に当てさせる。そしてガルシアをリードしてゆっくりと踊り始める。ガルシアはステップを間違えてイネズの足を踏んづけてしまう。イネズは思わず「痛っ!」とつぶやく。ガルシアはあわてて「すまん」と謝る。イネズはかまわず、その後も「そうよ、そう。上手よ」とガルシアを褒めて踊り続ける。

再びガルシアと女たちは“One More Beer”を歌う。ガルシアは歌いながら、いきなりイネズの前に片膝を立てて跪き、イネズの片手を取る。この時点で観客が笑い始めた。男性が女性の前に片膝を立てて跪く、という動作が意味するのは一つしかない。イネズは顔をこわばらせる。ガルシアはゆっくりと最後の歌詞を歌う。“Will you marry me〜♪” イネズは手を上げて叫ぶ。“One more beer!” 次の瞬間、舞台のライトが落とされる。だが、その中にぽっかりと、まんざらでもなさそうなイネズの顔が浮かぶ。ライトが完全に消えると、観客は大声で囃したてた。

広場。ラモンが建物の屋上に現れる。ディエゴがやって来てラモンに声をかける。ラモンは、ディエゴがゾロだとはもちろん気づいていない。ラモンは笑顔を浮かべてディエゴと話し込む。ディエゴは相変わらず能天気なお調子者を演じている。しかし、腹の中ではラモンから秘密を探ろうとしているはずだ。ラモンはそんなこととは露ほども知らない。ディエゴは「死んだ」父親の悪口を言い、貴族という「面倒な」家系に生まれたことを嘆いてみせる。

それを聞いたラモンは寂しそうに微笑む。ラモンはディエゴに“My friend”と呼びかけ、静かな口調でつぶやく。「君は幸せなんだよ。何でも持っている。僕は君が羨ましい。君には僕の気持ちは理解できないだろうね。」 クーパー君の寂しげな表情と口調のおかげで、ラモンがいよいよかわいそうになってしまい、思わず胸がつまった。

これがラモンの本音である。ラモンは実の父親であるアレハンドロから、息子としてふさわしい扱いを受けなかった。一方、ディエゴはアレハンドロから溺愛され、好き勝手に暮らしている。ラモンは劣等感と不公平感に苛まされて、暴力的な衝動を抑えきれない、粗暴で冷酷な人間になってしまった。ラモンは自分がみなから嫌われていることを承知している。でも、愛情というものを知らない彼は、どうしたらいいのか分からない。結果、人々を暴力で押さえつけることしかできないのだ。

でも、「悪人」のラモンが抱いている、孤独で寂しい心中を吐露するこのシーンもあっさりと終わってしまった。ラモンにもそれなりに同情する余地があるということを観客に分からせるシーンには、もっと時間をかけるべきだ。「勧善懲悪痛快娯楽アクション劇」と「人間劇」を無理に両立させようとしたことに由来する脚本と演出の不手際だろう。何度もいうが、ウエスト・エンドに進出する際には、ぜひ脚本と演出の見直しと修正をしてほしい。

ジプシーのキャンプ。ジプシーたちは色とりどりのリボンを垂らした木をあちこちに立てる。イネズたちが“Djobi Djoba”(←何て発音するかって?「ジョビ、ジョバ」と聞こえました)を歌いながら踊り始める。これもジプシー・キングスの有名な曲だそうである。ルイサは呆気に取られてそれを見つめる。イネズは戸惑うルイサを無理やり踊りの輪に加わらせる。ルイサは白い地味なドレスを着ている。イネズをはじめとする女たちは、カラフルなサッシュやショールをルイサに巻きつける。これで少しはジプシー女らしい華やかな感じになった。ルイサは戸惑いながらも、ジプシー女たちの真似をして踊り始める。ルイサは徐々に本心から楽しそうに踊り、ジプシーたちに自分の踊りを自信たっぷりに見せつける。ジプシーたちが喝采を送る。

この“Djobi Djoba”では、なんといってもイネズ役のレスリー・マルゲリータが最もすばらしかった。彼女の魅力全開のパフォーマンスであった。よく透る力強い歌声、華やかでセクシーな雰囲気、キレのよい美しい踊り、すべてが実に魅力的だ。カラフルな衣装を着たジプシーたち全員が舞台いっぱいにひしめいて歌って踊り、明るい調子のテンポのよい曲とキャストたちの踊りのおかげで観客も大いに盛り上がった。“Djobi Djoba”が終わってキャストたちが決めのポーズを取ると、怒涛のような拍手喝采が会場に轟いた。この舞台のベスト・パフォーマンスだと思う。

ところが楽しい雰囲気も束の間、ラモンが兵士たちを率いて現れる。ラモンはゾロがジプシーたちと関係があるらしいと察して捜索にやって来たのである。ルイサがいるのを見つけたラモンは、兵士たちにルイサを連行するように命令する。ルイサは兵士たちに両脇をつかまれ、無理やり連れ去られていく。

ラモンはガルシアに、ここにとどまってジプシーたちを監視するように命じて去っていく。ガルシアは気まずそうな表情で、長銃を抱えて立ち尽くす。イネズがガルシアに詰め寄る。「あんな男の命令に簡単に従って、あたしたちを監視するの?あいつは心というものを持たない男よ。それなのに、あんたはいつでもあんなやつの言いなりなの!?」 ガルシアは弱々しい表情と声音で言う。「男っていうのは、こうするより他ないんだ。」 イネズは反論する。「男っていうのは、どうにでも行動できるものだわ!」

場面は変わって、ディエゴとチェゴがいる。ディエゴはルイサが連れ去られたことをまだ知らないらしい。ディエゴは何やら悩んでいる様子である。「ルイサは以前は俺(ディエゴ)を愛していた、でも今は『ゾロ』を愛している。だが『ゾロ』は俺で、でもルイサが愛しているのは俺ではなく『ゾロ』なんだ。」 記憶が確かではありませんが、ここでマット・ロウルが“Myself”を歌ったかもしれません。

ディエゴは考えているうちに癇癪を起こして、チェゴに八つ当たりする。「もとはといえば、チェゴ、お前が扮装すればいい、と言い出したからじゃないか!ここから消えろ!行っちまえ!」 ディエゴの剣幕に恐れをなしたチェゴは逃げ出す。我に返ったディエゴは「チェゴ!」とあわてて呼び止めるが、チェゴは駆けていってしまう。

ジプシーのキャンプ。ディエゴはイネズから、ルイサがラモンに連れ去られたことを聞く。イネズは意味ありげに言う。「あたしは真実を知っているのよ。」 ディエゴはてっきり、自分がゾロであることをイネズが知っていると思ってたじろぐ。ところが、イネズは腕組みをしながら、やや目を落とし、自分に言い聞かせるように言う。「あなたが愛しているのは、ルイサなのよね。」

広場。ルイサが処刑台にくくりつけられている。階上に立ったラモンはルイサを冷然と見下ろし、ニヤリと笑いながら言う。「お前が処刑されるとなれば、奴(ゾロ)は必ず現れるだろう。」 ルイサはラモンを罵る。「あなたは欲望だけの人間なのね!」 ラモンは開き直ったように笑ってうなずき、不気味に優しい声音で言う。「そう、俺は欲望だけの人間だ。以前はお前が欲しかったが、今はお前の死が欲しい。」 言い終えると、ラモンは長銃を持った兵士たちに号令をかける。「構えろ!・・・さあ、奴は現れるだろうよ。・・・撃て!」

その瞬間、ゾロが現れる。ラモンは笑って「やはり来たな!」とつぶやき、兵士たちに「奴を捕らえろ!」と命令する。だが、ゾロは兵士たちを次々と剣で振り払う。すると、ラモンはなぜか姿を消す。ゾロは後ろ手に縛られていたルイサの縄を断ち切るとルイサに剣を渡す。ルイサも剣の達人である。ゾロとルイサは兵士たちと闘う。

そこへ、階上にラモンが再び姿を現わす。ラモンの足元には縛られたチェゴがひざまずいている。ゾロとルイサは呆然とする。ラモンは勝ち誇ったように叫ぶ。「こいつを殺されたくなかったら、剣を下に置け!」 ゾロはためらうが、やがてあきらめたように剣をゆっくりと地面に置く。ラモンは嘲笑する。「よくぞ俺の言うことを聴いてくれたな・・・これはお礼だ!」 ラモンは言うなり剣でチェゴの喉をかき切る。

ゾロの「やめろ!」という絶叫とともに、チェゴは喉から血を出しながら、ゆっくりと倒れて息絶える。ラモンが剣でチェゴの喉をかき切った瞬間、客席からも「ああ!」というため息が漏れた。確かにこれは残忍なシーンだった。チェゴが口が利けない少年だという設定も悲劇性に拍車をかけている。演技だと頭では分かっていても、見ていてかなりショックだった。

ゾロとルイサの周りを、長銃を構えた兵士たちが取り囲む。ラモンはゾロに追い討ちをかける。「次はルイサが死ぬのを見たいかね?」 兵士たちが銃口をルイサに向ける。ゾロはひざまずいてうなだれる。兵士たちはゾロをついに取り押さえる。ラモンはゾロに近づいてマスクを外そうとするが、ふと思いついて言う。「せっかくの楽しみだ、こいつのマスクは明日のルイサとの結婚式のときに外してやろう。こいつの目の前で、俺とルイサの結婚式を執り行なうとしようか。」 ゾロは兵士たちに連行されていく。

ラモンはルイサに尋ねる。「ゾロの命を助けたいだろう?」 ルイサは黙って首をコクコクと動かしてうなづく。「だったら、俺の言うことを聴いてもらおうか。・・・一応、手順を踏んでおこう。」 ラモンはルイサの前に片膝をついてひざまずく。「ルイサ、俺と結婚してくれ。」 ルイサはしばらく沈黙して身動き一つしなかったが、やがて黙ったまま再びコクコクと機械的にうなずく。ラモンと兵士たちはルイサを連れて去っていく。

ジプシーたちがほとんど悲鳴のような、悲しげな声を上げて歌い始める。ジプシーたちはチェゴの死体を丁寧に抱きかかえて階上から下ろし、小さなチェゴの体をみんなで抱え上げながら去る。

ゾロは狭い牢獄の中に閉じ込められている。牢獄のセットは、牢獄を横切りにした構造で、真ん中にある檻を仕切り板にして、左側が牢屋、右側が兵士が見張る廊下となっている。若い兵士が見張っていると、ガルシアが入ってくる。ガルシアは若い兵士に「しばらく休憩してこい。俺が交代するから」と言って出て行かせる。ガルシアは檻を背もたれにして座っているゾロを黙って見つめる。

やがてガルシアは意を決したように、押収したゾロの剣を手に取る。そして檻の間からゾロに剣を渡そうとする。だがゾロは警戒して剣を受け取ろうとしない。ゾロはガルシアに問いかける。「なぜこんなことを?」 ガルシアは弱々しい声で答える。「あんたのほうが正しいと思うからだ。逃げてくれ。後は俺がなんとかするから。」 ゾロは言う。「ラモンはどうする?あいつはお前をただでは済ませないだろう。」 ガルシアは「確かにラモン司令官は『心というものを持たない男』だ。アレハンドロ総督の死だって、ラモン司令官の陰謀だっていう噂があるし・・・」と答える。

その言葉を聞いたゾロは、はじめてガルシアに向き直って尋ねる。「君が知っていることをすべて教えてくれないか。」 ガルシアが話し始める。「みんなの噂では、『名無しの囚人』がいて、それがどうやら前の総督らしいんだ。前総督はラモン司令官の差し金で、『隠された監獄』に幽閉され続けているっていう話だ。でも、その『隠された監獄』がどこにあるのかは、誰も知らないんだよ。」

ゾロは床をバンと大きく叩いて「剣を!」と怒鳴る。ガルシアはあわてて剣をゾロに手渡そうとする。が、ゾロは床の音と自分の大声が奇妙に反響していることに気づく。ゾロはあらためて床を叩く。「この下には空間があるみたいだぞ!」 ゾロはガルシアから剣を受け取ると、床を剣でこじ開けようとする。

白い長いシュミーズを着たルイサが立っている。彼女の後ろには椅子が並べてあり、そこには花嫁のドレス、ヴェール、ネックレスなどを抱えた街の女性たちが、悲しげな顔で座っている。ルイサは冴えない表情で“The Man Behind the Mask”を歌い始める。静かでもの悲しいメロディの歌である。女性たちが順番に立ち上がり、ルイサに花嫁の衣装や装身具を身につけさせていく。ルイサは花嫁の姿となる。

歌が終わると同時に背後の幕が開き、いつもの軍服姿のラモン、結婚式を執り行なう司祭、ガルシアをはじめとする兵士たち、イネズと他のジプシーたち、街の人々が立っている。舞台の奥には木製の巨大な十字架が吊り下げられている。イネズは硬い表情をして、沈んだ声でルイサに「・・・結婚、おめでとう・・・」とつぶやいて去っていく。

兵士たちがゾロを連行してきて、乱暴にゾロを突き飛ばして地面に座らせる。ラモンは勝ち誇った表情でゾロに近づく。「さて、その顔をみせてもらおうか。俺とルイサの結婚式の立会人になってくれ。」 ラモンはゾロの帽子を取り、マスクをゆっくりと外す。

だが、ゾロのマスクを外した瞬間、ラモンは驚愕して飛び退く。そこにいたのは、ラモンが幽閉していた前総督、アレハンドロ・デ・ラ・ヴェガだったのだ。ゾロとガルシアが助け出したのだろう。すっかり混乱したラモンはアレハンドロを指さし、あわてて兵士たちに命令する。「この男を殺せ!」 しかし、ガルシアも兵士たちも動かない。彼らはアレハンドロに向かって静かに敬礼し、尊敬と服従の意を示す。そして、一転してラモンに銃口を向ける。

ガルシアがラモンの前に立ちふさがる。ガルシアはラモンの胸に剣を突きつけ、強い口調で言う。「貴様の悪運もこれまでだ。貴様がこれからも人々に悪行を働くのなら、今度はこの俺が貴様の胸に“G”(Garciaの頭文字)の傷をつけてやるぞ!」 観客が爆笑しながら拍手喝采する。クーパー君はといえば、表情は崩さなかったが、唇をぐっと結び、必死に笑いをこらえている様子だった。

ついに追いつめられたラモンはルイサに駆け寄る。ラモンはルイサの首を左腕で乱暴に抱え、右手に持った剣を彼女の首に当てる。ラモンはアレハンドロを睨みつけながら、「司祭!早く式を進めろ!」と怒鳴る。司祭は「しかしこれでは・・・」と戸惑う。ラモンは司祭を怒鳴りつける。「この女を殺すぞ!」 途端に司祭はあわてて「本日、我々はこの男性とこの女性とを結びつけるためにここに集い・・・」と式辞を述べ始める。ラモンが怒鳴りつける。「省略しろ!」 司祭は早口で言う。「ラモン、あなたはこの女性を妻とすることを望みますか?」 ラモンは間髪入れずに叫ぶ。「望む!」 司祭はルイサに尋ねる。「ルイサ、あなたはこの男性を夫とすることを望みますか?」

喉元に剣を当てられたまま、ルイサはしばらく答えない。ラモンがルイサの首を強く締め上げる。やがてルイサは苦しげな表情で「私は・・・望み・・・」と言いかけたところで、ゾロがいきなり現れて真ん中に降り立つ。ラモンがひるんだ瞬間、ゾロは素早くルイサを助け出す。その場は騒然となる。人々は散り散りに逃げ去ってしまい、ルイサもガルシアとイネズに庇われながら脱け出す。(注:このシーンで、舞台のあちこちにジプシーたちや街の人々が化けた何人ものゾロが現れた、とブログのほうでは書きましたが、たぶんそれは正しくありません。でもどのシーンでだったかはもう思い出せないので、とりあえずここに書いておきます。)

ゾロ、アレハンドロ、ラモンの3人だけがその場に残る。ゾロとラモンは激しく剣を交わせる。ゾロはついにラモンの剣を跳ね飛ばし、ラモンを切り殺そうとする。しかし、アレハンドロが大声で叫ぶ。「やめろ、彼はお前の兄弟だ!」 その言葉を聞いて、ゾロもラモンも愕然とする。ラモンは驚愕した表情を浮かべてゾロを見つめる。ゾロはゆっくりとマスクを外す。マスクの下は、呆然とした表情のディエゴだった。

表向きには自分の「友人」で、実は自分の異母兄弟であるディエゴが、なんと自分を散々愚弄し、胸に大きな傷を残して屈辱の跡を刻みこんだ「ゾロ」だった。ラモンは絶望したように笑い出す。だが次の瞬間、ラモンはディエゴに激しい勢いで切りかかる。ディエゴは反射的にそれを受け止め、実の兄弟であるラモンとディエゴは場所を大きく移動しながら、激しく剣を戦わせる。

アレハンドロは戦うラモンとディエゴに向かって、「やめろ、やめるんだ!」と叫んで必死に制止しようとする。ラモンは戦いながらアレハンドロを罵る。「今さら遅い!どうせあんたはディエゴだけがかわいいんだろう!?」

ラモンは巨大な十字架を吊り下げていたロープを断ち切る。十字架は大きく倒れて、斜めにぶら下がった状態になる。ラモンは倒れた十字架に駆け上り、十字架の上に仁王立ちになってディエゴとアレハンドロを見下ろす。このとき、クーパー君の白いシャツは大きく胸がはだけ、シャツの裾もズボンからはみ出していた。クーパー君の顔も絶望と憎悪に歪んだ、目を血走らせた凄まじい表情になっている。追いつめられたラモンの悲痛な心情がよく出ていた。

そして、ラモンが腰から抜いたのは短銃だった。ラモンは凄絶な表情で笑いながら、実の父親、アレハンドロに銃口を向ける。ラモンは自暴自棄な表情で、笑いながらディエゴのほうを向いて叫ぶ。「さあ、俺たちの父親の死を見届けようか!」 ラモンは最後の最後で、自分がディエゴの兄弟であることを認めたのである。ラモンはアレハンドロに狙いを定める。

これも本当は重要な演出なのだ。ラモンが銃口を向けたのは、自分を散々に翻弄して屈辱を舐めさせたディエゴではなく、ほとんど無抵抗で幽閉されていた父親のアレハンドロだっていうところが。実の父親であるアレハンドロに対するラモンの憎しみは、ゾロ(つまりディエゴ)に対するそれよりもはるかに強いことが分かる。ラモンは銃の引き金を引く。

だがその瞬間、短剣がラモンの胸に突き刺さる。短剣はラモンの心臓を貫く。ラモンは即死して十字架の上に倒れ、逆さ吊りになって死ぬ。ディエゴは短剣を投げた手を下ろすと、呆然とした表情になってうなだれる。ちなみにラモンが十字架に上がった時点で、クーパー君はセリフを言いながら、十字架にあらかじめ据え付けてあったロープに足首を引っかけていた。それで、逆さ吊りの状態になれるという仕掛けである。

ルイサが現れ、ゾロの後ろ姿を見つめる。うなだれていたゾロがゆっくりと振り向く。ルイサはゾロの正体がディエゴであったことを知るが、ただ黙ってディエゴを見つめ続ける。

結婚式。結婚するのはディエゴとルイサである。総督に返り咲いたらしいアレハンドロが祝辞を述べる。「勇敢なるディエゴ・デ・ラ・ヴェガとルイサ嬢がここに結婚することになった!」 白いドレスを身につけたルイサが、女性たちに祝福されながら前に押し出される。だが、ルイサはどことなく複雑そうな表情をしている。デヴィッド・ビントリーの「美女と野獣」のラストを思い出した。ルイサが愛していたのは、ディエゴではなくゾロだった。しかし、ゾロはディエゴだった。ルイサは今ひとつ納得してないようだ。

それにしても、このアレハンドロっていうオヤジはどうしようもないな。諸悪の根源はこのアレハンドロで、アレハンドロが正式にラモンを息子として認めなかったことが、粗暴で冷酷無比なラモンの人格を作り出し、アレハンドロ自身の幽閉と軍政による地域の混乱を招いて、最後には実の兄弟が殺しあうという最悪の結末を引き起こしたのである。それなのに、反省のカケラもないばかりか、逆に超陽気で浮かれているこの態度。ほんとバカ。

ご機嫌の(←皮肉を込めた表現)アレハンドロは続けて叫ぶ。「そして、ここにもう1人、勇敢な人物を迎えることができた!ガルシア司令官!」 司令官の軍服を着たガルシアが照れながら前に歩み出る。

しかし、イネズがいきなり大声で叫ぶ。「彼は勇敢ではないわ!」 みんなは驚く。イネズはガルシアの前に立って続ける。「まだ勇敢さが足りないわ!・・・ジプシー女にキスする勇敢さが!」 ガルシアは目をつむり、黙ってクチビルを突き出す。てめえはジュリエットか。イネズは強い口調で言う。「あんたがあたしにキスするの!」 ガルシアは一瞬戸惑うが、すぐにイネズを強く抱きしめ、斜めに倒して、イネズに覆いかぶさるように熱烈なキスをする。一同が(ついでに観客も)手を叩いて囃したてる。

いまいち納得のいかない表情だったルイサも明るく笑い、ディエゴと抱きあってキスをする。ディエゴとルイサ、ガルシアとイネズ、二組のカップルをみなが祝福する中、幕が下りる。

カーテン・コールは大いに盛り上がった。ある日の公演は観客が総立ちのスタンディング・オベーションとなった。どのキャストにも大きな拍手と喝采が送られたが、ただ、ラモン役のアダム・クーパーが出てきたときには、客席から一斉にブーイングが飛んだ。でも聞いていると、どうしても悪意のあるブーイングとは思えない。明らかにふざけてやっていたようだった。クーパー君は、ある日は「やれやれ」という顔で、またある日はラモンの顔に戻って、ニヤリ、と意地悪い感じで笑ってお辞儀をした。

終演後にアダム・クーパー自身に問うたところ、悪役を演じたキャストがカーテン・コールに出てきたときには、観客はあえてブーイングを送るのだそうだ。それが礼儀らしい。クーパー君が言うには、「英国的な」反応ではないか、ということである。実際に、ロンドンのロイヤル・バレエが上演した「眠れる森の美女」のカーテン・コールでも、魔女カラボス役のダンサーが出てきたときにはブーイングが飛んだ。よって、クーパー君の説明は本当であると思われる。

キャストたちが舞台上に勢ぞろいすると、いきなり“Bamboleo”が演奏され、キャストたちは一斉に踊り始めた。第二幕冒頭でのアダム・クーパーのソロにはほとんど見とれなかったが、カーテン・コールでのクーパー君の踊りには見とれてしまった。やはりキャスト全員が踊ると、アダム・クーパーの踊りが最も際立っていることが分かる。「おまけ」の踊りに最も感動するとは情けないような気がするが、でもカーテン・コールで、すんでのところで救われたという感があったことは否めない。

リズミカルな“Bamboleo”の音楽に乗って、クーパー君は「こう踊ったらどうだろ?」的な、彼独自に工夫した動きで踊っていた。片足だけでゆっくりと回転しながら、上げた片足を前後に揺らしている。たぶん、振付を担当したラファエル・アマルゴから、カーテン・コールではこう踊れ、とキャスト全員が振りを教えてもらったのだろうけど、クーパー君はそれに更に自分で工夫を加えて踊ったようだった。

この公演には、本職のフラメンコ・ダンサーが10名くらい参加している。カーテン・コールの途中で他のキャストたちは脇に寄り、フラメンコ・ダンサーたちが舞台の中央でフラメンコを披露した。さすが本物は違う(気がする)。凄い迫力で、ステップでものを言っている感じがする。

カーテン・コールでのクーパー君はニコニコとよく笑い、実に楽しそうだった。お辞儀をするときにキャストたちが並ぶ位置はけっこういいかげんで(主役と脇役が混ざってる)、クーパー君は準主役なのにいつも端っこのほうにいた。で、何をしてるのかというと、他のキャストとおしゃべりしているのだ。もちろんお辞儀は客席を真っ直ぐに見つめて(観客の反応を冷静に観察するようなあの目つきで)ちゃんとやるし、カーテン・コールの音楽に合わせて手拍子も打つ。だが、暇をみては他のキャストとしゃべったり、目くばせしあったり、笑いあったりしていた。

意外なことに、アレハンドロ役のアール・カーペンターとすっごく仲がいいみたいだった。私が観た3公演のカーテン・コールで、いつもクーパー君とカーペンターさんは一緒に並んでいた。互いに盛んに肩を組み合ったり、クーパー君がカーペンターさんに何か言って、カーペンターさんが身をよじらせて大笑いしたりと、クーパー君はこの「ゾロ」でまた良い友人を得たようだ。

他にも、クーパー君はイネズ役のレスリー・マルゲリータ、ルイサ役のエイミー・アトキンソンとしきりに目くばせをしては笑いあっていた。そういえば、「ゾロ」リハーサル映像でも、振付担当のアマルゴに頭を盛んに撫でられていたし、本当に人との縁には恵まれる人だわね。

カーテン・コールでのクーパー君の嬉しそうな、また楽しそうな笑顔とカッコいい踊りとを見て、私は、アダム・クーパーが舞台に帰ってきた、今はそれでいいじゃないか、と思うことにした。この「ゾロ」は、アダム・クーパーがパフォーマーとして1年半ぶりに復帰した最初の舞台なんだから、長いブランク明けの彼にいきなり最上のパフォーマンスを求めるのではなく、もうしばらく様子を見よう、と思い直した。

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(2008年4月19日)


告白

ある日の公演の終了後、アダム・クーパーのデマチをした。楽屋口で彼が出てくるのを待った。夜遅かったので、デマチをしているファンはほとんどいなかった。私の他には、若い女の子の一団(4、5人くらい)がいるだけだった。

間もなくクーパー君が出てきた。しかし、彼は携帯電話を持って話しながら出てきて、待っている私たちには目もくれず、駐車場のある方向へ足早に歩いていってしまった。女の子の一団は「彼は、今日はファンの相手をしたくないのね」と言っていた。私も同感だった。クーパー君は、デマチするファンの相手をするときには愛想が良いのだが、都合が悪いときにはファンと視線を合わせずに足早に去ってしまうのである。

だが、今日を逃したら、私にはもうデマチをするチャンスがなかった。他の日は「ゾロ」が終わったら、すぐにロンドンに戻らなければならなかった。次はいつクーパー君に会えるのか?半年後?1年後?1年半後?それとももっと後?こんなふうに追いつめられたとき、私は後先考えずに行動する癖がある。私はクーパー君の後を追って猛ダッシュした。

携帯電話で話しながら歩いているクーパー君の後ろ姿が見えた。私は大声で何度も「アダム!」と呼んだ。彼は電話をしたまま振り返ると立ち止まった。彼は「仕方がないな」という表情をして、早口で電話の相手に何か言うと、電話を切ってポケットにしまった。

私は「邪魔をしてごめんなさい」とまず謝った。そしてサインをしてもらった。クーパー君は、その直前まで不機嫌だったとしても、いったんファンの相手をするとなると、途端に愛想が良くなる。私は「写真を撮ってもいいですか?」と彼に尋ね、写真を撮らせてもらった。写り具合をその場でチェックしたら写りがよくなかったので、彼に場所を移動してもらって撮り直した。クーパー君はこうして、ファンの図々しい行動をある程度まで許してしまうのである。

クーパー君のサインと写真は、私にとっては「戦利品」のようなものだ。飛行機代や宿賃に高いお金を費やして、更に遠い日本から長い時間をかけてはるばる来たのだから(←非常に一方的な考えであることはよく分かっているけど)、サインと写真は必ず欲しい。

私は緊張しながら言った。「舞台に立つあなたが見られて本当に嬉しいです。1年半も、あなたのパフォーマンスを観ていませんでしたから。」 クーパー君は「ショウを楽しんでくれた?」と聞いてきた。ファンに対する無難な質問である。私は答えた。「もちろんです!本当に楽しかった。ジプシー・キングスの音楽もよかったし、フラメンコやスパニッシュな踊りもよかったです。」

それから、どうしてこういうことになってしまったのか、今もって私にも分からない。とにかく私は「でも、あなたのパフォーマンス、演技、歌、踊り、仕草は、まだ完全に元に戻っていない、と私は思います」と彼に言った。その瞬間、彼は表情はまったく変えなかった。しかし目つきががらりと変わった。ただでさえ相手の目をまっすぐに見つめる彼の目が、更に突き刺すようにまっすぐにこちらの目を見つめてくる。彼は「いつと比べて?」と早口で聞いてきた。

彼がまともに私と話をしてくれたのは、これが最初だろうと思う。私は彼の目から視線を外さなかった。負けずにまっすぐに見つめ続けた。「1年半前です。『ガイズ・アンド・ドールズ』。私は観ました。『ガイズ・アンド・ドールズ』では、あなたはほんのちょっとしか踊らなかった。」 彼はうなずいた。「でも、あなたの踊りは、本当にすばらしいものでした。演技も、歌もすばらしかった。」 私は最後にこう言った。「私は、あなたの今回のパフォーマンスは『ガイズ・アンド・ドールズ』ほど良くはない、と思います。」

彼は黙ったままだった。私はほとんど泣きそうになった。あわてて言った。「ごめんなさい、私は本当に失礼です。」 彼は首を振って、いいや、という仕草をしてくれた。私は続けて言った。「私は、あなたを傷つけようというのでは決してありません。これだけは信じて下さい。」 彼は「もちろん、それは分かっているよ」と答えた。そして「もう行かなくちゃ」と言った。私は「邪魔をしてごめんなさい。さようなら」と返した。彼は駐車場のほうへ走っていった。

再び楽屋口の前を通って駅に向かった。楽屋口にはまだあの女の子たちの一団がいた。彼女らのお目当てのキャストは他にもいるらしい。彼女らの前を足早に歩いて過ぎたとき、「彼女は勇敢だわ」と言っているのが背後から聞こえた。確かに、デマチの相手をしたくないキャストを追いかけるファンなんて、勇敢=図々しいだろう。私がアダム・クーパーに何を言ったか、彼女らが知ったらどう思うだろう。

ロンドンのウォータールー駅に向かう電車には乗客がほとんどいなかった。遊び帰りらしい若い子たちが数人、同じ車両の前のほうでにぎやかに騒いでいる。私は罪悪感でいっぱいだった。あんなことを言わなければよかった、なんで言ってしまったんだろう、これで彼は私を嫌いになる、私がもし彼の立場だったらすごい辛いだろうに、なんで私は彼の心を思いやらなかったの?こんな考えが頭の中をぐるぐる回っていた。

ふと、ある友人が私に対して言ったことばが浮かんだ。「あなたには、罪悪感を抱くことで、その行動のけりをつけたつもりになってしまう癖がある。」 友人は私に「自分がしてしまった行動の結果を、自分の責任で受け止めなさい」と言いたかったのだ。

私はすでに彼にあんな言葉を投げてしまった。それはもう取り返しがつかないことだ。その言葉をどう受け止め、処理し、今後、私に対してどんな態度をとるかを決める権利は彼にある。たとえ彼が私を嫌おうと、私はそれを受け入れなくてはならない。私は、彼に嫌われても仕方がない、と覚悟を決めた。

また別の考えも頭に浮かんだ。「言わないで後悔する」のと、「言って後悔する」のと、どっちがいい?私は即座に「言って後悔する」ほうがいい、と思った。

帰国後、例の友人に相談した。この友人はアメリカの大学院を修了しているので、英語はもちろんペラペラである。友人は私に尋ねた。「具体的には何て言ったの?」 「あたしは婉曲な言い方なんて知らないから、直接的に言ったよ」と前置きして、私は彼に言ったことばをそのまま再現した。友人は愉快そうな顔で笑いながら「ははあ、良い薬になったんじゃない?」と言った。

私「あたしのこと、嫌いになったかなあ。」 友人「器の小さい人ならね。」

いい年して恥ずかしいが、母親にも相談した。母親は日舞をやっているので、踊りの難しさと舞台に立つことの恐さをよく分かっている。それで、私がひどいことを言ったダンサーのほうに感情移入したようだった。

「お母さんは、その人、痛いところを突かれたと思うよ。本人がいちばんよく分かっていると思う。それを○ちゃん(←私)に言われて、ドキッとしたんじゃない?○ちゃんはもう何年もその人の踊りを観てるでしょ。そういうファンから言われるのと、その人の踊りをぜんぜん知らない人から言われるのとは、ワケが違うもの。」

私は今でも複雑な気持ちでいる。「恩を仇で返す」とはまさにこのことだよな、と思う。ブログにちゃっかり彼の写真を掲載しているのも、実はすっごい気まずい。だから、彼が私のことを嫌うのなら、それも仕方がない。自分がしたことの結果を、きちんと受け入れようと思っている。

(2008年4月20日)


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