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Stories 18

オーストラリアン・バレエ「白鳥の湖」

(Graeme Murphy版、2005年7月ロンドン公演)

by いお


チャウ前注:この夏にロンドンに行ったとき、地下鉄にオーストラリアン・バレエ「白鳥の湖」の公演ポスターが貼ってありました。ballet.coに掲載されているこの写真 です。この美しく印象的な写真を見て、興味を持たない人はおりますまい。でも悲しいことに、私がロンドンに行ったときにはもう公演は終わっていたのです。ところがいおさんがたまたまこの舞台を観ていました。それで頼みこんでどんな舞台だったのか教えてもらった次第です。この公演は大評判となったようで、ballet.coは この公演の特集ページ を組み、公演写真を多く掲載しています。これはますます観たい。日本のプロモーターのみなさん、どうかご一考をお願いします。


オーストラリアン・バレエそのものは、10年ほど前に、2年続けてたまたまブリスベン公演の時期にそこに居合わせて観る機会があり、好印象を持っていました。特別にすごかった、とか感動したというわけではなく、さっぱりとした清潔感のあるバレエ団だったな、というようないいかげんなイメージで、気持ちよく見られた、という程度の記憶しかなかったのですが、まあ、大きなはずれはないと踏んで見に行きました。

オーストラリアン・バレエの「SWAN LAKE」はGreame Murphyの振付です。振付そのものは、さほど斬新でも奇抜でもなく、プティパ/イワノフの伝統的な振付の系列に連なるものです。でも、解釈というか、物語が大きくちがっています。

伝統的な振付を思い起こさせるのは第二幕のオデットと白鳥たちの踊りの部分で、それも、「踏襲」しているのではなく、「思い起こさせる」というもので、ほかのどのバレエ団の「白鳥」とも違っています。

ただ、それが「新鮮」ではあっても、ものすごく「斬新」な振付、とは感じられなかったのは、やはり、あくまでも踊りは正統派のクラシック・バレエで、長い長い「白鳥」の伝統の中で世界中のバレエ団に共有財産として受け継がれている、基本的なテクニックや表現のスタイルがふんだんに用いられていたからだと思います。伝統的な振付との違いよりも、連続性の方が強く感じられた、と言えばいいのかもしれません。

ジークフリードとオデットは正式に婚約しており、表面的にはこの結婚の障害になる者はないのですが、実は、ジークフリードにはロットバルト男爵夫人という恋人がいたのです。オープニングは、この二人のラブシーンです。

ジークフリードとオデットの結婚式の日、大勢のお客様の中に男爵夫人の姿もあります。王子の母である女王も、息子の愛が本当は誰にあるのかを知っている気配です。結婚披露パーティーのダンスで、王子は新妻とはおざなりに踊って、男爵夫人とは熱烈な愛のこもったダンスをします。

なにもしらない純真な小娘だったオデットにも、二人の関係がだんだんと見えてきます。王子を愛するオデットは、王子の心を自分の方に向かせたいと試みるのですが、老かいな男爵夫人にはかなうはずもなく、オデットは次第に精神のバランスを失い、常軌を逸した行動をとるようになり、サナトリウムに幽閉されてしまいます。(第一幕終了)

と、ここまでのストーリーから、チャールズ&カミラ&ダイアナの三角関係を思い出さない人はいないでしょう。特に、ロンドンで見ると、そうとしか見えないんですよね。

あのポスターの写真は、オデットとジークフリートの結婚式のもので、舞台でもあのウェディングドレスでおどります。王子は、ダークスーツ姿。あのドレスは、やっぱり、ものすごく強い印象を与えますね。長い裾が揺れたりたなびいたりする効果はかなりのものです。踊る方や支える方は邪魔になって大変だろうとは思いますが、視覚効果としては、なかなかけっこうでした。

さて、第二幕、サナトリウムで治療を受けているオデットは、悲しい現実からの幻想の世界に逃避します。そこでは、オデットは白鳥の精たちに囲まれて、自分も白鳥の精になったような気分です。 狂おしい心は鎮まり、安らぎを得て、そこではのびのびと自由に美しく踊ることができます。

そして、愛するジークフリードも、自分だけを愛してくれます。その静かで美しい世界のなかで、オデットは自分だけを見てくれるジークフリードへの愛をいっそう強く育んでいきます。(第二幕)

でも、その間に現実の世界では、王子はますます男爵夫人との関係を深めています。今では、二人のなかは社交界でも公然としたものになっていて、男爵夫人は盛大な舞踏会を催すことになりました。

そこにいきなり現れる、招かれざる客、オデット!オデットは正気ではなく、その精神はジークフリードへの純粋な愛だけに満たされています。静謐な美と純粋な愛の塊となったオデットの踊りは招待客ばかりでなく、ジークフリードの心も魅了し、彼の心はオデットへの愛でいっぱいになるのです。

オデットとジークフリードの愛にあふれた踊りは、男爵夫人を深く傷つけ、嫉妬に駆られた男爵夫人は、なんとしてもオデットをサナトリウムに送り帰そうとします。

心が混乱してしまったオデットは、追っ手から逃れるため、屋敷から夜の闇の中へと飛び出していきます。(第三幕)

この舞踏会のシーンは、いまひとつインパクトに欠けました。きれいなシーンで、男爵夫人は力のある踊り手で魅力的なのですが、それに拮抗し、凌駕するはずのオデットの姿、踊りが、残念ながら 男爵夫人を圧倒するほどのパワーとカリスマ的魅力に欠けているように見えてしまったのです。

このへんが、スワン/ストレンジャーのどちらでも、圧倒的な存在感と魅力で観客をとりこにしたアダムとは比べものになりません。(身びいき?)

オディールは出てきませんが、オデットが正気と狂気の狭間で人格が分裂してしまうので、踊りのタイプが変わりますから、結婚式の場面、白鳥になる幻想的な場面、舞踏会の場面と、オデットの心理状態の変化に応じて踊りも変化していたように思います。

オディールの「悪役」部分は、ロットバルト男爵夫人が担っていると思いますが、彼女も「悪魔的」な女性ではなく、王子への愛がオデットを苦しめ、狂気に追いやっていくという、どこまでも人間的な、現世的な「悪」であって、オデットが王子の愛を取り戻した後は、男爵夫人のオーラや魅力は問題にならなくなってしまいます。だから、オディールが持っているような、超越的な「悪」の魅力は、このバレエにはありません。

さて、終幕。オデットは、湖畔で恐怖に震えていました。そこに追いついたジークフリード。二人は、心を通い合わせ、愛を確かめ合って踊ります。でも、オデットにはわかっていました。この幸せはひとときだけのもの。今、この瞬間の幸せを永遠のものとするためには、道は一つしかありませんでした。

オデットは、白鳥たちに導かれるように、暗い湖に身を投げます。こうして、オデットは、現実の苦悩から解放され、ジークフリードの愛を取り戻した喜びを永遠のものとすることができたのです。

そして、ひとり残されたジークフリードは、愛するオデットを喪った悲しみにくれるばかりなのでした。

という物語なんです。

この公演を見たとき、すぐにボーン版「白鳥」を連想しました。解釈も構成も振り付けも、ボーン版の方が圧倒的に優れていることは言うまでもありません。

でも、オーストラリアン・バレエの「白鳥」は、音楽の使い方が印象的で、定番の曲目以外に、初めて聞くような音楽があって、へええ、っとおもいました。チャイコフスキーの曲なのですが、他の公演では使われていないような曲が効果的に取り上げられていたように思いました。曲目を確かめていないので、ほんとはどうなのかはわかりませんが、新しい「白鳥」を見ている、という気持ちになった理由のひとつが、音楽の使い方でした。

あとは、物語が三角関係のドラマなので、下手をすると卑俗な印象になったかもしれないのですが、衣装は現代的なドレスやスーツでも、踊りはきっちりとしたクラシック・バレエで、踊り手もしっかりと丁寧に踊っていますから、下品な印象はまったくなく、最後まで上質のダンスパフォーマンスでした。

初めてで、一回しか見ていないので、こまかいことは言えないし、すでに2ヶ月近くが経過して、記憶があちこちほころびていますが、機会があれば、一見の価値ありだと思います。

この作品は、2002年が初演のようですから、まだできたてのほやほやで、これから海外公演などを重ねて、評価が定まっていくのではないかと思います。でも、とってもいい作品ですから、日本でもぜひぜひ公演してほしいです!


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