Club Pelican

Stories 15

「危険な関係 ( "Les Liaisons Dangereuses")」
日本公演感想集(神戸・大阪編)

by みかこ


2005年2月24日(神戸公演)

神戸公演観てきました〜。ひとまず、唖然。そして27日の大阪公演がありますので、呆然の機会を つくっておいてよかったと思っています。

あ、配役はざくっとメルトイユ夫人がサラ・バロン、トゥールヴェル夫人がサラ・ウィルドー、セシルがヘレン・ディクソン、プレヴァンにサイモン・クーパーでした。多分、プログラムに最初に名前が載ってる方のキャストです。

いやー、疲れました。

一日たって肩、首ともにばりばりに張ってます。でね、このメール、長くなると思うんですよ。お暇な時に読んでください。

今回、歌うのはロズモンド夫人のみで、それ以外の出演者は台詞も全く無いといっていいくらいですよね。にもかかわらず、私は舞台が4分の3ほど(いや、それ以上か)進んだあたりで、自分が踊りを殆ど見ていない事に、はたと気付きました。

いつもなら、たとえどれほど物語性だの感情表現だのがメインといっても、「並じゃねぇよな」という、ダンサーの体の動きそのものが印象に残るのに、それが無い。

もちろん、目には入ってるんですよ。でも、彼らは全員、てんでに何かずっと喋ってるようで、そのお喋りの奔流の中にいるようでした。別に振りが説明的だとか言うのではありません。ヴァルモンとトゥールヴェルの非常に優美な踊りの最中ですら、彼らが百曼陀羅、愛についてぶち上げているのが聞こえるようだった(注:けなしてません)。

それにしても不思議なのは、道徳だの良識だのに囚われず、自由に生きているつもりの人間が、かえって不自由だということです。

例えばヴァルモンにしても、トゥールヴェル夫人と真実の恋に目覚めたなら、ごちゃごちゃ言わずに殉じればいいのに、「ちょっと待てよ」となってしまう。プログラムの解説には「罪の意識に襲われて彼女から手を離す」とありましたが、どちらかというと、「今まで自分が信じてきたものが崩れるのが怖かった」ように見えました。

「本当の愛」なんて無ければ無いで済むけれど、それがあったとなれば今度は失うことも心配しなければならない。そんなもん、見つけなけりゃ楽だったのに。

翻って、ごく普通モラルの範囲内で生きている人々、トゥールヴェル夫人やセシル、ダンスニーなどは、一線を越えてしまっても、悩んだわりにはすんなり受け入れますね。

あれって、普段から「ここがギリギリ」というラインについて、あまりつきつめて考えていなかったからじゃないでしょうか。「えーっと、この辺だったかな?」なんてぼんやりしてて、許容範囲内にまだ納まってるつもりだったりして。

思いついたことを整理せずに書いているので、話が飛んで申し訳ないんですが、トゥールヴェル夫人役のサラ・ウィルドーがあまりに可憐なので、その最期には、私も心が痛みました。痛むあまりに、説教したくなりませんでしたか?

「前途洋洋、順風満帆の恋じゃ済まないことは承知の上だろう。腹据えてかかりなさい。うろたえるな!」と・・・。原作の方では、「うじゃうじゃ辛気臭い女だな」としか思わなかったのですが・・・。

原作といえば(さらに飛ぶ)、確かに舞台は「ラクロ作・危険な関係〜バレエ版」というわけじゃないので、ここが違う、あそこが違うと言い募るのは間違ってます。が、やはりメルトイユ夫人贔屓の私としては、少々悲しかった。

彼女が多くの男性を誘惑するにあたっては、性的魅力を全面に押し出したのではなかったと思います。彼女は人の心の襞に分け入り、相手に「自分は理解され、尊重されている」という気持を抱かせるのが上手かったのではないか。

だからこそ、人を馬鹿にもしたんでしょうけど。やたらと分かってもらいたがり、女を簡単に分かったつもりになり、そして支配したと思い込む男たちをね。でもまあ、色仕掛けの方が、話は単純化できるから、仕方ないか。

色仕掛けといえば(そして飛ぶ)、例の第一幕最後です。多分客側でも承知していた人が多かったとは思いますが、それでもやはり一瞬の沈黙がありました。客席に「拍手係り」配置してたかな(これは考えすぎかもしれません)。外国でだったら、どういう反応があるのか分かりませんが、これは無理からぬ事と思います。

なにはどうあれ、目の前で女の子が暴行を受けたシーンの後で、場内割れんばかりの拍手では、「人間としてどうよ」となってしまう。

また、セシル役のヘレン・ディクソンが小柄なのか、かつらや靴のせいなのか、他の女性たちより頭一つ低くて、ほんとに「少女」って印象だから、下手すりゃ「あの男にミカン投げつけてやれ!」の勢いです。最近、痛ましい事件が頻発してたしね。ま、あまりナイーブになりたくはありませんが・・・。

すみません、かなり長くなってますね。収拾つかなくなってきたので、最後に余談ですがひとつだけ。実はこの舞台の前日、中村獅童の「丹下左膳」を観に行ったんです(すげえギャップ)。

で、「危険な関係」のラストで、舞台奥から眩しいほどの光が射した時、獅童・左膳が何度か繰り返してた台詞が浮かんだんですよ。

いや、分かってます。この二つの舞台をリンクさせるのは、落語とスキージャンプのコラボレーションくらい突拍子も無いってことは。でも、ぱっと思い出したんです。泣いてるのか笑ってるのか、笑ってるなら自分を笑ってるのか相手をか、絶妙な抑揚で言ってたんです。

「おめえ、びっくりするぐれぇ、弱ぇえなぁ」ってね。


2005年2月27日(大阪公演最終日)

いや、2回観てみるもんですね。彼らがちゃんと踊ってることに気付きました(あたりまえですが)。それと、デミアン・ジャクソンが超絶男前だ。あと、2度目に現れたジェルクール伯爵が髪に赤い花をさして来たのはなぜか?笑いのツボか?(絶対違うだろう) (チャウ注:楽日名物、プチおふざけでしょう)

配役は神戸と同じです。「サラ・バロン会心の一撃」でした。私の前に座ってた人が、メルトイユ夫人の動きにあわせて席から伸び上がったり頭をひょこひょこ動かすんで、非常につらかったのですが、気持は分かりましたねぇ。目が釘付けです。

そして、アダム・クーパーは楽しそうに踊っていた・・・ように見えました。いえ、楽しそうって、悲壮な場面でもウキウキ踊ってたわけではなく(もちろん)、目一杯浸りこんでた感じで・・・。にやにや笑うとこなんて本気で笑ってたし、苦痛に打ちのめされる場面では、「ここで死んでやる!」と言わんばかりの怒涛の迫力がありました。

こちらも「今日で最後だ」という目で見ているので、どうしてもそう感じられてしまったのかもしれません。それと、私が2度目なので、そういったことにも気付く余裕ができたせいもあるでしょう。彼らはプロだしね。神戸公演がセーブモードだったわけではないと思います。

今日踊らなかった出演者も登場してのカーテンコールは、終わらないんじゃないかと思うほどでした。私も、まだちょっと手のひらに余韻が残ってます。

あ、そうだ。神戸公演で、初めてサイモン・クーパーを見た時は、「似てるなぁ。知らずに観たらヴァルモンと間違えて、わけ分からなくなったかも」と思いました。

が、今日観ていて、たとえ顔が瓜二つだったとしても、肩のラインで「含みのある人間」と「そうでない人間」の区別がつくような気がしました。あれって、演じ分けをしてるのか、衣装がそうなってるのか、たまたま体型の違いを私が思い込んでるだけなのか、分からないんですけどね。確かにダブルキャストで見てみたかったなー。

さてさて、OYTと違って、すかっと「楽しかった!」で終われないのがつらいところです。あの人はああだから、こうなるわけで・・・と、いろいろ考えてしまいます。

今日観ていて、さらにその思いが強くなったのですが、メルトイユ夫人って、なんだかヴァルモンのお母さんみたいだなぁ。原作では、ヴァルモンが「僕たち仲間だよねっねっ」って感じで夫人に依存してるけど、舞台ではそれが逆になってますね。

原作を読んだ時に、「なぜヴァルモンは、こうもメルトイユ夫人から受ける評価を気にするのか。こいつマザコンか?」と思ったのでした。

メルトイユ夫人は、「私の計画(セシルの件)についてさえ手抜きしなけりゃ、トゥールヴェル夫人に関しては好きにしなさいよ」と言わんばかりでした。最後は生活をかけた裁判抱えて、「うるっさいわね。アタシは忙しいのよ!じゃ、あの女捨ててみなさいよ。あら、ホントに捨てちゃったの。へー、やるじゃない。でもアタシ、それどころじゃないの」って感じ。

どうもヴァルモンのほうが一方的に夫人に絡んでいるように読み取れたのです。それが、舞台を観る限りでは、メルトイユ夫人がやたらとヴァルモンの襟首つかんで引き戻しているようだったので、「原作とは逆だなぁ・・・」と。

メルトイユ夫人のほうが、「私のシナリオ」にない方向へ進もうとするヴァルモンを執拗に引き止めているように見えました。「私たちの『お約束の世界』はこっちでしょ!」って感じで。

それでもヴァルモンは、ふと別世界の女性に心動かされたりする。ただ普通なら、ここで「母」から離れて新天地へ出発だ!になるわけですが、後ろでプレヴァンみたいな色男が出てきてママといちゃついてると、そっちが気になって「待てコラ」となってしまう。

プレヴァンが出てきてメルトイユといちゃつき始めた時に、ヴァルモンが威嚇して追い払う、という場面がありませんでしたっけ(チャウ注:第二幕冒頭、ロズモンド夫人がアリアを歌うシーン)。その時、「ああ、新しい彼女が出てきても、メルトイユ夫人が他の男とべたべたするのは嫌なのねー」と思ったんです。

つまり、共犯関係を切られることは、ヴァルモンにも痛手なのか・・・。メルトイユ「お母さん」との慣れ親しんだ世界から離れることは、今までの自分を捨て去ることでもあるでしょう。

トゥールヴェル夫人との関係について、必要以上にメルトイユ夫人の顔色をうかがい、介入を許しているのはヴァルモン自身です。尻の一つも蹴っ飛ばして、さっさとおのれの色恋沙汰に邁進しろ、と言いたくなります。

・・・それはともかく。ヴァルモンを失ったメルトイユ夫人が崩れ落ちていくという、人間の真情を弄んだ者がツケを支払わされる、というラストにもっていったということは、この作品では(つまり彼は)、現し世にまだ「希望」を残したのかなー、とも思いました。それが幻想かどうかは別としてね。

私なら、「荒野にただ1人、メルトイユ夫人仁王立ちで高笑い」ぐらいさせたかもしれない。(チャウ注:東京公演では、メルトイユ夫人が歪んだ顔で笑って終わった日もありました)

「およそ人の世に、信ずるに値するものなどあるものか。そこにあるのは、底知れぬ『どうしようもなさ』だけだ」とかなんとか。「どこで野垂れ死のうと、わたくしの人生です」もいいな。

ま、そこまで行くと殺伐としすぎちゃって、それこそどうしようもなくなりますが・・・。サブタイトル「逆襲のメルトイユ」。いかん。悪乗りしてしまいそう。

ここまで観る者がぐーるぐるしてしまうのが演目のせいなのか、そこがアダム・クーパーの面目躍如というものか・・・。そういえば「白鳥」の時も、思いっきりぐるぐるしてたなぁ。

あのセシルがヴァルモンにいやいや鍵を渡すのが不自然ってありましたよね(チャウ注:「不定期日記」2月13日分)。原作では納得できる形にはなってますが、確かに舞台のは「なんで?」になります。

あれ、メルトイユ夫人がセシルを抱きしめて宥めたりした後、背後から支えて(二人羽織みたいな感じで)鍵を差し出させたら、もうちょっと筋が通りやすいかなと思いました。セシルがメルトイユ夫人になついてるのは、よく伝わってきましたしね。・・・と、ものっすごく僭越に振り付けしてるわ。私。

大阪公演では、学生時代の友人にばったり出くわしました。お互いよくわかったなぁ。後でメール交換したんですが、彼女は「行けるよ!これ、世界へ!」と太鼓判押してました。心強い・・・でしょ?


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