Club Pelican

NOTE 9

ロイヤル・バレエ “Mayerling” 2004年6月16日

クーパー君が出演する「兵士の物語」を観ることが、私の今回のロンドン旅行の主目的であった。しかし白状すると、小規模な実験的作品であろう「兵士の物語」よりも、ゴージャスでドラマティックな「マイヤーリング」を観ることのほうが、もっと楽しみでならなかった。予習のために映像版(1994年の公演を収録したもの)を観ながら、この「マイヤーリング」を生で、しかもイレク・ムハメドフで観られるんだ、と思うと、居ても立っても居られないくらいだった。

リンバリー・スタジオで「兵士の物語」が上演されていたこの週、ロイヤル・バレエは「オネーギン("Onegin")」とこの「マイヤーリング」を上演した。ボックス・オフィスの残席状況を示す電光掲示板を見ると、「オネーギン」は悲惨な有様となっていた。最終公演はもちろん、明日の公演どころか当日券までが、ことごとく"Available"だったのである。

おそらくは、目玉のキャストの多くが様々な理由で降板してしまい、一部のプリンシパルを除いて、主役を担当するのは若手ばかりであったから、客がチケットの購入に及び腰になってしまったのである。降板したダンサー目当てに「オネーギン」のチケットを買っていた客は、チケットの払い戻しが事実上不可能になったため、購入したチケットを安売りチケット・ショップに売り払う、という事態にまでなったようだ。

この週の「マイヤーリング」公演は2回あり、ともにイレク・ムハメドフがルドルフ役として出演した。「兵士の物語」を観に行こうと決めた段階で、「マイヤーリング」を観ることも即断した。

Auditoriumに入って自分の席につき、客席全体を見渡した。「満席」といったって、いつもはどのエリアにもいくつか空席が目立つものだが、この日は完璧に満席だったといっていい。立見席まで客がまんべんなく居並んでいる。筒型のAuditoriumがこれほど人で一杯だと、その風景だけですごい迫力である。心なしか観客たちの熱気もいつにもまして高まっているように思えてくる。やっぱりムハメドフが出るんだもんなあ、すごいんだなムハメドフの人気って、と感心した。

去年(2003年)の夏に行われた"On Your Toes"公演に、ムハメドフはモロシン役として出演した。公演が行われたロイヤル・フェスティバル・ホールに詰め掛けた観客の中には、ムハメドフを目当てにやって来たファンも多かったらしい。ある人が、ムハメドフが出演しない日の公演のチケットを買おうとしたところ、ボックス・オフィスの職員から、何度も何度も「この日は、ムハメドフは出ないんですよ!」と念を押されたという。

「マイヤーリング」をいろんなキャストで観た経験があればよかったのだが、私はこの作品を生で観るのは今回がはじめてであり、映像版しか比較するものがなかった。だから私にとっては、映像版が「マイヤーリング」を観るときの基準になってしまっていた。あの映像版は、キャストが豪華だという点に加え、カメラワークや編集も非常に優れており、映像作品としても出色の出来である。舞台を何度も注意深く観てツボを押さえていないと、ああいうふうには撮れないだろう。

各シーンで、ダンサーたちの踊りを最も適切な角度から撮影していることはもちろん、アップにしたり、遠景で映したりするタイミングも的確で、大勢の出演者が舞台にひしめく中で、ストーリー展開に重要な人物の一瞬の表情や動きを逃さず捉えて映し出す。しかもそれらがことごとく音楽に合っていて、ドラマティックな効果を倍増している。単なるバレエの映像版というよりは、まるで映画のようである。(冒頭と最後に映し出される、登場人物のブロマイドだけは余計な編集だと思うが。)

こういう出来のいい映像版を唯一のよりどころとして、生の「マイヤーリング」公演を観てしまったことは、私にとってはあまりよくない結果をもたらした。映像版でさえあんなにすばらしいのだから、まして生の舞台となれば、絶対にもっともっと感動できるにちがいない、と、過剰な期待を抱いて観ることになったからである。

「マイヤーリング」映像版で、作品がドラマティックであること、キャストが豪華であること、撮影や編集が実に巧みであることなどをひっくるめたすべてを、私は生の「マイヤーリング」を観るときに用いる基準として、無意識のうちに設定していた。映像版よりも生の舞台を観るほうが断然いい、という話はしょっちゅう見たり聞いたりする。しかし、生の舞台のほうが映像版よりも絶対にすばらしいとは限らない。時には、映像版のほうが生の舞台よりもすばらしくなることがあるのである。効果的な撮影や編集によって。

また、映像版しか観ていないことで、私は今回の公演での各キャストの踊りや演技を、映像版と逐一比べながら観る、ということになった。私には殊にこの傾向が強いのだが、初めに観たり聴いたりしたヴァージョンが絶対的な基準になってしまい、それと大いに趣を異にする別のヴァージョンに接すると、それを受け入れることがなかなかできない。だから私にとっては、映像版「マイヤーリング」でのキャストの踊りと演技が絶対的なものであり、それと違うものは受け入れがたいのである。

なんでこんなことを長々と書くかというと、以下の感想は、終演後に宿に戻ってから書いたメモと、翌日に書き添えたメモを元にしているのだが、その多くが否定的な言葉ばかりだったからである。あらためて見直してみて、なんでこんなに(いつにもまして)意地悪なんだろう、と我ながらびっくりした。よほど機嫌が悪かったのかな。

今となっては、当日の公演を思い出して無理に褒める、というのはもう不可能である。けなしてばかりいる感想は、書くほうにとっては不満を吐き出せるのでさっぱりするが、読むほうにとってはとても不愉快なものだ、ということはよく分かっている。だから、以下の感想は、私という、映像版を絶対的な基準とする、観客としては非常に不適当な人間が書いたものである、ということをお断りしておきたい。

主なキャスト。ルドルフ皇太子(Prince Rudolf):Irek Mukhamedov;マリー・ヴェッツェラ男爵令嬢(Baroness Mary Vetsera):Mara Galeazzi;シュテファニー皇太子妃(Princess Stephanie):Iohna Loots;フランツ・ヨーゼフ皇帝(Emperor Franz Josef):Christopher Saunders;エリザベート皇后(Empress Elisabeth):Genesia Rosato;マリー・ラーリシュ伯爵夫人(Countess Marie Larisch):Jaimie Tapper;ヘレネ・ヴェッツェラ男爵夫人(Baroness Helene Vetsera):Christina Arestis;ブラットフィッシュ(Bratfisch):Jonathan Howells;ミッツィー・カスパール(Mitzi Caspar):Marianela Nunez;ベイ・ミドルトン(Bay Middleton):David Makhateli;4人のハンガリー将校(Four Hungarian Officers):Jose Martin、Yohei Sasaki、Edward Watson、Bennet Gartside;カタリーナ・シュラット(Katherina Schratt):Elizabeth Sikora;エドゥアルト・ターフェ伯爵(Count Eduard Taafe):Alastair Marriott;ホヨス伯爵(Count Hoyos):Johannes Stepanek;ルイーゼ王女(Princess Louise):Belinda Hatley;フィリップ王子(Prince Philipp):David Pickering。

あの陰鬱な前奏曲が流れるうちに幕が開く。それにしても、出だしからホント暗いよな、この作品は。舞台も暗い。ウィーン郊外のハイリゲンクロイツ墓地。黒い馬車のかたわらに、黒い外套を着たブラットフィッシュ(Jonathan Howells)をはじめとして、数人の黒い外套を着た男性が立っている。

雨が降っているようにみえるのは、雨のような無数の光が斜めに鋭く走っては消える、という背景を用いたものだった。また舞台天井からも、時おり同じような光が照らされ、更に男たちの外套も濡れているように光る素材で作られている。勝手に思うんだけど、このプロローグとエピローグのシーンは、絶対に「ルードヴィヒ」のラスト・シーンを参考にしたに違いない。

オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフと、ベルギー王女シュテファニーの結婚祝賀舞踏会のシーンになる。ムハメドフは、映像版よりも髪を短めに刈り込んでいる。映像版でのムハメドフは、目の下にはクマができ、頬は削げ落ち、顔色は青白く、常に思いつめたような、眉間に皺寄せた苦悩に満ちた暗い表情をしている。妻のシュテファニーに暴力を振るうシーン、発作を起こすシーン、自殺を決意して愛人のマリー・ヴェッツェラとともに踊るシーンなどでは、映像版のムハメドフはキレてイっちゃった目をして、完全に役柄に同化している。

ところが、今回の公演では、ムハメドフの演技は全体的にあっさりしたものになっていた。大仰で感情過多なところがなくなり、役柄とほどほどに距離をおいているというか、飄々とした雰囲気を常に漂わせていた。あるいはルドルフの役柄への解釈が変わったのかもしれない。

ムハメドフの技術については、私はバレエの技術の正しい見方が分からないから断言はできないが、特に気になることはなかった。確かに、ジャンプして着地するときにグラつきが激しいとか、一瞬のあいだに両脚を鋭くパッと開いて閉じるジャンプがなくなったとか、バランスを保つことが少し難しくなっているらしいとか、いろいろとアラ探しはできるだろうけど、でもそんなことは全く影響しなかった。私は超絶技巧の披露を観に来たのではないし、ムハメドフが舞台にいると、それだけで舞台が彼を中心にぐっと引き締まったものになり、飽きることがない。

ルドルフの父親、フランツ・ヨーゼフ皇帝役のChristopher Saundersと、オーストリア・ハンガリー帝国の首相、エドゥアルト・ターフェ伯爵役のAlastair Marriottは、踊るシーンはほとんどないが、実物の写真にまったく似ていなかったのがマイナス80点。映像版のフランツ・ヨーゼフ(Derek Rencher)とターフェ(Christopher Newton)は、実物の写真にあまりにそっくりだったので、出てきたときには大笑いした。

ルドルフがさっそく色目を使うルイーゼ王女(シュテファニーの姉妹でコーブルク王子フィリップの妃)はBelinda Hatleyが踊った。私としてはやはりSarah Wildor(映像版)と比べてしまう。Sarah Wildorは、はじめは躊躇していたのが、やがて戸惑いながらも、徐々にルドルフに惹かれていく王女の気持ちを、実に細かい表情の変化で表現していった。それに、あのギギーッ、カクカク、という感じの、なんか妙にツボにはまる、Sarah Wildorの魅力的な動きと、Belinda Hatleyのそれとは違う。

あとBelinda Hatleyについては「ちゃんと音楽聴いて踊ってるのか!?」という乱暴な言葉がメモしてある。「音楽に合わせられない二大女王の1人」だとも書いてある。

シュテファニー妃役はIohna Lootsだったが、第一幕最後の初夜のシーンでは、ムハメドフとタイミングが合わず、ムハメドフが慎重に気を配りつつ踊っているのが分かった。だからあの激しいパ・ド・ドゥは迫力不足でもたもたした感じになった。今回のシュテファニー役は、もともとはJane Burn(映像版でのシュテファニー役)が踊ることになっていた。Iohna Lootsはその代役で出演したので、これは仕方のないことなのかもしれない。

確か去年のことだったと思うが、やはり「マイヤーリング」公演で、ルドルフ役のダンサーの1人がケガで降板したとき、相手役の女性ダンサーたちも全員が変更された。そのときのロイヤル・バレエのアナウンスメントは、「この作品のパ・ド・ドゥには非常に複雑で危険な振りが多いので、練習を重ねた、タイミングをきちんと合わせられるキャスト同士でないといけないから」とかいうものであった。

ルドルフの母親、エリザベート皇后役はGenesia Rosatoで、この人は映像版「三人姉妹」(1992年収録)で、アンドレイの妻、ナターシャ役として出演している。しかめっ面をしながら、乳母車の横でトゥで立ち、苛立ったように、細かい足さばきで踊っていた姿が印象的である。この人は、今はprincipal character artistだそうだが、第一幕では自室で侍女たちと、それからルドルフと、そして第二幕ではベイ・ミドルトン(エリザベート皇后の乗馬仲間で、彼女の愛人だったという説がある)と、それぞれ長く踊るシーンがある。

私の推測だけど、ムハメドフが出演する公演では、ムハメドフと一緒に仕事をした経験のあるダンサーを、なるべく多くキャスティングしていた気がする。シュテファニー役が本来はJane Burnだったというのも、その一環だったんではなかろうか。

Genesia Rosatoのエリザベート皇后については、当日のメモには「覚えてない。印象に残らない。ふつう。威厳と子どもっぽさが同居している雰囲気がない」と書いてある。たぶんこれは、映像版でエリザベート皇后役を担当したNicola Tranah、エリザベート皇后の多くの伝記から、私がイメージしたエリザベート皇后の人物像、「ルードヴィヒ」でのロミー・シュナイダー演ずるエリザベート皇后と、比較して出てきた不満だろう。

Genesia Rosatoのエリザベート皇后は、なんか単調でお約束というか、複雑さがなかったのである。Nicola Tranahのエリザベート皇后は、公式の場では威厳ある表情を崩さない一方、私室では侍女たちと楽しげに戯れたり、母にすがろうとするルドルフに追いつめられて泣き出したり、そのときの表情や雰囲気が非常に細緻で豊かだった。「ルードヴィヒ」でのロミー・シュナイダーも、ヴィスコンティが設定したという「冷ややかな威厳と女らしさとを併せ持つ」魅力的なエリザベート皇后を演じた。

エリザベート皇后の姪で、ルドルフの愛人でもある(そんな説があったとは知らなかった)マリー・ラーリシュは、Jaimie Tapperが担当した。踊りが非常にすばらしかった。ただ、・・・もうこの時点で、自分でも書いててイヤになってきているのだが、やっぱり、Lesley Collier(映像版でのマリー・ラーリシュ)の曲者ぶりというか、化け物ぶりとは比べものにならない。

今シーズン、Jaimie Tapperは「オネーギン」でタチヤーナ役を担当している。ロイヤル・オペラ・ハウスの外壁に貼ってあった、「オネーギン」のポスターに写っていたのは彼女である。実際に彼女のタチヤーナを観た方は、Jaimie Tapperは、とても感情表現の豊かなダンサーだった、と驚嘆していた。

ブラットフィッシュはルドルフの家来で、プロローグとエピローグに悲しげな表情でひとり立ちつくしている。また第二幕の酒場のシーン、第三幕のマイヤーリング狩猟館のシーンではソロを踊る。この役を担当したJonathan Howellsは、これもやはり映像版のMatthew Hartと比較してのことだけど、踊りがぎこちなく、柔軟性に欠ける感じがした。

高級娼婦のミッツィー・カスパールは、Marianela Nunezが踊った。彼女が出てきた瞬間の印象は、「あ、仏像」だった。とにかくあの黒髪のヅラが顔から浮き上がって、やたらと目立つ。「ボンカレー」の大昔のパッケージにあったおばちゃんみたいなイメージである。

Marianela Nunezは眉毛や目の色がもともと薄いので、「ヅラ負け」してしまったのであろう。あのヘンなヅラが似合うのはDarcey Bussell(映像版のミッツィー・カスパール)ぐらいだと思う。いや、眉、まつ毛、アイラインのメイクを黒く濃くして、口紅も真っ赤に塗り、「ヅラ負け」しないことに成功した、という意味で。

それよりも、Marianela Nunezは、とにかく踊りがよくなかった。これはバッセルと比べる以前の問題で、動きは硬く不安定で、脚も上がっておらず、なにしろ踊りが音楽にまったく合っていなかった。「音楽に合わせられない二大女王」のもう1人はこの人である。

2年前に「オネーギン」でオリガ役を踊った彼女を見たときは、彼女はきっと今にすごいバレリーナになるに違いない、と思った。その後、彼女はプリンシパルに昇格したから、やっぱりすごいダンサーだったんだ、と思っていた。今回、ミッツィー・カスパールのソロを踊っている彼女を見て、私のあの感動はなんだったんだ、とびっくりした。2年前に見た彼女と同一人物とは思えなかった。もしくは、ミッツィー・カスパールのソロは、非常に難しい振りなのかもしれない。

至るところで現れてはルドルフをボコり、いやハンガリーを完全に独立させるよう説得し、そしてすぐ消える4人のハンガリー将校(Jose Martin、Yohei Sasaki、Edward Watson、Bennet Gartside)は、4人とも踊りがテクニカルですばらしかった。彼らの動きはすばやくて鋭く、テクニックの面では映像版よりも断然よかった(ごめんねクーパー君)。ただ、みんな背の低い小柄な人ばかりらしくて、まあ本当は背が高いのかもしれないけど、舞台ではみんな小さく見えた。

映像版の4人のハンガリー将校は、クーパー君を基準にしてみると分かるんだけど、みんな背の高い人ばかりである。だから動きは重たくて、時にかったるいように感じられるが、大柄なだけにダイナミックなのが魅力でもある。

ちなみにクーパー君ファンとしてはあるまじき発言だが、4人のハンガリー将校が踊っているとき、クーパー君と他の3人のハンガリー将校役とを比べてみると、なぜクーパー君がバレエのテクニック面で難があると言われているのかが分かる。なるほど、こういうのが、正統的なバレエにこだわる方々のお気に召さないのね、と。グラン・ジュテで脚があまり開かない、ザンレールで回れる回数が少ない、動きに独特のクセがある、などなど。

ハンガリー将校たちとミッツィー・カスパールとの踊りは、第二幕ではみどころのひとつだ。映像版では、ハンガリー将校たちはみな揃って背が高いばかりか、ミッツィー・カスパールも背が高い。だからデカい5人がゆっくりと踊ると、ダイナミックで迫力があり、とても印象に残る。ところが、今回は5人のダンサーがみなショート・サイズだった上に、音楽のテンポが速かったので、舞台の上で小さい人たちが手足をピキピキと小器用に動かして踊り、あっという間に終わった。あり?ここの踊りは楽しみにしていたんだけど、これで終わり?とあっけなかった。

今回の公演は、映像版に比べて、音楽のテンポが全体的に速めであった。場面転換も実にすばやく、たるみがまったくなかった。さっさと進んだ。音楽のテンポを速くすることでどんな得があるのか?考えてみた。まず、上演時間が短くなる。「マイヤーリング」の上演時間は、もたもたすると軽く3時間を超える(休憩時間含む)。客が疲れる前に早く終えたほうがよい。

それから、音楽のテンポを速くすると、なぜかは分からないが、奇妙でヘンな振付が、さほど目立たなくなるんである。昔の作品だから仕方がないが、「マイヤーリング」には、今からみるとおかしな振付がところどころにある。ハンガリー将校たちとミッツィー・カスパールとの踊りでいえば、冒頭、5人が腕を組んで、顔をガクガクと上下させながら、グルグルと舞台を一周する振りがある。この振りは、第一幕での「4人のハンガリー将校が縦に並んでユ〜ラユラ」の振りと同様、「マイヤーリング」爆笑ポイントのひとつだったが、音楽のテンポを速くすると、爆笑度が薄れるのである。これは不思議な効果である。

エリザベート皇后の愛人、ベイ・ミドルトンを担当したDavid Makhateliは、まず実物の肖像そっくりだったので笑った。エリザベート皇后を支えて踊るだけなので、彼自身の踊りがどうなのかはよく分からなかったが、この人はなんか印象に残るというか、「存在感」がある。大勢の中に紛れていても(第二幕)、なんか目が吸い寄せられる。

後で聞いたら、この人は「オネーギン」でタイトル・ロールをやっており、観た人の話では、非常にスタイルがよく踊りも端正で、演技でもオネーギンの酷薄な雰囲気をよく醸し出していたそうである。「オネーギン」のポスターで、タチヤーナのJaimie Tapperの後ろに写っているのが、このDavid Makhateliであった。この人は後でいいとこまでいくダンサーだと思う。

ルドルフとともに自殺するマリー・ヴェッツェラを担当したMara Galeazzi、文句なしにすばらしかった。この人に関しては、私は映像版の影響は一切受けなかった。背が高く、脚が長くて、体はしなやかで、なによりも動きが本当に美しい。ムハメドフとのパ・ド・ドゥでもタイミングはバッチリで、最後でルドルフとマリーが死ぬ前の踊りには、なんとなく白け気味になっていた気分も全部ふっとんだ。

この人も2年前に「オネーギン」で観た。タチヤーナを踊った人である。そのときにはプリンシパルではなかったが、その後プリンシパルになった。2年前よりはるかにすばらしくなっていた。さっきのMarianela Nunezとは対照的である。トップまで行ってそこで止まっちゃうダンサーと、更に伸びるダンサーがいるんだなあ、としみじみ思った。

「マイヤーリング」は長い作品だけど、ぜんぜん飽きなかった。というより、あっという間に終わってしまった気がする。音楽は一本調子に速めなテンポで、これは私にとっては物足りず、シーンによっては、ここはもっとゆっくり演奏してほしいと思った。オーケストラ自体も音が外れて全体的に音が歪んでしまったときがあった。ダンサーたちの演技も総じてあまりよくなかったし、舞台の出来としてはそんなにいいものだったとは思わない。ただ、ムハメドフにはやっぱり、そういう細々とした不満を軽々と忘れさせる力というか、オーラがある。

映像版と今回の公演とを比べると、ロイヤル・バレエの質自体が変化しているように思った。その典型的な例が、ダンサーたちの演技が、映像版とは比べものにならないほど単純なものになっていたことである。文字どおり喜怒哀楽の4種類の表情だけで、すべてのシーンをしのいでいた。演技が「不必要」なシーンでは、演技していないように見受けられた。

第二幕、フランツ・ヨーゼフ皇帝の愛人であるカタリーナ・シュラット(Elizabeth Sikora)が歌うリートを皇族たちが聴くシーンでいえば、映像版でのあのシーンがすごかったのは、踊りどころか、体の動きがまったくない、バレエ作品としては掟破りなあの数分間、ダンサーたちがみな演技を続けていたことである。

ゾフィー大公妃(フランツ・ヨーゼフ皇帝の母)のやや不満そうな顔、エリザベート皇后の厳粛で悲壮な表情、心配そうにルドルフを見やるシュテファニー、複雑な視線を向けるマリー・ラーリシュ、そして、死について述べた歌詞を聴きながら、ひとり遠くを凝視して何事かを考えているルドルフ、それとは関係なく無邪気に歌に聴き入る人々、まったく動きのないあの数分間で、そこにいる人々の心情や、彼らの運命までもが分かってしまう。

ところが、今回の公演では、ルドルフ役のムハメドフが、人々から遠く離れて一人で立ちつくし、思いつめたような表情を浮かべた横顔をみせ、エリザベート役のロザートが、目を閉じてひたすら悲しげな表情をしていた以外には、みな歌をただボーっと聴いているだけだった。シュテファニーもマリー・ラーリシュも、ルドルフを一顧だにしない。

現在のロイヤル・バレエは、演技をさほど重視せず、テクニックを重視する方向に傾きつつあるのかもしれないし、あるいは映像版のキャストがあまりに完璧すぎたから、今回のキャストたちは演技がよくないようにみえてしまうのかもしれない。

後は、「マイヤーリング」という作品自体に、古くささを感じたときもある。あんまり意味のないお約束的な群舞、笑いを取ろうとしているとしか思えない奇妙な振付、唐突なストーリー展開、絶え間ない場面転換などのせいで、ストーリーの進行や踊りが分断して、うまく繋がらないところがあった。

観客は中年〜老年層が大部分だったと思うけど、驚いたことに、「マイヤーリング」のあらすじをよく知らない観客も多くいたようだった。第三幕、ルドルフが猟銃をもてあそんでいるうちに誤射してしまい、フランツ・ヨーゼフ皇帝の側近を殺してしまうシーンでは、多くの観客がどういう展開なのか分からなかったようで、かなりザワついていた。

ルドルフは妻のシュテファニーとは最初からウマが合わず、母親のエリザベートからは充分な愛情を受けておらず、父親のフランツ・ヨーゼフにも気に入られていなかった。親ハンガリー派で共和制支持者でもあったルドルフは、反ハンガリー派で保守主義者のターフェ首相とは政治的に反目しており、またルドルフはオーストリア・ハンガリー帝国の皇太子であるにも関わらず、帝国の政治に参与する権限が一切与えられていなかった。

ルドルフは政治的にも個人的にも皇室内で孤立しており、更に性病に罹患して心身ともに重い症状が出ていて、モルヒネを注射するようになっていた。冬の狩猟場で、ルドルフの誤射した銃弾が皇帝の側近に当たったことで、ルドルフは父の皇帝を暗殺しようとしたのではないかと疑われ、それでルドルフとフランツ・ヨーゼフとの仲が決定的に破綻する。

また、マリー・ラーリシュとの密会をエリザベート皇后に見られたとき、マリー・ラーリシュは激怒する皇后に釈明するために、ルドルフが自分を誘惑したのだと嘘をついてルドルフを裏切る。エリザベート皇后は冷たい態度でその場を去る。ルドルフには、はるかに年下の少女であるマリー・ヴェッツェラしかすがる人間がおらず、マリーはルドルフに同情し、また彼女が本来持っていた夢想癖と死への憧れ(第二幕で示される)によって、ルドルフとともに死を選ぶ。

プログラムにはあらすじが書いてあるが、「場所はどこそこ、誰それがどうした」ということしか書いていない(だから「あらすじ」なんだろうけど)。具体的な歴史背景があるために、前知識がなければかなり分かりにくい作品だと思った。

最後はまたハイリゲンクロイツ墓地。黒い馬車から、紅い外套を着て黒い帽子を深々とかぶった、マリー・ヴェッツェラの死体が引きずり出される。このシーンは非常にグロテスクで不気味だが、これも本当にあったことらしい。マリー・ヴェッツェラの死体は、背中につっかえ棒を当てられて馬車に座らされ、そうしてハイリゲンクロイツ墓地まで運ばれて埋葬されたそうである。ブラットフィッシュが泣きながら立ちつくす中、幕が下りる。

やがて大きな拍手がわきおこり、ブラボー・コールが飛び始める。再び幕が上がる。そこにはムハメドフが一人で立っている。ムハメドフの姿が見えたとたん、拍手は割れんばかりに大きく、ブラボー・コールもいっそう大きくなってホール中に響きわたる。ムハメドフは前に出てきて、がっくりと上半身を折って礼をした。映像版では、まだ役柄から抜けきれていないような陰鬱な顔をしているが、今回は笑ってはいないまでも、冷静な、また穏やかな表情をしていた。

幕がまた下りて再び上がると、そこにはムハメドフを中心に出演者全員が並んでおり、手をつなぎながら出てきてお辞儀をした。ムハメドフの前に花束がいくつも運ばれる。それが尋常な数ではない。ほどなくムハメドフの前には花束の山ができた。それと同時に、舞台の左右上の客席から、絶え間なくざあっ、ざあっ、と花の雨が注がれ始めた。運ばれた花束と降り注ぐ花の雨で、舞台はあっという間に花で埋めつくされ、足の踏み場もない有様となった。

すると、ムハメドフがなぜか一人だけ舞台の脇に引っ込んだ。やがて出てきたムハメドフは、両手いっぱいに花束を持てる限り抱えていた。彼はその花束を、女性ダンサーたち一人一人に手渡した。その間にも、上の客席からは花の雨が降り注いでいる。ダンサーたちは再び前に出てきてお辞儀をしたが、床に積もった花のせいでつまずきそうになっていた。

カーテンが下ろされ、その間からムハメドフとガリアッツィが出てきた。ムハメドフは床に積もっている花を両手に抱え込むと、それをガリアッツィの頭の上からバサッ、とかけた。観客がドッと笑う。驚いた様子ながらも、嬉しそうに笑っているガリアッツィに、ムハメドフはキスをした。

拍手はずっと続いている。ムハメドフが一人で出てきた。拍手は再び大きくなり、またブラボー・コールが一斉に飛びかう。観客の全員が叫んでいるんじゃないかと思うくらいだった。そして観客が前から徐々に立ち始め、最後にはAuditorium全体が総立ちとなった。これはなかなか壮観だった。こんなのは見たことがない。

観客が熱狂的な状態になっている一方、ムハメドフは逆に飄々としていた。さっぱりした表情だった。ムハメドフは手を頭と額に当て、それから両手を胸に当てるという仕草を何度もした。ありがとう、という意味だろう。最後にムハメドフは両手を広げ、目を大きく見開いて、「やれやれ」という感じで、余裕の表情でお辞儀をした。ユーモアと暖かみのある態度だった。

私はこのカーテン・コールの様子から、ひょっとしたら今日の公演は、ムハメドフのロイヤルでの「さよなら公演」だったのか?と思い始めた。終演後にイギリス人の観客(60〜70歳代のじいさん)に聞いてみたけど、「そんなふうに考えないで、また彼がここで踊ってくれるという望みを持とう」と言われた。だから本当のところはどうなのか、今でもよく分からない。でも確かに、あのじいさんの言うとおり、望みを持つべきなんだろう。

(2004年8月31日)


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