Club Pelican

NOTE

ラッセル・マリファント“Two:Four:Ten”

(2009年4月7〜11日、ロンドン・コロシアム)

ロンドン・コロシアムはイングリッシュ・ナショナル・オペラの本拠地で、イングリッシュ・ナショナル・バレエもこの劇場で公演を行なっている。ただ近年は、サドラーズ・ウェルズ劇場が主催する公演の会場としても用いられているようで、この“Two:Four:Ten”もサドラーズ・ウェルズとイングリッシュ・ナショナル・オペラが共催する公演らしい。

コロシアムはコヴェント・ガーデンのロイヤル・オペラ・ハウスほど大きくはないけれど、サドラーズ・ウェルズ劇場と同じくらいか、一回り小さいくらいの、なかなか大きな劇場だ。客席は馬蹄形をしており、天井はドーム型になっていて天蓋が付いている。しかも、コロシアムの外装と内装は古めかしいが非常に豪華で、舞台の上や両脇、客席の二階席や三階席の柵、そして天井は、ロココ調の彩色された石像やレリーフで飾られていて、ロイヤル・オペラ・ハウスやサドラーズ・ウェルズ劇場が全面改装される前はこういう感じだったのかな、という、古き良きロンドンの劇場の姿をそのまま保っているように感じた。

ボックス・オフィスも狭いが、オンラインで購入したチケットを発券する機材は最新だった。オンライン予約したチケットは、わざわざボックス・オフィスに行って受け取る必要はない。1階のロビーに自動発券機があり、チケット購入時に使ったクレジット・カードを差し込むだけで、チケットが自動的にプリント・アウトされて出てくるのである。

スタッフはみな態度が非常に良く、またとても親切である。ロンドンの劇場で、あんなに感じの良いスタッフばかりに出くわしたのははじめての経験だった。木で鼻をくくったような態度のロイヤル・オペラ・ハウスの職員、無愛想が当然なウエスト・エンドの諸々の劇場の職員とは違う。感動した。

ただ、コロシアムのロビーやラウンジは、ウエスト・エンドの大多数の劇場と同様に狭く、通路や階段は迷路のように曲がりくねり、かなり分かりにくい構造をしている。このへんも古さを感じさせる。その狭いロビーの片隅に、プログラムを売っているカウンターをようやく見つけ、さっそく1部購入した(4ポンド)。今は円高だから安いなあ。600円くらいかな?

さて、“Two:Four:Ten”のプログラムの表紙を見たとたん、私は卒倒しそうになった。

プログラムの表紙は、ラッセル・マリファントとアダム・クーパーが組んでいる写真だった。アダム・クーパーは全身を後ろに反らせて倒れかかり、ラッセル・マリファントが片手でクーパーの左肩を抱え、クーパーはマリファントの腕を両手でつかんで、床すれすれのところで倒れかかった体をキープしている。後で分かったことだが、これは彼らがこの公演で踊る“Critical Mass”第一部の振りの一つだった。

アダム・クーパーもラッセル・マリファントも、藍色っぽいシャツにズボンというシンプルな衣装である。クールで静かだけど、完全にコントロールされた強靭な力を感じさせる、クーパーとマリファントのポーズはもちろん、マリファントに支えられたアダム・クーパーの表情の・・・ああ、敢えてこう表現しよう、なんとエロティックなこと!なんと危うい色気のあること!私はまるで、心臓に手を突っ込まれてわしづかみにされたようになって、その場に棒立ちになった。傍から見たらかなりヘンだったと思う。

プログラムの中には更にもう1枚、マリファントとクーパーが組んでいる写真があった。それを見たとたん、私は今度は鼻血が噴き出そうになった。

それはラッセル・マリファントがアダム・クーパーを逆さまにリフトしている写真だった。これもまたマリファントらしい、コントロールされた強いパワーが、限界ぎりぎりのところで均衡を保っていることを感じさせる、静かな緊張感にあふれたポーズである。

アダム・クーパーはラッセル・マリファントの片膝の上に腰だけを乗せて仰向けになった状態で、両脚を空中に伸ばしてわずかに広げ、そのままで静止している。裸足の甲が弓なりに曲がり、爪先は足裏に向かってくるんと丸めこまれている。バレエ・ダンサーの足だなあ。クーパー君の両腕もマリファントの体にかけられているわけでなく、床についているわけでもなく、ゆるく前に差し出されて空に浮いている。こんな写真がよく撮れたものだ、と仰天した。人類的にありえないポーズで、この写真を撮るために、彼らはどのくらいの間この信じられないポーズのままで静止していたのか、と思った。よく見ると、クーパー君の顔がわずかに紅潮しているから、かなりな時間、この姿勢のままでいたのだろう。

この写真のアダム・クーパーの表情も実にイイ。少年のような脆さとあやうさを感じさせる所在無げな、エロティックな表情で、とても37歳妻子持ちの男には見えない。

会場はほぼ満員の大盛況で、イギリスの舞踊批評家たちの姿も多く見受けられた。この公演では4作品、“Knot”、“Sheer”、“Two×Two”、“Critical Mass”が上演された。公演は7時半に始まって、途中で20分の休憩を挟んで、9時15分には終わっていた。正味1時間ちょっとの公演で、演目はマリファント作品オンリー、つまりコンテンポラリー作品ばかり。おまけにこの不況下、ちゃんと客が入るのか?と内心疑問に思っていたが、毎回なぜか客は入るのだ。当日割引とかがあったのだろうか?

コロシアムは古風で豪華な内装の劇場だが、一つだけ難点を言えば、オーケストラ・ピットが大きく場所を取っているために、舞台と客席の距離をかなり感じる。東京文化会館の大ホールみたいな感じである。おかげで、前列に座っていても、ダンサーの姿が小さく見える。

しかも、今回上演されたマリファントのどの作品も照明は暗く(これは踊りの効果を高めるためにわざとそうしてあるのだが)、ダンサーの表情がはっきり見えない。初日の公演では、私の隣の観客(たぶんイギリス人)もオペラ・グラスを使っていた。それで私も、2日目の公演からは、万が一のために荷物に入れておいたオペラ・グラスを持っていった。

「ノット(Knot)」、初演は2001年。上演時間はおよそ8分。照明はマイケル・ハルズ(Michael Hulls)、音楽はマッテオ・ファルジョン(Matteo Fargion)、衣装はケイ・イトウ(Kei Ito)。今回“Knot”を踊るのは、英国ロイヤル・バレエのプリンシパル、イヴァン・プトロフ(Ivan Putrov)と、ラッセル・マリファント・カンパニーのダニエル・プロイエト(Daniel Proietto)。

“Knot”の音楽はパーカッションぽい効果音のみである。舞台がまだ真っ暗なうちに、リズミカルなパーカッションの音だけが響き渡る。やがて、舞台の中央に立っているプトロフとプロイエトに、ピンポイントで交互にライトが当てられる。プトロフとプロイエトはグレーの袖なしTシャツを着て同色のズボンを穿いている。舞台装置は一切なし。プトロフとプロイエトの両方にライトが当たる。同時に彼らは踊り始める。

振付は、プトロフとプロイエトが互いの腕をつかんで弄ぶように振り回したり、プロイエトがプトロフの両手を取って、プトロフが回転をしたり、双方が両腕を水平に広げて回転したり、互いにリフトしあったり、というものだった。特にリフトはダイナミックで、片方が片方の背中に乗り上げながら側転したり、片方が片方をプロレスのバック・ドロップのように持ち上げたりと、かなりタフなものだった。

私はこの“Two:Four:Ten”を観るまで、マリファント作品といえば“Broken Fall”(2003)と“Push”(2005)しか観たことがなかった。しかし、この公演を観て徐々に感じたことには、マリファントの振付の特色は「静」の美しさであり、しかもそれは強靭な筋力が完全に制御され、またバランスがぎりぎりのところで完璧に保たれ、且つそれらのコントロールされた動きやポーズが、表面的にはまったく力を感じさせないものにならなければならない、ということだった。

初日では、プロイエトが緊張のためかミスを犯し、またプトロフも振付を自分のものにできていないことが明らかだった。プロイエトとプトロフが組んで踊るときも、公演3日目くらいまでは、彼らのタイミングはあまり合っていなかった。全体的に動きがぎこちなく、互いに相手を待ってからようやく動いている感じだった。“Knot”の振付は“Critical Mass”と似ている。しかし、“Critical Mass”で、ラッセル・マリファントとアダム・クーパーが組んで踊っているのを見るときに感じる、爽快感や気持ちよさを“Knot”では感じられなかった。

もっともプロイエトのほうは、2日目からはなめらかな美しい動きを見せた。プロイエトはラッセル・マリファント・カンパニーのメンバーなので、マリファントの振付には慣れているのだろう。一方、プトロフはなかなかマリファントの振付になじめないようだった。プロイエトの足を引っ張っていたと言ってもいいくらい。プトロフの動きは振付をただなぞっているだけで、マリファント風のなめらかさがほとんどみられなかった。バレエ・ダンサーから、クラシック・バレエという「武器」を奪うとどうなるかがよく分かった。

でも4日目の公演に至って、“Knot”は見違えるようにすばらしくなった。静かで鋭くて流れるように美しかった。プロイエトは磐石の安定した動きで踊り、プトロフの動きも初日とはまるで別人のように自然になった。二人のタイミングもバッチリで、見ていて気持ちよかった。この4日目の“Knot”が終わると、客席からはじめてブラボー・コールが飛んだ。初日からずっと硬い表情だったプトロフも、プロイエトと顔を見合わせて、はじめて嬉しそうに歯を見せて笑った。

プトロフが“Knot”を踊るのを初日から観てきて、初めはあんなに動きがぎこちなかったプトロフが、マリファントの振付をついに見事に自分のものにしてみせたのには舌を巻いた。また、ダンサーが新しい踊りを自分のものにしていく過程を見られたのは興味深い経験だった。

「シェアー(Sheer)」、初演は2001年。照明はマイケル・ハルズ、音楽はサラ・サランディ(Sarah Sarhandi)、衣装はケイ・イトウ。上演時間はおよそ20分で、マリファントの作品としては長めである。初演者はマリファント自身と彼の妻であるデイナ・フォウラスで、今回の公演では、イングリッシュ・ナショナル・バレエのシニア・プリンシパル・ゲスト・アーティストであるトーマス・エドゥール(Thomas Edur)とアグネス・オークス(Agnes Oaks)が踊った。

舞台の後方だけがぼんやりと明るく、その前にエドゥールとオークスが並んで立ち、同じ振りでゆっくりと踊り始める。エドゥールとオークスはチャコール・グレーのシャツに同色のズボンという衣装。オークスは髪を後ろに束ねただけのシンプルな髪型。

この“Sheer”は毎回「うーん?」だった。派手な動きはなく、またマリファント作品には珍しく、恋人同士の踊りという設定らしくて、互いへの愛憎が複雑に交錯する様を、互いにもたれかかったり、離れては寄り添ったり、男性が女性をリフトしたりと、けだるくてゆっくりした静かな動きで表現している。男性と女性が並んで同じ振りで踊る動きも多いが、男性が女性をリフトする動きのほうが、やはりどうしても多めになる。

エドゥールは比較的よく踊りこなしていると思った。特に両腕で逆立ちっぽい動きをしたときに旋回する両脚や、腕の動き、そしてリフトはとてもなめらかで力を感じさせない。一方、オークスはバレリーナらしく丁寧に、柔らかく踊っているものの、マリファントの作品に共通している、力を完全に凝縮・制御して一つ一つの動きを硬質な「静」にし、それを連続させてなめらかな「動」にする、というところが、彼女の踊りにはまだないように思えた。プトロフと同様、後でどう化けるか分からないので楽しみにしていたが、オークスの踊りに対するこの印象は最終日まで変わらなかった。

「トゥー・バイ・トゥー(Two×Two)」は、もとはソロの踊りだった“Two”の2人ヴァージョンで、今回が初演らしい。ソロの“Two”は1998年に初演され、マリファントの妻であるデイナ・フォウラスが踊った。上演時間はおよそ10分。照明はマイケル・ハルズ、音楽はアンディ・コートン(Andi Cowton)、衣装はケイ・イトウによる。

ダンサーはともにラッセル・マリファント・カンパニーのダンサーであるデイナ・フォウラスとダニエル・プロイエト。彼らの踊った“Two×Two”には最初から何の文句もなかった。毎回いつも楽しみだった。もしマリファントの振付はかく踊るべし、というお手本があるとしたら、この二人はまさにそれを体現しているんだよな、と観終わるたびにため息をつく思いだった。

舞台の左奥がぼんやりと明るくなり、正方形の低い台の上に立っているフォウラスの姿が浮かぶ。フォウラスは黒のゆったりした袖なしTシャツを着て黒いズボンを穿いている。非常に暗いライトの下で、フォウラスは上半身と両腕をゆっくりとうねらせる。その「ゆっくりさ」が尋常でなく、1秒にわずか2,3センチほどのペースで手足を動かしていて、まるでコモドオオトカゲみたいだった。しかも、そのスピードは常に一定を保ち、動きによって形作られる線が完璧につながっていて断絶していない。

しばらくして、舞台右前方にも薄暗いライトが当てられる。その下にはプロイエトが横たわり、フォウラスと連動するように身体をうねらせている。プロイエトは黒のややタイトな袖なしTシャツを着て黒いズボンを穿いている。

この“Two×Two”の「音楽」も、音楽というより複数の音を組み合わせた効果音と表現したほうが正しい。

振付はこれ以上にないほどゆっくりで、その動きはおそらく、中国の太極拳を全体のベースにしていると思う。真っ暗な舞台に当てられた2つのスポット・ライトの下で、フォウラスとプロイエトは非常にゆっくりな動きで、立ったまま身体をねじり、折りたたみ、また両腕を大きく緩慢に動かし続ける。

フォウラスとプロイエトは同じ振りを同時に、また時間差で踊っていく。一緒に組んで踊ることはない。“Two”にはソロ・ヴァージョン、今回の2人ヴァージョン、そして3人ヴァージョンと3種類あるそうだが、それぞれが別個に踊るので、こういうヴァリエーションが可能なのだろう。3人ヴァージョンも観てみたいような。

太極拳のようにゆっくり動いていたフォウラスとプロイエトの手足が、徐々に鋭く速く動いていく。腕も脚もピンと伸ばして回す動きが多い。彼らは腕を振り回し、片脚を蹴り上げるようにして旋回させる。この速い動きも中国武術を連想させる。実際、効果音にも、大勢の僧が少林寺拳法を一斉に練習しているときに発するようなかけ声(←だってこうとしか喩えようがないんだもん)が入り始める。

照明が面白かった。この段階になると、ライトはいっそう暗くなり、しかもただフォウラスとプロイエトの両腕と両足のみに当てられているだけになっている。このような照明の下で腕や脚を旋回させると、視覚的に非常に面白い効果が生まれる。

フォウラスとプロイエトの腕と足先が旋回した形が、白い光の帯をともなった残像となって見えるのである。それも肉眼で。喩えて言えば、闇に松明の灯りが光の影を帯びて動くのを見るような感じ。

フォウラスとプロイエトは腕と脚を絶え間なく鋭く速く旋回させ続ける。高まる効果音の中、丸い光の線が闇の舞台の上で現れては消えていく。それが最高潮に達したとき、効果音が止んでライトが一気に落とされる。うーん、カッコいい!

“Two×Two”が終わると同時に、興奮した観客が一斉に大きな拍手と送り、盛んなブラボー・コールを送る。フォウラスとプロイエトはにこやかな笑顔を浮かべて互いにしっかりと抱き合い、前に出てきて観客の喝采に応えてお辞儀をした。本当に嬉しそうな笑顔だった。プログラムによると、フォウラスは2001年から去年まで、子育て(3人)のためにダンサー活動を休止していたということで、今回の公演が実質的なダンサー復帰の機会だったらしい。ダンスの能力は健在だったということで、ともかくおめでとう。

だが、一抹の不安がよぎる。この“Two×Two”が終わると、会場はいつも大盛り上がりである。20分の休憩時間で熱狂を冷ますとしても、クーパー君の踊る“Critical Mass”が呑まれてしまったらどうしよう、と初日は心配した。

でも結局のところ、そんな心配は無用だった。“Two×Two”は確かにすばらしいが、“Critical Mass”は作品自体、そしてダンサーの規模が段違いに大きいので、“Two×Two”、またフォウラス、プロイエトと比べる気など起きず、まったくの別物として見ることになったのだった。

「クリティカル・マス(Critical Mass)」、初演は1998年。照明はマイケル・ハルズ、音楽はアンディ・コートンとリチャード・イングリッシュ(Richard English)、衣装はケイ・イトウによる。ダンサーはラッセル・マリファントとアダム・クーパー。

この“Critical Mass”の上演時間はおよそ35分で、コンテンポラリー作品としては長めといえる。踊り手は男性ダンサー2人だけで、35分間踊りっぱなし。しかも、最後になればなるほど振付がタフなものになっていくという、非常にハードな作品である。作品は3部構成で、各部で音楽と踊りの感じが異なる。だけど踊りに関しては、ベースは3部とも同じ(たぶんレスリング)で、ただそのベースを微妙に変えているだけである。

舞台の中央だけにライトが当てられ、両端からラッセル・マリファントとアダム・クーパーが無表情のまま歩いてやって来る。マリファントとクーパーは、舞台の中央で無表情で向かい合ってから横に並び、ゆっくりした動作で踊り始める。

マリファントとクーパーは濃い目のグレーの前開きのシャツを着て、ほぼ同じ色のズボンを穿いている。足は裸足。マリファントは相変わらずのスキン・ヘッドで、クーパーもなぜか丸刈りっぽい短い髪型になっていた。

この第1部(プログラムには「第1部」とは書かれていないが)は、様々な動きから構成される一組の振りを、音楽(効果音と重低音のパーカッションだけ)に合わせて、加速しながら何度も何度も繰り返していく。

これがまた大変そうな動きばかりで、マリファントとクーパーは舞台の中央からほとんど動かないものの、身体を同時に折り曲げたり、交互に腕や身体をブロックのように組み合わせ(「絡み合わせ」ではない)たり、互いに倒れそうな姿勢の相手の身体を支えて静止したりする。

クーパーがえび反り状態で後ろに倒れると、マリファントはクーパーの腕をつかんで静止する。それから間髪入れずにクーパーは起き上がり、今度はクーパーがマリファントの腕をつかんで、マリファントは後ろに倒れかけた状態で静止する。「倒れる」と書くと、「勢い」や「スピード感」が漂うが、決してそうではない。渾身の力を込めて身体をコントロールしながら後ろに傾けている感じである。

たとえば、アダム・クーパーは全身を筋肉で支えながら、なめらかに、流麗に後ろに倒れる。ただし、力を入れてふんばっている感じはまったくしない。マリファントが倒れるときも同様で、力みをまったく感じさせない。倒れる相手の腕をつかんで支えるほうの動きも同じで、「力を入れて支えています」感が皆無である。とにかく「力」というものを感じない。宇宙飛行士が宇宙空間で船外作業しているようだった。

その他の動きでも、マリファントとクーパーの動きはしなやかで鋭く、間やたるみがまったくなかった。お互いの身体を複雑に組み合わせ、後ろに倒れるお互いの身体を支える、この一連の動きはすべて、静かでなめらかで鋭くて流れるようだった。しかし、実はどんなにタフな振りなのかは、見てればおのずと察しがつく。すさまじいパワーとバランス力を必要とする振りで、そのタフでハードな一連の動きを加速させながら繰り返していくのである。更には、その加速度が尋常ではなく、まるでビデオ・テープの早回しを見ているようだった。

もしマリファントとクーパーとの間にタイミングや間合いの「ずれ」が生じてしまえば、この踊りは台無しになるはずである。しかし、マリファントとクーパーはよどみなく一連の振りを踊り続けていく。彼らの動きが加速すればするほど、発散される迫力もいよいよ凄まじくなっていく。この時点で観客はすっかり呑まれてしまっていた。私も本当に口を開けっぱなしで、持ってきたオペラ・グラスを使う暇は結局なかった。

照明がいったん消される。一部の観客は、これで作品が終わったものと思ったらしくて拍手していた。でもすぐにまた照明が点いた。マリファントとクーパーは聞こえないくらい静かで低い効果音の中でゆっくりと踊る。これからが第2部にあたるようだ。第1部と異なり、マリファントとクーパーは今度は舞台を大きく移動しながら、手や腕をつないだまま、時に同じステップを踏み、時に身体を絡ませて(でもエロい感はゼロ)、時に交互に相手に寄りかかって、あるいは双方が手をつないだままコンパスのようにふんばってバランス・キープし、時に片方が片方の身体の上に乗りあげながら開脚するなど、音もなく静かにゆっくりと踊り続ける。

マリファントとクーパーは相変わらず無表情で、舞台からは超真面目で緊張した雰囲気が漂ってくる。観ている私も、うーん、コンテンポラリーって哲学的、マリファントって真面目ねー、と厳粛な気持ちになった。ところがその瞬間、いきなり俗っぽくてコミカルな感じのタンゴの音楽が流れ始めた。観客がクスクスと笑った。

ところが、よく見たら、マリファントとクーパーは、さっきほぼ無音の中で踊ったのとまったく同じ振りで、そのタンゴに乗って踊っているではないか。やるわ、と思った。無音とコミカルな音楽という、両極端なものの中で同じ振りを踊ることで、踊りの印象がまったく違ってしまうことに気づかされた。踊りをそれぞれの「ジャンル」に閉じ込めることがいかに無意味か、思い知らされた気がした。

観客にそのことを分からせた(←マリファントはそこまで傲慢な意図を持ってはいないだろうが、ふざけているのは確かだと思う)上で、マリファントとクーパーは本格的に両手を組んで、「ジャンル」が正体不明の振りを「タンゴ」の中で踊る。互いの両足を絡ませたり、相手の手から逃れるように身体を反転させたり。タンゴだと思い込めばタンゴだけど、でもタンゴとは限らない、という意識ができあがってしまったので、不思議な踊りを見るようだった。

ただ、その中で、クーパーが身をかがめたマリファントの背中の上に飛び乗って一瞬正座する、という動きがある。クーパーは無表情のまま顔を上げ、正面の客席をじっと見つめる。それがなんだかユーモラスで、このときには客席にいつも軽い笑いが起こっていた。クーパーのこういう間合いのはかり方の絶妙さはさすがだな、と思った。

数日目にして気づいたことには、この“Critical Mass”の振付のベースはレスリングらしかった。レスリングの試合をスローモーションで見れば“Critical Mass”のような感じになるだろう。それがこうして「踊り」になるのだから面白い。

マリファントとクーパーは常に向き合って相手を見つめながら、ゆっくりした動作で、まるでレスリングのような振りで踊る。この「見つめあい」も、レスリングの試合で対峙した選手たちが、相手の出方を油断なくうかがうようなもので、振付も自分の手足を相手に取られまいとするような動きだった。キック・ボクシングのような動きもあった。マリファントがクーパーに向かって片脚をゆっくりと上げ、クーパーはそれを避けるかのように身をよじる。この振りもスロー・モーションのように、実に緩慢で静かなうちに踊られる。

徐々にマリファントとクーパーが交互にリフトしあう動きが多くなっていく。しかも、ちょっと持ち上げるような軽いリフトではない。クラシック・バレエ作品で、男性ダンサーが女性ダンサーをリフトするようなダイナミックなもので、そうしたリフトを何度も繰り返す。

マリファントとクーパーは代わる代わる、相手の身体を横抱きにしたり、逆さまに抱えたまま静止したり、相手の両脇を抱えて頭上に持ち上げたり、相手の身体を肩にぶら下げる。クーパーのほうがマリファントよりも長身なせいか、どちらかというとクーパーがマリファントをリフトするほうが多かった気がする。

これだけダイナミックなリフトだらけなのに、やはり、マリファントもクーパーも、力が入っている感じを与えない。持ち上げるほうはフォーク・リフトのように機械的で、持ち上げられたほうも身体をピンと伸ばしたまま微動だにしない。最後はクーパーが直立不動のマリファントの両脇を支え、機械のようにぐーん、と高く持ち上げたところで、照明が消されて第2部が終わる。

照明が再び消えると、やがて舞台の左前方にアダム・クーパーの後ろ姿が白いライトの中に浮かび上がる。クーパーは両手を組んで頭上に上げている。これからが第3部に入るようだ。

再びほぼ無音の中で、クーパーが一人で踊り始める。クーパーは組んだ両手の輪を空中でゆっくりと動かし、身をよじるように体を複雑に動かす。組んだ両手がまるで縛られているかのように、クーパーはやや苦しげな表情をして、なんとか自由になろうと必死にもがいているかのような振りで踊る。

それからクーパーは両手を離す。すると今度は両腕をピンと伸ばし、鋭く、しかしなめらかに回転させる。アダム・クーパーの長い腕の本領発揮である。クーパーの両腕が、闇の中に白い円型の光の残像を描きながら旋回する。肉眼で見ても、無数の光の線からなる円い残像がはっきり見える。

これは上に書いた“Two×Two”でも見られた振りで、暗い照明とダンサーの動きの巧みさとが、うまく融合して醸し出される効果だと思う。ここで思ったのは、アダム・クーパーが“Two”、もしくは“Two×Two”を踊ったらどうなるかな、ということだった。“Two”シリーズの振付上の特徴は鋭く旋回する手足の動きの美しさだから、アダム・クーパーが踊ってもけっこうイケるんではないかな、と思った。

クーパーが踊っているうちに、舞台の右奥にほの暗いライトが当てられ、ラッセル・マリファントがその下に立っているのが見えてくる。クーパーは踊りをやめると、その場に膝をついて座り込む。それと同時に、マリファントも同じ姿勢で座り込む。彼らは同じ方向を見つめ、それからゆっくりと立ち上がる。

マリファントとクーパーはやがて顔を上げる。そして、歩いては座り込み、また歩いては座り込みして、互いに近づきあう。それから再び組んで踊り始める。

音楽ではなく、低い効果音と重いパーカッションの音だけが響いている。重い音が地鳴りのように床から突き上げてくる。この第3部の踊りの基本となる動きは、「床に寝そべって」のようだ。マリファントとクーパーは床の上を這いずり、またのたうち回るかのような動きで、舞台じゅうをひっきりなしに移動する。彼らは床の上に横たわりながら、そのまま身体をぐるぐると回転させて、腕の力だけで身体を持ち上げ、逆立ち状態になって相手の身体の上を側転して横断し、身体を組み合わせる。

これらの動きはやはりみなレスリングぽいというか、腰を低く落として両手を前に差し出して構え、相手の出方をうかがうような動きや、相手に仕掛けられた技から逃れるような動きが多い。

ほとんど寝そべったままで、マリファントとクーパーの身体はすばやく舞台じゅうを動き回り、動きながら互いに身体を上下左右に組み合わせていく、その一瞬一瞬が絶妙なポーズになっている。これも二人のタイミングが合わないと成り立たない振りである。

パーカッションの重くてリズミカルな音が大音量で響いている。マリファントとクーパーも止まることなく踊り続けている。第2部と似たようなダイナミックなリフトが再び何度も繰り返される。マリファントにリフトされた瞬間に開脚するアダム・クーパーのポーズが実に美しい。久しぶりにクーパーのこんなポーズを見た。こころもち身をよじらせながら、頤をのけぞらせる。不謹慎かもしれないけど、そこはかとないエロティックな雰囲気が漂い、見ている私はついうっとり。

また、クーパーが側転しながら、かがんだマリファントの背中の上を横断する動きと姿勢もきれいだった。

クーパーはまるで女性ダンサーに対するように、マリファントを軽々と高く持ち上げる。「クーパー君は力持ち」とは前々から思ってたけど、背丈が少し違うだけで、体格はさほど変わらない男性(マリファント)をここまでダイナミックにリフトできることに驚いた。しかも、“Critical Mass”が始まってからもう20分以上が経過しているのに、更にはクーパーはその間ずっと踊りっぱなしなのに、パワーがまったく落ちない。

こうしておよそ35分もの間、マリファントとクーパーはくんづほぐれつで絡みっぱなしなのだけど、実に健康的で、性的な雰囲気はまったく感じない。ただ、踊りに大人の男の色気のようなものが漂っている。健全なセクシーさである。

第2部とこの第3部にはクラシック・バレエの振りがいくつかみられた。片脚を斜め横に伸ばして回転する、ジャンプして半回転する、片脚を真横より上にふり上げる、またアラベスクなど。アダム・クーパーのこうした動きを見るのも実に久しぶり。でも、クーパーの動きはどれもきれいだった。もちろん、クーパーよりテクニック的に優れているダンサーなど星の数ほどいるだろうが、クーパーの動きには彼特有の端正さと優雅さとがあって、それが以前と変わっていなかったのでホッとした。

ただ、クーパーがぽーんとジャンプして半回転した後、マリファントも同じようにぽーんとジャンプして半回転する。マリファントのほうがクーパーよりジャンプの高さがあった。マリファントは61年生まれなので、今年48歳になるはずである。71年生まれのクーパー君より、61年生まれのマリファントのほうが高くジャンプできるってどうよ、とちょっと複雑に思ったが、クーパー君は自分のテクニックのレベルについてはもう開き直っており、今さら誰と張り合うつもりもないらしいので、まあ仕方がない。

ところが、世の中にはこーいうつまんねえ一点のみをことさらに取り上げて、アダム・クーパーはもうバレエの世界に戻るつもりはない、などと言いたれる了見の狭い人々がいるようだ。そういう人々は、ロイヤル・オペラ・ハウスだけに通って、現在停滞中のロイヤル・バレエの公演だけを観て、「超一流」のバレエの世界に浸っているがよろしい。

あと、私がうんざりするのは、なんでもバレエっぽく踊ればすばらしくて、バレエっぽく踊らなければ「このダンサーはダメ」と即否定する人々がいること。アダム・クーパーの踊りというのは、確かにバレエがベースだけれども、彼はこの10年間、いろんなジャンルのダンスに挑戦してきたわけだよね。だから、彼が独自に確立した踊りのスタイルというものがあって、実際に彼は自分のダンス・スタイルで“Critical Mass”を踊ったのよ。ただ従順に「マリファント風」に踊ったのではない。

そういう事情を知らずに、クーパーがバレエっぽく踊らなかったという理由で、クーパーはダメだ、と決めつける人々がいることに対しては、本当に「そういう短絡思考はやめにしたら」と言いたくなる。こういう人々に限って、シルヴィ・ギエムが踊った“Two”は手放しで絶賛するんだよね。ギエムがバレエっぽく踊ったという、それだけの理由で。

さて、第1部と同じ効果音とパーカッションの重い音が再び流れ始める。マリファントとクーパーは舞台の中央に立つと、加速するパーカッションの重低音の中で、第1部で踊った一連の振りをまた繰り返して踊る。やがてパーカッションの音が徐々に低くなっていく。舞台の真ん中だけにライトが当てられる。マリファントとクーパーはライトの下に立って向かい合い、お互いを見つめる。彼らはやがて無表情のまま互いに背を向けて闇の中に去っていく。

考えてみれば、私はアダム・クーパーの踊るコンテンポラリー作品を生で観たことがなかった(ウィル・タケット版『兵士の物語』は、振付的にはやはりクラシックの部類に入るだろう)。初日の公演、私はマリファントとクーパーの踊る“Critical Mass”を見ながら、凄まじい力とスタミナで踊っているはずなのに、この人たちはなんで足音をまったく立てないのか、なんでこんなにも静かなのか、と呆然とし、同時にまったく音のしない彼らの動きの中からじりじりと発散されている、制御された強靭なパワーとスタミナの、そのあまりの迫力に圧倒されて、文字どおりあんぐりと口を開けたまま見入っていた。

アダム・クーパーについては、バレエを舞台で踊らなくなってからのほうが、逆にバレエがうまくなったのではないかとさえ思う。はっきりと分かるバレエのステップやムーブメントでの、クーパーの動きやポーズは非常にきれいだったが、コンテンポラリーについても、映像に残っているウィリアム・フォーサイスの「ヘルマン・シュメルマン」を踊っている20代半ばのアダム・クーパーよりも、“Critical Mass”を踊っている今のアダム・クーパーのほうが優れていると思った。

マリファントの作品は、目に見える「力」を感じさせたら、その魅力が一気になくなってしまうという特徴を持っている。しかし、暗いライトの下で、ラッセル・マリファントとアダム・クーパーは、最後まで音を立てず、静かに、あからさまな「力」を感じさせることなく、無機質な動きで踊りとおした。最後のほうでは、マリファントもクーパーも息遣いの荒さを隠そうとしなかった。でも、無表情は変わらないし、踊りのパワーは少しも落ちないし、動きは完璧にコントロールされている。

特に、10日の公演でのマリファントとクーパーの踊りは最もすばらしかった。ライトが消えて“Critical Mass”が終わると、まだ効果音が続いているのに、観客はいっせいに拍手を始めた。マリファントとクーパーが挨拶に出てくると、それまでで最も大きい拍手とブラボー・コールと歓声が飛んだ。他の観客も私と同じように思ったのであろうことが分かった。その晩は宿に帰っても興奮が続き、なかなか気持ちが鎮まらなかった。

カーテン・コールでのマリファントとクーパーは、初日は二人の間にまだ距離があるような感じだった。でも、回を重ねるごとに距離が縮まっていくようで、10日の公演のカーテン・コールでは、互いに肩を組んでニコニコと笑いあっていた。それまでは、カーテン・コールでのマリファントとクーパーの間に漂っていた他人行儀さと同様、その踊りも、双方が自分のキャリアと能力に物を言わせて、そつなくプロフェッショナルに仕事をこなしていたといった感があった。

しかし、10日の公演での二人の踊りには、明らかにパートナーシップというものができあがっていた。踊っている間、彼らは相手を待っていなかった。それぞれがそれぞれの動きを踊るだけなのに、でもその動きがバッチリ合っている。これはお互いに対する信頼感がないとできないことだと思う。

アダム・クーパーに関していえば、動きがそれまでにも増してキレよく、また美しかった。ラッセル・マリファントも同じだった。お互いが自分の踊りを自分の能力を存分に出しきって踊っていた。だから二人ともすごく動きが速く、鋭く、きれいだった。目にも止まらぬ速さと、あとは物凄い緊張感と迫力とで、やっぱりオペラ・グラスを使う余裕などなかった。二人はそれぞれがダンサーとして、正面からぶつかりあって踊っているという感じがした。これはもう相手を信頼しきって、心を全開にしている、まったく遠慮していない、という雰囲気が伝わってきた。

10日の公演以降、カーテン・コールでのマリファントとクーパーは、実ににこやかな笑いを浮かべながら互いを見てうなずき、最初は客席に向かって、次にお互いに向かって、深々とお辞儀をした。そして、互いの肩に腕を回してがっちりと組んで、客席を力強い目つきで見つめていた。

私が思うに、今回の公演にアダム・クーパーを出演させることは、マリファントの意思ではなかっただろう。おそらく、サドラーズ・ウェルズ側から要請されたのだと思う(今夏に上演される“Shall We Dance”の宣伝目的とかで)。だから、マリファントにとってアダム・クーパーは、最初は「お客様」だった。

でも、公演4日目(10日)のパフォーマンスで、ラッセル・マリファントとアダム・クーパーは、やっと「ともに踊る仲間」として打ち解けたんじゃないかと思う。それが伝わってきたことが何よりも嬉しかった。

アダム・クーパーのデマチをしたとき、マリファントの振付とクラシック・バレエの振付との違いについてクーパーに聞いた。こういうことは、踊った本人に聞くのが手っ取り早い。すると、クーパーもやはり「ラッセル(マリファント)の振付にはバレエだけでなく、ヨガ、太極拳、○○(←聞き取れず)が融合している」と言っていた。

クーパーは身振り手振りを交え、踊るような仕草をしながら続けた。「クラシック・バレエでは、一つ一つの動きがあって、それらをスムーズにつなげて、流れるように踊っていくよね。でも、ラッセルの振付は、いくつかの動きがつながって連続するときもあるけれど、動きがいきなり断絶して、次にはまったく異なる動きに移行する。」

マリファントの振付の踊り方は、バレエの踊り方と具体的にどう違うのかも聞いてみた。そしたら、「バレエでは一つの動きをする場合、身体の各部の動き方が決まっているけど、ラッセルの振付ではそうではない」という答えが返ってきた。

そのとき、道の向こうから数人の団体がクーパーに声をかけてきて、クーパーも手を振ってそれになにやら大声で返していた。私が「すみません、なにか約束があるんですね」と謝ると、クーパーは「そうじゃないよ、あれはラッセルだよ」と答えた。私はマリファントの振付について、自分の感じたことを言ってみた。「マリファントさんの振付は静かだけど、実はとてもパワフルだと思う。」 すると、アダム・クーパーは「そのとおり」と言い、マリファントたちの去った方向を見つめながら「ラッセルはそういう人柄なんだよ。物静かで内気だけど、本当はとても強靭だ」と続けた。

そのときのクーパーのまなざしと口調がなんというか、マリファントをすごい尊敬して憧れているような雰囲気がマンマンで、私は「クーパー君はマリファントのことを好き(もちろんヘンな意味じゃないよん)なんだな」と感じた。それで、クーパー君が良い振付家と出会えて、その作品を踊る機会を得ることができて本当によかった、と心から思った。

クーパー君はだいぶん痩せてシャープになり、顔がいよいよ小さく細長くなっていた。非常に上機嫌(というより、異常なほどにハイ・テンション)で明るく、公私ともに、また心身ともに充実していることがうかがえた。

(2009年5月17日)

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