Club Pelican

NOTE 7

“Play Without Words”について

2003年12月10日、ロンドンのNational Theatre(Lyttelton Theatre)で、New Adventuresの“Play Without Words〜The Housewarming〜”プレビュー初日公演を観た。Matthew Bourneの新作である(初演は2002年夏)。プログラムの表紙には“Devised by Matthew Bourne”と記されている。だがプログラムの内側には“Choreography ・・・MATTHEW BOURNE & THE COMPANY”とあり、一方“Play Without Words ”のCDには“MOVEMENT DEVISED BY MATTHEW BOURNE & THE COMPANY”と記されている。これらの不統一な表記はそのまま、この作品の表現様式の新奇さを表しているような気もする。

音楽にはジャズあるいはフュージョンが用いられている。Terry Daviesの作曲とアレンジで、この作品のためのオリジナルである。サウンドトラックのCDが発売されている(発売元と番号がはっきり表記されていない。ジャケットには“NT”のロゴが入っているので、ナショナル・シアターのオリジナル商品かもしれない)。購入したい方はナショナル・シアターのブック・ショップ(→ ここ  右側の“ALSO IN BOOKSHOP”の下にある“NT Shows”をクリックして下さい)まで。また、Dance Booksでも手に入る(「リンク集」から飛んでね!)amazonとかでも買えるのかしら?私はジャズやフュージョンをぜんぜん知らないけど、この音楽は超イイ。おすすめ。

主な出演者。Anthony:Sam Archer、Ewan Wardrop、Richard Winsor(ポスターに写っている)。 Glenda(Anthonyの婚約者):Saranne Curtin、Michela Meazza、Emily Piercy。 Prentice(Anthonyの召使):Scott Ambler、Steve Kirkham、Eddie Nixon。 Sheila(Anthonyのメイド):Belinda Lee Chapman(ポスターに写っている)、Valentina Formenti。 Speight(Anthonyの古い知人):Eddie Nixon、Alan Vincent、Ewan Wardrop。

このキャストを一見しただけで、同時期にサドラーズ・ウェルズ劇場で上演されている“Nutcracker!”と比べて、マシュー・ボーンがどちらの公演により力を入れているのかは一目瞭然である。それとも、“Nutcracker!”はどちらかというと、体力勝負の踊りが多いせいかもしれない。

同じ役を2〜3人で受け持っているが、これは公演ごとに交替するダブル、もしくはトリプル・キャストではない。同じ公演の舞台上で、あるときには交代で、またあるときには、というよりほとんどの場合、1人の役をこの2〜3人が同時に演ずる。

プログラムには“Inspired by Joseph Losey’s film”、また“Based on The Servant by Robin Maugham”とある。“The Servant”(1963年)という映画を下敷きに、そのほか多くの映画のシーンやイメージを織り込んでいって構成されたものらしい。

作品は全2幕で、上演時間は20分の休憩を含めて1時間40分、だから作品自体は1時間20分しかない。ボーンの“Nutcracker!”もそう長くはないが、映像版は80分でもカットや編集が施されており、実際の上演時間はもう少し長かった。だが、“Play Without Words”は、10日のプレビューは夜7:45開演で、終演後、私は9:30前には劇場を出ていたから、実際の上演でもきっちり80分である。

これは観ている方としては体力的にちょうどよかった。疲れないで集中して観ているうちに終わる。夏に同じNational Theatre(今回と同じLyttelton Theatre)で観た「三人姉妹」の上演時間なんか、休憩を抜かして全部で3時間もあったから、終わったときには本当にヘトヘトだった(面白かったけどね)。

作品の舞台は1965年のロンドン、チェルシー地区(由緒正しい高級住宅街だそう)に建てられた主人公Anthonyの新居とその周囲の街。第1幕は主人公のAnthonyが新居に引っ越して間もない頃、第2幕はそれから1ヵ月後。主人公のAnthonyは、まあ裕福で社会的にもそれなりに成功しており、人もうらやむような環境にいるものの、実は気が弱くて自分の身の回りのことも満足にできない青年である。彼には美しい婚約者(Glenda)と、男の召使(Prentice)が1人おり、Prenticeはほとんど奴隷的な態度で主人に献身的に仕えている。

Prenticeは魅力的な少女(Sheila)を新たにメイドとして雇い入れ、Sheilaは主人であるAnthonyを誘惑するかのような態度を取る。一方、Anthonyの古い友人(Speight)は、貧しく何事もうまくいかない自分の境遇に怒りを抱き、自分とは反対に、金や地位、美しい婚約者と、すべてを持っているAnthonyに激しく嫉妬している。SpeightはAnthonyの婚約者Glendaに目をつけ、強引な態度で彼女を誘惑しようとする。Glendaは初めこそ彼を嫌っていたものの、次第に彼の粗暴さに魅かれていく。ところが、これはPrenticeがSpeightをそそのかしてやらせていたことだった。

遂にAnthonyはSheilaの誘惑に乗り、GlendaもSpeightと関係してしまう。だが、SpeightはGlenda自身を愛していたわけではなく、Anthonyを憎んでいただけだったので、目的を遂げるとさっさと彼女を捨ててしまう。

それとともに、召使Prenticeの態度が次第に増長し始める。腹に据えかねたAnthonyはPrenticeを打擲しようし、ふたりは大乱闘になる。ついにPrenticeがAnthonyをぶちのめして押さえつけ、ここで主人と召使の立場が逆転する。献身的に主人であるAnthonyに尽くしているかにみえたPrenticeが、実は最もAnthonyを憎悪していたのだった。

身も心も打ちのめされたAnthonyは、今度はPrenticeにかしずかれながらも、ペットのように飼われる身となり、もはや抵抗する気力もなくうずくまるばかり。Anthonyの元に戻ってきたGlendaの前に、Sheilaが小気味よさそうな笑いを浮かべて立つ。AnthonyはGlendaに目を向けようともしない。彼女はAnthonyとメイドが関係を持ったことを知った上に、PrenticeとSpeightに脅迫されてAnthonyの元から去る。

最後、力なくソファーにもたれて座っているAnthonyを、何人ものGlenda、Prentice、Speight、Sheilaが見下ろしている。Sheila もAnthony から去っていく。彼女もまたPrenticeの策謀で、最初からAnthonyを誘惑させるためだけに雇われていたのである。こうしてAnthonyはすべてを失なう。

National TheatreのLyttelton Theatreは小さめの劇場で、おそらくは演劇専用の劇場だと思われる。1階席は前後20列ほどしかなく、1列あたりの席数も30くらいである。舞台幅も大きくはなく、オーケストラ・ピットもなかった(作れるようになっているのかどうかは知らない)。開演前、幕は上がったままで、ただライトが落とされているだけである。“The Car Man”もそんな始まり方だった。

やがて客席が暗くなる。真っ暗な舞台上に、トランペットを吹く男の横向きの姿がスポット・ライトを浴びて浮かび上がる。メインのSpeight役であるAlan Vincent。音楽は6人編成のジャズ・バンドによる生演奏である。舞台の右脇に、舞台装置の一部でもある鉄柵(ロンドンの街中でよく目にするヤツ)が設けられていて、その奥で演奏している。Speightの動作にあわせて、トランペットのソロが響き渡る。

舞台が一転して明るくなる。さて、忙しいぞ〜。何から書いていけばいいのか。まず舞台装置。バンドが演奏している右の鉄柵の前には、いくつかの丸テーブルと椅子。鉄柵には道路名を示す“〜Street”という看板がかかっている。舞台の左にも同じような鉄柵があり、その中間が切れていて、そこから舞台上に出入りできる。舞台やや左寄りには、大きく螺旋状に曲がった階段があり、階段の下は大きめの電話ボックスのような細長い部屋になっていて、その側面の壁は透明で内部が見える。中には丸窓のついた扉が2枚か3枚ある。これが主人公Anthonyの家の玄関である。

この螺旋階段と玄関のセットはくっついていてぐるぐると回転する。セットの反対側には間隔の広い鉄格子があり、足をかけて上に飛び乗ったり、人が体をすりぬけさせたりすることもできる。また中段部分にはテラスも設けられている。客席に向ける面によって、いろんなふうに用いることができるわけである。舞台の前面には一人掛けのソファーが置いてある。

螺旋階段の最上段は、隣接する高い段のセット上に設けられた道に通じている。道はそのまま舞台の右袖に向かって伸びていて、そこから舞台を出たり入ったりできる。その道の途中には赤い電話ボックスがある。道と電話ボックスの後ろには街並みが広がっている。電話ボックスの斜め後ろには、遠近感を出すための小さな電話ボックスが一つ置いてあり、更にその後ろの背景、舞台の奥全体には、白いビル群のセットが斜めに林立している。ちゃんとビルのひとつひとつに細かく窓があって、休憩時間にはそのビルの窓に明かりがともっていた。この舞台セット、かなり金がかかってるとみた。

トランペットのソロが終わると、舞台がぱっと明るくなる。それと同時に出演者たちが螺旋階段をひっきりなしに上り下りし始めた。実に大変だった。私の目が。文字どおりあまりにもめまぐるしい。3人のAnthony、3人のGlenda、3人のPrenticeが、すばやい動作で同時にあちこちを動き回るのだから。これでパニックに陥った人は多いだろう。

あるAnthonyはきっちりしたスーツを着てメガネをかけ、髪の毛もきちんと整えている。またあるAnthonyはパジャマにガウン姿。Glendaは上品で趣味のよいツーピースを着て、髪はアップにしてまとめている。やがて1人のGlendaがAnthonyの玄関の扉を開く。そうするともう2人のGlendaがその後に続き、映画のフィルムのコマのように、3人のGlendaがドアを次々と開けて、Anthonyの家の中に入っていく。舞台右の丸テーブルには、2人のPrenticeと2人のSheilaとが、それぞれ向かい合って席に着き、なにやら話をしている。Prentice は外套姿、Sheilaもコートを着て大きなカバンを足元に置いている。

この“Play Without Words”で、複数のダンサーが同時に同一人物を演じるという手法は、同一人物の性格の異なる面を、複数のダンサーがそれぞれ表現しているのではなく、たとえばその人物や、その人物の周囲の人々を含めた、日常生活、エピソード、ストーリーなど、本来は前から後ろへと段階を踏みながら、時間をかけて進行していくはずの各プロセスを同時に、また同じひとつのプロセスを僅かな時間差で展開しているのだと思われる。

だから同一人物を演じる複数のダンサーは、うまい言い方ではないけど、みんなが総体的な同一人物を演じているわけである。同一人物の各側面を同時に演じているんではなく、各時間を同時に演じている。映画のフィルムが、1コマ1コマがはっきり見えるくらいに、ゆっくりと回るのをイメージしてみて下さい。その1コマ1コマを、2〜3人のダンサーが順番に演じていると思えばいいです。それから流すフィルムの数を何本にも増やしてみて下さい。それらの1本1本のフィルムを、2〜3人のダンサーたちが、互いに入り混じりながら同時に演じている、こういうのを舞台上でやってる感じ。だから観ているこちらは、目がとにかく大忙しだった。

PrenticeがAnthonyの世話をする。Prenticeは白いYシャツにネクタイ、黒いチョッキ、黒いズボンに前掛けをし、髪はオールバックにして、いかにもな召使スタイル。ソファーに座って新聞を読むAnthonyの足元にうずくまり、Anthonyはその背中に両足をかける。また、Prenticeはソファーに座ったままのAnthonyの背後で、いきなりAnthonyの肩から身を乗り出して彼の体の上に乗り、両手を伸ばして靴を履かせる。

また、スーツを着たAnthonyと、パジャマにガウン姿のAnthonyが並んで立ち、それぞれのAnthonyをPrenticeが着替えさせる。1人のPrenticeがAnthonyのスーツを脱がせ、パジャマとガウンに着替えさせていくその横で、もう1人のPrenticeはAnthonyのパジャマとガウンを脱がせ、スーツに着替えさせていく。最後に同じタイミングで2人のAnthonyが着替え終わって、彼らはまるで交換しあったかのように反対の服装になっている。

このPrenticeがAnthonyの世話をするシーンには、お笑いがけっこうあった。Anthonyは人形みたいにただ突っ立っているだけで、Prenticeが服を脱がせたりかぶせたりするのである。PrenticeがYシャツの袖にAnthonyの腕を通させて、それからYシャツを前から後ろに無理矢理かぶせて着させるシーンとか、Anthonyが短いガウンを着終わった後にパンツまで脱がせて、それを指でつまんで持ち去るシーンでは、みんなゲラゲラ笑っていた。

Anthonyには召使もいるし、彼のスーツという服装とポマードでまとめた髪、若いくせに高級住宅街に家を購入したこと、また婚約者が上品な容姿と身なりの女性であることからいって、生まれ育ちがよく、まあまあの金持ちで、社会的な地位もあり、それなりにステイタスの高い職業についていると思われる。

ただし、AnthonyはPrenticeなしではそれこそ何もできないボクチャンである。また彼は気ばかりか押しも弱いらしい。婚約者のGlenda とのラブ・シーンでも、まるでマゾみたいにGlenda の足元で這いつくばり、彼女の体や脚をさわさわと撫でまくる。Glendaはあまり気が乗らない様子だが、ときおり手先や足先でAnthonyをかまってやると、Anthonyは1人で勝手に悶えている。

Sheilaは紺色で超ミニのメイド服に、長い黒髪を垂らしている。SheilaはAnthonyに意味ありげな視線を送ったり、彼の前でわざとお尻を突き出すようにして物を持ち上げたり、いかにも主人を誘惑しようとしているのがミエミエである。Anthonyは彼女の思わせぶりな態度にたじろぎながらも、この美しいメイドの姿を目で追う。

Anthony の友人、Speightが街をうろついている。スーツを着て髪をきちんと整えているAnthony とはちがい、Speightはボサボサの髪型、着古して形の崩れたダッフル・コートに、下は赤いチェックの木綿のシャツにジーンズ、という服装で登場する。Anthonyの古い友人ではあるが、彼らふたりの社会的立場や経済状況は正反対であるようだ。Speightは非常に怒っているらしく、荒々しい振りで踊りながら舞台中を飛び回る。最後に苛立った様子でガラス瓶を乱暴に蹴りやると、ジャストのタイミングでガラスが割れる効果音が響いた。観客一同、「ほおお〜」と感心のため息。

このSpeightのソロが、この作品では唯一の踊りらしい踊りであった。Alan Vincentが踊っていたせいもあるとは思うが、“The Car Man”でのルカの「ハバネラ」のソロと、振付も雰囲気もよく似ていた。そして、このAlan Vincentが踊ったSpeightのソロは、そのダンサーらしさが感じられた唯一のシーンであった。Alan Vincentが踊っている姿を見ながら、ああ、アラン・ヴィンセントだなあ、となんだかホッとした思いになった。

Anthonyの家で引っ越し祝いのパーティーが開かれる。婚約者のGlendaはもちろん、Anthonyの友人たちが集まる。このシーンでの、Anthonyと友人たちの超大げさなゴーゴー・ダンスはおかしかった。Anthonyは、例によってぴしっとスーツでキめており、またメガネをかけた顔は無表情のままなのに、手足だけを激しく滑稽に動かしてゴーゴーを踊っている。このパーティー・シーンでは、鮮魚とかを入れるような、触ると手に刺さりそうな、ささくれ立った木箱が1個、舞台の真ん中に置いてある。これはどうしてだろう。引越しの整理がまだすんでいないから、机の代わりに使ったのか。

そこへとつぜんSpeightが姿を現し、酒をラッパ飲みしながら、超ガサツな態度で友人たちの間に乱入する。そこで彼はAnthonyの婚約者のGlendaに目をつける。友人たちがAnthonyに目隠しをし、婚約者のGlendaを探させるというゲームを始める。目隠しをされたAnthonyが、のろのろとウザイ動作で彼女を探し回っているのを押しのけ、SpeightはGlendaに無理矢理キスをする。AnthonyはメイドのSheila をつかまえる。Glendaだと思いこんでいる彼は、Sheilaの腰や胸に手を這わせる。Anthonyが目隠しをとると、それは艶然と微笑んでいるSheilaであった。

それから1ヶ月後。Prenticeが主人の留守中にソファーに座り、ラジオを聴きながら新聞を読んでいる。Prenticeは冷たい無表情で、なんとなく傲岸不遜な雰囲気を漂わせており、どうも表面的な態度どおりの忠実な召使なのではなく、実は相当な曲者であるらしい。

Sheilaが簡素な木製の四角いテーブルの上に腰かけている。彼女は男物のVネックのセーター1枚をまとっただけの姿。セーターがずりおちて白い肩がむきだしになり、黒い下着が見える。色っぽいです。そこへ青い縦縞模様のパジャマのズボンだけを穿き、上にガウンを羽織ったAnthonyが後ろから近づく(このシーンがポスターになっている)。ついにヤッちゃったらしい。

ここから木の机を使ったふたりの踊り。Anthony は座っているSheila の肩や脚を、例によって気弱なイヤらしさでさわさわと撫で、Sheila はからかうかのように足先で彼の胸を愛撫する(Anthony、悶える)。Sheilaが机の上に横たわって身をのけぞらせ、上にかぶさろうとするAnthonyの体に太ももをからませたり、Anthonyが机の下に入り込み、上にいるSheilaは脚だけを彼の目の前にブラブラさせて、Anthonyはその白い脚にすがりついたり。ここでSheilaを演じている、Belinda Lee Chapmanの脚線美がとにかく見事。すごくセクシー。

一方、引越しパーティー以来、SpeightはGlendaの行く先々に姿を現すようになる。Glendaは彼を嫌って避けるが、次第に彼に魅かれていく。が、Speightは、なぜかAnthonyの召使であるPrenticeと外で会ってなにやら話をする。Speightは半ば脅すようにして、Prenticeから大金を受け取る。ここで観客は、SheilaがAnthonyを、SpeightがGlendaを誘惑するのは、どうもすべてPrenticeが仕組んだことらしいと分かる。

SpeightがGlendaにつきまとい、GlendaがSpeightに徐々に魅かれていって、ついには誘うような目つきでSpeightに笑いかけるようになり、最後にGlendaとSpeightとが密会するに至る、この一つのプロセスは、3人のSpeightとGlendaによって、やはりわずかな時間差で展開されていく。

安ホテルの一室でふたりが関係を結ぶシーンでは、一組のGlendaとSpeightは見つめあい、一組のGlendaとSpeightは服を脱ぎながらベッド(薄くて汚いマットだけど)に倒れこみ、一組のGlendaとSpeightは下着姿でくんずほぐれつする(ここの踊りは、“The Car Man”でルカとラナが「なさっている」シーンと似ている)。舞台の3箇所で、この一つのプロセスが追いかけるように進行していき、二組のGlendaとSpeightはまだ真っ最中だが、もう一組のGlendaとSpeightは終了し、やがて眠っているGlendaをSpeightが置き去りにして出ていき、目覚めたGlendaは騙されたことを知って泣きじゃくる。

PrenticeがAnthonyとの乱闘に勝利した後、今度はPrenticeがAnthonyの座っていたソファーに座り、前にかかみこんだAnthonyの背中に両足を置きながら新聞を読む。Prenticeは、腑抜けのようになったAnthonyの頭を、余裕たっぷりに片手で撫でてやる。SheilaがAnthonyに膝まくらをしてやり、いかにもかわいそうに、といった様子で頭を撫でて慰める。そこへGlendaがやってくる。

ここでまたプロセスの時間差、または同時展開。1人のGlendaの前にSheilaが立ち、彼はもうアタシのものよ、とでも言いたげにニヤリと笑う。もう1人のGlendaの前にはSpeightとPrenticeとが立ちふさがり、おまえは他の男と寝ただろう、と脅して彼女をAnthonyに近づかせない。ショックを受けたGlendaは、Anthonyの家をまろび出るようにして去る。

最後のシーンにはすべてのGlenda、Prentice、Speight、Sheilaが勢ぞろいし、例の螺旋階段の上からAnthonyを見下ろしている。上のセットに設けられた道の右端には、荷物をまとめたバッグを持ってコートを着た1人のSheilaが、1人のPrenticeに手を引かれながらAnthonyを見つめている。そして舞台のライトが消え、最初と同じように、1人のSpeightがスポット・ライトの下でトランペットを吹く。さてこれは現実に起きたことなのか、それともAnthonyの見た夢の中での出来事なのか。判然としないまま幕が下りる。

この作品は上のようにはっきりとしたストーリーを持つ。意味のまったくない、またはストーリーに曖昧に関連した雰囲気を醸し出すためだけの、またはダンサーの見せ場を作るためだけの踊りはいっさいなかった。ハデな群舞ももちろんない。たとえば、“Swan Lake”、“The Car Man”、“Nutcracker!”のような作品とは、ストーリーや登場人物の設定などを除けば、その踊りはまったく異質なものである。音楽に巧妙に、そして緻密に合わせてあるものの、動きは人間の日常の立ち居振る舞いとそう大差ないように見えるし、いかにも「踊り」らしい動きは、あのSpeightのソロ以外にはなかった(引越しパーティーでの踊りは、あれはゴーゴー・ダンスを踊る、という設定なので除外していい)。

“Play Without Words”とはよく名づけたもので、この作品はダンス・ショウというよりは、ダンス的パントマイム劇だといっていいと思う。AnthonyとGlendaとのラブ・シーン、AnthonyとSheilaとの「机のパ・ド・ドゥ」(勝手に命名。なんかそれっぽいでしょ)では、飛んだり跳ねたり持ち上げたりという激しい振りはまったくなくって、音楽に合わせてエロティックな仕草をしたり、ポーズをとったりしていただけだった。「だけだった」というと語弊があるかもしれない。もちろん、やってるダンサーの方は大変だったと思う。いくら見た目はパントマイム的要素が強いとはいえ、“Play Without Words”での一連のムーヴメントは、ダンサーでないと実現不可能なものだったろうから。

この作品でいちばん特徴的なのは、なんといっても同一人物を演ずる複数のダンサーが、ひとつの過程を僅かな時間差で、または複数の過程を同時に展開していく、という点だったと思う。これは観る側にショックを与えるには、非常に効果的なアイディアだった。ただ、今になってよく考えるに、だからどうだというのだろう。確かに、私はあの冒頭の場面、換気扇のファンが回っているような、超めまぐるしい動きに追いつこうと、目と心がおおわらわになった。考えるヒマもなかった。ただストーリーの進行にすがりついていっただけだった。

“Play Without Words”の面白さは、息もつかせないストーリー展開の速さにあった。相手に最初にガーン、と一発食らわせて、その後は物語進行の急速な流れに引きずり込んでいく。観客はストーリーを追いかけるのに必死で、公演はあっという間に終わってしまう。なんというのか、まるで、次はどうなるか次はどうなるか、と、観ているときはワクワクするのだが、終わってしまうとあまり印象に残らない映画かドラマのようである。

いや、映画やドラマがすべてそうだというんじゃなくって、1回観てしまうとまた観たいとはあんまり思わないタイプの、一過性の面白さをメインに据えた作品群があるでしょう?“Play Without Words”は、ストーリーの展開を追うのが面白いんであって、ストーリーそのものはありきたりでさほど面白くはない。だから、1回観てあらすじを知ってしまうと、また観たいなあ、という気持ちがあんまり起こらないのである。私はもう1度は必ず観たい(機会があればの話)。でも2度は観ないと思う。

矛盾するようだが、逆に最後までストーリー進行の波に乗れない可能性も多分にある。最初の「換気扇攻撃」で文字どおり目がくらんでしまい、何事が進行しているのか分からないままに終わってしまうかもしれない。これは売らんかな根性で書いているのではなく、登場人物、大まかなストーリーを事前に知っておかないと、かなり理解が難しいと思う。「多重音声」ならぬ、あの「多重放映」は、観客をパニックに陥れかねない上に、ストーリーが非常に具体的であるため、物語展開の波に乗れたか、それとも乗れなかったかの二極にはっきりと分かれるだろう。この点では、ボーンの前作の“The Car Man”によく似ていると思う。

私が“Play Without Words”を何度も観たい、という気にはならない理由はもういくつかある。上記のように踊りらしい踊りがなく、あのパントマイム的な踊りもそんなに好きになれなかったこと、ストーリーがあまりに具体的すぎて、観ている側はただそのストーリーをそのまま受けとるより他なく、それ以上に作品に入り込む余地がなかったこと(つまり共感できる部分がなかったこと)、そして、このダンサーであればこそ、という、そのダンサー固有の表現や雰囲気を楽しむ余地がまったくなかったことである。

私は分かりやすいはっきりした踊りが好きだし、同じ役柄、同じ踊りであっても、そのダンサーによって表現や雰囲気、解釈が異なっていると非常に面白く感じる。とりわけ、“Play Without Words”に出演していたのは、旧AMP時代からボーンと活動を共にしてきた、New Adventuresのコアなダンサーばかりだったから、私がこの作品を観に行ったのは、これらのダンサーを観たいから、という目的も大いにあって、とても楽しみにしていたのだった。

でも、“Play Without Words”では、ダンサーたちの個性は完全に圧殺されていた。それぞれのダンサーが、自分が担当する同一人物を、互いに寸分も違わないように演じていた。作品の設定上、これは仕方がない、というよりは、そうすべきなんだろうけど、やっぱりこの点は不満だった。久しぶりにスコット・アンブラー、アラン・ヴィンセント、サラーン・カーティン、ユアン・ウォードロップを観たはずなのに、2002年の“The Car Man”日本公演で目をつけたリチャード・ウィンザーを観たはずなのに、そして、初めて生のエミリー・ピアーシー(映像版「白鳥の湖」で王子のガールフレンド、「ナットクラッカー!」で孤児院長の妻、クイーン・キャンディを踊っていた人)を観たはずなのに、ほとんど印象に残らなかった。

“Play Without Words”は、「いつも観客のことを第一に考えている」マシュー・ボーンが、ちょっと自分のやりたいことを第一に据えてやってみた作品だと思う。どちらかというと「玄人」向け・・・というよりは、マシュー・ボーンのコアなファン向けの作品にみえるし、そういう詳しい人が観たら、作品の細部に至るまで隈なく楽しめるだろう。でも、私のようにボーン独特の「暗号」や「記号」に慣れていない観客は、1回観てこれは自分にはついていけない、と諦めるか、それとも飽きるかのどっちかだと思う。

ただ、脳ミソを混乱させる同時または時間差攻撃と、いかにも踊りらしい踊りがなかったことで、この“Play Without Words”にケチをつけることのできた舞踊批評家は、今回ばかりはほとんどいなかっただろうと思う。ショックでマシュー・ボーン礼賛に終始するか(難解そうな作品に直面すると、思わず反射的にすばらしい!と言ってしまう専門家は意外と多い)、言いようがないのでダンマリを決めこむか、といったところだったのではないか。後で調べてみよう。

私が“Play Without Words”を観ながらつくづく感じたのは、マシュー・ボーンは、頭の中の引き出しにアイディアがいっぱいにつまっている人なんだなあ、ということだった。やってみたいことがたくさんあって、それを着々と実現させていっている。この作品も、ボーンの引き出しの中にあったアイディアのひとつで、そのすべてではないと思う。だから、ボーンが今後もこのテの路線で行くだろうなんて、私はぜんぜん思っていない。次の作品は、また違ったものになるんじゃないか。その新しい作品も観られたらいいなと思う。縁があればね。(2004年1月10日)

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