Club Pelican

NOTE

シュトゥットガルト・バレエ団日本公演

眠れる森の美女(マリシア・ハイデ版)

(2008年11月23日、東京文化会館大ホール)

『眠れる森の美女』、原振付はマリウス・プティパ、改訂振付と演出はマリシア・ハイデ、デザインはユルゲン・ローゼ、照明はディーター・ビリーノによる。このハイデ版『眠れる森の美女』は、1987年5月にシュトゥットガルト・バレエ団によって初演された。

主なキャスト。オーロラ姫:アリシア・アマトリアン;デジレ王子:フィリップ・バランキエヴィッチ;カラボス:ジェイソン・レイリー;リラの精:ミリアム・カセロヴァ;王:ヘルマー・ポーロカット;王妃:メリンダ・ウィサム;カタラビュット(儀典長):トーマス・ダンヘル;

澄んだ泉の精:オイハネ・ヘレーロ;黄金のつる草の精:アンジェリーナ・ズッカリーニ;森の草地の精:ダニエラ・ランゼッティ;歌鳥の精:カタジナ・コジィルスカ;魔法の庭の精:マグダレーナ・ジギレウスカ;

精たちのお付きの騎士:ローランド・ハヴリカ、ウィリアム・ムーア、ペトロ・テルテリャーン、ディミトリー・マギトフ、ダミアーノ・ペネテッラ、ローラン・ギルボー;

東の王子:アッティラ・バコ;北の王子:ウィリアム・ムーア;南の王子:アレクシス・オリヴィエラ;西の王子:セバスティアン・ガルティエ;

伯爵夫人(第二幕):オイハネ・ヘレーロ;

アリ・ババ:アレクサンダー・ザイツェフ;ルビー:マグダレーナ・ジギレウスカ;サファイア:オイハネ・ヘレーロ;エメラルド:ダニエラ・ランゼッティ;アメジスト:ナタリー・グス;長靴を履いた猫:アルマン・ザジャン;白い猫:カタジナ・コジィルスカ;青い鳥:アレクサンダー・ジョーンズ;王女(フロリナ姫):ヒョー=チャン・カン;赤ずきん:クリスティーナ・バーネル;狼:ミハイル・ソロヴィエフ。

演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はジェームズ・タグル。

今回の公演は、プロローグと第一幕が休憩時間なしのおよそ1時間15分、休憩時間を挟んで第二幕、およそ30分、再び休憩時間を挟んで第三幕、およそ40分というタイム・スケジュールで行なわれた。英国ロイヤル・バレエ団の『眠れる森の美女』(モニカ・メイスン版)もそうだったが、このハイデ版『眠れる森の美女』も、プロローグと各幕がそれぞれ30〜40分と時間が中途半端で、休憩時間を入れるタイミングが難しいらしかった。

幕が上がると、舞台装置にびっくりした。舞台の左右と奥を白いバルコニーがぐるりとめぐっている他は、装置が何もなかった。天井は高く開けていて、淡い青空が描かれた壁が三方を囲んで聳え立っている。簡素だけど、高い天井と青空が美しくて、妙に印象的だった。プロローグから第三幕までこのセットで通しており、幕によって、このセットに花々や樹木といった飾りが付けられるだけである。

人々の衣装は中間色や淡い色彩のものが多く、白いバルコニーと青い空の背景によく合っていてきれいだった。デザインもセンスがよかった。第二幕で登場したデジレ王子たち、伯爵夫人、貴族たちは19世紀初めくらいのデザインで、色合いもわりとはっきりしていた。デジレ王子は純白の衣装の上に赤い上着を着ていたが、やはり野暮ったくてダサい。すぐ脱いでくれてよかった。

このハイデ版のカラボスは男性ダンサーが担当する。しかも、しょっちゅう登場しては、鋭角的なポーズで豪快にジャンプし、鋭く回転しながら、舞台を縦横無尽に跳び回る。衣装とメイクも奇抜で、黒いロング・ドレス、真っ白に塗りたくった顔、両の鬢に白いメッシュが入った長い黒髪と、一発で脳裏に刻み込まれる強烈さである。はっきりいって、主役のオーロラ姫とデジレ王子よりも目立っていた。

カラボス役のジェイソン・レイリーは元気いっぱいに高く跳び、ぐるぐると回転し、素早い動きで舞台じゅうで暴れまくっていた。最初はその跳躍の高さや鋭利な刃物を思わせる踊りに見とれていたが、あまりに頻繁に出てきては同じような動きで踊ってばかりなので、途中で「またかよ」と思うようになった。カラボスがしょっちゅう登場してダイナミックな踊りを披露することに、何か意味が見出せればよかったのだが、カラボスが何のためにこうもやたらと出てくるのかが分からないのである。

実際、カラボスはダイナミックに踊る以外にも、ふと白いバルコニーの上に姿を現し、王子やオーロラ姫を見つめていたりする。第三幕の最後でも、舞台の端に現れて、幸せそうなオーロラ姫と王子を無表情に眺めている。これほどカラボスの出番が多い、また存在感の強い『眠れる森の美女』は他にないだろうが、なぜハイデ版がカラボスをこれほど重視するのか、カラボスには何の役割が与えられているのか、さっぱり理解できなかった。

だが、カラボスの無意味に圧倒的な存在感のせいで、割を食ったのがリラの精である。正直言って、リラの精を踊ったミリアム・カセロヴァがどんなだったか、あまり思い出せない。でも、なんだか毅然としたところのない、強いパワーが感じられない、カラボスの横暴をただ眺めているだけの、役立たずなリラの精だな〜、と思ったことは覚えている。

このハイデ版では、プロローグでカラボスがオーロラ姫に呪いをかけた後に、リラの精がその呪いの中身を変えてしまうマイムが削除されていた。カラボスが「オーロラ姫は指に傷を受けて死ぬ」というマイムをすると、リラの精がゆっくりとカラボスに近づき、そして「オーロラ姫は指に傷を受けて死ぬのではなく、眠るだけであり、やがて美しい王子がやって来て、そのキスによって目を覚ます」というマイムをする。私はこのマイムが好きなので、このリラの精のマイムがなかったのは残念だった。

割を食ったのはリラの精ばかりではなく、オーロラ姫とデジレ王子も同じである。オーロラ姫のアリシア・アマトリアンは、今回は絶不調だったので仕方がないが、デジレ王子役のフィリップ・バランキエヴィッチまでもが、カラボスの陰に隠れてしまっていた。バランキエヴィッチのことだから、いい踊りをしたんではないかと思うが、まったく印象に残っていない。

アリシア・アマトリアンは不調だったので、はっきりと記憶に残っている。ローズ・アダージョと、その後のソロにはハラハラしどおしだった。ローズ・アダージョでは、バランスの保持が文字どおりまったくできなかった。しかも、ずっと後ろに上げている片脚があれよあれよという間に下がってきて、ポーズが見事に崩れていた。

その後のソロも、なんとか振付どおりに踊るのが精一杯で、ゆっくりした音楽と合っていない。アリシア・アマトリアンについては、コンテンポラリー作品を踊る彼女は以前に観たことがあり、そのときは身体が非常に柔らかくて、キレがあってなめらかな動きをしていたのですごく見とれた。良い印象を持っていたので、アマトリアンの今回の踊りには驚いたし、「オーロラ姫を踊る能力のないダンサーをキャスティングするな」と腹立たしく思った。

ただ、第三幕のグラン・パ・ド・ドゥでのアマトリアンは持ち直していたから、出だしの調子がかなりわるかっただけかもしれない。でも、ローズ・アダージョとその後のオーロラ姫のソロは、観る側にとっては楽しみな踊りなので、アマトリアンがいわゆる「スロー・スターター」だとしたら、やはりオーロラ姫を踊るのはどうかと思う。

オーロラ姫に結婚を申し込む4人の王子のうち、東の王子役だったアッティラ・バコがすごくカッコよかった。東の王子は黄色い中国風の衣装を着ていて、アッティラ・バコも東洋風の顔立ちをしている。キアヌ・リーブスに似ている(あくまで個人的な意見)。顔が小さく、首が長く、背が高くて、4人の王子の中では私のイチ押しである。ちなみに、衣装のデザインや色からすると、北の王子=ロシア、南の王子=アラビアかインド、西の王子=フランスらしかった。

そうそう、カラボスの家来は髪型は落ち武者ヘアで、蜘蛛みたいな感じの黒い衣装を着ていた。顔はやはり白塗りなので、ますます落ち武者そっくりだった。

シュトゥットガルト・バレエ団は男性ダンサーがすごく充実しているカンパニーだと思う。しかもみんなイケメンで背が高い。テクニックもすごい。この『眠れる森の美女』では、プロローグの妖精たちのお付きの騎士たち、カラボスの家来、第一幕で「花のワルツ」を踊る男子たち、4人の王子、第二幕の貴族たち、第三幕の青い鳥、そしてデジレ王子やカラボスといった主役、準主役、みーんな若さ爆発といった感じで超超超超元気だった。

でも、第三幕になると、私はもううんざりしていて、早く終わってくれないかとばかり思っていた。いくら『眠れる森の美女』が踊りそのものを楽しむ演目とはいえ、演出にまとまりがなく、各キャラクターの個性や役割ははっきりせず(特にカラボスとリラの精)、主役のオーロラ姫は踊りが期待できない。おかげで早々に飽きてしまっていた。

ディヴェルティスマンの中で唯一面白かったのが、長靴を履いた猫と白い猫の踊り(アルマン・ザジャン、カタジナ・コジィルスカ)だった。長靴を履いた猫は、鼻の下を伸ばしたスケベ顔で白い猫の脚をさわさわと撫で、白い猫はその都度、長靴を履いた猫の手をバチン!と叩く。そのやりとりがすごく笑えて、客席からも大きな笑い声が起きていた。

あと、踊りはしなかったが、白雪姫役のレネ・ライトがものすごい美女だった。白と水色のドレスを着ていて、黒髪を耳の横で長いお下げに編んで、しかも水色のリボンと一緒に編んであるので色的にとてもきれいだった。黒い弓なりの眉の下の瞳は大きく、色がとびきり白く(まさに白雪姫)、形の良い赤い唇をしている。タレントのベッキーが大人になったらあんな感じかな、みたいな顔つきだった。

書いてるうちに段々思い出してきたが、オーロラ姫と王子のグラン・パ・ド・ドゥはすばらしかった。特にアダージョは、アマトリアンとバランキエヴィッチの息がぴたりと合っていた。回転をしたオーロラ姫を、王子がすかさず逆さに抱えてポーズを決める、という動きを何度もくり返すところは、ふたりの動きにキレがあって、たるむことなくスムーズに決まっていた。

ただ全体的に見て、ハイデ版『眠れる森の美女』は、正直に言うと期待ほどではなかった。いくら見た目的に強烈な印象を残そうが、それらが有機的結合を持たない限り、斬新で奇抜すぎるキャラクター設定や演出は結局はつまらない、と思った。

シュトゥットガルト・バレエというと、英国ロイヤル・バレエと比べてしまう。シュトゥットガルト・バレエの前芸術監督であるジョン・クランコ(故人)は、シュトゥットガルト・バレエを優秀なバレエ団に育て上げ、また現在のバレエ界で活躍している振付家たち、イリ・キリアン、ジョン・ノイマイヤーらの創作活動を支持した。クランコの死後に芸術監督になったマリシア・ハイデも、クランコの方針を守り続け、ウィリアム・フォーサイスなどの振付家を育成した。こうした有名どころの他にも、「お、いい振付だな」と思うと、その振付者はシュトゥットガルト・バレエの出身であった、ということは、ガラ公演を観ていると頻繁にある。

こうして現在のシュトゥットガルト・バレエの基礎を築いたジョン・クランコは、元来は英国ロイヤル・バレエを中心に活動していた振付家だった。しかし、同じく英国ロイヤル・バレエの振付家であったフレデリック・アシュトンにその才能を警戒され、ある振付作品の公演の失敗を理由に、英国ロイヤル・バレエから追い出された。

ジョン・クランコと英国ロイヤル・バレエとのこのような因縁や、また今回の公演からほんの数ヶ月前の7月に、英国ロイヤル・バレエも日本で『眠れる森の美女』(モニカ・メイスン版)を上演していたことから、シュトゥットガルト・バレエというと、どうしても英国ロイヤル・バレエを連想しやすい。

英国ロイヤル・バレエは装置と衣装によりお金をかけているっぽいし、またダンサーの細かい演技や大事に残している古いマイムが楽しい。でも、肝心の踊りはというと、主役級から群舞に至るまでかなり頼りなかった。それに対して、シュトゥットガルト・バレエは、ダンサー陣が男性も女性も人材豊富でみな優秀だ(アリシア・アマトリアンの不調はともかく)。

カンパニーごとに特色は異なるわけだから軽々しくは言えないが、今のところはシュトゥットガルト・バレエ、ひいてはジョン・クランコの勝ちかな、と思った。

(2009年1月26日)

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オネーギン

(2008年11月28、29日、東京文化会館大ホール)

『オネーギン』というと、アダム・クーパーのオネーギンを思い出して辛いので、最初は29日の公演だけを観る予定だった。ところが、前の週に『眠れる森の美女』を観に行った会場で、『オネーギン』のチケットを販売していた。チケット販売カウンターをのぞいてみると、1,000円ほど割引になっており、またなかなか良い席が残っているようだった。そこで、28日の公演のチケットを衝動買いしてしまった。衝動買いは後悔することが多いが、今回は結果的に「正しい選択」になった。

私がはじめてこの『オネーギン』を観たのは、2002年7月、英国ロイヤル・バレエの公演においてである。そのときの『オネーギン』の感想と、そしてあらすじも こちら に書いているので、ストーリーについてはそちらをご覧下さい(おおよそ間違ってないと思ふ)。

また、シュトゥットガルト・バレエ団は2005年にも日本公演を行ない、やはり『オネーギン』を上演しました。そのときの感想は こちら です。ただ、いま自分で読み返してみると、やっぱりいぢけてますなー(笑)。天下のマニュエル・ルグリ(ゲストとして参加し、オネーギンを全公演担当した)に文句つけてます(でもルグリについて言ってること自体は間違ってないと思ふ)。

『オネーギン』、振付はジョン・クランコ、音楽はチャイコフスキー、選曲・編曲はクルト=ハインツ・シュトルツェ、デザインはユルゲン・ローゼによる。この作品は1965年4月にシュトゥットガルト・バレエ団によって初演された(改訂版の初演は1967年10月、やはりシュトゥットガルト・バレエ団による)。

音楽はチャイコフスキーとなっているが、このバレエの音楽は、チャイコフスキーのオペラ『エフゲニー・オネーギン』の音楽とはまったく異なる。クルト=ハインツ・シュトルツェが振付者のジョン・クランコと相談し、チャイコフスキーの他の作品から抜粋、オーケストラ用に編曲したものである(そのCDが発売されている:ACD 6048)。

主なキャスト。オネーギン:イリ・イェリネク(28日)ジェイソン・レイリー(29日);レンスキー:フリーデマン・フォーゲル(28日)、マリイン・ラドメイカー(29日);タチヤーナ:アリシア・アマトリアン(28日)、スー・ジン・カン(29日);オリガ:カーチャ・ヴュンシュ(28日)、アンナ・オサチェンコ(29日);

グレーミン公爵:ダミアーノ・ペテネッラ;ラーリナ夫人(タチヤーナとオリガの母):メリンダ・ウィサム;乳母:ルドミラ・ボガード。

演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はジェームズ・タグル。タグルは上記の『オネーギン』音楽CDでも指揮を担当している。

幕が開くと、淡い色彩の舞台の上に、淡い、またはくすんだ色彩のドレスを着たラーリナ夫人、乳母、オリガがテーブルに座っている。オリガはタチヤーナの誕生会用の新しいドレスを手にはしゃいでいる。彼女らから離れたところで、タチヤーナが地面に寝そべり、本を読みふけっている。この風景を目にした途端、2002年にロンドンで観た舞台がフラッシュ・バック。やっぱり、マニュエル・ルグリが参加した2005年の舞台は、心の眼が拒否して、まともに見ていなかったのだろうな、と思った。

オリガ(カーチャ・ヴュンシュ、アンナ・オサチェンコ)をはじめとする女性たち(少女たち)は、みな髪をすっきりとまとめて、淡い色合いで薄い生地のチュニック・ドレスを着ている。みな首や手足がほっそりとしていて美しい。彼女らによる最初の群舞はすばらしかった。特に横一列に並んで、回転とジャンプをしながら前に出てくるところは、叙情的な音楽とよく合っていて印象に残った。

28日のレンスキー役だったフリーデマン・フォーゲルは、爽やかで優しそうな顔立ちがいかにもレンスキーという感じである。当日はフォーゲルの踊りにはあまり心動かされなかったが、翌29日のレンスキー役だったマリイン・ラドメイカーの踊りを見て、フォーゲルの踊りがいかにすばらしかったか分かった(もちろん、ラドメイカーの踊りもよかったが)。フォーゲルの踊りはゆったりな動きながらも常に安定しており、身体はしなやかで柔らかく、アラベスクをすると、片脚が根元からねじれるように後ろに高々と上がる。

反対に、29日のオリガ役だったアンナ・オサチェンコは、28日のオリガ役だったカーチャ・ヴュンシュよりもよかった。オサチェンコが踊るたびに、彼女のポーズや動きは美しい、と強く感じた。

28日のオネーギン役だったイリ・イェリネクは、ダーク・ブロンドで細面、顔立ちはわるくはないが、眼が細くて小さく、やや地味めな印象である。だが、このイリ・イェリネクがとにかくすばらしかった。もちろん私のベスト・オネーギンはアダム・クーパーなことに変わりはない。しかし、イェリネクはオネーギンについての解釈と表現が非常にしっかりしていて、彼独自の確固としたオネーギンを踊り演じてみせた。

ラーリン家の人々の前に現れたオネーギンは、静かな表情でラーリナ夫人に礼儀正しく挨拶した後、少女たちの鏡を使った占いに引っ張り込まれたタチヤーナの背後に立つ。タチヤーナはびっくりして椅子から飛び上がる。タチヤーナの良家の子女らしからぬ振る舞いにも、イェリネクのオネーギンは顔色ひとつ変えない。オネーギンは優雅な仕草で、タチヤーナをエスコートして庭を散策する。

また、タチヤーナが読んでいた本を手に取ったイェリネクのオネーギンは、タチヤーナに背を向けた状態で、わずかに目を細めて微笑み、タチヤーナを横目で見る。でも、決して明らかにバカにした表情ではなかった。子どもなんてこんなもんだな、という大人の表情である。

このように、イェリネクのオネーギンは、「自分は正しい」と信じている人間である。別にひねくれてもいないし、傲岸不遜なわけでもないし、いじけてもいないし、悪意があるわけでもないし、冷酷なわけでもない。ただ、自分のことを、冷静に判断し、正しく対応できる「大人」だと本気で思っている。

つまりは、オネーギンはそれほど傲慢なヤツなのである。しかし、もちろんオネーギン本人はそんな自分の傲慢さにまったく気づいていない。イェリネクのインタビューを読むと、イェリネク自身、オネーギンは正しい、と明言している。どこまで本気か分からないが、イェリネクのこのような解釈は、逆にオネーギンが似非君子であることを強調するのに役立っていると思う(笑)。

対して、29日のオネーギン役だったジェイソン・レイリーによるオネーギンの人物像は、私にとってはあまり深みが感じられないというか、ただ単に傲慢な俗物に見えた。もちろん、オネーギンは「傲慢」で「俗物」な人間なのには違いない。しかし、レイリーの演技は、いかにもお約束的に「傲慢で冷たい」オネーギンで、表面的に演じているようにしかみえず、深みがなくて底が浅い印象を受けた。

たとえば、タチヤーナが読んでいた本を見たレイリーのオネーギンは、まぶたを半分閉じた、あからさまにバカにした表情を浮かべていた。イェリネクのオネーギンはわずかしか表情を変えなかったのに、オネーギンがタチヤーナを「お子ちゃま認定」したことを雄弁に物語っていたのに比べると、レイリーの演技はちょっと単純すぎるように思えた。

28日のタチヤーナ役、アリシア・アマトリアンは表情がやや乏しかった。しかしそれが幸いして、第一幕では、タチヤーナが内気でうまく自分を表現できない性格であろうことがうかがわれた。

翌29日の公演では、タチヤーナ役のスー・ジン・カンが最もすばらしかった。スー・ジン・カンは、ほっそりした長い首と手足に透き通るような白い肌、それがよく映える美しい黒髪を持っている。彼女はとにかく演技がよく、特に少女時代のタチヤーナと成長してからのタチヤーナとでは、表情も雰囲気もまったく違っていたのには感心した。タチヤーナがまだ少女である第一幕と第二幕では、スー・ジン・カンは始終うつむきがちで、自信なさげな、内気らしい、頼りなげな風情だった。でも、不安げながらも、目だけはしっかりとオネーギンを見つめている。

オネーギンは「苦悩のソロ」でようやくまともに踊る。イリ・イェリネクもジェイソン・レイリーも節度を保った踊りをした。音楽が暗くて振付もゆっくりで地味めなので、あまり派手に踊ると違和感を醸し出してしまうからである。でも、イェリネクとレイリーが優れたダンサーでもあることがよく分かった。軽くジャンプしただけで、ぽーん、と実に高く跳んじゃう。アダム・クーパーはね、あまりに節度を保ちすぎた踊りをして、ある観客から舌打ちされていたよ(笑)。

ロシアの民族服風のデザインのシャツとズボン姿の青年たちが次々と現れる。彼らは肩を組んだまま同じステップを踏み、更に大きな足音を立てて、両脚の膝を深く曲げて踊る。その横では少女たちが輪になって手をつなぎ、踊りに誘おうとする青年たちをわざと無視して、軽やかで可憐なステップで踊り始める。ここの振付は音楽に合っていて実によい。

振付が音楽性を増すのは更にこれからで、青年たちと少女たちはやがて組になって踊り始める。その踊りの輪にオリガとレンスキーも加わる。音楽が徐々に高まっていき、彼らは組んだまま列をなし、やがて走り出す。彼らは舞台の袖に引っ込んだかと思うと、勢いのよい音楽とともに再び舞台に駆け出てきて、青年たち各々が少女たちの手を取った状態で走り、少女たちは開脚ジャンプをしながら、舞台を斜めに縦断していく。いつ見ても、なんて見事な振付かしら。客席から大きな拍手が沸いた。

第一幕最大の見どころ、タチヤーナが夢の中でオネーギンと踊る「鏡のパ・ド・ドゥ」。美しい間奏曲の後に、舞台はタチヤーナの寝室となる。あれ、と思ったのは、2005年のシュトゥットガルト・バレエ団日本公演『オネーギン』と、どうも舞台装置が違うような。特に、天井から垂れ下がる幾重ものレースのヴェールが大幅増量している気がする。前に観たときはあんなにヴェールがしつこくなかった。

あと、背景があんなに明るかったっけ?鏡(背景の布を切り抜き)の中が明るすぎる。しかも背景の布が足りないのか、舞台奥右側の背景の布が途中で切れちゃってて、背景の後ろが丸見えだ。その背景の後ろも異様に明るい。「鏡のパ・ド・ドゥ」は基本的に闇の中で踊るから、より幻想的でドラマティックなのに。

それはともかく、「鏡のパ・ド・ドゥ」は両日とも非常に非常にすばらしかった。イリ・イェリネクもジェイソン・レイリーも、サポートとリフトが神業的に上手い。ただ、イェリネクについては、タチヤーナ役のアリシア・アマトリアンの体勢には構わず、自分のペースで強引に振り回しているように見えたときがあった。一方、レイリーのパートナリングには、イリ・イェリネクよりも好感が持てた。鋭くてスムーズにこなしていたけれど、同時にちゃんとタチヤーナ役のスー・ジン・カンによく注意を払い、彼女の体勢が整うのを待ってから、次のサポートやリフトに移っていた。

タチヤーナ役のアリシア・アマトリアンは、先日の『眠れる森の美女』とはまったく別人のような踊りだった。驚異的に柔らかい身体を生かした表現がすばらしかった。たとえば、しなやかで巧みに緩急をつけた腕の動き、またリフトされたときの、タイミングを見事に捉えた開脚や両脚のポーズの美しさ、回転の鋭さやいつまでも回り続ける持久力など。身体そのもの、腕や脚や爪先のポーズや動きで物が言えるダンサーだと思った。

スー・ジン・カンの踊りもさすがの貫禄というか余裕というか、アマトリアンほどの身体能力はないだろうと思うけど、踊りに磨きぬかれたような輝く艶があった。長い手足を存分に生かしたポーズや動きの一つ一つがみな美しい。また、彼女は肌がとても白く、それが黒髪と背景の暗さに映えていっそう透きとおるように白い。あどけない少女が夢の中で初恋の男性と踊る、というシーンだけど、どことなくなまめかしい雰囲気が漂っていた。

また、スー・ジン・カンは「サポートされ上手」、「リフトされ上手」でもあった。イリ・イェリネク&アリシア・アマトリアンのペアでは、イェリネクがアマトリアンを強引にリードしている印象を受けたが、ジェイソン・レイリー&スー・ジン・カンのペアは、ふたりの踊りのタイミングが合っていて、バランスよく調和している感じがした。ジェイソン・レイリーが駆け込んできたスー・ジン・カンを受け止めて、そのまま振り回すリフトでは、スー・ジン・カンの白い肢体が、闇の中で次々と美しい円を描いていった。

第二幕第一場はタチヤーナの誕生パーティーである。ラーリン家の親族たちをはじめとして、大勢の人々がお祝いにやって来ている。だが、集まった人々の衣装はなんとなく古めかしく、雰囲気も野暮ったい。オネーギンも現れる。人々は都会からやって来た新顔の青年貴族に親しげに挨拶する。イリ・イェリネクのオネーギン。そつなく挨拶を返すが、上っ面で応じているだけ。ジェイソン・レイリーのオネーギン。なんと完全無視。

人々が列になって踊り始める。踊りもやっぱりなんかダサい。いかにも田舎の貴族という感じである。オネーギンは踊りに加わらず、舞台の端にある机に座り、トランプで一人遊びをはじめる。反対側の端にはタチヤーナがいる。動かないし踊りもしないが、この間のオネーギンとタチヤーナの演技は見どころである。マニュエル・ルグリはここで失敗したんだよな。

イェリネクとアマトリアン、レイリーとスー・ジン・カン(彼女はどこまでがファースト・ネームでどこからがファミリー・ネームなのか?)、ともに互いを直視することなく意識しあっていることが分かる細かい演技で、思いっきり上から目線ですが、「合格!」と思いました。やはりイリ・イェリネクの演技が最もよかった。ただ、アダム・クーパーは、トランプをもてあそぶ手つきまでも演技して、無表情なオネーギンが心の中では苛立っていることを表現していた。イェリネク君はそこまで至らなかった。申し訳ないがちょっと優越感。

オネーギンがタチヤーナに手紙を返すシーン。イェリネクのオネーギンはタチヤーナを完全に子ども扱いしているため、タチヤーナからの恋文なんぞ迷惑以外の何物でもない。オネーギンがやや困惑した表情でタチヤーナに手紙をつき返すと、タチヤーナは両手で顔を覆って泣き出してしまう。オネーギンはそれを見ていよいよ当惑し、「だから子どもには困るんだよ」といううんざりした表情を露骨に浮かべて首を振る。レイリーも基本的に同じ演技だったが、ちょっとオーバーアクション気味だった。

だが、それでもタチヤーナはめげない。何事もなかったかのようにトランプ遊びを続けるオネーギンの横で一生懸命に踊る。特にスー・ジン・カンのタチヤーナが、最後にはオネーギンに跳びかからんばかりにジャンプしたのが、タチヤーナの子どもならではの一途さと頑固さ(オネーギンからすればものわかりの悪さ)を強く感じさせた。見ている私もつい、「タチヤーナ、フラれたのに超ウゼ〜」とか思ってしまったくらいである。

オネーギンがタチヤーナの妹のオリガと踊るところでは、オネーギンがレンスキーに悪戯をしかけることを思いつく演技を、イェリネクがちゃんとしていて感心した。踊るレンスキーとオリガを横目で見ていて、何かを思いついたように目を動かし、かすかにニヤリと笑う。

戸惑うレンスキーにわざとあてつけるようにして、オネーギンとオリガは踊り続け、ついにレンスキーは本気で激怒してしまい、オネーギンに決闘を申し込む。レンスキーが怒るのも当然だ、と観ている側が納得できる伏線を、きちんと張っていたのもイェリネクだった。オリガをレンスキーの前に出したかと思うと、すぐに自分が前に出て、どうだ、と言わんばかりに、レンスキーに向かって笑いながら手を差し出す。表情もいかにもレンスキーを嘲っている感じだった。それを音楽に合わせてしつこく何度もくり返す。音楽が陽気なのも逆に効果的だった。

決闘に向かう前のレンスキーのソロは、ゆっくりだけど(だから?)難しい技がてんこもりな踊りである。フリーデマン・フォーゲルは安定していたが、マリイン・ラドメイカーはちょっと危なっかしかった。

オネーギンもやって来るが、彼はレンスキーをなだめて、なんとか決闘を思いとどまらせようとする。だがレンスキーはオネーギンを平手で殴りつけ、オネーギンを激昂させる。アダム・クーパーがやったのを見て、「ヘンな振りだな〜」と思っていたのが、レンスキーの挑発に激怒したオネーギンが、両脚を揃えて真っ直ぐ上に跳び上がって回転し、着地してから両手を振り回す動きである。

でも、同じ振りをイリ・イェリネクがやったら、「なるほど、こう踊るのが本当は正しいんだ」と納得できた。イェリネクは凄いスピードで跳び上がって回転して着地すると間髪入れずに、物を地面に叩きつけるように、鋭い勢いで腕を振り下げる。同時に片足を前に出し、激しく地面を踏みつける。オネーギンが怒りに我を忘れているのがよく分かった。

タチヤーナとオリガもやって来て、レンスキーにすがりつき、決闘をやめさせようとする。レンスキーはタチヤーナとオリガの両方を同時にリフトして、タチヤーナとオリガはリフトされるたびに両脚を開いて跳ね上げる。その脚は弓なりの形で硬直し、バネのように鋭くしなりながら跳ね上がり、緊張感に満ちている。ダンサーたちもすごいけど、こんな振付を考え出したジョン・クランコはもっとすごい。

決闘に赴く直前、レンスキーはオリガを抱きしめて熱烈なキスをするが、次の瞬間にはオリガを激しい勢いで突き放す。オリガは地面に倒れ伏す。愛しているからこそ許せないという、レンスキーの苦しい心情がよく分かる。レンスキーはタチヤーナには静かに一礼して別れを告げる。

それから長い年月が経った第三幕、幕が開くと、ドレスを着た貴婦人と軍服を着た貴族男性たちが居並んでいる。ここでも、あれっ!?と思った。衣装が変わった気がする。前に観たときとは舞台全体の印象が違う。女性ダンサーたちのドレスの裾が短くなったのは確かじゃないだろうか。そのぶん、華やかな雰囲気が減少したようだ。

オネーギンはグレーミン公爵夫人となったタチヤーナに再会する。オネーギンはすでに老いが迫り、やつれて疲れきった様子である。イェリネクは迫真の演技で、みずぼらしくて卑屈な感じすらある、みじめなオヤジになっていた。美しい公爵夫人がタチヤーナだと気づくと、イェリネクのオネーギンは、とっさに年老いた自分のみじめさを恥じるように、彼女から顔をそむける。

グレーミン公爵(ダミアーノ・ペテネッラ)とタチヤーナのパ・ド・ドゥはすばらしかった。特に、アリシア・アマトリアンの踊りには呆然とした。とりわけ、高々とリフトされたときのポーズや開いた両脚の形が実に美しかった。このパ・ド・ドゥをすばらしいと感じたのは初めて。踊りが終わると、客席から大きな拍手とブラボー・コールが飛んだ。

スー・ジン・カンの変貌ぶりが見事で、大人の女性となった第三幕では、落ち着いた態度で貴婦人らしい華やかな微笑を浮かべていた。アリシア・アマトリアンは、やはり表情での演技がちょっとまだまだな感じがした。公爵はオネーギンにタチヤーナを紹介する。スー・ジン・カンのタチヤーナは、その場では表情を変えない。だが、夫と腕を組んで去っていく寸前に、複雑そうな表情でオネーギンのほうを振り返って見る。この演技にも感心した。

往年の自信と余裕に満ちた態度はどこへやら、イェリネクのオネーギンは最初は卑屈で自信なさげな表情を浮かべていたが、タチヤーナが美しい大人の女性に成長したことに、自身の希望を見出したかのように単純に喜び、タチヤーナに求愛することを決意する。

オネーギンが去った後、舞踏会の客たちが両足を音楽に合わせて細かく動かす振りがある。これはかなり笑える振りだったのだが、前に観たのと違っていた。ヘンじゃない、きれいな振りに改訂されていたようだ。

第三幕最後で踊られるオネーギンとタチヤーナの「別れのパ・ド・ドゥ」の前に、まずタチヤ−ナとグレーミン公爵の夫婦関係が気になった。

ダミアーノ・ペテネッラのグレーミン公爵は、確かに優しく温厚な良き夫なんだろうな、という感じだったが、彼はどうやら自分よりはるかに若い妻をもてあましているところがあり、タチヤーナの心情をさほど理解していないように思われた。タチヤーナはなんとか夫を自分の心のよりどころとしようと願っているのだが、肝心の夫はそんな妻の気持ちが分からないようだった。仲の良い夫婦なのだろうけど、どこかすれ違いを感じさせる。そして、それこそが、タチヤーナがオネーギンの求愛に心動かされた原因なのだろうと思う。

だが、オネーギンは自分が失ったものをタチヤーナに託して取り戻したいだけである。「別れのパ・ド・ドゥ」では、このオネーギンの身勝手さが、イリ・イェリネクのパートナリングによく現れていた。イェリネクはパートナリングが非常に上手である。神がかり的に流麗、華麗だといえる。

でも、第一幕の「鏡のパ・ド・ドゥ」に引き続いて、第三幕の「別れのパ・ド・ドゥ」を見ているうちに、イェリネクのリフトやサポートは確かに巧みなのだけど、どこか無理やりで一方的なように感じられてきた。タチヤーナ役のアリシア・アマトリアンは、まだポーズや動きが定まらないうちに、性急に引きずられ、振り回されている感があった。

ダンサー的にこれでいいかどうかは別にして、オネーギンの無自覚で善意いっぱいの傲慢さを表現するには、イェリネクのこうしたパートナリングは最適だった。

第三幕最後、オネーギンとタチヤーナの別れのパ・ド・ドゥは、非常に情熱的で激しい踊りとなった。28日の公演では、イリ・イェリネクの激しい吐息が聞こえてきて、思わず息を呑んでこのパ・ド・ドゥに見入ってしまい、完全に舞台上の世界、迫るオネーギンと、それを必死に拒みながらも惹かれていくタチヤーナ、ふたりの感情のせめぎ合いに呑み込まれていた。他の観客も同じだったろうと思う。

この別れのパ・ド・ドゥでは、久しぶりに深く感動して涙が出そうになった。実際、カーテン・コールでは、スタンディング・オベーションをしている観客も多く見受けられた。確かにそれほどの舞台だったと私も思う。

29日の公演の別れのパ・ド・ドゥでは、まずスー・ジン・カンの演技がすばらしかった。第一、二幕の少女時代とは明らかに異なる、大人の女としてオネーギンへの愛に悶え苦しむ表情をみせていた。

オネーギンが部屋に駆け込んできたとき、威厳ある表情で机に座っていたタチヤーナは立ち上がり、その足元にオネーギンが倒れ込む。タチヤーナは冷然とした表情を変えない。しかし、立ち上がったオネーギンが両腕を広げ、タチヤーナを包み込むように抱きしめようとした瞬間、無表情だったスー・ジン・カンのタチヤーナは目を大きく見開く。

タチヤーナは目を見開き、こわばった表情で、オネーギンを突き放そう、オネーギンから逃れようとしながら踊る。しかし、次第にタチヤーナは目を潤ませ、顔は上気し、情熱的な、官能的でさえある笑みを浮かべて、オネーギンと踊るようになる。スー・ジン・カンの表情の変化が本当にすばらしかった。

ジェイソン・レイリーとの踊りもすばらしく、レイリーがスー・ジン・カンを投げ上げて落とし、彼女の両の脇の下に腕を差し込んで受け止めるリフトなどは、あまりの美しさに本当に息を呑んだ。ドラマティックな音楽とともに、膝立ち状態のオネーギンが後ろからタチヤーナの両腕をつかみ、タチヤーナがオネーギンを引きずるように歩いては、ふと振り返ってオネーギンに抱きつく振り、あれは本当に見事な振付だ、と観るたびに思う。

最後に、タチヤーナは自分の感情を無理やり押さえつけて、オネーギンに出て行くよう命令する。オネーギンが逃げ去った後、スー・ジン・カンのタチヤーナは天を仰いで、顔をくしゃくしゃにし、口を大きく開けて慟哭する。オネーギンがタチヤーナを失ったのと同じように、タチヤーナもまたオネーギンを失ったのだ、とよく分かる悲痛な表情だった。しかし、彼女は嘆き悲しみながらも、それでも両手のこぶしを固く握りしめる。

タチヤーナと夫であるグレーミン公爵との間には、どこかすれ違いのようなものがある。タチヤーナは明らかにまだオネーギンを愛している。それなのに、なぜタチヤーナはオネーギンについて行かなかったのだろう。

イリ・イェリネクはインタビューの中で、オネーギンを拒否したタチヤーナは間違っている、と明言していた。だけど、タチヤーナは、たとえ本当は夫以外の男性(オネーギン)を愛していても、自分の理想とする愛情のないグレーミンとの結婚生活=現実生活の中で生きていくことを、あえて選んだのだと思う。

タチヤーナの妹のオリガはレンスキーを失った。だが、オリガはむしろそのために新しい道に踏み出すしかなく、それはオリガにとって逆に幸いなことだったかもしれない。それに対して、タチヤーナは違っていた。レンスキーの死後、オネーギンとは長いこと会うことがなかったとはいえ、タチヤーナの中でオネーギンの存在はふっきれていなかったのだろう。

グレーミン公爵と結婚してからも、タチヤーナはどこかで少女時代の甘い夢を引きずり続け(それがわるいことだとは決して思わないが)、そのせいでグレーミンとの間に気持ちのずれが生じていたのかもしれない。しかし、そんな彼女の前に、少女時代の夢を実現させることのできる(とタチヤーナは思っている)オネーギンが現れた。タチヤーナはようやく現実の中で、少女のころに見た夢の中と同じようにオネーギンと情熱的に踊った。

だが、オネーギンと踊ってみて、タチヤーナは夢と現実とは違うことを、ようやく受け入れる気持ちになったのだろうか。タチヤーナはもう、本を読んで夢想している少女ではなく大人であり、グレーミンという夫がいて、公爵夫人という社会的立場と、それにともなう様々な責務を含んだ現実の生活がある。

オネーギンを引きずるようにして前に歩くタチヤーナの姿で、すでに答えは出ているのだ。長い時間が経って、自分は大人になり、昔とは違う今の現実の生活がある。でも、できれば子どものころに戻りたい。オネーギンと踊っている間、タチヤーナの中では少女時代の夢想と今の現実が争っていたのだろう。そして最後に、タチヤーナはようやく少女時代の甘美なだけの夢を、無理にではあるが、自分から断ち切った。オネーギンが現れたことによって、タチヤーナは逆に今の現実に腰を据えて生きていく決心がついたのだと思う。

かといって、タチヤーナがその後、グレーミンと(タチヤーナにとって)不幸な結婚生活を送ったとは限らない。ひょっとしたら、かつて恋していた男から恋文をもらって動揺する自分の気持ちを、夫にすがって甘えることで解決しようとしていた彼女ではなくなったかもしれない。

こうして、舞台では語られないことまで観客に深く考えさせるという点でも、『オネーギン』はすばらしい作品であると思う。この作品を創り上げたジョン・クランコは偉大な振付家だと実感した。また、このバレエを通じて、キャストによって異なるドラマを展開してみせたシュトゥットガルト・バレエ団は、本当に優れたダンサーたちの集まっているカンパニーである。

次の来日公演でも絶対に『オネーギン』を上演してほしい。

(2009年2月1日)

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