Club Pelican

NOTE

ルジマトフのすべて 2008

(2008年7月3日、新宿文化センター大ホール)

まず要望。平日のど真ん中に公演を行なうのはやめてくれ。仕事が終わって疲れきった体に観劇は辛い。次の日だって仕事がある。新宿文化センターで公演を行なうのもやめてくれ。新宿文化センターはどこの駅から歩いても遠いのだ。夕方とはいえ夏のアスファルトの上を長々と歩くと余計に疲れる。

第1部。「海賊」よりパ・ド・ドゥ。ダンサー:ヴィクトリア・クテポワ、マイレン・トレウバエフ。クテポワはマリインスキー劇場バレエ、トレウバエフは新国立劇場バレエ団のダンサー。まさかトレウバエフがこの公演に参加するとは思わなんだ(←会場に来てはじめて知った)。どこでルジマトフと知り合ったのか。

トレウバエフは、胸に当てた両手の形、頭のうつむき加減、表情、仕草などが非常に細かく丁寧で、「忠実な奴隷であるアリ」をとても真面目に演じていた。踊りのほうもそれなりにすばらしかった。でも、なんだか日本人みたいな踊りだなあ、と思った。欧米人ダンサーの持つ大らかな感じ(いいかげんな感じともいう)、しなやかさ、そして弾むようなパワーがない。

クテポワのほうが落ち着いて踊っているように見えたが、彼女のほうは反対にあまり表情がない。そして、クテポワが長身であるのに対して、トレウバエフはさほど長身ではないため、トレウバエフはクテポワのサポートやリフトに苦労しているようだった。また、急ごしらえなペアだということもあったのだろう、ふたりの踊りはあまりしっくり行っていなかった。

なんだか、去年の公演は最初からけっこう盛り上がっていたと思うのだけど、今年はなんだか観客のノリがよくない気がした。拍手の音が小さくてすぐ止んでしまう。

「ゾルバ」、振付はニコライ・アンドローソフ、音楽はギリシャの民族音楽を用いている。ダンサーはイルギス・ガリムーリン(ロシア国立モスクワ・クラシック・バレエ団プリンシパル)。この「ゾルバ」は、ガリムーリンが今回の公演のためにアンドローソフに創作を依頼した作品で、3〜4分くらいの小品である。

ガリムーリンは白いシャツに黒いズボンというシンプルな衣装だったと思う。振付はリズミカルな動きでけっこう激しく、民族舞踊っぽい、また少しコミカルな動きが入っていた。横に上げた脚の膝と足首を曲げながらステップを踏む動きが印象に残っている。ガリムーリンは、現役のダンサーにしては恰幅がよすぎる(特に腹)と思ったが、ちゃんと踊れていた。動きは豪快で大陸的大らかさ(笑)を感じさせた。踊っているときの笑顔も性格が良さそうで好印象だった。

「メディア」、音楽はM.サンスラ、振付はリカルド・カストロ・ロメロ。ダンサーはロサリオ・カストロ・ロメロ、リカルド・カストロ・ロメロ、ジェシカ・ロドリグエズ・モリナ、エーサー・ゴンザレス-タブラス・メネンデス、ホセ・カストロ・ロメロ、ホセ・トレス・ムレーロ。この作品は10分以上あったような気がするが、それでも一部らしい。メディアの夫、「イアソンとコリントス王クレオンの娘との結婚式の場」で、「恋人たちの喜びとエクスタシーに、その場面を傍観するメディアの怒りと嫉妬の感情が混ざり合う様子を音楽とダンスで表現している」そうだ。

どんな作品かはすっかり忘れたが、数組の男女が踊っているときに、途中から出てきて踊ったのがロサリオ・カストロ・ロメロ(メディア)ということだけは覚えている。あとは、ドレスの大きく開いた胸元から見える、ロサリオさんの巨乳の谷間に目が釘付けだった。また、ロサリオさんの両腕の美しくしなやかな動きから、彼女はフラメンコ・ダンサーとして、かなり優れた踊り手なのではないかと思い始めた。

「ゴパック」、音楽はV.ソロヴィヨフ=セドイ、振付はロチスラフ・ザハロフによる。ダンサーはヴィクトル・イシュク(キエフ・バレエ ソリスト)。「ゴパック」はもともと、全三幕のバレエ「タラス・ブーリバ」の中で踊られる男性ヴァリエーション。「タラス・ブーリバ」は1940年にキーロフ劇場がロプポフの振付により初演し、翌41年にザハロフの振付によりボリショイ劇場も上演した。ゴパックとはウクライナの民族舞踊の意味だということである。

これがまたすさまじいアクロバティックな踊りで、「せむしの子馬」の結婚式のシーンで踊られる男性ヴァリエーションより凄かった。とにかく跳ぶ、回るが基本で、ジャンプした瞬間に空中で脚を超高速で複雑に動かす振りが多かった。ヴィクトル・イシュクの踊りはすばらしく、動きは鋭く、ジャンプは高く、まさに元気溌剌、若さ爆発という感じだった。2分くらいで終わってしまったのが残念だったけど、おかげでやっと気分が盛り上がってきた。

「シエスタ」、音楽はガスパール・カサド、振付はV.ロマノフスキーによる。ダンサーはユリア・マハリナ(マリインスキー劇場バレエ プリンシパル)。この作品はマハリナが今回の公演のためにロマノフスキーに創作を依頼した。上演時間は4〜5分ほど。

音楽はスペインの民族音楽っぽく、振付はクラシカル風味のモダンというか、少なくとも去年マハリナが踊ったイタイ作品とは比べものにならないほどにすばらしかった。マハリナの踊りも、去年よりもはるかに流麗で、彼女独特の妖艶な肢体の線に加えて、手足を存分に伸ばして揺り動かす様が非常になめらかで美しく、これほどの動きはマハリナにしかできないだろうと思った。最後はマハリナが床に仰向けに横たわり、びくり、と手足をわずかに曲げた姿勢で硬直する。

「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」、ダンサーはエヴゲーニャ・オブラスツォーワ(マリインスキー劇場バレエ ファースト・ソリスト)、イーゴリ・コルプ(マリインスキー劇場バレエ プリンシパル)。

オブラスツォーワは淡いピンクのワンピース、コルプは白いシャツに青みがかった淡いグレーのベスト、同じく淡いグレーのタイツという衣装。オブラスツォーワの可憐な表情と、音楽に合わせた丁寧な踊りに好印象を持った。コルプとオブラスツォーワの踊りはあまり合っているようにはみえなかったけれど、コルプは持ち前の優れたパートナリングの能力を発揮していて、さほど気にはならなかった。

この「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」という踊りは、いろんなガラ公演で踊られることが多いようだけれど、実はかな〜り難しい踊りなのではないかという気がする。振りを踊れるかどうかというより、うまく音楽に合わせることが非常に困難な作品なのだろうと思う。

なんでか知らないが、去年から今年にかけてイーゴリ・コルプを観る機会が多い。私はコルプのファンというわけではないのだが、コルプは稀にみる優れたダンサーの一人だと思っている。でも、去年の「ルジマトフのすべて 2007」で観た「海賊」のパ・ド・ドゥ、今年の初めに観た「バヤデルカ」のソロル、あとはマリインスキーとボリショイの合同ガラじゃない公演で観た「薔薇の精」には圧倒されっぱなしだった。ただ今回の「チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ」はあまり印象に残らなかった。

エヴゲーニャ・オブラスツォーワはいいダンサーだと思う。脳内に付箋を貼り付けて、これからも注目していこうと思った。

第1部の大トリ、「阿修羅」、振付は岩田守弘、音楽は藤舎名生による。ダンサーはもちろんファルフ・ルジマトフ。この作品は去年の「ルジマトフのすべて 2007」で初演された。去年は欧米人がイメージする珍妙な東洋趣味が漂う作品だと思えて、今ひとつ気に入らなかった。もっとも、振付のせいというよりは、ルジマトフが頭のてっぺんに髷を結い、額にビンディーを付け、阿修羅像を思わせる帯つきの白いズボンを穿いていたせいで、観ていて気恥ずかしかったのである。

ところが、今回は違った。ルジマトフは髪を無造作に後ろに束ね、ハーレム・パンツ風の赤いズボンを穿いただけだった。これが正しい、と思った。何も阿修羅像の格好を真似しなくていいのだ。踊りで阿修羅を表現すればいいのだから。

今回の「阿修羅」は本当にすばらしかった。この作品は、前半はほとんど立ち尽くしたまま動かず、両腕だけをゆっくりと、時に鋭く動かして踊り、後半でやっと回転やジャンプなどの激しい動きが出てくる。ルジマトフは表情こそ動かさないものの、やや眉間にしわを寄せ、鋭い目つきで正面を見据えたまま、両腕をゆっくりと動かす。腕を動かしても、またポーズをとって静止しても、見事に音楽と合っている。

去年も驚かされたのだけれど、この「阿修羅」の音楽は、和楽器と能のようなかけ声のみの静かなもので、途中で無音になる箇所がいくつかある。ルジマトフはこのような無音状態の中でも踊り続け、再び音楽が始まっても、そのとき踊っている振りが音楽とバッチリ合っているのだ。

ルジマトフの裸の上半身は相変わらず筋肉と骨だけで、彼が両腕を静かに動かすだけで凄まじい気迫と緊張感が放射される。後半のほうで回転する動きにおいても、たとえば止まるときに足元がグラつくようなことは決してない。

この「阿修羅」で、身体表現の権化であるルジマトフを目にすることができて感動した。

休憩時間を挟んで、第2部では新作「カルメン」のみが上演される。「カルメン」、振付はリカルド・カストロ・ロメロ、音楽はジョルジュ・ビゼーのオペラ「カルメン」を主に用い、更に別のフラメンコ用音楽も用いている。上演時間は60分。

キャスト。ドン・ホセ:ファルフ・ルジマトフ;カルメン:ロサリオ・カストロ・ロメロ;エスカミーリョ:リカルド・カストロ・ロメロ;ミカエラ:ユリア・マハリナ;死:ホセ・カストロ・ロメロ;

クラシック・ダンサー:ヴィクトリア・クテポワ、イルギス・ガリムーリン、マイレン・トレウバエフ;スパニッシュ・ダンサー:ジェシカ・ロドリグエズ・モリナ、エーサー・ゴンザレス-タブラス・メネンデス、ホセ・トレス・ムレーロ。

この作品に対しては、どういう感想を書いたらいいのかすごく困っている。決してわるい作品ではないが、決して良い作品でもない。まだワークショップの段階にある未完成の作品、というのが全体的な印象である。

振付はリカルド・カストロ・ロメロとなっている。でもおそらく、ファルフ・ルジマトフやロサリオ・カストロ・ロメロもアイディアを出したのではないかと思う。この作品が意図するところは明瞭だった。それはバレエとフラメンコの融合によって新しいダンスを創出する、ということである。

ストーリーはオペラ「カルメン」のあらすじに沿っているが、登場人物の設定とキャラクターは大幅に変えられていた。たとえばオペラでは兵卒であるドン・ホセはバレエ・ダンサーに、煙草工場で働くカルメンはフラメンコ・ダンサーに、ドン・ホセの婚約者で純朴な田舎娘であるミカエラは気の強いバレリーナに、という具合である。エスカミーリョは一応は闘牛士らしかったが、フラメンコで踊りまくるために、闘牛士であると同時にフラメンコ・ダンサーでもある、といえなくもない。

つまりは、オペラのストーリーと登場人物と人間関係を借りてはいるものの、ストーリーは大して重要ではなかったように思うし、登場人物の設定とキャラクターを変更したところで、その変更が作品の大事な構成要素になるというわけでもなかった。

あえてストーリーを紹介すると、バレエ・ダンサーであるドン・ホセは、フラメンコを踊る魅惑的なカルメンに恋してしまう。ドン・ホセとカルメンは愛しあうようになる。ところが、闘牛士のエスカミーリョが現れると、カルメンはエスカミーリョに心を移し始める。ドン・ホセはカルメンたちと行動をともにしているが、そこへ嫉妬に燃えるミカエラがカルメンと対決すべく乗り込んでくる。だがミカエラはカルメンに逆に倒されてしまう。ジプシーたちのカード占いで、カルメンは自分の死を予感するが、臆することなくエスカミーリョの活躍する闘牛場に出かける。ドン・ホセがカルメンを追ってきて、ふたりは争った末にドン・ホセがカルメンを殺す。

一応はこういう話なのだが、各シーンを上手につなげて物語を展開していくという演出上の工夫はまったくなかった。各シーン(つまりソロ、デュエット、群舞の踊り)が、まるで紙芝居みたいに唐突に始まっては終わり、また始まっては終わり、と繰り広げられていくだけである。

この作品で重視するべきなのはストーリーのスムーズな展開などではなく、互いに異質な踊り(バレエとフラメンコ)を踊るダンサー同士(ドン・ホセとカルメン)が出会って、一方(ドン・ホセつまりバレエ)がもう一方(カルメンつまりフラメンコ)に引き込まれてその踊りが変容していき、最後(ドン・ホセとカルメンとの諍いからカルメンの死に至るまでのラスト・シーン)には、バレエともフラメンコともつかない踊りが紡ぎ出される、という点なのだ。このようなチャレンジを私はすばらしいと思う。

すばらしいけれども、やはり物語を自然に展開させていくために、演出をもっと工夫する必要はあったと思う。あまりにパッチ・ワーク的な構成で、シーンとシーンとがリンクしていなさすぎる。背景の幕に、ダンサーたちがレッスンしたり、リハーサルしたりしているモノクロ画像が次々と映し出されていた。あれも「異なるジャンルに属する二つのダンスの融合」という目的に関連した演出なのだろうが(たぶん)、幕の前で踊っているダンサーたちとまるでかみ合っておらず、狙った効果を出せていたとは思えない(まして、ミスってパソコンのモニタ画面が映し出されるなんぞ言語道断である)。

肝心の踊りについて。冒頭のシーンは、舞台の左側にバレエ・ダンサーたちがバー・レッスンをしており、右側ではフラメンコ・ダンサーたちがおそらくフラメンコのレッスンをしているというものである。ルジマトフ、マハリナ、トレウバエフ、ガリムーリン、クテポワが勢ぞろいでバー・レッスンをしており、作品とはまったく関係なく、ルジマトフとマハリナのレッスン風景が見れた!ということで興奮してしまった。ルジマトフのポーズのきれいなことよ。腕や足の動き方の美しいことよ。マハリナの体のなんと華奢で柔らかいことよ。

私は専らルジマトフとマハリナをガン見していて、フラメンコのレッスンのほうはほとんど見ていなかった。これではいかん、と誘惑を断ち切り(2〜3秒くらい)、フラメンコのレッスンってどんなものだろう、とフラメンコ・ダンサーたちのほうを見た。そしたら、バレエのレッスンでの動きが舞台でのパフォーマンスを想起させにくいのに対して、フラメンコのレッスンは分かりやすく、レッスンでのステップや動きがそのまま舞台での踊りになるようだった。

レッスンが終わると、ドン・ホセ(ルジマトフ)が私服に着替えて酒場にやって来る。そこで踊っていたのがカルメン(ロサリオ・カストロ・ロメロ)であった。ロサリオ・カストロ・ロメロはかなり長いソロを踊り、その後のシーンでもドン・ホセ、エスカミーリョと次々と組んで踊るため、ルジマトフ中心の公演のはずが、ロサリオ・カストロ・ロメロ中心の公演のようになってしまった。

おかげで、彼女が優れたフラメンコ・ダンサーで、しかもおそらくはクラシック・バレエにも造詣が深いダンサーであることがはっきりと分かった。また、彼女と彼女の弟のリカルド・カストロ・ロメロが率いるコンパニア・スイート・エスパニョーラは、バレエの要素を取り入れたフラメンコを踊ることを特徴とするカンパニーであろうことがうかがわれた。彼らが特にルジマトフの興味を惹いたのは、たぶんこのせいだったのだろう。

ロサリオ・カストロ・ロメロは胸元から豊満な胸の谷間をのぞかせながら、汗を飛び散らせ、髪を振り乱し、下着が見えても厭わないほどの激しい踊りを見せた。私は「う〜ん、セクシーだわ〜」と思いながら、はじめてロサリオ・カストロ・ロメロをすばらしいフラメンコ・ダンサーだと確信するに至った。

エスカミーリョ役のリカルド・カストロ・ロメロは闘牛士っぽいソロやカルメンとのデュエットを踊った。リカルド・カストロ・ロメロはソロで鋭いステップと回転を披露し、私はそれを見て、アダム・クーパーがミュージカル「ゾロ」で踊った「フラメンコ」がいかに稚拙なものだったのか、あらためてよく分かった。

でも、疑問が二つある。一つには、エスカミーリョが鏡に自分の姿を映し、悦に入っているシーンがナニを意味するのか、二つには、どーみてもファルフ・ルジマトフのほうがリカルド・カストロ・ロメロよりはるかにカッコいいのに、なぜカルメンはエスカミーリョを選んだのか、ということである。リカルド・カストロ・ロメロも優れたフラメンコ・ダンサーだと思うが、ダンサーとしては容姿に今ひとつ恵まれていないのが惜しい。長身で体格が良くて男前でというエスカミーリョのイメージには合わないのである。

リカルド・カストロ・ロメロは優れた振付家でもある。バレエ・ダンサーたちとフラメンコ・ダンサーたちとが混ざって踊るシーンがいくつか設けられていた。カルメンたちがいるジプシーのキャンプ、そしてラストの闘牛場などである。そこではマハリナ、クテポワ、ガリムーリン、トレウバエフなども一緒に踊った。バレエ・ダンサーたちとフラメンコ・ダンサーたちが同じ振りで一斉に踊ったので興味深かった。バレエの動きのようでもあり、フラメンコの動きのようでもある中間的な振付にしてあった。

途中でトレウバエフが非常に高難度な、アクロバティックなジャンプをしながら舞台を横切っていった。おお、彼は本当はこれほどの技ができるのだな、と驚嘆した。でもこのようなジャンプは「王子」キャラのジャンプではないから、新国立劇場バレエ団の公演ではなかなか披露できる機会がないだろう、と思った。

マハリナ演ずるミカエラは、ドン・ホセを奪い返すためにカルメンたちのキャンプに乗り込んでくる。そこでカルメンやジプシーたちと乱闘になる。このシーンもすべて踊りで表現されていて、やはりバレエともフラメンコともつかない振付だった。というより、どちらかというとモダン・バレエみたいな感じだったかな〜?

ホセ・カストロ・ロメロ演ずる「死」は全身黒ずくめで、顔に骸骨の仮面をかぶっている。この「死」が出てきたとたん、あ、アルベルト・アロンソ版「カルメン」の「牛(運命)」を拝借したな、とすぐに分かった。にしては、アロンソ版の「運命」が非常に象徴的な役割を担っているのに対して、ホセ君の「死」はあまり存在感がなかったので、もっと修正する必要があるだろう。今にして思うと、ホセ君の「死」は、『千と千尋の神隠し』の「カオナシ」みたいだったなあ。

音楽ももっと丁寧に編集する必要がある。オペラのところどころをぶち切って使い、途中でいきなりフラメンコでよく使われるスペイン音楽を入れる。聴いていてバランスがわるいし不自然だ。余計なお世話だけど、シチェドリンの「カルメン組曲」でいいんじゃないか?歌詞が重要なのかもしれないけど、ダンスなんだから、歌詞の内容は踊りで充分に表現できるのじゃないだろうか。

ルジマトフはあまり踊らなかった。すでに書いたように、踊っていたのは専らロサリオ・カストロ・ロメロだったからだ。ルジマトフの踊りも、最後のシーンは除いて、大体が踊りというよりはポーズだったという記憶がある。動的ではなくて、静的な印象が残っている。正直なところ、ポーズばかり決めるのではなく、もっと踊ってほしかった。

最後、ドン・ホセがカルメンと絡み合いながら争うシーンでの踊り(?)はそれなりに迫力があった。髪を振り乱して抗うカルメンを無理に抱きすくめ、カルメンの首や肩に熱烈なキスをするルジマトフを見て、こういう情熱的な演技もできるんだな、と驚いた。

ただ、バレエとフラメンコが融合した完成形が、あのラスト・シーンの踊りなのだとしたら、ちょっと拍子抜けする。あれは新しいダンスというよりは、演劇的仕草をダンス風にやっただけの動きだと私には感じられたからだ。

白状すると、あのラスト・シーンは少し退屈だった。ドン・ホセとカルメンはセクシーな絡み合いを冗長に続けるばかりで、なかなかドン・ホセがカルメンを殺さない。退屈に思ったということは、私はやっぱり、あのラストの踊りには「何か新しいもの」を感じることができなかったのだろう。演劇的仕草をダンスに置き換えた動きならば、マシュー・ボーンの作品でさんざん見ている。

というわけで、このリカルド・カストロ・ロメロ版「カルメン」は、まだ上演するには早すぎたと思う。もっと脚本を練って、各シーンのリンクをスムーズにして、音楽や背景の演出も工夫して、振付も、バレエ・ダンサーでもフラメンコ・ダンサーでも踊れるような、無難なものにして済ませるのではなく、更にアイディアを出しあって新しいものを作り出すべきだろう。もし彼らがそうしたいと願っているのなら。

もしそうしたいと願っているわけではないのなら、ルジマトフが座長である「バレエ」(のはずの)公演で、フラメンコばかりを観客に見せるのはいいかげんにやめてもらいたい。ルジマトフがそんなにフラメンコ、もしくはコンパニア・スイート・エスパニョーラとコラボレーションをしたいという話であれば、コンパニア・スイート・エスパニョーラの公演に、ルジマトフがゲスト出演すればいいのだ。

今回の「ルジマトフのすべて」は、いかにも「準備不足」、「急ごしらえ」といった雰囲気が強く漂う公演だった。次はもっと準備に時間を割いて行なってほしい。私は特にルジマトフのファンというわけではないので、一観客として、素直に思ったことを書いた。

(2008年7月27日)

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