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NOTE

新国立劇場バレエ「ラ・バヤデール」

(2008年5月18、20日、新国立劇場オペラパレス)

「ラ・バヤデール(La Bayadere)」、音楽はレオン・ミンクス(Leon Minkus)、オーケストラ用編曲はジョン・ランチベリー(John Lanchbery)、原振付はマリウス・プティパ(Marius Petipa)、改訂振付・演出は牧阿佐美、デザインはアリステア・リヴィングストン(Alistair Livingstone)、照明は磯野睦。この牧阿佐美版「ラ・バヤデール」は、2000年に新国立劇場バレエによって初演された。初演時には編曲者であるジョン・ランチベリー自身がオーケストラを指揮したという。

「ラ・バヤデール(バヤデルカ)」の音楽は、ロシアをはじめとする東欧諸国と西欧・アメリカでは編曲に異なる点がある。ランチベリーの編曲版は主に西欧諸国とアメリカで用いられており、これはルドルフ・ヌレエフ、ナターリア・マカロヴァが旧ソ連時代に西側に亡命した際、持ち出したピアノ譜、そして一部のオーケストラ総譜を基にしている。このことについては、以前にブログに書いたことがあるので、こちら をどうぞ。

主なキャスト。ニキヤ:スヴェトラーナ・ザハロワ(Svetlana Zakharova);ソロル:デニス・マトヴィエンコ(Denys Matviyenko);ガムザッティ:西川貴子;大僧正:ゲンナーディ・イリイン(Guennadi Iline);マグダヴェヤ:吉本泰久;ラジャ:逸見智彦;トロラグヴァ(ソロルの友人):市川透;アイヤ(ガムザッティの召使):神部ゆみ子;

ジャンペの踊り(第一幕):遠藤睦子、井倉真未;黄金の神像(第二幕、以下同じ):八幡顕光;壷の踊り:湯川麻美子(18日)、真忠久美子(20日);

パ・ダクシオン:ブルー・チュチュ:川村真樹、寺島まゆみ、丸尾孝子、堀口純;ピンク・チュチュ:遠藤睦子、さいとう美帆、西山裕子、小野絢子;アダージョ(第二幕):グリゴリー・バリノフ、江本拓;

第1ヴァリエーション(第三幕、以下同じ):丸尾孝子;第2ヴァリエーション:川村真樹;第3ヴァリエーション:厚木三杏。

演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、指揮はアレクセイ・バクラン(Alexei Baklan)。


第一幕

序曲が始まると幕がすぐに開いた。銀の透かし彫りのような細工の森の木々が舞台の天井と両脇を覆い、舞台奥の中央に石造りの神殿、神殿の前には火の祭壇がある。この森のセットは後のシーンでも出てくるが非常に美しいものだった。面白いのは、普通は舞台の右寄りにある神殿の入り口が中央にあることだった。入り口の中には写真などでよく見る、火の輪の中で踊るポーズをとったシヴァ神の像が安置してある。

音楽を聴いていて思ったのは、テンポが妙に速いな、ということ。この後も基本的にはずっとそうだった。音楽が速すぎて、ダンサーたちの踊りが追いつかないときが多々あった。

火の祭壇の前にマグダヴェヤ(吉本泰久)がうずくまっている。彼はしばらく祭壇の周囲を踊っていたが、大勢の人の気配に気づいて走り去る。

速いテンポの音楽に乗って、ソロル(デニス・マトヴィエンコ)、ソロルの友人のトロラグヴァ(市川透)、その他の騎士たちが列をなして現れる。自分はひとりで火の祭壇の前で神に祈りたいから、という仕草をして、ソロルは騎士たちを先に行かせる。途端にソロルの表情は恋する男のそれになり、いとおしげな表情になって神殿を手で指し示し、両手を胸に当てる。いとおしげな表情というよりは悩ましげな表情で、やけに情熱的なソロルだなあ、と思った。

ソロルは手を叩いてマグダヴェヤを呼び出す。細かいことにケチをつけさせてもらうが、マトヴィエンコが手を打つときのあのヘタレな音はいただけない。ぺそ、ぺそ、と小さく頼りない音が辛うじて聞こえる程度だった。ここは騎士たる威厳をもって、大きな鋭い音を響かせてほしかった。

マグダヴェヤが現れる。上半身はハダカではなく、上下ともにアイボリーっぽい色のボロボロに破けた短衣を着ていた。ロシアン・ヴァージョンのマグダヴェヤがアダモステなのに対して、日本ヴァージョンのマグダヴェヤは寒山拾得みたいである。またケチをつけさせてもらうが、マトヴィエンコの「ニキヤ」を表わすマイム(片腕を折り曲げて手のひらを上に向け、もう片手は指を揃えて肩に当てる)はヘタだなあ。

ソロルはマグダヴェヤに神殿からニキヤを呼んでくるよう言いつける。マグダヴェヤは怯えて拒むが、ソロルはマグダヴェヤに指を突きつけ、高圧的な態度であらためて命令する。マグダヴェヤが去った後、ソロルは神殿に向かって投げキッスをして去る。

やがて僧侶たちがぞろぞろと出てきた。さすがは日本人、えんじ色の僧衣がよく似合っており、高野山の坊さんみたいだった。やがて大僧正(ゲンナーディ・イリイン)も姿を現わす。片肌脱いだちょっとセクシーな大僧正だ(オジさんだけど)。「大僧正=デカくて濃い」という私個人のイメージをくつがえす、そう大柄でなくて手足も普通の長さの大僧正だったせいか、少し迫力不足に感じた。

水色のヴェールと衣装を身につけた舞姫たちの踊りは、なかなかによく揃っていてきれいだった。なかなかに、というのは別に不満なわけではない。第三幕の「影の王国」で、これぞ新国立劇場バレエのコール・ド、という凄まじい群舞を見てしまったために、後から考えるとここはあんまり印象的ではなかった、ということだ。

マグダヴェヤをはじめとする苦行僧たちが火の祭壇の周囲を飛び跳ねて踊る。ああいうわざと崩した姿勢でジャンプするのは大変だろうなあ、と思った。マグダヴェヤがペンギンみたいなポーズで、両足を揃えてリズミカルに回転して回るところが、私はけっこう好きだ。吉本泰久の回転は鋭くてきれいだった。他の苦行僧たちの群舞も揃っていないようで実は揃っており、とても見ごたえがあった。

白いヴェールをかぶり、白い胸当てとスカートを見につけたニキヤ(スヴェトラーナ・ザハロワ)が現れる。ザハロワの立ち姿やゆっくりした歩みはとても品があって美しい。大僧正がニキヤのヴェールをとる。ザハロワ、相変わらず超美人で極細で手足が長い。ニキヤが静かに踊り始める。終わりのところの音楽が速くなるところで、ニキヤが前アティチュードを繰り返し、回転しながら片足で地面を突く動きが私は好きだが、今回のザハロワの踊りはあんまりツボにはまらなかった。

だが、大僧正に言い寄られるシーンでのザハロワの演技はよかった。ニキヤは驚きつつも、無理やり抱きすくめようとする大僧正の手から逃れる。そして毅然とした態度をとり、顔をきっと上げ、首をすっと伸ばして、ゆっくりと大僧正に詰め寄っていく。たじろぐ大僧正。ニキヤは、あなたは神に仕える身で、私は舞姫なのです、と厳然として大僧正を諭す。鼻筋の通ったザハロワの横顔が凛としていて美しかった。

ニキヤがマグダヴェヤに水を飲ませると、マグダヴェヤはソロルが待っている、とそっとニキヤに教える。ニキヤは嬉しそうな笑顔を浮かべながら去ろうとして、ふと大僧正と目が合い、あわてて目を伏せて神殿の中に帰っていく。うーん、どうしてもオクサーナ・シェスタコワ(レニングラード国立バレエ)の演技と比べてしまう。シェスタコワのほうがもっと表情が細やかで、表情を変えるタイミングもいい。ブリの甘露煮みたいなシェスタコワは私の好みではないのだけど。

水を汲みに来たフリをして、ニキヤがソロルを探して神殿から出てくる。ソロルの姿が見えないので、ニキヤは寂しげな表情で踊る。やがてソロルが現れ、ふたりは抱き合いながら一緒に踊る。この一連のザハロワの踊りを見ていて、今日は調子があまりよくないのかな、と思った。確かにザハロワの身体は驚くほど柔らかくて、脚なんか信じられないくらいに上がる。腕もなめらかにたわんで動く。でも踊りがきれいじゃない。身体能力と技術だけに任せて乱暴に踊っている感じがして、音楽にあまり合っていないし、動くタイミングもツボを押さえていない。こういう踊りをする人だったっけ?と不可解に思った。

あらためて20日の公演を観てみたら、マトヴィエンコのパートナリングがあまりよくないのと、ザハロワが音楽に合わせて踊っていないせいで、ふたりの踊りが今ひとつきれいに見えないのだ、と思った。

マグダヴェヤは神殿の入り口の脇で、ソロルとニキヤの様子を見ている。神殿の入り口に大僧正が現れ、ふたりの逢瀬を目撃してしまう。マグダヴェヤは神殿の入り口を見てあわてた表情になる。

かねがね、大僧正にソロルとニキヤの仲がバレたことを、マグダヴェヤは知っているのか、と不思議だったが、牧阿佐美版ではこういうことらしい。マグダヴェヤは神殿の入り口に大僧正の姿を見て、ソロルとニキヤの仲がバレやしないか、と気をもむ。しかしマグダヴェヤは、ソロルがニキヤへの愛を神に誓ったところも、大僧正が見ていたことには気づかなかった。マグダヴェヤは、大僧正にバレたらヤバいから、今日はこのへんで終わりにしなさい、とソロルとニキヤに警告する。

ロシアン・ヴァージョンだと、大僧正がソロルへの復讐を誓うシーンの後にカーテンが下りて、裏からロシア語が飛びかっているのが聞こえてきて、ガタンガタンとセットを動かす、地をも揺るがさんばかりな大きな音が響いてくる。

ところが、この牧阿佐美版では「神殿の前→ラジャの宮殿」の場面転換が実に見事だった。カーテンは下ろさず、ライトを森のセットだけに当てる。そうすると、森の木々の葉が銀色に浮かび上がる。その間に神殿のセットが上がっていって、同時に天井から何本もの柱が下りてくる。舞台の天井を覆っていた森のセットが上がる。舞台のライトが点灯される。すると、そこはいつのまにか、柱の間に美しいアラベスク文様の窓が嵌めこまれ、天井から大きな灯燭がいくつも吊り下がった壮麗な宮殿になっている。ほおおお〜、と(心の中で)唸った。

家来たちがソロルの肖像画を運んでくる。どのバレエ団の「ラ・バヤデール」を見ても、ソロルの肖像画は非常にマヌケだ。全然カッコよくない。

ソロルの友人のトロラグヴァ、騎士たち、続いて水色の衣装のラジャ(逸見智彦)が現れる。アゴヒゲをたくわえていたが、けっこうイケメンなラジャだ。召使のアイヤ(神部ゆみ子)がやって来て、誰かが来たことを告げる。ガムザッティだな、と思ったら、あり、ソロルがもう来てしまった。ラジャは両手の人差し指をくっつけて、ソロルにガムザッティと結婚するよう告げる。ずいぶん早い展開だな。それはともかく、さて、ソロルはどーすんのかね、と思っていたら、友だちのトロラグヴァに泣きついているではないか。だみだこりゃ。

トロラグヴァはソロルの肩を抱いて、うなづいたり首を振ったりしてなだめていたが、ラジャの申し出を受けるように説得していたのか、それともただ単に慰めていただけだったのか分からなかったぞ市川君(トロラグヴァ役)。

ソロルがひんひん泣いているうちに、ヴェールをかぶったガムザッティ(西川貴子)が来てしまった。ロシアン・ヴァージョンだと、ソロルがまだ来ないうちに、ラジャはガムザッティを呼び寄せてソロルとの結婚を言いつけ、それでガムザッティはいったん下がるのだけど。

ガムザッティは明るいオレンジ色のヴェールをかぶり、同じくオレンジ色のショールを肩にかけていて、同色の胸当てとスカートを身につけている。ガムザッティ役の西川貴子は、きつい感じのするアイ・メイクをしていて、誇り高く気の強い王女様という雰囲気を出していた。

ラジャがガムザッティの顔を覆っていたヴェールを外す。ソロルはその美しさに打たれ、いそいそとガムザッティの手を取る。ただ、マトヴィエンコは表情が今ひとつ乏しくて、ソロルが何を考えているのかよく分からなかった。まあ、ソロルは考えなしの軽薄な男だ、という解釈でいいのかな。

ソロルとガムザッティは机を挟んで座る。ロシアン・ヴァージョンだと、そこに何も知らないニキヤがやって来て、ガムザッティを祝福する踊りを奴隷の若者と踊る。だが、聴き慣れた音楽が演奏された。ハーレム・パンツの片足に長い布を付けて、それを持って踊るジャンペの踊りが始まった。

ジャンペの音楽も踊りもいいよねえ。ダンサーたちの列が片脚を上げながら交差したり、片脚だけで移動したり、途中からもう2人(遠藤睦子、井倉真未)が出てきて、威勢よくジャンプを繰り返すのも見ごたえがある。最後にみんなが片脚だけで回転し続けるのもカッコいい。今回は長い布のさばき方がみなちょっとぎこちなかったが、踊りはやはりよく揃っていて非常によかった。

それで、ニキヤと奴隷の踊りはどーなった、と思っていたら、大僧正がやって来てしまった。大僧正は唇に指を当てて秘密の話があることを示し、ラジャに人払いを願う。結局、ニキヤと奴隷の踊りはないのね。あの踊りでの、ソロルの演技は見ものだし、何も知らないニキヤがガムザッティとソロルの結婚を祝福する、という皮肉で残酷な劇的効果もあってよいのに残念だ。

大僧正はソロルが他の女への愛を神に誓った、とラジャに告げ口する。彼らの背後の壁にガムザッティが姿を現し、身を潜めながら不安げな様子で大僧正と父王の話を聞いている。ロシアン・ヴァージョンだと、ガムザッティは大僧正とラジャの背後を、秒速50メートルくらいの速さであっという間に駆けぬけるので、あれでどーやって話の全容が分かるのか、と不自然に思っていた。しかし、この牧阿佐美版では、ガムザッティが大僧正とラジャの話を盗み聞きする時間を長く取った。しかも西川貴子の演技が非常に良くて、ガムザッティが最初はショックを受け、次には徐々に不安を募らせていく様子がよく分かった。

ラジャがソロルが愛を誓った女は誰かを尋ねると、大僧正は白いヴェールを取り出す。第二場ではニキヤは踊らなかったわけだから、この白いヴェールは第一場の冒頭でニキヤが踊る前にかぶっていたものだ。だから大僧正が見せた白いヴェールはニキヤを意味するわけだけど、ラジャは第一場にはいなかったから、ラジャがニキヤだと即座に分かったのが納得できない。第一幕の冒頭からは時間が経っていたから、私も白いヴェールとニキヤがなかなか結びつかなかった。

この大僧正はアホで、もうこれを書くのは何回目か、大僧正はラジャがソロルを罰してくれると思っていたのだが、ラジャはニキヤを殺す、と拳をゆっくりと振り下ろして宣言する。騎士と舞姫とどっちがラジャにとって大切か、また愛娘の婿を罰するような真似を父王がするわけがないのに、大僧正は当てが外れてうろたえる。何回見てもアホだ。

18日の公演では、私は愚かにも気がつかなかった。逸見智彦のラジャは実にすばらしい。特にこのシーンでは、ソロルの恋人がニキヤであると知ったとき、冷たい目をして、口の端を少しゆがめて薄く笑いながら、緊迫感あふれる音楽とバッチのタイミングで、ニキヤを殺す、というマイムをする。これがカッコいいのなんの。あわてふためいてラジャの心を変えようとする大僧正を、厳然とした態度で「留め立ては無用!」と手で制して去るところもカッコよかった。

ガムザッティはアイヤにニキヤを呼ぶように命ずる。ガムザッティは花嫁のヴェール(←ご丁寧に花嫁のヴェールまでオレンジ色だった)を取り上げると、不安げな表情でそれを抱きしめる。青い布を全身に巻きつけた平服姿のニキヤが現れる。ザハロワは本当にスタイルがいいねえ。布の巻きつけ方も様になっている。それからの流れはロシアン・ヴァージョン(特にマリインスキー、レニングラード国立バレエ)と同じである。ガムザッティはニキヤに、自分がソロルと結婚することを告げる。

ガムザッティ役の西川貴子の演技がこれまた良くて、ニキヤの腕を荒々しくつかんで振り放す。ニキヤは床に手をついて倒れる。「この壮大な宮殿をご覧なさい!これはすべて私のものよ!あなたは何だというの?ただの舞姫じゃない!」というマイムが非常に堂々としており、ニキヤ役のザハロワに迫力で負けていなかった。自分の低い身分を思い知らされたニキヤは、つい目を落としてうつむき、ガムザッティに向かってひざまづいてしまう。

だが、ザハロワ演ずるニキヤはきっとして顔を上げると、ソロルは自分への愛を神に誓ってくれた、とその様子を再現する。ニキヤの表情は自信にあふれている。今度はガムザッティが顔を覆ってくず折れる。このへんのガムザッティとニキヤのやりとりは、非常に迫力があって緊迫感に満ちていた。

ニキヤとガムザッティはもみ合いになる。ニキヤはガムザッティを突き飛ばしてしまい、更に逆上したニキヤは短剣をつかんでガムザッティに切りかかる。それをアイヤが止める。ガムザッティは恐がって頭を抱えてうずくまる。その点、ボリショイ・バレエのマリーヤ・アレクサンドロワ姐さんのガムザッティは凄かった。自分に切りかかってくるニキヤの前に傲然と立ちふさがり、ニキヤ(当日はナデジダ・グラチョーワでした)のほうがその迫力に押されて短剣を落としてしまうのだ。

我を取り戻したガムザッティが、ニキヤをまっすぐに睨みつけながら詰め寄っていく。すっかり混乱してしまったニキヤはよろめきながら逃げ去っていく。ガムザッティは舞台の中央に立ち、拳を握った右手をゆっくりと下ろす。ここは西川貴子、もっと迫力があってもよかった気がする。ガムザッティがニキヤを殺すことを決意するのだから、この第一幕最後の一瞬のシーンは、実はガムザッティの大きな見せ場だと思う。

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第二幕

幕が開く。ソロルとガムザッティの婚約祝いの宴。舞台セットの美しさにまたもため息が出た。モスグリーンの地にアラベスク文様の描かれた大きな幕が、舞台の奥と天井に何枚も吊るされている。幕には花弁が先割れした黄色い菊のような大きな花が一輪、更にその黄色い花の下にも、桃色や白の小花が左右対称にいくつも描かれている。舞台の中央奥には階段つきの壇が設けられ、二つの玉座が置かれている。

2003年春、パリ・オペラ座バレエ団と新国立劇場バレエが期せずして同時期に「ラ・バヤデール」を上演したとき、両方の公演を観たアダム・クーパーが、「パリ・オペラ座バレエより、新国立劇場バレエのほうが、デザインが優れている」と述べたのも納得だ。

西本願寺の僧侶たちや兵士たちの列が整然と並んで行進していく。大僧正が現れる。召使たちが大きな天蓋を持って進んでくる。天蓋の下にはガウン状の袖なし上着をはおったラジャが歩いている。王様なのに徒歩とは、意外とつつましいラジャだ。そしておおきな日よけ傘を持った召使に付き従われて、ガムザッティもやって来る。ガムザッティは銀糸の刺繍の入った白いチュチュを着て、オレンジ色のショールを羽衣のように、腕にゆるやかに巻きつけてはおっている。

黄色いスカートを穿いた女性たち、モスグリーンのスカートを穿いた女性たちが整然と並んで現れる。台の上に載せられた仏像(八幡顕光)が不動の姿勢で運ばれていく。ひゃー、全身金粉だ。一方、棒に吊り下げられた虎のぬいぐるみは運ばれてこなかった。さて、お次はソロルの登場だ。ソロルはハリボテの象に乗って現れるのかな?楽しみ。

しかし残念なことに、ソロルは象に乗って現れてはくれなかった。ふつうに歩いてやって来た。グレーを基調とした衣装を着ている。ラジャと大僧正は壇の上の玉座につく。ソロルがガムザッティの手を取って、ふたりはいったん退場する。

カラフルな羽根の扇を持った女性ダンサーたちによる群舞と、オウムを持った女性ダンサーたちによる群舞はなかった。ブルーのチュチュを着た女性4人(川村真樹、寺島まゆみ、丸尾孝子、堀口純)による踊り、また黄色いスカートを穿いた女性たち、また緑のスカートを穿いた女性たち、グレーの衣装を着た男性たちによる群舞があった。この群舞もとてもよく揃っていた。また、無意味な踊りが長く続くことなく、適切な時間で終わるので、飽きることなく踊りを楽しむことができた。

ブロンズ・アイドルの踊り。技術的に難しい振りに満ちた踊りであって、「ラ・バヤデール」第二幕における見せ場なのであろうことは分かる。しかし、私は全身金粉というダンサーの姿と、私が最近やり込んでいるインベーダー・ゲーム(復元版)そっくりな、奇妙な振付にどうしてもついていけない。とはいえ、八幡顕光はジャンプしながら片脚を腰よりも高く上げて、緩やかに曲げた片脚だけで柔らかく着地する。また、ジャンプした後、片膝を床についた状態で着地し、それから立ち上がって片脚だけでゆっくりと回転した。この回転の(当然そうあるべき)勢いが少し弱かったことを除けば、すばらしく踊ったと思う。

壷の踊りはかわいらしくてよかった。頭の上に乗っけている壷があまり動かず、ダンサーは両手を離したまま、ずいぶんと長いこと踊っていたので感心した。ところが、踊りが終わって、ダンサーが壷を頭から下ろしたら、頭に壷の底をはめ込む台があるのが見えたではないか!これは邪道だ。次はぜひ台なしで勝負してもらいたい。ちなみに、踊り自体がよかったのは18日の湯川麻美子、踊っているときの表情がかわいくて魅力的だったのは20日の真忠久美子だった。

あらかじめ知ってはいたが、「太鼓の踊り(インドの太鼓の踊り)」がないのは実に残念だ。たるい群舞やキャラクター・ダンスのせいで、いささか眠くなった観客の目を一気に覚ましてくれるのが、「太鼓の踊り」なのだ。目を覚ましてくれるどころか、エキサイトさせてくれさえする。次のガムザッティとソロルのパ・ド・ドゥの前座としても最適である。

パ・ダクシオン(川村真樹、寺島まゆみ、丸尾孝子、堀口純、遠藤睦子、さいとう美帆、西山裕子、小野絢子)の踊りを間に挟みつつ、ガムザッティとソロルのパ・ド・ドゥが始まる。パ・ダクシオンのダンサーたちは4人ずつ踊る。いずれも動きがよく揃っていてすばらしかった。それに、みな美女ぞろいだ。新国立劇場の女性ダンサーがこれほど美人ばかりだったとは。

アダージョでは、踊るガムザッティとソロルの脇で、パ・ダクシオンのピンクのチュチュを着た女性ダンサー4人(遠藤睦子、さいとう美帆、西山裕子、小野絢子)と男性ダンサー2人(グリゴリー・バリノフ、江本拓)がそれぞれ組んで踊る。

ガムザッティとソロルのパ・ド・ドゥ、アダージョでは、ソロル役のデニス・マトヴィエンコのサポートが非常に上手で感心した。いつものパートナーではないだろうに、ガムザッティ役の西川貴子の回転を自然に支え、もたもたせずに持ち上げる。

ちなみにこのアダージョの振付に、ガムザッティとソロルの間にある微妙な距離を感じるのは気のせいだろうか。出だしで、ふたり並んで後ろ向きに何度もジャンプするところも、心から喜んでいるのはガムザッティで、ソロルはガムザッティの影のようにくっついているだけ、という印象を受ける。あと、一緒にアダージョを踊る2人の男性ダンサーが、途中でガムザッティを持ち上げるでしょ。ソロルは下から彼女に向かってお辞儀をする。あれも、妻となる女性とはいえ、ガムザッティはやはり王女であり、ソロルはマスオさん的な存在に過ぎないことを思わせる。それに、ガムザッティとソロルが回転しながら離れていくところも、なんかふたりの間にある「ぎこちなさ」を感じる。

ソロルのヴァリエーション。私がマトヴィエンコといえばバジル、という目で見るからいけないのか、18日も20日も、すばらしいとは正直なところ思えなかった。マトヴィエンコの動きがあまりにスピーディーでキレが良すぎて、まるでバジルのヴァリエーションのように見えたのである。ダンサーのそれぞれに踊りの基本的な個性や特徴というものがあるのは分かる。ただ、キャラクターによって踊りの質を多少は変えることが必要なのではないか。今はバジル役じゃなくてソロル役なんだから、もう少し(というか大いに)踊りにしなやかさ、柔らかさ、ゆったりした優雅さがあればもっといいのに、と思った。あと、動きが音楽にあまり合っていなくて、全体的に踊りに美しさというものが感じられなかった。

ガムザッティのヴァリエーション。西川貴子はよく頑張っていたと思う。すっごいタフな振付なので。最後まで踏ん張れるか、とハラハラしたが、最後の決めのポーズでやってくれた。爪先立ちの両足を揃えて立ち、そのまま見事に静止した。どこかの感想でも書いたはずだが、踊り終えた後にこのポーズを決めるのはかなり難しい。疲れているので、どうしても足元がよろけてしまうダンサーがほとんどなのである。

群舞が再び現れて踊り、コーダとなる。ガムザッティ役の西川貴子が中央に歩いて出てくる。片脚を頭まで高く振り上げてその反動で半回転する動きと、グラン・フェッテである。これはガムザッティの「完全勝利宣言」なので、確実に、しかも華やかに、ダイナミックに決めてほしいが、なんというか、西川貴子のコーダでの踊りは迫力不足で、しかもすっかり疲れてしまっていて、足が動かなくなっているのが分かった。それでも彼女は力を振り絞って、グラン・フェッテの片脚を高く上げて回転し、最後のポーズをカッコよく決めた。

ガムザッティとソロルは踊り終えると、傍らの椅子に並んで座る。音楽の調子が変わって緊張感の漂うものとなり、青いヴェールと衣装に身を包んだニキヤ(スヴェトラーナ・ザハロワ)が走り出てくる。駆けてきたニキヤはガムザッティと一緒に座っているソロルの姿を目にするなり、ショックを受けた様子で顔をそらして目を閉じ、悲しげな表情になる。ソロルは思わず立ち上がる。しかし、ガムザッティに促されて再び席につく。ガムザッティも不安げな表情でソロルの手を握り、なんとかソロルの気持ちをニキヤからそらせようとする。

悲しげな音楽が流れて、ニキヤはゆっくりとした動きで踊り始める。ザハロワの踊りは、期待していたほど良くはなかった。体がすごく柔らかいから、技術が凄い(?不安定だったような気がしたが)から、だからなんだ、と思った。悲しそうな顔で踊っているんだけど、お約束的な悲しい顔というか、振りと衣装を変えたらそのままオデットになるよな、という単調なものだった。また、マトヴィエンコと同じで、踊りがきれいでない。華やかさとかハデさが足りないというんではなくて(そういう踊りではないから)、とにかく動きが美しくない。

ただし、20日の公演では、ザハロワによるこのニキヤの踊りが見違えるように良くなった。ゆっくりと丁寧に踊り、すっきりと長く伸びる手足と柔らかい体の動きそのものでニキヤの悲しみを表現していた。私はすっかり取り込まれて、ザハロワの踊りを凝視していた。

このシーンではうまい演出があった。ニキヤが踊っていると、ラジャがいきなり立ち上がって、召使のアイヤに何事かを耳打ちする。アイヤはうなづくと駆けていく。その様子を見ていた大僧正も立ち上がり、自分もそっと場を外す。

ソロルはずっと冴えない表情で、それでもガムザッティの手を握っている。ガムザッティも必死でソロルの手を握り続ける。悲しげな表情で踊っていたニキヤに向かって、アイヤが花籠を差し出し、手でソロルを指し示す。これは分かりやすい。ラジャはアイヤに、ソロルから贈られたものだ、と嘘をつかせて、ニキヤに花籠を渡すように仕組んだのである。

そうとは知らないニキヤは笑顔になって花籠を捧げ持つ。ニキヤは微笑み、ソロルを見つめながら再び踊り始める。音楽が速いテンポのものになり、振付も激しい動きのものになる。「どじょうすくい」みたいに花籠を両手で持って細かくステップを踏んだり、花籠を片手に持って両脚を交互に前に高く上げながら、軽く跳ぶように歩く。ここの振付はちょっと奇妙だが、私は好きだ。あと、花籠を持って片脚を伸ばして大きく回転する動きや、花籠を持ったまま片脚を後ろに上げてトントンと移動していく動きなど、いずれもリズミカルでよい。

花籠を抱きしめたニキヤはいきなり顔をゆがめる。ニキヤの首に毒蛇が咬みついている。ニキヤの首から落ちた毒蛇を、マグダヴェヤがつまんで持っていく。ちょっとまて吉本泰久(マグダヴェヤ役)。蛇を持っていってそれで終わりか。レニングラード国立バレエの「バヤデルカ」で、いつもマグダヴェヤを踊っているラシッド・マミンの芸は細かくて、蛇を地面に何度も叩きつけて殺す演技をしているんだぞ。たとえ観客の注意が苦しむニキヤ役のダンサーに向いているとしても。

ラジャはいつのまにかソロルとガムザッティの傍に座っている。ラジャは苦しむニキヤを前にしても平然とした様子である。なんと口元に薄笑いさえ浮かべているではないか。実にいい演技だ逸見智彦。ニキヤは苦しみながらも立ち上がり、激しい勢いで腕を伸ばし、真っ直ぐにガムザッティを指さす。ニキヤは更にガムザッティに詰め寄ろうとするが、ラジャが冷たい表情で片腕を伸ばし、ニキヤの行く手を遮る。

ついにニキヤは倒れる。大僧正がニキヤの頭のあたりにかがみ込み、ニキヤの髪をつかんで持ち上げる。粗野で傲慢でヤなオヤジである。だがよい演技だ。大僧正は青いガラスの小瓶をニキヤに見せる。解毒剤である。大僧正は命を助ける代わりに自分のものになるようニキヤに迫る。

ニキヤは大僧正から小瓶を受け取るとソロルを見る。だが、ソロルはニキヤから目を逸らして、彼女を決して見ようとはしない。それを見たニキヤの顔が歪み、その手から小瓶がこぼれ落ちる。ニキヤはソロルの卑怯で無情な態度に絶望して死を選ぶ、という解釈らしい。

なぜニキヤは死を選ぶのか、これがスタンダードな演出なのだろうけど、今にして思えば、レニングラード国立バレエ「バヤデルカ」のこのシーンで、ファルフ・ルジマトフ(ソロル役)とオクサーナ・シェスタコワ(ニキヤ役)が見せた演技は、まさに「ケミストリー」的な名演技だったんだな(詳しくは こちら を見てね)。何度も言うけど、ブリの甘露煮のシェスタコワは、私は好きじゃないけどね。

ニキヤはついに倒れて死ぬ。ソロルはようやくニキヤの元に駆け寄ってニキヤの体を抱きしめ、天を仰いで慟哭する。

と思ったら、20日の公演では、ソロル役のマトヴィエンコは死んだニキヤをほったらかしにして、さっさと奥に走り去っていってしまった。18日の公演では、ソロルがニキヤの体を抱きしめて泣いて、それで第二幕が終わったように覚えているのだが、私の思い違いだろうか?

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第三幕

幕が開く。またもや舞台の美しさに感動した。だが、第一幕や第二幕のように、豪華なセットがあるわけではない。セットといえば、舞台の右に真紅の敷物が何枚も重ねられた寝椅子があるだけだった。美しかったのは照明である。背景はかすかに藍色を帯びて黒く、舞台の床には青いライトがあてられて、床がぼんやりと青く浮き上がっている。その舞台の床の青がとても美しかった。

グレーの婚礼衣装のままのソロルが走り込んでくる。ニキヤの死にショックを受けたソロルは混乱し、舞台じゅうを大きくジャンプしながら駆け回る。マトヴィエンコの両腕の動きはそれなりに流麗だったし、ジャンプもたぶん技術的には申し分ない出来だったのだろうと思う。ただ、暗闇の背景の中で踊れば、おそらく視覚効果のおかげで、余計に美しい線を描いて踊っているようにみえるものだが、黒い背景の力をもってしても、マトヴィエンコの踊りは「そこそこきれい」程度にしかみえなかった。

ソロルはマグダヴェヤを呼ぶ。マグダヴェヤはソロルに水煙草(プログラムにそう書いてある)を吸わせる。阿片は社会風紀・道徳・また法律上の問題があるので、設定が阿片から水煙草に変更になったのだろうか。マグダヴェヤによる灯燭の踊りはなく、また蛇使いのじいさんも出てこないらしい。マグダヴェヤの灯燭の踊りはきれいなので、これがないのは残念だが、蛇使いのじいさんが出てこないのにはちょっとホッとした。水煙草を吸ったソロルは寝椅子にもたれてまどろむ。

すると、漆黒の闇の中に、白い衣装を着たニキヤが片腕を上げている姿が浮かび上がる。ソロルははっとして起き上がるが、ニキヤの姿は消えてしまう。ソロルはまたしても思いが乱れ、ニキヤの姿を求めて部屋からまろび出る。

背景の闇の中に鋭く切り立った二つの山が黒くそびえている。空は夜だが青白い淡い光が広がり、雲がたなびいている。山の間から、白い衣装を着た「影」たちが、アラベスク・パンシェ(後ろに伸ばした片脚を更に上げる)をしながらゆっくりと下りてくる。

「影」の衣装はスカートの裾に銀糸の刺繍の入った白いチュチュで、頭に銀のティアラを戴いている。うなじからは細長い白いショールが2本垂れ下がり、「影」たちの両腕に羽衣のようにゆるく巻きついている。

予想はしていたが、新国立劇場バレエのコール・ドによる「影」の登場シーンは整然としていて静かで乱れがなく、ただただ美しいの一言に尽きた。

「影」たちが下りてくる山の坂は3段あり、床に下り立った「影」の列を含めると、「影」たちは全部で4列に重なって動いている。驚いたことに、その4列が前から見るとまっすぐな縦の列になっているのだった。それぞれが段差の異なるところでアラベスクをしているのにも関わらず。しかも1列ごとに体の向きを反対にしてアラベスクをしているから、まるで白い蘭の花が咲き乱れているかのようだった。あまりの美しさに呆然とするより他なかった。

「影」たちが全員、床に下り立ち、舞台の上に整然と並ぶ。そして、全員が一斉に片脚を頭の高さまでゆっくりと伸ばし、それから再びアラベスクをし、今度は床に片膝をついてもう片脚を前に伸ばす。列はまったく乱れず、動きは完璧に揃っている。後ろの列のほうから、上半身をかがめて上げながら、爪先立った両足を細かく動かして後ろに移動していく。全員が移動し終わったところで、再びみなが床に片膝をついてもう片脚を前に伸ばす。この瞬間、久々に何の理屈も解釈もなく、目で見たままの素直な感動が脳天を直撃した。

「影」たちがいったん姿を消した後、ソロルが駆け込んでくる。ソロルの目の前に再びニキヤの幻影が浮かび上がる。ソロルは激しいジャンプを繰り返してあたりを駆け回り、絶望したように膝をついてうなだれる。ニキヤが現れ、ソロルの背後からゆっくりと彼に近づく。ニキヤも白いチュチュを着ているが、羽衣(?)はつけていない。ソロルとニキヤは静かに踊り始める。

アダージョ。18日より20日のほうが断然すばらしかった。18日のザハロワとマトヴィエンコは一体なんだったのか、と奇妙に思うくらい異なる出来ばえだった。ただ、他には何の文句もありません、という前提で、不満をいくつか。一つには、ニキヤがソロルに片手を取られたまま、客席に背を向けて、真横に開脚ジャンプする動きが、ザハロワはどうも美しくない。イリーナ・ペレン(レニングラード国立バレエ)やシェスタコワ(←あっ、またこの名を出してしまった)やアナスタシア・コレゴワ(マリインスキー・バレエ)のように、流れるような、優美な形で跳べないものだろうか。

二つには、20日のアダージョで、ザハロワは18日の公演ではやらなかった、爪先立ったアラベスクでのバランス・キープを披露した。マトヴィエンコが手を離し、ザハロワは横向きのアラベスクの姿勢のまま、数秒にわたって静止した。微動だにしなかったので、客席がざわめいた。

だが、私はこれを褒めたいのではない。18日にやらなかったことを、20日でなぜやったのか、ということが分からない。18日は調子がよくなかったのならまだ許せる。しかし、20日の会場にNHKのテレビ・カメラが入っていたことが理由なら、「世界のプリマ・バレリーナ」がみみっちい真似をするんじゃねえ、と言いたい。映像として残るなら良いパフォーマンスをするが、残らないなら適当でいい、とでもいうのか?

三つには、ニキヤとソロルがいったん退場した後に、再び出てきて踊る2回目のアダージョ(?)で、ニキヤが両腕を広げて上半身を後ろにぐるり、と回してから回転するという動きがある。ザハロワの上半身の反らせ方は、どうも今ひとつ美しくなく、物足りなく感じた。

しかし、同じアダージョで、回転しながら移動していくニキヤをソロルが止め、その瞬間にニキヤが横向きのアラベスクをビシッと決めるところは、ザハロワもマトヴィエンコも音楽にバッチリ合わせて決めていて、本当にすばらしく、またカッコよかった。

20日はザハロワに限らず、ソロを踊るダンサーたちはみな18日よりも調子がよかったようだ。「影」による3つのヴァリエーション(第1ヴァリエーション:丸尾孝子;第2ヴァリエーション:川村真樹;第3ヴァリエーション:厚木三杏)も、20日のほうがすばらしかった。18日の公演では、西川貴子のガムザッティの踊りや、丸尾孝子、川村真樹、厚木三杏によるヴァリエーションを見て、いくらコール・ドが優れているとはいえ、「ラ・バヤデール」を上演するのは、新国立劇場バレエにはまだ無理なんではないか、と思った。

しかし、20日の公演では、特に第2ヴァリエーションを踊った川村真樹と、第3ヴァリエーションを踊った厚木三杏がすばらしかった。川村真樹は、18日の公演では振りをこなすのが精一杯にみえたけれど、20日の公演では音楽と戯れるかのように、充分にためをおいて余裕たっぷりに踊った。おお、ちゃんと音楽に乗って踊っている、と驚いた。厚木三杏もとてもすばらしく踊ったけれど、最後のほうで、前に上げた片脚をいったん折りたたむようにしてから、後ろに伸ばしてアラベスクに移る、一連の流れがあまりきれいではなかった。

ニキヤとソロルが長い白いヴェールの両端を持って踊る踊り(←プログラムによると、これがニキヤのヴァリエーションらしい)では、特にこれといって印象に残ったところはなかった。むしろ、細かいステップを踏みながら回転するザハロワの足元があまりきれいでなく、この人はやはり回転系が苦手なのか?と思った。

コーダ。コール・ドの動きがまたもよく揃っていて気持ちよかった。特に、群舞の列の前にいるヴァリエーションを踊った3人が、音楽に合わせて片脚を後ろに振り上げながら回転するのがリズミカルでよい。また、同時に後ろの群舞が脚を片方ずつ上げて、ステップを踏むのも音楽に合っていて小気味良い。

マトヴィエンコのコーダでのジャンプは凄まじかった。スピーディーで鋭い回転ジャンプで舞台を一周した。と思ったら、後にコーダで踊ったザハロワは更に凄まじかった。爪先立ちの両足を揃えて超高速で回転し、舞台を斜めにしゅしゅしゅしゅしゅ〜、と横断したのである。女性の体ながら、今年(2008年)の1月のレニングラード国立バレエ日本公演「ドン・キホーテ」で、バジル役のイーゴリ・コルプ(マリインスキー・バレエ、もちろん野郎)がやった、とても人間業とは思えない超高速回転に負けていなかった。

それだけでは終わらなかった。ザハロワは超高速回転をやってのけた後、間髪置かずに片脚を後ろに伸ばし、もう片足でリズムよくピョンピョンと跳びながら後ろに移動していった。まったくスタミナが落ちない。すごい女だ。

「影」たちの群舞とともに、ニキヤとソロルのこのパ・ド・ドゥが終わると、もう観客は大興奮、男女とりまぜてブラボー・コールの嵐となった。特に20日は18日よりも盛り上がった。ということは、やっぱり18日はあまりよくなかった、ということなのだろうか。それともテレビ局のカメラが入っていたから、「テレビ録画専用ブラボー隊」でもいたのだろうか。でも、20日の公演での「影の王国」(特にニキヤとソロルの踊り)は本当にすばらしかった。これは真実だと思う。

舞台が暗くなる。天井から森の木々の大きな葉が下りてきて舞台を覆う。やがて木々の葉が開くと、そこは暗闇の中。ソロルが迷い込んだように走ってくる。そのとき、闇の中に神殿が浮かび、その前に白い舞姫の衣装を着たニキヤが現れる。ニキヤは火の祭壇の前で片手を上げて神に誓う仕草をする。ソロルがニキヤへの愛を神に誓った仕草である。するとニキヤはソロルを睨みつけ、鋭い手つきでソロルを指さす。ソロルは苦しげな表情になって頭を抱える。

今度はオレンジ色の衣装を着たガムザッティも現れる。ガムザッティとニキヤは神殿の前で、互いの肩をつかんで激しく争う。それを見たソロルは耐え切れずに逃げ出そうとする。

これは何の情景なのか分からなかった。でも、同じ日に観た友人に教えてもらって、それでようやく分かった。つまりあれはソロルの心の中なのだ。現実のニキヤが自分を裏切ったソロルを責めたのではなく、あれはソロルの自責の念がああした形で現れたのである。ガムザッティとニキヤが争っているのも、ソロルの心の中で、ニキヤとガムザッティの2人がせめぎあい、ソロルは2人のうちどちらを愛するのか、まだ決めかねているのだ。本当に救いようのない男だ。

逃げ出そうとしたソロルの前にラジャが現れて立ちふさがる。これは現実の情景である。ラジャの背後にはガムザッティが付き従っている。ソロルは方向を変えて逃げ出そうとする。すると、今度はソロルの友人であるトロラグヴァが立ちふさがり、ソロルを押しとどめる。大僧正が現れ、ソロルはガムザッティと向き合わされる。ソロルの表情は冴えないが、大僧正に促されると、意外にあっさりとガムザッティと手をつなごうとする。優柔不断なソロルのキャラクターがここでも垣間見える。

その瞬間、鋭い光が空を走り、雷鳴が轟く。ラジャ、ガムザッティ、トロラグヴァ、大僧正、そしてソロルは恐れおののく。ふと、神殿の入り口の奥に、白い舞姫の衣装を着て、白いヴェールを頭からかぶったニキヤの姿が現れる。これはおそらくニキヤの亡霊が現れたのだろう。ソロルはニキヤの姿を見てうろたえる。

大きな雷鳴と鋭い稲妻が走る中、神殿が崩壊する。崩壊の様を描いた幕を用いるのではなく、また自動的に動くセットではなく、重たそうな神殿の瓦礫のセットがダンサーの近くにまともに落ちるので、危なそうではあったけれど、そのぶん非常に迫力のあるシーンとなった。

ソロルひとりを残し、他の人々はあわてふためいて逃げ出してしまう。ソロルは崩壊した神殿の前に倒れ伏す。神殿が崩れ落ちると、その奥に「影」たちとニキヤが現れたあの二つの黒い山が聳え立っている。白い衣装を着たニキヤが、長い白いヴェールを持って現れる。ソロルはよろよろと立ち上がると、ニキヤが持っているヴェールの端を辛うじてつかんで歩き出す。

ニキヤは「影」たちが現れた山をゆっくりとした足取りで登っていく。おそらくニキヤは死者の国に旅立とうとしているのだろう。ソロルもその後に続くが、ニキヤは後ろにいるソロルを見ようとはしない。ニキヤの表情は静かで無表情である。ソロルは山の中腹でついに力尽きて倒れてしまう。ニキヤはそれでもソロルのほうを振り返ろうとはしない。

ソロルはヴェールの端を持ったまま倒れる。ニキヤは前を見つめたまま歩いていく。これからどうなるのか、と思っていたら、その結末が示されないままに幕が閉じられた。ソロルはニキヤとともに死者の国に行けたのだろうか。それともニキヤだけが黄泉の国に旅立ったのか。その答えは観客それぞれの想像に任せられたまま、牧阿佐美版「ラ・バヤデール」は終わった。

(2008年5月22日)

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