Club Pelican

NOTE

英国ロイヤル・バレエ ミックスド・プログラム

“Electric Counterpoint”
“Afternoon of a Faun”
“Tzigane”
“A Month in the Country”

(2008年3月11日、ロイヤル・オペラ・ハウス、ロンドン)

今回のミックスド・プログラムは、クリストファー・ウィールドンの新作「エレクトリック・カウンターポイント(Electric Counterpoint)」、「牧神の午後(Afternoon of a Faun)」(ジェローム・ロビンス版)、「ツィガーヌ(Tzigane)」(ジョージ・バランシン振付)、「田園の出来事(A Month in the Country)」(フレデリック・アシュトン振付)という演目である。

指揮はバリー・ワーズワース(Barry Wordsworth)、演奏はロイヤル・オペラ・ハウス管弦楽団。

「エレクトリック・カウンターポイント」、音楽はバッハの「プレリュードとフーガ」(BWV853)、「コラール前奏曲」(BWV639)、「コラール前奏曲」(BWV727)とSteve Reichの「エレクトリック・カウンターポイント」を用いている。振付はクリストファー・ウィールドン(Christopher Wheeldon)、デザインはJean-Marc Puissant、照明はNatasha Chivers、映像はマイケル・ナン(Michael Nunn)とウィリアム・トレヴィット(Trevitt)、音声はMukul Patel、ギター独奏はJames Woodrow、ピアノ独奏はRobert Clarkによる。この作品は今回が初演である。上演時間は31分。

ダンサーはディアドリ・チャップマン(Deidre Chapman、ファースト・ソリスト)、マーティン・ハーヴェイ(Martin Harvey、ファースト・ソリスト)、リカルド・セルヴェラ(Ricardo Cervera、ファースト・ソリスト)、ラウラ・モレラ(Laura Morera、プリンシパル)の4人である。ダンサーたちは最初はそれぞれがソロを踊り、次に男女が組になって踊る。

「エレクトリック・カウンターポイント」は、演出がずいぶんと変わっていた。舞台に立体的な白い壁がいくつも重なって立っている。その壁は実はスクリーンになっており、その白いスクリーンに出演するダンサーたちの映像が映し出される。映像の中のダンサーたちは踊ったり、また長いドレスを着て歩いたりする。ダンサーたちは自分自身の映像と相対して、時には映像の自分と連動するように、時には自分の映像を背景にして独自に踊る。

あと面白かったのが、出演するダンサーたちの舞台に立つことや踊ることについての考えが、ダンサーたち本人の肉声で流されていたことだった。

振付は基本的にコンテンポラリーである。はっきり言って、お約束でありきたりな振付のコンテンポラリー作品だったと思う。あるダンサーの踊りにはコンテンポラリーの動きが多く、またあるダンサーの踊りにはクラシックの動きが多かったりするのだが、基本的にはたとえばウィリアム・フォーサイスの90年代の作品によく似ていた。

えらそうなことを言って申し訳ないのだけれど、振付的には特に面白くなかった。最新の技術を用いたであろう、映像や音声による演出は、確かに斬新だったし洗練されていた。でもそれの何がいいのか、残念ながら私には理解できない。こうした奇抜な演出を用いる場合、ダンサーたちの踊りと演出とが一緒になって、上手に絡み合って、相乗効果によって更なる何かを作り上げなければならないと私は思う。でもそこまでの領域に達した作品には見えなかった。

また、このようなコンテンポラリー作品は、踊れる人が踊ればものすごいが、踊れない人が踊るとひどくつまらない、という出来ばえが二極に分かれやすい踊りだと思う。マーティン・ハーヴェイとディアドリ・チャップマンは踊れていなかった。最もすばらしかったのはリカルド・セルヴェラである。ラウラ・モレラも踊れていた。

リカルド・セルヴェラは、ロイヤル・バレエが日本で「マノン」を上演したときにレスコーを踊った。そのときはあまり印象に残らなかったのだけれど、「エレクトリック・カウンターポイント」での踊りはキレがあってしなやかですばらしかったし、一方、後日に観た「眠れる森の美女」第三幕でのパ・ド・トロワでの踊りはクラシカルな端正さがあってよかった。オール・ラウンダーのダンサーとして、先が楽しみなダンサーだと思った。

「エレクトリック・カウンターポイント」に話を戻すと、たぶん、こうした作品は、上演されることそれ自体に意義があるのだろう。この「エレクトリック・カウンターポイント」は、おそらく100年後には残ってない作品だと思う。しかし、イギリスを代表するバレエ団であるコヴェント・ガーデンのロイヤル・バレエの責務の中には、「新しいもの」を創造することも含まれているだろう。常に実験を続けていくという点では、それなりの価値があるのかもしれない。

「牧神の午後」、音楽はクロード・ドビュッシー(「牧神の午後への前奏曲」)、振付はジェローム・ロビンス(Jerome Robbins)、衣装デザインはIrene Sharaff、装置と照明はJean Rosenthal、照明復元はLes Dickert、ステイジングはJock Sotoによる。この作品は1953年にニューヨーク・シティ・バレエによって初演された。上演時間は11分。

キャストはイヴァン・プトロフ(Ivan Putrov、プリンシパル)とアレッサンドラ・アンセネッリ(Alexandra Ansanelli、プリンシパル)。

この作品はつい先月(2008年2月)にウラジーミル・マラーホフと ポリーナ・セミオノワが踊った舞台を観たばかりで(そのときの感想は ここ )、これは本当に奇遇なことだった。

よって、同じ作品でもダンサーによってこんなにも雰囲気が異なるものか、と興味深い思いで観た。ウラジーミル・マラーホフと ポリーナ・セミオノワが踊った「牧神の午後」は、「清く正しく美しく」というか、少年と少女の淡い恋の芽生えを思わせるものだった。

対して、プトロフとアンセネッリによるロビンス版「牧神の午後」は、ニジンスキー版「牧神の午後」をかなり強く想起させた。ロビンス版の設定はおそらく、「バレエのレッスン・スタジオで練習をする少年と少女」なのだろうけど、プトロフとアンセネッリによるパフォーマンスは、ニジンスキー版と同じような、野性的なエロティシズムを強く漂わせていた。

プトロフは少年のような風貌を持ち、華奢な体つきをしているが、それでもどことなく動物的な荒々しい感じがした。思春期の少年が持つ不器用さ、危なっかしさ、乱暴さを強く感じさせ、このような野性的な雰囲気がニジンスキー版の牧神(具体的にはシャルル・ジュドの踊った牧神)と重なったのである。

プトロフが客席(つまり全面張りの鏡)を見つめていると、そこにアンセネッリ扮する少女が入ってくる。セミオノワの少女が清らかであどけない雰囲気を強く持っていたのに対して、アンセネッリは自分の若さと美しさを存分に謳歌する、自信に満ちあふれた少女という感じだった。

アンセネッリがスタジオに入ってくるとき、彼女は鏡(客席)を見つめながら微笑を浮かべ、両手を首の後ろに当てて長い黒髪をかすかに持ち上げ、足を後ろに蹴り上げるようにして歩いてくる。この気取ったような歩き方は、なぜかニジンスキー版の壁画のようなニンフを思わせた。

プトロフのサポートやリフトが非常にすばらしく、アンセネッリをすごい勢いで抱え上げて高く振り回すのが流麗で美しかった。アレッサンドラ・アンセネッリは色が白く、瞳は大きく、背が高くて、非常に美しい容姿を持っている。演技力もすばらしい。この夏(2008年7月)の日本公演には彼女も来るのかな?非常に魅力的なダンサーだと思う。

「ツィガーヌ」は、音楽はモーリス・ラヴェルの同名曲を用い、振付はジョージ・バランシン、衣装デザインはHolly Hynes、照明はRussell Sandifer、照明復元はJohn Charlton、ステイジングはスザンヌ・ファレル(Suzanne Farrell)による。上演時間は11分。

そうそう、前の「牧神の午後」でもそうだったが、生オーケストラで、しかも奏者が優れた人たちだと、音楽が非常にすばらしい。ちゃんとオーケストラの演奏になってるし、音は外さないし、踊りとあいまってつい聞き惚れてしまう。ちなみにヴァイオリン独奏はSergey Levitin。

主なダンサーはタマラ・ロホ(Tamara Rojo、プリンシパル)とカルロス・アコスタ(Carlos Acosta、プリンシパル・ゲスト・アーティスト)、そして8人の群舞(男性4人、女性4人)だった。もっとも、群舞は最後のほうでちょろっと出てくるだけで、ほとんどロホとアコスタの踊りがメインである。

最初に、東欧の民族衣装を思わせる、ブラウスに胴着、そしてジプシーを思わせる色とりどりのリボンが垂れ下がった派手なスカートという衣装を着たロホが、ヴァイオリンの独奏に乗って、リズム感のある、切れ味のよい、威勢のいい、観ていて気持ちがスカッとする動きで踊った。ハンガリーのジプシーの踊りという設定だそうである。

アコスタもダイナミックなジャンプ、回転、超高速シェネを次々と繰り広げたが、ロホもアコスタに負けない超高速シェネで回って移動する。ロホとアコスタが組んで踊るときも、鋭くて、速くて、流れるようで観ていて気分がよかった。男女の恋の駆け引きのような踊りで、途中でロホがしなを作ってコミカルに踊り、これがヴァイオリンの独奏によく合っていた。全体的に非常に爽快な、また壮快な踊りだった。

この「ツィガーヌ」の振付、特にロホが踊った女性ダンサーのソロ部分の振付は変わっていた。クラシックでもない、モダンでもない、クラシックでもある、モダンでもある、そんな振付だった。東欧の民族舞踊風のポーズや動きもあり、バランシンはいったい、どれほどの振付の引き出しを持っていた人だったのか、と感嘆した。

「田園の出来事」、原作はツルゲーネフの同名の戯曲、音楽はフレデリック・ショパン、編曲はジョン・ランチベリー、振付はフレデリック・アシュトン、デザインはJulia Trevelyan Oman、照明はWilliam Bundy、照明復元はJohn Charlton、ステイジングはアンソニー・ダウエル、Grant Coyleによる。ピアノ独奏はKate Shipway。上演時間は44分。

主なキャスト。ナターリャ・ペトロヴナ:ゼナイダ・ヤノウスキー(Zenaida Yanowsky、プリンシパル);イスラエフ(ナターリャの夫):ウィリアム・タケット(William Tuckett);コーリャ(ナターリャの息子):Ludovic Ondiviela(ファースト・アーティスト)、ヴェラ(ナターリャの養女):Bethany Keating(ソリスト);

ラキティン(ナターリャの崇拝者でベリヤエフの友人):ギャリー・エイヴィス(Gary Avis、プリンシパル・キャラクター・アーティスト);カーチャ(メイド):Vanessa Palmer;ベリヤエフ(コーリャの家庭教師):ルパート・ペネファーザー(Rupert Pennefather、ファースト・ソリスト)。

この作品は数年前にシルヴィ・ギエムの主演で観たことがあった(感想は ここ )。マラーホフ/セミオノワのロビンス版「牧神の午後」と、プトロフ/アンセネッリのロビンス版「牧神の午後」とは雰囲気がかなり異なったが、ギエムが自身でプロデュースした公演の「田園の出来事」と、今回観たロイヤル・バレエの「田園の出来事」も雰囲気がまったく異なっていた。

ギエム主演の「田園の出来事」とどう違うかというと、ロイヤル・バレエの「田園の出来事」にはしょっちゅうお笑いが入っていたのだった。もちろん、ラストはほろ苦い悲劇には変わりない。しかし、観客はしょっちゅうクスクス笑っていた。ギエム主演の「田園の出来事」では、上演中に笑いが入るなんてなかった。ギエムも観客も終始一貫して大真面目だったように思う。

ストーリーは、ベリヤエフという魅力的な青年が、ナターリャの息子であるコーリャの家庭教師として現れる。そのとたん、女主人のナターリャからその養女のヴェラ、果てはメイドのカーチャに至るまで、みながベリヤエフに恋して夢中になってしまい、彼をめぐって女たちの家庭内紛争が起こる。それを見かねたベリヤエフの友人でナターリャの熱心な求愛者でもあるラキティンが、ベリヤエフを説得してともに去り、ナターリャは泣きながら立ちつくして幕となる。

ダンサーたちが意識してそのように演技していたのかどうかは分からないが(たぶんわざとだと思うけれど)、ベリヤエフをめぐって女性たちが牽制しあって火花を散らすところがまず笑えた。それは、たとえばベリヤエフがはじめて現れた瞬間に、ナターリャをはじめとする女性たち全員の視線がベリヤエフに釘付けになり、場の空気が一瞬のあいだ凍りつく。大仰ではなく、あくまでさりげないのだけれど、そのなんとなくぎこちない「間」が微妙に滑稽でおかしい。

最も魅力的だったのは、ゼナイダ・ヤノウスキー演ずる女主人公、ナターリャの生き生きとした人物像だった。ナターリャは優しさ、気品、気まぐれ、ずるさ、感情の起伏の激しさ、情熱、すべてを兼ね備えた女性で、ベリヤエフやラキティンの求愛を巧妙にじらして弄び、突き放したかと思うと今度は逆にすがりついて、その一方で、ちゃっかりと夫の腕に抱きついて甘え、ベリヤエフへの恋心がバレそうになると、またしても夫にまとわりついて巧みに言いくるめてしまう。

ヤノウスキーはそのつど真剣に夫以外の男性に恋はするけれど、破滅までには至らない冷静な分別(と計算高さ)を持っており、それでもベリヤエフが去ると、本気で悲しくなって泣き崩れてしまうという、調子がいいけどどこか憎めない貴婦人、ナターリャを実に魅力的に演じていた。

ゼナイダ・ヤノウスキーは端正な美しい顔立ちと、ほっそりした長い首を持っている。後日に観た「シルヴィア」でも見とれっぱなしだったが、ヤノウスキーの頤から首元、襟足から肩や背中にかけての線は、まさにギリシャ彫刻の女神像のような美しさである。

ヤノウスキーはアシュトンのせわしないステップもよくこなしていた。ベリヤエフ役のルパート・ペネファーザーもすばらしかった。びっくりするほどの長身で(だからヤノウスキーと組んで踊ることができる)、肩幅が広くて足元に向かってしゅっと締まった、痩せた体つきをしている。いかにも長身白皙という感じである。またハンサムな顔立ちをしており、ベリヤエフのあの衣装(ロシア民族衣装風のフリルつき水色ブラウスに淡い黄色のチェック柄のズボン)がよく似合う。

ペネファーザーは踊りもしっかりしていて、また優雅だった。ベリヤエフの踊りの振付はかなり変わっている。しかし、ペネファーザーは常に余裕を持って踊っていた。ナターリャとベリヤエフのパ・ド・ドゥも、ゆったりしていてきれいでありながら、実はアシュトン独特の複雑な振付で構成された踊りだったが、ヤノウスキーとペネファーザーの踊りはスムーズですばらしかった。

もうひとつ笑えたのは、ベリヤエフの八方美人さだった。観客の苦笑を買っていたのは、ナターリャよりはベリヤエフだったかも。ベリヤエフはナターリャ、ヴェラ、カーチャのすべての女性の求愛を受け入れてしまうのである。ベリヤエフが次から次へと異なる女性と踊るたびに、客席からは「あ〜あ、あははは」的な、ため息混じりの笑いが漏れていた。

ヴェラが抱き合うナターリャとベリヤエフを見つけて、嫉妬のあまりに大声を上げて(フリだけど)みなを呼び集め、ナターリャとベリヤエフとの仲を暴露するシーンでは、観客は「おいおい」という感じで笑っていて、ナターリャが調子よく立ち振る舞ってその場をごまかし、夫のイスラエフが場の雰囲気が緊迫しているにも関わらず、それでもなーんにも気づいていないに至っては、私も思わず噴き出してしまった。ギエムの公演では緊張して真面目に観ていたが、このシーンは本来、笑ってもいいシーンなのだろう。

私はヤノウスキーの演じるナターリャを観ながら、「こういう女っていいよねえ、しっかりしてるよねえ」と思い、ペネファーザーの演じるベリヤエフを観ながら、「こーいう男っているよなあ」と思っていた。男性の観客たちは、「この女、ちゃっかりしてるな」、「しょーがないヤツだけど、男ってこういうものなんだよね〜」とでも思っていたのかもしれない。

他のキャストもよかった。ナターリャの鈍くてお人好しな夫、イスラエフ役のウィリアム・タケット、すべてを冷静に観察するラキティン役のエイヴィスがいい味出していた。夫のイスラエフはいわゆる「空気の読めない」人物で、最後まで何ひとつ気づかない様はまるでコントのようで、処々で観客の笑いを誘っていた。

また、コーリャを踊ったLudovic Ondivieraもすばらしかった。コーリャといえばトリッキーな振付の「毬つき踊り」であるが、Ondivieraはほとんどミスがなかった。でもほんとに子どもみたいに小柄な男性ダンサーだったので、他にどんな役を踊れるんだろう、とちょっと心配に感じた。

ロンドンに着いたその日の観劇ということで、終演間近にはもうヘトヘトになっていたけど、「田園の出来事」は気軽に楽しめた。人間の仕方がない面、理屈どおりにはいかない面、それがもたらす矛盾をしっかりと描いていて、またラストは軽めの悲劇ながらも、水彩の絵画を思わせるような、すがすがしい透明感のある作品だった。

(2008年6月30日)

このページのトップにもどる