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NOTE

小林紀子バレエ・シアター第88回公演
「ソワレ・ミュージカル」・「ジゼル」

(2007年11月17日、ゆうぽうとホール)

今回の公演は二本立てで、ケネス・マクミラン振付「ソワレ・ミュージカル」とデレク・ディーン版「ジゼル」が上演された。「ジゼル」だけでは出演できるダンサーの数が限られてしまうので(特に男性ダンサー)、より多くの団員が出演できるように、というバレエ団側の配慮だったのかもしれない。

「ソワレ・ミュージカル」は20分くらいの短い作品で、小林紀子バレエ・シアターの2005年の公演でも観たことがあった。この作品についてと、そのときの感想は こちら をご覧下さい。

今回の公演の演奏は東京ニューフィルハーモニック管弦楽団、指揮は渡辺一正による。

私は劇場での作法うんぬんを偉そうに言いたくないけれど、それでも舞台に立つ側と演奏する側と観る側がそれを守ることによって、その公演を円滑に進め、また盛り上げるようなマナーを守るのは大事なことだと思っている。今回の公演ではおかしなことが起こった。

それは指揮者がオーケストラ・ピットに現れたときの拍手だった。オーケストラ・ピットに指揮者が登場したときの拍手は、オーケストラ・ピット内にいる人の合図(拍手)を待って一斉に始めるべきで、指揮者が現れたかどうかも分からないのに、勝手に拍手を始めるべきではないと思う。

それが、「ソワレ・ミュージカル」、そして「ジゼル」第二幕が始まる前に、フライングで拍手を始めた観客たち(2回とも1階中段左サイド席のあたりから聞こえたので、両方ともたぶん同じ人々だろう)がいた。なぜ彼らがそんなことをしたのかは分からない。客席のライトが消えたときに起こったので、ライトが消えれば拍手するものと思っていた、ということだろうか。

フライングの拍手はすぐに止んだが、そのおかげで、その後、本当に指揮者が登場したことを告げる合図の拍手に、観客がついていかなかった。シーンとした中を、指揮者は指揮台まで進んで、指揮者がオーケストラ・ピットの縁から顔を出して観客に挨拶してから、ようやく観客は拍手した。それでもまばらなものだった。これはまったく指揮者に失礼というもので、気の毒に思った。

観劇の作法というのは慣れないと分からないものなので、分からないのなら、分かっている観客の後についていけばいいのだ。たとえば踊りの見せ場などでは、私はどこで拍手をすればいいのか分からないことが多いから、いつも他の観客の真似をしている。

キャスト。オントレ:大森結城、冨川祐樹、大和雅美、奥田慎也、難波美保、中尾充宏、中村麻弥、佐藤禎徳、駒形祥子、澤田展生、小野絢子、福田圭吾、真野琴絵、八幡顕光、楠元郁子、高畑きずな、宮澤芽実、斉木眞耶子、小野朝子、松居聖子、金子緑、萱嶋みゆき、志村美江子、荒木恵理、藤田奏子、倉持志保里;

パ・ド・ドゥ:大森結城、冨川祐樹;パ・ド・カトル:佐々木淳史、冨川直樹、福田圭吾、八幡顕光;ヴァリエーション:大森結城;フィナーレ:以上全員。

正直なところ、あんまりよくなかった。基本的に振付が難しすぎるんだと思う。

パ・ド・ドゥはゆっくりな振付なのだけど、変わった複雑な形で手を組み合わせたまま女性が回転するとか、またそのままポワントで脚を後ろに高く上げるとか、よ〜く見るとすごい難しそうだった。また、このパ・ド・ドゥを踊った大森結城と冨川祐樹はお互いの背丈のバランスがよくなくて、そのために踊りがあまりスムーズにいっていなかった。

大森結城のほうが背が高く大柄で、冨川祐樹は彼女より背が低くて華奢な体型をしているものだから、男性が女性をリフトしたりサポートしたりするところでは、冨川祐樹がグラついたりフラフラしていて、なんとか支えている、持ち上げているといった感じがあり、見ていてハラハラした。

男性4人によるパ・ド・カトルでは難しい技が複合されていて、かなり大変そうだった。基本的に全員が一斉に、まだ順番に同じ振りを踊る。最初はなんとか全員が合わせていたけど、徐々に個人の技量の差が見えてきて、また踊りが揃わなくなってきていた。

ただ、大森結城によるヴァリエーションはとてもきれいだった。

次は真打の「ジゼル」。小林紀子バレエ・シアターというのは、全幕物を上演できるかできないかの境界線上にあるレベルのカンパニーだと思う。実際、系列学校・お教室発表会的な年末の「くるみ割り人形」以外、古典の全幕物はめったに(というかまずほとんど)上演しない。そういうカンパニーにしては、今回の「ジゼル」公演は、よくあそこまでやれたものだと感服した。

「ジゼル」、改訂振付と演出はデレク・ディーン(Derek Deane)、舞台装置と衣装はピーター・ファーマーによる。

デレク・ディーンはロイヤル・バレエの元プリンシパルで、現役のダンサーだったころから振付活動を開始した。1989年に退団した後、1993年にイングリッシュ・ナショナル・バレエの芸術監督に就任し、同バレエ団のために古典の改訂振付作品や新作を振り付け、同時にロイヤル・バレエをはじめとする他のバレエ団にも作品を提供していった。2001年にイングリッシュ・ナショナル・バレエの芸術監督を退任し、以降はフリーランスの振付家として活動している。

ディーンはイングリッシュ・ナショナル・バレエ芸術監督在任時の1994年、同バレエ団のために「ジゼル」を改訂振付・演出した。今回、小林紀子バレエ・シアターが上演した「ジゼル」は、2002年にディーンが小林紀子バレエ・シアターのために演出・振付したものである。

第一幕のキャスト。ジゼル:島添亮子;アルブレヒト:ロバート・テューズリー(Robert Tewsley);ヒラリオン:中尾充宏;ベルタ:板橋綾子;バチルド:楠元郁子;クールランド大公:田名部正治;狩猟長:小笠原一真;ウィルフリード:西岡正弘;

パ・ド・シス:高橋怜子、駒形祥子、小野絢子、中村誠、冨川祐樹、富川直樹;ジゼルの友だち:大和雅美、難波美保、中村麻弥、小野朝子、志村美江子、真野琴絵;

ペザント:宮澤芽実、松居聖子、金子緑、萱嶋みゆき、荒木恵理、藤田奏子、倉持志保里、秦信世、奥田慎也、井口裕之、佐々木淳史、佐藤禎徳、澤田展生、柄本武尊、山崎健吾、アンダーシュ・ハンマル;

貴族:大森結城(←踊らない役に大森さんを駆り出すところがなんとも・・・)、藤下いづみ、赤池美恵子、斉木眞耶子、村上弘子、石井四郎、塩月照美、保井賢、小郷隆史、中村匡亮、野々山祐輔;従者:福田圭吾、八幡顕光(←これも同前)。

舞台装置のデザインは、第一幕、第二幕ともにとても美しかった。装置・衣装ともにオーストラリアン・バレエからのレンタルだそう。木々が両脇に聳え立ち、枝が柳のように垂れ下がり、また枯れかかった茶色の葉が霞のようにけぶっている。

序曲の途中で幕が開き、数名の村人たちが現れて、陽気に笑いながら(プログラムによると)葡萄畑に向かっていく。労働生産と品種改良に日々邁進しているのかもしれない。それからヒラリオンが一人で現れる。

ヒラリオン役の中尾充宏は、髭ボーボーのお約束的に粗野なヒラリオンではなく、髪の毛を自然に後ろになでつけ、ヒゲもないさわやか系ヒラリオンだった。ヒラリオンはジゼルの家を見つめ、明るい黄色(だったよーな・・・)の花束をジゼルの玄関口にそっと置く。ジゼルの母親であるベルタが戸口から姿を見せる。ヒラリオンは獲物の野鳥をベルタに手渡す。ベルタは家に戻りかけたところで、ヒラリオンが置いた花束を見つけ、ヒラリオンのほうを振り返って微笑む。ベルタはヒラリオンと、そしてヒラリオンがジゼルに好意を持っていることを好ましく思っているらしい。

ヒラリオンとベルタがいなくなると、アルブレヒト(ロバート・テューズリー)と侍従のウィルフリード(西岡正弘)が現れる。アルブレヒトはテンション高くはしゃぎながら、村人の格好をした自分を「どうだ、完ペキだろ?」といわんばかりにウィルフリードに見せる。だがウィルフリードはアルブレヒトがまだ剣を腰に下げていることを指摘する。アルブレヒトは笑いながら「そうだった」というふうに、剣を外してウィルフリードに渡す。

無邪気だけど能天気で軽薄なアルブレヒト像を瞬時に表現してみせたロバート・テューズリーの演技がよかった。あらまー、この人はこんなにはっきりした表情ができるのね〜、と感心した。いつも何を考えているのか分からない能面顔で踊っている、というイメージがあったので。

ジゼルを呼び出して物陰に隠れたアルブレヒトが、ジゼルをからかって何度もキスの音を響かせる。テューズリーがユーモラスな仕草で投げキッスするのを観た子どもの観客が、クスリ、と笑っていた。これが素直な反応だよな。やっぱり日本人は、無反応になるように教育されて大人になるのね〜、と何の脈絡もないが思った。

ジゼル役の島添亮子は小柄でかわいらしい容貌をしているので、雰囲気がジゼル役にはぴったりだった。だけど、演技そのものは抑え目で、明るく天真爛漫なジゼルというよりは、内気で引っ込み思案なジゼルという感じだった。これはよい選択だったと思う。島添亮子が大仰に演技したら、ブリの甘露煮ジゼルになってしまっていただろう。登場したときの踊りでは、飛び跳ねた後に存分にためを置きながら、後ろに片脚を上げてゆっくり伸ばす。またアルブレヒトとの踊りは柔らかくしなやかで、軽くてふんわりとしていた。いつもながら、爪先や指先まで丁寧な踊りだった。

アルブレヒトが一方的にアプローチして、ためらっていたジゼルがそれでようやく心を開く、という印象だった。でも、アルブレヒトとうちとけたジゼルは、それでもあんまり笑わない。楽しいはずなのになんとなく陰があるというか、はかなげで薄幸そうな雰囲気が漂っていて、後の悲劇を予想させた。

村人、ヒラリオン、ベルタ、(村人の格好をした)アルブレヒト、ウィルフリード、ジゼルの衣装はみな淡い茶色、えんじ色、黄色を基調としていて、秋を表現した茶色っぽい舞台装置とあいまって非常に美しかった。いかにもピーター・ファーマーらしい、品の良い衣装である。

アルブレヒトとヒラリオンとがケンカになるシーンでの、テューズリーの演技も光っていた。つい貴族のクセで腰にあるはずの剣に手をかけようとして、従者のウィルフリードに事前に注意されて外していたことに気づき、ああ、そうだったな、という余裕の笑みを浮かべて、両手を仕方なさげに広げる仕草と苦笑する表情がすっごい魅力的だった。テューズリーの演技を魅力的だ、と感じたことにも新鮮な思いがした。

村人も合流してジゼルとアルブレヒトが踊っていると、ベルタがジゼルを探して現れる。村人たちはジゼルを庇って、ジゼルはアルブレヒトの陰に姿を隠す。だが、ベルタはジゼルを見つけ出して家に連れ戻そうとする。ベルタのヒラリオンに対する態度と、アルブレヒトに対する態度の違いが面白かった。ベルタはあからさまにアルブレヒトを怪しんでいて、娘を素性の知れない男から引き離す。

ここで、ベルタによる「恋が叶わずに死んだ女がウィリとなって夜の森に出没し、通りかかった男たちをつかまえ、死ぬまで踊らせて殺す」マイムがあった。かなり改変されていたとはいえ、このマイムは現在のほとんどの「ジゼル」では削除されていて、ピーター・ライト版にもなかったように覚えているので、今では目にするのがとても珍しいマイムとなっている。デレク・ディーンは残したんですね。(ついでにいうと、熊川哲也版にもある)。

ベルタは「夜になるとウィリたちが現れる」というところで、村人の男たちを鋭い手つきで次々と指さし、「男たちをつかまえて殺す」と脅す。ベルタに指さされた男たちが、その都度ギクッとしたようにすくみあがっていたのが面白かった。(みな後ろめたい過去があるということか!?)

狩猟の途中の貴族様ご一行が現れる。貴族たちも茶色や渋みのあるオレンジ色を基調とした衣装を身に着けていた。ただ、アルブレヒトの婚約者、バチルドのドレスだけはオフホワイトで、えらく目立っていた。これはわざとには違いないけど、いったい何の意図なのでしょうか。ジゼルが見惚れてしまうようなドレスでなくてはならないからか、それとも花嫁衣裳を彷彿とさせる白だからか?

そのバチルド役の楠元郁子の演技が、まさにワガママで気位の高いお姫さまという感じでグッジョブ!だった。

まず、膝を折って挨拶する村人たちを一瞥し、「何この汚い連中」といわんばかりに投げかけた視線の冷たさ、それから「疲れたから座りた〜い!」と言って、村人に粗末な木の椅子を差し出させ、それでも表面が汚れているというので嫌がり、村人の娘にスカートで椅子を拭かせてからやっと座るという権高さ、「喉が渇いたから何か飲みた〜い」と言って、机と椅子と飲み物を持ってこさせ、ジゼルにドレスを羨ましがられていい気になり、ジゼルに首飾りをくれてやって、それでもジゼルのお礼のキスはさっとよけるという傲慢ぶり、実に見事なバチルドであった。

村人たちはクールランド大公とバチルドの前で踊りを披露する。村人たちによるパ・ド・シスでの、高橋怜子の踊りがすばらしかった。彼女の踊りや雰囲気は、なんだか島添亮子と感じが似ている。

島添亮子は情緒的な踊りが得意なタイプであって、派手なテクニックで勝負するタイプではないと思う。ジゼルのヴァリエーションでは、回転するときに足元がブレたり、音楽に遅れたりしていて、やや危なっかしかった。でも決してあたふたせず、美しい緩急をつけながら踊って巧みに追いついてしまう。

ディーン版の演出は細かい。ジゼルはバチルドからもらった豪華な首飾りを、嬉しそうにアルブレヒトに見せる。アルブレヒトはその首飾りを見て驚愕する。ジゼルが自分の婚約者であるバチルドと会ってしまったことが分かって動揺したのである。

「ジゼル」の他の版に比べると、第一幕でアルブレヒトが踊る場面が多いように思った。これはうまいなあ、と思ったのが、第一幕の最後、狂ったジゼルがアルブレヒトとの思い出を、一人でふらふらと踊りながら再現しますよね。

他の版では、これはどの場面の踊りの再現なのか分からない部分があるけど、このディーン版では、狂ったジゼルが何を思い出して踊っているのか最後に分かるように、途中ですべての踊りを挿入してあった。それで、第一幕の最後のシーンで、あ、ジゼルはアルブレヒトとのあの踊りを再現しているんだな、とはっきり分かった。

ヒラリオンが現れてアルブレヒトの正体を暴露するシーン、ヒラリオン役の中尾充宏の演技がよかった。乱暴で強引な感じはなく、普通の浅はかな若者という感じで、ただジゼルのことが好きで好きでたまらず、ひたすら恋敵(アルブレヒト)に勝ちたいがために、ジゼルが傷つくのではないか、などと深く考えずにアルブレヒトの正体をばらして、単純に「やったぞ!」と思った瞬間、なんとジゼルが発狂して死んでしまった。

好きな女の子に振り向いてもらいたいために必死な気持ちでやったことで、皮肉にもその女の子が死んでしまって後悔と悲しみにくれる、そういう雰囲気が自然でよかったと思う。ヒラリオン=粗野で強引でヒゲ面の熊男、というステレオタイプから外れていてすばらしかった。

ヒラリオンに正体をバラされた後の、テューズリーのアルブレヒトの演技も、自分のこめかみを叩いて、頭がどうかしてたんです、冗談ですよ、と笑ってごまかし、平然とした表情で自然な仕草でバチルドの手をとって口づけする、というもので、中途半端に懊悩しないアルブレヒトだった。無邪気な遊びで村娘と恋人ごっこをすることと、貴族仲間との付き合いとが両立できて、スイッチのように切り替え可能なんですね。これほどのダメ男でないと、ジゼルは死にません。

ショックを受けて地面に倒れこんだジゼルの後ろにベルタがかがみ込み、ジゼルを気づかう演技をしながらジゼルの髪留めを外す段取りだったらしいけど、今日の公演ではそれがうまくいかなかった。結果、片方の鬢だけがだらりと下がって、きっちりとまとめていた髪が崩れて、壊れかけの筆のようにぶさぶさになった。でもこれはこれで迫力があった。

ジゼルは混乱してあたりを駆け回り、バチルドにぶつかって、バチルドは地面に尻餅をついてしまう。こういう演出ははじめて見た。貴族たちがその場を去るときには、バチルドが憤然とした様子で足早に歩いていく。バチルド役の楠元郁子の演技がよくて、去るバチルドの背中に怒りがにじみ出ていました。バチルドはジゼルに嫉妬したとか、アルブレヒトが自分以外の女に手を出したことに怒ったとかではなく、誇り高いバチルドは、ただ醜い男女の修羅場に自分が巻き込まれたことが許せなかったのだろう。久しぶりに存在感のあるバチルドを観ることができた。

島添亮子の狂乱したジゼルの演技はやはり抑えられたもので、基本的に無表情で踊ったり演技したりする。発狂する前とあまり雰囲気が変わらず、傷つきやすくて内気な少女が、信じていた恋人に騙されたと分かったらこうなるだろうな、とすんなり納得できるものだった。

ジゼルが狂死する(どうやらディーン版では心臓発作が原因のよう)寸前、とつぜん稲妻が光って、その瞬間に、舞台の奥を白いヴェールを頭からかぶった2人のウィリがさっと横切る。ジゼルの後の運命をはっきりと予告していて、なかなか面白いなあと思った。

アルブレヒトは村人たちから一斉に非難される。村人たちも姿を消し、最後にはただ死んだジゼルと、娘の体を抱きしめるベルタだけが残されて幕となる。

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第二幕のキャスト(第一幕と重複する役は除外)。村人(ベルタの付き添い):宮崎由衣子、大門彩美;ミルタ:高畑きずな;モイナ:大和雅美;ズルマ:高橋怜子;

ウィリ:楠元郁子、難波美保、中村麻弥、宮澤芽実、斉木眞耶子、駒形祥子、小野朝子、松居聖子、金子緑、萱嶋みゆき、志村美江子、荒木恵理、藤田奏子、倉持志保里、村上弘子、真野琴江、秦信世、瀬戸桃子。

幕が開くと、そこは夜の森である。舞台の左奥には粗末な木造りの小さな十字型の墓がある。泣きむせぶベルタが村の女性2人に支えられながらやって来る。後ろには沈んだ顔のヒラリオンが続く。ベルタは小さな墓の前で泣き崩れる。それはジゼルの墓である。突然、白い稲妻が光る。ヒラリオンはギクッとした様子で顔を上げ、ベルタにもう帰るよう促す。ベルタは嫌がるが、ほとんど村の女性に引きずられるようにして帰っていく。

なぜかヒラリオンがその場に残る。夜の森に男が行くのはヤバいんじゃなかったっけ?ホラー映画とかでお約束の、主人公がわざわざ危険な場所に足を踏み入れる不自然な展開と似ているな、と思っていると、またもや稲妻が何度も光り、舞台の奥に白いヴェールをかぶった女の影が浮かぶ。ヒラリオンは驚いて逃げ出す。

白いヴェールをかぶった女が前に出てくる。ウィリの女王、ミルタである。ミルタ役はなんと高畑きずなだった。開演前にプログラムを見たときには、あの童顔でどーするんだ、と思ったけど、目の周りを黒く塗ったマリリン・マンソン風のメイクでかなり怖かった。ところで、ミルタ役のダンサーは絶対に踊りを失敗してはいけない。高畑きずなはよくやった。踊りの途中や最後でポーズを決めて静止するとき、腕の動きはビシッ!と鋭くて、形も直線的でカッコよかった。丸いかわいい顔立ちは隠せないが、威圧感も怖さもあるミルタとなった。

今回の公演の舞台セットは、最近のカネに物を言わせた豪勢なデジタル(?)装置に比べると人間味の漂うアナログなものが多かった。たとえば、最初にウィリたちが姿を現わすシーンでは、彼女たちはみな頭から白いヴェールをかぶって登場する。他のバレエ団の舞台だと、ヴェールのてっぺんに糸がついていて、脇から引っ張って自動的にヴェールが外れる仕組みになっている。

ところが、今回の公演では、白いヴェールをかぶって現れたウィリたちは、ミルタの号令で一斉にバタバタと舞台の両脇に引っ込み、ヴェールを外してすぐに再登場する。体育の授業の先生と生徒みたいで面白いです。

ジゼルが墓の中からはじめて登場するときも、せりに乗って上がってくるとか、白い煙にまぎれて現れるとかじゃなくて、ウィリたちがジゼルの墓の前に結集して、観客からジゼルの墓を見えなくするの。すると、背景の幕に開いている穴の中からジゼルが現れる(←つい見えてしまった)という次第。更には、ジゼルがかぶっている白いヴェールは、ウィリの1人が手で外していた。

ジゼルがアルブレヒトに別れを告げて姿を消すときも、この背景の幕に空いた穴から出ていくのが見えてしまって、ちょっと現実に返ってしまった。もっとも、この人間くささとアナログさこそが、小林紀子バレエ・シアターのいいところでもある。

ウィリたちの衣装はとてもシンプルで、腕に飾り袖のないデザインだった。でも、ピーター・ファーマーらしく、ジゼル以外のウィリたちの衣装の胸元から腰にかけて、草花の蔓のようなものが斜めに垂れ下がっていた。

ドゥ・ウィリ(モイナ、ズルマ)は大和雅美と高橋怜子という豪華キャスト。大和雅美の踊りはやっぱり私の好みである。ウィリたちと一緒に踊っていても、やっぱり際立って踊り方がきれい。腕のしなり方がとても美しいし、脚が長いし高く上がるから、白い衣装でアラベスクをするととても様になる。

ウィリたちの群舞はきれいで幻想的だった。変わっていたのは、「白鳥の湖」のオデットや白鳥たちのように片脚を伸ばして床に座り、上半身を折って顔をうずめるポーズである。一斉に上半身を上げて、また折って、という動きがよく揃っていて、しかもみな腕や体の動きがしなやかでとても美しかった。

また、ウィリたちのポーズには変わったものがあった。両腕を折って胸の前で組み合わせ、片手で顔を覆うようにするのである。ジゼルがアルブレヒトをかばって、自分の墓の前に立ちふさがるシーンでやっていた。プログラムに載っている、非常に詳しいストーリー紹介によると、これはジゼルの愛の力の強さに、ミルタをはじめとするウィリたちの魔力が破れた様を表現しているらしい。

でも、それ以外のシーンでも、ウィリたちはこのポーズをとっていたので、私は、これはひょっとしたら棺の中に横たわっている姿を表しているのかしら、と一瞬思った。それぐらい不気味なポーズだったのです。ディーン版のウィリたちはつくづく怖い。「妖精です」って美化してない。背中に羽根もないし。プログラムにも書いてあるとおり、あくまで「亡霊」なんである。

ミルタによって墓の中から呼び出されたジゼルが、舞台の真ん中でくるくる回るところは、ちょっと迫力不足だった。もっと機械的に、コマのように素早く回ったほうが、もう人ではなく亡霊になったジゼルの不気味さが出ると思うんだけど。でも、それからジャンプしながら回るところは、さすがは島添亮子で、軽くて高くて、しかもシューズの音も響かなくてすばらしかった。

思い出したんだけど、ウィリとなったジゼルがアルブレヒトの前に姿を現わすとき、舞台の奥を紐に吊るされたウィリの衣装だけがひゅ〜っと横切っていった。まるで干された洗濯物が横断していくようで、これだけでも充分にマヌケな光景だったが、更に間のわるいことに、途中で紐が引っかかって止まってしまった。これなら、ウィリ役のダンサー1人に、舞台の奥を横断させたほうが簡単かつ確実なのではないだろうか。

でも、「ジゼル」の舞台美術一式はオーストラリアン・バレエから借りたんだよな。オーストラリアン・バレエは、マーフィー版「白鳥の湖」には(知らないけど)あれだけ金かけといて、「ジゼル」の舞台装置はこんなにショボいのを使ってるんだろうか。

振付に関しては、アルブレヒトの前に姿を現わしたジゼルが姿を消し、まもなく舞台を横断して走ってきて、アルブレヒトが思わずジゼルの腰を持って上げてすぐに下ろし、またジゼルが走り去っていく、というのがあった。これは非常に効果的な演出・振付で、私は今まで松山バレエ団の「ジゼル」でしかこれを見たことがなく、てっきり松山バレエ団(清水哲太郎)オリジナルの振付だと思って感心していたのだけど、もともとこういう振りがあったのだろうか。

ジゼルとアルブレヒト、島添亮子とテューズリーの踊りは本当に美しかった。島添亮子は静かで軽くてはかなげで、テューズリーのサポートやリフトは自然でスムーズだった。

島添亮子の踊りはしっとりと丁寧で、非常に繊細な動きをする。「ジゼル」第二幕の音楽に乗って踊るのはとても大変だと思うけど、島添亮子はたぶん音楽性にも恵まれているダンサーなのだろう、時おり音楽に遅れているようにみえて、すぐに巧妙に追いついてしまう。音楽の波の中で悠々自在に泳いでいる、といった感さえある。

片膝を地面に着いて片手で頭を抱えるアルブレヒトの傍で、片脚で立ったまま、もう片脚を徐々に後ろに上げていくところ、パ・ド・ドゥの最初で、片脚を上げた後にゆっくりと一回転し、アラベスクの姿勢のまま、しばらくの間じっとしていて、それから後ろに上げた片脚を伸ばすところ、また両足を細かく交差させるところ、軽くジャンプしてから爪先を片方ずつ細かく動かすところなどは、ちょっと心もとなかった。

でもそういうのはアラ探しというもので、島添亮子の演技や踊りはなんというか、私の理想とするジゼルの姿と踊りそのものだった。表情、雰囲気、ポーズ、動きの総体が。森下洋子以来のマイベストジゼルだ。

テューズリーが島添亮子の腰を支えて頭上高く持ち上げる。その両腕は微動だにしない。島添亮子も片脚をピンと高く上げて伸ばし、決してそのポーズを崩さない。また、テューズリーが直立不動の姿勢の島添亮子を横にして持ち上げるときも、島添亮子はまったく姿勢を崩さない。テューズリーも偉いし、島添亮子もすばらしい。

アルブレヒトのヴァリエーションの前、ジゼルが踊り終わった後、一般にはそこで拍手が沸いて、ジゼル役のダンサーが現れてお辞儀をし、ジゼルのアラベスクをして退場する。だが、今回のディーン版ではジゼルのお辞儀とアラベスクがなく、ジゼルが踊り終わるとすぐに退場して、そのままアルブレヒトのヴァリエーションが始まった。常々、あのジゼルのお辞儀とアラベスク退場は、物語の流れを断ち切ってしまうような気がしていたので、今回のような演出のほうが私は好きである。

島添亮子があまりにすばらしかったおかげで、テューズリーの演技と踊りは(私にとっては)すっかりかすんでしまった。でも、テューズリーによるアルブレヒトのヴァリエーションも相変わらず安定していて、安心して見ていることができた。ミルタに強制されてなおも踊るところでは、テューズリーは真っ直ぐに跳んだ瞬間に両足を細かく打ちつける振りをずっと続けた。今回は割と前のほうの席に座っていたため、足を打ちつける柔らかな音が聞こえた。それが妙に魅力的だった。

島添亮子のジゼルとテューズリーのアルブレヒトの踊りは静かで哀しげで、久しぶりに「ジゼル」第二幕に感動した。最後には涙が出そうになった。

ディーン版のウィリたちのフォーメーションはかなり変わっている。特にヒラリオンやアルブレヒトを追いつめるときのポーズと動き、そして配置は、劇的な雰囲気を盛り上げる点で非常に効果的だった。つまりは、すごく怖かったのである。

いちばん怖かったのは、プログラムにも写真が載っている、ヒラリオンを追いつめて殺すシーンで、ヒラリオンの前で、ウィリたちはミルタを先頭に三角の形に並び、アラベスクをした瞬間に両腕を前にだらん、と一気に下げる(古典的な日本の幽霊がよくやっているポーズね)。それから間髪いれずに舞台の右前から左奥にかけて、前を向いて一直線に並び、逃げようとするヒラリオンを追うかのように、次々と後ろを向いていく。ビシッとしていて乱れがなくて、非常に迫力があった。

また、アルブレヒトに最後のとどめを刺そうというシーンでは、ウィリたちは左右に分かれて並び、その真ん中にミルタが現れて、アルブレヒトに「死ね!」と指を突きつける。やっぱり高畑きずなちゃんのミルタは本当に怖かったな〜。高畑きずながヒラリオンやアルブレヒトに向かって、拳を握った両腕を交差させるマイムも迫力満点で怖かった。

間一髪で助かったアルブレヒトにジゼルが別れを告げるシーンでは、アルブレヒトとジゼルは何度も柔らかく抱き合う。アルブレヒトの両腕が空をつかんで、ジゼルは墓の中に消えていく。静かでどことなく悲しげな表情で踊り続けていたジゼルが、やっと生前と変わらない(むしろ生前より深い)愛情を、人間らしい仕草で露わにする演出で、観ている側も温かな気持ちになった。

最後、アルブレヒトはジゼルから手渡された一輪の白い花を持って立ちつくす。その表情は静かで穏やかな微笑みが浮かんでいる。彼はもうかつての軽薄で浅はかな貴族のお坊ちゃんではなく、自分の過ちで一人の少女を死なせてしまったという重い現実を抱えて、これから生きていくことを受け入れたのだ。そんな感じがした。

ジゼルがなぜ自分を騙して狂い死にさせたアルブレヒトを庇ったのか、よく考えたら分かる気がする。裏切られて死ぬくらい好きだった相手なんだから、そんなに簡単に憎めるわけない。

テューズリーはゲストだからおいといて、島添亮子は小林紀子バレエ・シアターでは別格のバレリーナである。彼女は体育会系テクニックが今ひとつ弱く、プティパ系の古典作品は、必ずしも完璧に踊りこなせるわけではないようだ。以前に観た「パキータ」(グラン・パ)のコーダは観ていてハラハラした。でも今回の「ジゼル」はすばらしかったし、マクミランやアシュトン作品での島添亮子は本当にすばらしい。

もったいないと思う。島添亮子のようなダンサーを、小林紀子バレエ・シアターのトリプル・ビルの中にばかり閉じ込めておくのは。なんとか彼女がもっとメジャーになれるようなバレエ環境が日本で整わないものかしら、と思った。

もう一つもったいないと思うのは、これほどの舞台を一般の観客が観に来ないということだった。観客の大部分は、相変わらず系列のバレエ学校、教室の先生、生徒さんとその親御さんばかりだった。また大召集をかけたらしいが、それでも空席が目立った。追い討ちをかけるように、「このまえ教室でね〜」とか「あっ、あそこに○○先生がいる〜」と言っていた女の子たちのほうから、「プログラム買ってないから話がわかんない」、「すっごい寝ちゃった〜」という声が聞こえてきたときには心底がっかりした。

でも、最後にあらためて一言。今回の「ジゼル」は泣けた。本当にすばらしい舞台だった。

(2007年11月23日)


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