Club Pelican

NOTE

東京バレエ団公演「ニジンスキー・プロ」

(2007年9月12、14日、東京国際フォーラムCホール)

この公演は、本来は「マラーホフ、ニジンスキーを踊る」と題されており、ウラジーミル・マラーホフが東京バレエ団とともに、「レ・シルフィード」、「薔薇の精」、「牧神の午後」、「ペトルーシュカ」をAプロ、Bプロに分けて踊るはずだった。ところが、公演間近になって、マラーホフが膝の手術のために降板せざるを得なくなるという事態になった。そこで、4作品それぞれに海外からあらためて別のゲスト・ダンサーが招聘され、公演名も「ニジンスキーの伝説」と改められた。

そのゲストの顔ぶれがすごくて、「レ・シルフィード」にはシュトゥットガルト・バレエのプリンシパル、フリードマン・フォーゲルが、「薔薇の精」にはパリ・オペラ座バレエ団のスジェ、マチアス・エイマンが、「牧神の午後」にはパリ・オペラ座バレエ団の元エトワールで、ボルドー・バレエ芸術監督のシャルル・ジュドが、「ペトルーシュカ」にはやはりパリ・オペラ座バレエ団の元エトワールであるローラン・イレールが出演することになった。「顔ぶれがすごい」といっても、フリードマン・フォーゲルとマチアス・エイマンについては、この言葉に当てはまらないかもしれないが。

公演は9月12日から15日までの4日間にわたって行なわれた(元々は12・13日がAプロ、14・15日がBプロだった)。更にアクシデントは続き、初日の12日になって、12日と13日の公演で「牧神の午後」を、14日と15日の公演で「ペトルーシュカ」(ムーア人)を踊るはずだった後藤晴雄が、足のケガのために出演できなくなった。そこで結局、「牧神の午後」の牧神はすべての公演でシャルル・ジュドが踊ることになった。

この公演の演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はアレクサンドル・ソトニコフによる。

「レ・シルフィード」、振付はミハイル・フォーキン、音楽にはショパンの曲を用いている。この作品は1907年にマリインスキー劇場で初演された。「レ・シルフィード」の音楽や踊りの構成については、以前に観たときの感想(→ こちら )をご覧下さい。

主なキャスト。プレリュード:小出領子(12日)、吉岡美佳(14日);詩人:木村和夫(12日)、フリードマン・フォーゲル(14日);ワルツ:西村真由美(12日)、長谷川智佳子(14日);マズルカ:奈良春夏(12日)、田中結子(14日);コリフェ:乾友子―田中結子(12日)、高木綾―奈良春夏(14日)。

12日に主役の妖精を踊った小出領子の腕の動きが波打つようにやわらかくて、まさに妖精という雰囲気の、ふわっとした軽い感じの踊りで美しかった。詩人役の木村和夫は、技術はしっかりしていてちゃんと踊れているし、リフトやサポートもすばらしかった。すばらしかったけど、手の先や足の先までコントロールが利いていないような、粗削りなところがあった。西村真由美は足音がドタドタとうるさかった。その後に奈良春夏が出てきて踊ったら、これがすごく静かだったので、やっぱり妖精なら足音を立てないほうがいいよなあ、と思った。

妖精たちの群舞は、なんか硬いというか、やわらかさに欠けるような感があった(特に腕の動き)。もっと女性的に、曲線的に踊ればいいのに、と思った。小林紀子バレエ・シアターが上演した「レ・シルフィード」のほうが、女性的な雰囲気、ロマンティックさ、優しさが漂っていてよかった。

あと、照明が異常に明るすぎて違和感があった。あれでは「夜の幻想的な雰囲気の森の中で、若き詩人が美しい妖精たちと遊び戯れる」のではなく、「お天気のよい明るい昼下がり、1人の若者が大量のご婦人方と森に楽しくピクニック♪」になってしまう。

フリーデマン・フォーゲルは背が高くて金髪で、なかなかのハンサム君だった。ソロでの踊りはやわらかくて軽かったし、妖精に魅せられたロマンティックな詩人としての演技もしていたが、外人ゲストならこれぐらいは踊れて当然だろ、という程度で、そんなにすごいという印象は受けなかった。それに、どんなにすごいダンサー同士が踊ったとしても、しょせんは即席ペアの踊りがスムーズにいくわけもなく、吉岡美佳と組んで踊っているときは、少し見るのが辛かった。

「レ・シルフィード」という作品は、私は決して嫌いではない。私の好みであるストーリー性はなくとも、踊りさえすばらしければ。でも今回の公演での「レ・シルフィード」では、残念ながら肝心の踊りそのものが、主役、準主役、群舞すべてにおいてすばらしいとはいえなかったと思う。

「薔薇の精」、振付はミハイル・フォーキン、台本はジャン・ルイ・ヴォードワイエ、音楽はウェーバーの音楽をベルリオーズが編曲したものを用いている。舞台装置と衣装のデザインはレオン・バクストによる。この作品は1911年、バレエ・リュスによってモンテカルロで初演された。

キャストは、薔薇の精がマチアス・エイマン(12日)、大嶋正樹(14日)、少女が吉岡美佳(12日)、高村順子(14日)。

薔薇の精をマチアス・エイマンは初めて踊るというからどうかな〜、と観る前はちょっと不安だった。でも意外とよかった。というか、別に「薔薇の精」は必ずしも中性的でクネクネしていなくてもいいんだと思った。エイマンはかなり緊張していたらしくて、テクニックに秀でているらしい彼にしては、ジャンプの着地や回転での失敗があったが、そんな小さいことを吹っ飛ばしたのが、エイマンの薔薇の精の役作りというか踊り方だった。

エイマンの薔薇の精は、とにかく鋭くて軽くてキレがよかった。腕の動きもくるくるとスピーディーだった。薔薇の花びらが旋風に乗って少女の部屋を鋭く軽やかにひらひらと舞う(←ポエムだ)イメージである。とても爽やかで新鮮で、観ていて気持ちがよかった。たとえばイーゴリ・コルプの薔薇の精とエイマンの薔薇の精とは正反対だけれど、どっちの役作りでも踊り方でも私は好きである。

エイマンと踊った吉岡美佳の少女も演技がすばらしかった。ただ、少女の衣装がちょっとセンスよくなかった。少女は黄色のナイトガウンをまとって登場するのだけど、そのナイトガウンの生地がフリースみたいな厚みのあるもので、デザインもポップであり、いささか優雅な雰囲気に欠ける。白のネグリジェはかわいかったけど、いらんことに、少女は白のナイト・キャップをかぶっているのだ。もちろんそのへんのオバちゃんがかぶるような、ダサダサなデザインではなく、頭のてっぺん部分は薄くて両脇にレースのフリフリの飾りがあるものだった。でも、このナイト・キャップが似合う女性はそうおるまい。

14日の「薔薇の精」は東京バレエ団のキャスト(薔薇の精が大嶋正樹、少女が高村順子)だった。私はイーゴリ・コルプの踊る薔薇の精を3回、マチアス・エイマンのを1回観てしまったので、それもいけなかったとは思う。正直言って、これは見ていてかなり辛かった。

薔薇の精を踊った大嶋正樹は、振りを追いかけるので精一杯らしくて、踊りが基本的に音楽に合っていなかった。また、音楽に間に合わせるために、動きを制限していたように見えた。一つの振りを終えないうちに次の振りに移ってしまう。個性とか独特の解釈とかいう以前の、教科書的な踊りというレベルにも達していなかったと思う。薔薇の精といえば独特な腕のポーズと動きだけど、大嶋正樹のそれはまったく印象に残らなかった。でも、ジャンプから着地するときのやわらかく美しい動きと足のポーズには感心した。

「牧神の午後」、振付はワツラフ・ニジンスキー、音楽にはドビュッシーの同名曲を用いている。舞台装置と衣装はレオン・バクストのデザインによる。この作品は1912年、パリのシャトレ劇場で初演された。

主なキャスト。牧神:シャルル・ジュド;ニンフ:井脇幸江。

このまえのボリショイ&マリインスキー合同公演でいえば、ウリヤーナ・ロパートキナが出てきたときとまさに同じだった。幕が上がり、岩の上に座って牧笛を吹くシャルル・ジュドの姿が舞台上に見えたとたん、なんだかその場の雰囲気がビシッと引きしまり、客席の空気はピンと張りつめ、いつにもまして水を打ったように静まり返って、観客の目がジュドをじっと注視している。横顔を見せて座っているジュドの存在感は圧倒的で、あんな男性ダンサーを見たのは久しぶりだ。

ジュドの牧神は袖なしのユニタードを着ていて、白のユニタードには黒のまだら模様が入っている。腕には直接に白と黒の模様を塗っていた。頭には短い巻き毛のかつらをかぶり、かつらには2本の角状の突起がある。尻尾もついている。

牧神は岩の上で無表情な横顔を見せて牧笛を吹き、また時に寝そべり、葡萄を食らい、大きく口を開けて咆哮する。体の側面だけを見せるポーズを決して崩さない。このように、ジュドの牧神は野性的で動物的だった。しかしまったく下品ではなく、まるで気高く美しい獣のようだ。

両脇から、ニンフたちが3人ずつやって来る。顔は横向き、身体は正面を向き、両腕を扇のように広げて垂らし、静かに、しかし素早く歩く。ニンフ役のダンサーたちは、金髪の巻き毛で髪を後ろに長く垂らしたかつらをかぶっている。衣装は裾が長くて幅も大きなたるみのあるローブを2枚重ねている。原色系の鮮やかな色合いの模様が入っていて、アイヌの民族衣装の模様によく似ている。

そこへ、青いヴェールをまとったニンフ(井脇幸江)が水浴びにやって来る。無表情だったジュドの牧神がそのニンフを見つけたとき、ジュドは顔をさっとすばやくニンフに向けて、彼女をじっと見据える。無表情なジュドの瞳が鋭い光を放つ。ニンフは青いヴェールを床に広げ、身にまとったローブを脱ぎ捨てて、肩と脚をむきだしにした薄いシュミーズ一枚の姿となる。

牧神は岩を下りる。このときのジュドは客席に対して体が横向きのポーズを変えず、ゆっくりと一歩ずつ岩を下りていく。牧神はまずニンフの一人に近づき、自分の股間を突き出して見せる。ニンフは両腕を曲げて頭上に上げ、足早に逃げ出す。このニンフが驚くポーズも、顔は横向きで身体は正面を向いており、絵画的で非常に印象に残った。牧神は愉快そうに大笑いする。

牧神は水浴びするニンフに近づく。ニンフは牧神に気づくが、表情を変えずに彼をじっと見つめる。牧神とニンフは互いを見つめながら、また腕を絡めながらゆっくりと踊る(というよりは動く)。ジュドは半爪先立ちで歩くことが多かったが、そのままのポーズでずっと静止するところもあって、その間まったく微動だにしなかったので驚いた。またその半爪先立ちも足の甲が弓なりになった高いもので、足の形だけでも美しかった。

ニンフは牧神の胸に身を寄せる。このときの井脇幸江の伏し目がちな表情が実にきれいだった。牧神はニンフに触れられて、感情が高まり、顔を上げて大きく吼える。

だが、ニンフはやがて静かに去ってしまう。残された牧神はやはり無表情だが、ゆっくりとまた一歩、一歩と岩の上に上がり、ニンフの残していった青いヴェールを体の下に敷くと、その上で突然びくっと顔を上げて咆哮する。

牧神もニンフたちも、手の指は伸ばして反らし、手首、肘、肩、脚、膝、足首は直角に曲げられたまま、ゆっくりと、ギクシャクと踊って(動いて)いく。必要最小限の動きしかない。

ジュドがポーズを取っているときには微動だにせず、動くときには時に鋭く、時にゆっくりなスピードで実に絶妙だった。ほとんど無表情だったが、感情をあからさまにするときには、その効果を最大限に発揮するように表現する。

静かな仕草だけど、葡萄を貪り食らう様子、ニンフたちに目を向けるときの顔の動きと目つき、ニンフたちをからかった後の嘲笑、ニンフに触れて性的な情熱が一気に爆発したかのように咆哮する様など、ふとした折に見せる獰猛さが非常に魅力的だった。でも、ジュドの牧神には、野生性や男性の生々しい性欲を動物的な動きや演技に置き換えた感じではなく、なんだか峻厳で気高い雰囲気さえ感じられた。

ポーズにも踊りにも演技にも、とにかく隙がない。前にも書いたけど、ジュドの牧神は野性的で獰猛なのだけど(更にいえばセクシーですらある)、それでも決して下品でない。トンデモ版「牧神の午後」を踊ったパリ・オペラ座バレエ団の現役の後輩君(特に名は秘す)とは大違いである。

「牧神の午後」が上演されている間、私は緊張しながらも集中してジュドの牧神を見つめていた。ニジンスキー振付の「牧神の午後」を生で観るのは初めてだが、シャルル・ジュドで観られてよかったと思う。ちなみに、あの引き締まった筋肉だけのしなやかな体、あれが54歳の体だとは到底思えません。ジュド様にとって、メタボリック・シンドロームなど永遠に縁のないことでしょう。

ニンフを踊った井脇幸江もすばらしかった。彼女のポーズや動きにも隙がなく、神秘的だけど、いかにも牧神が惚れそうな、やわらかでフェミニンな魅力を漂わせていた。また動きの少ない振りの中で、ただ目つきと強い眼ヂカラだけでジュドの牧神に応じていたのが、そしてそれがジュドの牧神の演技と絶妙にかみ合っていたのが見事だった。

ジュドみたいな、牛や羊系というより黒豹系のセクシーな牧神なら、私がニンフだったら大歓迎である。カーテン・コールでは、パートナーやオーケストラや観客すべてに気を配る、落ち着いた大人の男性の魅力を醸し出していて、これまた大いにステキでございました。

「ペトルーシュカ」、台本はアレクサンドル・ブノワとイーゴリ・ストラヴィンスキー、振付はミハイル・フォーキン、音楽はストラヴィンスキーによる。舞台装置と衣装はアレクサンドル・ブノワ。この作品は1911年、バレエ・リュスによってパリのシャトレ劇場で初演された。

主なキャスト。ペトルーシュカ:ローラン・イレール(12日)、中島周(14日);バレリーナ:長谷川智佳子(12日)、小出領子(14日);ムーア人:平野玲;シャルラタン:高岸直樹。

開演前と各シーンの間に下ろされる幕が面白い図柄だった。夜の街、家々の屋根の上を赤い目をした黒い不気味な化物たちが、牙をむき出しにして飛んでいる。

だが、正直なところ、この「ペトルーシュカ」はもう作品としての賞味期限が過ぎかけているのではないかと思った。20世紀初頭のパリで上演するには、ああいうロシアの民族的な素材は歓迎されたのだろう。街の人々の群舞の時間的割合が多くて、人形のペトルーシュカ、バレリーナ、ムーア人の出番は意外に少なく、観ていて拍子抜けしてしまった。

ロシアの街の広場、季節は冬で、たくさんの人々が行きかい、またひしめいている。音楽に合わせて、いろんなシーンが繰り広げられる。いきなり太鼓が鳴り、舞台の奥にあった見世物小屋の幕の間から、人形使いのシャルラタンが顔だけをのぞかせて、目玉を動かしてじろり、と人々を見わたす。

見世物小屋の幕が開く。そこには3体の人形、ムーア人、バレリーナ、ペトルーシュカが立てかけられている。3体の人形たちは脚だけをさかんに動かして踊り始める。やがて人形たちは勝手に動き出し、舞台の前に出てきて跳びながら踊る。

ローラン・イレールのペトルーシュカは、肩をすくめ、顔をうつむけ、背中を丸め、膝を曲げた弱々しいポーズを常に取っている。イレールはそんなに濃いメイクはしておらず、顔全体を軽く白く塗って、道化の眉(泣き眉)を黒で細く描いているだけだった。イレールの素の顔立ちが分かるくらい薄いメイクだった。

見世物小屋のペトルーシュカの部屋の中。星空のような壁紙、小さな出入り口、壁にはシャルラタンの恐ろしげな肖像画がかけられている。バレリーナがペトルーシュカの部屋に入ってくる。ペトルーシュカは喜ぶが、バレリーナはすぐに出て行ってしまい。ペトルーシュカはシャルラタンの絵に向かって腕を振り上げ、また部屋の中で大暴れする。頭で壁を突き破り、両脚だけをぶらんぶらんさせる。

暴れるペトルーシュカの踊りの中で、両脚を内側に曲げて立ち、上半身を前に折って、片腕を上げては下ろす、という動きのところで、イレールの腕の動きがなめらかでよくコントロールされているので感心した。

ムーア人が部屋にいる。壁紙は南国を思わせる色合いと模様。ムーア人はベッドの上で果物をお手玉にして弄んでいる。そこへ、バレリーナがラッパを吹きながら(←なぜ?)現れる。ムーア人とバレリーナはギクシャクした動きで一緒に踊り、バレリーナはムーア人の膝の上に座る。

そこへペトルーシュカがなだれ込んでくる。バレリーナとムーア人が一緒にいるのを見たペトルーシュカは激怒し、ムーア人にとびかかっていく。しかし、逆にムーア人に殴られ、ついには大きな剣を持って追いかけられる。ペトルーシュカは頭を抱え、背中を丸めて逃げ出す。

場面はまた街の広場。広場は人々でますますにぎわい、貴婦人たちが列をなして優雅に踊る。この街の雑踏のシーンがかなり長くて、途中で飽きてしまった。音楽にはよく合わせてあるのは分かるんだけど。すると、見世物小屋の中から、ペトルーシュカが小走りに逃げてくる。その後をムーア人が剣を持って追いかけ、バレリーナがそれを止めようと後に続く。

ムーア人はついに剣をペトルーシュカの首に叩きつける。ペトルーシュカは首を押さえ、しばらく呆然とした後、ばたん、と倒れる。取り囲んで見ていた人々は、本物の殺人だと思って大騒ぎになる。そこへ人形使いのシャルラタンが現れ、倒れているペトルーシュカをつかみあげる。すると、それは薄い布で作られた粗末な人形だった。

イレールはおとなしそうな顔立ちの人なので、ペトルーシュカがバレリーナにフラれ、ムーア人にボコボコにされるシーンは相当かわいそうだった。

夜になって、広場に人影はもうない。シャルラタンが佇んでいると、見世物小屋の上にペトルーシュカが現れ、シャルラタンに向かって手を伸ばし、また両手で自分の胸を押さえる。シャルラタンはペトルーシュカに背を向け、顔を歪めた複雑そうな表情でその場を去る。ペトルーシュカの姿もまた闇の中に消えていく。

見ていていちばん心が痛んだのは、バレリーナに恋するペトルーシュカが自分の部屋の中で、またムーア人に殺されたペトルーシュカの魂が、主人である見せ物師のシャルラタンに向かって、「なぜ人形の自分に『心』なんか入れたんだ!」とマイムで絶叫するシーンだった。「心」なんかなければ苦しい思いをすることはなかったのに、というペトルーシュカの悲しみが伝わってきた。

12日にこの作品を観たときには、ローラン・イレールのペトルーシュカとしての踊りがどうだったかは、正直言ってよく分からなかった。でも、イレールの演技は観ている側の心を打つものだった。個人的には、ペトルーシュカは踊りの技術が云々、という役柄ではなく、心が入ってしまった人形の悲哀を醸し出すことが大事だと思った。イレールのペトルーシュカは、抱きしめてあげたいくらいかわいそうでならなかった。

イレールと同じ日にバレリーナ役を踊った長谷川智佳子は、上半身を動かさず、腕に至っては微動だにせず、本当に人形みたいだった。あと、シャルラタン役の高岸直樹の演技がとても不気味で謎めいていてよかった。死んだペトルーシュカの魂に責められて、自分が軽はずみな真似をして悲劇を招いたことに気づき、はじめて悔やむ表情をみせる。

14日はすべての役を東京バレエ団のダンサーたちが踊った。バレリーナを踊った小出領子がダントツにすばらしかった。彼女は本当に人形のような愛らしい顔立ちをしており、また演技も人形のように無表情で、瞳をほとんど動かさない。踊りもまさに人形のように機械的でよかった。ペトルーシュカを踊った中島周もよかったが、同じ役でも12日のローラン・イレールの踊りとはやっぱり大いに違った。

中島周の動きを見て、イレールは力任せ、勢い任せのように見えた動きでも、本当はすべてコントロールして動いていたのだとやっと分かった。暴れているように見えても、逃げ惑っているように見えても、イレールはいつでもちゃんと「踊って」いたのだ。中島周は踊っているとポーズが崩れてしまうときがあったが、イレールはペトルーシュカの基本ポーズを決して崩さないまま踊っていたようだ。演技と関係してくるけど、イレールはあわれさを感じさせる奇妙で滑稽なポーズを常に保っていた。

演技は、イレールはとにかく気弱そうでかわいそうであわれさを催させる、中島周はなかば頭がおかしいというか、気が狂ったように感じられた。また、イレールのペトルーシュカは、心を持ったがために恋をしたこと、恋に敗れたこと、いじめられたこと、その果てに命を失ったことへの激しい辛さと悲しみを、中島周は愛を得られなかったことへの未練を強く感じさせた。

より印象に残ったのはどちらかといえば、やはりローラン・イレールのペトルーシュカだった。見ていてすごくかわいそうだったから。

やっぱりこの公演、マラーホフが出られなくなった穴は埋められなかったな、と最終的には思った(あくまでも全体的に)。でも、それに代わるだけの見ごたえが最もあったのが、やっぱりシャルル・ジュドの牧神とローラン・イレールのペトルーシュカだった。

マラーホフがこの「ニジンスキー・プロ」を踊ったらどうなるのだろう、と興味が湧いた。無事にケガが治った暁にはぜひ実現してほしい。

(2007年11月24日)

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東京バレエ団公演「バレエ・インペリアル」・「真夏の夜の夢」

(2007年10月26日、ゆうぽうとホール)

「バレエ・インペリアル(“Ballet Imperial”)」、振付はジョージ・バランシンにより、音楽はチャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番を用いている。上演時間は50分弱。この作品は1941年にアメリカン・バレエ・キャラバン(American Ballet Caravan)によって初演された。今回の東京バレエ団による上演版の衣装デザインは宮本宣子とロベルト・デヴァッレ(Roberto Devalle)が、舞台装置のデザインは野村真紀が担当した。

主なキャスト。パ・ド・ドゥ:上野水香、高岸直樹;第1ソリスト:奈良春夏、長瀬直義、横内国弘;第2ソリスト:佐伯知香、吉川留衣。

ピアノ独奏は志田明子、演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はデヴィッド・ガーフォース(David Garforth)。

この「バレエ・インペリアル」はその名が示すとおり、バランシンが自らのルーツであるマリインスキー劇場バレエと、そしてロマノフ王朝への敬意と思慕を表現したバレエであるという。プログラムによれば、当初はストーリーらしきものがあったらしいが、それらは再演されるごとに削除されていき、最終的には現在のようにストーリー性のほとんどない、純然たるロシア宮廷風の、またマリウス・プティパ流のクラシック・バレエ作品に落ち着いたそうである。

舞台の天井には、白地に重厚な感じのする木製と真鍮製の唐草紋様の装飾が施された幕が何層も重なり、舞台の両脇にも同様の幕が何枚も下がっていて、その幕には更にまたたく灯燭が上から下にいくつもかかっている。舞台の奥には優雅なたるみをもたせて絞られた白いレースのカーテンが何本か下げられており、いかにもお城の中か宮廷の大広間を思い起こさせるデザインとなっている。

この作品は、男性8人と女性16人の群舞による踊りの間に、主役に相当する男女一組、準主役に相当する女性1人と男性2人、更に女性2人の踊りを次々と展開していくという構成である。男性は光沢のある白の上衣に白いタイツ姿、女性も光沢のある白いチュチュを着て頭にティアラをつけており、男女の衣装にはともに金の刺繍が施されている。主役と準主役に相当する男女の衣装も白が基調だが、衣装全体がやや淡い金色で、金糸の刺繍もふんだんに入っている。

舞台装置やダンサーの衣装が気品の漂う純白を基調としているように、踊りもまた整然とした秩序と端正さ、そして上品さで統一されている。群舞、ソロ、パ・ド・ドゥ、パ・ド・トロワなど、フォーメーションや振付はまるで「ライモンダ」や「パキータ」のようであり、ダンサーたちは基本的に静かな顔で、または時にかすかな笑みを浮かべるだけの抑制された表情で踊り続ける。

このような作品に要求されるのは、文字どおり一糸乱れぬ動きと、完璧で隙のない技術と優雅さである。ほんの少しの乱れであっても全体に大きく影響してしまう。踊る側にとっては大変で厄介な踊りだろうし、観ている側にとってはアラが見えやすい。

また、バランシンはなんでこの作品の音楽として、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第2番を選んだのかよく分からない。この曲に合わせて踊るのはかなり難しいと思う。私個人の印象では、チャイコフスキーのピアノ協奏曲は、他の作曲家のピアノ協奏曲に比べると、ピアノが1人で爆走しているという感がある。一定したリズムでちんたら演奏されないので、踊りには向いていない曲だと思う。

東京バレエ団のダンサーたちが踊るには少々レベルが高すぎる作品だ、というのが第一の印象だった。群舞の列がほんの少し曲がっただけでも、ダンサーたちのポーズや動きがちょっとずれただけでも、やたらと目立ってしまって作品全体の雰囲気がぶち壊しになってしまうのである。

主役と準主役のダンサーたちは、時には組んで踊り、時にはソロで踊る。主役の男女を踊った上野水香と高岸直樹については、まず高岸直樹のヒゲの剃りあとがやたらと青いのが気になった。剃り忘れたのか、それともヒゲが濃いのか、いずれにせよ、これでは踊り以前に鼻の下と顎にしか目が行かないので、なんとかメイクで隠す努力をしてほしい。

上野水香が登場したときには、彼女のメイクにまずびっくりした。なぜかまぶたに太い線を入れ(アイホールのシャドウのつもりかな?)、更に目の縁を真っ黒にぶ厚く塗りたくっている。こんな独特なメイクをしている日本人バレリーナは初めて見た。彼女の踊りはそう期待していたほどでもなかった。彼女は他の女性ダンサーよりも背が高いが、体格も他の女性ダンサーよりがっちりしているせいか、まず動きが全体的に重たい感じがした。

肝心の踊りも、私がイメージしている、またこれまで目にしてきた「クラシック・バレエ」とはかなり違った。腕や脚の動きはガタガタしていて波打つような柔らかさがなく、また音楽とは関係なく勝手に動いていく。バレエにはそれぞれの手足をこういうふうに曲げて(あるいは伸ばして)、こういうふうに向けると美しい、というのがあるが、彼女の手足の方向はバラバラで、見ていて美しくなかった。もっと正直に言うと、乱暴で汚い踊りだなあ、と思った。

第1ソリストの奈良春夏の踊りは「クラシック・バレエ」だった。私にとっては、奈良春夏の踊りのほうが見慣れたタイプのもので、すんなりと楽しむことができた。ただ、上野水香と奈良春夏の踊りを比べると、美しさや優雅さでは奈良春夏のほうが上だが、技術では上野水香のほうが上だった。奈良春夏は、たとえば回転をする前に、「さあ回るぞ」とばかりに笑顔が消えて真顔になり、技に取りかかる際に一瞬躊躇して間が空いてしまっているのが分かった。細かい足技でも足元がおぼつかない。上野水香はそんなことはなく、終始涼しい表情ですんなりとやってしまう。

上野水香が東京バレエ団のスター・ダンサーであることはもちろん知っている。海外からゲストとして招かれた有名ダンサーと組んで、次々と主役を踊っていることも知っている。彼女が登場すると大きな拍手が湧き起こり、彼女がパ・ド・ドゥを、またソロを踊り終えると、再び大きな拍手が送られてブラボー・コールが飛ぶ。

「バレエ・インペリアル」が終わったとき、あまりよい出来ではなかったな、と私は思った。しかし、カーテン・コールでは、特に上野水香には万雷の拍手喝采が送られた。私には理解できなかった。あんな踊りに、どうしてこんなに熱狂的な拍手とブラボー・コールが起こるのか。それとも「バレエ・インペリアル」の主役の踊りは、あんなふうに踊るべきものなのか?だからみんなほめたたえているのだろうか?私にはどうしても分からなかった。

「真夏の夜の夢(“The Dream”)」、脚本と振付はフレデリック・アシュトンにより、音楽はメンデルスゾーンの同名曲で、ジョン・ランチベリーが編曲したものを用いている。美術はデヴィッド・ウォーカー。全1幕の作品で、上演時間は1時間弱。この作品は1964年にロイヤル・バレエによって初演された。初演でオベロンを踊ったのは今回の上演を指導したアンソニー・ダウエル、タイターニアを踊ったのはアントワネット・シブレーである。

主なキャスト。オベロン:スティーヴン・マックレー(Steven McRae);タイターニア:アリーナ・コジョカル(Alina Cojocaru);パック:大嶋正樹;ボトム:平野玲;ハーミア:小出領子;ライサンダー:後藤晴雄;ヘレナ:井脇幸江;デミトリアス:木村和夫;

村人:高橋竜太、山口優、鈴木淳矢、氷室友、宮本祐宣;エンドウの花の精:高木綾;蜘蛛の精:田中結子;カラシナの精:西村真由美;蛾の精:奈良春夏。

合唱はTOKYO FM 少年合唱団、演奏は引き続き東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮もデヴィッド・ガーフォース。

この作品については、以前にやはり東京バレエ団による上演を観たことがあり、ストーリーとその公演の感想についてはこちらをご覧下さい。

感想は書いていないのだが、ロイヤル・バレエの上演による「真夏の夜の夢」も観たことがあった。その前に東京バレエ団による上演を観て、意外とつまらない作品だな、と思ったのだけど、ロイヤル・バレエによる「真夏の夜の夢」を観たらすごく面白くて、ロイヤル・オペラ・ハウスの観客たちと一緒に大笑いした。そのときのオベロンとタイターニアはヨハン・コボーとアリーナ・コジョカルだった。

今回の公演も、当初はコボーがオベロンを踊る予定だった。しかし、コボーは怪我のために降板した。会場に貼られていたロイヤル・バレエの医師の診断書によれば、コボーは練習中に足を捻挫してしまったとのことだった。コボーの代役として、ロイヤル・バレエのソリスト、スティーヴン・マックレーがオベロンを踊ることになった。今回の公演を指導したアンソニー・ダウエルがマックレーを推薦したのだという。実際、マックレーは来年ロイヤル・バレエでオベロン役のデビューを果たす予定となっているらしい。妙な縁で、先に日本で初オベロンを踊ることになったのだ。

私はマックレーのことをぜんぜん知らなかったし、それで今回の「真夏の夜の夢」には、実はそんなに期待はしていなかった。いくら主催のNBSが公式サイトで「このたびのスティーヴン・マックレーの出演は、元ロイヤル・バレエ団の芸術監督で『真夏の夜の夢』オベロン役の初演ダンサー、本公演のリハーサル指導者でもあるアンソニー・ダウエルの推薦によるものです。マックレーはロイヤル・バレエ団が期待する若手ソリストで、今シーズンのロンドン公演に抜擢されオベロン役を準備中でした」とフォローしようが、しょせんは即席ペアだし、コジョカルとの踊りがうまくいくはずはない、と思っていた。

ところが、オベロンに扮したマックレーが登場して踊りだした瞬間、いやはや、ロイヤル・バレエにこんなすごいダンサーがいたとは、と仰天してしまった。背丈はそんなに高くなく、スタイルがそんなにいいというわけでもなく、どちらかというと頭がデカくて体が細いという、私のストライク・ゾーン外の体型だった。もちろん体型については、オベロンは頭に冠をかぶり、濃い緑のマント状のものをはおっていて、下も緑のタイツなので、どうしても体が細くなって頭でっかちに見えてしまう。それに、マックレーはまだ20歳そこそこらしいので、体はこれからできてくるのだろう。

マックレーは、眉毛を直線的に上に引いて目元を暗くしたオベロンのクールなメイクもよく似合っていたし、踊り始めたらこれがすごいのなんの。踊りは鋭いキレがあってスピード感に溢れ、超高速でくるくるとそれこそ疾風のように回転し、ダイナミックに跳躍する。それに加えて、両腕の動きは東京バレエ団の女性ダンサーよりもなめらかで柔らかく、マイムはいかにも妖精の王らしく毅然としていて優雅、また表情での演技も、さすがはロイヤル・バレエのダンサーだけあって、とても自然で雄弁だった。結局、「やっぱりコボーじゃないもんねえ」とがっかりするどころか、「なんなのこの人!」と圧倒された。

ただ、マックレーの踊りにはまだ若いパワーばかりが先走っているような感があって、テクニックも大人のダンサーならではの安定感に欠けるところがあった。力任せに素早く踊るばかりではなく、ゆっくりと丁寧に踊り、また雰囲気に落ち着きが備わり、更に強い存在感が加われば、かなりいいとこまでいくダンサーだと思う。

最後のシーンでのオベロンとタイターニアのパ・ド・ドゥでこそ少しガタついたものの、アリーナ・コジョカルとマックレーとの踊りはよく合っていた。でも、やはりキャリアの差が出るのか、コジョカルのほうが演技でも踊りでもより魅力的だった。数年前に観たコボーとコジョカルが主演した「真夏の夜の夢」では、コジョカルのタイターニアにはまだ子どもっぽさが残っていて、コボーのほうがコジョカルを引っ張っている感じだった。

ついでに書いておくと、演技でもコボーのほうが笑えた。特に惚れ薬から覚めたタイターニアが、自分のこめかみを軽く叩いて、なんだかロバと一緒にいたような夢を見たんだけど、という仕草をするところで、コボーのオベロンはタイターニアから目をそらして腕を組み、「へえ〜、そう」とばかりに白々しい顔で知らんぷりをする。その表情がとても笑えた。

ところが、今回の公演でのコジョカルには、数年前には見られなかった妖精の女王らしい威厳、そして大人の女性らしい妖艶さが加わっていた。コジョカルは黒髪に黒い瞳のようだけど、花の冠をつけた長い金髪のかつら、かすかな緑を帯びた、白く透きとおった軽やかなドレス、そして鮮やかな赤い口紅がよく似合っていた。

オベロンのタイターニアへの仕返し、タイターニアがロバに変身した人間に恋するように仕向ける、というのは、私はこれはいくらなんでも悪質で残酷じゃないの!?と思っていたが、コジョカルは観客にそうした不快感を感じさせないような演技をした。後で反省したオベロンのセリフにあるように「哀れ」な感じではなく、常にコミカルな感じを保って演技したのである。

眠っている間にオベロンに惚れ薬をかけられ、パックのいたずらでロバに変身したニック・ボトムに一目惚れしてしまい、ロバの耳を「まあ、なんてステキなお耳!」とばかりにいとおしそうに抱きしめる仕草には大爆笑だった。またニック・ボトムを木のうろにある自分のしとねに誘うときは、「うふふふ〜」といった悪戯っぽい淫靡な微笑を浮かべていた。きわめつけがボトムの傍に横たわりながら、ボトムの脇からフトモモをさわさわさわ〜、とセクシーな手つきで触っていたことで、旦那(オベロン)が旦那なら女房も女房だ、と思えて、まったく不快な感じがなかった。

それ以上に凄かったのがコジョカルの踊りだった。NBSが今回の公演に際して彼女につけたキャッチ・コピー「ポスト・ギエム、フェリ世代の女王」には、えっそうなの?と思わないでもない。個人的には、コジョカルはまだまだ典型的な「受身」のバレリーナで、カンパニーから与えられた役をひたすら踊っているだけであり、自分で新しい境地を開こうとはしていないと思うので。しかし、私はコジョカルの踊りがとても好きで、いつも見惚れてしまう。

コジョカルは音楽に上手に合わせて踊る。もたつきやためらいがまったくない。また、ロイヤル・バレエのダンサー独特の、地面に斜めに突き立つような鋭角的なアラベスクをし、メリハリをつけて機敏に動き、安定した強靭な技術を披露し、柔軟な身体能力を駆使して見事に踊っていた。彼女はとても小柄だけど、バネのように勢いよく体を跳ね返らせ、バランスの保持では微動だにせず、これまたロイヤル・バレエのダンサー独特の、なぜか魅力的で心地よいギコギコした動きながらも、柔らかくて優雅にしなる動きには、スティーヴン・マックレー以上に圧倒された。

最も印象に残っているのは、たぶん最後のシーンでのオベロンとのパ・ド・ドゥで、オベロンに手を取られながら、前に伸ばしていた片脚を一気にぶん、と後ろに上げてアラベスクをするところで、コジョカルの脚だけではなくて、彼女の指先、腕から胴体、脚から爪先へのライン全体が弓なりに後ろに反り返り、三日月のような美しい形になった。あんなに小柄なのに凄い迫力があって、しかも非常に美しかった。

でも、私がマックレーとコジョカル以上に感動したのは、東京バレエ団のダンサーたちだった。前に観た東京バレエ団による「真夏の夜の夢」より段違いに良くなっていた。

タイターニアが「恋人」にしなだれかかっているのを見た妖精たちが、最初は笑って近づいていったのが、すぐにそれがロバの化物だということに気づいて仰天して逃げ出すシーンでは、妖精たちの群舞の慌てふためく表情が見ていて笑えた。その後、妖精たちが至れり尽くせり、平然としてロバの両耳に花の冠をかけてやるシーンも「納得するなよ!」とツッコミたくなるほど面白かった。

踊りでは、やはり踊りどころの多いパック役の大嶋正樹が、オベロン役のマックレーに負けない超絶技術で踊りまくった。高く跳んで回転しまくり、最後までパワーが落ちなかった。演技ではライサンダー役の後藤晴雄が最もすばらしいというか大爆笑だった。最初はハーミアにキスしようとして口をむちゅ〜、と突き出し、次には惚れ薬のせいでヘレナにキスしようとして、タコみたいに口を突き出した間抜けな顔で、嫌がるヘレナに迫っていく表情が超笑えた。

惚れ薬をかけられてワケが分からなくなったライサンダーとデミトリアスの決闘シーンも笑えた。二人でヘレナの腕を引っ張り合い、ヘレナが逃げた拍子にライサンダーとデミトリアスが抱き合ってしまうシーンとか、ボクシングのような仕草で拳をぐるぐる回すシーンとか、パックに眠くなるよう魔法をかけられて、二人が同時にアホ面になって(ごめん)ふらつき、木の根元に倒れこむシーンとか、以前の公演よりも演技が格段に良くなっていた。数年前の公演ではシーンとしていた観客も、今回はゲラゲラ笑っていた。

もしかしたらダンサーたちは必死だったのかもしれないけど、いちばん良かったのは、ダンサーたちがノリノリに自分の役柄を楽しんでいるように見えたことだった。そういう雰囲気は観ているこちら側にもすぐに伝染して、とても楽しい気分になれる。

ただ、ハーミア役の小出領子はもっと壊れてもよかったと思う。駆け落ちしてきたハーミアとライサンダーが森の中で眠るシーンでは、ライサンダーは下心マンマンな顔でハーミアに口づけしようとし、またハーミアと一緒に横たわろうとする。ハーミアは口を突き出すライサンダーをやんわりと制し、自分の頬をつついて、唇ではなく頬にキスするようライサンダーに促し、また向こうを指さして、ふたり別々に離れたところで眠るよう提案する。ここは本来ならもっと笑えるシーンのはずなのでもったいなかった。

そういえば、今回の公演の衣装は以前の公演とは衣装が違っていた。ハーミアは鮮やかな緋色のドレス、ライサンダーはワインレッドに近い上衣に淡い紫のタイツで、ヘレナは紺のドレス、デミトリアスは濃い藍色の衣装だった。別に色はどうでもいいんだけど、ライサンダーの紫のタイツは趣味が悪いのでやめたほうがいいと思う。衣装のデザインは以前と変わらず、19世紀ごろのものである。

ヘレナ役の井脇幸江の踊りと演技がすごく良かった。デミトリアスに追いすがって、はねつけられてもつきまとうところでは、デミトリアス役の木村和夫との踊りがとてもよく合っていた。フラれてもフラれてもめげない陽気な表情もほほえましくて、このまえ「牧神の午後」で神秘的なニンフを踊ったのと同一人物とは思えなかった。彼女は「ジゼル」のミルタも踊るけれど、役柄に合わせて雰囲気を変えることができるのはすばらしいと思う。

井脇幸江のすごいところは、踊りと演技との両方を同時にきちんとこなしていることで、たとえばデミトリアスにとりすがってぴょんぴょん跳ぶところで、顔はデミトリアスを見つめてニコニコ笑っていて、脚の動きや形は空中できちんときれいな踊りになっていた。

ニック・ボトム役の平野玲の「ロバ変身後ポワント踊り」もすばらしかった。ポワントで、しかも膝を曲げ、更に跳びながら踊っていた。ロバの仕草もすごく笑えて、お尻を木にこすりつけるところでは大爆笑になった。人間の姿に戻った後、美しい女性(タイターニア)との恋の「夢」を思い出して、鼻の下を伸ばしながらヘラヘラ笑う演技もおかしかった。

カーテン・コールは大騒ぎで、どのダンサーにも大きな拍手と歓声が送られていた。確かにそれだけの拍手喝采を受けるにふさわしい舞台だったと太鼓判を押せる。最も大きな拍手喝采が飛んだのはアリーナ・コジョカルとスティーヴン・マックレーだったが、それ以上に大きな拍手喝采を受けたのは、今回の「真夏の夜の夢」の指導をしたアンソニー(・ダウエル)卿だった。コジョカルはダウエルを本当に尊敬しているようで、ダウエルをダンサーたちの列の真ん中に連れてくると、深々とお辞儀をしていた。

ダウエルはマックレーの手を握って高く上げた。「君は見事にやってのけたぞ!」という感じで、マックレーはダウエルの期待に見事に応えたのだと思う。マックレーがロイヤル・バレエでオベロンを踊るのは来年だそうだけど、ロンドンの観客や批評家がどんな評価を下すか楽しみだ。

カーテン・コールの途中、観客の反応のあまりな激しさのせいか、コジョカルの目が一瞬うるんだように見えた。マックレーも最後にはオベロンのキャラを捨てて、歯を見せて嬉しそうに笑っていた。コジョカルが「インドの子ども」役の男の子(日本人)を気づかうように、しょっちゅう身をかがめて男の子の顔をのぞき込み、またその手をずっと握り続けていたのが印象的だった(観客の反応を怖がってベソでもかいていたのかな?)。

オベロン役とタイターニア役については、なにせ踊りが踊りだけに、カンパニー内に人材を見出すのはなかなか難しいのかもしれないけど(数年前にこれらの役を担当したダンサーたちの踊りから推測するに)、「真夏の夜の夢」は東京バレエ団の得意演目になったんじゃないかなと思う。またぜひ上演してほしい。

(2007年11月11日)


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