Club Pelican

NOTE

「ルジマトフのすべて」

(2007年6月30日、新国立劇場中劇場)

第1部

「ドン・キホーテ」よりグラン・パ・ド・ドゥ。音楽はルードヴィヒ・ミンクス、振付はマリウス・プティパによる。ダンサーはエレーナ・エフセーエワ、ミハイル・シヴァコフ(ともにレニングラード国立バレエ ソリスト)。

6月はとにかく体が疲れて疲れて、毎日ゾンビのような状態で日々を過ごしていた。感覚も麻痺しているようなところがあって、つまりは疲労のあまりに何かを感じる余裕がなかったのだった。グラン・パ・ド・ドゥの華麗な音楽が響いて、エフセーエワとシヴァコフが並んで姿を現わした。

そのとき、エフセーエワの笑顔にまず目が行った。きらきらと輝く瞳、明るい微笑み、彼女の実に魅力的な笑顔を見た途端、頭の中で何かがぱちんと外れた音がした。エフセーエワの笑顔は明るい舞台の上で、ひときわ光り輝いていた。後になって考えるに、人の笑顔に感動したということは、私が少しは元気になってきた証拠だった。エフセーエワはそのとっかかりを作ってくれた。

エフセーエワとシヴァコフの踊りは本当にすばらしかった。彼らのパートナーシップは完璧で、観ているほうが嬉しくてたまらなくなってしまうほど。組んで踊るときのタイミングがバッチリ合っていて、踊りの流れもとてもスムーズだった。しかも録音テープにも関わらず(つまり指揮者が合わせてくれないにも関わらず)、踊りが音楽から外れることは決してない。

キトリが片脚を真横に伸ばしてその場で大きく回転した後、バジルがその腰を支えてポーズをとるところ、一昨日の木曜日に上演された新国立劇場バレエ「ドン・キホーテ」で、キトリとバジルを踊ったスヴェトラーナ・ザハロワとアンドレイ・ウヴァーロフは音楽を外しまくっていたが、エフセーエワとシヴァコフは完璧に音楽に合わせてみせた。

また、エフセーエワの踊りがとにかくすばらしかった。その姿は輝くように美しく生き生きとしていて、踊りやポーズはなめらかでしっかりしていると同時に、優雅で華やかな雰囲気に満ちていた。ロシアのバレリーナはかくも優れている、とあらためて実感した。

シヴァコフは、ヴァリエーションやコーダでの踊りは少し不安定だったが、なにしろエフセーエワとの踊りがしっかりしていた。ロクなリフトもサポートもできないくせに、ソロとなると仇をとるように超絶技巧を次々と披露して、どうだ、と見得を切るような男性ダンサーよりは、このほうがはるかにすばらしい。

「シェヘラザード」よりアダージョ。音楽はリムスキー=コルサコフ、振付はミハイル・フォーキンによる。ダンサーはユリア・マハリナとファルフ・ルジマトフ(マリインスキー劇場バレエ プリンシパル)。

豪華な飾りのついた胸当てに水色のハーレム・パンツという衣装のマハリナが歩いて登場する。彼女はフェミニンな曲線のプロポーションとしなやかな仕草が独特で、あら、マハリナだわ、と去年の「シェヘラザード」の舞台を思い出した。

マハリナ演ずる王妃が誰かを差し招く。途端に金の奴隷の衣装を着たルジマトフが勢いよく現れる。走ってきたルジマトフは舞台の左でジャンプをして止まる。今回は小さな劇場なのに、着地音をまったく響かせず、ルジマトフは柔らかく着地した。足元がまったくブレない。このルジマトフのジャンプに、またもや、あ、そうそう、この人はこういうダンサーだった、と思い出した。

これは王妃と金の奴隷の逢瀬のシーンで、愛し合う王妃と奴隷の情熱が高まっていく様を描いている。去年に全編を観たときは、さほどセクシーだとかエロティックだとか思わなかった。しかし、今回はほんの一部の上演にも関わらず、去年に観た舞台よりも雰囲気が濃密だった。マハリナとルジマトフは体をくねらせ、しなやかな動きで互いに蛇のように絡み合う。「ドン・キホーテ」とは180度ちがう世界で、よくいきなりこれほど異質な空間を作り上げられるものだ、と感じ入った。

「マラキ」、音楽はJ.ボック、振付はドミトリー・ピモノフによる。ダンサーはイーゴリ・コルプ(マリインスキー劇場バレエ プリンシパル)。プログラムによると、この作品はコルプがこの公演のために特に用意したもので、「マラキ」とはヘブライ語で「私の使者」、この「私」とは「神」を意味するそうである。

音楽は中近東、もっと具体的にはイスラエルやパレスチナの民族音楽っぽい感じだった。コルプは背中に茶色の翼のついた丈の長い上着に、赤いベスト、茶色のストライプのシャツ、茶色のズボン、キャメルの靴、という衣装で登場した。これが「神の使者」らしい。舞台上には黒い椅子が一脚だけ置かれていた。

この作品は振付が面白くて、分類しろといわれれば、モダンかコンテンポラリーに属する作品なのだろうが、振付にはクラシックの技がさりげなく、また巧みに取り入れている。コルプは鋭くキレの良い動きで軽快に踊っていた。時おり黒い椅子にまたがったり、椅子の上に立ったりする。コミカルな振りもあって、コルプは途中で上着を脱ぐと、厚い黒縁のメガネをかけ、シャツの襟を両手で引っ張り、まるでレストランのウェイターのような仕草をしたりする。

コールプは急に今回の公演に参加することになったようだが、公演までの短い(だっただろう)間に、良い作品を準備してきたものだと思う。彼の振付家の選択眼は優れているのではないだろうか。また、この「マラキ」はお約束的なクラシックの振りではなかったけれど、コルプの一見コミカルにみえるような踊りでも、彼が実は非常に優れたクラシックのダンサーだということが分かったのが面白かった。

カーテン・コールでは、コルプはふつうのお辞儀はせず、メガネを両手でちょっと持ち上げてみせた。観客がドッと笑う。小さな仕草ひとつで観客の笑いを引き出すのも能力の一つだと思う。去年12月のマリインスキー劇場バレエ日本公演(オールスター・ガラ)で上演された、「パブロワとチェケッティ」のカーテン・コールを思い出す。あのときもバレエ教師であるチェケッティのキャラを保ったまま、しかめっつらしくふんぞりかえって観客の拍手に応じ、観客を笑わせていた。ほんとに個性的で面白い兄ちゃんですな。

「白鳥の湖」より黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥ。音楽はチャイコフスキー、振付はマリウス・プティパ、レフ・イワーノフ。ダンサーはアリョーナ・ヴィジェニナとアルチョム・プハチョフ(ともにレニングラード国立バレエ ソリスト)。

プログラムには、アリョーナ・ヴィジェニナは「黒鳥のグラン・パ・ド・ドゥに挑戦する」と書いてある。ということは、舞台ではまだ「白鳥の湖」のオデット/オディールを踊ったことがないということだろうか?

確かに、ヴィジェニナの踊りにはまだおぼつかないところがあり、たとえば動きがもたもたしているとか、次のステップを踏む前にためらうような「間」が開いてしまう(それとも音が取れない?)とかいった場面が往々にして見受けられた。事前にプログラムを読んでおいてよかった。でなければ、なんじゃこのヘタレな踊りはー!と怒っていたところだろう。

とはいっても、彼女の場合、ヘタなんじゃなくて、まだ慣れていないだけの問題だということは分かる。出だしのオディールの「ポワント歩き→自力アティチュード」はやってのけるし、32回転も軽々とやっちゃうし、あとは場数を踏むだけのこと。

またヴィジェニナの演技はすばらしくて、オデットを思い出した王子に近づいていくところでは、最初は羽ばたきながらオデットのようなはかなげな表情をしていたのが、身を伏せて顔を上げた一瞬の間に、妖艶で邪悪なオディールの顔に変貌していたのは見事だった。ついでにいうと、ヴィジェニナのオディールのメイクもよかった。

いちばん感心したのは、また嬉しい発見だったのは、ジークフリートを踊ったアルチョム・プハチョフだった。プハチョフはヴィジェニナを上手にリードしてフォローしていたし、あとはなんといってもソロの踊りがすばらしかった。ジャンプは高くゆったりとしており、ジャンプのときに前に上げた脚の形と線がとても美しい。ポーズはきれいだし、立ち姿にも気品があった。

聞いたところによると、ミハイル・シヴァコフのほうが日本では人気があるとのことだが、プロポーション、姿勢の美しさ、踊りの実力では、プハチョフのほうがすばらしいと思う(ただ前髪の量でシヴァコフに負けるだけで・・・)。エフセーエワ、プハチョフと、今回の公演では「おお、これはすばらしい発見!」と新たに魅力を感じたダンサーが2人も出てくれて嬉しい。

「牧神の午後」(「ニジンスキーの肖像」より)、音楽はドビュッシー、振付はヴァーツラフ・ニジンスキー、改訂振付と演出はファルフ・ルジマトフによる。ダンサーはユリア・マハリナ、ファルフ・ルジマトフ。

この公演での(私個人が思うところの)いちばんの白眉。ドビュッシーの「牧神の午後への前奏曲」が流れると、黒のスーツを着たルジマトフと、黒のシースルーのロングドレスを着たマハリナが背中合わせに座っている。どうやらこれが牧神とニンフらしい。衣装はすごくシックでセンスがいい。

ところが、踊りは基本的に腕と手が独特のポーズをとるもので、ルジマトフもマハリナも、両腕をやや曲げた状態で伸ばして硬直させ、手のひらを広げて指をピンと伸ばしていた。マハリナは両腕を曲げて胸の上で交差させたポーズをとったまま、ルジマトフにリフトされる。

ルジマトフは黒いスーツを着ているが、白いシャツの前をはだけていて、着崩した格好。徐々に目が慣れてくると(それともライトが徐々に明るめになった?)、マハリナの黒いシースルーのロングドレスの下に透けて見える体の線が目立って、とても美しくセクシーだった。ちなみにマハリナは、ドレスの下は胸と下半身に黒いサポーターを着けているだけの状態で、下のサポーターが、これがまた超ハイレグで、いっそう色っぽかった。

最後のあたりで、マハリナが舞台に背を向けて、ルジマトフの姿を遮るようにして立ちはだかる。このときにマハリナのほとんど全裸な体のラインが照明の効果で浮き出て、あまりのセクシーさに呆然。ルジマトフはマハリナの体の前で身をのけぞらせる。「シェヘラザード」よりも抑え目で抽象的な表現だけど、危険なほど美しくてエロティックだった。

それからルジマトフは客席に背中を向けているマハリナのドレスの肩か首のストラップを外してしまう。実際にはそうではなかったろうが、客席から見てると、まるでマハリナがトップレスになったようでなおさらドッキリした。ルジマトフは上着を脱ぐと、それをマハリナの上半身にかぶせてやり、彼女の肩を抱きながら去っていく。

振付は古代絵画のようで、エジプト壁画みたいなギクシャクとした踊りなのに、しかし衣装は超現代的、そのギャップがなぜか非常に魅力的だった。しかもこの衣装と踊りが音楽にもとても合っている。このすばらしい発想には思わず唸った。

第2部

「道」、音楽は「アルビノーニのアダージョ」を電子楽器で演奏して女声ソプラノの歌が付けられたもの。振付はD.メドヴェージェフによる。ダンサーはユリア・マハリナ。

プログラムによれば、この「道」はマハリナのために特に振り付けられた作品とのこと。初演は2004年で、振付からいって、いちおうモダンかコンテンポラリーに分類される作品だと思う。ただ、振付は古くさくて野暮ったく、日本でいえば昭和の高度成長期ごろの現代舞踊といった感じである。音楽はいわゆる「ヒーリング・クラシック」系のCDにでも入っていそうな感じで、陳腐きわまりない。

マハリナは暗いオレンジのロングドレスを着て、舞台をドタドタと駆け回ったかと思うと、いきなり床に倒れ伏し、もんどりうって悩み苦しみ、次には一転してニヤニヤと自虐的な笑いを浮かべ、時おり唐突に片脚を耳の傍まで高々と上げてクラシックの振りで踊る。

振付者のD.メドヴェージェフは「若手」で、レニングラード国立バレエに所属し(ダンサーなのか振付家なのかは不明)、最近はプラハで「オネーギン」(音楽不明)を振り付けたそうだ。その「オネーギン」もこんな調子だったら、さぞ悲惨な作品に仕上がったことだろう。

マハリナはたぶんエモーショナルな性格で、情熱的な表現を得意とするのだ(というより好きなのだ)と思う。だけど、私が感じたことには、情熱の過剰な表現は逆に白けてしまうし、情熱を抑制なく外に垂れ流すのが「表現」なのではない。マハリナは「シェヘラザード」や「牧神の午後」では、あれだけ豊かな表現力を発揮したのだから、「モダン」や「コンテンポラリー」の新作を踊る場合は慎重を期すべきで、音楽と振付家はよくよく吟味して選んだほうがよいのではないか、と思った。

「海賊」よりパ・ド・ドゥ。音楽はリッカルド・ドリゴ、振付はマリウス・プティパ、V.チャブキアーニ(男性ヴァリエーション)による。ダンサーはイリーナ・ペレン(レニングラード国立バレエ ソリスト)、イーゴリ・コルプ。

この公演での白眉その二。クラシック作品の真打ち登場、といった感があった。ペレンは淡い水色のチュチュ、コールプは上半身裸にえんじ色のハーレム・パンツ姿で登場した。アリのハーレム・パンツは水色だと思っていたけど、別に決まっているわけではないのね。

ペレンは相変わらず美しくて、優雅にメドーラを踊った。踊りには安定感と余裕があった。エフセーエワもすばらしかったけど、やっぱりペレンは発散するオーラからして違うなあ。私はペレンを1年おきや半年おきのペースで観ているだけなのだけど、見るたびに踊りが前回とは段違いに良くなっているのでいつも驚いている。

特に今年の2月に観たレニングラード国立バレエ「バヤデルカ」での、ペレンのニキヤの踊りにはびっくりした。今回はパ・ド・ドゥだけだったが、ペレンには静かで落ち着いた雰囲気が備わり、踊りは非常に安定していて流麗だった。ところで、ルジマトフはペレンのことをあまり好きでないのではないか、と私は勝手に思っていたのだけど、好きでないのなら自分のプロデュースする公演に招聘するはずがないか。

また勝手に思うことには、ペレンはレニングラード国立バレエの枠の外に出てもやっていけるダンサーだろう、と。彼女にその気さえあれば、他のカンパニーでも、他の国でも成功できる能力と可能性を秘めていると思う。

アリを踊ったイーゴリ・コルプは凄かった。体がしなやかで柔らかく、また技術がとにかくすばらしい。前に踊った「マラキ」とは振付のスタイルがまったく異なるのに、踊りが完全に「海賊」のクラシックのスタイルになっていた。作品によって、これほど印象や踊りをコロコロ変えることのできるダンサーも珍しい。

ヴァリエーションでは、顎を上げ、上半身を反らし気味にして、半爪先立ちで立ち、曲げた片脚を後ろに腰より上にまで、がっ、と一気に上げるポーズがとても美しい。はじめて裸の上半身を見たけど、ガリガリでさほどマッチョではなかった。コーダでは、回転ジャンプをしながら舞台を一周するところで、定期的に上に高く跳びあがって更に回転する、という技を織り込んでいた。

今になって思うに、今回の公演をより魅力あるものにしてくれたのは、コルプの功績が大きかったのではないか。ルジマトフの人を見る目は確かだな、と思った。

「阿修羅」、音楽は藤舎名生の「玄武」を用い、ボリショイ・バレエのダンサー、岩田守弘がルジマトフのために振り付けた作品である(2007年2月初演)。ダンサーはもちろんファルフ・ルジマトフ。

ルジマトフは上半身は裸、有名な阿修羅像をもとにデザインしたのだろうが、仏像のような白い腰衣状のハーレム・パンツを穿き、額にはビンディーを付け、頭頂部には小さな髷まで結っていた。

音楽は能のかけ声や笛、太鼓の音みたいなもので、もちろん録音テープだった。でも、ルジマトフは実に見事に音に合わせていて、また音がない静寂の間も踊り続けて、次の動きをやると同時にバッチリのタイミングで音が再び始まるので、いったいどれほど踊り込んだのだろう、とびっくりした。

振付は動きに統一感があって、ロシアの「モダン」、「コンテンポラリー」作品にはよくあるバランスの悪さ、たとえば「基本的な構成と振りは90年代フォーサイス作品風で、時にいきなりクラシック・バレエお約束の振りが出てくる」的要素がなかった。

脚はほとんど動かさず、阿修羅像の三面六臂のように、ルジマトフは無表情のまま両腕をせわしなく動かし続ける。人差し指を立てる仕草を盛んにしていたが、あれは何か意味があるのだろう(友人説:阿修羅は戦神だから軍勢を指揮している)。また腕を硬直させて静止する。これまた阿修羅像のような威厳と静謐さが漂っていた。

ただ、この作品は日本では上演しないほうがよかったと思う。観ていて(聴いていて)どうしても気恥ずかしさを覚えてしまったから。特に舞台の奥に現れた、書道家の筆になるという「阿修羅」と書かれた幕には困った。「夜露死苦」とか「喧嘩上等」と同じに見えてしまう。

残念ながら、この「阿修羅」には、去年に観た「アダージェット」ほど感動はしなかったし、インパクトもあまりなかった。振付がよくなかったというよりは、余計な外見的オプションを付けすぎた。ビンディー、髷、「阿修羅」の掛け軸(?)は明らかに不要。「阿修羅」を踊るために、ルジマトフに阿修羅像の格好をさせる必要はない。あくまで踊りそのもので「阿修羅」を表現すればいい。そのほうが、もっとルジマトフが持つ稀有の能力を際立たせることができたはずだと思う。

この第2部が終わった時点で、マハリナ、コルプをはじめとする「バレエ組」のカーテン・コールが行なわれた。

第3部

第3部は「フラメンコ組」による踊りとなる。今回の公演に参加したのは、ロサリオ・カストロ・ロメロ率いるコンパニア・スィート・エスパニョーラのダンサーたちである。ルジマトフとは以前にも共演しているらしい。

「ブレリア」、音楽はP.ガルシア、振付はR.C.ロメロ(←どっちか分からん)による。ダンサーはロサリオ・カストロ・ロメロ、リカルド・カストロ・ロメロ、男性ダンサー1人(氏名未記載)。

最初は3人で踊っていたのだが、途中で女と男が去ってしまう。取り残された男(リカルド・カストロ・ロメロ)は舞台の前面に出て、かなり長い時間ひとりで指を鳴らしながら細かいステップを踏む。

私はフラメンコにはまったくの門外漢で、何をどう楽しめばいいのか分からなかった、というのが正直なところ。でも、リカルド・カストロ・ロメロの長時間にわたる細かいタップ(というのか?)と、すごくよく響く指パッチンの音には感心した。マイクで音を拾ってアンプで流す必要はなかったんじゃないのかな?

どーでもいいことをひとつ。男性陣が穿いていたフラメンコ用のズボンには「社会の窓」がなかった。留め金もボタンもなかった。ということは、トイレに行ったらずり下げて用を足すしかないわけだ(←ホントにどーでもいい話だな)。

「ボレロ」、音楽はラヴェルの同名曲を用いており、振付はリカルド・カストロ・ロメロによる。ダンサーはファルフ・ルジマトフ、ロサリオ・カストロ・ロメロ、リカルド・カストロ・ロメロ、ジェシカ・ロドリグエズ・モリナ、アナ・デル・レイ・グエラ、ハビエル・ロサ・フランシスコ、ホセ・カストロ・ロメロ(←この人も兄弟?)。

これも何をどう楽しめばいいのか分からなかった。天井から吊るされた2枚の大きな白い布の真ん中で、白地に黒いフリルの飾りが幾筋もついたドレスを着た女性(ロサリオ・カストロ・ロメロ)が眠っている。黒いシャツに黒いズボン姿の男(ルジマトフ)が現れ、眠っている女性の背後に佇む。

途中からステッキを持ち、黒いシャツに、幅広で足首まである丈長のキュロット状のズボン(←これは面白い衣装だった)を穿いた3人の男性ダンサーが登場し、ステッキを激しく速く床につきながら踊る。

やがて目覚めた女性は男(ルジマトフ)と官能的な振付の踊りを踊る。女性が2枚の白い布の端を持って様々な形を作り、また布を自分の体に絡めたりしていて、それがまるで蝶々か鳥の翼のようできれいだった。

だが、男たちや女たちが現れて、ルジマトフと女性を引き離してしまう。それでも抱き合おうとする恋人たち。男の1人が、ルジマトフに向かって短剣を向けて突進する。女性はとっさにルジマトフを庇って自分が刺される。女性はルジマトフの腕の中で息絶える。

「カルメン」の逆ヴァージョンかいな、と思ったのですが、プログラムを見たら、この「ボレロ」にはちゃんとストーリーがありました。

ルジマトフはなんとミノタウロス(半人半牛)で、白い布の中で眠っていた女性(ロサリオ・カストロ・ロメロ)はラ・ルナ(月の女神?)で、他の男女は「夜とフラメンコのドゥエンデ(精霊)」(←???)で、その中の1人(リカルド・カストロ・ロメロ)は、ミノタウロスを殺そうとするが、ラ・ルナがその身代わりとなって殺される、というものだったらしいのです。あの白い布は、ラ・ルナが自分の姿を映して髪を梳く川だったらしい。

ルジマトフの表情や、踊るときの姿勢は美しくカッコいいことこの上ないものだった。他の男性ダンサーたちが、揃ってデバラのメタボ男だったのに比べたら、ルジマトフのほっそりしたプロポーション、ポーズ、身のこなしは確かにすばらしかったと思う。

ただ、ルジマトフの魅力の中で、これはルジマトフだけが持つ稀世の能力だ、と私が思い、またそれに惹かれてならないものは、この「ボレロ」でのルジマトフの踊りにもやはり見られなかった。私には、この「ボレロ」にルジマトフが出なければならない必要性がどうしても分からない。でも観客の反応は上々だった。

つまり、こういうことだと思う。もし私の好きなアダム・クーパーがミュージカルに出演すれば、私は彼の全面的なファンだから、たとえクーパー君が本領を発揮できる(と私が思っている)タイプではないダンスを踊ったとしても、私はそれをすばらしい、カッコいいと思う。

それに対して、私はルジマトフの全面的なファンなのではなく、ルジマトフの「一部の要素(彼の身体そのものによる表現能力)」に対するファンなのだ。だから、ルジマトフがフラメンコを踊って、それの何がすばらしいわけ?と不思議に思ってしまう。

そーか、ロシアではフラメンコが「斬新」な踊りなんだな、と感じたし(これは以前の政治的な事情も関係しているのでしょうね)、マハリナの踊った「道」の、お世辞にもすばらしいとはいえない振付を考え合わせると、ロシアのダンサーは、もっと「西側」のダンス・シーンについて、見聞を広めたほうがいいのではないか、と思った。もちろん、ロシア国内でのみ上演するのなら、まったく問題はないでしょうが。

でも総合的には、チケットの価格がお手ごろだった割には、参加メンバーの顔ぶれは充実していたし、パフォーマンスのレベルも高かった。これはお得であった。久しぶりに満足感でいっぱいだった。

(2007年7月10日)


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