Club Pelican

NOTE

Kバレエ カンパニー 「白鳥の湖」

(2007年2月24日、東京国際フォーラムCホール)

会場は相変わらずの大賑わいであった。今日の公演には熊川哲也は出演しないが、吉田都が長いこと「封印」していた「白鳥の湖」を踊るというのだから、当然のことだろう。

プログラムが販売されていて、今回は2,500円とこのバレエ団にしては安かった。買おうと思ってまずサンプルをパラパラとめくった。前回の「白鳥の湖」公演写真、熊川版「白鳥の湖」の推薦文、「白鳥の湖」のあらすじが書いてある。他に「白鳥の湖」をめぐるエピソードの紹介があったが、「白鳥の湖」の初演は失敗した、オデットとオディールはもともと別のダンサーが踊っていた、という類の他愛ない内容だった。買うのをやめた。

「白鳥の湖」、音楽はチャイコフスキーの同名曲を用い、原振付はマリウス・プティパとレフ・イワーノフ、演出と再振付は熊川哲也による。舞台美術と衣装はヨランダ・ソナベンドとレズリー・トラヴァース、照明は足立恒。

主なキャスト。オデット:吉田都;ジークフリード:芳賀望;ロットバルト:スチュアート・キャシディ;オディール:松岡梨絵;王妃:天野裕子;家庭教師:デイヴィッド・スケルトン;ベンノ:橋本直樹;パ・ド・トロワ:副智美(第1ヴァリエーション)、アレキサンドル・ブーベル(第2ヴァリエーション)、神戸里奈(第3ヴァリエーション);

4羽の白鳥:神戸里奈、小林絹恵、副智美、中谷友香;2羽の白鳥:長田佳世、柴田有紀;

姫君たち:長田佳世、東野泰子、副智美、樋口ゆり、柴田有紀、中島郁美;ナポリの踊り:神戸里奈、アレキサンドル・ブーベル、ピエトロ・ペリッチア;スペインの踊り:浅川朋子、鶴谷美穂、沖山朋子、木島彩矢香、杜海、ピョートル・コプカ、宮尾俊太郎、スティーブン・ウィンザー。

演奏はシアター・オーケストラ・トーキョー、指揮は磯部省吾。

私が買ったのはS席のチケットで、代金は18,000円だった。これは日本の他のバレエ団の公演と比べるとおよそ2倍の料金であり、また外国の有名バレエ団の日本公演と比べると、去年のボリショイ・バレエのS席料金とほぼ同じである。よって、もちろんボリショイ・バレエと同レベルの公演内容を期待して観ることにした。

幕が開くと、天井から吊るされた装飾の美しさに感心した。曲線を描く金のポールが重なって網のような形を作り、中央からはシャンデリアのように大きな飾りが下がっている。他のバレエ団の「白鳥の湖」のセットは、背景には凝っていても天井にはあまり注意しないものだが、熊川版のこのセットはとてもゴージャスで美しかった。背景のセットもハリボテっぽい安普請な感じがなくて、きっと上質の材料でしっかりと作られているのだろう。

この熊川版には「プロローグ」がある。薄い生地で淡い色合いのドレスを着たオデット(吉田都)がたたずんでいる。すると、その背後にロットバルト(スチュアート・キャシディ)が現れて、大きな翼でオデットをすっぽり包んでしまう。ロットバルトが再び翼を広げると、そこには白鳥の衣装を身に着けたオデット(代役)が、客席に背を向けて羽ばたいている(この間、吉田都はキャシディの後ろにかがんで隠れている)。オデットがロットバルトによって白鳥の姿に変えられてしまったことを説明するもので、ブルメイステル版やアクロバティック「白鳥の湖」(笑)と同じ演出である。

衣装もやはり質の良い生地で作られているらしかった。デザインもセンスが良くて色彩も美しい。中世のヨーロッパ風に、とはあんまりこだわっていないようで、ほどよくアレンジされた衣装ばかりだった。昔のヨーロッパには違いないけど、でもどの時代のどの国なのか分からないこれらの衣装は、この作品の神秘的で幻想的な雰囲気を強めていた。

熊川版には道化が出てこない。道化的な役割はベンノ(王子の友人兼侍従)が担っており、多くの版で道化が踊るはずの音楽でも、ほとんどベンノが踊っていた。ベンノ役の橋本直樹の演技と踊りは、新国立劇場バレエとマリインスキー劇場バレエ「白鳥の湖」で、道化を踊っていたダンサーたちの踊りには遠く及ばない。

第一幕は群舞とパ・ド・トロワが中心である。群舞を見ていて奇妙なことに気づいた。大部分のダンサーのステップがおかしい。足がちゃんと動いていない。もたもたと半端に動かして、次のステップへと移ってしまう。男女が組んで踊るときも、サポートやリフトがなめらかでなくガタガタしている。

お互いの腰に手を回して、ぐるぐる回転する動きですらもぎこちない。群舞が輪になって舞台上を回っている最中に、女性ダンサーが転んで尻餅をついた。舞台から「きゃあっ!」という悲鳴とともに、「ハハハ!」という笑い声が聞こえた。観客が笑ったのではない。舞台上にいる群舞のダンサーたちの数人が笑ったらしかった。

王妃が貴族たちを引き連れて登場する。豪華なドレスのデザインは様々でとても美しかった。このシーンでは、王妃(天野裕子)が王子(芳賀望)に結婚するよう命じるマイムが見られて面白かった。王子はそれを聞くとひどくうろたえてしまう。王子自身は結婚にまったく乗り気でないばかりか、ほとんど嫌がっているのがよく分かる。

王子役の芳賀望は、演技も踊りもまだまだ発展途上という感じであった。演技は表面的で「教えられたとおりにやってます」感が強く、身のこなしは柔らかい優雅さに欠け、踊りもやっとこさそれぞれの技巧をこなしているという印象である。まあこれからも頑張って精進して下さい、と優しいことを言いたい気持ちになる。でもよく考えると、18,000円も払った舞台の王子役が、あの程度のダンサーだったのだった。

パ・ド・トロワ(副智美、アレキサンドル・ブーベル、神戸里奈)が始まった。振付がいつも観ているのと違ったので、熊川哲也は全面的に振付しなおしたんだな、と思った。ところが男女の組み方は同じだ。しばらくしてようやく、振付自体はいつも観ているのと同じだと気がついた(男性のヴァリエーションは一部が改変されていた)。ダンサーたちが踊れていなかったので分からなかったのだ。特に女性ダンサーの足さばきは見るに堪えないほどだった。パ・ド・トロワを踊るダンサーには、そこそこ優秀な人材をキャスティングするはずだ。このバレエ団では、彼らがそこそこ優秀なダンサーらしかった。

第一幕の群舞とパ・ド・トロワで、このバレエ団の実力がよく分かった。Kバレエ・カンパニーは、熊川哲也(と今はそれに加えて吉田都)をフィーチャーするために、特に組織された「バレエ団」なのだ。それが分かった以上、もうボリショイ・バレエと同じ水準の舞台を期待するのはやめにした。知人が慰めてくれたとおり、「お金を風に飛ばされたと思ってあきらめる」しかない。

休憩時間なしで第二幕に入る。第二幕では、ロイヤル・バレエが上演している「白鳥の湖」の影響がとりわけ顕著にみられた。

それに先んじて、まずロットバルトが現れて舞台の上をジャンプしながら駆けめぐる。スチュアート・キャシディのジャンプは重くてすぐに着地してしまう。ロットバルトの衣装には大きなマント状の羽根がついているので、ジャンプのような大きな動きをするには不都合なのかもしれない。

ベンノ率いる王子の友人たちが集団で現れる。ロイヤル・バレエだなあ。願わくば、大昔のロイヤル・バレエの「白鳥の湖」のように、グラン・アダージョで王子とベンノとオデットが一緒に踊るのだけはやめてほしいものだ。ベンノらは肩をすくめて両腕を広げ、「?」という仕草をする。王子とはぐれてしまったのである。そこへロットバルトが樹の上から姿を現わす。ベンノたちはなんとなく恐怖を感じたのか、不安そうに周囲を見回すと、王子を探して去る。

ロシアのバレエ団とかの「白鳥の湖」だと、ここでは人形の「白鳥隊」がすすす〜、と舞台の奥を横断していくことが多い。この間のマリインスキー・バレエの「白鳥の湖」もそうで、その中の一羽が王冠を頂いていた。つまりはそれがオデットなのだが、あまりに演出がベタすぎて、そろそろこーいうのはやめてほしい、と思った。その点、この熊川版では白鳥のぬいぐるみが出てこなかったので安心した。

ボウガンを持った王子が現れる。王子は獲物を見つけていったんはボウガンを構えるが、やがてボウガンを下ろして舞台の隅に身を隠す。オデットが現れる。

吉田都のオデットは表情がはっきりしていて、いきなり人間(王子)と出くわして驚き、王子を警戒して恐れおののいているのがよく分かった。何を考えているのか分からない能面みたいな表情のオデットよりは、私はこちらのほうが好みである。

もっとも、ロイヤル・バレエの「白鳥の湖」を取り入れてしまうと、どうしてもオデットが多弁になり、より人間くさくなってしまうのである。王子と出会ったオデットは、王子に対して自分の身の上を語る長いマイムをする。これも現在のほとんどの版では削除されてしまっているマイムである。このマイムを実際の舞台で見るのははじめてで、とても興味深かった。「ジゼル」でもそうだったが、クラシック・マイムを保存してくれている熊川哲也に感謝だ。

オデットはおなじみの短いチュチュだが、白鳥たちはスカートの裾部分にシャギーを入れて先細りさせたような長いチュチュを着ている。これもロイヤル・バレエ版「白鳥の湖」の白鳥たちの衣装を踏襲したものである。でも色合いがきれいで、純白ではなくて、ちょっと青みがかった感じであった。オデットと白鳥たちが頭につけている羽の飾りも、他では見られないような、ちょっと変わったデザインだった。

白鳥たちが勢ぞろいするとロットバルトが現れる。ここでのロットバルトの仕草で、舞台前面の中央にかがみこんで、羽根状のマントで体全体をすっぽりとくるみ、肩を聳やかして首を大きく振るのが、フクロウが首を振る仕草そっくりで面白かった。整然と居並ぶ白鳥たちの前で、ロットバルトがこういう動物っぽい仕草をしているのは、フォーメーション的にも面白いし、演出的にも不気味で非常に印象に残った。

白鳥たちが舞台の右に寄り集まると、そこへベンノをはじめとする王子の友人たちが現れ、白鳥たちに向かって各自ボウガンを構える。間一髪のところで王子が駆けてきて友人たちを制止し、ついでオデットも現れて白鳥たちを庇い、白鳥たちの前で両腕を広げて立ちふさがる。これもロイヤル・バレエ版の演出をそのまま取り入れたものである。

見どころのグラン・アダージョが始まる。ベンノはいなくなって、王子とオデットだけで踊ってくれるらしかったので安心した。王子役の芳賀望は、立ち居振る舞いや踊りは発展途上だと感じたが、サポートやリフトはとてもなめらかで上手だった。オデット役の吉田都とのタイミングもよく合っていて、安心して見ていることができた。

もとはといえば、吉田都のオデットが目当てで今回の公演のチケットを買ったのだった。今までいろんな「白鳥の湖」を観てきて、オディールよりはオデットのほうが、踊りやキャラクターづくりが難しい、ということを感じていたから、吉田都のオデットにはすごく期待していたし、観るのを楽しみにしていた。

吉田都は相変わらず丁寧で繊細極まりない動きで踊っていた。腕の動きはなめらかで、爪先の動きは細かく、脚をゆっくりと、しかもツボにはまった緩急自在なタイミングで上げ下げする。

それに、吉田都は踊りながらきちんと演技もしている。吉田都のオデットは感情表現のはっきりしたキャラクターだから、オデットがどんな心情で踊っているのかがよく分かる。特に、オデットが王子を愛していながら、でも自分は王子から離れなくてはならない、と始終葛藤しているのが感じられた。

王子に行くな、と手をつかまれると、吉田都のオデットは悲しげな表情で、それを必死にふりほどこうとして、上半身を折り曲げて首を振り、同時に両脚を細かく震わせて、地団駄を踏むようなステップをする。こうして、マイムと演技と踊りとをうまく融合させてしまうのはさすがだった。

確かに吉田都のオデットはすばらしかった。ただ、よく考えると、吉田都ならではのオデットを見た、というよりは、吉田都が相変わらずの彼女の踊り方でオデットを踊っているのを見た、という印象だった。また、オデットのヴァリエーションやコーダでの吉田都の踊りには、こんなことを言うのは酷かもしれないが、彼女の現在の身体的な能力が決して万全ではないらしいことが窺われたし、また理由は分からないが、技術の面で行き届かないところがいくつかあった。

オデットのヴァリエーションでは、脚を横に高く上げるときの、左右の脚の高さが非常に極端に異なっており、脚を後ろに蹴り上げるようにするジャンプは弱々しく、それから片脚を後ろに伸ばしてアラベスクをする流れもスムーズでなかった。コーダでは、羽ばたきながら両足を細かく交差させるとき、その両足が驚いたことにほとんど動いていなかった。いくつかの部分では、振りをこなすのに手間取った結果、音楽に遅れてしまう、ということにもなった。

正直に言うと、吉田都のオデットは、一回観ただけでもう充分だ、という気がしている。もう観たくない、という意味では決してなく、もう満足した、という意味である。

休憩時間を挟んで第三幕。第三幕は、圧倒的にブルメイステル版の影響が目立った。またヌレエフ版(ウィーン国立歌劇場バレエ団上演版)、ロイヤル・バレエ上演版の演出や構成も取り入れられていた。

第三幕で私が苦手なディヴェルティスマンは、この熊川版では半分が削除されていた。踊られるのは「ナポリの踊り」と「スペインの踊り」のみである。これは助かった。「姫君たちのワルツ」は、踊りの配置と構成がとてもよかった。全部で6人の姫君たちがいるが、まず3人が前に出てきて、三角の形に散らばって、違う振りで連鎖していくように踊る。最初の3人が踊り終わると、残りの3人が出てきて同じように踊るのである。振付もとても上品でかわいらしかった。

人間に化けたロットバルトとオディールの登場シーンは、まさにブルメイステル版を踏襲したものだった。これで人間に化けたおつもりかい、と言いたくなるようなデカいマントを、ロットバルトが両手で大きく広げたまま出てくる。ロットバルトがマントをおさめた瞬間、その背後からオディール(松岡梨絵)が威勢よくジャンプをして姿を現わす。

その後で「スペインの踊り」が踊られるが、面白いことに、オディールが「スペインの踊り」の途中から出てきて、彼らの間を縫うようにして踊るのである。「スペインの踊り」を踊るダンサーたちは、全員が目を隠す黒いマスクをしていて、ちょっと怪しげな雰囲気である。その彼らにオディールがからむのは、「スペインの踊り」を踊っている連中もロットバルトの手下だということを示していて、ディヴェルティスマンを踊る人々の全員をロットバルトの手下だと設定したブルメイステル版に、またもや沿った解釈である。

「黒鳥のパ・ド・ドゥ」は、まず導入部とアダージョは多くの版で踊られている曲(原曲では第一幕にあったもの)を用いていた。王子、オディールのヴァリエーション、コーダの曲はブルメイステル版と同じである。

アダージョの振付はかなり変えられていたんじゃないのかな?見慣れた踊りとかなり違っていた気がするから。背景にオデットの幻影が現れるシーンがあったが、そのオデットは泣くマイム(両手の指をゆらゆらさせながら顔に当てて下げる)をしていて、ここはロイヤル・バレエの上演版と同じである。このへんから観ている側としてはちょっと紛らわしく感じられてきた。

オデットのことを思い出して躊躇する王子にオディールが近づく。ここでのオディールの仕草も面白かった。オディールは身をかがめながら、王子の背後からゆっくりと忍び寄るが、途中でロットバルトがやったのと同じく、ぶる、ぶる、と鳥のように首を振る。オディールもロットバルトの同類である、ということが分かる。

ただ、あまりに分かり安すぎて、ちょっと悪ノリのしすぎではないかな、とも思った。なんでかというと、妖艶だが下品な女にオディールがなってしまったからである。オディールが悪魔であるということは、ちょっとだけさりげなくほのめかせばよい、と私は考えているので、面白いことは面白かったが、やりすぎな感じもした。

オディール役の松岡梨絵は、弾けるように元気に跳び、敏捷にキレよく踊っていた。演技のほうは明らかに「いかにもオディールらしく、また段取りどおりに演じてます」という感じで、お世辞にも魅力的とはいえなかった。ヴァリエーションでは振付が難しすぎたのか、音楽に遅れながらも必死にこなしていた。でもコーダでのフェッテは堂々としていて立派だった。ちなみに、オディールのヴァリエーションも、細かい振りは忘れたが、踊りのタイプはブルメイステル版によく似ていた(コーダのフェッテ直前の登場の仕方も同じ)。

「黒鳥のパ・ド・ドゥ」が終わって、王子がオディールに求婚する場面で、「姫君たちのワルツ」が繰り返され、王子とオディールは一緒に踊る。これはヌレエフ版と同じで、更に振付もそっくり同じだったので笑えた。それともヌレエフが誰かの版を踏襲していて、熊川哲也もそれを採用したのかな?

休憩時間なしで第四幕に入る。第四幕はようやく「熊川版」という感じになった(だがやっぱり、ところどころがブルメイステル、ロイヤル・バレエ、そしてドリゴ版から切り貼りされていたが)。

まずリッカルド・ドリゴがチャイコフスキーの別の曲から増補した「白鳥たちの踊り」がなかった。白鳥たちのところへオデットが駆け込んできて、王子が自分を裏切って別の女に愛を誓ってしまった、ということをマイムで訴える。ここからが面白い。

白鳥たちとデザインは同じなんだけど、少し黒やこげ茶色が入った衣装を着た「黒鳥隊」が、なんとオディールに率いられて飛来する。オディールが第四幕に出てくるなんて思いもよらなかった。そうだよなあ、第三幕のパ・ド・ドゥしか出番がないなんて、別キャストにする意味がないもんなあ、と納得した。でも、何のために出てきたんだろ?

ぜんぜん過激ではなかったが、白鳥隊と黒鳥隊、オデットとオディールが入り混じっての善悪直接対決になる。人間の修羅場みてえ。「王子はアタシのものよ」とオディールは自信満々で、どうしてもオデットと白鳥隊が押され気味だ。途中でオデットとオディールが同じ振りで踊るところがあった。でも何の意味があるのか、やっぱりよく分からない。

ついにオデットは黒鳥隊の一群に取り囲まれて、その姿を隠されてしまう。そこへようやく王子が駆けつける。王子はオデットを見つけ出すと、その体を起こしてやる。そして彼女を裏切ってしまったことの許しを請う。それからオデットと王子は一緒に踊るが、ここでいきなりドリゴが増補した音楽が演奏される。振付もドリゴ版の踊りとまったく同じである。オデットは王子に支えられて回転したり、片脚跳びをしながら王子から遠ざかっていく。吉田都のこの片脚跳びは、速さが一定で足元もグラつかず、とてもきれいだった(バランスを崩したために、跳びながらスピードアップしてしまうダンサーはよくいる)。

再びオディール、ロットバルトが現れる。ロットバルトはオデットを攫って持ち上げ、オデットの魂はオレのもの、というふうに王子を威嚇する。ここで、オデットがけっこう手足をバタバタさせて果敢に抵抗していたのが珍しかった。王子はなんとかオデットを助け出すが、今度はオディールが邪魔に入って、オデットを追いつめる。一方、王子はロットバルトと文字どおり取っ組み合いのケンカになり、ロットバルトに勢いよく投げ飛ばされ、床に叩きつけられる。意外だが、この「王子&ロットバルト肉弾戦」もブルメイステル版の演出にある。

絶望したオデットは最後の賭けに出る。オデットは拳を握った両腕を交差させて、「私は死ぬ」と王子に告げる。そして、舞台の左奥に飛び込んで姿を消す。どうやら湖に飛び込んで入水自殺したらしいが、白鳥が湖に飛び込んで死ねるものなのだろうか(←冗談)。すると、ロットバルトはたじろいでよろめき、それとともにオディールは消えて煙と化す。オデットの自己犠牲によって、ロットバルトの魔力が削がれたのである。

王子は自分もオデットの後を追って湖へと飛び込む。ロットバルトは完全に力を失い、よろめきながら岩陰に消える。再び白鳥たちが現れる。

舞台の中央に紗幕が下ろされ、その向こうが暗くなる。紗幕の前では白鳥たちがゆっくりと踊っている。舞台の奥が再び明るくなる。すると、そこには銀の階段があり、プロローグと同じドレスを着たオデット姫がたたずんでいる。紗幕の向こうはどうやら死後の世界らしい。彼女は死んでようやく人間に戻れたのだ。そこへ王子が現れ、オデットの手を取って一緒に階段をのぼる。

階段をのぼりきったところで、オデットと王子は嬉しそうに笑って抱き合う。白鳥たちは、オデットと王子を中心に放射状に並んで身を伏せる。幕が下りる。

つまり、オデットと王子は死ぬんだけど、天国で幸せになった、という結末らしい。私がよほどひねくれているのはよく分かっているが、ラストのこの演出、私にはまたも悪ノリのしすぎのように感じられた。なんか一昔前の少女マンガのラブ・ストーリーみたいにベタというかね。

確かに、レニングラード国立バレエ団が上演しているボヤルチコフ版みたいにそっけなさすぎるラストは物足りないが、あまりに具体的すぎるラストもどうかと思う。オディールのキャラクターも過剰に典型に流れた悪魔だったが、このラストも過剰に典型に流れた劇的さだ。さりげなく匂わせるくらいの演出でいいんじゃないか。他の作品なら、一々具体的に説明していって全体の辻褄を合わせるのもいいけど、「白鳥の湖」には、観る側が自由に解釈できる余地や神秘性が残されていてほしい。

熊川哲也版「白鳥の湖」の出発点は、チャイコフスキーの原曲だというのはよく分かった。決して最初から切り貼りしたわけではないはずだ。でも、ロイヤル・バレエ上演版(熊川哲也はどうしてもロイヤル・バレエにこだわりたいらしい)は残そう、ブルメイステル版を取り入れよう、ヌレエフ版もここは使える、ドリゴ版も一部だけ採用、というふうに「いいとこ取り」的に肉付けしていった結果、逆にまとまりがなくなり、各版のパッチワークみたいな感じになった。

分かりやすさを演出の第一目標としたのはすばらしい姿勢だが、あまりに分かりやすすぎて、却って陳腐になってしまった感も否めない。それが熊川哲也のオリジナル色が最も強い第四幕で、オデットとオディールが直接対決するという、まるで現実の男女間の修羅場のような演出、小さな女の子向けの絵本のように甘ったるいラスト・シーンなどは、もっと洗練された形にできないものかと思う。分かりやすさに重点を置いているのに、理解の難しいクラシック・マイムを残すという方針も矛盾している。

正直に言って、これが熊川哲也版「白鳥の湖」だとは私には思えないし、客観的にみてもそう銘打つに足る独自性はないと思う。ロイヤル・バレエはそろそろ精神的に卒業して、他の版からの切り貼りもやめて、自分独自の「白鳥の湖」の物語を作ればいいのだ。最近の○○版「白鳥の湖」はほとんどそうなんだから、熊川哲也だってやればいい。

日本には、熊川哲也や吉田都を批判してはならない、という禁忌があるかのような雰囲気をみなで醸成しているところがある。それはバレエの雑誌がほとんど毎号で、特に彼らのために大幅にページを割き、彼らのことを口を極めて絶賛している事実や、名のある批評家でさえも、いざ熊川哲也を批判する段になると、とたんに奥歯に物のはさまったような、気弱な文章になることからも明らかである。

その理由は、熊川哲也が日本で最も有名で人気のあるバレエ・ダンサーであり、彼の率いるKバレエ・カンパニーの公演のチケットは非常に高額であるにも関わらず、その入手が極めて困難なほど人気が絶大であるという状況が生み出す目に見えない圧力、つまり直裁に批判するのがためらわれる恐怖を感じさせる圧力が存在するからだ。その圧力に逆らえばしっぺ返しをくらうかもしれない。みなそれを怖がっている。

だから、大方の人々は、熊川哲也とKバレエは、バレエ界では一種「特殊」な存在であるとみなし、「触らぬ神に祟りなし」という方針を選んで、あえて無関心な態度を装っている。言及するとしても無難な域を出ない。また、バレエ批評家などの、直接的な利害関係のある人々は、熊川哲也とKバレエへの礼賛に終始する。

そして昨年、吉田都がロイヤル・バレエを退団してKバレエに移籍し、今やKバレエはまさに全盛を誇っているといえる。バレエを知らない人々でも、「熊川哲也」、「吉田都」という名前は知っている。彼らが「有名な」バレエ・ダンサーであるということも知っている。彼らの知名度は、(実は彼らのことをよく知らない)テレビ、新聞、雑誌などのメディアが報道することによっていよいよ上がる。知名度と人気がもたらす圧力はますます強まり、よって彼らに否定的なことはより言えなくなる。書けなくなる。こんな状況は異常である。

たぶんこの公演に関しても、おおかたの記事やレビューは口を極めてほめたたえているだろう。いろいろ事情があるのはよく分かるけど、チケットの値段が公演内容の割に高すぎるとか、コール・ドの水準はもっと上げるべきだとか、「演出・再振付」とクレジットするなら、他の版の切り貼りばかりしてはよくないとかくらいは、別に書いてもいいと思う。

(2007年3月7日)


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