Club Pelican

NOTE

レニングラード国立バレエ 「バヤデルカ」

(2007年2月3・4日、オーチャードホール)

「バヤデルカ」、原脚本はマリウス・プティパとセルゲイ・フデコフ、原振付はマリウス・プティパ、音楽はルートヴィヒ・ミンクスによる。改訂振付と演出はセルゲイ・ボヤルチコフ。ボヤルチコフはこのレニングラード国立バレエの芸術監督である。

主なキャスト。ソロル:ファルフ・ルジマトフ;ニキヤ:イリーナ・ペレン(3日)、オクサーナ・シェスタコワ(4日);ガムザッティ:オクサーナ・シェスタコワ(3日)、エレーナ・エフセーエワ(4日);大僧正:アンドレイ・ブレグバーゼ;ドゥグマンタ(インドの藩主、ガムザッティの父):アレクセイ・マラーホフ;マグダウィヤ(苦行僧):ラシッド・マミン;

ジャンペー:アリョーナ・ヴィジェニナ(3日)、オリガ・ポリョフコ(4日)、ユリア・カミロワ;

黄金の偶像:デニス・トルマチョフ;インドの踊り:オリガ・ポリョフコ(3日)、アンドレイ・マスロボエフ(3日)、エカテリーナ・ガルネツ(4日)、マクシム・ポドショーノフ(4日);太鼓の踊り:アレクセイ・クズネツォフ;マヌー(壷の踊り):ヴィクトリア・シシコワ(3日)、ナタリア・リィコワ(4日);

グラン・パ:イリーナ・コシェレワ、タチアナ・ミリツェワ、ユリア・アヴェロチキナ、ユリア・カミロワ、アリア・レズニチェンコ、アナスタシア・ガブリレンコワ、マリーナ・バルエワ、ナタリア・エゴロワ;

「幻影の場」ヴァリエーション:オリガ・ステパノワ、アナスタシア・ガブリレンコワ(3日)、イリーナ・コシェレワ(4日);タチアナ・ミリツェワ。

演奏はレニングラード国立歌劇場管弦楽団、指揮はセルゲイ・ホリコフ。

2006年の春に行なわれた、ボリショイ・バレエ日本公演「ラ・バヤデール」にひどく感動したので、この公演を観に行くことにした。ボリショイ・バレエ「ラ・バヤデール」の感想でも書いたが、「バヤデルカ」と「ラ・バヤデール」は同じ作品であって、前者はロシア語名、後者はフランス語名である。このレニングラード国立バレエの「バヤデルカ」を観るのは今回が初めてで、ボリショイ・バレエの「ラ・バヤデール」とは演出が違うと聞いたが、とても楽しみにしていた。

幕が開くと、戦士たちがぞろぞろと出てきて、割と早い段階でソロル(ファルフ・ルジマトフ)が登場する。ソロルは白っぽい上衣に淡い藍色のハーレム・パンツ姿である。なんでルジマトフはコンテンポラリーを踊るとき以外は、目尻にアイライナーを塗りたくるのか。素顔は充分ハンサムなんだから、あんなコテコテなメイクは必要ないのに。でも立ち姿がすっとして姿勢も良く、きりりとした表情がカッコいい。

ルジマトフは演技もかなり達者である。ソロルは戦士たちと一緒にいながら、突然なにかを思い出したような表情になって目をそらす。ソロルは手を挙げて戦士たちを去らせると、誰かを探すように舞台の左右に駆けていっては手を打つ。苦行僧のマグダウィヤが現れる。もじゃもじゃ髪のヅラ、ボロ布の腰巻、色黒、ボリショイの公演とそっくり同じ。それにいつみてもアダモステに似ているなあ。

ここでのマイムが面白くて、ソロルは舞台右奥の神殿の入り口を指さすと、右手を胸に当て、左腕をV字型に曲げて手のひらを上に向ける。これは踊りのポーズで、彼の恋人である神殿の舞姫、ニキヤを示している。ソロルはそれから両腕を再び神殿の入り口に向けると、その両腕をゆっくりと斜めに下ろす。これは「来る」という意味で、ソロルはマグダウィヤに「神殿からニキヤをここへ連れて来い」と命じている。

両手と首をぶんぶん振って「無理っスよお〜」と困惑するマグダウィヤに向かって、ソロルは足を踏み出してマグダウィヤをじっと見つめ、「どうにか頼むよ」という仕草をする。それからソロルはなんと!神殿の入り口に向かって投げキッスをする。もうロシア人のオリエンタリズムに一々突っ込みを入れようとは思わないが、インドなのに投げキッスはねえだろ。ソロルはその場から去る。

神殿から僧侶たち、大僧正、舞姫たちが現れ、火の祭壇を囲んで舞姫たちが踊る。大僧正(アンドレイ・ブレグバーゼ)は金の僧帽をかぶり、濃いオレンジ色の衣をまとっている。ガタイがよく、悪人顔で目つきが怖い。大僧正は神殿を手で指し示し、誰かを呼ぶように命ずる。

神殿の入り口に白いヴェールで顔を隠し、白い胸当てに白い膝丈のスカートを穿いた舞姫が現れる。彼女が舞台の中央まで来たところで、神官が彼女のヴェールをはずす。ニキヤの登場である。イリーナ・ペレンは髪は明るい栗色で、白い大きな花飾りを耳の両脇につけ、白い宝石の飾りを襟足から髪の分け目に沿うようにめぐらし、額に垂らしていた。オクサーナ・シェスタコワは地毛の金髪を濃い茶色に染めて、同じ髪飾りと宝石をつけていた。

ニキヤがゆっくりと踊る。特にシェスタコワのニキヤは気品と威厳に溢れていた。ニキヤが踊り終わると、舞台の隅でそれを見ていた大僧正は、狼狽した表情で両手で胸を押さえる。ニキヤに惚れてしまったらしい。

第一幕は踊りの見せ場はあまりなく、ほとんどが物語進行である。よってマイムや演技の部分が多いのだ。それはそれで見どころでもあるのだけど、特にこのボヤルチコフ版は演出がとにかく細かいため、ほんの一瞬でも見逃してしまうと、彼らが何をしていて、何をしゃべっているのか分からなくなってしまう。

大僧正は他の僧侶や舞姫たちに続けて踊らせる隙にニキヤに言い寄る。ニキヤの腰を抱きかかえるなど、こんの生臭坊主が、と言いたくなるようなセクハラぶりである。ここでも面白い演出があって、大僧正はニキヤに言い寄っている途中、なぜか金の僧帽を脱いでニキヤに差し出す。ニキヤはあわてて首を振る。

最初に見たときは、「この金ピカの帽子をあげるからオレのものになってくれ」と言っているのかと解釈したので、誰がオヤジの加齢臭が染みついたそんな帽子が欲しいものか、と思ったが、2回目に見てはじめて、「お前のためなら大僧正の地位だって捨ててやる」とニキヤに対して真剣に愛を訴えているのだと分かった。

苦行僧たちが疲れきってあちこちで倒れ伏す。大僧正は手で杯を持つような仕草をしてそれを口に当てる。「苦行僧たちに水を飲ませてやれ」というのである。ニキヤをはじめとする舞姫たちは水の入った壷を抱えて彼らに飲ませる。

ニキヤはマグダウィヤを助け起こして水を飲ませるが、マグダウィヤはニキヤのスカートを引っ張って注意を促し、悪戯っぽく笑いながらそっと手を打つ仕草をする。これはソロルがやっていた仕草で、ソロルが待っている、と伝言したのだ。途端にニキヤはぱっと明るい笑顔を浮かべる。それまで厳粛な面持ちでいたニキヤがはじめて見せる、生き生きとした表情である。この後のニキヤとソロルの密会に備えて、こういう伏線を張っておくところも演出が細かい。

大僧正、僧侶、神官たちが神殿の中に戻っていった後、ソロルが現れて手を打つ。果たしてニキヤが現れて、ふたりは一緒に踊る。ソロルがニキヤを頭上高く持ち上げたり、ニキヤの体をやや複雑にリフトしたりするところでは、ルジマトフとペレン、シェスタコワのタイミングが合わずに、動きがぎこちなくなってしまったときがあった。私のルジマトフに対するイメージは「いつでも完璧に踊るダンサー」なので、少し意外であった。ソロルは右手を天に向かって上げ、ニキヤへの愛を誓う。

ところが、ニキヤとソロルが一緒に踊っているのを、神殿の入り口から大僧正が目撃してしまう。ソロルが去った後、大僧正は憤怒に駆られた表情で外に出てくる。見られてしまったとは知らないニキヤは、マグダウィヤにかばわれながら、こっそりと神殿の中に戻る。大僧正役のアンドレイ・ブレグバーゼはなかなかの熱演で、ソロルが去っていった方向を手で指し示すと、拳を振り回して怒りを露わにする。大僧正が怒りを覚えているのは、あくまでソロルに対してである。これも大事な伏線である。

インドの藩主であるドゥグマンタの宮殿。ドゥグマンタ役のアレクセイ・マラーホフは、大きなターバンをかぶり、ハデな金ピカ模様の衣装を着ている。どっちかというと、インドというよりはアラビア?的な格好である。メイクがすごくて、黒いライナーで眉とか目とかもみあげとかヒゲとかを描きまくっている。メイク後の顔立ちも、マハラジャというよりはアリババ?みたいなイメージであった。ちなみにあごヒゲは付け髭であった。

これはレニングラード国立バレエの公演であるはずなのだが、明らかに日本人が旗持ちとか槍持ちとか召使役で出演していた。バレエ・ダンサーにはみえず、日給5,000円とかで雇われた大学生っぽかった。期末試験はちゃんとできたのだろうか。

ドゥグマンタたちの前で宮殿の舞姫たちが踊る。白いハーレム・パンツを穿いていたが、片膝に白い長い布がついていて、その端を手で持って(あるいは手首のところに縫いつけてある)踊るのである。白い布がたなびいてきれいだったが、最後に2人のダンサーが片脚を後ろに高く上げる、激しいジャンプを繰り返すところでは、あの布はかなり邪魔だろうなあ、と思った。

やがてドゥグマンタは宮殿の奥を指さし、「連れて来い」というマイムをする。そこに現れたのは白地に金色の刺繍が入った上衣に白いスカートを穿いたガムザッティである。シェスタコワ(3日)は金髪を両耳の横でまとめ、エフセーエワ(4日)は巻き毛のエクステンションを着けて後ろに垂らしていた。個人的には、頭がもっさりと大きく見えて体とのバランスが悪くなるので、エクステンションは不要だと思います。

シェスタコワのガムザッティはおしとやかな感じで、エフセーエワのガムザッティは王女らしい権高さを持ち合わせた感じであった。ドゥグマンタはガムザッティに、お前の結婚相手が決まったと告げる。ガムザッティは一瞬不安そうな顔になって戸惑う。だが、ドゥグマンタは広間の壁に掛けてあるソロルの肖像画を指し示す。ガムザッティはソロルの肖像画をしげしげと見やると、嬉しそうに微笑む。

このソロルの肖像画っていうのが、どーみてもソロルとは別人で、どちらかというとドゥグマンタにそっくりであった。ボリショイ・バレエの「ラ・バヤデール」は、もうちょっとソロルに似てた肖像画を用いていたような気がするのだが。

ドゥグマンタはガムザッティをいったん去らせる。そこへソロルがやって来る。ソロルとドゥグマンタは挨拶をする。何度も出てきたんだけど、この挨拶の仕草が面白いの。前のめりになって、片手を額にかざして、もう片手を胸の前にかざす。見た目インドっぽくていいよね(本当にこうやるのかどうかは知らない)。

ソロルに対して、ドゥグマンタはガムザッティとの結婚の話を持ち出す。ソロルは顔を曇らせて目を落とす。そこへ白いヴェールをかぶったガムザッティが姿を現わす。白いヴェールが取り払われる。ガムザッティの素顔を見たソロルは、いきなり顔をきっ、と上げて毅然とした表情を取り戻す。ルジマトフがすごいのは、この演技によって、ソロルが心の中でニキヤを切り捨てた瞬間がはっきり分かることだ。

こうしてソロルはガムザッティとの婚約を承知する。ドゥグマンタはガムザッティを祝福するために、なんとニキヤを呼び寄せて踊らせる。ニキヤは上下とも水色の衣装だった・・・かな?に、白いヴェールをかぶっている。ニキヤはヴェールを外されると踊り始める。男性ダンサーに高く持ち上げられたニキヤの前にガムザッティは跪き、ニキヤはガムザッティに花の雨を降らせて祝福する。知らずに恋敵を祝福するという皮肉な演出であるが、これも第三幕エピローグでの重要な伏線になっている。

ニキヤが踊っている間のソロルの様子だが、ルジマトフの演技はニキヤ役によって異なっていた。イリーナ・ペレンのときは、一貫して目をそらし続けてニキヤを見ない。徹底して見ない。でも無視しているというよりは、良心の呵責でとても直視できない、といった風であった。オクサーナ・シェスタコワのときは、やはり目をそらして見ようとしないのだが、時おり複雑そうな表情でニキヤを見やる。ガムザッティと婚約はしたものの、まだニキヤに未練が残っている、という感じであった。

ニキヤ、ソロル、ガムザッティが去った後、大僧正が現れる。大僧正は手をぐっと伸ばして、人払いをするようドゥグマンタに促し、口に手を当てる。内緒の話があるから、という意味らしい。ほんとに演出が細かいな〜。

大僧正は両手の人差し指を合わせる。ソロルとガムザッティは結婚するのか、とドゥグマンタに尋ねている。ドゥグマンタがうなずくと、大僧正はまた手をぐっと伸ばして、それはダメだ、という仕草をする。怒ったドゥグマンタは三日月型の剣を抜く。だが大僧正はソロルの肖像画を指さし、この男には恋人がいる、と暴露する(どういう仕草だったかは忘れた)。

ドゥグマンタはソロルの恋人は誰なのか、大僧正に問いつめる。ここからの演出がまた見事。大僧正は白いヴェールを両手で固く握りしめる。ニキヤだ、というのである。大僧正役のアンドレイ・ブレグバーゼはやはり熱演で、ニキヤのヴェールを握った手がぶるぶる震えている。大僧正の嫉妬と怒りがよく表現されていた。

ちょうどそのとき、広間の奥にガムザッティが現れてそのことを聞いてしまう。ドゥグマンタは拳を握った手をぐぐーっと下に降ろして、ニキヤを殺すと大僧正に告げ、宮殿の奥に去っていく。大僧正は途端にあわてた様子になってその後を追う。大僧正はドゥグマンタがソロルを罰してくれることを期待していたのだが、ドゥグマンタは逆にニキヤのほうを殺すと決めてしまったのだ。ドゥグマンタにとって、英雄と一介の舞姫とのどちらが大切か、ちょっと考えれば分かりそうなもんだが、大僧正も頭に血がのぼってたんですね。

誰もいなくなった広間にガムザッティが現れる。ガムザッティは椅子に腰かけて目を落とし、何やら考え込んでいる。シェスタコワのガムザッティはあんまり印象に残ってないが、エフセーエワのガムザッティは、愛する婚約者に実は恋人がいた、という事実に少なからずショックを受けている感じであった。ガムザッティは、自分がかぶっていた白いヴェールを手にとって抱きしめると、ソロルの肖像画をじっと見つめる。

ガムザッティはニキヤを来させるよう召使に命じる。しばらくしてニキヤがやって来る。ガムザッティは床に座り込んだニキヤの顔を持ち上げて見つめると、自分がはめていたブレスレットをはずしてニキヤに贈ろうとする。ニキヤは静かに首を振って丁寧に断る。

一応は微笑んでいたガムザッティは、ニキヤを立たせると彼女の肩をいきなりつかみ、ソロルの肖像画の前に乱暴に押し出す。ソロルが自分の婚約者だ、というのである。

ボリショイ・バレエの公演では、ここでニキヤとガムザッティが同じ振りの踊りを踊ることで、両者の確執が表現されていた。だがレニングラード国立バレエの公演では、このシーンは演技とマイムのみである。だから演技力が余計に重要になってくる。

シェスタコワのガムザッティは、ひたすら低姿勢でニキヤに懇願し続ける。ガムザッティはブレスレットに続いて、自分がかけていたネックレスさえも外してニキヤに捧げるが、それもニキヤに拒否される。ニキヤはソロルの肖像画を指し示し、右手を天に向かって上げる、という仕草をし、ソロルは自分に愛を誓ってくれたのだ、と必死に告げる。それを知ったガムザッティはついに両手で顔を覆って泣き出してしまう。逆上したニキヤは、ナイフを振り上げてガムザッティに襲いかかる。ガムザッティは怯えて床に座り込み、両手で頭を抱える。弱々しいお姫様、といった印象である。

エフセーエワのガムザッティは、自身も混乱した状態で、揺れる感情をニキヤにぶつける。ニキヤにネックレスを捧げるのではなく、「受け取ってよ!受け取ってよ!受け取ってよ!」とヒステリックに押しつけようとする。ソロルはニキヤに愛を誓った、と知ると、「いや!聞きたくない!」といった表情で耳を手で押さえる。感情の起伏の激しいお姫様なのだと分かる。

ソロルは自分に愛を誓った、と告げるときの、シェスタコワのニキヤの演技はとても印象的だった。シェスタコワのニキヤは、ソロルのこととなると、途端に明るい天真爛漫な笑顔を浮かべる。彼女の幸せのすべてはソロルなのである。このシーンでもそうで、修羅場の渦中にいながらにして、シェスタコワのニキヤは痛々しいほどの笑顔を浮かべながら、ソロルは自分に愛を誓ったのだから、と示す。

ガムザッティに話を戻すと、シェスタコワのガムザッティは弱々しすぎて、それがなんで最後に拳を握った手を下に降ろして、「ニキヤを殺してやる」という決意をするに至るのかがよく分からない。ちょっと唐突な感じがした。普段は優しくて気弱でも、いきなり恐ろしいことをやってのける、というのがシェスタコワのガムザッティなのだろうか。それも迫力があるけど、でもこういうキャラクターは演技が難しいと思う。

エフセーエワのガムザッティは、その点では分かりやすかった。混乱した感情が激していって頂点に達したとき、邪魔なあの女を殺してやる、という考えが浮かんだのだろう。

個性的だけど演技力の点ではまだ半端なガムザッティと、無難に典型に流れているけど演技が分かりやすいガムザッティ、難しい問題だが、私は無理に個性的にしなくてもいいと思うので、エフセーエワの演技のほうがよかったかなあ、と思う。


第二幕。ソロルとガムザッティの婚約を祝う宴である。宴に招かれた人々、宴に呼ばれた芸人たち。極彩色のオウム(インコ?)の人形を持った、衣装もオウム色でインド風だかアラビア風だか分からん衣装を着た踊り子たち、太鼓を持った上半身ハダカにえんじ色のハーレム・パンツを穿いた兄ちゃんたち、そして顔を真っ黒に塗られ、ターバンを巻いた日本人度100%なガキども、そして台の上に乗った全身金色タイツの仏像(黄金の偶像)。

忘れていました。「ラ・バヤデール」といえばブロンズ・アイドル、ブロンズ・アイドルといえば「ラ・バヤデール」。ブロンズ・アイドルは、私にとっては鬼門なのである。鎌倉の大仏(奈良の大仏でもいい)みたいなポーズをとったまま、台の上に乗って運ばれていく仏像が目に入った途端、わたくしは危うくぶー、と噴き出しそうになった。しかしこらえた。やがて、ドゥグマンタ、ガムザッティも籠や輿に乗って姿を現わす。ガムザッティは純白の衣装を身につけている。

ブロンズ・アイドルの登場では、辛うじて噴き出すのをこらえたわたくしであったが、そのわたくしに容赦なく次々と試練が降りかかる。棒に吊り下げられた、いかにもぬいぐるみの虎が運ばれてくる。この虎を見たわたくしの脳裏に、アダム・クーパー振付・主演の「オン・ユア・トウズ」の劇中バレエ、「王女ゼノビア」の爆笑シーンがよみがえる。ほんとに「ラ・バヤデール」をパロってたのね〜。

虎の次にはでっかいハリボテの不恰好な象が舞台上に姿を現わした。頭が布製で胴体はベニヤ板製。薄い布で作った耳がよれよれと情けなく動いている。さすがにこれには耐え切れず、ぶー!と笑おうとしたら、象の上に輿がしつらえてあって、誰か乗っている。よーく見たら、なんとソロル役のファルフ・ルジマトフ氏ではないか!

ルジマトフは不恰好な象の上に乗りながら、籠の中から大真面目な顔でドゥグマンタとガムザッティに向かって優雅な仕草で手を振っている。さすがはルジマトフ、象が不恰好かどうかはカンケーなく、ひたすらソロルとして毅然と振舞っているのである。ここまで真面目だと尊敬しちゃうよなあ。ルジマトフの徹底した真剣さは、わたくしに笑いを忘れさせた。

ところでね、象の上にいるソロルに向かって、ドゥグマンタとガムザッティが、上半身をかがめて片手を胸の前に、もう片手を額の前にかざす、という例のお辞儀をするんだけど、これってよく考えたらおかしくない?ガムザッティはソロルのお嫁さんになる人だからいいとしても、でもドゥグマンタはソロルよりも身分が上でしょ。主君が臣下よりも下の位置から、臣下に向かってお辞儀をして、臣下が象の上から主君を見下ろして手を振るなんて、なんとも臣下にあるまじき無礼千万な振る舞いである。孟子が見たら激怒するぞ。

ルジマトフは象の上に乗ったまま舞台の脇に消えると、まもなく再び姿を現わす。ソロルも上下ともに白い衣装を着ていた(ような気がする)。ソロルがガムザッティの手を取ってふたりは退場し、ドゥグマンタ、大僧正、貴人たちが見守る中、様々な踊りが披露される。

あの顔を真っ黒に塗りたくられた日本人のガキどもも踊っていたが、こいつらはバレエを習っている子たちであった。ナマイキにも足の甲が反り返っていて、ステップ(片脚を横に差し出し、もう片脚をやんわりと曲げたポーズで移動)を踏む脚のラインもきれいだ。このガキどもは黄金の偶像の踊りにも混じって踊っていた。というより、黄金の偶像がガキどもに混じって踊っていたというほうが正しい。おかげで黄金の偶像の踊りがよく見えなかった。もっとも、黄金の偶像を踊ったデニス・トルマチョフは、そんなにテクニカルだという印象は残さなかった。

太鼓の踊りは威勢のいい激しい踊りで、男どもは全員、黒いおかっぱ頭に赤いハチマキを締めていた。大きな太鼓を持ちながら踊ったアレクセイ・クズネツォフは、脚を鋭く激しく振り上げて迫力があった。他の兄ちゃんたちも血湧き肉躍るマッスルな振りをパワフルに踊り、途中から男女のダンサーも加わって、全員で太鼓の音に合わせてリズミカルに飛んだり跳ねたり、「祭りだわっしょい!」的な大盛り上がりとなった。この踊りが終わったときには大きな拍手とブラボー・コールが飛んだ。こういう踊りはやっぱりウケがいいよな。

インコを持った女たちが踊ったり、仏像が踊ったり、太鼓を持った筋肉男の集団が踊ったりとワケのわからない宴会だが、マヌー(壷の踊り)もワケがわからない。姉ちゃんが壷を頭の上に載せて、基本的には壷を両手で支えて、時々ちょっと手を離して踊る。3日に踊ったヴィクトリア・シシコワはほとんど壷から手を離さなかったが、4日に踊ったナタリア・リィコワは壷から手を離す時間が割と長く、この点ではリィコワに軍配を上げたい。ボリショイ・バレエの公演でもそうだったが、この「壷の踊り」を踊るダンサーは、始終、瞳を上にあげた表情になっちゃうんですな。

「壷の踊り」には日本人の女性ダンサー2人も登場した。これも「現地調達」らしい。途中から現れて、壷を持ったダンサーにまとわりつき、そのスカートを引っ張ったり、悪戯っぽく壷を奪おうとしたりする。踊りが終わって、3人で手をつないでお辞儀をしていたのがほほえましかった。

そしてソロルとガムザッティが再登場する。ガムザッティは白いチュチュに着替えている。髪にエクステンションをつけていたエレーナ・エフセーエワは、このソロルとガムザッティのパ・ド・ドゥでは、エクステンションを外していた。このほうが小さな顔や細くて長い首がすっきりと見えて魅力的だ。

ガムザッティの踊りでは、3日に踊ったオクサーナ・シェスタコワのほうが、4日に踊ったエフセーエワよりも安定しており、更にお姫様らしい華やかさや、自信に満ちたダイナミックな迫力もあってすばらしかった。

こうして宴が最高潮に達したところで、急に音楽が静かなものになり、えんじ色の地味なヴェールと衣装をまとったニキヤが、打ち沈んだ表情で現れる。ボリショイ・バレエの公演でも、このシーンのニキヤはえんじ色の衣装を着ていた。ヴァージョンは違っても、このシーンのニキヤの衣装はえんじ色、と決まっているのだろうか。

ニキヤは自分を捨てたソロルとその婚約者であるガムザッティの前で、彼らを祝福するために踊らなければならない。しかもニキヤは神殿に仕える舞姫とはいえ、貴族であるソロルと王女であるガムザッティの高貴な身分に比べたら、ニキヤなどは奴隷にも等しい。ニキヤにとって、ソロルとガムザッティの前で踊るということは、一つには恋に敗れた女が、自分を裏切った男と自分から恋人を奪い取った女のために宴会の余興で踊らされ、更に身分の違いを徹底的に思い知らされるという意味で、二重に残酷で屈辱的なことなのである。

3日にニキヤを踊ったイリーナ・ペレンと、4日にニキヤを踊ったオクサーナ・シェスタコワの、このシーンでの踊りを比べると、それぞれに独特の持ち味があると言いたいのはやまやまだが、やはりペレンのほうが優れていたように思う。シェスタコワもすばらしかった。丁寧で繊細な動きでしなやかに踊り、トゥ・シューズの音も、ジャンプの着地音もまったく響かせなかった。後ろに片脚を蹴り上げるようにして跳ぶジャンプは、とても軽くてふんわりと跳んでいた。

ただ、ペレンは踊りそのものもすばらしかったが、それに加えて、彼女は手足の動きや体全体でニキヤの悲痛な思いを表現していた。このシーンの間、ペレンの踊りは舞台の上でことのほか大きく見え、伸び上がった胴体や、ゆっくりと後ろに伸ばしていく片脚や爪先のそれぞれが物を言っているようだった。ここ1〜2年のうちに思うようになったことには、バレエ・ダンサーには、ただ単に踊れるだけの人と、踊りによって、また動きや体そのものによって、なにかを表現できる人とがいるのだ。ペレンは後者のダンサーになれる要素を強く持っているように思った。

ニキヤが踊っている間、ソロルとガムザッティはどうしていたか。まずガムザッティは3日と4日とではキャストが違ったため、役作りや演技にも大いに違いがあった。3日にガムザッティを踊ったシェスタコワは、ずっとソロルの手を握り、愛らしい微笑を浮かべて、潤んだ瞳でソロルをじっと見つめていた。ルジマトフ演ずるソロルの反応は、ガムザッティ役が誰かによって異なっていた。シェスタコワがガムザッティ役のときは、ソロルはニキヤの踊りから顔をそらし、目を落として決して見ようとしない。

4日にガムザッティを踊ったエレーナ・エフセーエワは、不安そうな表情でソロルを見つめ、しょっちゅう彼の愛を確かめるように、ソロルの手を握っていた。対するルジマトフのソロルは、ガムザッティに手を握られると、一応は彼女の手を握り返して接吻をする。だが心は目の前で踊っているニキヤにあるようで、何度もニキヤに目をやりそうになる。ガムザッティにはそれが分かっていて、だから余計にソロルの心をなんとか自分に向けようとしているのである。エフセーエワとルジマトフの演技はうまく噛み合っていた。

一方、シェスタコワ演ずるガムザッティとルジマトフのソロルが一緒に座っているのを見ていて、私はなんだか妙な違和感を感じていた。一言でいえば、役への没入の度合いが、ルジマトフとシェスタコワとでは明らかに違うのである。ルジマトフはソロルそのものになりきっていた感じであったが、シェスタコワは「演じている」感が強くて、両者が醸し出す雰囲気がそれぞれ異なっており、従って両者の演技がお互いにうまく作用していない感じがした。

もっとも、これにはニキヤ役が誰であるかも重要な要素で、結論から先に言ってしまうと、ルジマトフはシェスタコワがお気に入りなのだろうと思う。シェスタコワがニキヤ役であるときは、ソロルの心はニキヤにある。そんなソロルの心を自分に振り向かせようと、エフセーエワのガムザッティは必死にソロルの手を握る。こうして三者の役作りと演技が互いにぴたりと合致する。

ところが、ペレンがニキヤ役であるときは、ソロルの心はニキヤにはない。これで、まずペレンが孤立する。シェスタコワのガムザッティはソロルの手を握って彼を見つめ続ける。だが、上に書いたように、ルジマトフとシェスタコワの演技には温度差がありすぎる。こうして、三者の役作りと演技が結局はそれぞれ浮いてしまう。

シェスタコワのガムザッティは、おとなしくて無邪気で可愛らしいが、天使のような笑顔で残酷なことをやらかすというキャラクターである。これはすばらしい解釈で、自分のおしとやかそうなイメージを逆手に取った見事な役作りだと思う。だけど、こういうキャラクターは表現が難しい。たとえば80〜90年代のロイヤル・バレエのバレリーナや、現在のニュー・アドヴェンチャーズあたりの女性ダンサーなら、ゾッとするほど効果的に演じてみせるだろうが、シェスタコワにはまだまだ努力する余地がありそうだ。

悲しげな表情で踊っていたニキヤに花籠が届けられる。ソロルからの贈り物だと思ったニキヤの顔が明るくなる。踊りも速いテンポのリズミカルな動きに変わる。ここでどういう表情をするかはなかなか難しいところだと思うが、ペレンはちょっとオディール入った邪悪な笑顔になっちゃうし、シェスタコワは笑いすぎて底抜けに陽気になっちゃうし、両者ともちょっとな〜、と思った。

ここでニキヤは花籠の中に仕込まれた毒蛇に咬まれてしまう。ニキヤ役のダンサーが毒蛇の首をつかんで自分の首に当て、咬みつかれたように見せる、というのが一般的な(たぶん)演技である。ペレンもそうしていた。だが、シェスタコワがニキヤを踊った公演では、ニキヤが突然ぱっと花籠から手を離して自分の首を押さえ、マグダウィヤが花籠の中から毒蛇をつまみ上げる、というふうになっていた。わざとそうしたのかアクシデントだったのかは分からない。

ニキヤが毒蛇に咬まれた後のソロルとガムザッティの演技は、またもや3日と4日とで違っていて面白かった。ニキヤは苦しみながらも、ガムザッティがやったのだ、とガムザッティを指さす。シェスタコワのガムザッティは、わざとニキヤに背を向けてそれに気づかないフリをし、相変わらず可愛らしい笑みを浮かべ、潤んだ瞳でソロルを見つめ続ける。本当はこの演技で、ガムザッティの無邪気な笑顔の裏に隠れた、背筋の凍るような恐ろしさが表現されていいはずなのだが、私が思ったのは、「うわ、シェスタコワってヤな性格」だった。

なんでかというと、ニキヤ役のペレンの演技を無視して、独善的に「自分のガムザッティ」を押し通したように見えたのである。シェスタコワはペレンと仲が悪いのかな、シェスタコワって、やたらとぶりぶりしてて、まるでさとう珠緒みたい、とさえ思ったくらいだった。空々しい演技だとこういう印象を与えてしまう。だから、無理はよくないと思うのだ。たぶん本人たちは、ちゃんと打ち合わせをした上で演技しているんだろうけど、観客にそう見えないのだったら、斬新な解釈や演技などはかえってしないほうがよい。

ルジマトフのソロルは、ガムザッティと手を握って見つめ合ったまま、苦しみもがくニキヤを一顧だにしない。目の前で元カノが死にかけているのに、いくらなんでもこの態度は不自然でしょうが。ソロルはニキヤが死ぬまで、本当にニキヤに目をやろうとしなかったのよ。それが、ニキヤがついに死ぬときになって、いきなり倒れるニキヤに駆け寄って、ニキヤの体を抱きかかえて嘆き悲しむの。だからなんかこう、3日の公演の第二幕ラストは、ペレン、ルジマトフ、シェスタコワの演技がてんでんばらばらだった、という印象が残った。

4日の公演は、たぶんニキヤ役がシェスタコワだったからだろう、ニキヤに花籠が渡されたのを目にしたソロルは驚き、ガムザッティをなじるような目つきで見つめる。それに対して、エフセーエワのガムザッティは首を振りながら、「あなたを愛しているからやったのよ!」という、ほとんど泣き出しそうな表情になる。この日の公演では、ソロルはガムザッティがニキヤを殺そうとしていることを知り、しかしそれを黙認というか了承しているような感じだった。それが劇的なラスト・シーンにつながった。

ニキヤにあなたの差し金だ、と指さされたエフセーエワのガムザッティは、顔をゆがめて頭を両手で抱える。そしてソロルに向かって必死な表情で、あなたを愛しているからやった、と再び訴える。

体に回り始めた毒に苦しむニキヤに向かって、大僧正が銀の小瓶を差し出し、そして自分の胸を手で押さえる。銀の小瓶に入っているのは解毒剤で、それをやる代わりに自分のものになってくれ、というのだ。ニキヤはその小瓶を受け取る。その瞬間、ニキヤを遠くから見つめていたソロルは、ダメだ、というふうに首を振る。それを見たニキヤの手から小瓶がかたん、と落ちる。

ソロルはニキヤを捨てたし、彼女が死んでも仕方がないと思った。だがソロルにはニキヤが他の男のものになるのは耐えられなかった。そんなことになるくらいなら死んでくれ、と願ったのだ。そしてニキヤはソロルの願いを受け入れた。まるでそのまま映画のテーマになりそうなくらい、ドラマティックで奥の深いシーンだった。ルジマトフがソロル役の場合、ニキヤ役はペレンよりもシェスタコワのほうがいい。ルジマトフの演技がぜんぜん違うもん。

ついでにいえば、シェスタコワも、ガムザッティよりはニキヤのほうが合っているんじゃないだろうか。ニキヤ役としてルジマトフ相手にあそこまですばらしい演技ができるのなら、無理して独自のガムザッティ像を造形しなくても、ニキヤを踊っていれば充分ではないかと思える。

ニキヤはソロルの腕の中で息絶える。大僧正は愛するニキヤを死に追いやったことを後悔し、僧帽を脱ぎ捨てて、両手を地につけて嗚咽する。大僧正役のアンドレイ・ブレグバーゼは本当に名演技だった。第二幕が終わる。


第三幕は宮殿の中。暗い部屋の片隅にベッドと阿片(?)の吸引器が置かれている。ソロルが一人で現れる。ルジマトフは上下ともに青い衣装を着ている。なんか「海賊」みたい。ようやく、といってはなんだが、ここでルジマトフは初めてまとまったソロを踊る。相変わらず力強くてしなやかで安定している。姿勢が常に美しいし、ジャンプしたときの着地が決して乱れない。踊りながら演技しているのもすごい。表情はもちろん、腕のポーズや動かし方で、ソロルが苦しんでいる、というのが分かる。

そこへマグダウィヤがやって来る。マグダウィヤはソロルに阿片でも吸うように促し(←おい)、ソロルはベッドに横たわって阿片吸引器のパイプを口に含む。それからマグダウィヤは瞬く灯火を持って踊る。ボリショイ・バレエの公演では、この踊りは苦行僧全員で踊られたので、暗い舞台に無数の灯火の明かりが蛍のように流れて美しかったのだが、この公演ではマグダウィヤ一人だけによって踊られるため、少し物足りなかった。

更にマグダウィヤは蛇使いの老人を部屋に招きいれる。老人が笛を吹き始めると、舞台の真ん中に置かれた籠の中から、コブラらしい蛇の人形がすっくと頭をもたげてカクカクと動く。マグダウィヤはその周りを両腕をゆらゆらと動かしながら踊る。マグダウィヤは色々と気晴らしを提供して、ソロルを慰めようとしているらしい(本当に苦行僧か?)。でも、真面目なシーンなのに、またしても噴き出しそうになってしまった。

マグダウィヤと老人が去り、ソロルは再び一人きりになる。ソロルが立ち上がって部屋の中を歩き回ると、突然、奥に立ち並ぶ柱の間に、白い衣装を着たニキヤの姿が浮かび上がる。早い話が、阿片でラリっちゃって、ニキヤの幻影を見たのだ。ソロルはその姿を追うように手を差し伸べるが、ニキヤの姿は消えてしまう。紗幕が下ろされて舞台が暗転する。

ちょっと感心したこと。紗幕が下ろされた後、その紗幕にライトが薄く照射されたために、紗幕の奥にいるルジマトフの影がうっすらと見えた。ルジマトフの影は舞台脇に去っていった。普通なら、もう客席から自分の姿は見えないのだからと思って、スタスタと歩いて引っ込みそうなもんだが、ルジマトフはまるでまだ観客に見られているかのように、ポーズをとった姿勢を崩さず、バレエ独特のすっすっ、とした歩き方で去ったのである。本当に徹底してプロフェッショナルなバレエ・ダンサーだと思った。

これから「影の王国」である。舞台の右側に山のセットが置かれていて、その山の中腹から、直角的なS字型のスロープが設けられている。白いチュチュを着た「影」たちが、体の向きと軸足を交互に変えたアラベスクをしながら次々と下りてくる。やはり「白鳥の湖」のジグザグ行進よりは、こっちのほうが断然美しいし、見ていて飽きない。「影」たちの襟足からは、白い羽衣が二本垂れ下がって両腕に繋がっている。腕を伸ばしたり上げ下げしたりするたびに、羽衣が弧を描いて垂れ下がる。

前にレニングラード国立バレエの公演を観たときは、群舞のトゥ・シューズの音のやかましさに辟易したが、今回はとても静かだった。数年でこんなに変わるもんかな。それとも前に観たときとは会場が異なるせいだろうか。

「影」の群舞は、「ジゼル」のウィリ顔負けの静かなバランス技が多い。さすがに脚のグラついているダンサーもちらほらいたが、全体的にはとてもきれいだった。

そこにソロルが現れる。ソロルはニキヤの姿を探す。すると「影」たちの背後から、白いチュチュを着たニキヤが静かに現れる。ニキヤの衣装には羽衣は付いていない。ソロルはニキヤに歩み寄り、ふたりは一緒に踊る。

「影の王国」でのニキヤの踊りは、やはりイリーナ・ペレンのほうがオクサーナ・シェスタコワよりもすばらしかった。シェスタコワは、白いヴェールを使った踊りのあたりから、踊りがひどく不安定になってしまい、見ていてハラハラした。バレリーナも人間だということは分かるが、ニキヤの「影」が踊っていてヨロヨロしていると一気に興ざめする。ペレンにはこうした不安定さがなかったし、またしても踊りが異様に大きく見えた。ルジマトフと一緒に踊っていても、ルジマトフの存在感に負けない静かな威厳と余裕が漂っていた。

このボヤルチコフ版「バヤデルカ」では、白いヴェールがニキヤの象徴として頻繁に用いられる。ボリショイ・バレエのグリゴローヴィチ版でも(そしておそらく他の版でも)、「影の王国」のパ・ド・ドゥでは、途中でソロルが白いヴェールの端を持ち、ニキヤがもう一方の端を持つ、あるいは体に巻きつける、という踊りが踊られる。ここでは、ニキヤを象徴する白いヴェールが、生者であるソロルと死者であるニキヤを結びつけるものとして用いられている。この白いヴェールは、後に続く第三幕のラスト・シーンでも登場する。

「影の王国」が終わると、再び幕が下ろされて場面転換となる。ボリショイ・バレエのグリゴローヴィチ版では、宮殿に戻ったソロルの目の前で宮殿が崩壊し、瓦礫の向こうにニキヤの姿が浮かんで、ソロルはそれを見つめながら息絶える、という詩的なラストであった。しかし、ボヤルチコフ版はまだまだ終わりまへん。

幕の前を人々がぞろぞろと歩いて横断していくではないか。赤い花を撒き散らす女性たち、着飾った貴族たち、ドゥグマンタや大僧正もいたっけか。一体何事!?と思ったら、ソロルと赤い衣装を着たガムザッティも一緒に並んで横断していった。ル、ルジマトフ様、あなたはさっきまで「影の王国」でニキヤと踊っていらしたのでは、それがなんで涼しい顔して今度はガムザッティと歩いてるんです、と驚いた。どうもソロルとガムザッティの結婚式がこれから始まるらしい。

ちょっと発見したこと。幕の前を横断していく貴族の夫妻たちの中に、女装した男性ダンサーを数名発見。顔をヴェールで隠していたが、ガタイで分かるんだよ。「影の王国」に多数の女性ダンサーを取られたため、女性ダンサーの数が足りなくなってしまったのだろう。

幕が上がって、舞台は再び宮殿である。ソロルとガムザッティの結婚式が執り行われる。ソロルとガムザッティは大きくて長い赤いリボンを一緒に持つ。夫婦の絆を固める印で、「ケーキ入刀」みたいなものだろう。深読みすれば、「影の王国」のシーンで、ソロルとニキヤが白いヴェールを一緒に持っていたのと対比させたのかもしれない。

それからソロルとガムザッティは一緒に踊り始める。ところが、そこに白いヴェールで顔を隠し、白い衣装を着た一人の女が現れる。ニキヤの亡霊である。ニキヤの亡霊はソロルとガムザッティの周囲にまとわりつき、ソロルがガムザッティの手を取って踊ると、入れ違いで今度は自分がソロルに手を取られて同じように踊る。

また、ソロルがガムザッティに花を手渡そうと近づくと、ニキヤの亡霊は向かい合うソロルとガムザッティの後ろに立ち、両手をゆ〜らゆらと不気味に動かして、ふたりを引き離そうとする仕草をする。この仕草が実に怖い。更にニキヤの亡霊は、ガムザッティがソロルからもらった花を、いつのまにかすべて掠め取ってしまう。

ソロルとガムザッティが並んで跪き、ついに夫婦の礼を交わそうとする。その背後に花を持ったニキヤの亡霊が立つ。この構図は、第一幕、ソロルとの婚約が決まったガムザッティを祝福して、跪いたガムザッティにニキヤが花の雨を降らせていたのと同じである。・・・ところで今、「タモリ倶楽部」で「空耳アワード2007」やってるから、なかなか進まないわ。

跪いたソロルとガムザッティの背後に立ったニキヤの亡霊は、ふたりの前に花の雨を降らせる。降り落ちた花を目にしたガムザッティは恐怖で真っ青になり、ソロルは驚愕する。ここからのソロルの行動は少し分かりにくい。

ソロルは人が変わったように荒々しく立ち上がると、降り落ちた花を拾い集め、赤いリボンを手に取ってくしゃくしゃに丸める。そしてドゥグマンタにすがりつくガムザッティに歩み寄ると、花とリボンを彼女の足元に向かって忌々しげに投げ捨てる。

分かんないのは、第二幕の様子からして、ソロルはガムザッティがニキヤを殺したことは察していたらしいのに、なぜ今さらガムザッティに激怒するのか、ということである。もっと分かんないのは、ソロルがニキヤを裏切ったのがそもそもの元凶であるはずなのに、ガムザッティばかりを一方的に悪者扱いすることである。

ソロルに好意的に解釈すれば、ソロルは目の前に花が降り落ちるという、ニキヤによる「霊験」を目にしてはじめて、ようやくガムザッティの美しさと出世欲に目がくらんでいた状態から、ニキヤを愛していた本来の自分に戻り、ニキヤを殺したガムザッティを責め、彼女との結婚を拒否した、ということになるのかもしれない。でもやっぱり、ラストでのソロルのこの態度と行動は、第二幕と辻褄があまり合っていないように思える。

やがて雷鳴がとどろき、宮殿が轟音を立てて崩れ落ちる。宮殿の崩壊は1本の太い柱のセットが、途中から折れ曲がるように細工してあって、更に瓦礫が描かれた紗幕を下ろすという他愛ないものだったが、まあそれでもいい。舞台が暗くなって人々は逃げ惑い、ドゥグマンタもガムザッティもどこかに逃げていってしまう。そしてソロルも舞台の脇に走って姿を消す。

ここでまた舞台が暗転する。最後には再び「影の王国」の山が聳え立っている。その山の中腹に大僧正が立っていて、火の祭壇を前に祈りを捧げている。その頭上高くを白いヴェールが翻りながら飛んでいって天に消え、そこで幕が下りる。

このラストもよく分からない。白いヴェールはニキヤが成仏(笑)したことを表わしているのだろうけど、結局ソロルは死んだのか?ドゥグマンタやガムザッティはどうなったのだろう?そして、なぜ最後に大僧正が出てくるのか?大僧正を除く全員が死んでしまって、大僧正は彼らの魂のために祈りを捧げているのだろうか?それとも憎いソロルが死んで神に感謝しているのだろうか?よく分かんないが、オペラ「アイーダ」のラストと同じテイスト(アイーダとラダメスを死に追いやった人々が生き残る)だと解釈したほうがよさげだ。

このボヤルチコフ版「バヤデルカ」は演出が非常に細かくて凝っていて、物語がかなり綿密に練られていると思う。だがそのぶん、キャストがそれに沿わない演技をしてしまえば、途端に全体の辻褄が合わなくなってしまう危険も大きい。

でも、キャストによって役の解釈や役作りが異なるのは、観る側にとっては楽しみも増えるというもので、来年もぜひいろんなキャストで上演してほしい。ルジマトフの演技が、相手によって大きく変わってくるというのは興味深い発見だったが、レニングラード国立バレエの男性ダンサーにも、ソロルを演じ踊る機会を与えてほしいものだ。どういうソロルになるのか興味がある。また、すばらしいニキヤとなったイリーナ・ペレンのガムザッティも観たい。どうか来年は、たった2回ぽっちじゃなくて、少なくとも3回くらいは上演して下さい。

(2007年2月16日)


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