Club Pelican

NOTE

小林紀子バレエ・シアター第85回公演

「レ・シルフィード」/「ソリテイル」/「パキータ」

(2006年9月9・10日、ゆうぽうと簡易保険ホール)

小林紀子バレエ・シアターの公演っていうのは、いつも地味というか目立たないというか、ひっそりとしめやかに行なわれる。ところが、今回は違ったのだ。まず、会場の入り口にチラシ配りのお兄さんやお姉さんたちがいるではないか!私が小林紀子バレエ・シアターの公演に通うようになってから初めて見た。

ロビーに入ると、身内からお祝いに贈られた花輪が飾られ、ダンサーへのプレゼント・お花を預ける机とプログラムを販売する机が置かれているだけ、という相変わらずの質素な光景だった。しかしホールに入ると、またいつもとは違った。なんと、割と大きいゆうぽうとの客席が、ほぼ満席の盛況だったのである!いつもは新国立劇場の中劇場だって満席にできないカンパニーなのに、これは何事だろう。アメリカン・バレエ・シアターからやって来たゲスト、デヴィッド・ホールバーグのパワーだろうか。もっとも、お客さんはいつものように身内や関係者が多いようだったけどね。

今回の公演の演奏は東京ニューフィルハーモニック管弦楽団、指揮はポール・ストバート(Paul Stobart)による。

「レ・シルフィード(Les Sylphides)」、振付はミハイル・フォーキン(Mikhail Fokine)により、音楽はショパンの小曲を複数採用し、アレクサンドル・グラズノフ(Alexander Glazunov)によってオーケストラ用に編曲された。元来の作品名は「ショピニアーナ(Chopiniana)」であり、初演は1907年2月にマリインスキー劇場で行なわれた。だが初演の翌年である1908年3月には改訂版が作られ、これもマリインスキー劇場で初演された。

今回上演されるのは、ディアギレフの率いるバレエ・リュスによって、1909年6月にパリのシャトレ座で上演された再改訂版である。パリでの上演にあたり、作品名は「ショピニアーナ」から「レ・シルフィード」に改められた。

前2つの版と再改訂版には使用した曲目や踊りに違いがあるが、再改訂版の初演から長い年月を経て、再改訂版と現行版にも若干の異同が生じているらしい。また、フォーキンはその後も改訂を続けたため、現行版であっても、西欧の多くのバレエ・カンパニーで上演されている版と、マリインスキー劇場バレエで上演されている版は違うそうである。

採用された曲目と踊りは、「プレリュード」第7番イ長調(前奏曲)、「ノクターン」第10番変イ長調(全員)、「ワルツ」70-1変ト長調(準主役シルフィード1のソロ)、「マズルカ」第23番ニ長調(主役シルフィードのソロ)、「マズルカ」第57番ハ長調(詩人のソロ)、「プレリュード」第7番イ長調(準主役シルフィード2のソロ)、「ワルツ」64-2嬰ハ短調(主役シルフィードと詩人のパ・ド・ドゥ)、「華麗なる大円舞曲」変ホ長調(全員)となっている(間違ってたらごめん)。

小林紀子バレエ・シアターがこの作品を上演するに際しては、初演時(1981年)にはパメラ・メイ(Pamela May)が振付指導を担当した。今回の上演ではジュリー・リンコン(Julie Lincoln)が振付指導を行なった。美術はピーター・ファーマー(Peter Farmer)である。

主なキャスト。ノクターン:島添亮子(9日)、大和雅美(10日)、デヴィッド・ホールバーグ、楠元郁子(コリフェ)、高畑きずな(コリフェ);ワルツ:大和雅美(9日)、斉藤美絵子(10日);マズルカ:島添亮子(9日)、大和雅美(10日);マズルカ:デヴィッド・ホールバーグ;プレリュード:萱嶋みゆき(9日)、大森結城(10日);ワルツ:島添亮子(9日)、大和雅美(10日)、デヴィッド・ホールバーグ;グランド・ワルツ:全員。

前奏曲の「プレリュード」は、太田胃散のCM曲としてよく知られている。私も聴きながら、つい「食べすぎ、飲みすぎ、胃のもたれに」と心の中でつぶやいてしまった。

幕が開くと、ダンサーたちが例の有名なポーズを取っている。詩人に2人のシルフィードがもたれかかり、詩人の前には1人のシルフィードが横たわって片脚を上げていて(←なぜだろう)、彼らを中心に大量のシルフィードたちが寄り集まって、ほとんどハーレム状態となった詩人は鼻の下を伸ばしている(最後のはウソ)。

9日は群舞があまり美しくなかった。互いの間隔が一定でなく、動きも揃っていない。特に爪先立ちで移動するところでは、爪先の動きや上げた腕の形、移動するスピードが各自バラバラで、なんか貧相なシルフィードだな、と思った。ところが、10日の群舞はとてもきれいだと思った。9日は、私は別の理由でかなり機嫌が悪かったので、アラ探しに終始してしまったのだろう。

でもこれはアラ探しではないと思う。詩人と主役のシルフィードは10日のほうが確実に良かった。9日に主役のシルフィードを踊ったのは島添亮子で、この踊りは彼女に向いているだろうと思っていたのだが、総じて動きが硬く、彼女の特徴である手足の動きの繊細さ、しなやかさ、なめらかさに欠けていた。小柄な割にパワフルな彼女らしくなく、跳躍にも彼女独特の軽さがない。初日だから緊張していたのだろうか。

9日の詩人とシルフィードに精彩がなかった大きな理由の一つは、詩人役のデヴィッド・ホールバーグが明らかに不調だったことだ。詩人とシルフィードとの踊りはぎこちなくてタイミングが合っていなかった。シルフィードを頭上にリフトするとき、多少はガニ股になるのは分かるが、なにもウェイトリフティングみたいに極端なガニ股にならなくてもいいだろうに。はっきり言ってカッコ悪かった。

ホールバーグは長身で脚が長く、ジャンプは高くてダイナミック(長い脚が余計に目立つ)なのだが、着地音が異様に大きい。しかも「ドン」という音ではなく、「バコッ」という鹿威しみたいな奇妙な音なのである。また、踊りは直線的というか乱暴で粗いところがあり、もうちょっと曲線的なしなやかさがほしいところだ。でも、飛び上がって両足を交差させる動きは精緻で、着地はきちんと両足を揃え、脚全体で柔らかな曲線を形作っていてきれいだった。

10日に主役のシルフィードを踊ったのは大和雅美で、余裕を持って丁寧にゆっくりと踊っていた。特に長くて細い腕の動きがたおやかで美しかった。10日はホールバーグの調子も9日よりは良かったので、詩人とシルフィードとの踊りも見ごたえのあるものとなった。

詩人がシルフィードの片手を取って、シルフィードがアラベスクでゆっくりと一回転するところ、シルフィードがポワントで片脚を上げながら、詩人の肩に手を置いて静止し、そのままポーズを取るところは、ガタガタ、ユラユラ感がなくスムーズだった。詩人がポワントで移動するシルフィードの手を取りながら、軽くジャンプして両足を打つ動きもうまくいっていた。

「プレリュード」の他にも、あちこちで出てきては踊りに加わる準主役のシルフィードは、9日の大和雅美も10日の大森結城もすばらしかった。両人ともダイナミックな踊りをする人、という印象があったが、この繊細でなよやかな踊りも見事にやってのけた。初めて小林紀子バレエ・シアターの公演を観たときには、島添亮子は別格だと思った。でも最近は、島添亮子と大和雅美、大森結城との差をあまり感じない。ダンサーは成長するんだな〜、と実感した。

この「レ・シルフィード」は、とにかくパドブレで移動する動きが異常に多く、またジャンプはあるわ、バランス技はあるわ、複雑な爪先の動きはあるわ、腕の動きの見せ場はあるわで、しかも基本的にはゆっくりしたスピードで、それらの動きをこなさなくてはならない。観る前はあまり期待していなかったが、意外と見どころが多くて面白かった。

次は「ソリテイル(Solitaire)」である。振付はケネス・マクミラン(Kenneth MacMillan)、音楽はマルコム・アーノルド(Malcolm Arnold)、美術はキム・ベアスフォード(Kim Beresfored)による。音楽のマルコム・アーノルドは、映画「戦場にかける橋」の音楽を作曲した人だって。初演はサドラーズ・ウェルズ劇場バレエによって、1956年6月に行なわれた。マクミランは1953年から振付活動を始めたので、この「ソリテイル」は初期の作品に属する。今回の上演に際しては、ジュリー・リンコンが振付を指導した。

主なキャスト。少女:高橋怜子;ポルカ・ガール:難波美保(9日)、中村麻弥(10日);第1ソロ・ボーイ:八幡顕光;第2ソロ・ボーイ:佐々木淳史;パ・ド・ドゥ:高橋怜子、中尾充宏。

「ソリテイル」には「ひとり遊び」という副題が付いている。“solitaire”という単語はトランプやおはじきのひとり遊びを指す。

舞台の背景は、フェンスか網の向こうに街並みかガラクタのようなものが見えるがはっきりしない。グレーがかった暗い寂寞とした感じの背景である。髪を耳の上でまとめ、暗いピンクと淡い紫のワンピースを着た少女が一人で立っている。少女は悲しげな顔をしながら、両腕を上げて曲げ、手の甲を顔の横に当てる。この動作は何度か繰り返されるが、とても印象的なポーズである。

少女は床に座り込んで、自分の膝に頬杖をつき、じっと前を見つめる。すると、舞台のあちこちから、明るい色の短いワンピースに身を包んだ少女たちや、長袖で足首まであるダイヤ柄の全身レオタードを着た少年たちが姿を現わしては、考え込んでいる少女の背後で奇妙なポーズを取ったり、コミカルな振りで踊ったりしては去っていく。

9日に観たときは「何これ?」と思ったのだが、10日に観てようやく、これは少女の空想を舞台いっぱいに展開してみせたのだと分かった。手法としては、“The Invitation”の闘鶏と大人たちが入り乱れるシーンと似ている。あれは「夫」の混乱した心の中を表現したものだった。でも今回は、いかにも子どもっぽい、他愛ない、かわいらしい演出になっている。

少年や少女たちは、時には数人で、時には一人で、また時には全員で姿を現わし、少女を誘って一緒に踊る。明るいオレンジ色のワンピースを着たポルカ・ガールは、少女の横で少年たちと踊ってみせる。ここで後年のマクミラン独特の振りが顔を出した。ポルカ・ガールを数人の少年が取り囲み、ポルカ・ガールは身体を反転させながら片脚を高く上げ、少年たちが順番にポルカ・ガールの脚をつかむ(「マイヤリング」にある)。

ポルカ・ガールの自信たっぷりの明るい笑顔と溌剌とした踊りに、少女は強く心を惹かれたようである。どうも活発なポルカ・ガールは、内気な少女の理想の姿のようだ。少女はポルカ・ガールの真似をして一緒に踊る。しかし少女は何度もポルカ・ガールにぶつかってしまい、怒ったポルカ・ガールは去ってしまう。

少年たちや少女たちは列を組んで一斉に踊る。少女もその真ん中で嬉しそうに踊る。また彼らは縦一列になってゆっくりと行進する。彼らは前の人の頭に手を置いたり、背中に寄りかかったりしながら、静かに前に歩いてゆく。彼らは少女を誘い、少女も彼らの列の末尾に加わる。しかし不思議なことに、少女はいつも一人その場に取り残されてしまうのだ。

ポルカ・ガールと少年たちがまた現れ、長いラッパを抱えて踊る。少女も一緒にラッパを抱えて踊るが、ポルカ・ガールと少年たちは姿を消し、少女は一人でラッパを抱えたまま、またしても置いてきぼりにされてしまう。少女はつまらなそうにラッパを投げ捨てる。

なぜ少女はいつも最後にはひとりぼっちになってしまうのだろう。他の少女たちが現れ、この少女を踊りに誘う。最初は踊っていた少女だったが、やがて拒むように踊りをやめて彼女らに背を向ける。少女たちは両手で顔を押さえて走り去ってしまう。それともこれは「かくれんぼ」なのだろうか?少女はまたしても一人になる。

少女と少年のパ・ド・ドゥは、まず音楽がとてもきれいだった。そして振付もほのぼのした暖かみを感じさせる、ロマンティックなものだった。特に少年が少女を高くリフトし、少女はその度に両腕をゆるやかに広げて飛ぶような仕草をする。少年と少女の顔には柔らかな笑顔が浮かんでいる。ここでもマクミランの作品によくある振りがあった。緩く開脚した少女を少年が支え、そのまま床を引きずるかのように移動する。

少女役の高橋怜子と少年役の中尾充宏によるパ・ド・ドゥは、息がぴたりと合っていて、ゆっくりな踊りなのにとてもなめらかで美しかった。

あんなに幸せそうに踊っていたのに、踊り終えると、少年はさりげなく少女に手を振って離れて去ってしまう。

少年たちや少女たちがまた現れ、少女を中心に輪になって踊る。少女も嬉しそうに踊るが、途中でいきなり少女は床に座り込み、顔を伏せて動かなくなる。どうしたのかといぶかる少年たちと少女たち。少女が孤独になるのは、必ずしも周囲の人間のせいばかりではないらしい。

最後、少年たち、少女たち、少女がまた一斉に踊る。少女は輪の中心で、少年たちに順番に手を取られながら嬉しそうに踊っている。しかし、少女の楽しい気持ちが最高潮に達したそのとき、周りで踊っていた少年たちと少女たちは次々と床にうつ伏せて動かなくなる。みなが死んだように横たわっているのに気づいた少女は戸惑う。

やがて、彼らはゆっくりと力なく起き上がると、一列になって蛇行しながら静かに行進していき、やがて全員が姿を消してしまう。一人きりになった少女の周囲が暗くなる。暗闇の中に佇む少女は、両腕で自分の頭を抱え、寂しそうな表情を浮かべて立ちつくす。

「ソリテイル」は、誰もが逃れられない孤独さを、最後にはいつも一人きりになってしまう少女の姿、そして楽しくて虚しい空想にふける一人の少女の姿を通じて表現している。絶え間なく次々と現れては消える少年たちや少女たちは、内気な少女の空想の産物なのだと思う。

この作品は不思議な力を持っていて、私は観ながら自分の子ども時代を思い出すと同時に、自分の未来、人間は結局みな「ひとり」なのだという現実を思っていた。それは懐かしいような、もの悲しいような感覚だった。

最後は「パキータ(Paquita)」よりグラン・パ(Grand Pas)、振付はマリウス・プティパ(Marius Petipa)、音楽はレオン(ルードヴィヒ)・ミンクス(Leon Minkus)、美術はピーター・ファーマーによる。「パキータ」はもともと全二幕のバレエであり、1846年にパリ・オペラ座で初演された。プティパはこの作品を1847年にサンクト・ペテルブルグで上演したが、1881年に改訂を施して、パ・ド・トロワとグラン・パを増補し、その音楽の作曲をミンクスに依頼した。

その後、「パキータ」の全幕が上演されることはなくなり、プティパ振付、ミンクス作曲のパ・ド・トロワとグラン・パが専ら上演された。2001年になってようやく、ピエール・ラコット(Pierre Lacotte)が全幕版「パキータ」を復元し、パリ・オペラ座バレエ団がこれを上演した。今年(2006年)の春にパリ・オペラ座バレエ団が日本で上演したのは、ラコットによる復元版である。チケットがあまりに高かったから観に行かなかったけど、行けばよかったなー。

主なキャスト。オントレ:斉藤美絵子(9日)、島添亮子(10日);アダージョ:斉藤美絵子(9日)、島添亮子(10日)、デヴィッド・ホールバーグ;ヴァリエーションI:高橋怜子;ヴァリエーションII:大森結城;ヴァリエーションIII:高畑きずな(9日)、斉藤美絵子(10日);ヴァリエーションIV:大和雅美;ヴァリエーションV:デヴィッド・ホールバーグ;ヴァリエーションVI:斉藤美絵子(9日)、島添亮子(10日);フィナーレ:全員。

幕が上がった瞬間、客席から一斉にため息が漏れた。舞台上の風景があまりに美しかったためである。舞台の天井からは、くすんだ金色の幕がふくらみをもたせて絞られ、大小の扇形になって垂れ下がり、しかもそれが幾重にもかさなっていて、金色の幕の端が舞台の左右を縁取っている。天井には黄金のシャンデリアが下がり、舞台の左奥にはやはり金の柱が立っている。

そこへ群舞の女性ダンサーたちが次々と現れる。頭には銀の飾りをつけ、サーモン・ピンクのチュチュを着て、首にかけた美しいデザインの銀のネックレスがそのまま胸元へとつながっている。さすがはピーター・ファーマーだ。ロイヤル・オペラ・ハウスなら、幕が上がった途端に客席から拍手が起きたに違いない。

9日にパキータ役を踊った斉藤美絵子だが、まだこの役を踊るには早すぎたと思う。彼女は「ライモンダ」第3幕も踊ったことがある。もしかしたらプティパのこの手の機械的な踊りが得意なのかもしれないが、私は彼女の「ライモンダ」もぎこちないと感じたし、今回の「パキータ」に至っては、いくら若手にチャンスを与えるにしても、この程度の踊りしかできないのなら、公演で踊らせるのではなく、小林紀子バレエアカデミーの発表会とかで踊らせてほしかった、と思った。

斉藤美絵子の踊りは、きちんと振付どおりに踊っているのだろうけど、とてもぎこちなくて、まるでバレエ・コンクールでの生徒さんのパフォーマンスを観ているようだった。フィナーレで32回転を始めたときにはハラハラした。案の定、途中から上げた片脚の動きが鈍くなり、回転する速度が落ちてきた。回転が音楽と完全にずれて、最後は32回を回りきらないうちに脚を下ろしてしまい、グラグラしながらそれでも笑顔でポーズを取った。うーむ、でも、あれはごまかせなかったと思うよ。

アダージョに関しては、斉藤美絵子がぎこちなかったのはホールバーグにも責任がある。最初から奇妙だった。踊りを始める前に、両人が並んで同じポーズで静止するんだけど、右に立つ斉藤美絵子は正面を向いていて、左に立つホールバーグは左斜め45度を向いていた。両人がお互いにそっぽを向いているわけ。これは実にヘンだった。アダージョの踊りでは、間を置かずにぴしっ、と決めなければならない動きが多いが、これが決まらない。たとえば女性ダンサーが片脚を上げて爪先を細かく動かした後、即座に男性ダンサーがその腰を支えて素早く回るところは、なんかもたもたしていてカッコよくない。

9日のホールバーグのヴァリエーションも、「レ・シルフィード」と同じような感じであった。いいところはあるんだけど、しなやかさがなくて美しくない。踊りが音楽にあまり乗っておらず、最後は見事に音楽を外して、音楽が終わるより先に決めのポーズに入ってしまった。もちろん時間が余る。ホールバーグは、「あ〜あ、やっちゃったよ〜」というふうに気まずそうに笑って、もう一度ポーズを取り直した。私はこのとき、「あなた、どういうつもりで日本に来たんですか?遊び半分ですか?」と彼に聞きたくなった。

10日にパキータを踊ったのは島添亮子だった。私は「パキータ」みたいな踊りは、島添亮子には合わないのでは、と思っていた。また、「オントレ」でピルエットをするところがあったが、グラついていて心もとなかったので、ますます心配になった。ところが、フタを開けてみたら意外に合っていたのである。やっぱり島添さんは違うわ、と思い直した。

上にも書いたように、困ったちゃんのホールバーグも10日は調子が良かった。アダージョはまずまずうまくいった。アダージョでは、島添亮子はピルエットをきっちりと決めていた。特にホールバーグに支えられてのピルエットで、1回目に小さく回った後、2回目に回る前に右脚をゆっくりと伸ばして高く上げる仕草の優美さには見とれた。ホールバーグとのタイミングもバッチリで、アラベスクのサポート+回転や肩に載せるリフトでは、たるみや間がほとんどなかった。

ヴァリエーションでは、第2ヴァリエーションを踊った大森結城と第6ヴァリエーションを踊った島添亮子がすばらしかった。ともに速度の遅い音楽に合わせての踊りで、そのぶん一つ一つの振りをゆっくり踊らなければならない。大森結城はゆっくり踊ってもバランスを崩すことなく、安定した踊りを披露した。片足ポワントで立ちながら、前に差し出していたもう片方の脚を、前から後ろにゆっくりと伸ばす動きを何回も繰り返す。

島添亮子の踊った第6ヴァリエーションは音楽が変わっていた。音楽の速度はやはり遅かったが、島添亮子はここで本領を発揮した。この人はもともと、ゆっくりした振りを丁寧に、優雅に踊るのが得意な人なのだと思う。腕の動きや爪先の動きはゆっくりながらも精緻で細かく、また動かすタイミングのツボをつかんでいて、本当に美しかった。

他には、女性群舞がよく頑張ったと思う。「レ・シルフィード」よりもすばらしかった。「パキータ」のフィナーレでの群舞の振りは、特にステップが実にせわしなく複雑で、しかもスピードの速い音楽に乗せて、テキパキと踊らなくてはならない。でも、みなさん動きがすごく良く揃っていた。観ていて気持ちよかったし、カッコよかった。

でも、全体的に見て、「パキータ」は小林紀子バレエ・シアターの今の水準では、ちょっと無理があったと思う。島添亮子でさえ、フィナーレでの32回転は、プリンシパルの意地にかけてなんとか回りきったという感じで、回っているときはすごい真顔だったもんね。それに、彼女が回っているときにはやっぱりハラハラしたから、観ている側に不安感を与えるような踊りは好ましくないと思う。

今回上演された演目の中で、観る前は「ソリテイル」に最も期待していたのだが、「レ・シルフィード」も「パキータ」もとても楽しんだ。振付のスタイルや作品の雰囲気がそれぞれまったく異なるので、観ていてぜんぜん飽きなかったし、違いが分かってとても興味深かった。また、それぞれの作品が持つ独自の魅力を堪能できて、なんか贅沢をさせてもらったような充実感もあった。次の公演にも期待しています。

で、そろそろカンパニーの公式サイトを作りませんか。

(2006年9月14日)


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