Club Pelican

NOTE

ネザーランド・ダンス・シアター I

「トス・オブ・ア・ダイス」/「サイニング・オフ」/「ウォーキング・マッド」

(2006年6月29日、新宿文化センター大ホール)

会場である新宿文化センターに行ったのは今回が初めてである。東新宿にある。新宿駅から歩いてたったの10数分。だが新宿文化センターの周囲一帯は住宅街で、高層マンションが立ち並ぶ一方、古い一戸建ての家屋も多くあり、また緑の木々が茂るこんもりした小さな森(公園?)や神社、小学校などもあって、新宿駅周辺の猥雑な喧噪がウソみたいに感じる、とても静かで落ち着いたところであった。平日の夕方だというのに、道を行きかう人も少ない。

理解に苦しむのは、ネザーランド・ダンス・シアターは世界的に有名なカンパニーで、しかも4年ぶりの来日だそうなのに、公演が2回しかないということである(関西公演をあわせても3回)。更にたった2回の公演は、ともに平日の夜に行なわれた(関西公演のほうは日曜日に行なわれたらしいが) 。このへんがポイント減。とはいえ、ちらほら空席がみられたものの、1階席はほぼまんべんなく客で埋まっていた。盛況だったと言っていいだろう。ただ、2階席はガラガラだったということだ。東京公演も週末とかだったら、客の入りはもっと良かったことと思う。

ネザーランド・ダンス・シアター(英語表記:Netherlands Dance Theatre)は、1959年にネザーランド・バレエから分離結成されたカンパニーである。オランダのデンハーグにあるルーセント・ダンスシアター(原語表記:Lucent Danstheater)を拠点に活動している。結成当初より、このカンパニーはクラシック・バレエ作品と、クラシック・バレエのカンパニーには不可欠な位階制度を退け、モダン・ダンスの要素が強い、実験的な作品をレパートリーとして上演していった。

初代の芸術監督はハンス・ファン・マーネン(Hans van Manen)で、振付家でもあった彼は、カンパニーのために多くの作品を提供した。また、アメリカのモダン・バレエの振付家、ジョン・バトラー(John Butler)、アンナ・ソコロウ(Anna Sokolow)、グレン・テトリー(Glen Tetley)らも次々と作品を提供した。彼らの作品によって、ネザーランド・ダンス・シアターは、アメリカのモダン・ダンス、またモダン・バレエの作風をも取り入れることになった。

ファン・マーネンが芸術監督を辞任した1970年以降、カンパニーは数年間の停滞を余儀なくされたが、1975年にチェコ出身の振付家、イリ・キリアン(Jiri Kylian)が芸術監督として着任するや、ネザーランド・ダンス・シアターは再び息を吹き返した。キリアンはレパートリーを刷新し、また新しい作品を次々と振り付けて、カンパニーを世界的な成功へと導いた。キリアンは1999年に芸術監督の職を退いたが、専任振付家として作品を提供し続けている。

ネザーランド・ダンス・シアターには位階制度がもともとなかったが、キリアンは更にダンサーたちの年齢に応じて、カンパニーを三つに分けた。それがネザーランド・ダンス・シアターI、II、IIIであり、Iは22歳から40歳までの、IIは18歳から21歳までの、IIIは41歳以上のダンサーで構成されている。メインカンパニーはIであるが、IIとIIIを設けることによって、ネザーランド・ダンス・シアターは、ダンサーたちを一貫した基準に沿って養成し、またダンサーたちの身分や立場を保証している。同時に若い振付家を積極的に育てるため、三つのカンパニーを利用して、彼らに自分の振付作品を上演する機会を多く与えている。

キリアンは僅かな期間ではあるが、英国ロイヤル・バレエ・スクールに在籍していた。入学したのは彼が20歳の時である(1967年)。翌年、キリアンはジョン・クランコの招きでシュトゥットガルト・バレエに入団した。その後はソリストにまで昇進している。つくづく思うのだが、クランコは早死にしたくせに、多くの作品を残したばかりか、多くの振付家まで育てている。キリアンが若い振付家の育成に熱心なのも、クランコの影響があるのではないだろうか。英国ロイヤル・バレエで、出る杭をひたすら打ち続けた某有名振付家とはここが違う。

最初の演目は「トス・オブ・ア・ダイス(Toss of a Dice)」である。振付はイリ・キリアン、音楽(というより効果音では・・・)はディルク・ハウブリッヒ(Dirk Haubrich)、彫刻(というよりオブジェでは・・・)は新宮晋。初演は2005年4月、ネザーランド・ダンス・シアターによって行なわれた。

出演ダンサー:アモス・ベン・タル(Amos Ben-Tal)、ナターシャ・ノヴォトナ(Natasa Novotna)、ペドロ・ゴウチャ(Pedro Goucha)、ナンシー・ウーヴリンク(Nancy Euverink)、ルーカス・ティムラック(Lukas Timulak)、パウラ・サンチェス(Paula Sanchez)、メディ・バレスキ(Medhi Walerski)、ヴァレンティナ・スカリア(Valentina Scaglia)、パーバネー・シャラファリ(Parvaneh Scharafali)、イヴァン・ドゥブルイユ(Yvan Dubreuil)、フェルディナンド・エルナンド・マガダン(Fernando Hernando Magadan)。

まず舞台装置が面白かった。新宮晋の製作による銀色の金属製のオブジェで、いっぱいに広げたコンパスを2つか3つ並列に重ね合わせたような形をしており、ぞれぞれの脚の先端は鋭利な刃物のように尖っている。このオブジェは天井に設置され、ダンサーたちが踊っている間、尖った脚を互い違いに回転させながら、天井を左右に、また上下にゆっくりと移動する。尖った銀色の脚にライトが反射して白い鋭い光を放ち、鋭くて冷たい、また危うい雰囲気を作り出している。

ダンサーたちは男性は上半身裸に黒いズボン、女性はハイネックで袖なしの黒いTシャツに黒いズボンを着ている。群舞、ソロ、デュエットが交互に、あるいは同時に舞台上で展開される。細かい振付はほとんど忘れたので、覚えている印象だけを記しておくことにする。

振付には典型的な「バレエ」の振りがまったく入っていなかった。見ていて、これはバレエでよく見るステップだ、ポーズだ、ムーブメントだ、という振りは皆無であった。腕を複雑に素早く動かす「ヘナヘナ踊り」(身もフタもない言い方でごめんなさい)や、静かでゆっくりしたバランス技が多く、派手なジャンプやら回転やらは一切ない。

上演時間はたぶん30分くらいだったと思う。いつもの私なら、ヒマだったけどちょうどいい時間配分なんじゃない、と言うところだが、今回は違った。難しいことはよく分からないけど、ダンサーたちの踊りに見惚れてしまったのだ。見慣れているバレエの動きは一切ない、でも美しくて魅力的だった。

その時点で思ったのは、このネザーランド・ダンス・シアターのダンサーたちはレベルが高い、ということだった。また、果たしてモダン・バレエというのか、コンテンポラリー・バレエというのか、どう呼べばいいのかは分からないが、とにかくこういう作品は、専門に訓練されたバレエ・ダンサーであってこそ、このようにきちんと、魅力的に踊れるのであって、普段はクラシックばかり踊っているバレエ・ダンサーが、片手間にやすやすと踊ることはできないのだ、とも感じた。

また、きちんとした振付ときちんとしたダンサーが揃えば、このような素人には一見とっつきにくい作品でも、充分に楽しめる舞台となる。この点で、スターダンサーズ・バレエ団の去年の夏の公演で観た、“Tokyo-Tools”(フェリックス・ルッカート振付)は明らかに失敗だったな、と思った。振付の良し悪しは今でも分からないが(どちらかというと良くなかったと思うが)、ネザーランド・ダンス・シアターのダンサーたちと比べてみると、少なくともスターダンサーズ・バレエ団のダンサーたちの能力不足ははっきりしている。比べるほうがおかしいのかもしれないが。

この「トス・オブ・ア・ダイス」が終わって、モダンやコンテンポラリー作品はやっぱり、それを専門とするカンパニーで観るべき、と思った。ただ、「トス・オブ・ア・ダイス」があまりに私のイメージする「バレエ」とかけ離れた作品であったので、私はダンサーたちについて大きく誤解していた。それは、ネザーランド・ダンス・シアターのダンサーたちは、モダンやコンテンポラリー作品を専門に踊るダンサーたちなので、彼らのバック・グラウンドもモダン・バレエであるに違いない、というカン違いである。

だが、次の「サイニング・オフ(Signing off)」を観て、それがカン違いだったと分かった。「サイニング・オフ」、ポール・ライトフット(Paul Lightfoot)とソル・レオン(Sol Leon)の共同振付、音楽はフィリップ・グラス(Philip Glass)の「バイオリンとオーケストラのためにコンチェルト」(部分)を用い、衣装もライトフットとレオンのデザインによる。初演は2003年5月、ネザーランド・ダンス・シアターによって行なわれた。上演時間はやはり30分ほど。

振付者のライトフットとレオンは、もとはネザーランド・ダンス・シアターのダンサーで、現在はキリアンと同じくネザーランド・ダンス・シアターの専任振付家、またアーティスティック・アドバイザーである。1991年から今まで、30以上もの作品を製作しているとのことだ。

出演ダンサー。シャーリー・エッセンボム(Shirley Esseboom)、ナンシー・ウーヴリンク、ヨルヘ・ノザール(Jorge Nozal)、ルーカス・ティムラック、メディ・バレスキ、ステファン・ゼロムスキー(Stefan Zeromski)。

女性ダンサーは白い下着の上に、短いワンピースのような白いキャミソールを着ていたことは覚えているが、男性ダンサーの衣装がどーにも思い出せない。ハダカではなかった気はする。だからTシャツにズボンとか、シャツにズボンとか、まあそんな感じだったのではないか(←いいかげん)。

「サイニング・オフ」もはっきりしたストーリーらしきものはない。しいていえば男女間の微妙な感情だろうか。まあストーリーはどうでもよろしい。音楽にクラシックを用いたので、まずこれで作品に入りやすい。また、振付は「御大」のキリアンと同じ「ヘナヘナ踊り」や、手足の向きがバラバラな振りが多かったが、ここかしこにクラシック・バレエの典型的な動きがちりばめられていた。しかも大技が多い。女性は両腕を前に、片脚を後ろにぶんと振り上げる。男性はジャンプをし、また両足でふんばって跳んで空中で回転する。

それらの動きがとてもきれいで、それでネザーランド・ダンス・シアターのダンサーたちのバック・グラウンドは、あくまでクラシック・バレエである、ということが分かったのである。そうなると、女性ダンサーたちはみなオフポワントだが、足の甲や爪先の形でも、彼女らはクラシック・バレエがバック・グラウンドなのだと分かる。

静かな振付の「トス・オブ・ア・ダイス」とは違って、こちらは躍動感のある踊りの作品であった。この「サイニング・オフ」が終わったとき、キリアンの「トス・オブ・ア・ダイス」が終わったときよりも、はるかに大きな拍手と喝采が起きた。ネザーランド・ダンス・シアターに興味のある観客でも、やはりクラシック音楽を伴奏に、クラシックの大技を入れた振付の作品のほうが受け入れやすいのだと思う。実際、私も「サイニング・オフ」のほうが見ていて楽しかった。

でも振付の完成度というか、振付がある方針、法則、要素の下に一貫しているという点では、ライトフットとレオンの作品はまだ発展途上だと思う。多く取り入れられていたクラシック・バレエの動きも、唐突に出てきちゃった感が強くて、他のコンテンポラリーな振りから浮いていたから。もしかしたら、それが彼らの振付スタイルなのかもしれないけど、私には中途半端な感じがしたのである。

ただ、これで、ダンサーたちと同じく、ライトフットとレオンの振付も、まずはクラシック・バレエを起点としていることが分かった。キリアンもそうだったのだとしたら、「トス・オブ・ア・ダイス」の境地にまで至ったのはすごいと思う。

最後の作品は「ウォーキング・マッド(Walking Mad)」である。振付、衣装、美術はヨハン・インガー(Johan Inger)により、音楽はラヴェルの「ボレロ」、アルヴォ・ペルトの「アリーナのために」を用いている。初演は2001年5月、ネザーランド・ダンス・シアターによって行なわれた。上演時間は40分弱。

振付者のヨハン・インガーも以前はネザーランド・ダンス・シアターのダンサーであり、数多くの振付作品をネザーランド・ダンス・シアターI、II、IIIのために提供し、多くの賞にノミネートされ、また受賞もしている。ローレンス・オリヴィエ賞にもノミネートされたことがある。彼は現在、クルベリー・バレエの芸術監督を務めている。

出演ダンサー。ブレヒ・ファン・ハーレン(Bregje Van Balen)、ヴィルジニー・マルティナ(Virginie Martinat)、ナターシャ・ノヴォトナ、アモス・ベン・タル、メディ・バレスキ、バスチャン・ゾルゼット(Bastien Zorzetto)、フェルナンド・エルナンド・マガダン、ルーカス・ティムラック、マティアス・スネソン(Mattias Suneson)。

トリに持ってきただけあって、この「ウォーキング・マッド」は娯楽性の強い作品であった。演出も面白くてユーモアがあり、また振付も分かりやすくて、クラシック・バレエの動きが随処に散りばめられていた。しかも、出演ダンサー全員がクラシック・バレエの大技で一斉に踊るなど、盛り上がる場面も用意されていた。

ストーリー性は、今回上演された3作品の中では最も強かったのではないかと思う。ストーリーといっても、やはり人間の孤独や男女の感情の機微などを抽象的に表現したものであったが。

出だしから変わっていて、コートを着て帽子をかぶった1人の男性が客席から現れ、設置された階段を登って舞台に上がる。彼の前には大きくて長い木製の壁が置かれていて、男性はその壁に近づこうとするのだが、いきなりその壁が前に突進してきて、男性はあわてて逃げ惑う。

木製の壁の後ろには他の出演ダンサーたちが待機しており、彼らが壁を動かしているのである。厚みがあって重そうな壁だったが、ダンサーたちは壁をしょっちゅう、バッチリのタイミングで器用に移動させていた。壁にはドアがいくつかしつらえてあり、ダンサーたちがドアの間から顔をのぞかせたり、ドアから出てきて踊る。

女性ダンサーは暗色系のワンピース、男性ダンサーは色とりどりのシャツにズボンという衣装で、ただ全員が、最初に出てきた男性ダンサーと同じように、ロングコートを着て帽子をかぶって踊るシーンもあった。

振付は、上にも書いたようにクラシカルな動きが意外と多かった。後は演出、マイム、演技で間を埋めており、具体的な意味はよく分からないが(1人の女性を男性全員が追いかけるとか)、ユーモラスな雰囲気に満ちていて、それなりに楽しめた。

音楽にラヴェルの「ボレロ」を用いた部分では大振りな動きが多く、音楽が最高潮に達する部分では、ダンサー全員がジャンプや回転などを駆使したダイナミックな振りで一斉に踊り、「ボレロ」が終わると客席から大きな拍手と歓声が湧き起こった。

ただ、この作品はこれで終わりではなく、1人の女性が沈んだ表情で壁にもたれかかり、その前に最初に出てきた男性が、長いコートを着て、帽子をかぶって佇んでいる。ここからは音楽が変わって、アルヴォ・ペルトの「アリーナのために」となる。静かで物寂しいメロディのピアノ曲で、ウィル・タケットが同じ曲を用いて“Duet”という作品を振り付けており、アダム・クーパーとゼナイダ・ヤノウスキーが踊った。

「アリーナのために」からは、男女一組によるデュエットとなる。それまでの派手で大騒ぎな踊りから一転して、静かでゆっくりとした踊りである。ここの踊りは、彼らの感情みたいなものが強く表現されていた。彼らは愛し合っていて、お互いに対する未練を断ち切れないでいる。しかし、彼らは結局は別れることを選ぶ、という結末だった。

見た目の分かりやすさ、楽しさという点では、ライトフットとレオンの「サイニング・オフ」、そして、ヨハン・インガーのこの「ウォーキング・マッド」が勝っていた。でも、作品としてよくまとまっていたのは、やはりイリ・キリアンの「トス・オブ・ア・ダイス」であった。

「サイニング・オフ」と「ウォーキング・マッド」は、観客に分かりやすい大振りな動きのダンス、観客が乗りやすい、雰囲気が盛り上がる音楽、またユーモラスな演出で観客を沸かせていたが、振付そのものは粗さが目立った。あくまでキリアンと比べて、であるが。

キリアンの「トス・オブ・ア・ダイス」は、見た目に分かりやすいバレエの動きを一切排除し、新しい振付そのもので勝負した。鋭く危険な形のオブジェも作品の緊張感を高めた。私が個人的に感じたことには、ダンサーたちがもっとも美しく、また魅力的に見えたのは「トス・オブ・ア・ダイス」であった。他の2作品でのダンサーたちの踊りは、どちらかというと勢いだけで押していった感がある。

モダンやコンテンポラリーには近づくまい、と思っていたが、今回のネザーランド・ダンス・シアターの公演を観て、モダンやコンテンポラリーもそう悪くはない、と思い直した。上にも書いたが、優れた振付と優れたダンサーが揃えば、実に見ごたえのあるすばらしい踊りとなるのだ。

クラシック・バレエお約束の振付やストーリー性で勝負するのではなく、クラシック・バレエを出発点として、新しい振付の踊りを創造する。モダンやコンテンポラリー作品を踊るカンパニーのバックグラウンドは、カンパニーごとに異なるのだろうけど、ネザーランド・ダンス・シアターは、私は非常に気に入った。

まだ少し苦手意識はあるけど、優れたカンパニーによる優れた作品の公演があったら、また観に行きたいと思った。

(2006年7月26日)

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新国立劇場バレエ 「ジゼル」

(2006年7月2日、新国立劇場オペラ劇場)

新国立劇場には今までに何度か来たことがあるから慣れている。正面玄関を入ると、階段を登った前方にさっそく観客の長蛇の列が。入り口には「完売御礼」の貼り紙がある。おお、ジゼル役で出演予定だった、パリ・オペラ座の女性エトワール(クレールマリ・オスタ)が降板したにも関わらず売り切れか。結構なことだ。上機嫌で列に加わって待っていると、入り口にいる係員の兄ちゃんが大声で何度も叫んでいるのが聞こえてきた。「こちらは『アワ・ハウス』の上演会場です!」

ということで、新国立劇場の館内で道に迷いました。しばらくオロオロと辺りを見回し、ようやく「ジゼル」のポスターとともに貼られていたオペラ劇場への標識を見つけました。正面玄関を入って真っ直ぐではなく、左に曲がればよかったのね。ちなみに、「アワ・ハウス」とはマッドネスを題材にしたミュージカルで、クーパー君もお気に入りの作品です。

残念ながら「ジゼル」のほうは「完売御礼」ではなかった。空席がけっこうあった。いつも不思議に思うのだが、バラバラに空いているのではなく、ごっそりとまとまって空いている。私の前は空席、左隣に至っては4つ連続で空席。センターエリアで、けっこう良いお席なのに。

主なキャスト。ジゼル:本島美和;アルベルト:バンジャマン・ペッシュ(Benjamin Pech);ハンス:冨川祐樹;ウィルフリード:澤田展生;ベルタ:堀岡美香;村人のパ・ド・ドゥ:遠藤睦子、グリゴリー・バリノフ(Grigory Barinov);クールランド公爵:ゲンナーディ・イリイン(Guennadi Iline);バチルド:湯川麻美子;ミルタ:西川貴子;ドゥ・ウィリ:真忠久美子(モンナ)、寺島まゆみ(ジュリマ)。

「アルベルト」っていうのはアルブレヒトのことで、「ハンス」っていうのはヒラリオンのことね。新国立劇場バレエが今回の「ジゼル」公演で採用したのは、ロシアのコンスタンチン・セルゲーエフ(Konstantin Sergeyev)による改訂版で、ロシアでは登場人物の名前に若干の違いがあるらしい。

演奏は東京フィルハーモニー交響楽団、指揮はエルマノ・フローリオ(Ermanno Florio)。

全体的な印象は、ゴチャゴチャした「飾り」のない、すっきりした「ジゼル」だったな、というもの。特に第一幕はストーリー紹介が主要な内容になっているせいか、多くの○○版「ジゼル」が、とかく演出だの村人の踊りだのに工夫を凝らして改変や増補を加えまくり、逆にうるさいくらいになってしまっているでしょ?今回の舞台ではそれがなかった。第一幕については、私は一部の版のうるさい演出に、ちょっとげんなりしていたところもあったので、すっきりと簡潔な今回の版が気に入った。

ジゼル役の本島美和は、動きが柔らかくしなやかで、足さばきもぎこちなさがなく精確、また重さを感じさせず、弾むようにふわふわと踊っていた。途中から気づいたんだけど、この人はトゥ・シューズの音をまったく響かせないのよ。それに大きくジャンプしても着地音がしないの。演技も良かったと思う。無理に型にはめたような、天真爛漫で愛らしいジゼル像を作り出さず、ちょっとクールにみえるけど、実はとても照れ屋で傷つきやすい心を持つ、現代の若者っぽいジゼルを演じていた。

バンジャマン・ペッシュのアルベルト役は、ノリが軽くてちょっとアホっぽかった。ジゼルの家の扉を叩いた後、家の陰に隠れながら鳥の鳴き声を真似して、あたりを探し回るジゼルをからかうシーンでは、ジゼルの背後から、オーバーな仕草で両手で投げキッスをして、大きなキス音を響かせ、観客の笑いを誘っていた。昨今、いろんな意味で「濃い」アルブレヒトが多い中、たまにはこーいうアルブレヒトがいてもいいだろう。ペッシュは写真で見たら顔が濃かったが、実物はそうでもなかった。特にハンサムではないが、軽妙で洒脱な雰囲気の漂う、感じのいい兄ちゃんである。

ジゼルに執拗に迫るハンス(ヒラリオン)を止めようとして突き飛ばされるところでも、突き飛ばされながら「これだから無粋な輩は」という呆れたような顔をしたかと思うと、次の瞬間にはきっぱりとした態度でハンスに去るよう命じる。ペッシュの踊りには、なんでわざわざこの人を招聘する必要があったのか、と疑問に思った。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールだから下手なはずはないんだけど、この人の踊りはガタガタしていて美しくない。でもペッシュのような演技が日本人の男性ダンサーにできるかといえば、たぶんできないだろう。だから、根本的にキャラの表現が異なるダンサーを呼んでよかったのだと思う。

よって今回の公演でのアルベルトとジゼルは、非常に明るく陽気なカップルとなった。二人はしょっちゅう投げキッスをしあい、やがてベルタがジゼルを引っ張って家に引っ込むが、アルベルトは爪先立ちしてジゼルにしつこく投げキッスをし続ける。

村人たちの群舞は、分かってはいたがすばらしかった。列の移動はもちろん、個々人の腕や足の動きがぜんぶ揃っていて、小気味いいくらいにテキパキと踊っていく。ジゼルの友人たち(淡いブルーの衣装を着た8人)が一列に並んで両足を何度も交差させるところなんて、見ていて実に気持ちよかった。

村人の踊りには、群舞の他にただ男女一組によるパ・ド・ドゥがあるだけで、次から次へと4人の踊り、6人の踊り、と繰り出されるよりは、このほうがいっそすっきりする。村人のパ・ド・ドゥを踊ったのは、私の好きなグリゴリー・バリノフ君と遠藤睦子で、特にバリノフ君は柔らかくしなやかで、しかも極めて安定した踊りを披露してすばらしかった。

第一幕の最後、ハンスによってアルベルトの正体が暴露されるシーン、まずクールランド公爵がアルベルトの前にやって来て、なんでそんな庶民の格好をしているのか、と尋ねる。アルベルトの答えが面白い。アルベルトはごまかすように微笑みながら、右手を頭のこめかみのあたりにやる。「ちょっとバカな考えを起こして」という意味だろう。次にバチルド姫も同じ質問をする。アルベルトはやはり笑いながら弓を引く仕草をする。「狩りに備えて」という意味だと思われる。そして、そのまま平然とバチルド姫の手を取ってキスをしようとする。まるでジゼルのことなど全く眼中に入っていないかのようで、こりゃ、ジゼルにはショックだわ〜、と初めて納得した。

一部のアルブレヒト役の人はさ、アルブレヒトに悪意はなかった、或いはアルブレヒトは真剣にジゼルを愛していた、ということをこのシーンで示そうとするでしょ。でもペッシュのアルブレヒトは、貴族の人々に接すれば、貴族の思考にすっと戻って、貴族のやり方で振舞う。ジゼルにはきっと、そんなアルブレヒトが別人に見えただろう。冷然と自分を無視するアルブレヒトにショックを受けた上に、彼に真実を問いただしても、彼は気まずい表情で目をそらすばかり。なるほど、このほうがジゼルが発作を起こして死んでしまう合理性がある。

ジゼルが死んだ後、アルベルトは嘆きながらも、ウィルフリードにともなわれてその場から姿を消す。アルブレヒトが再び戻ってきてジゼルを抱きしめて幕、という終わり方もあるが、躊躇しながらも去ってしまうほうが、貴族たちやジゼルに対するアルベルトの、要領の良い、且つ優柔不断な反応と合っている。

第二幕は、幕が開くと舞台上に白い霧が立ち込めていて美しかった。ハンスがジゼルの墓にやって来ると、音楽が不穏なメロディになって、電灯の鬼火が点滅したり、松明みたいな鬼火が舞台袖からさし出されたり、ウィリたちが姿を現わしたりするが、今回は青い電灯鬼火を使用していた。ただ数があまりに少なく、まるで安酒場の壊れたネオンみたいでちょっと迫力不足だった。

舞台セットはこのように簡素であったが、しかし、別にこんなところで凝らなくとも、というセットがあった。ミルタやジゼルが舞台の奥を飛ぶように横断していくシーンでは、木製の台車の上にダンサーを載せて移動させたらしい。台車が床の上を滑る「ゴゴゴ〜ッ」という音がおもいっきりしていて、はっきり言って雰囲気をぶち壊しにしてくれた。

あとはなんといってもジゼルが墓の中から登場するシーンである。ミルタが手でさしまねくと、ジゼルの墓の前の床が開き、奈落からジゼルが立ったまま浮き上がってくる。最後、ジゼルが墓の中へ去るシーンでも、再びジゼルは墓の前に立ち、奈落の底へ消えていくのである。いや、なんというか、こんな小細工、別に必要ないじゃない?ふつーに舞台袖から出てきて、また引っ込めばいいじゃん。こういうところで凝るよりも、たとえば第一幕で、狩りをしているはずの貴族様御一行に、獲物のぬいぐるみでも持たせてやればよかったんじゃないか、と思うのですが。

ウィリたちが一斉に登場するシーンでは、彼女らは最初、白いヴェールを頭からかぶっていた。このほうが便利だ、と思ったのは、ウィリたちが1列ごとに1枚の長いヴェールを一緒にかぶっていたことである。それを後ろから引っ張ると、みんなのヴェールを一気に取り去ることができる。このほうが簡単だよ熊川君。

ジゼルも登場時は白いヴェールをかぶっている。ジゼルの場合はヴェールに透明な糸がついていて、ジゼルが舞台のちょうど真ん中に来たところで、ヴェールについていた糸が引っ張られてヴェールがすっぽぬけ、ジゼルの顔が露わになる。

ウィリたちの衣装には、ミルタ、ドゥ・ウィリ、ジゼルを除いて、スカート部分に木の葉模様の刺繍が入っていた。このデザインは、ピーター・ファーマーの独創ではなかったのか。

ウィリの群舞は楽しみにしていたけれど、やはりすばらしかった。列を組んでアラベスクのまま交差していく有名なシーンとか、ハンスを取り殺すシーンとか。ウィリたちが手をつないで輪を作り、ハンスをその中に閉じ込めたまま、身をかがめてぐるぐる走るでしょ。今まで見た中では最速の走りで、実に迫力があった。ふざけて言っているんじゃないよ。ウィリは妖怪なんだから、ああいう不気味さがあったほうがいい。

そういえば、アルベルトがジゼルの墓参りに訪れるシーンでは、なんとウィルフリードも登場した。そのときちょうどあの青い電灯鬼火が点滅して、ウィルフリードは「夜の森は危険です。帰りましょう」という仕草をする。でももちろんアルベルトにはその気はない。ウィルフリードはアルベルトのマントを持って去る。ウィルフリードよ、もしかしてマントを片づけるためだけに出てきたのか?

新たにウィリとなったジゼルの「ぐるぐる踊り」、本島美和はまるでコマが回るように機械的に速く回り、その後も狂ったように飛び跳ね、また回転しながらジャンプし、とてもすばらしかった。ジゼルがアルベルトをかばって踊るソロも、とてもなめらかで滑るように踊っていた。彼女の音楽の使い方も私の好みである。音楽のツボを押さえて踊るのって、やっぱり大事だと思う。ジャンプしながら舞台袖へ駆け去るところも、とても音楽に合っていて、最後の一歩だけをグラン・ジュテにして消えたのもカッコよかった。

アルベルト役のペッシュとジゼルが組んで踊るところでは、少しばかりぎこちなさがみられたが、これは事情からいって仕方のないことと思う。でもペッシュが本島美和を慎重に、また彼女が美しく見えるように配慮しながらサポートしているのがよく分かった。

ウィリたちはただ両脇に並んでいるばかりではなく、抱き合うジゼルとアルベルトを力づくで引き離したり、また全員で「ノー」の仕草(そっぽを向きながら片手を後ろにさし出す)をしたりしていて面白かった。後者の仕草は別の版でも見たことがあるが、ジゼルとアルベルトを引き離す、というのは初めて見た。

確か前にも見たことがあると思うのだけど、ジゼルが百合の花をたくさん抱えてミルタに差し出し、アルベルトを見逃してくれるように頼むシーンがあるでしょう。ジゼルはどうして百合の花を抱えているのでしょう?アルベルトは自分にこんなに花をくれた良い人なのだ、と言いたいのか、それともたくさん花をあげるからアルベルトを許して下さい、と言いたいのか。

瀕死のアルベルトにミルタがとどめを刺そうとしたところで朝の鐘がなる。ミルタ、ウィリたち、そしてジゼルは、一斉に手のひらを耳に当てて聞き入る。ミルタが複雑な表情で聞いているのに対し、ジゼルは嬉しそうな微笑を浮かべながら聞いている。西川貴子のミルタは無表情一辺倒ではなく、割と感情をはっきりと顔に出すミルタで、今一歩のところでアルベルトを殺し損ねた、あの眉根に皺を寄せた悔しそうな表情は面白かった。

第一幕ではお調子者で軽率な坊ちゃまだったペッシュのアルベルトだが、ジゼルが墓の中に姿を消した後のペッシュの表情は痛々しかった。ジゼルに命を救われてはじめて、自分がどんなにひどいことをしてしまったのか、どんなに大切なものを失ってしまったのか、ようやく分かったというような、とても悲痛な表情だった。第一幕との落差があまりに大きかったので、ペッシュのこの表情には思わずぐっときた。

舞台セットや衣装は簡素で仰々しさがなく、演出や踊りの構成も簡潔明瞭だったが、やはりダンサーたちが優れていると、それだけで舞台がすばらしいものとなる。特に「ジゼル」の第一幕が、ダンサーたちのマイムや踊りを見ているだけで飽きなかった、というのははじめての経験である(そう、私は「ジゼル」第一幕があんまり好きではないのだった)。また新国立劇場バレエで、セルゲーエフ版で観てみたいものだ。

とりあえずこれで今年の「ジゼル」は見納めのはず。また機会があれば観に行くけど(特に、今まで観たことがないカンパニーの「ジゼル」)、今年いくつかの版の「ジゼル」を観て、骨幹は同じだけど、それぞれの版ごとに、またそれぞれのダンサーごとに、当然のことながら多種多様な特徴があるもんだな、と思った。

やはりジゼル役とアルブレヒト(アルベルト)役は違いがはっきり出る。ジゼルはキャラクターの表現はもちろん、より重要なことには、踊りがダンサーごとに大きく異なる。アルブレヒトはキャラクターの表現がダンサーによって異なる。「ジゼル」はかなり古いバレエ作品だということだが、現代でもなお色々な解釈や表現ができる、という点ですばらしい作品だと思う。

唯一不満なのは、今まで観てきた中で、ヒラリオン(ハンス)役でこれはいいな、と思うダンサーに当たらなかったことだ。みんな単純粗暴なキャラクターとして表現され、第二幕冒頭で情けない死に方をして終わる。クーパー君はロイヤル・バレエ時代に個性的なヒラリオン役を演じてみせたそうだが、そういうヒラリオンが観られればいいなあ、と思う(と無理やりクーパー君にリンクして終わる)。

(2006年7月2日)


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