Club Pelican

NOTE

K-Ballet 「ジゼル」

(2006年5月18日)

ある日、チケット・スペースからK-Ballet「ジゼル」先行予約のDMが来た。K-Balletは大人気だと聞いていたから、良い席など取れないだろうと思ったが、物の試しに電話してみた。そうしたら意外なことに、割と安くてしかも良い席が取れた。生の熊川哲也の舞台は観たことがないし、共演者のヴィヴィアナ・デュランテも映像でしか観たことがない。しかも演目は「ジゼル」で、今年は私にとっての「ジゼル・イヤー」だから、いい機会だと思ってこの公演を観ることにした。

会場は上野の東京文化会館である。会場に入って、まずプログラムを買おうとした。そしたら、なんと3000円もするではないか!私の中には妙な基準があって、バレエ公演のチケットは20000円まで、プログラムは2000円まで、それ以上はボッタクリと見なして買わないことに決めている。というわけで買わなかった。会場では関連グッズの販売も行なわれていたが、グッズなんて所詮お遊びだから、値段なんぞいくら高くつけてもかまわないと思う。でも最も実用性があって購買率が高いプログラムに、ここまで高い値をつけるのは、いくらなんでも浅ましいことではないだろうか。

関連グッズのカウンターをのぞいてみた。品揃えが実に豊富で、これは明らかにロイヤル・オペラ・ハウスを含めたウエスト・エンド式の商法を導入したのであろう。「なんじゃこりゃ」な商品も多く、値段もみな常軌を逸した高さである。クリアファイル:350円、コインチョコレート:800円、ジゼルノート(表紙が「ジゼル」の舞台写真):1200円、携帯ストラップ:2000円、携帯フィルター(熊川哲也のアップ写真):1200円、Tシャツ:3500円(←どぱーっ!)、ヘアゴム:2000円、バスタオル:3000円(←ひえーっ!という以前になぜバスタオル?)、等々。

どの商品もみな値段がお高くて、買う人なんているのかしら、と思ったが、意外にもグッズ販売カウンターは大盛況、さながらバーゲン会場の様相を呈していた。特に人気があったのはTシャツで、大勢の人々が先を争って購入していた。

でも惜しいな。帽子がない。熊川哲也が帽子をかぶってる写真の隣に「熊川哲也も愛用!」という見出しをつければ(←「危険な関係」東京公演を観た人にだけ分かる冗談)、たちまち人気商品になること請け合いだ。公演を収録したビデオやDVDも充実している。というより、ほとんどの舞台の映像版が出ているようだ。いいな〜、羨ましい。クーパー君の舞台も、映像版が出てくれればいいのになあ。

かねて話に聞いていたとおり、観客のほぼ全員が女性であった。年齢層はお年寄りから若い子までと幅広い。東京文化会館大ホールのR、L列をあわせた横一列に、男性の観客はたった2〜3人という割合である。女性の観客はみなおしゃれに気合が入っていた。結婚式の披露宴とまではいかないが、ほとんどが二次会に近い格好であった。その気持ち、よく分かる。愛する人の舞台にみずぼらしいなりで臨むなど失礼千万ですもの。それがファンというものよ。

主なキャスト。ジゼル:ヴィヴィアナ・デュランテ(Viviana Durante);アルブレヒト:熊川哲也;ヒラリオン:スチュアート・キャシディ(Stuart Cassidy);パ・ド・シス:荒井祐子、輪島拓也、長田佳世、東野泰子、ピョートル・コプカ(Piotr Kopka)、アレクサンダー・コーウィー(Alexander Cowie);ベルタ:ロザリン・エア(Rosalind Eyre);クールランド公爵:ギャビン・フィッツパトリック(Gavin Fitzpatrick)、バチルド姫:天野裕子;ウィルフリード:エロール・ピックフォード(Errol Pickford);ミルタ:松岡梨絵;ドゥ・ウィリ:長田佳世(モイナ)、柴田有紀(ズルマ)。なんかずいぶん外人が多いな。

演奏はKバレエ・シアター・オーケストラ(←専属のオーケストラ?)、指揮は磯部省吾。

なんでもこれは「熊川版『ジゼル』」だそうで、キャスト表にも「演出・再振付:熊川哲也」と書いてある。どのへんが熊川君独自の演出や振付なのか、分かった部分もないことはないが、細かいところはさっぱりである。でも、ベースはやはりロイヤル・バレエの「ジゼル」ではないのかな。たとえばベルタがウィリについて語るマイムや、バチルド姫をもてなすベルタやジゼルのマイム、それに応ずるバチルド姫のマイムが、ロイヤル・バレエのヴァージョン(「マイム事典」で見られる)とまったく同じだったから。またピーター・ライト版の影響も顕著だった。

熊川君の振付がいいかどうかは、私には分からない。でも演出はとてもよかったと思う。とにかく話が分かりやすくて、ストーリーの流れが非常に自然であった。観客が理解できるように、と観る側のことをきちんと考えてくれている演出で、もしかしたらピーター・ライト版以上に細かくて綿密な構成だったし、改変によって更に効果的になったシーンもあった。

序曲の終盤で幕が開き、同時に熊川哲也のアルブレヒトが舞台の奥から姿を現わす。アルブレヒトがまとっているマントが、多くの「ジゼル」でみられるような一枚布の巨大風呂敷ではなく、光沢のある緑の生地の端を両肩についた金の飾りで留める立派なもので、一見してアルブレヒトが高貴な身分の人間だと分かる。ウィルフリードは騎士の格好ではなく、中世の学者のような茶色の長い衣装で、まるで先日に観た松山バレエ団「ジゼル」のエラスムスみたいだった。

アルブレヒトとウィルフリードが隠れ家に引っ込んでいる間に、ヒラリオンが獲物を届けにジゼルの家を訪れる。そこでベルタも登場する。ヒラリオンはベルタに獲物を渡したり、またベルタを手伝って大きなバケツを持ってやったりして、なにかと親切にする。ベルタもヒラリオンを気に入っているようで、このへんの演出はピーター・ライト版と同じである。

熊川哲也演ずるアルブレヒトは、両手で左胸を押さえていとおしげな表情をし、ウィルフリードの制止を振り切って彼を去らせる。う〜む、熊川哲也はあんまり演技が上手じゃないな。型どおりというか、わざとらしいというか。「アルブレヒト」っていうより、「熊川哲也がアルブレヒトの演技をしている」感が強い。シルヴィ・ギエムの一生懸命で不器用な演技とよく似てる。

ヴィヴィアナ・デュランテのジゼルは、髪は全部はまとめずに後ろに垂らしていてかわいかった。でも彼女のジゼルはなんだか大人の女っぽいジゼルだった。アルブレヒトと戯れるシーンでは、余裕たっぷりにアルブレヒトをじらしてからかっているような感じである。右手を上げて誓いを立てるアルブレヒトを止めるシーンでも、静かな表情でアルブレヒトの腕を押さえ、「そんなことをしてはだめよ」と諭すように首を振る。踊りはしなやかで、テクニックがあり、身体的な素質にも恵まれている。でもこの後で徐々に分かってくるのだが、彼女の踊りはムラが激しい。あるシーンで完璧に踊ったかと思うと、別のシーンではガタガタに崩れる、というパターンである。

ジゼルにしつこく言い寄るヒラリオンと諍いになり、アルブレヒトはつい感情的になって剣に手をかける仕草をする。といっても、もちろん剣はウィルフリードに指摘されて家の中に隠してあるから、アルブレヒトの腰に剣はない。これはいい演出で、つい貴族の男性の癖が出てしまったわけである。で、これが後でヒラリオンがアルブレヒトの正体に気づくきっかけになってしまう。

熊川版「ジゼル」でも、ジゼルは心臓が弱いことが強調されている。デュランテの演技はさすがで、ふと顔を曇らせて両手で胸を押さえ、それに気づいたアルブレヒトが彼女に近づくと、なんでもないわ、という仕草と表情でごまかしてみせる。演技力はデュランテのほうが熊川君より上ですね。

今回はベルタがウィリの伝説を語るマイムが見られて嬉しかった。このマイムは、現在ではほとんどの版で削除されている。ピーター・ライト版でも削除されていた。踊り疲れたジゼルを咎めるベルタは、「踊ると死んでしまうわよ」というマイムをし、続けて不穏な音楽とともに、「森には夜になると墓からウィリたちが出てくる。そこへ男が通りかかろうものなら、ウィリたちは彼を捕まえて、死ぬまで踊らせる」とすべてマイムで語るのである。

キャスト表によると、今回ベルタを担当したロザリン・エアは、ロイヤル・バレエ学校出身で、1960年にロイヤル・バレエに入団、1986年から2000年まではバレエ・ミストレスを務めた人だそうだ。バレエ・ミストレスのレパートリーは、「マノン」のマダム、「ロミオとジュリエット」のキャピュレット夫人、そして「ジゼル」のベルタ役などがある。ロイヤル・バレエ直系の貴重なマイムが見られてちょっと感動した。

ヒラリオンがアルブレヒトの隠れ家にピッキング侵入するシーンでは、ヒラリオンはアルブレヒトが腰に下げた剣に手をかけようとした仕草を真似て、首をひねって考え込む。「あの仕草は俺たち庶民のものじゃないよな」とヒラリオンは疑い、証拠を求めてアルブレヒトの家に忍び込む。前段でのアルブレヒトの仕草がヒラリオンの行動の動機になっていて、しかも剣という点で一貫している。

他の「ジゼル」では、ヒラリオンはアルブレヒトの居丈高な態度と仕草に違和感を覚えて家に忍び込んだ結果、偶然に剣を見つけた、という流れが多い。第一幕の最後では再び剣が登場して、それがジゼルの死にも繋がっていくわけだから、貴族の象徴である「剣」で第一幕の話を進めていったのはナイスな演出である。

クールランド公爵とバチルド姫を含めた貴族たちの一行が現れ、ジゼルの家で小休止するシーンも面白かった。バチルド姫がジゼルの家の前に机と椅子を持ち出させて座ると、ベルタが桶の中にグラスを直にくぐらせて飲み物を入れる。ジゼルはそのグラスを受け取ると、自分のスカートの裾でグラスの表面をぬぐい、バチルド姫に差し出す。バチルド姫は「これ、清潔なの?」と疑うような顔をして、グラスの中をじっとのぞきこみ、それからやっと口にする。今回のバチルド姫はちょっと高慢で近寄り難いお姫様である。

このあたりのマイムは、「マイム事典」に収録されていたものと、細部に至るまですべて同じであった。この後、ジゼルがバチルド姫のドレスに触ろうとしてそれを見咎められ、「きれいなドレスだから」と弁解するマイム、ジゼルが「私は踊りが好きなんです」と説明するマイム、バチルド姫の「では踊ってごらん」というマイム、バチルド姫の周りを踊り始めたジゼルをベルタがあわてて止めるマイムなどもすべて同じである。

次の演出は改変したものだろうと思う。ジゼルの2番目のソロがバチルド姫の前で踊られ、ジゼルの踊りに報いるために、バチルド姫が自分の首飾りをジゼルにプレゼントする、という筋になっていた。ジゼルは喜びのあまりバチルド姫の手に接吻しようとするが、バチルド姫は高慢な笑顔を浮かべながらさっと手を引いて避ける。

デュランテの踊りはとてもすばらしかった。足さばきは細かいし、バランスも安定しているし、片脚を後ろに上げたままふわりと一回転する動きもゆっくりで柔らかく、最後に回転しながら舞台を一周するところも、脚の姿勢や動きがしっかりしていて速さも鋭さもあった。

貴族たちや村人たちがみんないなくなると、アルブレヒトの家に隠れていたヒラリオンが姿を現わす。その手にはアルブレヒトの剣が握られていて、ヒラリオンはジゼルの家の戸口に掛かっていた貴族のホラ貝、じゃなかった、角笛(←でもホラ貝と似てるよね)を手に取ると、剣と角笛を見比べる。ピーター・ライト版でもそうしていたが、ヒラリオンは剣と角笛をくっつけて持ち、双方に同じ紋章が刻印されているのが観客に見えるようにしていた。

パ・ド・シスは主要なデュエットやソロを踊った荒井祐子、輪島拓也ペアがやはり最もきれいだった。彼らは別の公演でジゼル役とアルブレヒト役にキャスティングされているらしい。さもありなん。特に輪島拓也君はスタイルよし、顔よし、踊りよしですばらしい。ところが、残りの男性ダンサー二人の踊りがまずかった。踊りがバラバラで揃ってないし、各人の動きもなんかバタバタしていて美しくない。

それからの村人たちの群舞は壮観でよかった。特に両側からダンサーたちが幾重もの列をなして交差していくところ。そうやって盛り上がっていって、最後にジゼルとアルブレヒトが再び姿を現わし、列の真ん中で手を取り合う。踊りが最高潮に達したところで、ヒラリオンがアルブレヒトの剣を持って現れ、ジゼルとアルブレヒトを引き離す。

そしてとうとう第一幕のラストを迎えるわけだが、まず、ヒラリオンに動かぬ証拠(剣)を突きつけられ、アルブレヒトは激昂して剣を抜くと、それを床に勢いよく叩きつける。ジゼルとの楽しい恋路を台無しにされかけて、やり場のない怒りに駆られているといった風である。だけど、再び姿を現わしたバチルド姫を前にした熊川アルブレヒトの演技はちょっとなあ、と思った。あえてそうしたのかどうかは知らないけど、まるで母親に叱られている子どもみたいな、半ベソかいた情けない表情を終始していたのである。そして高慢なバチルド姫に促されるままに、従順に彼女の手に接吻をする。

「K-Ballet TIMES」(会場で配られた)によれば、熊川君はアルブレヒトを「貴族の家柄にあり、生まれながらに決められたものをまっとうしなければいけない時代において、それに反発し、人を愛する」と解釈しているようだが、熊川君のアルブレヒトは単に気の弱いお坊ちゃまに見えた。まあそういうアルブレヒトもありだと思うが、私が感じたことには、熊川君はやはり演技力に乏しいところがあって、そのせいでアルブレヒトという人物像に深みが感じられない。この点では、先日に観た清水哲太郎や、映像版で観たルドルフ・ヌレエフが演じた個性あるアルブレヒト像には及ばない。

お楽しみの「ジゼル狂乱の場」では、デュランテの静かな凄みのある演技が印象的だった。偶然に振り乱した髪の一筋が口の端に引っかかり、余計に鬼気迫る表情になった。そして大きく眼を見開いて一点を凝視したまま、機械的な仕草でアルブレヒトとのやりとりを再現する。ジゼルの死因については、熊川君は「自殺説」ではなく、「心臓発作説」を取ったようである。ジゼルはアルブレヒトの剣を腹に突き立てようとするのだが、ヒラリオンに剣を取り上げられるからである。

ジゼルが死んだ後、アルブレヒトはウィルフリードに促され、ベソをかきながらもいったんはその場を後にする。しかし再び踵を返して戻ってくると、倒れているジゼルの足元で膝を折り、うつむいて泣く。どーも熊川君のアルブレヒトはあまりに弱々しいというか、女々しすぎるなあ。ともあれ第一幕が終了する。

(2006年5月19日)


第二幕、森の中の墓場。幕が開くと、あり、このセットはどこかで見たような、と思った。ピーター・ライト版のセットとそっくりなのである。舞台の左端には小さくて粗末なジゼルの墓が傾いて立っており、舞台の奥にはやはり粗末な作りの墓が地面に突き立ててある。演出もピーター・ライト版と同じで、ジゼルの墓の前にはヒラリオンがいて墓守をしている。

他の版では、それから人魂が出たり、得体の知れない無数の光が瞬いて、ヒラリオンはビビッて逃げる。でも熊川版では最初からウィリを登場させた。複数のウィリが現れ、ヒラリオンの周りを囲んで走ると、またすばやく去っていく。ウィリを目にしたヒラリオンは恐れおののいて逃げ出す。これもいい演出だと思う。ヒラリオンがウィリに追われて捕まる後のシーンにうまくリンクしている。

ミルタに呼び出されてウィリたちが現れるシーン、ウィリたちは頭から白いヴェールをかぶっている。これも前に見たことがある。それと、ミルタをはじめとするウィリたちの衣装にも見覚えがあった。スカート部分に緑の木の葉の刺繍が施されているのである。セットといい、ウィリの出で立ちといい、ピーター・ライト版とほぼ同じだ。K-Ballet「ジゼル」の舞台美術と衣装はピーター・ファーマーが担当している。後でスターダンサーズ・バレエ団が上演したピーター・ライト版「ジゼル」のプログラムを見たら、やっぱりライト版「ジゼル」の美術と衣装もピーター・ファーマーのものだった。

白いヴェールをかぶったウィリたちが居並ぶと、どういう仕掛けか、ヴェールが一斉に宙を飛んで舞台脇に引っ込み、ウィリたちの素顔が露わになる。ヴェールのてっぺんに釣り糸みたいなものがくっつけてあって、それを舞台袖から引っ張ったらしい。これは面白かった。

ミルタを担当した松岡梨絵は、技術こそ少し危なっかしかったが、毅然とした表情できっと前を見据える、なかなかに威厳のあるミルタであった。彼女は別の公演でジゼルも踊るらしい。ジゼルとミルタの両方を踊るダンサーというのは、そう珍しくはないのかしら。ミルタ役でのあの厳しい表情が、ジゼルではどう変わるのか興味深い。

ウィリの群舞は18人で(ミルタ、ドゥ・ウィリを含めると21人)、これは少人数編成だと思うけれど、少ないな〜、という寂しい感じは全然なかった。群舞のレベルは、私にはよく分からないが、普通に良かったんではないかと思う。

さて、とうとうミルタがジゼルを呼び出すシーンである。白いヴェールをかぶったジゼルが姿を現わす。やはり途端にぴゅっ、とヴェールが外れて宙を飛ぶ。ミルタにいざなわれ、ジゼルは前に進み出ると、ガク、ガクと身を起こす。デュランテの「くるくる踊り」はあんまり面白くなかった。不気味度が足りない。あそこは機械的に、また狂ったように踊ってほしい。でも飛び跳ねるところや回転しながらジャンプするところは妖怪的でよかった。

床に片膝をつき、額に手を当てて悲しみに沈むアルブレヒトの横にジゼルが現れる。ここのデュランテの踊りは、私は大いに気に入らなかった。最初、静かにゆっくりと片脚を後ろに上げていくところでは、ちょびっと上げただけですぐに下ろしてしまった。それで音楽が余った。

これも熊川君の再振付なのだろうか。音楽が余った部分はアルブレヒトの周囲をしばらくぶらついて消化し、それから再度片脚を横や後ろに上げながら、アルブレヒトの傍を一周する動きに入った。この動きも音楽にまったく合っておらず、音楽を無視して手前勝手に踊っていた。森下洋子とはえらい違いだ。ウィリになったジゼルの特徴である、あの両腕のポーズや動きも、特に印象に残るものではなかった。

ジゼルがミルタに促されて舞台の中央に立ち、ゆっくりと右脚を横に高く上げていき、それからかかとをつけて一回転する振りでも、右脚を横に高く上げるところは、まったくグラつかずに、なめらかに脚を上げていくんだけど、一回転するところは、カク、カク、カク、カクと頭と体が上下して、あまり美しくなかった。

かと思うと、ソロで踊る場面では、精緻で見事な足さばきやジャンプや回転を披露したりする。デュランテの踊りはムラが激しい、というのはこういうところで、わざとなのか、自然にそうなるのかは分からない。

ジゼルとアルブレヒトが一緒に踊るシーンは普通にすばらしかった。そして、ここからようやく熊川君の踊りが多くなってくる。たぶん熊川君にとっては大した技ではないのだろうが、両足を打ちつけてからの軽いジャンプ、ゆっくりとしたスピードで何回転もする、しかも安定した片脚での回転、両足を細かく交差させる振りで、熊川君の技術のすばらしさが垣間見れた。

熊川君とデュランテの踊りは息が合っていてよかったけど、なんというか、なにかが足りない。バレエではテクニックが最も重要なのはよく分かるし、その点では、この二人の踊りはともに高いレベルにあると思うのだが、熊川アルブレヒトとデュランテのジゼルはどうだったかと問われれば、特に印象に残る特徴がないのである。ただし、一種の違和感は覚えた。

たぶんそういう演出だと思うんだけど、デュランテのジゼルは、「もはやジゼルであってジゼルではない妖精」ではなく、「生前そのままの心を持ったジゼルの霊」であった。私はウィリになったジゼルとアルブレヒトは、愛し合いながらも生者と死者の距離が常にあって、あのどこかすれ違いを感じさせる不思議な振付の踊りには、二人の属する世界はもう異なるのだということが表現されていると思う。しかし今回の公演では、死者であるジゼルと生者であるアルブレヒトとの間には境界がなく、まるで生きた人間の恋人たちのようにラブラブなのである。ジゼルとアルブレヒトはしょっちゅう抱き合い、見つめあっていた。

熊川君が唯一のバリエーションを踊る。どの種類のジャンプも高くて、しかもふわっとなめらかに跳ぶ。足さばきは機械のように精確だ。たったのひとふんばりで、上げた片脚の姿勢を変えながら、ぐるぐると何回転もする。いつまで回るのかと思うくらい。足元は決してグラつかない。

彼が踊り終わった途端、会場は万雷の拍手、直前に踊ったデュランテには送られなかったブラボー・コールが飛んだ。どちらかというと、第一幕から熊川君がバリエーションを踊る前までは、観客は割と静かで、バレエ公演ではごく普通の反応だった。それが、熊川君がバリエーションを踊ったら、途端にこの熱狂的な拍手喝采で、そのあまりな落差の大きさにびっくりした。

せっかく熊川君の踊りはすごいと思ったのに、観客の異常に熱狂的な反応に水をさされた感じだった。最初からこういう反応が続いていれば、こっちも便乗して楽しめたかもしれないが、あまりに熊川君狙いが露骨で、ちょっと面白くない気分になった。

それでも、アルブレヒトが再び一人で踊るシーンでは、熊川君が斜め跳びをしながら両足を細かく打ちつける(交差させる?)動きのすばらしさに感嘆した。精緻で鋭くて、しかもぜんぜん力が入っていないように見える。やっぱり熊川君の踊りは安定していて、テクニックは精確な上に、細緻さやキレの良さやしなやかさがあって、それらが全部合わさって、彼独自の魅力を生み出しているわね。こんなダンサーはめったにいないと思う。

ジゼルが途中で再び助けに入り、アルブレヒトとジゼルはミルタや他のウィリたちに向かって、両手を組んで嘆願する。しかし全員がミルタと同じように片腕を突き出して顔をそむける。このウィリたちによる「全員参加型一斉拒否」のマイムは、東京バレエ団の「ジゼル」でもあった。

アルブレヒトは最後に跳躍した後、ついに床に倒れてしまう。ミルタがアルブレヒトの後ろに立って、彼に向かって「死ね!」と指さす。そこで朝の鐘がなる。ウィリたちが耳に手を当ててそれを聞くマイムをしている間、デュランテは顔を上げて眼を見開き、「よかった」という安堵した表情を浮かべる。

ウィリたちが去り、ジゼルも墓の中へと消える。目覚めたアルブレヒトは、自分が両腕に白い花をいっぱいに抱えていることに気づく。彼は白い花を取り落としながら舞台の中央に来ると、ひざまづいて両手を組んで祈る。熊川君、これはルドルフ・ヌレエフの終わり方を参考にしたでしょ。

カーテン・コールは大騒ぎだった。上演中はどちらかといえば静かだった観客が、一斉に割れんばかりの拍手をしながら大歓声を上げ、即座にあちこちで観客が立ってスタンディング・オベーションを始める。私はといえば、この舞台は悪くはなかったが、かといってスタオベするほど良い出来でもなかった、と思ったから立たなかった。しかし、困ったことが起きた。

ホール後方に座っていた多くの観客が、怒涛の勢いで舞台めがけて走ってきたのである。彼女らは舞台左右とオーケストラ・ピットの縁に立って拍手を送っていた。私はL席の前方通路側に座っていたが、あっという間に通路にも後ろから走ってきた観客がひしめきあい、私の目の前は人の波で完全に塞がれてしまった。

彼女たちはすっかり興奮しているようで、ひたすら舞台に向かって熱狂的な拍手を送り続けている。こういうときは他人のことなど考えられなくなるものだ。後ろの人が見えなくて迷惑じゃないかとか、気をつけないと後ろの人にぶつかる、とかね。私には舞台上でカーテン・コールに応ずるダンサーたちがまったく見えず、おまけに足まで踏まれた。でも、そうなる気持ちは分かるのよ。アダム・クーパーやAMPのファンだって、同じようなノリだからね。

ただやっぱり、あの異常に過熱したカーテン・コールで少し白けてしまったのは確かで、熊川哲也にはなぜか激甘な日本のバレエ批評家たち、大好きだからどうしても点が甘くなってしまうファンたちに囲まれながら、自分を冷静に、客観的に見つめて律しなければならない熊川哲也君は大変だ、とも思った。

セットや衣装ばかりでなく、ピーター・ライト版「ジゼル」の演出の影響が随処に見られたとはいえ、この熊川哲也版「ジゼル」はもっと分かりやすくてそれなりに面白かった。熊川君の踊りについては、彼の持つテクニックのすばらしさの一端がうかがえただけでも眼福だった。ただ、熊川君は演技があまり上手でないのは確かだ。あと彼のあの悪戯小僧みたいな、子どもっぽい容貌と雰囲気からして、彼はいわゆる「王子」役には向いていないタイプだと思う。

今回の「ジゼル」では、熊川君の凄さや、彼がなぜこんなに人気があるのかはよく分からなかったけど、他の演目を観れば彼の魅力がもっと分かるのかもしれない。「ドン・キホーテ」とかね。でも、もっと彼の踊りを見てみたいとは、とうとう最後まで思うことができなかった。だからたぶんもう二度と観に行かないと思う。日本一の男性ダンサーの踊りを観たというのに、こんな結論で申し訳ない。

(2006年5月21日)


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