Club Pelican

NOTE

松山バレエ団 「ジゼル」

(2006年4月29日)

今年は私にとって「ジゼル・イヤー」なようで、今年に入ってもう2回も「ジゼル」を観ている。1回目はスターダンサーズ・バレエ団(ピーター・ライト版)、2回目は東京バレエ団である。たかだか2回観ただけで、と自分でも思うのだが、どちらのジゼルも私にはあまりしっくりこなかった。

私が宝物のようにして持っているのが、20年くらい前に松山バレエ団がルドルフ・ヌレエフをアルブレヒト役に迎えて上演した「ジゼル」を、あるときNHKが放映したのを録画したものである。ジゼル役は森下洋子であった。映像で観た森下洋子のジゼルは、まさに私の理想とするジゼルであった。その踊りは音楽性に富んでおり、動きやポーズの一つ一つがツボにはまって美しい。確かに私は初めて観た版を絶対視する傾向が強いのだが、おそらく森下洋子のジゼルは誰が見ても最もすばらしいジゼルだと思う。

松山バレエ団が「ジゼル」を上演するという。主演は森下洋子と清水哲太郎。願ってもない機会が訪れた。でも、あの映像は20年以上も前に収録されたものだ。現在の彼女の年齢を考えると、今になって観に行って幻滅するよりは、映像での彼女の踊りを自分の中で大事にとっておくほうがいいとずっと思っていた。

しかし、今までに観た二人の若いジゼルには満足できなかった。これからK-Balletと新国立劇場バレエ団の「ジゼル」も観る予定だが、同じように不満な思いを抱いて終わる可能性が高い。こうなったら、刷り込みの結果でもいい、「マイ・ジゼル」である森下洋子の現在のジゼルを観よう。幻滅してもいいではないか。他のダンサーのジゼルが気に入らないのなら、どのみち同じことだ。

それに、下世話な好奇心もあった。60歳近い女性ダンサーと男性ダンサーの踊りとは、どんなものなのだろう?しかもモダンやコンテンポラリー作品ではなく、バリバリの古典全幕である。パ・ド・ドゥやソロにある一連のステップを、きちんとこなすことができるのだろうか。

こうして、期待半分、またいささか意地悪な好奇心半分で観に行った。会場は府中の森芸術劇場(どりーむホール)である。最寄り駅は京王線東府中駅。まず言いたい。京王線は複雑すぎる。路線が木のように何本にも枝分かれしていて、どこ行きの電車に乗ればいいのか分かりづらい(特に下り路線)。案の定、私は間違えて多摩方面行きの電車に乗ってしまい、危うく橋本まで行ってしまうところだった。途中駅で気づいてあわてて調布まで戻り、そこから八王子方面行きの電車に乗り換えた。こんなこともあろうかと、かなり早めに家を出ていたので助かった。開演20分前には会場に着いた。

どりーむホール(「どりーむ」と平仮名なのがちょっと恥ずかしい)は大きな劇場だった。2000人近く入りそうだ。でも客席はほぼ満席。松山バレエ団はよほど人気があるらしい。親子連れが非常に多かった。うわ、お子ちゃまの群れかよ、とウザく思ったが、上演中はみなおりこうさんにしており、騒ぐ子はほとんどいなかった。

主なキャスト。表記は配布されたキャスト表どおりです。笑わないで下さいね。ジゼル:森下洋子;アルブレヒト公:清水哲太郎;ムッシュ.ヒラリオン:鄭一鳴;ベルタ:大胡しづ子;デジデーリウス・エラスムス:橋本達八;ウィルフレッド伯爵:大場泰正;バイエルン選帝侯国クーランド2世公:桜井博康;皇女バチルド姫:境久美;ペザント(パ・ド・カトル):平元久美、久保阿紀、鈴木正彦、石井瑠威;パ・ド・シス:佐藤明美、倉田浩子、小菅紀子、鎌田美香、熊野文香、川上瞳;ミルタ:山川晶子;アテンダント(ドゥ・ヴィリー)モイナ:小菅紀子、ズルマ 鎌田真理子。

演奏は東京ニューフィルハーモニック管弦楽団、指揮は河合尚市。

ム、ムッシュ・ヒラリオン?デジデーリウス・エラスムス?バイエルン選帝侯国クーランド2世公?アテンダント?モイナ?ズルマ?ただのキャスト表なのに、なんだかただならぬ気配・・・いや、強い意気込みというか、物凄いやる気が伝わってくるようだ。ムッシュ・ヒラリオンは笑えるが。

キャスト表で気配を感じた松山バレエ団の強い意気込みは、入り口で配られた数枚のプリントと、そしてプログラムによって確固たるものとなった。プリントにはアンケートや松山バレエ団の公演チラシの他に、まず挨拶文みたいなものがあった。各行中央寄せで書いてある。

「『すべての舞台芸術の"前座"とならん』/わたくしたちはこのような心意気のもとに/松山バレエ団のもろもろの公演/ならびにThe Japan Balletとしてのさまざまな形態の公演を/おこなっております。これらの活動が、それを通じてお客さまが『"舞台芸術"とはこんなに有意義でこんなに面白い』/という概念を持ってくださるきっかけとなり/そして他のさまざまな舞台芸術に興味と関心を持ってくださる/契機となるならば、/身にあまるしあわせと存じます。」 以下、同じような調子で文が続くのだが、早い話が松山バレエ団は舞台芸術の普及に努めます、ということらしい。

次のプリントは「バレエ公演を楽しむ為のお願い」と題されたもので、「私ども松山バレエ団は"舞台芸術"を通して『美の追求者』とならんとすることを、めざす者です」云々の前文がある。いったい何だと思ったら、下には「携帯電話のスイッチはお切り下さい」、「食べ物の持ち込みはご遠慮ください」、「公演中は、私語をお慎み下さい」といった、誰でも知っているような簡単な注意事項が書いてあるだけだった。早い話が観劇のマナーは守ってね、ということらしい。なんかさ、松山バレエ団の"舞台芸術"にかける情熱と意気込みは分かるんだけど、ちょっとやり過ぎじゃねえかな。押し付けがましいっていうかさー。

そんな思いはプログラムを読んで頂点に達した。いや、プログラム自体は、別に押し付けがましくはないよ。きれいなカラー写真が満載で見ごたえがあった。ただ、これはやり過ぎだと思ったのは、"Production Note"っていうのがあって、なんと延々11ページにわたって「ジゼル」の解釈が書いてあるのよ。英語翻訳まで付いている。正直言って、この"Production Note"にはついドン引きしてしまった。ここまでやるかー!という、作品に対するあまりなのめり込みの凄さに。

内容は「ジゼル」の主に歴史的背景と思想史的背景、そして難解な精神論にもとづいた、各キャラクターの人物像やストーリーの流れの実に詳細な分析・解釈・説明である。たとえばアルブレヒトの家系や家族とか、アルブレヒトの家とバチルド姫の家との関係とか、当時の歴史状況とか、思想状況とか、アルブレヒトが村に出入りするようになったのは、彼がエラスムスの教育の影響で、身分の差を重んじず、村人とともに労働するためで、それでジゼルと出会ったとか、ジゼルの父親は戦争に出征中でいないとか、ジゼルの村の主要産業は紡績と葡萄生産だとか、ヒラリオンの家系とか、ウィリーは「裁きの森」の裁判官なのだとか、等々、いろんなことが書いてある。

生意気なことを言わせてもらえば、あそこまで詳細に書く以上は、書く際に用いた典拠をきちんと示したほうがよい。典拠を示した注がないので、これが主観的な考えにもとづく解釈なのか、それとも客観的な証拠があって(たとえばサン=ジョルジュとゴーティエの原脚本とか)、そこから導かれた解釈なのかが分かりにくい。

「ジゼル」について、松山バレエ団に確固とした解釈があるのはよく分かったけど、解釈があるのはいいことだと思うけど、なにもプログラムに延々と載せなくてもいいんじゃないか。プログラムの冒頭にある森下洋子の挨拶文もちょっとニューエイジ入ってる感じで、少し参ってしまった。バレエ団独自の強い信念があるのは結構なことだが、いささか自分たちの世界に入り込み過ぎていて、視野狭窄的な域に達してしまっているように感じられる。

観終わってから考えるに、松山バレエ団の「ジゼル」は、普通の「ジゼル」とは大きく異なっている。解釈も独特だし、演出も細かく凝っているし、それに振付も第一幕、第二幕を通じて改変が多い。台本・構成・演出・振付を担当した清水哲太郎版「ジゼル」と呼んでしまってもいいと思う。

序曲が始まるとすぐに幕が開き、同時にアルブレヒトが舞台の奥からマントを翻らせて姿を現わした。ずいぶん登場が早いなあ、と思って見ていると、アルブレヒトはジゼルの家を見つめ、近寄っていって戸口に顔を寄せ、中の様子をうかがっているようだ。アルブレヒトは扉をノックしようとするが、ふとためらった顔になって手を引っ込める。アルブレヒトのジゼルへの愛を前もって強調しているのだろう。清水哲太郎版「ジゼル」はお膳立てが凝っている。

普通の「ジゼル」では、アルブレヒトのお供をしてやって来るのはウィルフレッドだけだが、松山バレエ団の「ジゼル」では、アルブレヒトの教師であるデジデーリウス・エラスムスも一緒に現れる。二人とも似たような格好をしているので分かりにくいが、真っ白い付け髭をして杖をついているじいさんがエラスムスだろう。

どんなオジさんかと思っていたが、清水哲太郎はなかなかに若々しい人であった。なぜかみのもんたみたいに日焼けをしていた。葡萄畑で毎日勤労しているからかもしれない。アルブレヒトがジゼルの家に近づこうとするのを、ウィルフレッドとエラスムスがよってたかって止めようとする。それに逆らってジゼルへの愛を訴える様子は、子どもっぽささえ感じさせるほどで、若さからくる情熱と無謀さを漂わせていた。

さて、お楽しみの森下洋子のジゼルの登場である。扉から顔をのぞかせて外へ出ると、飛び跳ねながら辺りを探し回る。まず、映像でしか観たことのなかった森下洋子の生の姿を見て感動した。次に、彼女の顔が年取ってしまっていること、スキップのような軽いジャンプが飛べていないこと、脚が上がっていないことに、20年という歳月の経過を感じて、やっぱりそうだよなあ、という諦めの入った気持ちになった。でも失望や幻滅はしなかった。

さすがは現役を張っているだけあって、清水哲太郎も森下洋子も、年齢からすれば驚くべき身体能力とテクニックを依然として保持していた。第一幕、ジゼルの1回目のソロで、ジゼルが片脚を高く振り下ろしながら歩み出てくるところはきれいだったし、2回目のソロで、アティチュードでゆっくりと一回転するところは、あんなにゆっくりだったのに、軸がしっかりしていて微動だにしなくて、スピードも一定で、本当に優雅で美しかった。

ただ、細かい足さばきとか、トゥで立った片足で回転しながら、また両足を揃えて回転しながら移動するところなどでは、やはりもう長くは続けられないようで、最後のほうではステップが崩れてしまっていた。パワーとスタミナがもう保たなくなっているのだと思う。彼女の現在の能力に合わせたのか、ジゼル2回目のソロでは、片足でトントンと移動しながら、同時に上げたほうの片足を振り続ける振付がなくなって、別の動きに変更されていた。

それでも、森下洋子の音楽性に非常に富んだ踊りは健在で、どのステップでもムーブメントでも、手足が実に絶妙なタイミングで動く。それは第二幕で特に発揮されていた。

舞台セットや衣装はとても豪華で、大道具、小道具も凝った作りだった。出演者の人数も非常に多く、舞台の上ではダンサーたちがひしめき合っていた。「松山バレエ団総出演」というが、本当に全員が何がしかの役で出ていたのかもしれない。そのせいで、第一幕はちょっと舞台が見た目にうるさかった。村人だけならいいけど、それに貴族たちが加わるところなんか、もうぎゅうぎゅうといった感じだった。

舞台上の人口密度が濃かったおかげで、パ・ド・カトルやパ・ド・シスが目立たない。もちろんソロで踊るときは舞台の真ん中が空くけど、なんだか狭苦しそうだった。4人一緒に、6人一緒に踊るときも、背景色がひしめきあう村人たちの衣装の波だから、ちょっと色の違う衣装を着て、舞台の前面で踊ってもさほど目を引かなかった。あと、パ・ド・シスが並んで踊っているとき、お互いの間隔が不均一で踊りもてんでバラバラだった。

アルブレヒトの婚約者、バチルド姫はいったい性格がいいのか悪いのか、これはバレエ団によってキャラクターが違う。松山バレエ団「ジゼル」のバチルド姫は、実に性格のいい優しいお姫様だった。明るい笑顔を浮かべ、ジゼルから結婚を約束した恋人がいると打ち明けられて、自分の首飾りを外してジゼルの首にかけてやる。嬉しさのあまり、ジゼルはバチルド姫の手をつかんでキスをする。お姫様は鷹揚に微笑んでいる。そして更に村人たちの踊りまで見てやるのである。

ヒラリオン、いや、ムッシュ・ヒラリオン(←気に入った)は、典型的な熊男というかヨーロッパ版マタギであった。濃いヒゲ面で、性格はひたすら粗暴である。でもかわいそうなところもあって、2羽の大きな鴨(?)をジゼルの家の軒先にかけてプレゼントしたのに気づかれず、なげやりな様子でその鴨をぶん投げて捨ててしまう。笑えるシーンもあって、アルブレヒトの家に侵入するシーンでは、扉をこじ開けるんじゃなくて、扉の板をナイフで外して、ネコみたいにその間からもぐりこむの。貴族たちが去って誰もいなくなったあと、また扉の板の間からもぞもぞと出てきた姿には笑った。

第一幕を見ていて妙なことに気づいた。ダンサーたちのメイクがみな同じなのだ。男性ダンサーたちは基本的に清水哲太郎と同じメイクで、女性ダンサーたちのメイクは、まるで北朝鮮の美女軍団のようであった。しかも、踊っているときの表情まで同じなの。みんな顔をやや上向けて、目はお多福みたいな三日月形にして、口を開けて張り付いたような笑いを浮かべている。この表情もまるで万寿台芸術団のダンサーそっくりだ。演技はいかにも「演技です〜」という、今となってはわざとらしいというか、古典的な演技だった。

このバレエ団は、たぶんダンサーの踊りばかりではなく、メイク、表情や演技についても、かなり徹底した訓練を施しているんではなかろうか。メイクはこうする、笑うときはこう笑う、驚くときはこう驚く、悲しむときはこう悲しむ、というように、すべてが定式化されているんだと思う。メイク、表情、演技は、総じてなんだか昔っぽいというか古くさい感じがした。でもこれがこのバレエ団の特徴なのだろう。

今回の「ジゼル」では、ジゼルは心臓が弱い、とか説明されてない。ジゼルの母親のベルタも「踊ったら死ぬのよ」(頭の上で両手をひらひら→両腕を交差させてバッテン形にする)としか言ってなかった。ジゼルが狂ってしまうシーンでも、ジゼルが剣を自分の腹に突き立てる前に、アルブレヒトが剣を取り上げるから、ジゼルがなぜ死んでしまったのかは分からない。狂死としかいいようがない。

ヒラリオン(やっぱりこっちのほうがいいや)が角笛で貴族たちを呼び寄せ、バチルド姫が再び現れる。バチルド姫を前にしたアルブレヒトは一貫して無表情で、冷たい視線でバチルド姫を見る。バチルド姫の手をさっと取って接吻をするけど、非常に無感情で形式的な仕草で、今回のアルブレヒトはバチルド姫をまったく愛していないことが分かる。

ジゼルが死んだ後、エラスムスとウィルフレッドがアルブレヒトを引きずるようにして、力づくでその場から去らせようとする。でもアルブレヒトは途中でそれをはねのけ、再びジゼルのところに駆け戻って、死んだジゼルを抱きしめる。アルブレヒトはジゼルにマジ恋していたのだった。それが第二幕の深夜の墓参りにつながっていくわけね。

休憩時間、館内アナウンスがひっきりなしに流れていた。「ロビーにてプログラムを販売いたしております」くらいならよくあるけど、その他にも、松山バレエ団のこれからの公演スケジュールとか、バレエ学校の説明とかまでしていて驚いた。

第二幕の幕が上がると、舞台の上と左右の縁に沿って更に枠が据えつけられていた。とても巨大なもので、客席から見える舞台の面積は第一幕と比べて3分の2くらいになってしまった。何のためにあんな大きな枠を取り付けたのか分からない。私は左サイドの客席にいたために、枠に遮られてジゼルの墓が完全に見えなかった。また、これではジゼルが出たり引っ込んだりするところが見られない。ジゼルがアルブレヒトをかばって、自分の墓の前に立ちふさがる姿も見られない。あの枠は不要だと思います。

ミルタは顔が小林幸子そっくりで、まず「あ、小林幸子が踊ってる」という妙な印象に悩まされた。ミルタの踊りは難しいんだそうだが、ミルタ役の人の踊りは時に不安定で、顔も踊りも威厳と冷徹さに欠ける。

ウィリーたちが姿を現わしたとき、彼女たちは白い経帷子を頭からかぶっている。これはピーター・ライト版も同じで、ウィリーが死んで葬られた女たちであることを意味している。ミルタがジゼルを墓から呼び出したときも、ジゼルは白い布を頭からかぶり、両手は胸の前で交差させている。棺に寝かされた姿である。

ウィリーの群舞はきれいだったと思う。第一幕から見てきて、松山バレエ団のレベルは、必ずしもその名声と規模に比例したものではないと思うが、ウィリーたちは一糸乱れずというか、非常に統制がとれていてきれいだったし不気味さもあった。

ミルタがジゼルを呼び出す。私はウィリーとなったばかりのジゼルが、壊れた機械人形みたいにくるくる回るあの踊りが好きである。森下洋子はよく頑張ったと思うが、やはりあまり迫力がなかった。その後にやたらめったに跳びまくるジャンプも低くて、ウィリーとなって狂ったように踊り出すジゼルの不気味さが感じられない。あの一連の動きはジゼルが妖怪になった瞬間を象徴していると思うので、不気味な迫力に欠けていたことは残念だった。

アルブレヒトがジゼルの墓を訪れるシーンは、他の「ジゼル」と少し異なる。舞台の真ん中にアルブレヒトが立ち尽くしていると、ジゼルが小走りに駆けてきて、アルブレヒトは彼女の腰をつかんで一瞬持ち上げるとすぐに降ろし、ジゼルは再び駆けて去っていく。私はこの振付のほうが音楽に合っていて好きである。その後、ジゼルが森の奥をゆらゆらと駆けていくのも不気味な感じが漂っていて好きだ。これは松山バレエ団独自の振付なのかしら。

顔を手で覆ってかがみこんだアルブレヒトの横にジゼルが現れる。体を横向きにして、両手は胸の前で組んだまま、ゆっくりと片脚を後ろに上げていく。森下洋子の足元は決してグラつくことなく、片脚が少しずつ少しずつ上がっていく。それから両腕を一気にゆらりと広げ、同時に上げた片脚を更に上げてぐっと伸ばす。脚はあまり上がらなかったけど、両腕を広げると同時に片脚を伸ばすタイミングの絶妙さは昔のまま。それからアルブレヒトの周りを片脚を上げながら一周するところも、音楽に合わせて「ため」をとりながら動き、実にすばらしかった。

何よりもすばらしいのは、森下洋子の両腕の動かし方、ポーズである。横を向いてうつむいたまま、両腕を前に差し出してゆらりとかすかに動かす。緩やかに波打つような、とてもなめらかな動きで、音楽のツボも見事に押さえている。

ヒラリオンがウィリーたちに捕まって死ぬシーン、舞台を斜めに横断するようにして並んだウィリーたちの動きは、私はやはりこのバレエ団のものが好きである。特に最後、ミルタがヒラリオンに「死ね!」と指を突きつけると同時に、ウィリーたちが順番に体の向きを後ろに変えていき、ヒラリオンが沼に突き落とされると、全員が一斉に前に向き直るところ。

アルブレヒトをかばってジゼルが一人で踊りだすところでは、またもや森下洋子の動きに感動した。片脚を横に高く上げてから下ろして、その脚を再び後ろに上げたまま、摺り足でゆっくりと一回転する。森下洋子はガク、ガクとではなく、すすすーっと一回転した。これは20年前の映像よりもすごい。爪先立ちではなくて、足の裏を床につけたままの一回転なのに、まったくガタつきがなかった。

アルブレヒトがジゼルを支え、そして持ち上げる。森下洋子はまるで体重がないみたいだ。ふわりと空中に浮かんで両脚を広げる。脚のポーズと爪先の向きが美しい。青白い舞台の中で、森下洋子と清水哲太郎は静かにこの有名なパ・ド・ドゥを踊っていた。ここばかりは年齢などまったく感じさせない。とても美しく幻想的な踊りだった。

そして私がいちばん好きなのが、ジゼルが地面に倒れこんだアルブレヒトをかばって、自分が代わりに踊るシーンである。あ、その前にソロを踊った清水哲太郎もすばらしかった。もちろん年齢のせいで、体の動きは硬いし(男性ダンサーの加齢は主に体の動きが硬くなるという形で出るみたい)、ジャンプも低くはなっていたけれど、音楽の終わりと同時にバッタリと床に倒れたのが見事だった。

ジゼルはミルタにアルブレヒトを見逃すよう頼んで拒否される。ジゼルは上半身を斜めに倒した姿勢から、おもむろに体を起こして再び踊る。ここの踊りで、ジゼルは両脚を順番に横に上げて、その都度足を細かく振って、その後で右脚を前に1回、2回、3回と上げる。私は森下洋子のここの動きも大好きなんです。ここの音楽も普通の「ジゼル」とはちょっと違っていて、段々と盛り上がるような劇的な演奏になっている(普通の「ジゼル」ではかわいらしい演奏)。

そして、ジゼルは倒れているアルブレヒトを差し招くように片腕を上げながら移動し、最後にジャンプしながら走り去っていく。ここの森下洋子の動きもいいのよ〜。振り上げる腕の動きもツボにはまっているし、駆け去るときも脚を素早く交差させた軽いジャンプで、さささっと走り去っていく。妖精という感じがよく出ているし、しつこいけど音楽とバッチリ合っている。ダンサーによっては、グラン・ジュテで去る人もいるけど、そうすると見た目には華麗でも、どうしても音楽とは合わなくなってしまう。その点、森下洋子は本当に音楽性に恵まれている。ただ、やはりスタミナが続かないのか、最後は跳ぶ脚の動きが鈍くなっていた。

その後の清水哲太郎も、両脚をO脚みたいに広げて跳んだ後、両足を打ちつけるという複雑なステップを長時間続けていた。男の人のほうがスタミナはあるみたいで、森下洋子をリフトしたりサポートしたりするときでも、全然グラついていなかった。

アルブレヒトは大きくジャンプして踊り、ついに死の淵に追いつめられる。清水哲太郎はよく跳んでいましたよ。ところで、映像には映っていなかったので、ずっと不思議に思っていたことがある。アルブレヒトが最後の踊りを踊っている間、ジゼルはどんな表情をしているのか、どんな気持ちでいるのか、ということである。どうしてもアルブレヒトのジャンプやミルタの動きに気を取られてしまって、横に佇むジゼルの表情に目が行きにくい。

よって、跳び続ける清水哲太郎から目を離して、森下洋子の表情に注意してみた。悲しげな表情でうつむき、じっと目をつぶっている。私が思うに、ジゼルはアルブレヒトの死を覚悟したんではないかな。彼を助けようと頑張ったけど駄目だった、という諦めの表情のような気がした。

ミルタが倒れたアルブレヒトに向かって「死ね!」と指を突きつける。その瞬間、夜明けを知らせる鐘の音が響く。ウィリーたちがその音に耳を傾ける中で、ジゼルはホッとしたようにかすかな笑みを浮かべる。第二幕でジゼルが浮かべる唯一の笑みである。ジゼルはアルブレヒトの身を起こしてやり、よかった、という微笑を浮かべながら彼の身をかき抱く。ここでジゼルは人間らしさをみせる。

ウィリーたちの去り方が面白かった。体を大きくかがめて、ゆっくりと後ずさりしながら姿を消していくのである。なんか妖怪チックでよかった。夜こそ大きな魔力を持った妖怪だけど、朝になったら、もう地べたを這いずり回る存在にしか過ぎない、みたいな哀れな雰囲気があった。

ラストはよく見えなかったが(あの舞台の枠のせいで)、ジゼルは墓の奥に姿を消し、アルブレヒトは舞台の真ん中でひとり立ち尽くす。清水哲太郎のアルブレヒトは静かな表情で前をじっと見つめ、何を考えていたのかはよく分からなかった。

カーテン・コールでは、特に森下洋子と清水哲太郎が出てくるたびにブラボー・コールが飛びかった。「名指しブラボー・コール」が多くて、「森下さん、ブラボー!」、「清水さん、ブラボー!」というのが多かった。森下洋子はなんと「舞踊歴55年」だというから、ファンの中にだって「森下洋子ファン歴40年」、「森下洋子ファン歴30年」というつわものが多いに違いない。

還暦を目の前にして、いまだ現役で古典全幕を踊っているというのもすごいが、森下洋子は音楽的なセンスに非常に恵まれた、また最も効果的に、美しく踊れるダンサーだと思う。清水哲太郎もあの改訂振付をみれば、音楽性の豊かな人なのだろうことが分かる。仕方のないことだけれど、森下洋子の若いころの踊りをもっと観てみたかった。

でも正直言って、今回の「ジゼル」は自分でも不思議なくらいに集中して観た。観ている側を引き込む力が森下洋子の踊りにはあるんだろう。確かに彼女の踊りには年齢の影響が出ているけれど、踊りにはパワーやテクニックやスタミナだけでは片づけられない何かがあるらしい。思い切って観に行ってよかったと思う。

(2006年4月30日)


このページのトップにもどる