Club Pelican

NOTE

ロイヤル・バレエ 「ロミオとジュリエット」

(2006年3月11日)

クーパー君が3月6日から「ガイズ・アンド・ドールズ」に出演するってことが分かった後、さっそく観劇のプランを練ったわけです。「ガイズ・アンド・ドールズ」だけじゃもったいないので、他の作品も観よう、と。それで、まず去年の夏に観られなかったミュージカル「ビリー・エリオット」のチケットを速攻取った。次にロイヤル・バレエのスケジュールを調べたら、3月8日にトリプル・ビル("Ballet Imperial"、"Afternoon of a Faun"、"The Firebird")と、11日に「ロミオとジュリエット」があった。トリプル・ビルのほうは演目に興味が持てなかったので候補から外した。でも「ロミオとジュリエット」はぜひとも観たい。

11日の「ロミオとジュリエット」公演まではあと1ヶ月近くもあったから、余裕でチケットは取れると思った。たかが1枚なんだから。せっかくロンドンまで行くのだから、いい席で観たいよねえ。ところが、オンライン・チケット・ブッキングでチェックしたら、orchestra stalls(1階席)、stalls circle(中2階席)、grand tier(2階席)、balcony(3階席)が販売されていない。

ボックス・オフィスにも直に問い合わせたが、やはりみなすでに売り切れということだった。余っているのはamphitheatre(4階席、つまり天井桟敷)のみ。仕方がないからamphitheatreの席を購入した。視界が"wall"で遮られ、椅子に肘掛がないそうだ。値段は31ポンド。椅子に肘掛がないのはどーでもよろしい。問題は"wall"の存在だ。一抹の不安を残しつつも、これで他の作品の観劇計画は決まった。

最後に「ガイズ・アンド・ドールズ」のチケットをまとめて買った。空いている時間は、「数日前買い」と「当日買い」挑戦の機会としよう(それが「ビリー・エリオット」2回目、「オペラ座の怪人」1回目、「ガイズ・アンド・ドールズ」6回目になった)。

ロイヤル・オペラ・ハウスのamphitheatreへの道は遠かった。まず階段を登って大きなラウンジに行き、更にそのラウンジの横にある長〜いエスカレーター(ロンドンの地下鉄、都営大江戸線みたいな)に乗り、着いた階にある長く細い馬蹄形の廊下の中から、自分の席にいちばん近い入り口を探す。私の席は最前列のほとんど右端である。よって長い廊下を歩いた歩いた。自分の席を見つけて座る。さて視界を遮る"wall"とは何か。おそらく、前の手すりである。普通に座っていると手すりで舞台の右3分の1が切れる。前のめりになってようやく舞台全体が見えるのである。

でも前のめりになっては後ろの客に迷惑だ、と思ったが、幸い私の席の後ろには席が置かれていなかった。私と同じく後ろに席がない席(くどいな)に座っている観客たちも、平気な様子で前のめりになって手すりに頬杖をついている。これなら前のめりになって観ても大丈夫そうだ。

amphitheatreは天井桟敷のせいか、客席の雰囲気がorchestra stallsやstalls circleやgrand tierとは違った。上手く言えないのだけど、こう、くだけているというか、お気楽というか、馴染んでいるというか、庶民的というか、あとは、なんか妙に冷静で観劇し慣れているといった感じの人々が多いのである。ロイヤル・オペラ・ハウスでバレエを観るとき、私はいつも緊張してしまうのだけど、今回は周囲の雰囲気のおかげで、リラックスして開演を待つことができた。

「ロミオとジュリエット」、音楽はプロコフィエフの同名曲、振付はケネス・マクミラン。主なキャスト。ジュリエット:Tamara Rojo;ロミオ:Carlos Acosta;マキューシオ:Jose Martin;ティボルト:Thiago Soares;ベンヴォーリオ:Yohei Sasaki;パリス:David Pickering;キャピュレット公:Christopher Saunders;キャピュレット夫人:Elizabeth McGorian;ヴェローナ大公:Gary Avis;ロザリン:Christina Arestis;ジュリエットの乳母:Genesia Rosato;ローレンス修道士:Alastair Marriott;

モンタギュー公:Alastair Marriott;モンタギュー夫人:Vanessa Palmer;ジュリエットの友人:Lauren Cuthbertson、Victoria Hewitt、Iohna Loots、Emma Maguire、Natasha Oughtred、Samantha Raine;三人の娼婦:Laura Morera、Isabel McMeekan、Sian Murphy;マンドリン・ダンス:Martin Harvey、Valeri Hristov、Kenta Kura、Brian Maloney、Johannes Stepanek、Andrej Uspenski。

ぜひ生で観たい作品だったが、私は観る前からこう予想していた。私はこの舞台を映像版(1984年収録、アレッサンドラ・フェリ、ウェイン・イーグリング主演)と比べてしまって、結局は気に入らないまま終わるんだろうな、と。あの映像版は特に「名演」過ぎるし、しかも私は初めて観た映像版なり舞台なりを理想としてしまいやすく、それと違うものはなかなか受け入れられないクセがあるのだから。

それはさっそく、タマラ・ロホのジュリエットが、映像版のアレッサンドラ・フェリとはあまりに違いすぎることに違和感を覚える、ということから始まった。冷静に考えてみれば、ダンサーによって役柄の解釈や表現が異なるのは当たり前のことなのだが。ロホのジュリエットは、私個人が感じたことには、最初から「大人」だったのである。

ロホの場合、外見でかなり損をしていると思う。彼女は完全に大人の顔立ちをしており、しかも眉と目の周りを黒いライナーとシャドウで濃く塗っていて、メイクがかなりきつい。どの版であっても、「ロミオとジュリエット」の主題の一つは、子どもで自分というものをまだ持たないジュリエットが、ロミオとの恋によって強い自我と行動力を持つようになる、ということだと思う。しかしロホのジュリエットはすでに大人の風貌をしているため、自分の部屋で人形を持ちながら乳母と戯れて飛び跳ねるシーンは、なんかいい年した大人が人形持って子どもの真似をしているようにみえた。

言葉を変えて言えば、ロホのジュリエットは最初から「意志の強い、機転の利くしっかり者」であった。第一幕(ジュリエットの部屋、舞踏会のシーン)、両親やティボルト、パリスの前では、彼女はほほえましい悪戯っ子ぶりを発揮して彼らをだましおおせるというよりは、大人の女が見事な演技力で猫をかぶっている、という印象である。彼女の表情の乏しさもそれに拍車をかけている。ロホはかなりの演技派だと聞いたことがあったので、第一幕から第三幕まで彼女の表情があまり変わらなかったことは意外であった。

第一幕、バルコニーのパ・ド・ドゥでは、ロホのジュリエットがバルコニー上に姿を現わしたとき、ジュリエットはすでに情熱的な激しい恋に燃える女の表情になっている。第三幕の寝室のパ・ド・ドゥならこういう表情でいいと思う。でもバルコニーのパ・ド・ドゥによって、ロミオとジュリエットは若く激しい恋に燃え上がるわけでしょう。ロミオが来る前から「あのお方(ロミオ)は今夜はいらっしゃらないのかしら」といった風情の、男を待つ女の艶冶な色っぽさを発散されてもねえ。

第三幕、ロミオが去った後、キャピュレット公、夫人、パリスがジュリエットの寝室に入ってきて、彼女にパリスとの結婚を迫る。ジュリエットは必死に両親にすがって嫌がるが冷たくはねつけられ、最後まで彼女を庇い続けた乳母にも頼れない状況に陥る。それから部屋に一人残ったジュリエットは、ベッドに腰かけて正面をじっと見据える。この間に、誰かにすがって何とかしてもらおう、ということしか考えていなかったジュリエットが、はじめて自分の力でなんとかしようと、ローレンス修道士に相談することを思いつくのである。

この間、ジュリエットはベッドの縁に腰かけているだけだが、ジュリエットの内面では大きな変化が起きている。それがどう表情にあらわれるか、ここは非常に楽しみなシーンだったのだが、ロホは唇をキッと結んだ厳しい表情を保ち続け、それが立ち上がって笑顔で走り去る次の動きと結びつかない。

第三幕最後、ジュリエットがロミオの死体を前に慟哭するシーン、ロホは拳を握った両腕をぶるんと高く振り上げると、目を閉じて口を叫ぶかのように大きく開けた。あまりに激しい仕草で、嘆いているというよりは、「オーマイガッ!」、「ファッ○・ユー!」と悔しがってシャウトしているような感じで、これもワタシ的にはちょっと単純過ぎないかなー、と思った。

ロホが演技派だとすれば、感情の起伏の激しい大人の女性の役がぴったりだと思う。仕草や表情ではっきりと表現する役のほうが向いているのではないか。彼女のジュリエットは、私は演技面では好きになれなかった。

ところが、ロホの踊りによって、映像版では曖昧だった、また分からなかったことに多く気づいた。まず、彼女の踊りでの表現力はすごいと思う。ものすごいパワーのある人で、脚はよく上がるわ、ジャンプは高いわ、身体は柔らかいわ、動きにメリハリがあってすごく元気な踊りであった。でもロホの踊りに感動したのはこんなことではなく、彼女の脚や爪先の動きである。それでジュリエットの気持ちがよく伝わってきた。

たとえば第一幕、キャピュレット家の舞踏会で、マスクをつけたロミオがジュリエットに駆け寄り、彼女の腰を持って高くリフトして、ジュリエットは両腕をかすかに曲げて前にさしだし、両脚を緩く回転させる、という動きがあるでしょう。ロホが両脚をゆっくりと回転させたとき、これがジュリエットの感情を表しているんだと分かった。まだ彼女の心の中ではっきりした形はとっていないまでも、今まで抱いたことのない、甘く切ない感情を彼女が感じているんだ、と。

第三幕でパリスと無理やり踊るシーンでも、まずパリスにゆっくりと近づいていくロホの歩き方がすごかった。顔はあえて無表情を装っているのに、大きくバランスを崩したグラグラしたポワントで近づいていく。見るからにそういう振付じゃないかと言われればそれまでだけど、ロホの歩き方には何ともいえない凄い迫力があった。

同じく、ポワントでつつつ、とパリスを避けるように移動する動きがあるよね。「避ける」からには、ジュリエットはパリスにまったく気がないことは分かる。映像版だと、あの動きはなんか笑える奇妙な振付のように思えた。でもロホがやると、ぜんぜん笑える振付にならない。あの「グラグラポワント」と「周回ポワント移動」によって、ジュリエットが、頭では表面的にパリスを受け入れるフリをしようとしているのに、彼女の心の深い部分では、形だけでもパリスを受け入れることがどうしてもできないのだ、ということがよく表現されていた。

ロミオ役のカルロス・アコスタは、まず踊りの硬さと不安定さに驚いた。たぶんこの日は調子が悪かったんだと思う。第二幕、第三幕になってようやく落ち着いてきたかな?という感じだった。そのせいか、アコスタが本来持っているはずの、緩急を自在につけた、しなやかで美しい動きと、高いレベルのテクニックが堪能できなかったことが残念だった。アコスタといえどもやっぱり人間だったのね〜、というのが一番の感想である。

タマラ・ロホとのタイミングが合っていなかったのも残念なことで、スムーズなリンクで構成されたパ・ド・ドゥの流麗さが半減していた。「お見合い」や「一時停止」が目につき、またアコスタのリフトやサポートもガタつきがちで不安定だった。単にその日は調子が悪かったのか、それともアコスタはリフトやサポートがあまり得意でないのか、これは分からない。

アコスタの演技は、まあこんなもんだろー、というものであった。可もなく不可もない。表情に乏しいが、まだ若いんだから仕方がない。それにロミオ役を踊るのは今回が2回目だということだから、役柄の解釈がまだ定まっていないのだろう。でも一生懸命なのはよく分かった。ティボルトを殺してしまった直後の、激しい息遣いと後悔の念に苛まされた悲痛な表情は、実に凄まじい迫力に溢れていた。

でもちょっと思ったのは、アコスタのようなダンサーにとって、こういう厳格な型にはまった作品は、果たして向いているのかな、ということだった。アコスタはもっと自由に伸び伸びと踊れる作品のほうが、より実力を発揮できるんじゃないかな。これは根拠のない印象だけど。

マキューシオ役のJose Martinは、器用なテクニックとユーモラスな演技で大いに楽しませてくれた。ティボルト役のThiago Soaresは悪役としてのインパクトがあまりなかったが、ティボルトはもともと空威張りの卑怯者だし、これでいいのかも。それにしても、ティボルトがマキューシオを背後から剣で突き刺すあのシーンは、いつ見ても卑怯千万で頭にくるよな。

ティボルトが死んだときの、キャピュレット公夫人役のElizabeth McGorianの演技が凄かった。ティボルトの死体におおいかぶさって、死人の両腕を取って自分の背中に回させるの。これ、キャピュレット公夫人とティボルトが生前そーいう関係にあった、ということだよね。

悲しむべきは、三人の娼婦(Laura Morera、Isabel McMeekan、Sian Murphy)のヅラが、すべて「鉢かぶり姫」型ヅラに統一されていたことである。巨大な巻き毛おかっぱ頭のヅラね。なぜすべてこのタイプのヅラにしてしまったのだろう。それと第二幕、ロミオにジュリエットからの手紙を渡しに来た乳母をみんなでからかうシーン、映像版では、三人の娼婦がスカートを腹の上まで思いっきりずり上げてパンツを見せていたが、今回は太モモまでずり上げるにとどまった。お下品すぎる、とクレームでもついたのだろうか。

第二幕で結婚式を行なうカップルを引き連れてきた司祭に、ロミオたちも申し出て祝福を受ける。そのとき、三人の娼婦たちは舞台の真ん中ではなく隅っこで跪き、胸の前で十字を切る。が、彼女たちは「十字ってどういう順番で切るんだっけ?」とお互いを見やり、苦笑を浮かべながら三人ともてんでバラバラな順番で十字を切る。小さな演出だけど、彼女らの日ごろの不信心さが窺われて面白かった。

マンドリン・ダンス(Martin Harvey、Valeri Hristov、Kenta Kura、Brian Maloney、Johannes Stepanek、Andrej Uspenski)は、やっぱりヘンな振付の踊りだ。特に後ろで踊っている5人。逆立ちしそうでしないところとか、両腕を斜めに広げてぐるぐる回るところとか、見た目にも奇妙だし、それに群舞なのに動きがまったく揃っていない(これは振付とは関係ないが)。

私はカンパニーのダンスのレベルは日進月歩で、20年前のダンサーの踊りより、現在のダンサーの踊りのほうが、当然レベルが高いものと思っていた。でも、今回の舞台を観て、必ずしもそうとはいえないのではないかという疑念が湧いた。

演技力の衰退については、これは今のロイヤル・バレエではもっともなことで、ちょうど世代交代にさしかかっているのだから仕方がない。映像版に残っている、80〜90年代に活躍したダンサーたちの優れた演技力を、今の若いダンサーたちに求めるのは無理な話なのかもしれない。でも、ダンスのレベルまでもが下がっているかのようにみえるのはどうしてだろう。特に男性ダンサー。

いちばん期待していたカルロス・アコスタ(ロミオ)、またホセ・マルティン(マキューシオ)、佐々木洋平(ベンヴォーリオ)、マンドリン・ダンスでソロを踊ったマーティン・ハーヴェイ、みな踊りのレベルがそんなに高いとは思えなかった。マクミランの「ロミオとジュリエット」って、踊りがすごく難しいのかな。

舞台装置が映像版とは違っていた。まず、ジュリエットの部屋のバルコニーには手すりがない。バルコニーの奥には部屋への入り口もなく、カーテンもかかっていない。家の骨組みみたいなバルコニーを、ジュリエットはロミオのことを思いながら立ち尽くしたり、行きかったりするわけである。もちろんジュリエットが手すりにもたれたり、手すりに頬杖をついて外を眺めたりはできない。

キャピュレット家の墓室のセットも変わった。舞台の真ん中にジュリエットの石棺、その両脇に大きな石柱がいくつか立っていて、その中から死神のような、恐ろしげな風貌の人物像のレリーフがせり出している。目覚めたジュリエットはそれらの人物像を見て、ここが墓室だと悟る。私はやっぱり、他にも石棺があって、その上に白い布にくるまれた死体が横たわっている前のセットのほうが好きだなあ。全体的に、生活くさいこまごまとした以前のセットから、現代美術のような簡素で象徴的なセットに変わったようだ。

衣装については、三人の娼婦のヅラが統一され、ジュリエットの舞踏会用のドレスが、紗の生地に木の葉模様の金の刺繍が入ったものになり、ロミオの衣装に淡いブルーのものが加わっただけで、その他の衣装は以前とほぼ同じである。

やはり映像版の影響からは逃れ難く、文句なしに「よかった!」とはいえない公演だった。映像版の影響から脱け出すには、生の公演をたくさん観る以外にない。ただ日本ではなかなかその機会がないから難しい。客観的にみて、今日の公演の出来がどうだったかといえば、私の偏見を抜きにしても、あまり良くはなかったのだろうと思う。なぜかといえば、カーテン・コールがすぐに終わってしまったからである。いつもはしつこくやるくせに。でもマクミランの「ロミオとジュリエット」を、ロイヤル・バレエでようやく生で観れたのは貴重な体験だった。

第一幕、舞踏会が開かれるキャピュレット家の門前のシーンで、ロミオたちが門の中に忍び込んだと同時に、後ろの壁がゆっくりと開く。そこには舞踏会の客たちが整然と並んでいる。キャピュレット公、ティボルト、パリスの後ろにはそれぞれ男性客が、その間にはキャピュレット公夫人、ロザリンをはじめとする、豪華なドレスに身を包んだ女性客たちが続いている。ゴージャスかつ迫力のある美しい風景で、客席から拍手が起きた。私もそれ見ただけで、ああ、来てよかった、と思ったもの。

(2006年4月14日)


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