Club Pelican

NOTE

シルヴィ・ギエム最後の「ボレロ」

(2005年11月21日)

またまた上野は東京文化会館である。いいかげん親近感が湧いてきたぞこんにゃろ。開場時間より早めに着いたけど、時間をつぶすところはたくさんあるんだもんね〜。とりあえず「粥餐庁」で夕飯を食べ、スタバでチャイラテを飲みながら仕事を片づけ、「靴下屋」で厳しい冬に備えてタイツなどを購入。そしたら開演15分前になってしまった。山下口から坂を上って文化会館へ向かう。

客席はほぼ満員で、この公演が「即日完売」だったというのもうなづける。ちらほら空席もあったが、2番目の演目である"Push"が始まるときには完全に満員になった。私はA席だったのだけど、にしてはいい席を割り振ってもらえた。NBSが主催する人気の公演は、やはり会場で予約申し込みをするのがもっとも無難らしい。

Theme and Variation

「テーマとヴァリエーション」、振付はジョージ・バランシン(George Balanchine)、音楽はチャイコフスキー。初演は1947年、アメリカン・バレエ・シアターによって行なわれた。上演時間はおよそ30分。この作品に出演するのは東京バレエ団のメンバーのみであり、パ・ド・ドゥやヴァリアシオンを踊るペアのキャストは吉岡美佳と木村和夫である。

始まり方が面白くて、会場のライトがすべて落とされて真っ暗になる。静かに幕が開く気配がする。しかし闇の中で何も見えない。しかしやがて音楽が始まると、いきなりライトが点灯されて、明るい水色と金色の背景の舞台が浮き上がって輝き、同じく明るい水色のチュチュに身を包んだ女性ダンサーたちが整然と並んでポーズをとっている。あまりな色彩の美しさに客席から拍手が湧き起こった。

踊りはどうだったかよく覚えていない。確か典型的なクラシック・バレエの振付による作品だった。女性の群舞があり、やがてペアが現れてパ・ド・ドゥ、少人数のダンサーによる踊り、男女それぞれのソロがあった。途中で男性の群舞も現れて、女性と組んで踊り始める。最後は全員でフィナーレの踊り。

ペアの吉岡美佳と木村和夫は顔立ちやスタイルに恵まれていて、特に木村君は顔が小さく、背が高くて手足が長いといういい体型をしている。でも振付が難しいのだろうか、ペアも群舞も踊り自体はそんなに上手ではなかった。ちなみに私はどこのカンパニーと比べてこう思うのか、最近観たばかりの新国立劇場バレエ団、そしてシュトゥットガルト・バレエ団と比べてである。

なんとか書くことはないかと探しているのだけど、どうも脳内から揮発してしまってさっぱり残っていないようだ。あ、ちょっとした印象を思い出したぞ。群舞の配置がいつも直線的で左右対称だった。整然と1列、または2列に並んでポーズを取り、たとえばダンサーの列が交差して踊るときも、必ず左右対称の振りになって、鏡を合わせているかのようだった。きっちりしたクラシックの振りで整然と踊る、そんな感じの作品である。

してみると、「ウエスタン・シンフォニー」(1954年)はこの「テーマとヴァリエーション」と比べると、かなり趣を異にする作品だということになる。「ウエスタン・シンフォニー」のほうが変わっていて見た目に面白い作品だったのだ。「ウエスタン・シンフォニー」を観たときには、なんて平凡でつまらない作品だろう、と思ったのに。比べてみなきゃ分からないもんですね。(「ウエスタン・シンフォニー」については、「雑記」の「スターダンサーズ・バレエ団2005年3月公演」を参照してちょ。)

Push

出演者はシルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)、マッシモ・ムッル(Massimo Murru)の二人だけである。振付はラッセル・マリファント(Russell Maliphant)、音楽はアンディ・カウトン(Andy Cowton)。上演時間はおよそ30分。初演は2005年9月30日、サドラーズ・ウェルズ劇場で行なわれた。・・・って、すっげえ最近である。初演時にムッルの役を踊ったのは、なんと振付者のマリファント自身であった。プログラムにはサドラーズ・ウェルズ公演の写真が載っている。

マリファントはギエムのおかげで一躍脚光を浴びることになった振付家である。そのきっかけは、ギエムがマリファントの振付作品を観て興味を抱いたことで、彼女はマリファントの「ブロークン・フォール」(Broken Fall)という作品を、2003年の12月にロイヤル・バレエのミックスド・ビルで上演した。(マリファントの経歴や「ブロークン・フォール」という作品については、「雑記」の「ロイヤル・バレエ“Gong Mixed Bill”覚え書き (2)」をご覧下さい。)

真っ暗な舞台。舞台の一角にほの暗いライトがぼんやりと当たると、そこには男性(ムッル)の肩の上に乗っている女性(ギエム)の姿が浮かび上がる。ムッルはだぶだぶの白いシャツに白いズボン、ギエムはおかっぱのようなショート・カットのウィッグをかぶり、袖なしで丈の非常に短い白のワンピースを着ている。膝当てを着け、足にも肌色の保護カバーを巻きつけている。よって踊りはもちろんポワントなしである。

"Push"は"Broken Fall"と比べると振りのだいぶん静かな作品であった。ギエムがソロで踊るシーンもなく、始終ムッルと静かにくんずほぐれつして踊っている。でも動きのパターンは似通っているので、同じマリファントの作品だということはなんとなく分かる。また"Broken Fall"よりも、作品全体にクラシック・バレエの要素がやや濃く入っている感じがした。

基本は男性が女性を肩や背中や膝などでリフトする、女性は男性の上に乗ったまま体の位置を移動したり、体を動かしていろんなポーズに変化する、男性と女性が片手をつなぎ、互いに引っ張り合うようにしてバランスをとる、というものである。男性が女性をリフトするといっても、見た目には男性に主導権はなく、女性が男性の肩や背中や膝の上に乗って妙技を披露している、という表現のほうが当たっているように思える。

女性が男性の肩の上に乗っており、それから男性が体を徐々に斜めにしていき、女性はそれにともなって体をゆっくりと動かして、男性の背中の上で体をいっぱいに伸ばす。ライトが消えて再び点灯されると、男性がまた女性を肩車している。女性は男性の肩の上で体を裏返し、男性の肩に膝をかけて、男性の体の前に仰向けに垂れ下がり、再びゆっくりと上体を起こして前の姿勢に戻る。またライトが消える。明るくなると、男性はまたもや女性を肩車している。女性は男性の肩の上で体を真っ直ぐに伸ばすと、そのまま男性の体の前に倒れこむ。それを男性が受け止める。

変わった動きには、男性がブリッジした姿勢の女性の体を台にして前転する、男性が女性の両肩に手を乗せてゆっくりと伸び上がり、その両脚が宙に浮いたままの状態で数秒キープするなど、従来の男女の役割を逆転させたようなものがあった。あとは、ギエムがムッルの肩に片手を置いて、それだけを支えにムッルの体の前にぶら下がる(というよりは、宙に浮いて立っている)。

また、男性が女性の両腕をつかんで、床すれすれの位置でぶんと振り回して一回転させる振りがあった。この動き自体は特に珍しくはないだろうが、ギエムの両脚のポーズが美しく、スピードも一定の速さを保ち、動きも見事な円盤形を描いていて印象に残った。

全体的に、強い筋力、バランス感覚、持久力を必要とする動きが多かった。作品として優れているというより、ギエムの恵まれた身体的な資質にもとづく優れた能力を存分に発揮する作品である。ギエムはムッルにリフトされているのではなく、ムッルの上に乗っている。彼女はほとんどムッルの助けを借りず、自分の筋力だけで動き、姿勢のバランスや動きのスピードを保持しているように見えた。

ギエムの脚が高く上がるとか、両脚が信じられないくらいに開くとか、変な方向に曲がるとか、そういうことを強調しているんではなく、ギエムの筋力、バランス感覚、持久力のすばらしさが際立った作品だった。よって、男女が組んで踊っているのに、主導権はいつもギエムにあるような感じが常に漂っていた。あるいは、ギエムが一人で踊っていたも同然だ、と極言してもよい。

およそ30分という長めの作品だが、途中でちょっとは飽きかけたものの、全体としては、さて次にはどんな動きになるんだろう、と最後まで集中して見ることができた。すっかり忘れたが、音楽や効果音もセンスのとてもよいものだった。ただ、この"Push"はギエムが踊ったから飽きなかったんであって、他の女性ダンサーが踊ったらどうなるかな、とも思った。

ギエムの動きが持つ、人工的で機械的(けなしているのではありませんよ)な安定さと流麗さがなかったら、この作品はたちまち人間くさい「コンテンポラリー・ダンスの実験的作品」になってしまうだろう。現に、相手役のマッシモ・ムッルの動きやサポートが、時にぎこちなく人間くさかったので、それがギエムの足を引っ張ることになり、踊りに張りつめていた静かな緊張感が崩れてしまった。この作品では、男性ダンサーは完璧にフォーク・リフト化しないといけないと思う。

Le Sacre de Printemps

ご存知、ストラヴィンスキー作曲「春の祭典」である。振付者はモーリス・ベジャール(Maurice Bejart)、初演は1959年にベルギーのブリュッセルで、王立モネ劇場バレエ団(Theatre Royal de la Monnaie)とバレエ・テアトル・ド・パリ(Ballet Theatre de Paris、当時のベジャールのカンパニー)によって行なわれた。

この「春の祭典」はベジャールの出世作であり、この作品が大成功したことによって、ベジャールは一気に振付家としての知名度を上げ、彼のバレエ・テアトル・ド・パリは20世紀バレエ団(Ballet du XX eme Siecle)として、王立モネ劇場を拠点に、世界的な活動を開始することとなった。

主なキャスト。男の生贄:大嶋正樹;二人のリーダー:横内国弘、平野玲;二人の若い男:小笠原亮、長瀬直義;女の生贄:井脇幸江;四人の若い娘:高村順子、門西雅美、小出領子、長谷川智佳子。この作品は東京バレエ団のメンバーのみによる上演で、シルヴィ・ギエム、マッシモ・ムッルは登場しない。

作品は原曲どおり第1部「大地礼賛」と第2部「いけにえ」とに分かれており、第1部は男性ダンサーたちによる踊り、第2部は女性ダンサーたちの踊りと、男女がともに踊るフィナーレで構成されている。上演時間はおよそ35分。男性ダンサーは素の髪に白っぽい淡い色の袖なし全身タイツ、女性ダンサーは髪を後ろにきちきちにまとめて束ね、長くて扁平な形のエクステンションをつけて垂らしている。衣装は袖なしで背中の大きく開いた真っ白い全身タイツである。

私はケネス・マクミランの「春の祭典("The Rite of Spring")」(1962年)しか観たことがないのでよく分からないんだけど、マクミラン版では生贄は一人で、日によって男だったり、女だったりしたのが、ベジャール版では生贄は男女一人ずつだった。第1部でまず男の生贄が選ばれ、第2部で女の生贄が選ばれて、フィナーレで二人の生贄が神に捧げられることになる(たぶん)。

踊りの振り、配置、衣装など、作品全体の雰囲気はマクミラン版によく似ていた。もっとも制作年代からいえば、マクミラン版がベジャール版によく似ているというべきだろう。マクミラン版では男女双方とも顔を真っ白に塗りたくり、蝋で固めたようなカツラをかぶっていて、衣装は同じ全身タイツで、表面に赤い手形のような模様がべたべたとついていた。しかしぱっと見の印象はよく似ている。

踊りや群舞の配置も似通っていたが、ベジャール版のほうがマクミラン版よりも分かりやすかった。私は子どものころにテレビでジョルジュ・ドンの踊る「ボレロ」を観ただけで、これが初めての生ベジャール作品鑑賞である。でもベジャールの「春の祭典」はイメージがよく伝わってきて面白かった。マクミラン版は抽象的で理屈っぽい。

イメージがよく伝わってくるというのは、たとえば男性群舞の踊りは、爬虫類とか動物とかの野性的な動きをイメージした振りが基本で、そうした動きによって原始的で野蛮な戦闘と儀式(たとえば未開民族のそれのような)を描いているな、と分かる。細かい筋などの詮索は不必要で、ヴィジュアル的にそうしたイメージがよく表現されている。

第1部、幕が上がると、男性たちが舞台いっぱいにカエルのような姿勢で這いつくばっている。彼らは順番に数人ずつ起き上がり、やがて戦闘と儀式が繰り広げられ、一人の生贄が選ばれる。その間、彼らはがに股になって足踏みしたり、跳びはねたり、四つん這いになって移動したり、手足を奇妙な形に曲げたりして踊る。ダンサーたちは舞台上でバラバラに散ったり、一列になったり、二列に分かれたり、または輪になったりを繰り返す。

時に明るい光が舞台の片方から射し込む。彼らは怯えたような表情でそれを一斉に見上げる。ああ、光は彼らの畏敬する「神」なんだな、と分かる。最後に男性の生贄が選び出される。生贄の男性が髪の毛をつかまれて顔を上げさせられるところは怖かった。射し込む光(神)に向かって人々が進んでいく中、生贄の彼だけが取り残され、バッタリと床に倒れ伏す。

第2部が始まる。舞台が明るくなると、今度は女性たちが舞台一面に仰向けに横たわっている。男性たちとは違い、手足を緩く伸ばした美しいポーズである。女の生贄が中央にいる。女性たちはやがて起き上がると、やはり奇妙な姿勢をとり、また奇妙なポーズで一斉に踊る。みなトゥ・シューズは履いていない。全体的に艶冶な雰囲気が漂っていて、男性たちが「暴力」を象徴しているのに比して、女性たちは「性」を象徴しているらしい、というイメージがすぐに伝わってくる。

男性たちが再び舞台上に乱入してくる。男女は二手に分かれて対峙していたが、やがて男の生贄と女の生贄を中央に押し出す。男の生贄と女の生贄は戸惑って躊躇する。男たちと女たちが二人を無理やりくっつけ、生贄たちは体を密着させ、男の生贄が女の生贄の体の上にのしかかったり、また女が男の腰を両の太股で挟んだりする。生殖というより、性的行為そのものをイメージした振りである。

それからフィナーレになり、体を重ねている男の生贄と女の生贄を中心に、周囲の男女がみな体を重ね、中腰になって立っている男性の腰を女性が太股で挟み、上半身を反り返らせる。最後に男女が中央に集まって輪になり、向き合った男の生贄と女の生贄を輪の中心で担ぎ上げ、高々と上に差し出す。

モーリス・ベジャールはきっと難しすぎて私には分からないに違いない、と思い込んでいたのだが、この「春の祭典」は初心者にも分かりやすい、面白い作品だった。「春の祭典」はずいぶんと昔の作品だから、今のベジャールの作風はまた違っているのだろうけれど、とりあえず「食わず嫌い」ではなくなった。

ふと、べジャールがいつだったかのバイロイト音楽祭で、「タンホイザー」の冒頭にある「ヴェーヌスの洞窟」シーンを振り付けた時の話を思い出した。あまりに赤裸々に男女の絡み合いを表現しすぎて、大騒ぎになったというのである。写真は残っているけど、映像は観たことがない。確か舞台奥の壁に男女が仰向けに貼り付けられていて、貼り付けられている男性や女性に、女性や男性がピョンピョンと飛びついて「結合する」という振付だったらしい。観てみたいな〜。

Bolero

振付はモーリス・ベジャール、音楽はラヴェルの同名曲。初演は1960年、ブリュッセルのベルギー王立モネ劇場で、20世紀バレエ団によって行なわれた。上演時間はおよそ20分で、ラヴェルの原曲を削除せずにそのまま用いているようだ。ソロはシルヴィ・ギエム、男性群舞は東京バレエ団による。

音楽が始まると、真っ暗な舞台の中心にギエムの白い右腕だけがぼうっと明るく浮き上がる。その腕はゆるやかに湾曲して上がっていき、やがて闇の中に消える。同じようにして、次に左腕、そして両腕が白いライトの中でゆっくりと動いていく。ギエムの顔や体はまだ見えない。なんという演出だ。これは最初からやってくれるわ。

やがてギエムの全身がようやく現れる。ギエムは長い赤い髪をほどいて垂らし、白いぴったりしたタンクトップを着て黒いタイツを穿き、素足に保護カバーを巻いている。彼女は赤い円形の舞台の上で、両脚の膝を曲げ、片脚を前に踏み出し、片脚を後ろに引いて、両脚を上下前後に動かしてリズムをとっている。「ボレロ」でスネア・ドラムがずっと一定のリズムで鳴らされているように、彼女の両脚もずっとこの動きを続けるのである。

舞台の奥と両脇には、上半身裸で黒いズボンを穿いた男性たちが一列になって座っている。ギエムは静かな表情で、しなやかに、しかし鋭い動きで踊る。時おり前や横に高く振り上げられるギエムの脚が闇を切り裂く。彼女が上半身をがっくりと前に折ると、彼女の赤い髪がゆらりと前に垂れ下がり、彼女が顔を上げると赤い髪は軽やかに翻る。

ギエムの両脚は相変わらず同じステップを踏んでいる。彼女は両腕と上半身だけを使って、赤い舞台の上で踊る。彼女の背後には闇が広がっている。ギエムの両腕の動きはなめらかで、黒い背景の上に白い流れるような線を描いていく。

男たちが数人、円形の舞台の傍に出てきて踊り始める。ギエムはかすかに笑みを含んだ瞳で彼らを見下ろし、自分の手で自分の頬や腕を撫で下げる。彼女は脚をいきなり後ろに高く上げる。また片脚を後ろ向きに、自分の腰ほどにも上げた状態でゆっくりと2回転する。そして両脚を開いて垂直に跳び、あるいは両脚を交互に左右に向けてその場でジャンプする。こうした脚の激しい動きがあるとき以外には、彼女は例の同じステップを踏み続けている。

舞台の上でぽっかりと浮かぶギエムの踊りを見ながら、私はギエムは文字どおり「体だけで表現できる人」なんだなあ、と思った。表情とか仕草とか、そんな小手先の技は必要ない。ギエムはしっかりと前を見つめ、無表情ではないけど静かで、しかも鋭い光を放つ瞳で、力強い表情で踊り続けている。ギエムの手足は動くたびに何かを言っているようだ。それが何かは分からないけど、確かに何かを表現している。

音楽が徐々に盛り上がっていくのに従って、男性たちが次々と舞台の周りに集まり、自分たちも踊りに加わる。ギエムの動きも激しくなり、そのたびに赤い髪が乱れて空を舞う。ギエムは舞台の縁に沿って歩き、長い髪を振り乱しながら、片腕を伸ばして周囲の男たちを挑発するように差し招く。

男性たちが舞台を取り巻く。ギエムは片腕を交互に差し出して前をじっと見据える。やがて腕を高く上げて天を仰ぐと、男性たちとともに赤い舞台の上に倒れこみ、その姿が消える。

カーテン・コールは熱狂の渦となった。音楽、振付、演出、ダンサー、確かにこれほど盛り上がる要素が揃ったフィナーレの演目はないだろう。大きな花束を持った観客が次々と舞台の隅に駆け寄り、ギエムはにこやかな笑顔を浮かべてそれらを受け取り、一人一人としっかり握手した。一人のオジさんが舞台の隅で、両の拳を振り上げながらぴょんぴょん跳んでギエムにアピールし、その姿を認めたギエムは嬉しそうに苦笑した。

繰り返せば繰り返すほどカーテン・コールは熱狂度を増していき、最後には会場総立ちのスタンディング・オベーションとなった。とにかくギエムが出てくると盛り上がる。これもスターの条件だろう。ギエムは踊っているときの厳しい表情とは180度違う、白い歯を見せたかわいらしい笑みを浮かべていた。心の底から嬉しそうな表情で、両手を胸に当てて客席を見渡し、何度もお辞儀をした。

踊っているギエムもすばらしいけど、やっぱりカーテン・コールのギエムは格別だよな〜、と、みなに便乗してスタオベしながら、私はギエムの無邪気な笑顔に見惚れていた。

ギエムがベジャールの「ボレロ」を踊るのは今回のツアーで最後らしい。帰り際、夫婦らしい二人連れが、「今日のも力が入っていたよね〜」と話し合っていた。連チャンで観にきている人々もいるようだ。でも私にとっては今日が「シルヴィ・ギエム最初で最後の『ボレロ』」である。また「シルヴィ・ギエム復活の『ボレロ』」とか、「シルヴィ・ギエム・ボレロ・アゲイン」とかいう公演をやってくれないかな。

(2005年11月23日)


saiさんの感想

今週はまた上野に出かけて、ギエム「最後のボレロ」を観てきました。先週は、「オネーギン」の影が薄く、いまいちでしたが、今週は感動して涙が出ました。

ギエムの「ボレロ」を観るのは三回目ですが、今回は「最後」にひっかかったのか、ギエムの気迫に心奪われ、最後泣いていました。ジョルジュ・ドンの「ボレロ」も生で一回、映画「愛と哀しみのボレロ」でも観ましたが、今回ほど感動しなかったし、質が全く違うので、比較できないです。

ボレロが始まり、ギエムの片手に少しライトがあたり始めてから、髪の毛に赤い光が反射し、ギエムの体がゆっくり現れる。音楽はまだ小さく、リズムは座っている。小刻みにボレロのリズムを正確に踏むギエム。そのステップは最後まで一糸乱れず、音楽の盛り上がりとともに少しづつ激しくなるムーブメント。

初めてみた時と違い、ギエムは枯れ山水の絵のようにきびしく、余分なものは何もなかった。変な例えのようですが、何か松尾芭蕉の句のように 寂寥感が感じられたのでした。最後だと思って、私が哀しくなっていたのでしょうか。

音楽は最高潮になり、正面をかっと見据えたギエムの手が空をつかむように終わると、私は涙が出ました。本当は、号泣したかったけど、変なおばさんになりそうだから、そっと涙をふきました。きょうはチケット代、高くなかった!こんなに心揺さぶられる、すばらしいボレロを観たから。

(2005年11月21日チャウ宛メールより抜粋)


りんさんの感想

ギエムの「ボレロ」、行って参りました。愛知県芸術劇場大ホールの5階席には初めて座りました。最前列だったので、急勾配の階段を下りてゆくときはちょっと怖かったです。驚いたことには5階でも後のてっぺんの方まで満席でした。

「Two」も「ボレロ」もすっごいな〜!!!と感嘆しているうちに終わってしまいました。

「ボレロ」はこれで最後なのか、と思っている見ているうちに涙が出そうになり、後で読んだsaiさんの感想にも同じようなことが書かれていたので、同じだぁと共感しました。

ギエムに対しては、「100年に1度のダンサー」という触れこみに惹かれて観た、という程度の関心でしたが、彼女よりも情感のあるダンサーは他にもたくさんいるにも関わらず惹きつける何かが、人よりも群を抜いて強烈なものがあるのですよね。胴体から離れてまるで別の部品のように動いて見える手と脚。

春先に観た「三つの愛の物語」より、私にはこちらの方がずん!ときました。

(2005年12月3日チャウ宛メールより抜粋)


みかこさんの感想

シルヴィ・ギエム、観てきました。

いや、東京バレエ団もか・・・。私には東京バレエ団がどうこう言う鑑識眼もないし、多分、よかったと思うんですよ。コミカルな踊りのところでは、笑い声がおきたりもしてたし。

でも、圧巻というか、ど迫力というか、終わってみれば「ギエム、観た!」になってしまうのです。

ストーリーの無いものに、ここまで心が揺さぶられるのも不思議でした。なんだか、大氷河とかオーロラとか、イルカの群生なんかを見る時の感動に似てるのかもしれません(見たこと無いけど)。

ほんとに、なぜ人間は瞬きをしなければならないのでしょう。閉じてる一瞬が惜しかったです。彼女は髪の毛にまで筋肉や神経があるかのようでしたね。最後の一瞬、光る刀で何かを斬ったようにも見えました。

帰り道、後ろを歩いてる女性の話しているのが聞こえたんですが、「途中で泣きそうになってんけどな、『ここで視界がぼやけたら損する』と思ってがんばったわ」って、言ってました。同感でしたわ〜。

やっぱり「ギエムのボレロ再び!」が実現されないかなぁ。都はるみも復帰したことだし(古い!)。

(2005年12月4日チャウ宛メールより抜粋)


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