Club Pelican

NOTE 25

ロイヤル・バレエ日本公演 「マノン」

(2005年7月15日)

主なキャスト。マノン:ダーシー・バッセル(Darcey Bussell);デ・グリュー:ロベルト・ボッレ(Roberto Bolle);レスコー(マノンの兄):リカルド・セルヴェラ(Ricardo Cervera);G.M.(マノンの愛人):クリストファー・サンダース(Christopher Saunders);レスコーの愛人:ラウラ・モレラ(Laura Morera);乞食のかしら(レスコーの古い友人):ブライアン・マロニー(Brian Maloney);老紳士:アラステア・マリオット(Alastair Marriott)。

マダム(娼館の主人):エリザベス・マクゴリアン(Elizabeth McGorian);高級娼婦:デアドル・チャップマン(Deirdre Chapman)、ヴィクトリア・ヒューイット(Victoria Hewitt)、イザベル・マクミーカン(Isabel McMeekan)、サマンサ・レイン(Samantha Raine);紳士たち:ジョナサン・ハウエルズ(Jonathan Howells)、ヴァレリー・ヒリストフ(Valeri Hristov)、エドワード・ワトソン(Edward Watson);娼館の客たち:ギャリー・エイヴィス(Gary Avis)、ベネット・ガートサイド(Bennet Gartside)、平野亮一(Ryoichi Hirano)、フィリップ・モーズリー(Philip Mosley)、ヨハネス・ステパネク(Johannes Stepanek);看守長:ウィリアム・タケット(William Tuckett)。

演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はグラハム・ボンド(Graham Bond)による。

「言葉のない物語」とは、まさにこういうものなのだ、と思った。踊りがただの体の動きではなくて、それ自体で何らかの意味を示すことができる、という実例を目にした。優雅でドラマティックな音楽と、それと完全に連動した、しかもその意味が目から頭の中に直接に入ってくる踊りで構成された、実に雄弁で大きな情報量を持つ舞台だった。一時も気が抜けず、全神経を集中して見入っていた。

また、これほどダンサーの演技力と表現力が必要とされる作品も少ないだろう。彼らの表情にも気をつけていないといけない。様々な登場人物が同時に舞台上にいて、それぞれの思い、感情、もくろみを抱えている。彼らの表情や仕草の微妙な一瞬の変化を見逃すと、とたんに物語についていけなくなる。

幕が開いたとき、真っ暗な舞台の真ん中に、レスコーがたった一人で前を凝視したまま座り込んでいる。その体はマントですっぽりとくるまれていて、レスコーの鋭い目の光だけが舞台の中で浮き上がっている。このポーズと視線だけで、レスコーの基本的な人物像が一瞬のうちにすべて説明される。卑しい生まれ育ちで狡猾な野心家。

そうしたレスコーの人物像は、共通した振付上の特徴を持つ彼の踊りによって反復される。レスコーの踊りは速いジャンプや回転を駆使したものであり、彼は時には一人で奔放に、時には彼が術中にはめた人物たちの周囲で、してやったりとばかりに踊る。

レスコーは企みをめぐらす人物であり、それが第一幕の最後、G.M.、マノン、レスコーが一緒に踊る場面でよく出ている。レスコーはG.M.とマノンとの間を取り持っているようでいて、実はマノンと一緒にG.M.を篭絡している。その後、デ・グリューが戻ってくる。デ・グリューはマノンがG.M.と去ってしまったことに愕然とする。

レスコーは金貨をデ・グリューの前にばらまき、これでいいのだと無理やりデ・グリューに納得させようとする。だが怒りのおさまらないデ・グリューとレスコーはとっくみあいのケンカになる。ここで二人が手をつなぎあっての回転やジャンプが連続して用いられる。定式の動きでも、音楽や表情、そしてレスコーの踊りの特徴と組み合わさることで、それに具体的な意味を持たせることができる。

デ・グリューはマノンと出会い、彼女の前で踊って恋心を訴える。こうした場面も何度か繰り返される。それは男性ダンサーの見せ場という要素も確かにあるだろうが、より大きな特徴は、踊りの振付そのものによってマノンへの愛情が示されていることである。

デ・グリューは踊っている間、決して顔を客席に向けない。顔でも演技しているけど、それ以上に雄弁なのは、彼の腕や脚などの動きだった。なにかこうすっきりしない、途中で引っかかっては止まるような複雑な腕や脚、そして体全体の動きで、彼が真面目で今ひとつ気の弱い青年であること、その彼がマノンに必死に気持ちを伝えようとしていることが分かる。

マノンは徐々に心を開いてデ・グリューと踊り始め、そしてデ・グリューとマノンが一緒に住んでいる部屋での踊りでは、デ・グリューは今度は腕や脚を存分に伸ばし、軽やかに身を翻して踊る。しかし舞踏会にG.M.とともにやって来たマノンに対して、デ・グリューは再び苦しげな動きで踊り、彼女の心を取り戻そうとする。

マノンはすごく難しい役だと思う。踊りの技術、顔や仕草での演技など、すべてにおいて高い能力と周到な準備、深い役作りが必要とされる。特に面白かったのが、マノンは主に脚と足のポーズや動きによって、彼女の人物像や心情、彼女の状態が示されていることだった。

もちろん腕の動かし方やポーズにも具体的な意味がある。特に第二幕での、贅沢な暮らしに身も心も染まりきった彼女の腕の形や動きは同じであり、それが反復されることで彼女の心境が分かる。G.M.からデ・グリューの許に戻ったマノンは、それでもいまだに贅沢な生活に未練がある。それがあの腕をぐんにゃりと曲げて頭にくっつけた動きで表現される。

マノンは天真爛漫で純粋で、それだけにバカで考えなしの少女であり、目先でコロコロと考えや欲求が変わる。というか大体「考える」ということができるのだろうか?自分というものを持たず、いつも周囲に流されて翻弄されてばかりいる。また兄と同様に卑しい生まれ育ちで(最初に登場した時から平気で他人の金を盗む)、男の弱さにつけこんで自分の思いどおりにできる狡猾さも持っている。

デ・グリューに対する純粋な愛情は緩やかに伸ばした脚で、G.M.や男たちを篭絡する時の女のずるさは柔らかく曲げた脚で、死の間際の半ば発狂した状態での恐怖とあがきは、鋭くピンと伸ばした脚でそれぞれ示される。マノンはまるで脚と爪先の細かなステップで、言葉をしゃべっているかのようだった。

第二幕の娼婦たちの踊りは群舞の配置も工夫されていて、時間差で高く脚を上げたり、また一斉にドレスの裾を翻しながら回ったり、とても美しかった。実際の舞台を見てみると、あのアフロヅラもあまり気にならなかった。映像版と決定的に違うのはダンサーの体型である。最近のダンサーは昔の映像に比べると長身で小顔である。体の各パーツの大きさのバランスがいいので、ヅラをかぶっても目立たないし、脚を見せてもみなすらりと長くてきれいだ。

マクミランはなんとなくアブない性的嗜好があったんじゃないか、と私は思っていた。はっきりいうと、ロリコンとサドの気がある、と感じていた。だから嫌悪感も少しあったんだけど、「マノン」ではそうした印象をくつがえすような意外な場面があった。

第三幕は、売春の罪で逮捕された女たちが、流刑地のアメリカへと船で連行されてきたシーンで始まる。女たちは灰色の破れた囚人服を着て、見せしめに髪の毛を短く刈られている。夫の看守長を出迎えに来た夫人は、彼女らに軽蔑のまなざしを向ける。しかし、航海から帰還した恋人の看守たちを迎えにやって来たらしい、きれいなドレスを着た若い娘たちは、売春婦たちを同情の目で見つめる。

看守長は乱暴な態度で売春婦たちを手荒く扱う。若い娘たちは、倒れ伏した売春婦たちに駆け寄り、彼女たちを庇ってその背中を支え、その肩に手を添える。看守たちもやがて、彼らの恋人とともに売春婦たちを痛々しげに見つめるようになる。この場面にはなんだかホッとした。マクミランって意外と優しいんだな、と思った。

ある場面で用いた振付を別の場面でも用いることで、具体的な意味を表し、また象徴的な効果を出す、という手法が用いられていた。マノンがG.M.とやって来た舞踏会で踊った妖艶な振付の踊りを、デ・グリューの許へ戻った後も繰り返すことで、マノンがまだ贅沢で華美な生活に憧れていることが分かる。

その振付とともに、象徴となるアイテムがマノンがG.M.からプレゼントされた豪華な銀の腕輪である。マノンはその腕輪をうっとりと見つめる。デ・グリューはそれを捨てるように促すが、マノンは頑として承知しない。彼女には、なぜデ・グリューが腕輪のことでそんなに怒るのか理解できない。

この腕輪は、マノンが看守長に乱暴されるシーンでも使われる。看守長は、マノンに腕輪をちらつかせ、彼女に自分の相手をするよう誘う。だがマノンはそれを拒否する。もう腕輪は、マノンにとっては何の価値もない。しかし看守はマノンを乱暴し、力尽きて倒れた彼女の目の前に腕輪を放り投げる。

第一幕、レスコーとマノンが結託してG.M.を誘惑するシーンで、G.M.がマノンの両腕を持ち、レスコーがマノンの片方の足首を持って左右に揺らす、という動きがある。このとき、マノンはG.M.を篭絡する、ということを承知の上で、物憂い婉然とした表情で揺らされている。

この振りが、看守長がマノンを乱暴するシーンでも出てくる。看守長は一人でマノンの腕と足首を持ち、彼女の体を左右に揺らす。同じ振りだが、もちろんマノンの立場はまったく違う。前は、マノンのほうに男を獲物にするという目的があった。しかし今度は逆に、自分が獲物のように扱われているのである。

マノンが看守長に乱暴されているのを見つけたデ・グリューは、看守長を殺してしまう。デ・グリューとマノンは二人で逃亡し、沼地をさまよう。そこであのワカメか昆布みたいなセットが上から降りてきて、その陰にマノンの見ている幻影が現れる。娼館の主人と娼婦たち、兄のレスコーとその愛人、G.M.や紳士たち、女囚たちを次々と乱暴する看守長、そしてこれは思わず唸った、トリ籠を抱えて物乞いをする老人の乞食。

この老人の乞食だけが、ワカメの中から出てきて現実のマノンに近づく。マノンは恐れて後ずさる。第一幕の冒頭、マノンが街に出てきたばかりのとき、馬車から降りた彼女にこの老人の乞食が近づく。まだ子どもの彼女は本能的に怖がって逃げてしまう。

たったそれだけのシーンだったのだが、それをこの最後のシーンでまた出してきたのはすごい。なんですごいのかうまく言えないんだけど、この老人の乞食が、マノンにとって彼女の人生の「原風景」なんだな、と私は思ったのである。こんなことを思いつくマクミランはすごい。

ダーシー・バッセルは本当にすばらしかった。予想していた以上に魅力的ですごいダンサーだった。私は彼女の顔も体型も好きだし、彼女の踊りも好きだし、彼女の醸し出す安定した女らしい雰囲気、あと彼女の演技が大好きだ。彼女は踊りはもちろん、演技も非常に見物なので、目が忙しくて困った。踊っていないときでも油断ができない。

マノンが初めて登場するシーンで、すでにマノンがどういう少女なのか分かる。マノンは当初、いかにも純粋無垢そうな雰囲気を漂わせて馬車から降り立つ。しかし、彼女は脇に立っている男性たちに微笑みかけると、自分のコートや帽子を脱いで彼らに預ける。

このときはバッセルの横顔しか見えないが、その目は男性たちを意味ありげな視線で見つめている。この女はなにかがおかしい、という印象がさっそくやって来る。そして老紳士からカバンを渡されると、マノンはその中身をこっそりのぞきこむ。バッセルはかすかに目を丸くして、口元をきゅっと結んで笑みを浮かべる(大金が入っている)。これで、マノンが兄とさほど変わらない性格であることがはっきりする。

第一幕の最後、マノンがG.M.から贈られた豪華な毛皮のコートを着せられているときの、バッセルの表情の変化はすごかった。さっきまでデ・グリューと無邪気な表情で笑っていたのに、目つきだけが段々と変わっていって鋭い光を放つようになる。首に銀のチョーカーをかけられたときには、表情は静かだけど、もう完全に打算に満ちた女の顔になっている。

兄のレスコーからG.M.をたらしこんで大金をせしめよう、贅沢な暮らしをしよう、と吹き込まれてから、二人してくるっと振り向いて、G.M.を見つめるときの目つきにもゾッとした。第二幕で出てきたときは、身のこなし、踊り、仕草、表情は、すべて娼婦のそれになっている。デ・グリューと出くわしてバツの悪そうな顔はするのだが、別に板ばさみになって苦しんでいる、というほど深刻ではない。

「確かにあなたを捨てちゃって悪かったけど、でも今の贅沢な暮らしがいいんだもん。あなたのところに戻るつもりはないわよ」という感じで、その後も平然と他の男たちと踊ったり、鏡を一心不乱にのぞきこんで髪を直したりする。再度デ・グリューにつめよられると、「いったいアタシの何が悪いの!いいかげんにしてよ!」というふうに逆ギレする。

それからまたあっけらかんとした態度で、デ・グリューにイカサマでポーカーに勝ち、G.M.から金をまきあげるように勧め、さっさとカードを用意して仕切る。再びデ・グリューのところに戻っても、彼女はいまだに豪華なドレスや宝石に夢中で、デ・グリューはそれに苛立つ。だがマノンにとっては、金のためにG.M.の愛人になることと、デ・グリューを愛することは矛盾しないのである。バッセルのマノンは、なぜ彼が怒るのか分からないというふうに、戸惑った顔で豪華なドレスを片付ける。

第三幕でバッセルがボロボロの囚人服を着て、髪を刈られた姿で出てきたときはギョッとした。別人かと思った。目の周りを黒く塗っている。あの華やかで明るい美人が!まあ髪や顔はメイクでどうともできるだろうけど、なんか体型まで変わったように見えた。まさに骨と皮だけ、という感じになっていた。体が痩せてみえる特殊メイクでもあるのだろうか?

沼地のシーンでは、彼女の表情は正気ではなくなっていて、死相とでもいうのか、目を半開きにしたうつろな表情で、倒れたかと思うとあたりをやみくもに駆け回る。死んだときの顔も、美しくないのよこれが。目は完全に閉じておらず、口もわずかに開けたまま死んでいた。リアルな死人顔だった。

彼女の踊りはもちろん非常にすばらしかった。きちんと安定していてぎこちなさが微塵もない。またとてもスタイルに恵まれている人で、顔が小さく、背が高く、とりわけ手足が長く美しい。あんなに細いのに筋肉でゴツゴツしていない。やわらかな曲線の女性らしい体つきをしている。

また、マノンの踊りの特徴は脚と足だ、と上に書いたが、彼女はまさに適任だと思う。脚線美もすごいし(すらりとしたきれいな脚と甲!)、脚がどんなふうに動いても、どんなポーズをとってもきれいである。長年バレエをやっていた人が、バッセルの爪先やポワントでの動きは本当にすごかった、いったいどんなふうにしたらあんな動きができるの、と言っていた。

あとはプラスアルファの要素とでもいうのか、彼女には華がある。有無を言わさず目が吸い寄せられる。そして穏やかでバランスの取れた人間性と暖かいフェミニンな雰囲気が漂っている。ダンサーとしてもすばらしいし、同時に人間的に安定している、という落ち着いた感じがあって、彼女の踊りを観ているとこっちも落ち着けるのである。

期待はずれだったのはデ・グリュー役のロベルト・ボッレだった。期待はずれといっても、私の好きなタイプの踊りではなかった、ということにすぎない。黒髪の美男子で大柄、筋肉質でがっしりしている。踊りは全体的に少しガタガタしていて、回転しながら体が段々と斜めになったり、静止、または着地したときに足元がグラついたり、見ていてヒヤリとするときがあった。なんか動きがガクガクだな〜、という印象が残っている。

でもサポートやリフトは見事だった。第一幕ではマノンとデ・グリューがふたりで踊るシーンが2回もある。第三幕最後、沼地での踊りは、非常に危険なリフトやサポートで占められている。でもどれもピッタリとタイミングが合っていた。マノンを持ち上げて、空中で回転させて、それをキャッチして、という動きを何回も繰り返す。また勢いよく駆けていってがっと倒れるマノンを止めて、床すれすれの位置で持ち上げて支える。

ただデ・グリューは、もっと深く掘り下げられる役なのではないかと思う。デ・グリューもある意味、レスコーやマノンの消極的共犯者であることとか、そのことに対する彼の優柔不断さや懊悩とか、まだ解釈して表現できる余地があったのではないか。

レスコー役のリカルド・セルヴェラも、アクの強さと悪人ぶりがまだ足りない。それに脇役とはいえ、レスコーが踊るシーンはとても多い。第二幕の酔っ払い踊りも、クーパー君に比べると全然あかん(私は3年半前に観たクーパー君の踊りを脳内再生できます)。一度でいいから、クーパー君のレスコーをぜんぶ観たいなあ。開演直後のあの冒頭のシーンなんて、クーパー君がやったらどんなにすごい迫力と存在感があることだろう。

それに決定的に問題なのは、セルヴェラはボッレよりも背が低くて小柄なのだ。だから図体のデカいデ・グリューが、なんであんな大して強そうでもない小男のレスコーに押さえつけられるんだろ、と不自然である。

レスコーの愛人役のラウラ・モレラはとてもよかった。あとは平野亮一君が今日も出演していて、看守の1人として出てきたときには、軽くて高い見事なジャンプを披露していた。平野君は日本人離れした体型をしている。背が高く、脚が長く、そしてこれは最もラッキーだと思うが顔が小さい。顔立ちも整っているので、ぜひいいとこまでいってほしい。

「シンデレラ」で、シンデレラの気弱で優しい父を演じていたウィリアム・タケットが、今回は看守長の役で出演していた。彼は現在、プリンシパル・キャラクター・アーティストという立場で、ロイヤル・バレエの舞台に出演している。今日はこの前の優しいパパとは打って変わって、傲慢な目つき、無表情、粗暴、残酷極まりない最低野郎を怪演していた。

これは私の個人的な印象だけど、先日の「シンデレラ」より、今日の「マノン」のほうが、ダンサーたち全体が自然に伸び伸びと踊っているようにみえた。特に群舞の場面でそれを強く感じた。群舞に出ているダンサーは、そのほとんどが先日も今日も出演していただろう。ひょっとしたら、アシュトンの作品よりもマクミランの作品のほうが、いろんな意味で踊りやすいのかもしれないな、と思った。

カーテン・コールは大騒ぎだった。計10回近くもあったと思うが、最後にバッセルが一人で出てくると、会場が総立ちになった。盛大な拍手が送られてブラボー・コールが飛びまくる。今回ばかりはブラボー屋さんも用なしだ。バッセルはお辞儀をすると、手を胸に当てて静かに微笑みながら立っていた。

終演後、私はほとんど魂を抜かれた状態になった。実はこれを書いている現在も、まだ夢から覚めていない(笑)。「マノン」がこんなにいい作品だとは思わなかった。自分でも未だに訳が分からないのだが、完全にあの舞台の世界に引き込まれてしまったことは確かだ。とてもすばらしい舞台を観ることができてよかった、と心から思っている。

(2005年7月16日)


saiさんの感想

昨日のバッセルには心から感動しました。マクミランの振り付けと演技を完璧に自分のものにしていたと思います。すてきなダンサーですね。今までで観た中で一番かも。一つ一つのポーズやパも美しく、ため息が出そうでした。踊りに深みがあり、伝わるものが大変大きく、観ている人を引き込むオ―ラがすごかったです。

ロベルト・ボッレはデ・グリューの持つ雰囲気とちょっと違う感じでした。動きも大柄なダンサーだからか(?)、大味というか、なめらかではなかったと思います。

しかし全体的にマクミランはやっぱりロイヤルと思わせる素晴らしい演出でした。

(チャウ宛メールより抜粋)


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