Club Pelican

NOTE 24

ロイヤル・バレエ日本公演 「シンデレラ」

(2005年7月11日)

公演会場は上野の東京文化会館である。会場の外で懐かしい顔に出会った。ダフ屋のおじさんだ。2003年のAMP「白鳥の湖」日本公演では、いつもこのおじさんが決まった場所に立っていた。今回も相変わらず、「余り買うよ〜余り買うよ〜」とさりげなくつぶやいている。この流暢な言い回しは、アメ横の商店のおっさんといい勝負だ。

ダフ屋のおっさんが出たということは、この公演は大人気の満員御礼らしい。演目が「シンデレラ」と「マノン」だけなんて、しかもちょっと前にロンドンで上演していた演目をそのまま海外でやるなんて、なんだかやる気がないな〜、さすがはイギリス人、と思っていた。

でも「シンデレラ」を観た後は、うむ、この演目の組み合わせでよかったのかも、と思い直した。この公演には、「ロイヤル十八番シリーズ」というこっぱずかしい名前がつけられていた。しかもこの「十八番」は、「じゅうはちばん」じゃなくて「おはこ」と読むんだぞ。ロイヤルおはこシリーズ。恥ずかしさ倍増である。でも確かに、ロイヤル・バレエが上演するのが最もふさわしい演目だと思う。まだ「マノン」は観てないけど。

「シンデレラ」終演後、あ、なーんか久しぶりにバレエらしいバレエを観たな、と大満足で会場を出た。しかも、典型的につまんねえストーリーのバレエの全幕作品なのに、あんなに退屈せずに最後まで楽しめたのは初めての経験だった。

その理由を総括すると、(1)舞台装置や衣装が豪華だ。(2)ダンサーが美男美女ばかりだった。(3)とにかく笑えた。の三点である。この中では(3)が最も大きな割合を占めている。

主なキャスト。シンデレラ:ロベルタ・マルケス(Roberta Marquez);シンデレラの義理の姉:ジョナサン・ハウエルズ(Jonathan Howells)、アラステア・マリオット(Alastair Marriott);シンデレラの父:ウィリアム・タケット(William Tuckett);ダンス教師:ブライアン・マロニー(Brian Maloney);仙女:ベリンダ・ハトレー(Belinda Hatley);春の精:イオーナ・ルーツ(Iohna Loots);夏の精:イザベル・マクミーカン(Isabel McMeekan);秋の精:デアドル・チャップマン(Deirdre Chapman);冬の精:サラ・ラム(Sarah Lamb)。ここまでで第一幕ね。

第二幕から。王子:イヴァン・プトロフ(Ivan Putrov);道化:ジャコモ・チリアーチ(Giacomo Ciriaci);王子の友人:ベネット・ガートサイド(Bennet Gartside)、アンドレイ・ウスペンスキー(Andrej Uspenski)、エドワード・ワトソン(Edward Watson)、トーマス・ホワイトヘッド(Thomas Whitehead);シンデレラの義理の姉たちへの求婚者:ギャリー・エイヴィス(Gary Avis)、ミハイル・ストイコ(Michael Stojko)。平野亮一君も舞踏会の客の一人として出演してました。背が高くて顔立ちも整っており、かっこよかったです。

演奏は東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、指揮はベンジャミン・ホープ(Benjamin Pope)。

なんとな〜く陰鬱な前奏曲が流れるうちに、真紅のカーテンが開く(←このへんはロイヤル・オペラ・ハウスを意識か)。舞台前面には紗幕が下りている。舞台いっぱいに暖炉の絵が描かれていて、暖炉の上の棚に2人の人物の肖像画が立てかけられている。1人はこの作品の振付者であるフレデリック・アシュトン、もう1人は作曲者であるプロコフィエフである。このへんの演出はちょっとわざとらしいな。

やがて紗幕の向こうの風景が見えてくる。舞台の右側に暖炉があり、頭にスカーフを巻き、灰色の質素でボロボロなドレスを着た少女(シンデレラ)が、暖炉の前に腰かけて炎を見つめている。舞台の中央にはナイトキャップとガウンを着た中年の男性(シンデレラの父)が座っていて、その左右には2人の巨大なオカマ・・・じゃなくて、シンデレラの義理の姉たち(ジョナサン・ハウエルズ、アラステア・マリオット)が座り、ド派手な柄の布をせっせと縫っている。

私はこの義理の姉たちが裁縫をする仕草や顔つきで、すでに笑いをこらえるので精一杯だった。でかい図体のくせに小指を立てて針をつまんで、口をすぼめて糸をふっ、と吹き飛ばしている。ちなみにこの「シンデレラ」には、義理の母親は出てこない。ウィリアム・タケット演ずる父親は、優しいんだけど、気の強いオカマ・・・じゃなくて姉たちに逆らえない気弱な父、という感じがよく出ていた。

気に入ったのは、この作品は徹底的に明るくて、暗い要素がまったくないところだ。もし義理の姉たちを女性に踊らせたら、シンデレラをどつくシーンなんて、たちまち陰湿なイジメになってしまうだろうけど、男性に踊らせると明るいコミカルな場面になる。

またシンデレラはただかわいそうなだけの少女ではなくて、かなりふてぶてしくてたくましいキャラクターである。姉たちが舞踏会へと去った後、ひとり残されたシンデレラは、姉たちが裁縫していた布を箒に巻き、それをダンスの相手に見立てて楽しげに踊りだす。

ここでシンデレラはヒロインにあるまじきことをする。なんと、客席に背を向けたかと思うと、ガニ股になって両脚をバタバタと踏み鳴らし、姉たちの不恰好な踊りの真似をするのである。美しいプリマ・バレリーナが!客席から大きな笑い声が起こった。

この日のシンデレラだったロベルタ・マルケスは目が大きく、とてもかわいらしい顔立ちをしている。みずぼらしい格好をしたときは幼い少女という雰囲気を漂わせている。しかし純白の美しい衣装をまとって舞踏会に現れたときは、華やかなメイクと相まって、目鼻立ちがはっきりした艶のある美女に変身する。

死んだ実の母親の肖像画を取り出して暖炉の上に立て掛け、笑顔でそれを見つめ、いとおしげに手で撫でたかと思うと、ふと悲しげな顔になって両手を顔で覆って泣き出す。箒と楽しげに踊っていたのが、ふと表情が曇って、投げやりな仕草で箒を放り投げる。

舞踏会から帰った後、舞踏会を思い出しながら、夢見るような表情で居間でひとり踊っているうちに、徐々にみじめな自分の現実の姿が甦ってきて、ついには寂しそうな顔で立ち尽くす。こうした微妙な表情の変化がとても魅力的で、うっ、なんて健気なの、とお姉さん思わずほろりときちゃいました。

踊りも初々しくてよかった。もちろん他の錚々たるベテランの女性プリンシパルたちに比べると、彼女はまだロイヤル・バレエでは新人だということもあって、多少ぎこちないところもあった。でも彼女はこれからも伸び盛りなのだろうし、だからこそロイヤル・バレエも、彼女を最初からプリンシパルとして招き入れたのだろう。

これは偏見だが、彼女はブラジル出身ということなので、ラテン系パワー全開ノリノリ筋肉バレエを踊るのかと思っていたら、非常に奥ゆかしい清楚で端正な踊りだった。私が勝手に「ロイヤル・アラベスク」と呼んでいる、片腕を上げて前に差し出し、上半身を反らし気味にして、もう片腕を後ろに心もち下げて、後ろに伸ばした片腕と上げた片脚がすれすれに近づいた状態で、斜めに直立したままびしっ、と静止するポーズもバッチリ決まっていた。

王子はイヴァン・プトロフ君だった。きれいな王子顔。顔が小さい。細身。脚が長い。スタイルがいい。2002年、彼はクーパー君が出演した「オネーギン」の舞台で、クーパー君に本物のビンタを食らわせていた(レンスキー役)。そのプトロフ君も今やプリンシパルに出世した。

第二幕、王子が登場するシーンで、観客が一斉に拍手していたが、プトロフ君は日本でもすでに大人気なのだろうか。それとも王子登場の場面では拍手するしきたりでもあるのか。

ま、それはともかく、プトロフ王子は登場するなり、いきなり軽々高々とジャンプし、両足を何度か打ち付けた。舞台の左右で一回ずつこの動きを繰り返す。その跳び上がった高さがすごいのなんの。1メートル以上も余裕であったんじゃないのか。しかもしなやかで優雅、ゆっくりで滞空時間も長い。観客の間からほおお〜、と感嘆の声が漏れた。

この作品では王子は大した役回りではないので、演技とかについては特に書くこともない。でも、王子でさえも笑いを取る場面に参加していたので大笑いした。第三幕、シンデレラの上の姉が、デカ足に無理やり靴を押し込もうと頑張っているとき、シンデレラはもう片方の靴をポケットからそっと差し出して、おずおずと王子に見せる。呆然とするシンデレラの姉。

王子はシンデレラの姉をきっと睨みつけると、彼女の足から靴を乱暴にばっ、と引き抜く。姉は反動で後ろにひっくり返る。ここでも観客は爆笑していた。この作品では王子も容赦なくお笑いシーンに加わるのである。

ロイヤル・バレエの踊りの水準に関しては、私はロイヤル・バレエ独特の、あのギクシャクした「もっさり感」が好きなので、テクニックに関してどうこう言うつもりはない。機械人形みたいな鉄壁テクニックを特徴とするカンパニーは他にもあるわけだし、こういう人間くさい踊りと抜群の演技力でバレエを楽しませるカンパニーがあってもいいではないか。

特に、二人の姉たちばかりか、シンデレラ、王子までもがお笑いに参加して、真面目でおとなしい日本の観客を、ここまで爆笑させたカンパニーが他にあるだろうか。東京バレエ団は「真夏の夜の夢」で観客を笑わせることができなかった。でもロイヤル・バレエにはできた。

この「シンデレラ」で重要な役回りを担っているのは、いうまでもなくシンデレラの二人の姉である。彼女(?)らは、シンデレラや王子と並んで、この作品の主役であるといってもよい。本来は単純なストーリーの作品がここまで面白くなったのは、姉たちを男性に踊らせて、要所要所で彼らによるコミカルな踊りやマイムによる場面を挿入したおかげである。

この姉たちのおかげで会場は一気に盛り上がり、彼らが登場するたびに、さて、どんな面白い踊りや仕草を見せてくれるのか、と楽しみだった。ダンス教師や王子にモーションをかけたり、イケメンの求婚者を奪い合ったり、悪趣味極まりないド派手衣装や、上の姉が下の姉に対して絶対的権力(?)を振るう横暴さなど、出てくるたびに大いに笑わせてくれた。

下の姉が着ているドレスの襟についた羽飾りが大きすぎて、前が見えなくなって右往左往するさまは可笑しかった。また王子がシンデレラの家を訪れたとき、ちょうど着替えていた姉たちはあわててドレスを着直す。しかし間に合わずにドレスを前に引っかけたまま、両手を広げて王子にお辞儀をしてしまい、その拍子にドレスがずり落ちて下着一丁になってしまう。むき出しになった腕や胴体が筋骨隆々でたくましいのなんの。観客は爆笑した。

姉たちにあてがわれた二人の求婚者は、一人が背の高いイケメンで、もう一人は明らかにナポレオンをパロッた人物である。三角帽をかぶり、手を懐に入れ、背が低くてせむしである。しかも途中でヅラが脱げるシーンがあり、実はつるっぱげだったというオチまでついている。フランス人が見たらどう思うのだろう。もちろん姉たちはイケメンの方の奪い合いになる。でもイケメンの方も実はヅラだった。彼はまだらハゲだったのだ。

でも第三幕の最後、シンデレラと王子が相思相愛であると知った姉たちは、上の姉が下の姉をなだめるようにしてそっと姿を消す。最後まで憎めないキャラで、こういう演出で最後にフォローを入れられると、終演後もいい気分で会場を後にすることができる。勧善懲悪話でもなく、斬新な新解釈でもなく、誰も悪い人物がいない、ほんわかしたいい話にまとめている。

アシュトンの振付については、この作品はプロコフィエフの音楽と、義理の姉たちの強烈極まりないキャラクターとコミカルな踊りやマイムで支えられている面が大きいと思う。シンデレラや王子による踊り、仙女、四季の精、4人の王子の友人たちの踊り、道化の踊りなどは、アシュトン独特のトリッキーで複雑な振付によって構成されているものの、そんなに面白いというわけでもない。

だがやはりキャラクター設定や演出が工夫されていることは、この作品を面白くしている大きな要素である。姉たち以外にも、上にも書いたように、シンデレラや王子が従来のヒロインとプリンスのパターンから外れて、ふざけたお笑いシーンにも参加している。観客が冗長でお約束なソロ、パ・ド・ドゥ、パ・ド・カトル、群舞に飽きることを見越したかのように、その中間に笑えるシーンを挿入する(ここで重要な役割を果たしているのが姉たちなのである)。

この作品は最後までとにかく楽しめた。ロイヤル・バレエの演技力と表現力が遺憾なく発揮された舞台であった。舞台装置の転換ではごたついたときがあったが、これもいかにももっさりしていてよいのである。こういうトラブルやアクシデントも、逆に魅力的な要素になってしまうのだから不思議だ。

あまりダンサーには注意していなかったのだが、仙女を踊ったベリンダ・ハトレーは大したことはなかった。夏の精を踊ったイザベル・マクミーカン、そして特に冬の精を踊ったサラ・ラムがすばらしかった。

道化を踊ったジャコモ・チリアーチは、スレンダーな体の男前で、道化にしてはカッコよすぎる感じがした。でも上の姉に靴を履かせようとしたとき、姉が横柄な態度で足元に置かれた小机の上にどっかりとデカ足を乗せ、その衝撃で道化がズッコケた。あれには大笑いした。

カーテン・コールは大賑わいで、どうもブラボー屋もいたようだが、ブラボー・コールをする勇気のない私たちに代わってやってくれていると思えば不快でもない。このように、普通ならマイナスに受け止められるような出来事でもすべて許せてしまうのだから、ロイヤル・バレエは独特の不思議な魅力を持ったカンパニーなのである。

ちなみにカーテン・コールで出てきた二人の姉は、舞台のまんまのキャラクターであった。オカマっぽい仕草で扇をあおぎながら婉然と(オエッ)微笑み、上の姉が下の姉をどついて出ていく。カーテン・コールも爆笑の渦に包まれ、二人には大きな拍手と喝采が送られた。

とりとめもないのでまとめよう。結論をいえば、私はこの作品と舞台が大いに気に入った、ということである。

(2005年7月13日)


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