Club Pelican

NOTE 23

2005年スターダンサーズ・バレエ団7月公演

(2005年7月1、2日)

今年は日本とドイツの何かの記念の年らしく、「日本におけるドイツ 2005/2006」として、あちこちでいろんな行事が催されている。たとえば東京の多くの美術館では、ドイツの美術館が所蔵するドイツ絵画の特別展が開催されているか、またはこれから開催される予定である。

この公演も「日本におけるドイツ 2005/2006」に参加して行なわれたものである。上演されたのはドイツの振付家による2作品で、1つは1930年代初めの作品、もう1つはこの公演のために特に振り付けられた作品である。

会場はル・テアトル銀座で、ここは初めて来た。最寄り駅は京橋だが、劇場前の交差点を渡ると、すぐに銀座の繁華街(銀座通り)である。新しい中規模の劇場で、座席はゆったりとして見やすさもまあまあだった。

ただし、ラウンジの食い物や飲み物は最低レベルの品揃えと味で、そのくせ値段は割高だった。仕事帰りでとっても疲れていて夕食もまだだったチャウさん、ちょっと額に青筋が立ちました。このショボさはゆうぽうと簡易保険ホールといい勝負です。でもゆうぽうとは自販機を何台も設置していますから、ゆうぽうとのほうがボラないだけまだマシかもしれません。

あら、いつの間に「ですます調」になったのでしょう?開演前、ロビーがいやに閑散としていたので妙だと思った。ホールに入ったら、小さな劇場だというのに席はガラガラだった。そう、「THE 閑古鳥」である。今年二度目の。一度目はロイヤル・バレエ・スクール日本公演だった。(フォロー:でも土曜日の公演は、そこそこの客の入りでした。)

バレエ団創立40周年記念公演で、「日本におけるドイツ 2005/2006」参加行事なのに、客の入りがこれかい。なんだかドイツのみなさんに申し訳ない気分だ(私のせいじゃないけど)。でも仕方ないか、とも思った。演目が演目だから。しかもうち1作品は、観るほうにとってはリスクいっぱいの「世界初演」である。

その世界初演作品とは、フェリックス・ルッカート(Felix Ruckert)振付の"tokyo-tools"である。私がチケットを取ったときには、まだ作品の名前が決まっていなかった。会場に入ってはじめて作品名を知った。そもそもなんでチケットを取ったのかというと、私はもう一方の作品、「緑のテーブル」が観たかったからである。

"tokyo-tools"という題名だけでイヤな予感がした。プログラムを買って読んだら、その予感は更に強まった。振付家が難解な哲学と理論を語っている。モロ私の苦手なタイプだ。

「Toolsは、脳の機能を利用して様々な行動を迅速にコーディネイトする。そして、脳が働き疲れると、今度は身体機能を使ってプラグマティックな解答を見つける。」 「Toolシステムによって創られた作品はそれぞれ、一定のツールとルール、そして独特のリズムと形を提供するコリオグラフィック・システムから成っている。」 バカかこいつ。

このルッカートについては、プログラムに載っている以上のことは分からない。コンテンポラリー・ダンスの振付家らしい。1959年生まれで、82年からダンスを始めた。次の演目「緑のテーブル」の振付者であるクルト・ヨースが創立したフォルクヴァング大学で、ヨースの弟子でもあるピナ・バウシュに師事した。92-94年の間、バウシュのカンパニー、ヴッパタール舞踊団でダンサーとして在籍もしている。

その後はフリーのダンサー兼振付家として活動し、それからフェリックス・ルッカート・カンパニーを設立して、現在もダンスと振付の両方に取り組んでいる。履歴の他に舞踊評論家による長い解説文も掲載されている。やっぱり難解で何が書いてあるのかあまり理解できないが、"tool"というのはルッカートが独自に分類したダンスの構成要素で、あるルールに則って、これらの"tool"を使ってダンスを創造していくんだそうだ。

「稽古場の壁には、身体、空間、時間などのtool(道具)としての使い方、それらtoolを使ったシステムの説明がびっしりと書かれた紙が貼られている。」 写真がある。全部手書きだ。私がダンサーなら、こんな理屈っぽくて面倒な振付家と仕事をするのはごめんだな。

舞踊批評家の解説文も負けてない。「純粋な動きのコンポジションから空間のインスタレーションあるいは観客とのインタラクティブなパフォーマンスまでその仕事は幅広い」・・・・・・だみだこりゃ。(←いかりや長介)

"tokyo-tools"は、ルッカートの難解な持論と舞踊批評家の不親切な解説文をそのままダンスにしたような作品であった。観客とのコラボレーションとかいいながら、その実は観客のことなどまったく無視した、「オレって頭いいんだぜ」的な振付家の自己満臭がプンプン漂っていた。

白が基調の背景の中で、白か黒のTシャツ、ズボンなどカジュアルな衣装に身を包んだ10数名のダンサーたちが、ひっきりなしに出たり引っ込んだりして踊る。男女双方とも薄い布地のシューズを履いている。音楽は、音楽というより効果音といったほうがいい。なにせ作品名が"tokyo-tools"だから、日本語を効果音で使うだろうな、と思ってたら、本当に使いやがった。

明らかにバレエだと分かる動きは一切ない。手足はバラバラ、オフバランスでくねくねした動きが基本である。組体操みたいなアクロバット的な動きもある。更に寝転んだり、四つん這いになったり、膝を抱えて座ったり、立ったまま体を震わせたり、大忙しだ。

こういう踊りはついていけているかどうかがはっきり出る。要はモノにできているかどうかだが、女性ダンサーでは、最初は短い袖のTシャツと白いズボンを着て、後半では白いおかっぱのカツラをかぶって、ズボンからサスペンダーをぶら下げたダンサーだけがとても自然に踊っていた。名前は分からないが、たぶん森本京子か小池知子だと思う(まちがってたらごめんなさい)。男性ダンサーでは西島千博だけだった。

コンテンポラリー作品ならせいぜい30分くらいで終わるだろうと思っていた。しかしこれがなかなか終わらないのだ。私の両隣の客はともにおじさんであった。片方は上演開始後20分が経過した時点で、もう片方は40分を過ぎたところで沈没し、頭をがっくりと前に倒して寝てしまった。後ろに座っていたおばさんたちも同じだったらしい。終演後、「すっかり寝ちゃったわー」という声が聞こえてきた。

結局、ダンサーたちが入り乱れて踊り続けたまま、まるまる1時間を費やしたところで、この作品はようやく終わってくれた。ダンサーたちは、最後のほうはもう疲労困憊してゼイゼイと息を吐いており、見てるほうが気の毒だった。よく頑張ったとは思うが、でも私はパフォーマンスを観に来たのであって、ダンサーたちの頑張りを観に来たんではない。

更に言わせてもらえば、このような作品はダンサーたちにとってはいい経験になっただろうし、収穫も多かったと思う。その点ではとても有意義な作品なのだろう。でも観客の立場はどうなるのか。金払って(S席9,000円)訳の分からないものを1時間も見せられた。私は形だけ拍手した。心から拍手する気にはならなかった。他の観客の拍手もまばらだった。

私が観たかったのは次の作品、クルト・ヨース(Kurt Jooss、1901-79)脚本・振付の「緑のテーブル("The Green Table")」で、"Dance Macarbre in eight scenes"という副題がついている。音楽はFrederick Cohenのオリジナル曲で、二台のピアノによって演奏される。

この「緑のテーブル」は1932年のパリ国際舞踊コンクールに出品するために振り付けられ、同年7月、彼のカンパニーであるFolkwang Tanzbuhneによってパリで初演された。初演したダンサーの中にはヨース自身も加わっていた。この作品は同コンクールで第一位を獲得し、それから現在に至るまで世界中で上演され、クルト・ヨースの代表作となっている。

なぜこの作品を観たかったのかといえば、第一次世界大戦から第二次世界大戦にかけての期間は、実はけっこうバレエの佳作の穴場なのではないかという気がしたからである。

クルト・ヨースはStuttgart Academy of Music在学中、そこで教鞭をとっていたルドルフ・フォン・ラバン(Rudolf von Laban)に師事した。ヨースはラバンとともに活動し、ラバンのダンサー兼アシスタントを務めた。その後、彼は自分のカンパニー、Neue Tanzbuhne(後にFolkwang Danzbuhneとなる)を設立し、エッセンを拠点にダンサー、芸術監督、またバレエ教師としても活動した。

1933年、ドイツでナチ党政権が成立すると、ヨースとカンパニーはイギリスへ逃れた。ヨースはそこでラバンと再び活動をともにするようになり、またBallets Joossの名前で世界中を公演して回る。終戦後の1949年になってヨースはエッセンに戻り、Folkwang SchoolとFolkwang Danztheaterを再建した。Danztheaterは後に消滅するが、1962年にヨースはピナ・バウシュ(Pina Bausch)と新カンパニー、Folkwang Danzstudioを設立し、1968年に第一線を退いた。

この「緑のテーブル」は、舞踊記譜法の一種であるラバン式ノーテーション(Labanotation)によって記録された最初の作品であるという。Labanotationはラバンが考案・確立した舞踊記譜法で、ラバンの残した最も偉大な業績であるといわれている。ロンドンにあるLaban Centre(ラバンが設立した舞踊関係の専門大学)を卒業したマシュー・ボーンなども、おそらくこの記譜法を用いているだろう。

キャスト。死:新村純一、旗手:福原大介、若い兵士:王益東、若い娘:鈴木美波、女:上之恵民、老兵士:東秀昭、老母:小平浩子、戦争利得者:新田知洋、兵士たち:友杉洋之、小濱孝夫、芝田剛、女たち:周防サユル、厚木彩、平井有紀、岩崎祥子、伊藤万里絵、黒服の紳士たち:東秀昭、新田知洋、友杉洋之、小濱孝夫、福村大介、王益東、芝田剛、小平浩子、上之恵民、厚木彩。

幕が上がると、ピアノが軽快な曲を奏ではじめる。舞台の中央に細長い緑色のテーブルが置かれていて、テーブルを挟んで黒い裾長のスーツを着た10人の人物(黒服の紳士たち)が向かい合っている。彼らはマスクをかぶっているが、それはみな禿げ頭で、ふさふさしたカイゼル髭を生やしている。

彼らは両手や拳を振り上げ、またテーブルの上に足をかけたり飛び乗ったりして、喧々諤々と議論を交わしている。またテーブルを中心に横に並んで一斉に同じ仕草をし、それから1人ずつ相手方と組んで言い合いをしたり、半ばケンカ腰で相手につかみかかる。

これは相手の国と会談する政治家たちを戯画的に描いたものである。マスクをかぶっているので、戯画的な雰囲気がいっそう際立つ。今回はダンサーを観に来たのではないけれど、ダンサーたちの動きや仕草があまりなめらかでなく、タイミングも不揃いなのが気になった。

10人の人物を踊るダンサーは、男性が8人、女性が2人である。これは1932年の初演時に男性ダンサーの数が足りなかったので、女性ダンサーを2人紛れ込ませ、更にそれを目立たせないためにマスクをかぶることにしたのだそうだ。また音楽も、当初はオーケストラが演奏する予定だったのが、パリのコンクールで用意された臨時のオーケストラに演奏させるより、作曲者のCohen自身がもう1人のピアニストと組んで演奏することにしたという。

政治家たちはテーブルの左右にまた横一列に並ぶ。彼らは優雅にお辞儀をしたかと思うと、双方が一斉にピストルを取り出して相手側に向ける。その手を高々と上にさしだした瞬間、パン、と銃声が響く。開戦が決定したらしい。

舞台の中央に「死」が現れる。「死」は古代ローマみたいな鎧と兜を身につけ、顔は白くて頬骨の下と目の周辺を黒く塗っている。つまり死神メイクである。「死」は舞台の中央に立ったまま、拳を握った両腕を直線的にぶんぶん振り回し、床を荒々しく踏み鳴らすような動きをしたり、両脚を外側に曲げた姿勢でかがんで移動したり、また立ったまま足だけを機械的に小刻みに動かす。

そこへ大きな白い旗を持った兵士(旗手)が大きくジャンプしながら現れる。やがて兵士たちが同じようにして次々と集ってくる。旗手が旗を大きく振り回すのがきれいだった。また1人の兵士(若い兵士)が現れる。彼に恋人らしい女性(若い娘)が追いすがる。頭を布で包み、長いワンピースを着ている。彼と彼女は別れを惜しむように踊る。女性はすべてオフポワントである。

兵士たちの家族らしい女性が次々と現れる。やはり頭を布できっちりとくるみ、色違いの長いワンピースを着ている。年配の女性(老母)と妻らしい女性(女)が悲しげな表情で、両手を横に差し出しながら兵士を見送る。嘆き悲しむ女性たちと兵士たちの後ろで、「死」が無表情に腕を振りながら足踏みをしている。

黒い帽子をかぶった男(戦争利得者)がやって来る。彼は行進していく兵士たちを満足そうに見送り、ずるい軽薄そうな表情を浮かべ、帽子を振りながら兵士たちの後ろ姿に向かってお辞儀をする。それから男は泣き伏している若い娘に目を付け、彼女を上から見下ろして、彼女の上に覆いかぶさるようなポーズをとる。

兵士たちが戦っている。2人一組になって踊るため、ダイナミックな動きが多い。男同士のリフトもあって、1932年のこの当時、すでに男が男をリフトしたりサポートしたりというアイディアはあったのですね。その中で、1人の兵士がもう1人の兵士の膝の上に乗り、反動をつけて後ろ向きのまま大きくジャンプする動きは面白かった。

何人もの兵士たちが弱りきって倒れている。「死」が現れて手を振る。その都度、兵士たちは力尽きたようにバタバタと倒れて死んでいく。

そこへあの黒い帽子をかぶった男が再びやって来る。彼は倒れている兵士たちを見て狂喜し、兵士たちの死体の上をまたいでピョンピョン飛び跳ねる。ふと彼は1人の兵士の死体に近づき、死体の指から指輪を抜き取ってじっと見つめ、それを手にして姿を消す。

再び女性たちが現れる。そこにはあの年老いた女性も若い女もいる。彼女らは家族を失ない、一様に悲愴な表情を浮かべている。年老いた母親は正面を向き、両腕を横に広げて体を斜めにかしげたままである。この作品は、ダンサーのポーズや仕草や配置がすごく絵画的である。もしかしたら、"Dance Macarbre"にこういう様式があるのかもしれない。

舞台の横にスポット・ライトが当たり、うずくまっていた「死」が身を起こす。「死」が身動きをするたびに女性たちは恐れおののく。だが「死」は年老いた母親を穏やかな仕草で差し招く。母親は「死」に近づき、「死」は彼女をゆっくりと抱き上げると、静かに去っていく。

この「緑のテーブル」は、戦争に巻き込まれた人々の死に様を描いた作品である。興味深いのは、人々が死ぬときの「死」の表情、動き、仕草を、死ぬ人々に合わせて変えてあるところだった。兵士が死ぬ場面では容赦なく、残酷に、母親が死ぬ場面では優しささえ感じられるように穏やかに、といった具合である。「死」を踊った新村純一はいつも無表情なんだけど、雰囲気が物悲しいというか、「死」が泣いているような感じがした。たぶん真面目で優しい人なんだろう。

母親が死んだのを見た若い娘は絶望して泣き伏す。黒い帽子をかぶった男が彼女に近づく。彼女は起き上がる。男は彼女の背後から操るように手を動かす。彼女は人形のような動きで歩き出す。男がその後について去っていく。

夫を失った赤いワンピースの女が、白い長い布を振り回しながら現れる。彼女は厳しい表情でジャンプし、また身を潜めて、向こうを睨みつける。兵士たちが疲れきった様子で、背を丸めながら行進してくる。彼女は意を決したように立ち上がり、最後を歩いていた兵士に白い布を巻きつける。兵士は倒れる。

彼女の周りを他の兵士たちが取り囲む。やがて彼女の前に3人の兵士が並び、銃を構えるように両手を組む。彼女はゆっくりと倒れる。「死」はそれを見届けると、彼女の手を取って立ち上がらせ、その背中を支えながら姿を消す。

歪んだ音色のワルツが流れる。長く垂らした髪に花を挿し、フリルのついたドレスを着た女たちが、兵士たちと一緒に踊る。黒い帽子の男があの若い娘を伴って現れる。彼女は髪をさばいている。表情のない顔に髪の毛が垂れ下がっている。

若い娘は相手のいない兵士たちと次々に踊る。ここの振りが面白くて、棒のように四肢を硬直させた娘を兵士が抱え上げて振り回し、また娘は手足の曲がらない人形みたいに兵士とワルツを踊る。最後に残った兵士が舞台の中央に立つ。彼と重なるように、その後ろに「死」が顔をのぞかせる。

彼女は兵士に向かって両腕をさしだして歩いていく。兵士も彼女に近づく。しかし彼女は兵士にではなく、その後ろにいた「死」の腕の中に入る。「死」は彼女を抱きしめ、彼女はゆっくりと倒れる。「死」は横たわった彼女の体を優しく撫で、彼女の体に顔を埋めるかと思ったら、いきなり顔を上げて正面を凝視する。かなり異様で不気味だ。

黒い帽子の男がまた軽薄な様子で姿を現わす。だがその前に「死」が立ちはだかり、また男の背後に回って、威嚇するように手を上げる。男は途端に怯えた顔つきになって逃げ出す。これは何を意味しているのかよく分からない。今はおいしくても、いずれ相応の報いを受けるよ、ということか。

汚れた旗を持った兵士が1人で座り込んでいる。その背後にはやはり「死」が隠れている。「死」は兵士と一緒に旗を持ち、彼の肩を抱えて、一歩一歩踏みしめるようにゆっくりと行進する。彼らが再び姿を現わすと、その後ろに死んだ兵士たち、母親、若い娘が続いて歩いてくる。兵士たちは力なく脚を振り上げ、母親と若い娘は顔と体をこわばらせて正面を向いたまま横に歩く。こういうところも絵画みたい。

旗を持った「死」を死んだ人々が取り巻いて歩く。"Dance Macarbre"の完成である。そこへ旗手が元気よくジャンプして現れる。しかし「死」が手を上げると、彼の表情は苦しげなものとなる。死んだ人々が横に並んで前に歩いてくる。旗手は体をかがめてうずくまる。死んだ人々も旗手の横で体をかがめ、そして彼らは一斉に立ち上がって前を見つめる。

冒頭で流れたコミカルで明るい音楽が流れる。でも少し悲しげな音色も入っている。再び緑のテーブルを挟んで、黒いスーツにマスクをかぶった10人の人物が議論を交わしている。彼らは最初と同じように踊り、テーブルの左右に横一列に並ぶと、ピストルを取り出して一発パンと撃つ。

が、彼らはピストルを胸のポケットにしまうと、後は何事もなかったかのようにたたずむ。戦争は終わったのだった。

作品名の「緑のテーブル」とは、大きな会議で使われたテーブルは緑色であると当時いわれていたことに由来するという。この作品は戦争への批判をテーマとしている。作品だけをみるならば、この作品における演出や表現には、いかにもお約束的なものが多いという印象を抱いてしまうだろう。時間の経過という現実からくるハンディキャップは克服しがたい。

しかし「緑のテーブル」の時代背景、クルト・ヨースがドイツ人であり、この作品をつくったのが1932年であるという点はどうしても無視できない。ヨースの娘で、今回の公演で振付指導をしたアンナ・マーカード(Anna Markard)は、「当時は第一次世界大戦後で、すでに新しい勢力が第二次世界大戦に向けて準備をしていると考えられ、政治的に活気づいていた時代でした」と語っている。

1932年はナチ党が議会で第一党となった年であり、ヒトラーはこの翌年に首相となっている。そうなると、ヨースが戦争批判をテーマに選んだ理由や、この作品が1932年のパリの国際コンクールでグランプリを取ったというのもうなずける。ナチ党の台頭に最も危機感を抱いていたのは、ドイツの隣国だったろうから。

ナチ党が政権を握ってドイツ第三帝国が成立した後、ヨースは他の多くの芸術家たちと同様、外国へ活動拠点を移した。ナチ党政権が徹底した排斥と徹底した賛美という方法で、芸術に介入したのは周知の事実である。1932年における彼の危惧は現実的なものであり、平和主義者を気取った芸術家が、安全な場所から浅薄な戦争反対を訴えたのではないだろう。

カーテン・コールは寂しかったが、今回は同時に上演した作品の選定がまずかったのだから仕方がない。演目を適切に選定しさえすれば、もっと盛り上がったカーテン・コールになっただろうに。実にもったいない話である。

でもカーテン・コールのために幕が上がった後、いるはずのダンサーたちの姿はそこになく、緑のテーブルの上に、脱ぎ捨てられたマスクだけがずらりと並んでいた。観客は大笑いし、はじめて生き生きとした反応を示した。あの演出はいい。コミカルな感じと同時に、かすかな虚しさが漂っていた。これにめげずに、また再演して下さい。

(2005年7月2日)


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