Club Pelican

NOTE 22

Matthew Bourne's "Highland Fling"

(2005年6月26日)

マシュー・ボーンの「ハイランド・フリング("Highland Fling")」を観に行ってきました。この作品は「ナットクラッカー!」(1992年)と「白鳥の湖」(1995年)の中間に作られたもので、初演は1994年です。ちょうど「白鳥の湖」の1年前に当たります。この作成時期から、どんな作品か大体予想はつきました。だからこそ観に行く気になったのです。案の定、久しぶりに私の好きなタイプのボーン作品を観ることができました。

主なキャスト。ジェームズ(James):ジェームズ・リース(James Leece);エフィー(Effie):ハンナ・ヴァッサロ(Hannah Vassallo);ガーン(Gurn):リー・スマイクル(Lee Smikle);マッジ(Madge):友谷真実(Mami Tomotani);シルフ(The Sylph):ミュレーイ・ノイ・トルマー(Mireille Noi Tolmer)。

ロンドン公演やイギリス・ツアーでこの作品を観た方々から感想は聞かされていました。「『白鳥の湖』の習作」という表現です。終演後、初めてこの作品を観た友人も、まったく同じ表現を使ったので、私はかなり驚きました。

私も同じ印象を持ったのですが、まあ確かに似ているけれど、それは何らこの作品の価値を貶めるものではありません。同じ振付家がほぼ同じ時期に作ったんですから、テーマや振付に共通した部分が多くなるのは当たり前です。

「ハイランド・フリング」が作品名となっていますが、「マシュー・ボーン版『ラ・シルフィード』」というほうが正確です。ボーンがこの時期に集中して行なっていた古典バレエの"retell"に属する作品で、ストーリーの大まかな流れや演出は、「ラ・シルフィード」と意識的に対比させて構成されています。

開演前にずっとスコットランドのフォークソングが流れていて、第一幕の冒頭と途中でも時おり挿入されます。冒頭はクラブのシーンなので、原曲の音楽が始まる前に、いきなり電子パーカッション音がすごい大音響で鳴り響きます。

この作品では、シルフはドラッグ中毒であるジェームズの幻覚の産物です。ジェームズは「ハイランド・フリング」というクラブのトイレで、こっそりとドラッグを飲みます。そこへシルフが壁の上から中を覗き込んでニタ〜リ、と笑います。シルフは灰色の顔に目元が黒ずんでいるメイクをしていて、スコットランド風デザインの薄汚れた白いドレスを着ています。髪は真っ黒で白い細い紙くずみたいなものがたくさん付いています。

シルフはジェームズに好意を持った様子で、クラブや彼の住んでいるアパートに姿を現すようになります。でもそれは粘着質な不快なつきまとい方です。シルフは不気味な笑いを浮かべ、首、両腕、体をぐんにゃりと奇妙に動かし、突然現れてはジェームズを驚かせて飛び去る、ということを繰り返します。古典の有名なシーン、ソファーでまどろむジェームズにシルフィードが近づくあの場面も、不気味にアレンジされた形で再現されています。

彼女は人間の生活に興味を抱き、ジェームズの部屋で人間の日常動作の真似事をします。シルフのアイロンかけは面白かったです。しかしジェームズに咎められると癇癪を起こし、部屋の中の物を次々とひっくり返して姿を消します。部屋に入ってきた人々は、ジェームズがドラッグのせいで暴れたと思い込みます(実際そうなのですが)。

最初はジェームズが一人でいるときにしか見えなかったシルフは、徐々に他の人々がいる前でも姿を現し、いつのまにか彼らの中に紛れ込んでいます。ジェームズを好きになったシルフは、彼とエフィーとの結婚式にも現れ、エフィーと腕を組んでいるジェームズを挟んで、自分もちゃっかりと花嫁のつもりで並びます。エフィーの花嫁のヴェールがうらやましいのか、シルフはタータンの布地を頭からかぶり、歯を見せて笑います。

マッジはドラッグの売人で、しかもジェームズのことが好きです。彼女はエフィーに嫉妬し、トランプ占いをしてみせ、エフィーの運命の相手はジェームズの友人のガーンだ、という結果を出します。またマッジはジェームズを自分に繋ぎ止めておくために彼にドラッグを与え、ジェームズのドラッグ中毒はひどくなっていきます。

第一幕は主にマイムによる演技が多いですが、クラブのシーンでの群舞はパワフルでした。バレエの動きがメインの踊りになっています。この作品は「白鳥の湖」ほどにはバレエの動きに改変が加えられておらず、分かりやすい踊りが多いです。

またところどころにスコットランドの伝統舞踊(Highland fling)が取り入れられていました。みんなで並んで、両脚を揃えて足踏みするようなステップの踊りです。あと、ケネス・マクミランの「ソリテイル("Solitaire")」の振りも採用されています。「ソリテイル」もイギリスの民族舞踊を元に振り付けられた作品です。またマクミランは名前から分かるとおりスコットランド人です。これはうまい使い方です。

第一幕の最後、ジェームズは窓の外を飛んで過ぎて行ったシルフの後を追い、ついに窓から飛び降りてしまいます。たぶんここで現実のジェームズは死んだのでしょう。ドラッグ中毒による幻覚で。

休憩時間はずっと風の吹く音や鳥の声など、森の中の効果音が流れていました。でもなんだか博物館とかの効果音みたいで、特に必要ないのではないかと思いました。

第二幕の場面は森の陰の廃材置き場で、シルフの群舞で始まります。ここでは「白鳥の湖」のスワンたちの群舞のオリジナルというべき動きがたくさんありました。衣装もメイクもよく似ているので、つい重なって見えてしまいました。シルフには女ばかりでなく、男のシルフもいます。ちゃんと白いキルト・スカートを穿いていて、スカートの前飾りもあるのが笑えます。

この群舞は回転やジャンプなど激しい振りの踊りが多く、特にバレエの動きが目立ちました。でもシルフたちはみな裸足です。これらの踊りには特に意味がなく、振付も似たような動きをひたすら繰り返すので、やや冗長な感もありました。こういう点では、長期公演には向かない演目でしょう。ロンドンでさえ公演期間が1週間ぐらいしかなかったのも頷けます。

ジェームズはシルフの仲間に入れてもらおうと、必死でシルフたちの踊りの真似をします。何度もシルフたちにダメ出しをされながらも、ジェームズは努力してなんとかシルフの仲間として認められます。ここでシルフとジェームズは結ばれます。廃車の中で。ジェームズが車の前シートに座り、シルフが壊れたフロントガラス部分から下半身をさし込んで、恍惚とした表情で体をゆっくりと動かします。

ジェームズとシルフの「愛の踊り」で、かわいらしいウサギやフクロウのぬいぐるみが、ちょこちょこと出てきたのはご愛嬌でした(笑)。

シルフたちは一心同体なのです。みなが同じ感覚や感情を共有します。シルフがジェームズと結ばれたとき、他のシルフたちも床に寝転んでスカートの裾をまくり上げ、同じような恍惚とした表情を浮かべます。シルフたちのこの習性が悲劇を招きます。

みなでジェームズを愛するシルフたちは、みなで寄ってたかってジェームズの体に触りまくってはうっとりします。しかしジェームズにはそれが気持ち悪く、彼らを拒否します。シルフもジェームズに怒って去ってしまいます。ジェームズは何かを思いつきます。彼は大きなハサミを手に取ると、それを広げて彼女の後を追います。

やがてジェームズが血まみれの二枚の羽根を手に戻ってきます。シルフも続いて歩いてやって来ます。その背中は血にまみれています。彼女は力が抜けて倒れこみます。ジェームズは血まみれの自分の手を見て、やってはならないことをしたと何となく気づきます。シルフも何かがおかしいと感じています。しかしジェームズはシルフを無理に抱き起こし、シルフも無理に踊ります。

ジェームズは、自分がシルフたちの仲間に入ることは拒否して、逆にシルフを人間にしようとして彼女の羽根を切ってしまったのです。自分がされて嫌なことを他人にはする。ジェームズは実に身勝手です。

血だらけで踊っていたシルフはついに死んでしまいます。他のシルフたちが彼女の死骸をどこかに運んで行きます。怒りに燃える仲間のシルフたちがジェームズに詰め寄ります。ジェームズは絶望したように頭を抱えて倒れ伏します。

舞台が暗転すると、場面はジェームズがかつて住んでいたアパートの部屋です。エフィーがソファーに座って物思いに耽っています。そこへ彼女の夫となったガーンがやって来て、彼女に飲み物を手渡し、優しく彼女の頭を抱き寄せてキスをします。その窓の外にシルフの姿をしたジェームズが現れます。彼は無表情に部屋の中を覗き込み、そこで幕となります。

ダンサーはいずれもすばらしかったです。まさに精鋭部隊を引き連れてやって来た、という感じです。振付の特徴上、バレエを主なバックグラウンドとするダンサーがほとんどだったようです。特にシルフ役のトルマーは、演技といい踊りといい、文句のないすばらしさでした。去年の「ナットクラッカー!」では、彼女はシュガー役を踊りました。そのときは物足りなく感じましたが、今回ばかりは1年でよくこんなに成長したなあ、と感心しました。

手足の動きの線はきれいだし、動きのスピードもタイミングもツボにはまっていました。小柄ながらもスタミナがあり、動きが敏捷で鋭く、まさにいたずらな妖精というか邪悪な妖怪という感じがよく出ていました。

演技ではニヤ〜ッと不気味で邪悪さの漂う笑顔を浮かべたかと思うと、突然機嫌を損ねて凄まじい目つきと表情で暴れまくり、近づいたかと思うといきなりぱっと逃げていくなど、終始なにを考えているのかまったく分からない、妖怪的なシルフをうまく表現していました。

また感嘆したのが、ジェームズに羽根を無残にも切り取られた後のトルマーの演技でした。羽根を切り取られたシルフが妖怪から人間になっていたのです。シルフは不安そうで悲しげな、実に人間らしい表情を浮かべ、何が起こったのか分からないながらも、ジェームズに寄り添って、人間らしい動きでとぼとぼと歩きます。彼女の顔の白いメイクは涙で落ち、白と肌色がごっちゃになったみじめな有様になっていて、なおさらかわいそうです。

でもシルフは妖怪ではなくなりましたが、かといって完全な人間でもないのです。シルフはうつろな表情で、ふらつきながら今までどおり踊ろうとしますが、その体から徐々に力が抜けていき、ぱったりと倒れて死んでしまいます。

カーテン・コールでは、このトルマーに最も大きな拍手が送られていました。これはまったく正当な評価だと思います。

ジェームズ役のリースも、あれだけタフな踊りを最後までよくこなしていました。ほっそりした長身でスタイルが良く、踊りはダイナミックだけど丁寧できちんとした動きでした。

この公演後にマシュー・ボーンのトーク・ショーが予定されていましたが、ボーンは家族の人が急病になったので、急遽イギリスへ帰国したそうです。よって、代わりにボーンとこの作品の共同ディレクターを務めるエタ・マーフィット(Etta Murfitt)、リース、アダム・ガルブレイス(Adam Galbraith、ジェームズ役の一人)、トルマー、友谷真実が参加しました。

まずエタ・マーフィットによって、「ハイランド・フリング」の沿革が説明された後、観客との質疑応答に入りました。その中で出された興味深い質問をいくつか挙げておきます。

(問)ジェームズは婚約者もいてそんなに不幸そうな境遇には思えないのに、なぜドラッグに走って悲惨な最期を遂げてしまうのか。(答)ジェームズは失業中で、現在と未来の自分の生活に大きな不安を感じていた。

(問)シルフは妖精なのにグロテスクな感じがするが、それはどうしてか。(問)妖精にも色々あって、愛らしい妖精もいれば邪悪な妖精もいる。それにこの作品の悲劇的な結末には、シルフをあのような不気味な姿にしたほうがふさわしかった。

(問)第一幕の最後で、ジェームズは窓から飛び降りたとき死んでしまったのか。そうするとあの第二幕はどう理解すればいいのか。(答)ジェームズが飛び降りてから地面に落ちるまでの一瞬に見た幻影だと思ってもいいし、飛び降りたジェームズをシルフたちがキャッチして森に運んで行ったのだと考えてもいい(観客から「ほお〜」と納得の声)。これはジェームズを担当するダンサーによって解釈が異なるので、一概にはいえない。(ガルブレイス)僕は毎回落ちて死ぬのは嫌なので、後者のように解釈したい(会場笑)。

(問)最後の場面、死んで自分もシルフになったジェームズが、結婚したエフィとガーンの生活を窓からのぞくのはどうしてか。(答)死んでいなければ自分が営んでいたのかもしれない生活が、果たしてどんなものだったのか知りたかったのだろう。

(問)最も疲れるのはどの場面か。(答)第二幕の廃棄物置き場のシーン。ほとんどの時間、ずっと走り回っている上に、更に激しい振りを踊りっぱなしなので。

(問:14歳の女の子)自分も将来ニュー・アドヴェンチャーズの舞台に出たいが、どうすればいいのか(会場から拍手が起きる)。 (答:友谷真実)たとえば"Dance Europe"や色々なダンス・サイトのオーディション情報をチェックして、オーディションを受ける。自分の場合もオーディションを何度か受けた。それからは以降の作品にも出演の打診が来るようになった。

(問)マシュー・ボーンのどういうところが好きか。(答)とても気さくな雰囲気で、高飛車に命令したりしないし、ダンサーと対等の立場で付き合い、ダンサーの意見やアイディアにも熱心に耳を傾けてくれる。(他のダンサーたちもみな同意の声を上げる。)

トーク・ショーが終わった後、当日の舞台に出演したダンサー全員が会場のロビーに現れ、観客とのおしゃべり、サイン、写真撮影に応じていました。これは終始節度が保たれた、実に和やかな雰囲気の中で行なわれました。

これほど親切にサービスされると、ウィル・ケンプのこの日の出演予定をあえて変更したニュー・アドヴェンチャーズ側の行為や、やむを得ない事情とはいえ、責任者のマシュー・ボーンが帰国してしまった間の悪さは払拭されたでしょう。

観劇後、一緒に観た友人たちと私とは、「ボーンよ、初心に帰れ」という意見で一致しました。観劇前から予想はしていましたが、「ハイランド・フリング」は実に丁寧に作られています。

ストーリーの組み立てはしっかりしており、登場人物のキャラクターや彼らの行為の動機は、深く掘り下げて解釈された上で表現されています。また演出は巧妙で、ダンサーの出方や配置は工夫され、振付は素朴ながらも一生懸命に考え尽くされた緻密さを感じさせます。最も大事なことには、真面目さというか、誠実さというか、とにかく真摯な姿勢と雰囲気が伝わってきました。

マシュー・ボーンは、コマーシャリズムとは無縁な、クリーンなイメージを前面に押し出しています。ボーン個人や彼の作品に対して、非難をまったく加えることなく、彼を絶対的に支持して崇拝するファンが多いのは、主にこのクリーンなイメージによるところが大きいと思います。

でも実際のボーンが全面的にそうかといえば、私は疑問に思わないでもないのです。彼は2001年の暮れ、アドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズを脱退し、ニュー・アドヴェンチャーズを新たに結成しました。

ボーンはアドヴェンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズのプロデューサーであったカザリン・ドレが、営利優先に走ってボーンの創作活動を妨げたことを脱退の理由として明かしました。カザリン・ドレはこのことでボーンの熱狂的なファンの恨みを買ってしまいました。

しかしボーンはその一方で、ドレなんぞとは比べものにならない、ウエスト・エンドにおけるまさに最高権力者たちと一層強固に手を結び、また彼らを通じてハリウッドやブロードウェイとの太いパイプを持っているのです。それはボーンの最近の振付活動を見れば一目瞭然です。

ニュー・アドヴェンチャーズは現在、世界各地で「白鳥の湖」、「ナットクラッカー!」、「プレイ・ウィズアウト・ワーズ」のツアーを行なっています。またマシュー・ボーンの作品は初演だろうが再演だろうが、ありとあらゆる賞を文字どおり総なめにしています。なぜボーンに限ってこうもすんなりと、順調すぎるくらいに事が運ぶのか、私には不思議でならないのです。

去年の冬にイギリスで再演されたボーン版「白鳥の湖」に対して、「タイムズ」紙は五つ星の評価を付けたそうです。この批評家はおそらくデボラ・クライン(Debra Craine)でしょう。イギリスで最も権威ある批評家の一人です。

しかし、そのイギリス公演をこなしたメンバーが参加した、この春の「白鳥の湖」日本公演は、はっきりいって惨憺たる出来でした。こんなに能力の低いダンサーばかりが出演している舞台のどこに五つ星の価値があるのだろう、と私は疑問に思いました。

いまや、ボーンの作品を正面切って批判できる批評家はどこにもいないのでしょう。ボーンは、「白鳥の湖」までは作品の価値によって名声を勝ち取ってきましたが、それ以降は名声によって作品の価値を認められている面が大きいことは否定できないと思います。

私が感じるのは、「白鳥の湖」で振付家としてのマシュー・ボーンは頂点を極めたということです。「シンデレラ」(1997年)、「ザ・カー・マン」(2000年)あたりから、彼は一種の行き詰まりを感じて、なんとか新しい道を開こうとしたのだと思います。その結果、ボーンの振付は、なるべく踊りらしい踊り(特にバレエ)を排除し、中身よりも見た目の新奇さで人の目をくらませる、という性質が濃くなってしまいました。

「プレイ・ウィズアウト・ワーズ」(2002年)は、振付能力の限界を指摘されたくないボーンがひねり出した苦肉の策的な、「ダンスに新たな可能性を切り開いた作品(デボラ・ブル〔Deborah Bull〕の表現)」だったと私は思います。ちなみにデボラ・ブルはアーツ・カウンシル・イングランドの理事の一人です。

ボーンは今年の暮れから来年にかけて、新作「シザーハンズ」を発表する予定のようです("EDWARD SCISSORHANDS"、22 Nov-5 Feb、Sadler's Wells Theatre)。この作品がどんなものになるのか、大いに興味があります。この新作によって、ボーンが振付家としてこれからどこへ行こうとしているのか、判断できると思うからです。

(「不定期日記」2005年6月26日原載)


2005年7月8日

よりによって、ロンドンであんな事件が起きた翌日の公演を観ることになった。今日は東京の駅も警察官、警備員が多く配置されていた。この公演の会場である東京芸術劇場(池袋)にも、今日ばかりは警備員があちこちに立って目を光らせている。

主なキャスト。ジェームズ(James):ウィル・ケンプ(Will Kemp);エフィー(Effie):ハンナ・ヴァッサロ(Hannah Vassallo);ガーン(Gurn):フィリップ・ウィリンガム(Philip Willingham);マッジ(Madge):ミュレーイ・ノイ・トルマー(Mireille Noi Tolmer);シルフ(The Sylph):ケリー・ビギン(Kerry Biggin)。

当日のキャストが記された大きなボードが、入り口の外にでん、と置いてあった。これはめずらしい。入り口の横にある当日券売り場にも、紙のキャスト表が貼り付けてある。

この前とはほとんど違うキャスティングだったのでまず嬉しかった。しかもケリー・ビギン、フィリップ・ウィリンガム、ミュレーイ・ノイ・トルマーと、観るのが楽しみな人ばかりが出演するではないですか〜。上記の他にも、この前ジェームズ役をやったジェームズ・リース(James Leece、Robbie役)も出る。最高だ。

中でも最も意外だったのはウィル・ケンプで、この日にケンプが出るとは知らなかった。やっぱりケンプの出演予定日は完全にシャッフルされたらしい。私には幸運だったけど、でも他の日にケンプが出ると思ってやって来たら、違うキャストが出ることになっていた、という思いをした人はかわいそうだ。

私はケンプが事前に自分の出演予定日を発表したのはすごく偉いと思う。自分のファンのことを思いやっての行動だから。なのに、キャストを前もって発表しないことで、チケットをまんべんなく売りさばくという方針の下に、それを変更したニュー・アドヴェンチャーズ側の行為には感心できない。作品に自信があるなら、キャストが誰だろうが客は集まってくるはずだ。

誰か1人のスター・ダンサーを用意しておいて、しかもそのスターが出演する日がいつなのかは発表できない、なぜなら当日のダンサーたちのコンディションによって決めるから、というのは、ニュー・アドヴェンチャーズ側がいつも用いる論法である。

でも常識的に考えてみても、そんなことあるわけない。じゃあなんで、ダンサーたちは自分の出演予定日を知っているんだ?それにペアを組むダンサーは大体決まっていて、それに応じて他のダンサーたちの役柄も決まってくる(1人のダンサーが2〜3役を受け持っている)のに、「当日のコンディション」でいきなり決めたりしたらダンサーたちは大混乱だ。

このカンパニーは、外面はすごくリベラルでヒューマニスティックなイメージを強調している。しかしその一方で、おそらくは収益を最大限に上げるためだろうが、こういうことを平気でやる。ケンプはそれをなんとか打開しようとしたが、結局はカンパニーの意向に従わざるを得なかったのだろう。

会場のロビーでは、「リピーター券」と称して、S席13,000円が8,000円で販売されていた。私は今回はチケット会社を通じてチケットを買った。どこもS席は売り切れでA席以下が余っていた。リピートして通うファンはいい席を買うものだから、これはそのせいなのだろうと思っていた。でも本当は残っていたS席の多くは、主催者側のギリギリの譲歩として、期待を裏切られたケンプのファンに低価格で提供するため、リピーター用に回されたのかもしれない。

客席はいささか奇妙な埋まり具合で、1階前半分の列の両サイド席は観客でびっしりと埋まっているが、センター席には相当数の空席があった。後ろ半分の列は、両サイド席が空いていてセンター席が埋まっている。そしてなぜか前半分の列のセンター席の観客は、開演時間ギリギリに、または開演してからやって来た。

前半分の列のセンター席、両サイド席のセンター寄りに座っていた観客には、浴衣姿の女性客が目立った。今日は浴衣を着るには寒い日なのに、と思った。でも終演後になって、なぜ浴衣姿の女性客が多かったのか分かった。この日の公演の終演後、「浴衣パーティー」が開かれることになっていたのだ。

場内アナウンスによると、リピーター券を買った人が、その「浴衣パーティー」に参加できる。パーティーには、キャストたちも浴衣を着て参加するというのである。ロンドンは今ごろとんでもない状態になっているはずだ。なんだかキャストたちがかわいそうだった。よりによってこの日に、そんなことをさせられるなんて。

この席の埋まり方からみるに、前半分の列のセンター席、また両サイド席のセンター寄りのチケットは、少なくとも「リピーター券」の購入者、招待客、そしてこれは推測だが、(その日に出演するキャストを確認した)当日券の購入者に割り振られたのだろう。一般販売では、おそらくいい席はあまり出ていなかったのだと思う。

上のようなことを考えると、これだから日本の舞台興行界はイヤなんだ、と思えてくる。こんなことをやっているのはこの公演だけではない。「危険な関係」もそうだった。

私は13回もあの公演を観た。うち12回分のチケットはすべて、主催者側が公演4ヶ月前に行なった「先行予約」で購入した。しかし、ただの1回も前列のセンター席には当たらなかった。ところが、公演の2日前に主催者からチケットを買ったら、前列のセンター席が手に入った。外国の有名ダンサーや有名バレエ団の日本公演だって同じだ。日本のチケット販売システムには奇妙な習慣が多すぎる。

気を取り直して舞台のことに話題を変えましょう。私は生ウィル・ケンプの踊りをきちんと観るのは、これが初めてである。「兵士の物語」に出ていたケンプは何度か観た。でもあの作品では、ケンプはほとんど踊らないし、あとは共演者が揃いも揃ってあの面子だったから、特に強い印象は残らなかったのだった。

「ハイランド・フリング」を作品として楽しむのは、私にとっては前回で充分だった。それで今回は、ダンサーたちの踊りや演技に集中することにした。ウィル・ケンプ演ずるジェームズが、トイレの扉を開けて出てきたときの第一印象は、おお、大きい、目立つ、というものだった。これは期待できる。さすがに存在感がある。

ケンプの演技はよかった。表情が非常に豊かで、仕草も自然で分かりやすく、しかもタイミングのツボを心得ており、物語の展開やジェームズの性格や心境がよく分かった。ケンプの演技には全体としてユーモラスな雰囲気が漂っていて、ところどころで笑いが起きていた。ジェームズがシルフたちの真似をして、ピョンピョン飛んでみせる場面とか。こういうところは、この前のジェームズ・リースにはなかったものだった。

ウィル・ケンプの踊りには、やはりクラシック・バレエの要素を強く感じた。身体的な素質にも恵まれているようで、脚がどのダンサーよりも高く上がっている。ケンプの動きは、基本的に速くて鋭い感じである。敏捷に動いているというよりは、機敏に対処していると表現したほうがいいように思える。

ただし、彼の演技も踊りも、さほど目が釘付けになるというほどではない。特にジェームズ・リースがケンプの傍で一緒に踊っていると、背格好も踊りのスタイルも似ているために、衣装は違うのにどっちがどっちだか分からなくなるときがあった。

ケンプは1人で舞台に立ってスポット・ライトを浴びていると確かに目立つのだが、大勢の登場人物の中や群舞の中に入ると、なぜか途端に目立たなくなってしまう。そのせいか、リースが一緒に踊る場面では、ケンプが最前面の中央、リースは最後方の隅っこで踊っていた。

というわけで、ウィル・ケンプの特徴がおおよそつかめた。ケンプは確かに「バレエ界の貴公子」である。ただしあくまでマシュー・ボーンのカンパニー、そしてボーン作品の中においてのみ。容姿、踊り、演技などの面で、総合的にニュー・アドヴェンチャーズの他の男性ダンサーたちに抜きん出ている。ボーンがケンプを多くの作品で主役に起用しているのは正しい選択である。

この公演を観る前は、ウィル・ケンプはアダム・クーパーと比べてどうかな、と思っていた。だが終演後は、アダム・クーパーとウィル・ケンプとは、結局、比較のしようがない、と思った。クーパーとケンプを、同じ土俵に引き込んで論じることはできない。あまりに違いすぎるので、比較の対象にならない。

まず年齢が違う。キャリアも違う。これはクーパーとケンプの最新の履歴紹介を比べるだけで充分である。プログラムに掲載されているケンプの履歴を読んで、主催者側のはしゃぎぶりとケンプの実際の履歴との落差に驚いた。私はケンプの履歴については、あまりよく知らなかった。そして最も決定的なのは、クーパーとケンプの踊りは見た目も質も完全に違う、という明白な事実である。

先日に観た公演でシルフを踊ったミュレーイ・ノイ・トルマーが、今日はマッジ役として出演していた。やっぱり彼女の踊りは他のダンサーよりも全然いい。腕の動きがしなやかで、ジャンプは軽くて、速い動きであっても丁寧で、手足が流れるような美しい線を描いている。

それに、前はかわいくて不気味なシルフを見事に演じていたのに、今回は目尻をとんがらせたきつめのメイクに鋭い視線で、バリバリ悪女全開であった。よくここまで演じ分けができるものだ。トルマーは第二幕でシルフの1人として踊るだろう。彼女のシルフの踊りが観たくて、第二幕はトルマーが出てくる度に彼女の姿を目で追っていた。メイクと衣装はみな同じだけど、踊りを見れば一発で分かる。

トルマーのシルフを最初に観て強い印象を抱き、彼女のシルフ像が私の脳内に定着してしまった。よって、ケリー・ビギンのシルフは物足りなかった。「ナットクラッカー!」でビギンのクララを観たときには、そのあまりなかわいさときれいな踊りに見惚れたのだけど。それだけトルマーの成長が著しかったのだろう。そのトルマーがシルフ役のファースト・キャストでないのは、ぶっちゃけ彼女が白人でないからだと思う。

このへんの問題については、あるインタビュアーがボーンに質問をぶつけたことがあった。ダンサーの人種、体型、容姿に拘らない、というのがニュー・アドヴェンチャーズの売りの一つだ。でも実際には、彼らが前面に押し出すダンサーはほとんどが白人で、あとは辛うじて「淡い色の」有色人種が、主役のセカンド・キャストか準主役にありつけるのが実情である。

フィリップ・ウィリンガム君も、相変わらずの芸達者でした。彼はとにかく変化自在の表情と仕草で笑わせてくれる。ジェームズ・リースも第一幕ではジェームズの友人、第二幕では男のシルフを踊っていた。彼はジェームズ役の一人でもあり、今回もさすがに見ごたえのあるダイナミックで端正な踊りを披露していた。

ウィル・ケンプは、その場その場で踊りを上手に見えるように処理している傾向があるようだ。それは彼なりの持ち味であり、また工夫なのだろうが、時に表面的にごまかしているという印象を与える。特に動きのゆっくりした踊りになったときは、ケンプの踊りの不安定さがはっきりと出る。ジェームズ・リースは、動きの素早さや鋭さではケンプに及ばないし、動きもいささか重さを感じさせるが、それでも堅実にきちんと踊っている。

後でバレエを長年やっていた人に聞いたら、ケンプの体型と彼の踊りに、ケンプがダンスの練習から遠ざかっていた影響が出ているそうだ。まずケンプの体型は以前より太くなっていて(太っているという意味ではない)、特に大腿、ふくらはぎがぶっくらと太くなっていた。これはダンスの練習から遠ざかったことで、筋肉が弛緩してふくらんでしまったのだという。

また彼の踊りには、「白鳥の湖」や「ザ・カー・マン」の頃のようなしなやかさがなくなっていて、これもダンスから離れていた影響だろうということだった。ケンプの踊りには随処で「見得を切る」ような特徴があって、これは彼のバック・グラウンドがバレエであることを示している。実際に彼のダンス・スタイルは典型的なクラシック・バレエなので、バレエを続けていればかなりいいところまでいけたはずだ、とこの人は評していた。

最後に作品について。前の回では第二幕のシルフたちの群舞にはあまり意味がない、と書いた。だがシルフたちの動きで、その場にいないあのシルフの気持ちが示される場面がいくつかあった。このアイディアと演出は実にすばらしい。

走り去ったシルフを追ってジェームズも舞台脇に姿を消した後、舞台にはシルフたちが残される。彼らはふたりが去った方向をみつめながら、両手で胸を押さえて体を大げさに震わせる。シルフたちはあのシルフと感情を共有しているので、彼らの仕草によって、シルフのジェームズに対する恋心が激しくなったことが分かるのである。その後、シルフとジェームズが腕を組み、親密な様子で再び姿を現わす、という仕組みである。

ジェームズが大きなハサミを手に持って、再びシルフを追って走り去ると、その直後、他のシルフたちは一斉に後ろを向き、背中を押さえながら苦しそうな表情でしきりにもがく。これによって、あのシルフがジェームズに羽根を切られ、彼女が激痛を感じていることが示される。そして血に染まった羽根を持ったジェームズが、ついで背中が血で真っ赤に染まったシルフが、泣きはらしたかのような悲しげな顔をして、呆然とした表情で現れる。

それからシルフとはいったい何なのかについて、ある方から興味深いご教示を頂いた。「ハイランド・フリング」でのシルフたちのメイクは、ピーター・ライト版「ジゼル」でのウィリーたちによく似ており、シルフたちも若くして死んだ人間であることを暗示しているのではないか、ということである。なるほど、と思わず手を打った。

そう考えると、ラスト・シーン、ジェームズがシルフの姿で現れることが納得できる。シルフたちは最初から妖精や妖怪だったわけではなく、ジェームズと同じように不幸な死を遂げた人間の若者たちだったのだろう。彼らは生きていたときも不幸だったが、死んだ後も森の陰の廃材置き場で、グロテスクで滑稽なダンスを毎夜繰り広げているのだ。ユーモアたっぷりの演出で飾られているが、「ハイランド・フリング」は絶望的に悲惨な物語である。

(2005年7月9日)


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