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Notes 2

「アダム・クーパーのバレエの質」

アダム・クーパーは、「世界的に有名なダンサー」だという。地元のイギリスでは、最も知名度の高い男性ダンサーだろうといわれている。これはもちろん、ボーンの「白鳥の湖」の大成功によってもたらされたものである。

今までに書いたとおり、彼はロイヤル・バレエ時代には、さして評価が高かったワケではなかった。批評家、そしてロイヤルのファンの彼に対する評価は、常に「留保が付けられた」ものだったという。とはいえ、この時からすでに彼に目を付けていた人々もいた。マシュー・ボーンもその一人だが、ボーンはクーパーの力強さ、仕事への知的な取り組み、そしてモダンの振付への高い適応性を主に評価していた。一方、あるバレエファンの人は、クーパーはキャラクターやモダンよりも、ロマンティックの方が、彼の本質に合っているのではないか、と指摘しており、その慧眼には恐れ入る。こういう人が当時からいたのだ。彼を知って全然日が浅い私も、同じ感想を持っている。「黒鳥」や「オネーギン」のおかげで、クーパーは悪役がはまり役、というイメージが定着している。彼自身も「悪役を演じるのは楽しい。普通のありきたりな人間を演じるなんてつまらない」と言っていた。私はこのセリフに彼の強がりを感じて、ちびっと痛々しい気持ちになる。まだ彼にとっては、ロイヤル現役時代はトラウマなんだなあ。

バレエ・ダンサーとしてのクーパーについては、色々と面白い意見が多い。ある新聞には、「彼はいったい何者なのか?バレエ界の貴公子か?演劇界のタップ・ダンサーか?ピンナップか(笑)?俳優か?」と書かれたり、ある掲示板には、「アダム・クーパーのバレエの質について」というスレが立てられて、「彼は正統的なバレエ・ダンサーではない」と書き込まれたりしている。ロイヤル・バレエの元プリンシパルで、現在でも主役をはってるのに、彼はバレエ・ダンサーか否か、などという以前な議論が出る人も珍しいだろう。良心的な古参バレエファンにとって、彼はバレエの伝統から外れ、芸術を理解できない無知蒙昧な輩(たとえば私みたいな人間)が、神聖なロイヤル・オペラ・ハウスへ闖入する事態を招いた犯人なので、そのことへの反感に由来してるらしい中傷もたくさんあるけど。

とはいえ、クーパーのバレエについては、批判はまずまず一致している。まず、テクニックの不完全さ(というか「無さ」)、そして女性ダンサーのサポートの下手さである。たとえばクーパーのサポートについては、「まるでレスリング」などとよく書かれている。新聞に掲載されるバレエの批評文は、段落構成の形式、つまりどういう順番で、どういうことを、どのくらいの字数で書くか、という形ばかりか、ダンサーの踊りを賞賛、批判する語彙がある程度決まっているらしい(たとえばアダム・クーパーについてなら、「セクシー」とか「男性的」とか「存在感」とかいう単語を必ず入れる)。ついでにダンサーへの評価も(その公演で出来が良かろうが悪かろうが)予め決まっているようなので、クーパーの踊りに関して、いつも同じことが書かれているのは、このせいもあるとは思う。ただ、ここまで一致するのは、やはりそれらしい根拠もあるのだろう。

そこで、偉大なバレエ・ダンサー、といわれる人たちの映像をいくつか観てみる。ルドルフ・ヌレエフ、ミハイル・バリシニコフ、ファルーフ・ルジマートフ、イレク・ムハメドフ、ジョナサン・コープ。あと、ウラジーミル・マラーホフ、熊川哲也、アンヘル・コレーラ、イーサン・スティーフェル、カルロス・アコスタ、ヨハン・コボー、などなど。この人たちは、超一流バレエ・ダンサーで間違いないんでしょう?もちろん人によって好き嫌いはあるでしょうが。

クーパーが出ているバレエの映像(ごく僅かですが)や、私が実際に観た公演の記憶と、上に挙げた超一流バレエ・ダンサーの踊りとを比べてみよう。違いは明白である。クーパーが「テクニカルではない」というのも、どういう点を指しているのか分かる。まず、身のこなし、動きである。クーパーには、独特のもたつきとのろさ、ぎこちなさ(に見えるもの)がある。動きのなめらかさも、上記のダンサーたちには及ばない。そしてジャンプはあまり高くなく、見た目の滞空時間も短い。そして、この人はおそらく、バレエ・ダンサーにしては、体がもともとかためな方だろう。たぶん両足は、完全にスプリットできないだろうし、そう高くも上げられないんだと思う。「彼はバレエに適した身体ではない」と何度か書かれているのを目にしたが、これはこのことを言っているのかな。ポーズ、姿勢にも独特のアクというか、クセがある。一目ですぐに、クーパーだ、と分かってしまう特徴だ。

それから女性ダンサーのサポートである。これも、特に女性ダンサーを持ち上げるときだが、よいしょっ、と力を入れているのが分かるときがある。いかにも重い荷物を持ち上げている、という動きだ。リフトでは観ている方に重さを感じさせないのが必須条件の一つとされているだろう。また、女性ダンサーを持ち上げたときに、特に足ががくがくっと揺れているときもある。これは、異常に足が長いあの体型では、仕方ないことなのかもしれない。男性ダンサーの体型は、ほどほどの身長、ほどほどの長さの足で、しっかりと踏ん張れる方が有利なのだろう。

それに、リフトが連続するとき、一瞬「間」が空くときもある。ボーンの「白鳥の湖」映像版でもそういう箇所があるのだが、フィオナ・チャドウィックがそれを上手にカバーしている。あの映像版で、一番踊りがすばらしいのは、クーパーよりはむしろチャドウィックだと思うんですが。チャドウィックを女王役としてボーンに推薦したのはクーパーである。彼はチャドウィックと踊るのが好きで、彼女のロイヤル引退公演でも相手役を務めた。仲が良かったんだろうけど、あるいは彼女と踊れば、自分の欠点がカバーされることを知っていたのかもしれない。

ここまで読んで、アダムの悪口ばっかじゃん、と、すごいイヤな気分になっている方もいると思う。ごめんなさい。だけど、アダム・クーパーが手厳しい批評を受けることがあるのは、彼がやはり容赦なく批判していいほどの、高度なレベルを持つダンサーだからだ。明らかに弱い相手をいじめたりはしないでしょ?強いからいじめるのである。こんなことを言ってはいけない、と分かってはいるけど、ちょっとだけ言わせて下さい。彼が踊ったのと同じ作品を、他のダンサーが踊ったのを観た。そしたらクーパーがどれだけすごいかがよく分かった。だけど、そのダンサーの悪口を大っぴらに言おう、なんて人はまずいないだろう。そのダンサーは、明らかにまだ発展途上で、批判すべき対象ではないからである。

クーパーの女性ダンサーのサポートだって、クーパーを間近で見てよく知っているボーンが、上記の批判とはまるで正反対の評価をしている。ボーンによれば、クーパーは稀にみる頼りがいのあるパートナーだ、というのである。そしてクーパーと踊った女性ダンサーは、誰もがクーパーのことを全面的に信頼するのだと。これって、実はいちばん大事なことじゃないのか。そういえばサラ・ウィルドーも、以前同じようなことを言っていた。クーパーはみなの「踊りたい男ナンバー・ワン」なんだって。

それに、これらの批判は、あくまで「バレエ独特の評価基準」に照らし合わせるとどうか、ということに過ぎない。どんな評価基準でも、それは本質的で絶対的な優劣を決めるものなんかではない。評価基準は、本来は一定していないものだ。時代とともに、また場所によって、極端な場合には個人の主観、更に極端な場合には、その時の気分によって、くるくる変化する。こういう評価基準があるのは仕方がない。でも、それが一時的で不安定なものなんだということを少しも考えず、なぜか自分自身が「バレエの神様」になったつもりで、ダンサーをけなす人々が、どんなに多いことか。クーパーは、バレエの「正統」からは、ちょっと外れたダンサーだ。こういう人は、「バレエの神様」であるつもりの人々にとっては、格好の攻撃対象になる。

批評ばかりを読んでると、私もいつのまにか、彼らと同じ視点に立ってしまう。とても影響されてしまう。批評の恐ろしい点はこれだ。でも落ち着いてよく考えてみると、「テクニックのない」アダム・クーパーが、スタイルと顔の良さだけで、ここまでやって来られるものだろうか?顔と体だけのダンサーをプリンシパルにするほど、ロイヤル・バレエは甘ちょろいカンパニーなのか?マシュー・ボーンの見る目はいーかげんか?じゃあ、アダム・クーパーの「白鳥」に、今でも多くの人々が感動するのはなぜだろう?ロイヤル・バレエが、クーパーを第一キャストとして呼び戻したのは、ただ単に話題作りとチケットを売るためだろうか?それなら、彼の「オネーギン」に、観客があれほどな大喝采を浴びせたのは、どういうことなのか?ロイヤル・バレエの客席の8割は、「ロイヤル友の会」会員が占めているんだよ?みなさんがクーパーの踊りを観た時に感じる、あの不思議な魅力、圧倒的な吸引力は、確かに存在するのである。

私はずっと、これをどう表現したらいいのか分からなかった。今も分からないんだけど、あえて言うなら、あのもたつき、のろさ、ぎこちなさ、不完全なラインと技術、それがそのまま彼のすさまじいばかりの魅力になっているのだ。あの重さ、それと分かる力の不器用な移動、重力に逆らい、ムダと知りつつそれでも高く飛ぼうとする試み、必死で身体を曲げようとする努力、そしてそのために死にものぐるいな練習を重ねてきただろうこと、あのかったるさ、だるさ、肌の暖かみを感じさせるような人間くささが、とてもきれいで美しいのだ。

たとえば、クーパーが「ドン・キホーテ」で、バリシニコフのような踊りをしていたとする。私はクーパーを好きにはならなかっただろう。自分でもなぜか分からないし、本当に不思議なのだが、私は、いわゆる「超人的なテクニック」には、結局はあまり興味が湧かない。一回目に観たときはすごいと思うが、二回目以降は慣れて感動がなくなってしまう。私はこの「慣れ」が、バレエ・ダンサーに対する技術上の要求が、ますます人間離れした、苛烈なものになっていく原因じゃないかと思っている。もしくはただ単に、私がバレエの真髄を理解できない、愚昧な人間だからかもしれないけど(くれぐれも、私がバリシニコフを軽侮している、などと誤解しないで下さいね。超絶的技術に優れたダンサーの例として、挙げただけですよ!)。

ある人がこう言っていた。ボーンの「白鳥の湖」にハマっている人というのは、とても傷つきやすい人が多いのではないか、とりわけ「白鳥」アダムの方が好きだという人は特にそうだろう、と。私はこれを聞いて、なるほど、と妙に納得した。私も「黒鳥」のアダムの方が好きだ、という人は、何の心配もいらないと思う。あんなバカバカしいほどお約束にかっこいいキャラクターが好き好き〜、という人は、とても元気。でも、「白鳥」アダムに没入してしまう、というのは、繊細で優しい、内気な人が多いだろう。私はといえば、黒鳥かっこい〜→白鳥うっとり→両方同程度、というハマリ過程を経てきた。両方同程度、というのは、私は今のところ、気持ち的に元気なときには、黒鳥が好きで、「アダムかっこい〜」とか思ってる。でも落ち込んでいるときには、白鳥ばかりをいつまでもぼーっと観ている。こんなときには、ああ、私は今ヘコんでいるんだな、だから「白鳥さん」(アダムではなく)に助けてもらっているんだな、と何となく思いながら見つめている。

「二つのキャラクターを完璧に演じ分け・・・」などとは陳腐な誉め言葉だが、問題は(おーげさですが)、たぶん、「黒アダム」が好きな人は、アダム・クーパーが好きなんであって、「白アダム」が好きな人は、アダム・クーパーよりは、「白鳥」というキャラクターそのものに、救われているような気持ちになっているんではないか、っていうことだ。かっこいいアダム・クーパーが好き、大きくて優しい白鳥が好き、一粒で二度おいしい、といえばちょっとズレているだろうか。けど、一つの作品で、一気にチガうタイプのファンを同時に生み出しちゃう、っていうのは、やっぱりすごいことだ。

ロイヤル現役時代のクーパーの踊りは、私は映像に残っているものしか知らない。96年に収録された、ボーンの「白鳥の湖」映像版は、観た人の多くがクーパーをホメている。これが収録された数ヶ月後には、クーパーはロイヤルを退団している。しかし私には、ロイヤルを退団してから現在に至るまで、彼の踊りは、格段に進歩している気がしてならないのである。バレエを踊る機会や回数は、ロイヤル現役時代に比べれば、遙かに少なくなっているはずだが。「白鳥の湖」映像版でのクーパーは、こう言ってはなんだが、まだ危ういところがある。さっき書いたように、チャドウィックのすばらしい踊りと、そしてスコット・アンブラーの演技や臨機応変なサポートに、かなり助けられていると思う。

今年の3月にクーパーが来日した際、私は彼のクラシック・バレエを観られるのを楽しみにしていながらも、失礼なことだけど、失敗しないできちんと踊ってくれるといいな、と侮っていたところがある(批評ばかりを読みあさるのはよくありませんね)。ところが、意外にスマートで上手だった(ごめんなさい)ので、いい意味で驚いた。オレ様はスゴイんだぜ、という押しつけがましさも、「ワタシは芸術のしもべ」という、寒い自己陶酔も皆無であった。あくまで振付には忠実で、自分をアピールするために振付を崩したり、はみ出そうとは絶対にしない。非常に丁寧にきっちり踊っていて、とても好感が持てた。そこにいるだけで個性が滲み出てしまう人だ、という印象があったから、彼が個性を抑えて完璧にその作品中の人物になってしまうとは、思いもしなかった。ただしサポートについては、どう贔屓目に見てあげても「レスリング」なところが一部あった(「七つの大罪」とか)。

ところが、この前の「オネーギン」を観て、私は今度は、サポートちゃんとできてるじゃないか、なにが「レスリング」だよ!?と驚いた。踊り自体も、これが自分の踊りだ、無理にごまかすつもりはない、という自信があるようだった。私はこれはもう開き直ったな、と思ったのだが、ジャンプする時、たぶんもっとできるはずなのに、明らかに力を押さえ気味にして、足もさほど開かないのである。それは一見すると、かったるくてやる気がないんじゃないか、と思われかねないものだった。実際に、私の隣に坐っていたオバさんは、軽く舌打ちして、「彼はまったく・・・!」とつぶやいていた。でも、見せ場で、ここはハズすとまずい、というところでは、見事にきっちり決めるのである。「名作劇場」でも書いたけど、第一幕最終場で、後ろ向きにジャンプしたときの彼の動きがどんなに流麗だったか、後ろに反り返った彼の左足が、どんなに美しい曲線を描いて、弓なりにしなっていたか、みなさんに伝えられないのが口惜しいくらいです。

彼はロイヤルを退団してから、一年半ほどバレエから完全に離れていた。彼はその当時、バレエに復帰する意志はなかったらしい。ところが、スコティッシュ・バレエの「ホフマン物語」のタイトル・ロールを踊ることになり、バレエの練習を再開した。それは「死闘だった」という。そうしたブランクもあったし、優れた教師のレッスンを受け、舞台に上がって実践を重ねる機会は、絶対的に少なかったはずだ。なのに彼の踊りがよりよいものになったのは、それこそ大変な努力を重ねて、ここまでにしたに違いないのである。そして、ボーン版「白鳥の湖」で勝ち取った高い評価と観客の大きな支持が、彼の自信に繋がったのだと思う。自分に対する自信が、どんなに人を劇的に変えるかのいい例だ。とはいえ、ロイヤルに在籍していた時が、体力的にはピークだっただろう。今後クーパーが、一部のバレエ・ファンや批評家たちのお眼鏡に適うような、「テクニカルなダンサー」に変化することは、まずあり得ない。

しかし彼の踊りは、自分の欠点を自覚して、それを改善しようと必死に努力してきたが、でも上手にできない自分に対するもどかしさ、それでも一生懸命に練習を続けている忍耐強さ、そして、でもどうしてこんなことをしなければならないのか、型にはめられなければならないのか、という疑問など、相反する複雑な葛藤が、そのままにじみ出てしまっているものだ。この人は、表向きの態度ほど、大人しくて素直な性格ではないと、私はニラんでいる。割と頑固で、自分が納得できないことや、疑問に思うことは、頭では分かっていても、本当は妥協できていないのが、踊りに出ているのだと思う。そして私には、彼のこのような踊りが、たまらなく美しくて、そしてこの上なく人間らしいと思えてならないのである。

(2002年9月25日)

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女性バレエ・ダンサーの体型と体重


彼女はソロ・ダンサーとしての契約を得た。
だから、彼女は好きなものを、好きなときに食べることは、もうできないだろう。
これは私たちのアンナにとっては難しいことだ。
なぜなら、彼女はとても食い意地が張っているから。
ああ、もし彼女が契約にしがみついてさえくれるなら!
なぜなら、フィラデルフィアの人々は、カバなんか要らないのだから!
毎日、彼女は体重計にのせられる。
おお、もし彼女が1グラムでも増えていたらどうしよう!
そのとき興行主たちは、自分たちの方針を申し渡すだろう。
「52キロが我々の買ったもの。52キロが彼女の価値。」
これ以上の災いはない!

ちょっと恥ずかしいですが、それっぽい引用から始めるという、気取ったマネをしてみました。ベルトルト・ブレヒト「七つの大罪」の一部です。生意気でごめんなさい。でも一度やってみたかったんですう。

家族が住む家を建てるため、ルイジアナから一人で出稼ぎにやって来たアンナが、アメリカの七つの都市を、七年かけて渡り歩き、金を稼いで故郷へ帰る、という話である。彼女は文字どおり自分の身ひとつで金を稼いでいく。彼女が仕事を辛いと感じたり、少し休みたいと思ったり、自分の境遇に怒りを感じたり、貧しい青年に恋心を抱いたりすると、故郷で待っている彼女の家族が、それは大きな罪悪であると嘆いて叱りつける。みなさん想像がついたでしょうが、何の躊躇も疑問もなく、娘一人に家を建てる資金を稼がせようという家族こそが、実は「七つの大罪」を犯しているのである。上の一段は、まともな食事がしたいと願うアンナに対する、家族の手前勝手な言い分の一部である。

アンナは家族の言うままに金を稼ぎ続ける。が、その一方で家族の要求や自分の境遇に不条理さを感じざるを得ない。しかし彼女は、家族の価値観に同化した自分を「姉」(アンナ1)と呼び、辛さや疑問を感じる自分を「妹」(アンナ2)と呼んで、自分自身を二つに分断してしまう。そして、アンナ1が絶えずアンナ2を叱咤激励する、という形で、正しい疑問や当然の不満を感じる自分を抑えつけるのである。これ、70年前に書かれたテクストですよ。すごいですね。

このまえテレビで、バレエのローザンヌ・コンクールを観た。解説を聞いていて気になったのは、体型を云々することが多いことであった。姿勢とか動きではなくて、体型である。これは以前の解説者も同じであった。

バレエでは、体型についても一定の基準があることは分かったが、それにしても、少しやりすぎではないかとも思った。特に、見た目に太っているか否かについてである。

ある女の子について、解説者が「少しぽっちゃりし過ぎています」と言ったのである。原語でどう表現していたのかは分からない。でも要するに太っているということだろう。ところが、私は彼女をぽっちゃりしている、とは思いもしなかったので、これを聞いて、え、どこが?と意外に感じた。

これには前から興味があった。今年の冬にたまたま、アメリカの女子体操と女子フィギュアスケート界の内幕を取材した本を読んだ。それによれば、女子体操と女子フィギュアスケートでは、体型が採点対象(!)になっており、もし太っていると判断されれば、減点されるというのである。それも、その理想的体重とやらが、あまりに無理な要求としか思えない。身長140センチ代の、10代の思春期の女の子が、体重20キロ後半で「ブタ」とコーチから罵られ、「あと何キロ減らせば、何点あげるのに」と審判員から囁かれる。そのせいで、女子選手たちは、一日何時間ものハードな練習に加え、異常な節食、減量にも励むことになる。結果、体と心の健康をすっかり損ない、引退後もその後遺症に苦しんでいる選手や、果てに命までも失なってしまった選手がいるのだという。この本はまた、多くの女性バレエ・ダンサーも、同じような問題にさらされていることに言及している。

映画「センター・ステージ」の中にも、バレエ学校の優等生である女の子が、太ることを気にするあまり、食べたものを夜中にトイレで吐いてしまう、というシーンがある。また。別のある女子生徒は、「太りすぎ」を理由にバレエ学校の教師から退学を勧告されるが、その母親は「全然太ってなんかいないのに。こんなのっておかしいわ」と吐き捨て、娘をバレエ学校から家に連れ戻す。その彼女は、私からみても、別に太ってはいないように思えた。

また、決定的だったのが、サラ・ウィルドーの体型について、あちこちのサイトで、罵倒、皮肉、もしくはからかうような意見がみられたことだ。その中には、読む方が辛くなるような言葉や表現を用いているものもあった。なんであそこまで言わなきゃならないんだろう?とにかく徹底して容赦がないのである。相手がバレエ・ダンサーなら、その体型を好き放題にののしってもいいのだろうか?どうしてそんなに手厳しくなる必要があるのか。・・・本人が知ったら、どんなに傷つくだろう。

私はウィルドーの夫、アダム・クーパーの大ファンである。私が大好きなクーパー君の大好きな奥さんなら、やっぱり大好きだ。こういう批判を読むととても辛くなる。

その後で、AMPの女性ダンサーたちの体型が、ふくよかでぽっちゃりしている、という感想をいくつかのサイトで見た。共通していたのが、「やっぱり本物のバレエ・ダンサーじゃないから」とでも言いたげな、ビミョーに優越感を漂わせた語調であった。出番でない日に客席に坐っていた、AMPの女性ダンサーたちのほっそりした身体を思い出し、またまた暗〜い気分になった。それで何となく分かったんだけど、表現がひどかろうがソフトだろうが、その根にある考え方はおんなじもののようだ。

ウィルドーについては、私はその発端になった舞台を生で観た。正直言うと、最初、私も彼女が「ぽっちゃり」だと思った。が、舞台が終わった後、楽屋口で彼女を間近で見た。その時には、あまりの細さにびっくりした。足首なんて、今にも折れんばかりな細さであった。それで「ぽっちゃり」だと一瞬でも思ってしまったことを反省した。自分では意識してなかったけど、いつのまにかバレエ独特の価値観に同化していたようだ。その公演にはバレエファン以外の人々も多く来ていたようで、いろんなジャンルのサイトで、感想が多く書き込みされていた。面白いことに、そこではウィルドーの体型がどうの、という意見は特にみえなかったのである。そこの人たちは、まっとうな感覚を保っていたのだ。

思ったのだが、バレエ界において、女性のバレエ・ダンサーに要求されている、理想的な体型は、かなり異常なレベルになってるんではないか。前述の本の中に、女子選手に求められる技術が年々高度になり、従って危険度も増大していくのと同時に、選手の低年齢・低身長・低体重化がいよいよ進んでいるとあった。女性バレエ・ダンサーでは、要求される体型や体重の基準は、昔に比べてどう変化しているのだろうか?

19世紀初頭からから20世紀中葉にかけての、歴代の有名バレリーナの肖像画や写真と、今のバレエ雑誌に掲載されている、現役の女性バレエ・ダンサーたちの写真とを比べると、現在のバレリーナも、低体重化、というより極度の「痩身化」が進んでいるのではないかと思う。更に、今から三四十年前のバレエの映像を見ると、女性ダンサーは多くふくよかな体型をしている。この頃はこれでもよかったわけだ。

「痩身化」が恐ろしいのは、実際の体重が軽いかどうかは問題ではなく、あくまで見た目に痩せているかどうかが重要視されるだろうからである。「痩せている」基準は、時代とともにエスカレートする一方である。そうなると、体重自体はすでに軽くても、体が痩せてみえるのでなければ、また更にダイエットをして体重を落とさなくてはならない、ということになる。こうして減量に際限が無くなっていけば、その結果どういう事態を引き起こし得るか、想像しただけでグロテスクだ。

サラ・ウィルドーに関して言うなら、2000年、ロス・ストレットンが、アンソニー・ダウエルの後任として、ロイヤル・バレエの次期芸術監督に決定したとき、彼女は自分が、ストレットンの好きなタイプのダンサーではないだろうことを知っていた。その一番の理由が、自分の体型にあることも分かっていた。2001年の春、ダウエルの退任を数ヶ月後に控えた頃あたりから、彼女の体型の変化が、一部バレエファンの間で噂になった。

これだけ言えば充分だろう。彼女はどんなにか苦しんだだろうか。だからなおさら、彼女のことが痛々しい。彼女には何の落ち度もない。

ウィルドーは「太って」いて、AMPの女性ダンサーは「ぽっちゃり」だと感じてしまうのは、極度な痩身を理想とする、現在のバレエ界独特の価値観でものをみていることによるのだろう。私がそうなってしまったように。バレエは自然体で観て楽しめるならそれでいい、と考える人々がいる一方、バレエ界独特の価値観に同一化しなければ、バレエへの真の理解や陶酔はあり得ない、と考える人々がいるのも確かだ。しかしそれでも、踏みとどまるべき一線というものがあると思う。

一定水準の細い体型を維持するのはバレエ・ダンサーの義務、という考えもあるだろうが、その「一定水準」自体が健全な状態を保っているか、それともエスカレートした、歪んだ状態になっているのか、一度思い直す必要がある。女性ダンサーの鎖骨のすぐ下にあばら骨が浮き出ていて、太モモとふくらはぎがほぼ同じ円周であれば「美しい肢体」で、ちょっとでも肩が丸みを帯び、胸のふくらみがあって、太ももがふくらはぎよりも太ければ「太っている」というのは、成人女性の身体の特徴からいっておかしな考えである。いくらバレエ界独特の価値観があるにしても、ものには限度というものがある。バレエ界の中でメシを食ってく人は、その価値観に染まらざるを得ない。それは仕方のないことだ。だからこそ、外側からバレエを観ているに過ぎない人が、異常な価値観に対しては、一定の距離をとってもいいのだし、場合によっては「いいかげんにしろ」と一喝すべきだろう。

また、女性バレエ・ダンサーを太っていると批判する人々にしたところで、普段は自分の家族や友人や同僚の女性に対して、お前は太っている、などと言うことはまずないだろう。同じ思いやりを、女性バレエ・ダンサーにもかければいいだけのことだ。女性ダンサーであれば、体型について好き放題罵ってよいのだ、と考えるより、あんまりひどいことは言わないでおこうと考える方が、私たち自身も心が安らぐと思うのだが。

(2002年5月10日)


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