Club Pelican

NOTE 18

シルヴィ・ギエムの「愛の物語」 Bプロ
(2005年5月4日)

「三人姉妹(Winter Dreams)」は、振付はケネス・マクミラン(Kenneth Macmillan)、音楽はチャイコフスキーの作品、またロシア民謡をピアノ用に編曲したもの。編曲は主にフィリップ・ギャモン(Phillip Gammon)による。原作はチェーホフの戯曲「三人姉妹(英語名:Three Sisters)」(1900)。この作品は1991年にロイヤル・バレエによって初演された。

主なキャスト。マーシャ:シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)、イリーナ:イザベル・シアラヴォラ(Isabelle Ciaravola)、オリガ:ドルー・ジャコビィ(Drew Jacoby)、ヴェルシーニン:ニコラ・ル・リッシュ(Nicolas Le Riche)、クルイギン:アンソニー・ダウエル(Anthony Dowell)、ソリョーヌイ:アンドレア・ヴォルピンテスタ(Andrea Volpintesta)、トゥーゼンバッハ:ルーク・ヘイドン(Luke Heydon)、ナターシャ:シモーナ・キエザ(Simona Chiesa)、アンドレイ:マシュー・エンディコット(Matthew Endicott)、チェブトゥイキン:オリヴィエ・シャヌ(Olivier Chanut)、アンフィーサ:ニコール・ランズリー(Nicole Ransley)。

映像版ではギターによって演奏されている音楽があるが、この舞台では一台のピアノのみによって演奏される。演奏者はこの作品のオリジナルの音楽監修と編曲を務めたフィリップ・ギャモン本人である。舞台の奥に黒い紗幕が引かれ、その向こうの中央にはプローゾロフ家の食卓があって人々が談笑しており、左にはピアノが置かれてロシア士官の軍服を着た(笑)ギャモンが演奏している。

シーンの削除があった。酔っぱらったメイドが士官たちと戯れて踊るシーン、アンフィーサがソロを踊るシーン、それに続いて姉妹たちがアンフィーサの腰にまとわりついてふざけるシーンなどである。

振付にも変更があったようだ。マーシャとヴェルシーニンが別れるシーンのデュエットでは、ヴェルシーニンが回転ジャンプをして着地した瞬間に、その横でマーシャがグラン・ジュテをする振りが、ピルエットに変わっている。

映像版が見栄えの良いように作ってあるので、舞台で観たら物足りなく思うのではないかと予想していたが、この舞台を観てやはり非常に優れた作品であるという思いを強くした。ダンサーがすばらしいというよりは作品がすばらしい。

「目は口ほどに物を言い」というが、まさに「踊りは口よりも物を言い」とでもいうような、踊りのひとつひとつに意味がある。顔の表情とかマイムとかによるストーリー、登場人物の性格や心情、人間関係の説明よりは、踊りそのものによる表現のほうがはるかに雄弁にそれらを物語っている。

踊りの見た目だけがトリッキーで面白い、というのではない。クルイギンのソロ、アンドレイとナターシャの踊り、イリーナ、ソリョーヌイ、トゥーゼンバッハ3人の踊り、ソリョーヌイとトゥーゼンバッハの踊りはもちろんのこと、更には全員が入り乱れて踊りながら過ぎていくシーンにも、彼らの性格、気持ち、人間関係がはっきりと示されている。

映像版でもクルイギンを踊っているアンソニー・ダウエルは、なんというか、この人に代わるクルイギンを探し出すのは非常に難しいだろう。

映像版に比べると踊りのキレは弱くなったように感じたが、メガネをかけた下の目つきや微かにこわばらせた表情だけで、妻が他の男に心を奪われていることを知って複雑な心境になっているものの、しかしそれをはっきりと表に出せない不器用な夫、という人物像がはっきり分かる。他の人がクルイギンを踊ってもなんか物足りないと思う。こういう重みをもつ人が他にいるだろうか。

ヴェルシーニンを踊ったル・リッシュについては、私はこの人の何がそんなにすごいのかついに分からなかった。パリ・オペラ座バレエ団のエトワールだから、バレエの能力は世界最高水準に違いない。彼は確かに、丁寧にきっちりと、ヴェルシーニンのいろんな技が織り込まれた複雑なジャンプをこなしていたから。あと、ル・リッシュの今ひとつ押しの弱そうなヴェルシーニンは、私はムハメドフの押せ押せ一直線のヴェルシーニンよりも好きである。

でもムハメドフの技の豪快さや、彼の鉄壁テクニックの中に垣間見えるなめらかさというか優雅さが、ル・リッシュにはない。ロシアのバレエ・ダンサーの踊りには、いかに軟体であろうと超絶テクニックを誇ろうと、どこかもっさりとした人間らしさと、大らかな雰囲気とが漂っている。

ギエムとル・リッシュによるマーシャとヴェルシーニンの別れのパ・ド・ドゥは、ル・リッシュのサポートやリフトがぎこちなく、全体的にガタついていた。Aプロの「マルグリットとアルマン」では、あんなにも自然に軽々とリフトしていたというのに。マーシャとヴェルシーニンが並んで同じ振りを踊るところも、二人の動きが合っておらずバラバラだった。ここはいちばんドラマティックで楽しみにしていた踊りだったが、ちょっと肩すかしに終わった。

映像版でクーパー君がソリョーヌイを踊っているという個人的なこだわりもあるが、それを除いても、この公演のキャストの踊りや演技は映像版のそれに及ばないと思う。でも作品自体がすばらしいと思っていたので、その実際の舞台を目にすることができてとても嬉しかった。あと、最後の雪が降るシーンが実に美しく印象に残った。

次の「カルメン(Carmen)」は、振り付けはアルベルト・アロンソ(Alberto Alonso)、音楽はビゼーのオペラ「カルメン」を、ロジオン・シチェドリン(Rodion Shchedrin)がこのバレエのために編曲したものを用いている。初演は1967年、ボリショイ・バレエによって行なわれた。

原作はもちろんメリメの短編小説だが、メリメの原作とビゼーのオペラはストーリーがかなり異なっている。このバレエのストーリーはビゼーのオペラに沿ったものであり、更にそのストーリーよりは、ストーリーの中に含まれているテーマを抜き出して、それに肉付けを施していったものである。

「カルメン」全編は上演時間40分の一幕バレエであるという。この公演ではその抜粋版が上演された。が、時間はやはり40分で、どこが省略されたのか分からない。完全版には「三人の煙草売りの踊り」があったそうだから、こうしたディヴェルティスマン的な踊りが削除されたのかもしれない。

旧ソ連時代の1964年、ボリショイ・バレエのマイヤ・プリセッカは、自分がいつも同じ古典作品ばかりを踊っていることに焦りを感じていた。「わたしのバレエ人生は最後までこんなふうに、『白鳥の湖』だけで終わるのだろうか?不安と不満とがつのりだす。何か新しいもの、自分だけのものを作り出さなければならない。」(マイヤ・プリセツカヤ「闘う白鳥」、山下健二訳、文芸春秋刊)

プリセッカは以前から「カルメン」に興味を持っていた。彼女は自分でシナリオを書き、音楽をショスタコーヴィチ(←どひゃーっ!)に依頼する。しかしショスタコーヴィチは「ビゼーが怖いから」と言って断る。「オペラの音楽があまりにも馴染み深いので、どんな音楽を作曲しても聴く者を落胆させるばかりだ。あれは非の打ちどころのないオペラです。」(同上)

彼女は次にハチャトゥリアン(←どぱーっ!)に作曲の話を持ち込む。しかしまたも断られる。1966年、プリセッカはモスクワでキューバ国立バレエ団の公演を目にする。彼女はアルベルト・アロンソが振り付けたバレエを観て大きな衝撃を受け、即座に彼に「カルメン」の振付を依頼した。アロンソは彼女の頼みを承諾する。

プリセッカは旧ソ連政府の文化大臣に直談判し、「カルメン」の上演とアロンソに長期滞在ビザを発給してくれるよう頼む。ボリショイ・バレエで外国人の振付による作品が上演されることなどあり得なかった。しかし当時、ソ連とキューバとは、ソ連がキューバに大型ミサイルをプレゼントしようとするほど友好的な関係にあった。よってアロンソの招聘と「カルメン」の上演は許可された。

アロンソは振付とともにシナリオも書き直した。彼は「全体主義に服従せず、偽りの人間関係を強いる制度に従わず、歪みきったどちらつかずの道徳に支配されず、卑下すべき恐怖心にとらわれない自由な人間、生まれながらにして自由奔放な人間の悲愴な抵抗の物語として、カルメンの悲劇をとらえてほしい」(同上)とプリセッカに語ったそうである。

音楽はプリセッカの夫、ロジオン・シチェドリンが請け負うことになった。新曲ではなく、ビゼーのオペラを弦とパーカッションだけの小編成オーケストラ用に編曲することになった。振付とリハーサルが同時に行なわれているその横で、シチェドリンは実際の踊りを見ながら編曲の作業を進めた。こうしてわずか20日間で「カルメン組曲」と呼ばれる音楽が完成した。

1967年4月の初演は成功とはいえなかったそうだ。文化省の役人たちもボリショイ劇場の観客も、「カルメン」は「ドン・キホーテ」と同じような作品だと期待していたらしい。そのせいで2回目の上演が中止させられそうになった。

文化大臣は食い下がるプリセッカにこう言った。「出し物は未熟で、エロチシズムだけが目につきます。オペラの音楽まで台無しにされてしまいました。」(同上) 国家の強大な権力と圧力の下で生きている人間は、それなりに巧妙な処世術を身につけている。プリセッカとシチェドリンは、エロティックなシーンを削除するという妥協案を示した上で、上演中止が噂となればソ連政府の面子がつぶれることになる、と暗に大臣を脅してのけた。

そこで大臣も妥協して、不適切なシーンを削除して衣装を変える(「太股をむき出しにしないように、ちゃんとスカートをはいて」)という条件で、やっと2度目の上演を許可した。ショスタコーヴィチも文化省に電話して口添えしてくれたそうだ。

しかし、文化省はこの「カルメン」を海外公演で上演することを許さなかった。プリセッカはこれに抗議して、「カルメン」が演目から外されたボリショイ・バレエのカナダ公演に参加しなかった。彼女は様々なプレッシャーのため、一時的な失語症に陥るまで精神的に参ってしまう。

だがその後、ボリショイ劇場で「カルメン」は頻繁に上演されるようになり、1969年のボリショイ・バレエのロンドン公演では、削除されたシーンを復活させての上演が行なわれた。数年後にはモスクワでも削除なしで上演され、「カルメン」はボリショイ・バレエの人気レパートリーの一つとなった。

主なキャスト。カルメン:イザベル・シアラヴォラ(Isabelle Ciaravola)、ドン・ホセ:マッシモ・ムッル(Massimo Murru)、エスカミーリョ:アンダース・ノルドストローム(Anders Nordstrom)、ツニガ(ホセの上官):アンドレア・ヴォルピンテスタ(Andrea Volpintesta)、運命(牛):ドルー・ジャコビィ(Drew Jacoby)。

舞台の中央に黒い牛の顔が描かれた幕が下ろされている。牛の鼻穴は男と女を表すマークになっている。その幕が上がる。舞台のセットは変わっていて、舞台を取り囲むように半円形の木の柵が設けられている。

その上に背の高い椅子が定間隔でいくつも置いてあって、中央に女性二人、左右に男性たちが座って、無表情に柵の中を見下ろしている。舞台を闘牛場に見立てているらしい。アロンソがプリセッカに語ったところによると、この闘牛場は権力の「牢獄」だそうだ。

1966年にプリセッカが驚愕したアロンソの振付、ソ連政府の高官たちとボリショイ劇場の観客が度肝を抜かれたという「カルメン」の振付は、現在の私から見ると、これのどこがそんなにスキャンダラスなのか、衝撃的なのかと不思議に思えた。個々の振りはいずれもクラシック・バレエの要素が強く、ただ形式や演出が古典作品とは大きく異なるだけである。

牛の顔が描かれた幕が上がり、「恋は野の鳥」のメロディを用いた静かな前奏曲が流れ、それから激しい「アラゴネーズ」になってカルメンが踊る。カルメンは胸元が大きく開いた袖なしの黒いレオタードで、脚の付け根の裾からは長細い房飾りが垂れている。

カルメンを踊ったイザベル・シアラヴォラは、カルメン向きのラテン顔をしていて、艶っぽい風情を漂わせている。ここで出てきたのかどうかは忘れたが、ずっと見たかった前アティチュードのダブルかトリプルのターンを見ることができた。

「アルカラの竜騎兵」が始まり、軍帽にグレーの衣装のツニガとドン・ホセが出てきて、二人並んでおもちゃの兵隊みたいなカクカクとした動きの踊りを踊る。これは今から見てもかなり異様だ。まして40年前、ボリショイ劇場の観客はさぞやびっくりしたことだろう。

カルメンが出てきて「恋は野の鳥」に合わせて踊る。カルメンが去った後、ドン・ホセは軍帽を脱ぎ捨て、オペラの第三幕の前奏曲に合わせてソロを踊る。ドン・ホセ役のマッシモ・ムッルには不覚にも胸がときめいてしまった。爽やかなハンサム。背が高い。スリム。踊りがしなやか。表情が豊かでしかも自然。

「闘牛士の歌」が流れて、赤だったか金色だったかのキンキラ衣装を着たエスカミーリョが現れる。エスカミーリョを踊ったアンダース・ノルドストロームもダイナミックな踊りですばらしかった。カルメンは彼と踊るが、そこへ白いシャツにグレーのタイツ姿のドン・ホセがやって来る。カルメンとドン・ホセは「お前の投げたこの花は」のメロディに合わせて踊る。

1967年の初演時に問題視されて削除された部分とは、おそらくこのカルメンとドン・ホセとのデュエットだと思われる。これも今から見ると、別にたいしてエロティックではない。たぶん、カルメンがドン・ホセの体に脚を絡ませたり、ドン・ホセがカルメンの手に自分の手を重ねて、カルメンの胸を押さえたり(実際には触れない)する振りが、当時はショッキングだったのだろう。

次に頭まで包む黒い全身レオタードを着て、顔は真っ白く、目の周りだけを黒く塗った女性ダンサーが現れる。山海塾のモジ子バージョン、またはショッカーみたいな扮装である。死神かな?と思ったが、プログラムによると牛兼運命らしい。踊っているのはドルー・ジャコビィで、「三人姉妹」ではオリガを踊った。大柄でがっしりした体格で、最初は女か男か分からなかった。この運命のソロも異様な振付で面白かった。

オペラのトランプ占いの音楽が流れる。背の高い椅子が舞台に背を向けて4脚置かれている。ツニガ、ドン・ホセ、運命、エスカミーリョが座っていて、カルメンは舞台の中央でひとり踊る。そのうちカルメンは運命の座っている椅子の前に立ち、運命はカルメンの背後から覆いかぶさるような仕草をする。カルメンの死が決まった、ちゅうことですな。

カルメン、ドン・ホセ、エスカミーリョ、運命が一緒に踊る。カルメンと運命は、ドン・ホセ、エスカミーリョと交互に組んで踊り、カルメンはエスカミーリョの腕に飛び込む。次にエスカミーリョが運命(牛)をつかまえる。その間にドン・ホセはカルメンをつかまえ、彼女を刺し殺す。エスカミーリョがカルメンの運命をも象徴する牛を倒すと同時に、ドン・ホセはカルメンを殺すのである。これは面白い。

演出は抽象的だがいささか型にはまっていて、今となってはあざといという印象を持たれるかもしれない。しかし40年前の創作時における振付者(アロンソ)と振付を依頼したダンサー(プリセッカ)の周辺状況を考えると、こう表現せざるを得なかったのだろう。

当初、プリセッカは自分でシナリオを書いたのだが、オペラのプロットをなぞったものになってしまい、彼女は自分で「単純すぎる」と評している。アロンソは振付に先んじてシナリオを書き直し、このような作品に仕上げた。

アシュトンの「マルグリットとアルマン」で私が感じたのは、プリセッカが自分で書いた「カルメン」のシナリオに感じたことと同じである。オペラのストーリーを後追いして、その間に意味のない短い踊りを挟んでいるだけ。「椿姫」には「カルメン」と同じく、抽出できるテーマがいくらでもあったはずだ。

マルグリットが今まで自分が生きてきた価値観にそぐわない、真剣な愛情に直面して戸惑い迷う過程、アルマンの将来やその家族のことを思いやって、自分から身を引く決意をするに至る苦悩、アルマンから誤解されて侮辱されても、アルマンの父との約束を固く守り続けた心情など。

「カルメン」に話を戻すと、この作品は面白かったのでまた観てみたい。映像版が出てないかな。(追記:プリセッカが踊っている映像版があるそうです。ご教示頂きました。どうもありがとうございます。)

「田園の出来事(A Month in the Country)」は、振付はフレデリック・アシュトン(Frederick Ashton)、音楽はショパンの音楽をジョン・ランチベリー(John Lanchbery)が編曲したもので、ピアノとオーケストラによって演奏される。初演は1976年、ロイヤル・バレエによって行なわれた。

原作はツルゲーネフの戯曲だそうだ。読んだことがないので詳細は不明。もちろんこのバレエも以前に観たことはない。よってまったく予備知識がない状態で観ることになった。てっきりドラマティックな「三人姉妹」でトリを飾ると思っていたから、最後がアシュトンの作品というのは少し驚いた。この前の「マルグリットとアルマン」で、すっかり不信感が芽生えてしまったらしい。

キャスト。ナターリャ:シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)、ベリヤエフ:マッシモ・ムッル(Massimo Murru)、ラキティン:オリヴィエ・シャヌ(Olivier Chanut)、ヴェラ:小出領子、コーリア:アルベルト・モンテッソ(Alberto Montesso)、イスライエフ:ルーク・ヘイドン(Luke Heydon)、カーチャ:ニコール・ランズリー(Nicole Ransley)、マトヴェイ:トーマス・サプスフォード(Thomas Sapsford)。

上演時間はたぶん40〜45分ほどの一幕バレエである。この作品は一度も時計を見ないですんだ。とても面白かった。アシュトン、やればできるんじゃん。(←すみません)

舞台はイスライエフ家の夏の別荘。当主のイスライエフ、その妻ナターリャ、息子のコーリャ、養女のヴェラ、メイドのカーチャ、召使のマトヴェイがいる。ラキティンはイスライエフ家に出入りしている若者で、ナターリャにぞっこんである。ナターリャも彼に慕われてまんざらではない。夫のイスライエフは見るからに鈍感そうな男で、ひたすら新聞を読み耽っている。

シルヴィ・ギエムは演技派でもある。ナターリャは陽気で屈託のない若妻だが、気位も高い。彼女はラキティンのような若い男性から崇拝されることを喜んでおり、彼に気のある素振りをしては突き放す、という具合にラキティンを振り回して楽しんでいる。ナターリャが基本的にどんな性格の女か、冒頭のシーンだけでよく分かった。・・・「初恋」のヒロインに似てますな。作者が同じだとそうなるのか。

そこへラキティンの友人であるベリヤエフが現れる。ベリヤエフはナターリャの息子、コーリャの家庭教師としてイスライエフ家にやって来た。ナターリャは彼を一目見るなり、つい後ろを向いて戸惑った表情になる。彼に恋してしまったのだ。ギエム、ここの演技も絶品であった。

困ったことに、ナターリャの養女であるヴェラもベリヤエフに一目惚れしてしまう。メイドのカーチャも意味ありげな視線でベリヤエフをちらちらと見やる。息子のコーリャはベリヤエフにすぐになつく。ナターリャの夫であるイスライエフは、そんな女たちの様子に気づく気配もない。知らぬは亭主ばかりなり。

ところでヴェラ役の小出領子は、純和風な顔立ちなのに金髪のヅラをかぶらされていた。ヴィジュアル的にかなり無理がある。地毛でいいじゃないか。

ナターリャはラキティンに迫られ、今度は本気で彼を拒んでしまう。傷ついて去ろうとするラキティンに、ナターリャはあわててしがみつく、ということを何度も繰り返す。ベリヤエフもナターリャに心惹かれた様子である。ナターリャは彼に抱きしめられそうになって、迷いながらも彼をそっと引き離す。

ひとりになったベリヤエフにヴェラが近づく。ヴェラははっきりとベリヤエフへの恋心を露わにする。ベリヤエフはいったん戸惑うが、結局ヴェラを抱きしめる。それを見たナターリャは嫉妬に我を忘れて怒り、ベリヤエフを出て行かせる。

ナターリャは自分のベリヤエフへの恋心を押し隠し、母親面をして言葉巧みに(しゃべってないけど)、ヴェラにベリヤエフをあきらめるように説得する。しかしヴェラは言うことをきかない。感情的になったナターリャはヴェラを殴ってしまう(もっと後のシーンだったかも)。このへんでナターリャとヴェラの間に溝ができる。

一方、メイドのカーチャもベリヤエフに気がある。彼女は籠に入ったさくらんぼをつまんでベリヤエフの口に放り込み、ベリヤエフもあっさりと愛想良くカーチャと踊る。

ベリヤエフに悪気はないのだが、優柔不断で相手を拒むことができず、結果として八方美人になってしまうのである。それが災いの種をまきちらしている。しなやかで安定した踊りといい、自然で微妙な演技といい、マッシモ・ムッル君はほんとに魅力的なダンサーだねえ。

ナターリャはベリヤエフと本気の恋に落ちる。ナターリャは手にしていた花をベリヤエフのシャツに飾ってやる。彼らが強く抱き合ったところで、ヴェラがそれを目撃してしまう。ヴェラは怒って二人を引き離し、大声を上げて(フリだけね)みなを呼び集める。ヴェラはみなにナターリャとベリヤエフとの仲をバラす。

メイドのカーチャは思わず女主人への反感を露わにする。夫のイスライエフは驚いてナターリャを問いつめる。途端にナターリャはのらりくらりとした態度になって、ヴェラが嘘をついているとせせら笑う。ラキティンはそんな一家の様子を冷静に見つめている。

ラキティンはベリヤエフを説得し、彼らはイスライエフ家を去ることにする。ナターリャは部屋でひとり泣いている。いつのまにかベリヤエフが戻ってくる。が、ベリヤエフは顔を伏せて泣いているナターリャに気づかれないよう、彼女のドレスについている長いリボンにそっと口づけをし、彼女からもらった花を床に置いて姿を消す。

ナターリャは人の気配に気づき、顔を上げて後ろを振り返る。しかしそこにはもう誰もいない。彼女は床に落ちている花を見つけてそれを拾い上げる。彼女は花をしばらく見つめると、それを再び床に落とす。ナターリャが立ち尽くしているままに幕が下りる。

「田園の出来事」は、マイムによるストーリー説明があると、次にそれを敷衍する踊りが展開される、という形式であった。だが「真夏の夜の夢」や「マルグリットとアルマン」にあった、踊りそのものを見せるための形式的な振付も多い。

たとえば息子のコーリャが居間に飛び込んでくる。彼は無邪気な様子で母のナターリャに戯れ、ボールをつきながらトリッキーな振付のソロを踊る。同様にヴェラが姿を表すと、ヴェラは天真爛漫で愛らしい雰囲気のソロを踊る。ナターリャはカウチにもたれ、微笑みながら子どもたちの踊りを見つめている。

ナターリャとラキティンがもめた後、ふたりはデュエットを踊る。ナターリャがひとり悩んで佇んだ後、彼女はソロを踊り始める。同様にベリヤエフもナターリャへの思いに沈んだ後、いきなりソロを踊りだす。

あとはアイテムを用いる踊りがある。コーリャのボールを使った踊りもそうだが、ナターリャがドレスについた長いリボンを両手に持って、それを翻しながら踊るソロがある。

それから自然なマイムでストーリーが進んでいたのに、いきなり古典的なマイムが顔を出す。ナターリャとヴェラが言い争いになるシーンで、ヴェラをなだめようとするナターリャに向かって、ヴェラは両手の拳を互い違いに激しく上下に振る。これにはちょっとずっこけた。

プログラムによると、「アシュトンは作品構成について、ダンス部分(アリア)と間奏部(レチタティーボ)が交互に現れるモーツァルトのオペラ風であると語っている」そうだ。なるほど、喩えの是非はともかく、アシュトンのバレエがモーツァルトなら、マクミランのバレエはワーグナーといったところか。

アシュトン特有の形式的で意味のない踊りもみられたとはいえ、「田園の出来事」は踊りによって人々の関係や心情を表現していくという要素が強かった。またくどさのないマイムとさりげなくも象徴的な演出で、前知識がなくても充分に話が理解できた。

舞台装置は淡い黄色やアイボリー色で統一された優しい色彩で、壁の絵や天井の模様なども美しい。登場人物の衣装もみな淡い色合いで、特にナターリャのドレスは白と淡い水色が基本の色調で、ふんだんにレースがついている非常に優雅なデザインであった。ベリヤエフの衣装もロシアの民族衣装風の水色のシャツに白とチャコール・グレーのストライプのズボンと、爽やかな雰囲気が漂っていた。

ギエムの踊りについては、今回は作品が作品だから、有無を言わせず「すげえ!」と唸らせるような大仰な振りはなかった。

しかしよく考えてみると、いつのまにかすっ、と耳の傍まで上げられている脚、他のダンサーとは段違いになめらかな手足の動き、決してグラつかないバランス、ポワントで立っているときはもちろん、リフトされて空中に浮いているときも弓なりに湾曲している足の甲、美しいポーズ、無理な力を感じさせない動きの自然さ、これらはさりげなく見えるが、実はすごいことなのではないか。

あまりにさりげないので、観客はいつしか「ギエム・スタンダード」に慣れてしまい、彼女にそれ以上の何かを期待する。しかし、「ギエムは失敗しない」ということが無自覚の前提になるほど、観客が信頼しきって彼女の踊りを見ているということ自体、すばらしい能力である。

よく取り沙汰されるギエムの演技についても、彼女は確かにあまり表情を変えないかもしれないが、微かな表情のそれぞれが真に迫っている。更に「演技」とは何なのか、という問題も出てくる。演技とは、表情や仕草だけで行なわれるものなのだろうか?しかし彼女が踊りそのものでも演技しているのだとしたら、それは具体的にどういうところで出ていたのか、残念ながら私には理解できなかった。これはかなり高次の問題で、私などにはついていけない。

カーテン・コールでのシルヴィ・ギエムは実に魅力的だ。上演中は毅然とした峻厳な雰囲気で踊っていたのが、カーテン・コールでは一転してとても可愛らしく、心から嬉しそうに笑って前に出てくる。こんな笑顔を見たら、また彼女の舞台を観に来たくなってしまうよなあ、と思った。

(2005年5月4日)


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