Club Pelican

NOTE 17

シルヴィ・ギエムの「愛の物語」
(2005年4月30日)

先週末、シルヴィ・ギエムはロンドンのサドラーズ・ウェルズ劇場で、George Piper Dancesと共演したそうだ。演目の中にはあの"Broken Fall"も含まれていたそうである。それから1週間も経たないうちに来日してのこの公演である。タフな姐さんだ。

会場は上野公園にある東京文化会館。JR上野駅の公演口を出てすぐ目の前にある。ここは変わった劇場で、1階1〜4列目の席の床が逆に傾斜している。つまり、1列目よりも2列目の席が低く、2列目よりも3列目の席が低い、といった具合。

したがって、2〜4列目に当たった人は、前の列に座っている人の背が小さいか、座高が低いかでないと、視界がかなり遮られてしまうと思われる。ようやく段差がつくのは5列目からで、この列以降は普通の傾斜がつき、客席の奥に向かって上り坂になっている。

最初の演目、「真夏の夜の夢(The Dream)」は、振付がフレデリック・アシュトン(Frederick Ashton)、音楽はメンデルスゾーンの同名作品を、ジョン・ランチベリー(John Lanchbery)がバレエ音楽用に編曲したものである。初演は1964年、ロイヤル・バレエによって行なわれた。

原作はもちろんシェイクスピアの「真夏の夜の夢(A Midsummer Night's Dream)」(1600年ごろ)で、バレエ作品は"The Dream"という題名にしている。これは単に原作である戯曲と間違われないようにするためだけではなく、作品としても原作とは別個のものと位置づけたい、という理由もあるようだ。

上演時間は1時間弱で、妖精の王オベロンが、彼の妻で妖精の女王であるタイターニアが持っているインドの子どもを得るためにめぐらした企みと、森に迷い込んだ人間たち(男女2組と村人6人)がそれに巻き込まれて起こった騒動を描いている。

原作に出てくるアテネの王シーシアス、その婚約者ヒポリタ、ハーミアの父であるイジアス、シーシアスの側近フィロストレイトは登場しない。よってハーミアとライサンダーが駆け落ちするに至る前段階や、すべての騒動が一件落着した後に行なわれるシーシアスとヒポリタ、2組の恋人たちの結婚式、村人たちによるおバカな劇中劇は出てこない。

この作品は東京バレエ団のみによる上演である。タイターニア:吉岡美佳、オベロン:後藤晴雄、パック:中島周、ボトム:高橋竜太、ハーミア:高村順子、ライサンダー:古川和則、ヘレナ:長谷川智佳子、デメトリアス:木村和夫、村人たち:鈴木淳也・辰巳一政・小笠原亮、宮本祐宣・田中俊太朗、豆の花の精:高木綾、蛾の精:奈良春夏、蜘蛛の精:乾友子、からしの精:大島由賀子。

舞台では、オベロン、タイターニア、パック、妖精たちは時代不詳な格好だが、人間たちは19世紀っぽい衣装を身につけている。原作は時代と場所をいちおう古代ギリシャのアテネと設定しているが、原作は喜劇なので真面目に受け取る必要はない。大体、古代ギリシャのアテネという設定自体がすでにウケを狙ったものである。

東京バレエ団は、男性ダンサーがいずれもみな高い能力を持っていて驚いた。日本の優秀な男性ダンサーは、みなこのバレエ団に集まっているのではないかと思えるくらいだった。

特にパック役の中島周、デメトリアス役の木村和夫はテクニックがすばらしかった。また、ロバに変身させられてしまうボトム役の高橋竜太だが、ロバに変身した後のソロとタイターニアとのデュエット、あれはポワントで踊っていたのか?そうとしか見えなかったし、シューズの音もコツコツと鳴っていた。

喜劇だからコミカルなシーンが多く、パックの手違いで、ライサンダーとデメトリアスがヘレナに恋してしまい、彼女を奪いあってケンカするところは非常におかしかった。二人がヘレナの腕を両側から思い切り引っ張ったり(←大岡越前)、たまりかねたヘレナが二人から逃げた瞬間に、二人が勢い余ってキスしそうになったり、パックがひそかに割って入って、二人が闘おうと手にした棒を取り上げたり。

観客を笑わせるような顔の演技をするのは難しいだろうに、ハーミア、ヘレナ、ライサンダー、デメトリアス、ボトム役のダンサーはよく頑張っていた。特にボトムが魔法を解かれて人間に戻った直後の、高橋君の表情は間が抜けていて笑えた。

最後は仲直りしたタイターニアとオベロンのデュエットで終わるので、この作品の主役はタイターニアとオベロンらしい。でも振付がよほど難しいのか、タイターニアとオベロン役を担当したダンサーの踊りは今ひとつパッとしなかった。

とりわけオベロンを担当したダンサーの踊りはかなり不安定で、見ているほうがハラハラした。また妖精の王と女王らしい威厳というか存在感があまり感じられなくて、それが少し物足りなかった。

イギリスでは問題ないのかもしれないが、このバレエは原作を知らないとストーリーがさっぱり分からない。マイムを駆使した説明は多いが、あくまで原作のあらすじを知っていてこそ意味が分かるものばかりである。

このバレエは観客が原作を知っていることが前提であり、ストーリーを分かりやすく示すとか、そういうことには重点が置かれていない。重点はあくまで踊りそのものを見せることにある。

踊りは非常に創意工夫に富んでいて、見ていてとても面白かったけれど、つまらなく感じたときもあった。踊り自体にあまり意味がなかったからである。変わった短い踊りが次々と繰り広げられるときはいいのだが、冒頭での妖精の群舞や、大団円でのタイターニアとオベロンのデュエットが冗長でつまらなく思えたのは、このせいもあったかもしれない。

もう2、3回も観れば充分な作品だと思った。ちなみに、惚れ薬をかけられたタイターニアと、ロバに変身したボトムとのデュエットで、二人が片足を前にさしだして次々と交差させる振りがある。どっかで見たことあると思ったら、この振りはマシュー・ボーンの「白鳥の湖」の劇中バレエ「蛾の姫」でパロられていたのであった。

休憩時間25分を挟んで、次の演目は「マルグリットとアルマン(Marguerite and Armand)」である。振付は同じくフレデリック・アシュトンにより、音楽はリストのピアノ・ソナタをダドリー・シンプソン(Dudley Simpson)がオーケストラ用にアレンジしたものを用いている。この作品は1963年にロイヤル・バレエによって初演された。

原作はデュマ・フィス(Dumas Fils)の「椿姫(La Dame aux camelias)」(1848)で、これはヴェルディのオペラ「椿姫(La Traviata)」(1853)の原作でもある。オペラではマルグリットはヴィオレッタ、アルマンはアルフレードという名前になっている。

だが「マルグリットとアルマン」のあらすじは、原作よりもむしろヴェルディのオペラを彷彿とさせる。マルグリットに裏切られたと思い込んだアルマンが、舞踏会に集まった人々の面前でマルグリットに札束を叩きつけるシーン、死の床にあるマルグリットのもとへアルマンとアルマンの父が駆けつけ、マルグリットがアルマンの腕の中で息を引き取るというラストなど。

原作では、アルマンはマルグリットに嫌味な手紙を添えて大金を送りつけ、マルグリットはアルマンが到着しないうちに孤独のまま死ぬことになっている。もっとも「マルグリットとアルマン」は40分弱と上演時間が短く、ストーリーは極端に簡略化されている。またラスト・シーンについては、デュマ・フィス自身の執筆による戯曲版(1849)も、アルマンが瀕死のマルグリットのもとへ駆けつける、というふうに変更されているらしい。

アシュトンがどちらを参照したのかは分からないが、おそらくヴェルディのオペラに想を得たものだろうと思う。しかしヴェルディのオペラとはっきり区別するため、登場人物の名前は原作どおりにして、更には原作ともはっきり区別するため、作品名を新しくつけなおしたのだろう。

主なキャスト。マルグリット:シルヴィ・ギエム(Sylvie Guillem)、アルマン:ニコラ・ル・リッシュ(Nicolas Le Riche)、アルマンの父:アンソニー・ダウエル(Anthony Dowell)、公爵:ルーク・ヘイドン(Luke Heydon)。

上演時間は40分弱、と上に書いたが、もっと正確に言えば35分弱である。4時25分に始まって、5時前に終わった。なぜこんなに細かく知っているかといえば、あまりにつまらないので、早く終わってくれないかと思って舞台横の時計をしょっちゅう見ていたからである。

このバレエをつまらなく感じたのは、私の勉強不足によるところが大きいのかもしれないし、何度も観れば良さが分かってくるのかもしれない。しかし私という人間の感性には限界があり、しかも1回しか観る機会がないのだから仕方がない。映像版が出ているそうだが、つまらなく感じた作品の良さを発見するために、わざわざ映像版を買うこともないだろう。

どうしてつまらないと感じたのだろう。たぶんこういうことだと思う。短い時間に長い物語と踊りとを無理に詰め込んでいて、更に踊りの振付と登場人物の感情が連結していない。

構成自体は単純である。死の床にあるマルグリットの横でアルマンの幻影が踊る。次に時間が遡って、マルグリットがアルマンと出会って恋に落ちるシーン。それから二人で田舎暮らしをしているシーンになり、アルマンの留守に父親がやって来て、マルグリットにアルマンと別れるよう頼む。

次にアルマンと別れたマルグリットが公爵と連れ立ってパーティーに現れ、そこへ怒りに燃えるアルマンもやって来てマルグリットを侮辱する。最後はマルグリットが瀕死の状態でベッドに横たわっていて、そこにアルマンの父とアルマンが駆けつける。マルグリットはアルマンの腕の中で息絶える。

オペラの抜粋版みたいな構成だが、なにせ短時間で急に展開していくので、じっくりと物語の雰囲気を味わう間がない。ひょっとしたら死の床にあるマルグリットの回想を、わざと短時間で走馬灯のように展開していったのかもしれない。

しかし短い間隔で場面がくるくる切り替わる上に、更にダンサーたちのマイム的な動きが踊りを寸断してしまう。よって、中途半端に説明的だという印象のほうが強くなり、これならストーリー説明などはすべてカットしたほうがよかったのではないか、と思った。

あと踊りの振付がつまらないというか、表面的で意味がない。どういうシーンなのかは分かる。マルグリットはベッドに横たわって、アルマンの姿を思い浮かべている。アルマンがその横でジャンプして踊っている。アルマン役のダンサーが踊っている。ただそれだけ。

マルグリットとアルマンが恋に落ちる。彼らは一緒に踊る。一緒に踊っているだけだ。マルグリットがアルマンの父親にすがりついている。彼女はアルマンの父親に身を持たせかけて引きずられる。だからなんだ。

瀕死のマルグリットのもとへ、アルマンの父親が駆けつける。父親がさっと向こうを指さすと、そこには異様に長くてデカいマントを翻しながら駆けてくるアルマンの姿。お前はアルブレヒトか。いきなりのお約束的な演出で雰囲気が台無しになる。

ぐったりと力のないマルグリットとアルマンが踊る。こんなちんたらした踊りがいつまで続くのか、と思っていたら、再会してから数分でマルグリットはあっけなく死んでしまう。すかさず幕が引かれ、観客は「お、終わったのかな?」というふうにおずおずと拍手し始める。

35分の間に何度も場面転換があり、マイム的な動きによるストーリーの説明が行なわれ、形式的で意味のない振付とお約束なクサい演出。ダンサー個人の演技力や表現力だけではフォローしきれない。

この作品はマーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフのために作られた作品であるという。プログラムにアンソニー・ダウエルのインタビューが載っていて、ダウエルは「ヌレエフとフォンテインの強いキャラクターでしか考えられないような作品でした」、「上演するからにはやはりスターじゃないといけませんから、シルヴィにオファーしました」と語っている。

ダウエルはまた、マルグリットの役について「とても複雑で女性が社会と自己の間で引き裂かれ、追い詰められた状態を示さなくてはならないのです」と説明し、「マルグリットとアルマン」を「素晴らしい作品」と形容する。

しかし「スターじゃないと」上演できないというのは、言い換えれば、「100年に1人」級の超スター・ダンサーのオーラを借りない限り、作品として成立できないほど中身が弱い、ということではないか。

確かにギエムのさりげなく耳のそばまで上がる脚、しなやかな腕の動き、絹糸のように美しく垂れ下がる長い赤い髪、ル・リッシュの自然で重さを感じさせないリフト、安定したテクニックはすばらしい。ダウエルがアルマンの親父役で出演すれば更に箔が付く。

でもこの作品はつまらない。カーテン・コールはすごい騒ぎだったけれど、観客はあの作品の何に拍手してブラボー・コールを連呼していたのか。それとも、そこにいるのがギエムだから、またル・リッシュやダウエルだからか。

「マルグリットとアルマン」は、振付者の狙いと結果がちぐはぐになってしまった作品、という感じがする。オペラあるいは原作にインスパイアされて、社会の中で必要悪として存在した一人の女性の苦悩を表そうとしたものの、結果は中途半端に原作を敷衍することに無駄な時間をかけ、踊りの振付に意味を持たせて登場人物たちの心情を表現するまでには至らなかった。

「真夏の夜の夢」と「マルグリットとアルマン」を観て、アシュトンはストーリーがない作品や、ストーリーよりは踊りを見せることを目的とした作品の振付に優れているのではないかと思った。踊りを通じて何かを表現するというより、踊りそのものの魅力を見せることに秀でた振付家だということである。

だから物語よりも踊りの形式が優先する古典的な要素の強い作品や、ストーリーのない作品に向いていると思う(もう死んだ人だけど)。実はこれは、この間のロイヤル・バレエ・スクールの公演でも感じたことなのであった。

ギエム目当てで観に行ったものの、アシュトンの振付って意外に演劇的ではないんだな、という思いを抱いて会場を出ることになった。アンソニー・ダウエルに至っては、今こうして感想を書いてはじめて、あ、アルマンの親父役はダウエルだったのか、どうりで拍手が大きかった、と気づいた始末である。

(2005年5月1日)


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