Club Pelican

NOTE 15

英国ロイヤル・バレエ・スクール日本公演
(2005年3月25日)

クーパー君が出演する公演の場合は、ずいぶんと前から細かく情報をチェックして観劇の計画を立てる。だがそれ以外の公演は、大体がその場の思いつきでチケットを取る。この英国ロイヤル・バレエ・スクール日本公演もそうだった。いつだったかイープラスからプレオーダーのメールが来て、それで応募してみたら当たった。

観なくてもよかったんだけど、クーパー君の母校だし、あと「先物買い」ができるかな、とも思ったので、ばっくれないで観に行くことにした。「先物買い」とは、今回の公演に参加している学生がいずれ出世した暁には、「私、あなたの学生時代の公演を観たのよ〜」と自慢できるな、という邪な思惑である。

会場はまたまたゆうぽうと簡易保険ホール。B5版、薄っぺらい紙、31ページしかない袋とじのショボいプログラムが、なんと1500円!内容は、ほとんどが学校の沿革とか教育システムとかの説明(それなりに面白かったけどね)。出演する学生のプロフィールはなく、写真と名前が載っているだけ。

舞台には色あせた厚ぼったい絨毯みたいな幕が下りている。私、初めて見ました。これがゆうぽうと簡易保険ホールの本来の幕なのね。端っこに「簡易保険」とデカく刺繍してある。

The Royal Ballet Schoolなのに簡易保険・・・。所帯くさい。イヤな予感がする。

その予感どおり、客の入りは閑古鳥であった。イープラのプレオーダー、外れた人は鉄板いないはずだ。というよりは、一定数の観客を確保するために、プレオーダーで煽ったのかな。

1階席は、舞台に向かってT字型に埋まっていた。前の列はセンター、サブセンターともにまあまあ詰まっていたが、中ほどの列はセンターにしか客が座っていなかった。後ろの列には人っ子ひとりいない。

ゆうぽうとには2階席もあるが、ここは最前列にしか人がいないようで、2階席の手すりの向こうに動く頭もまばらだった。休憩時間、ロビーにいた会場係のお兄さんたちが苦笑しながら話していた。「みんな、いい席に移動しちゃってるよ。」 「仕方ないね。」

観客は親子連れが多かった。組み合わせは必ず母親と小さな女の子である。休憩時間に入ると、お母さんたちが感想を話し始めた。それはバレエの技術用語を駆使した、かなり専門的な内容であった。

「あの○○○(バレエ用語)がすごい」とか話していて、へえ、そういう点に注意しているのか、すごいな、と思った。つまり彼女たちは、小さな娘に未来のプリマ・バレリーナになってほしいと願い、娘にバレエを習わせている母親らしかった。バレエに関しては、実際に習っている娘よりも詳しそうだ。いわゆる"ambitious mother"という女性たちだろう。

あとはどんな観客がいたんだっけ?欧米人もいた。関係者かな。招待客もいただろう。それからバレエを習っているらしい10代の女の子たち。あとは私のように、軽い気持ちで観に来たものの、なんとなく居心地の悪さを感じているらしい人々。

プログラムの値段の高さは暴利だと思うが、興味深い記事も多々あった。ロイヤル・バレエの沿革は複雑だ。ざっとまとめると、アカデミー・オブ・コリオグラフィック・アート(Academy of Choreographic Art、1926)→ヴィック・ウェルズ・バレエ(Vic-Wells Ballet、1931)→サドラーズ・ウェルズ・バレエ(Sadler's Wells Ballet、1939)→ロイヤル・バレエ(Royal Ballet、1956)となる。

だが、サドラーズ・ウェルズ・バレエが、1946年にサドラーズ・ウェルズ劇場からロイヤル・オペラ・ハウスへと活動拠点を移したとき、サドラーズ・ウェルズ・バレエは枝分かれした。新人のダンサーや振付家を育成するための新たなバレエ団、サドラーズ・ウェルズ・オペラ・バレエ(Sadler's Wells Opera Ballet、1946)が結成され、このカンパニーは引き続きサドラーズ・ウェルズ劇場を本拠地とした。

サドラーズ・ウェルズ・オペラ・バレエは、翌1947年にはサドラーズ・ウェルズ・シアター・バレエ(Sadler's Wells Theatre Ballet)と改名し、以後はロイヤル・バレエ・ツーリング・カンパニー(Royal Ballet Touring Company、1957)→サドラーズ・ウェルズ・ロイヤル・バレエ(Sadler's Wells Royal Ballet、1976)→バーミンガム・ロイヤル・バレエ(Birmingham Royal Ballet、1990)という変遷をたどる。

ロイヤル・バレエとバーミンガム・ロイヤル・バレエのつながりは当初から深く、更に1970年にはロイヤル・バレエに所属していたダンサーたちが、バーミンガム・ロイヤル・バレエ(当時はロイヤル・バレエ・ツーリング・カンパニー)に移籍してきて、その中核メンバーとなった。

ロイヤル・バレエ・スクールもロイヤル・バレエと歩みをともにしていた。1926年に組織されたアカデミー・オブ・コリオグラフィック・アートはバレエ学校でもあった。以後はヴィック・ウェルズ・バレエ・スクール→サドラーズ・ウェルズ・バレエ・スクール→ロイヤル・バレエ・スクールと、現在のロイヤル・バレエが改名するたびに、バレエ・スクールもそれに準ずる名前に変わった。

現在、ロイヤル・バレエ・アッパー・スクール(Royal Ballet Upper School)の学生たちには、ロイヤル・バレエやバーミンガム・ロイヤル・バレエの舞台に出演する機会が与えられる(給料も出るそうだ)。また、ロイヤル・バレエ・スクール卒業生のダンス・カンパニーへの就職率は95%で、その3割がロイヤル・バレエとバーミンガム・ロイヤル・バレエに入団しているという。

更に、バーミンガム・ロイヤル・バレエのスター・ダンサーがロイヤル・バレエに移籍する例も多い。ダーシー・バッセル(Darcey Bussell)、吉田都などがそうである。この2人はともにロイヤル・バレエ・スクールで学んでいる。

つまり、ロイヤル・バレエ・スクールからロイヤル・バレエかバーミンガム・ロイヤル・バレエへ、またバーミンガム・ロイヤル・バレエからロイヤル・バレエへ、というダンサーたちの流通が起きている。

失礼な喩えで恐縮だが、ロイヤル・バレエ・スクールを中高大一貫校になぞらえるなら、バーミンガム・ロイヤル・バレエは大学に相当し、ロイヤル・バレエのスターとなり得る優秀なダンサーたちを育てて、ロイヤル・バレエに提供するカンパニーでもあるらしい。

これはバレエ・マスターから振付家、芸術監督にもいえることで、彼らもまたロイヤル・バレエ・スクール、ロイヤル・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエを循環している。

子どものころはロイヤル・バレエ・スクールで学び、卒業してロイヤル・バレエやバーミンガム・ロイヤル・バレエにダンサーとして就職し、ダンサーを引退した後は、ロイヤル・バレエやバーミンガム・ロイヤル・バレエのバレエ・マスター、振付家、芸術監督、またはロイヤル・バレエ・スクールの教職員になる。

公演プログラムに「バレエ・スクールとバレエ団とは直結したもの、というド・ヴァロワ(Dame Ninette de Valois、ロイヤル・バレエとロイヤル・バレエ・スクールの創設者)のヴィジョンが現実のものとなった」とあるように、確かにロイヤル・バレエ・スクール、ロイヤル・バレエ、バーミンガム・ロイヤル・バレエは、内部一貫した、自己完結型の組織である。

だが、最も肝心なダンサーの人材面で自給自足の機能を果たしているとは言い難い。現在のロイヤル・バレエのプリンシパルたちを眺めれば一目瞭然である。純粋なロイヤルの内部育ちが何人いるというのか。

このことについての公演プログラムの説明はかなり苦しい。「国際色豊かで多国籍多様な文化」と書いてあるが、問題は国籍ではなく、ロイヤル・バレエ・スクール出身者であるかどうかだ。この点では、ニネット・ド・ヴァロワのヴィジョンが現実のものとなった、とはいえないだろう。

プログラムの後ろには「世界中で活躍するロイヤル・バレエ・スクールの卒業生たち」と銘打って、往年の、また現役のダンサーたちの名前がリスト・アップされている(クーパー君の名前もありました)。しかし、ロイヤル・バレエの現役プリンシパルの名前は少ない。

今やロイヤル・バレエを代表するプリマといっていいアリーナ・コジョカル(Alina Cojocaru)の名前は見える。でも彼女は確か、短期研修でロイヤル・バレエ・スクールに在籍しただけである。代ゼミの2週間の夏期講習を受けただけなのに、大学に合格したらいきなり代ゼミの「卒業生」として名前が貼られるのと一緒だ。

公演プログラムというより、入学や留学や短期研修を勧める学校案内といったほうがよさそうなプログラムを読みながら、ちょっと複雑な気分になった。この公演に参加している生徒で、将来、ロイヤル・バレエの公演で主役を踊ることになる子はいるのだろうか。10年後のロイヤル・バレエの舞台を見渡せば、依然として外部から引き抜かれてきたダンサーばかりが主役を張っているのではないか。

「簡易保険」の幕が上がり、客席の埋まり具合も観客の気分もちょっと寂しい中で公演が始まった。S席は9500円もするが、生オケはなく、テープ演奏である(揃いも揃って音がひずんで雑音もひどかった。レッスン用のテープをそのまま使ったのか)。所詮はバレエ学校のお発表会だから、演目は小品と全幕作品からの抜き出しである。

1番目の作品、「アイズ・ザット・ジェントリー・タッチ(The Eyes That Gently Touch)」は、振付がカーク・ピーターソン(Kirk Peterson)、音楽はフィリップ・グラス(Philip Glass)作曲の「マッド・ラッシュ("Mad Rush")」。初演は1990年、ペンシルバニア・バレエによって行なわれた。

振付者のカーク・ピーターソンは、かつてはアメリカン・バレエ・シアター、サンフランシスコ・バレエのプリンシパルであり、後に振付活動を開始した。サンフランシスコ・バレエの専任振付家、ワシントン・バレエの副芸術監督、ハートフォード・バレエの芸術監督を務め、現在はアメリカン・バレエ・シアターのバレエ・マスターである。

男女3組が最初は全員で、次に一組ずつ、最後にまた全員で踊る。衣装は、男性はグレーの袖なしTシャツにグレーのスウェットのようなズボン、女性はハイネックで袖なし、両脇に透ける素材がスリット状に入っているロング・スカートのワンピース。

この最初の作品が上演されたとき、私はかなりテンション低かったので、音楽も振付もよく覚えていない。そんなにこちゃこちゃしたうるさい振付ではなく、四肢を大きく伸ばした、ゆっくりした踊りだったように思う。

女子3人のうち2人は東洋人で、この2人の非常にすばらしい体型と身体的条件、そして繊細で丁寧な動きが印象に残った。特にこれはすごいぞ、と目を引かれたのが、パトラ・サリカプトラ(Pattra Sarikaputra)で、顔つきからいってたぶん東南アジア系だろう。もう1人はヒャンジク・キム(Hyangjik Kim)、名前からすると韓国系だと思う。

彼女らは背が高く、手足が長く、体は柔らかい。もう1人の女子は欧米人だったが、この人についてはまったく印象に残っていない。3人の男子がどうだったかも覚えていない。この時点で、パトラ・サリカプトラに(心の中で)チェックを入れた。

2番目の作品は「ラ・フィーユ・マル・ガルデ(La Fille mal Gardee)」より「ファニー・エルスラーのパ・ド・ドゥ(The Fanny Elssler Pas de Deux)」、振付は一応フレデリック・アシュトン(Frederick Ashton)、音楽はフェルディナン・エロルド(Ferdinand Herold)、編曲はジョン・ランチベリー(John Lanchbery)。なお音楽の一部にはドニゼッティ「愛の妙薬」も用いられている。

「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」の沿革は「白鳥の湖」くらい複雑なので、ここでは省略。各自お調べ下さい。ただ、「ファニー・エルスラーのパ・ド・ドゥ」とは、1837年にファニー・エルスラー(マリー・タリオーニと人気を二分したというダンサー)が、この作品を踊った際に付け加えられたものだという。

「白鳥の湖」第二幕、オディールによる32回転グラン・フェッテも本来はなかった。後になって、あるダンサーの見せ場を作るために付け加えられたというから、既存の作品をダンサーのために増補したり改変したりすることは、当時では当たり前のことだったのだろう。

この作品に関しては、公演プログラムにも心にも何もチェックがない。女子生徒たちの村娘風のエプロン付き衣装が可愛かった。あと主人公のリーズが何本ものリボンの端を片手でつかみ、そのリボンのもう一方の端をつかんでいる村娘たちが、リーズを中心に輪になってゆっくりと動いていく。それに合わせて、リーズはアラベスクだかアティチュードだかのポーズのまま、徐々に回転していく、という面白い踊りがあった。バランスと持久力の見せ場のようである。

3番目は「ライモンダ(Raymonda)」第三幕、ライモンダとジャン・ド・ブリエンの結婚式のシーン。振付はマリウス・プティパ(Marius Petipa)、音楽はアレクサンドル・グラズノフ(Aleksandr Glazunov)で、1898年にマリインスキー劇場で初演された。

最初はライモンダとジャン・ド・ブリエンを含めた大量の男女がペアになって踊る。男性が女性をちんたら持ち上げてばかりいる振付。その次にソロがいくつか。ジャン・ド・ブリエンとライモンダもそれぞれソロを踊る。それから群舞が次々と出てきて踊り、再びライモンダ、またジャン・ド・ブリエンが出てきて、最後は全員で踊って終わり。

う〜ん、ライモンダの踊りに関しては、マイヤ・プリセッカ、シルヴィ・ギエム、吉田都、あとトロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団しか比較する例がない。まだ学生の子の踊りにいちゃもんをつけてはいけない。

でもライモンダ役のミレーナ・シドロヴァ(Milena Sydorova)はよく頑張っていた。それにチェックを入れるべき男すぃを発見した。ジャン・ド・ブリエン役のアレクサンダー・ジョーンズ(Alexander Jones)君である。

ジャンプは高いし、空中で両足を打ちつける音は威勢がいいし、彼は未来のプリンスになれるかも。もうちょっと育ってみないと分からないが、彼が出世したら、したり顔で自慢しつつサインをもらおう。

休憩時間を挟んで、4番目は「アンイーブン・グラウンド(Uneven Ground)」、振付はポール・ボイド(Paul Boyd)、音楽はメルセデス・ソーサ(Mercedes Sosa)の歌うアルゼンチン民謡。初演は2001年、オーストラリアのクイーンズランド・バレエ団によって行なわれた。

振付者のポール・ボイドは、ドイツの3つのバレエ団、オーストラリアのクイーンズランド・バレエ団のプリンシパルであった。現在はフリーランスの振付家であるという。

実はここから、この公演が突如として面白くなったのである。「簡易保険」の幕が上がると、天井からハンモックがいくつも吊るされていて、男子たちが寝そべっている。彼らはみんなキャップをかぶり、上はタンクトップ一枚、下は幅広のだぼっとしたズボンを穿いている。足はバレエ・シューズ。この衣装は自前だな。

いかにもラテン・アメリカな歌が流れる中、彼らはポケットに両手をつっこみ、仏頂面をして、ヤンキーな態度で舞台の中央に集まって踊り始める。でもしょせんはガキだから、反抗期にある思春期の青少年にしかみえなくてほほえましい。

振付は歌にあわせて体をリズミカルに揺らすのと、あとはバランス技が多かった。激しくて細かい振りはほとんどない。クラシック・バレエの要素は薄い。みんな同じ衣装なので分かりづらいが、実は女子が1人混ざっていた。髪はキャップの中に収納している。

男子7人、女子1人は、最初はみんなで同じように踊っている。だが途中で、紛れ込んでいた女子が前に出てきてキャップを脱ぎ捨てる。長い髪がばらりと垂れ下がる。彼女は男たちを睨みつけ、挑発的な仕草と表情で舞台の中央に出てきて、体を揺らして踊り始める。

この唯一の女性を踊ったジェイド・ペイェット(Jade Payette)は、表情がすごく豊かで雰囲気を作るのが上手だった。他の学生たちは概してみな大根だったが、彼女は違った。女性は男性たちに高々とリフトされながら踊るが、女性のソロもある。このソロの振付がすごくて、ほとんどがクラシック・バレエの男技で構成されていた。

ジェイド・ペイェットは小柄で華奢な体をしているが、パワーとスタミナがすごい。体を反転させたジャンプをしながら移動、それからやや斜め垂直に飛び上がって2、3回転、というパターンで舞台を一周したのである。はっきりいって、同じような技を披露した他の男子たちよりもはるかに上手だった。

5番目の作品は「モノトーンズII(Monotones II)」、振付はフレデリック・アシュトン、音楽はサティ(Erik Satie)の「三つのジムノペディ(Trois Gymnopedies)」(ドビュッシー、ローラン・マニュエル編曲)で、1965年にロイヤル・バレエによって初演された。

男性2人、女性1人によるパ・ド・トロワで、彼らは真っ白いレオタードで全身を包み、頭には真っ白いヘルメット状の帽子をかぶり、髪の毛も完全に隠している。見えているのは彼らの手と顔のみ。この衣装もアシュトンのデザインである。

背景は黒で、白い帽子とレオタードに身を包んだ3人の体の線と動きとが、はっきりと浮き上がる。そこに静かな「ジムノペディ」が流れ、彼らはお互いに手や足を連結させて、全体でフォルムを作り、それからゆっくりとなめらかな動きでフォルムを次々と変えていく。

振付は、しゃくとり虫みたいな、むにょんむにょんした動きではないし、「人間ねじり飴」みたいな、人体の限界に挑戦だ!的な動きでもない。派手さのない静かな動きで、それだけに人間の体の自然な美しさを感じたし、節度を保った落ち着いた雰囲気が漂っていた。これはまた良い作品に出会えた。

この作品を踊った3人はいずれもすばらしかったが、ヘザー・チン(Heather Chin)には圧倒された。まずは体型。彼女も背が高く、手足が長くて、ぴっちりしたレオタードを着ているだけに、体のラインの美しさが殊更に際立った。顔や名前からすると中国系か。

美しい四肢がしなやかにたわんで、次にはぐんと長く伸ばされ、脚はどこまで上がるのかと思うくらい開き、両手を前後に出してアラベスクで静止した姿勢のなんときれいなこと。最初から最後まで、彼女から目が離せなかった。

男子2人、トーマス・フォスター(Thomas Forster)とジョージ・ヒル(George Hill)は、これまた静かながらも丁寧で安定した踊りを見せた。衣装とかスピードとかでごまかせない作品だから、見た目は静かでも踊るのは大変だと思う。

6番目、最後の作品は「ピアノ・コンチェルト#2(Piano Concerto #2)」、振付はロバート・ヒル(Robert Hill)、音楽はロウェル・リーバーマン(Lowell Liebermann)の同名作品より第一、第四楽章。これは2004年に、ロイヤル・バレエ・スクールに提供するために振り付けられた作品である。

ロバート・ヒルはアメリカン・バレエ・シアターでソリストとして勤め、それからニューヨーク・シティ・バレエ、ロイヤル・バレエ、ミラノ・スカラ座バレエ、スコティッシュ・バレエ、サンフランシスコ・バレエを渡り歩き、再びアメリカン・バレエ・シアターにプリンシパルとして招かれた。ダンサー引退後は振付家、バレエ・マスターとして活動し、現在はメキシコのモントレー・バレエの芸術監督である。

作品の形式は、男女が次々と現れて踊っては引っ込み、舞台のあちこちで絶えず違った踊りが繰り広げられている、というモダン作品の典型の一つ。形式も衣装もアシュレイ・ペイジ(Ashley Page)の「フィアフル・シンメトリーズ(Fearful Symmetries)」(1994)によく似ている。でも振付は、あくまでクラシック・バレエの純粋な動き、姿勢、ステップを基本とし、複雑にアレンジされた難しすぎる振りはない。

公演プログラムによると、この作品は12人によって踊られるそうだ。めまぐるしく入れ替わって踊っているので、上演中はとてもじゃないが数えられない。「若いダンサーたちには格好のアピールの場になるだろう」と書いてあるが、それでもやはり主役的な踊りを踊る特定のダンサーがいる。

その1人がパトラ・サリカプトラで、最初の「アイズ・ザット・ジェントリー・タッチ」で見たときにもすごいと思ったが、やはり彼女は将来有望な生徒らしい。ほとんど前に出ずっぱりで踊っていた。

男子では、ソロを踊ったジョゼフ・カレイ(Joseph Caley)が印象に残った。古典作品のパ・ド・ドゥのヴァリアシオンとコーダをくっつけたようなソロだったが、技術がしっかりしていて見事に決まっていた。軸のブレないゆっくり一体何回転するんだピルエットもすごかったし、体を反転させながらのジャンプ舞台一周も迫力があった。

この公演の前半、気分は盛り下がったままで、ぎこちない「ラ・フィーユ・マル・ガルデ」と「ライモンダ」を観て、もう帰ろうかな、と思ったが、最後まで観てよかった。

「アンイーブン・グラウンド」、「モノトーンズII」、「ピアノ・コンチェルト#2」は、私の白けた気分を一気に払拭して舞台に集中させてくれたし、心なしか踊っている生徒たちも、後半の作品群のほうでノリノリになっていたように見受けられた。終演後、「第2部で救われたわ〜」と話し合っていた観客がいたから、私と同じ感想を抱いた人は他にも多いだろうと思う。

今日はなぜかアジア系の女子生徒ばかりが大事なパートを受け持っていた。彼女らの体型は、欧米人の女子生徒と比較してもまったく違いがないどころか、欧米人の生徒たちよりもはるかに美しく整った体つきをしていた。アジア人の体型は欧米人と違うのだから、というエクスキューズは、これから徐々に利かなくなってくるだろう。

男子生徒については、やはりまだ17〜18歳という年齢もあって、体自体がまだできていないようだった。男子生徒の中にはアジア系はおらず欧米人のみだったが、彼らの体は細くて華奢で、頭がでかい。これは少年の体型から青年の体型に移りつつある途中の体型だと思う。彼らの将来性がどうなのか、これは今の時点ではまだ分からない。

そして、こうして「先物買い」できた生徒は何人かいたとはいえ、結局は彼らがカンパニーに入ってからでないと、彼らがどう化けるかは予測できないのである。バレエ学校の優等生が、プロのバレエ団で優秀なダンサーになるとは限らないし、学校では平凡だった生徒が、バレエ団に入ってから頭角を現すこともあるだろう。

クーパー君だって、ロイヤル・バレエ・スクールの生徒だったころは、教師たちから「君はバレエ・ダンサーにはなれないよ」と言われていた。ローザンヌ・コンクールに出場できたのだって、たまたま欠員が出たからだった。

それがロイヤル・バレエに入団できて、プリンシパルになれて、でも壁にぶつかって、バレエ・ダンサーとしてやってはいけないこと(ボーン版「白鳥の湖」への出演)に手を出して、それで大ブレイクできたけど、ロイヤル・バレエ内での立場が悪くなって退団して、それからいろんなことをやって、フリーランスながらもまずまず順調なキャリアを積んで現在に至っている。

今日の舞台に出演した生徒たちも、これからいろんな苦労をしていくんだろうけど、なんとか乗り切っていってね、と心ひそかに願いつつ会場を後にした。

(2005年4月1日)


余談

最近読んだ某雑誌に、日本のバレエ学校(教室)とバレエ団に関する裏話が載っていた。もちろんバレエ団やダンサーの名前はすべて仮名にしてある。

その中に、プロのバレエ・ダンサーになるには才能があってもダメ、というくだりがあり、具体例が書いてあった。

プロのバレエ・ダンサーを目指すなら、バレエ団とコネのある教室や学校を選ばなくてはならない。そうでないと、いくらバレエの才能があっても、プロになれるルートそのものが存在しないのが現実らしい。

運悪くコネのないバレエ教室で学んで、プロのダンサーになれる能力を身につけてしまった人は、プロになるためにコネのある教室や学校に移らざるを得ない。そのときに良い人材を流出させたくない教室との間で、ゴタゴタが起こって後味の悪い思いをする。

また、あるバレエ団に所属しているダンサーの実家は超お金持ちで、バレエ団の強力なスポンサーでもある(スタジオまで提供しているそうだ)。よって、そのダンサーは公演でも主役を踊ることが多い。もちろん仮名だが、さりげなくヒントが書いてあったので、どのバレエ団の誰なのか見当がついた。今度、その人が主役を踊る公演を観に行ってみよう。

それにあるバレエ団代表の本音大炸裂な爆弾発言が紹介されていた。曰く、「雑草はいらないのよね。大輪の花が欲しいのよ。」 びっくりした。

優秀な人材を見出して育成したい、と言いたかったんだろう。しかしいくらなんでも、もうちょっとマシな言い方があるだろうし、こうして外部にリークされる可能性がある状況で、こういうことを平気で言える神経は理解できない。

バレエは厳しく容赦ないストイックな芸術の世界、といえば聞こえはいいが、どうも私には、お金持ちで世間知らず、日々バレエ漬けの純粋培養で大人になっちゃった人たちが、奇妙な価値観に強迫的に捉われながら、閉鎖的な環境で身内で固まっているように思える。

私はバレエそのものは嫌いではないが、バレエに対してとっつきにくさを覚えるのは、こういうところなんだよねえ・・・。


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