Club Pelican

NOTE 14

スター・ダンサーズ・バレエ団3月公演
(2005年3月12、13日)

この公演を観に行くことにした理由、それは演目です。去年のクリスマスに新国立劇場バレエの「くるみ割り人形」を観た。劇場でもらったチラシの中にこの公演のものが入っていた。

演目の中の「ステップテクスト」という文字が目に飛び込んできた瞬間、この公演を観に行くことを即断。だって、「ステップテクスト」は、アダム・クーパー様がロイヤル・バレエ時代にレパートリーとしていた作品ですもの。ロイヤル・オペラ・ハウス改築記念ガラで、彼がデボラ・ブルと組んで「ステップテクスト」の一部を踊っている映像も残っている。

振付も面白そうだったし、これは是が非でも全編を観ねばなるまい。翌日、即スター・ダンサーズ・バレエ団に電話してチケットを取った。チケット発売2日後だったので、良席をゲット。

この公演はトリプル・ビルで、演目は「ステップテクスト」、「火の柱」、「ウェスタン・シンフォニー」である。

会場はゆうぽうと簡易保険ホール。会場に入ると、ロビーにお祝いの花がいくつか置かれていた。西島千博に宛てた花が多かった(なぜか久本雅美からも送られてきていた)。よって、スター・ダンサーズ・バレエ団のスター・ダンサー(紛らわしい)は、西島千博だと判明。

ロビーを通り、トイレに並び、ホールに入って自分の席に着く過程で、あちこちで「○○先生、どうもごぶさたしております」、「△△ちゃん、ひさしぶりい!元気だった?」、「この間、発表会ですべっちゃってさー」、「最近、教室はどう?」等の会話がしょっちゅう聞こえてきた。

観客は全員が全員と知り合いなのか、と思えるほどであった。よって、観客のほとんどは、バレエ教室の先生、生徒、またバレエ団の幹部、スタッフ、ダンサー、バレエ批評家など、バレエ業界の関係者だと判明。その他には、また後で書くけれども、かなりコアなバレエ・ファンたちが訪れていたようだ。

観客のほとんどが一般人ではなく、バレエに携わっている人々とコアなバレエ・ファンだということは、スター・ダンサーズ・バレエ団の公演は、バレエ界の内部で自己完結しているというか、一般への公開性がさほど高くないといえる。いちおうバレエ団の公演だが、バレエ教室のお発表会的な雰囲気がまだ強く漂っている。

つまり、舞台に立っている側と、客席に座っている側が、ほぼ同じ立場にある人々だということである。絵画の個展になぞらえるならば、ある画家の個展を見にくる客のほとんどが、画家を目指している人々、画家を職業にしている人々、美術評論家、また画商である、という現象に当たる。

スター・ダンサーズ・バレエ団がこの公演を行なうに際して、バレエのお約束を熟知している、バレエ業界の関係者やコアなバレエ・ファンしか眼中に入れていないことは、開演時の演出、つまり最初の演目「ステップテクスト」の始まり方でも明らかだった。

開演時間になったが、客席のライトは点灯しっぱなしで明るく、舞台のライトは落とされていて暗い。開演が遅れるのはよくあることだ。観客たちはおしゃべりしながら、またプログラムやチラシを眺めながら開演を待った。

私もプログラムを開いて読んでいた。すると、隣に座っていたおばさんが、「始まってますよお〜、みなさ〜ん?気づかないのかな〜?みなさ〜ん?」とひとりつぶやいている。私は、何、この人、と思って目を上げた。

すると、客席のライトは明るいまま、舞台は暗いままなのに、いつのまにか舞台上に1人の男性ダンサーがいて、黙々と(当たり前だが)手足を動かして踊っているではないか。おばさんは公演が始まったことを聞こえよがしにつぶやくことで、周囲の観客に分からせようとしていたのだった。

しかし、私とそのおばさんの前の列に座っていた観客たちは、それに気づかずにプログラムを見ておしゃべりを続けていた。おばさんは身を乗り出して「すみません、公演がもう始まっているので、静かにして下さい」と注意した。

私はこのときすでに、「ババアてめえ何様だ」と不快に思っていたが、おばさんの次の行動でそれはMAXに達した。おばさんは前の観客のおしゃべりを注意した次の瞬間、どこからか何かをごそごそと取り出した。

私は舞台を見ていたが、音ははっきり聞こえた。カシャカシャという、飴の包み紙を開く音だった。そして飴を口に入れた後の、カコンカコン、というくぐもった音。他人の話し声は迷惑でも、自分が飴の包み紙を開く音は迷惑ではないらしい。

ちなみにこのおばさんは、「ステップテクスト」が終わって休憩時間に入ったとき、間髪おかずに席を立った。そのときにおばさんの持っている大きなバッグが、私の肩にバシンバシンと当たる。重いものが入っているようだった。だが「すみません」の一言もなかった。

このババアが余計にムカつくのは、「始まってますよお〜、みなさ〜ん?気づかないのかな〜?みなさ〜ん?」というつぶやきによって、私は自分を恥じたからだった。それは、自分はバレエという芸術の常識を知らないバカな人間だ、という感覚である。

しかし、このおばさんには感謝しなくてはならない。なぜなら、客席のライトを点灯したまま、開演のベルを鳴らさないまま、舞台の照明を暗くしたまま、いつのまにかダンサーが舞台上に現れて踊っている、という始まり方は、ほとんどの観客にとっては意表を突かれる事態であり、同時にある程度のバレエ通でなければ対応できない、ということが分かったからである。

開演のベルが鳴る、客席のライトが落とされる、指揮者が現れる、幕が開く、という一般的な始まり方を、すべて逆にした不親切な始まり方に気がつかなかった観客は、自分を恥ずかしく感じる。気づいていた、あるいはあらかじめ知っていた観客は、自分を誇らしく感じる。このおばさんのように。

この始まり方が、スター・ダンサーズ・バレエ団が独自に考えついたアイディアであろうと、振付者のウィリアム・フォーサイスによるオリジナル演出であろうと、こうしたやり方に上手に対応できたかどうかによって、観客はバレエに通じている者と、そうでない者とに分別される。

これはつまり、スター・ダンサーズ・バレエ団あるいはウィリアム・フォーサイスが、「ステップテクスト」を、バレエに通じている人々だけに向けた作品として位置づけていることを示している。本当の意図はどうであれ、結果的にそうなってしまう。

おばさんの余計なお世話のおかげで、私は「プティパ、フォーキン、バランシンに続く、クラシック・バレエの正統的な改革者」(公演プログラムより)である、ウィリアム・フォーサイスが客層として想定しているのがどんな人々なのか、予想がついた気がした。頭に浮かんだのは、これじゃあ、経営難によるフランクフルト・バレエ団の消滅も無理ないな、ということだった。

「ステップテクスト(Steptext)」は、ウィリアム・フォーサイス(William Forsythe)振付、音楽はバッハの「シャコンヌ(Chaconne、Partita for violin solo No.2 D-moll、BWV.1004)」、1985年にフランクフルト・バレエ団によって初演された。上演時間はおよそ20分。袖なし足首丈の黒いレオタードを着た男性ダンサー3人と、同じデザインの赤いレオタードを着た女性ダンサー1人によって踊られる。

踊りの振付は「イン・ザ・ミドル・サムホワット・エレヴェイテッド(In The Middle Somewhat Elevated)」(1988)とよく似ている。人間の肉体ってすごい!的な、複雑でめまぐるしい動きが展開されていく。クラシック・バレエを感じさせるステップやムーヴメントはほとんど気がつかない(あることはある)。

基本的には、女性ダンサーが男性ダンサーと交互に組んで踊る。その向こうでは男性ダンサー同士が組んで踊っているか、また個別に踊っている。男性ダンサー1人が出てきて踊るときもある。

男女が時に睨みあい、拳を握った腕を盛んに折ったり回したりして、なにか信号を送りあっているようにも見えるが、特にストーリーなどはないと思われる。でもプログラムによると「抽象的ながらもドラマティック」な作品だそうなので、分かる人には分かるのだろう。

これぞバレエのモダン・ワークスの典型、という要素がすべて揃っている。ストーリーはあるのかないのか分からない。いきなり唐突に音楽や踊りが断絶する(たとえば「シャコンヌ」を1音だけで切る、ダンサーが途中で急に踊りを止める、など)。ダンサーが舞台を駆ける。非対称な位置で別個に違う振りを踊るのと、カスケードで同じ振りを踊るのとを交互に繰り返す。

これらの要素はすべてフォーサイスが最初に生み出した形式であって、後続の振付家たちがこぞって彼の模倣に走ってお約束のパターンになったのだとしても、さすがに初演から20年も経った現在では、いかにもな演出にみえて、古くさいモダン・ワークという感じがした。

ただし、個々の踊りの振付はすばらしかった。人間の身体はこんなふうに動けるものなのか、こんなにもしなやかで柔軟なのか、こういうふうに動かすとこうも美しいものなのか、と感動した。筋肉の動きの変化がはっきりと見えるのも迫力満点で、「人間ねじり飴」みたいだった。男性ダンサー2人が並んで、両腕を風車みたいにぶんぶん回転させ続けるのもきれいだった。

クーパー君がデボラ・ブルと組んで、ロイヤル・オペラ・ハウス改築記念ガラで踊ったパートは、作品の後半部に出てくる。今回の公演であらためて確認した。クーパー君、やっぱり、デボラ・ブルの背中を支えるとき、失敗して手がすべっちゃったのね・・・。

そして、出演した4人のダンサー、小池知子、西島千博、橋口晋策、福原大介がとにかくすばらしかった。私は3年前にもスター・ダンサーズ・バレエ団の公演を観たけど、3年前と比べると、ダンサーは総じて段違いにレベル・アップしている。

特に男性ダンサーの人材が充実していることに驚いた。福原大介か橋口晋策(どっちか分からない)は、女性ダンサーも顔負けの非常に柔軟な身体を持っていて、技術にも目を見張るものがあった。男性と組んで踊っていたときなんかすごかった。片腕をつかまれて、片脚を軸に開脚したとき、上げたほうの片脚がぐんぐん伸びて、どこまでしなって、どこまで開くのだろうと思った。

「火の柱(Pillar of Fire)」は、振付はアンソニー・チューダー(Anthony Tudor)、音楽はシェーンベルクの「浄められた夜(Verklarte Nacht、Op.4)」を用いている。初演は1942年にバレエ・シアター(アメリカン・バレエ・シアターの前身)によって行なわれた。

実を言うと、私は「火の柱」には何の期待もしていなかった。理由は、シェーンベルクの「浄められた夜」が苦手だったから。「浄められた夜」は1899年の作曲で、私は19世紀末から20世紀初頭にかけての音楽に共通した、あの不安で憂鬱な雰囲気が大好きだけど嫌いだ。

でも、今回の公演で私が最も好きになったのは、意外にもこの「火の柱」だったのである。本当に、これは予期せぬ大収穫であった。アンソニー・チューダーなんて、名前しか知らなかった。・・・いや、"The Leaves Are Fading"(1975)の一部は、なにかの映像版で観たことがある。ひたすらきれいなだけの踊りで、興味が湧かなかった。

幕が上がると、左右に家のセットがある。背景はくすんだ暗い色合いの家並み。夕暮れらしく、灰色の雲間からは、淡い青から黄色へと変わっていく空がのぞいている。舞台の風景は暗くて陰気である。これがまた合うんだわ、「浄められた夜」の雰囲気と。

右の家の戸口には1人の女性が腰かけている。淡い黄色いドレスを着て、髪はきちきちにまとめている。これが主人公のヘイガー(小山久美)で、彼女は陰鬱で悲しそうな表情のまま、体を硬直させて座り続けている。

登場人物はヘイガーの他に、ヘイガーの姉と妹、ヘイガーが片思いしている青年、ヘイガーを誘惑する男、若い恋人4組、セックスに耽っている若い男女6人、操を守り続けて80年くらいの老婆2人。

ストーリー紹介を始めると長くなるので、短くまとめます。あ、登場人物とかストーリーについては、私はそう解釈したということであって、公演プログラムに書いてある内容とは違います。アンソニー・チューダーの意図とも遠く隔たっていると思います。

ヘイガーはある青年(ベン・ヒューズ、Ben Huys)への片思いに悩んでいるが、彼に対してどういう態度をとったらいいのか、決心がつきかねている。ヘイガーの姉(周防サユル)は道徳的に厳格で信心深く、身持ちの固い女性。一方、ヘイガーの妹(鈴木美波)は天真爛漫で無邪気で活発、男性に対しても積極的にアタックする。

悩むヘイガーの横を、黒いドレスを着た陰気な2人の老婆が通り過ぎる。また恋人たちが踊りながら行き過ぎていく。向かいの家では、男女がほしいままに快楽に耽っている(家の壁が紗幕になっていて、中の様子が透けて見える)。その家の戸口から、女たらしっぽい風体の男(新村純一)が出てきて、ヘイガーに誘惑するような視線を向ける。

ヘイガーはこれらのいろんな人々を眺めながら、自分はどういう道を選んだらいいのか分からない。片思いの青年に告白するチャンスはあるのだが、うじうじとためらっているうちに、積極的な妹に彼を取られてしまう。

ヘイガーは自暴自棄になって、女たらしの男と関係を持ってしまう。でも彼女はすぐに後悔する。苦しむ彼女の後ろを、灰色のドレスを着た1人の女がうなだれて肩をすくめ、棒立ちの姿勢のまま、すごい速さのパドブレで通り過ぎる。姉妹や街の人々みんなが彼女を取り囲む。彼女は自分を責めるあまりに、みんなが自分を軽蔑して嫌っていると思い込む。

場面は変わって夜の森。ヘイガーは森の中をひとりさすらう。姉がやって来る。姉は事の次第を知るなり、怒り嘆いてヒステリックに神に祈り、すがるヘイガーを振り払う。そこへ2人の老婆が歩いてきて、姉は老婆たちと肩を並べて行ってしまう。恋人たちもやって来る。睦まじげに踊る恋人たちの中で、ヘイガーだけが孤独である。

次に、セックスに耽っていた男女と、ヘイガーを誘惑した男がやってくる。ヘイガーは彼と踊ろうとするが、彼はヘイガーを振り払って他の女と踊る。打ちのめされて床に倒れ伏したヘイガーに妹が近づく。妹はヘイガーを見下ろして笑い、ドレスの裾をひらひらさせる。

再びひとりになったヘイガーに、彼女が恋していた青年が近づく。ヘイガーは自分の肩を抱きかかえ、顔をその中に埋めて彼に背を向ける。しかし青年はヘイガーに優しく接し、ヘイガーも素直に彼の優しさに応えるようになる。ふたりは抱き合いながら姿を消す。

舞台奥に見える木々の陰を人々が次々と行き過ぎていく。最後にヘイガーと青年とが現れる。彼らはそっとキスをしてから、再び抱き合って通り過ぎていく。彼らの後ろを、あの灰色のドレスの女が、やはり棒立ちながらも、今度は顔を上げて前を見つめながらついてゆく。

ヘイガー以外の登場人物たちは、彼女が選び得るいろんな人生の形とその結末である。あるいは彼女の中にあるいろんな面を、登場人物たちに象徴させているともいえる。「火の柱」は、何が起ころうとも、人生なんとかなるものだ、自分の自然な感情に任せなさい、という、まるで瀬戸内寂聴の説法をバレエ化したみたいな作品であった。

振付は半世紀以上も前のものとは思えないほど、すんなりと受け入れることができたし、その意味もおおよそは分かった。クラシック・バレエのステップやムーヴメントはより自然な形にされて、踊りがストーリーから浮き出ることはない。

また日常の仕草をマイム化した動きと踊りが連動して用いられていた。マイムは踊りと踊りとの間に、ストーリーを説明するために挟みこまれるのではなく、マイム自体が踊りの一部となっていた。

初演が1942年ということも関係しているのか、セックスのシーンなどは気をつけていないと分からない。たとえば、男女6人がセックスに耽っているシーンは、男性ダンサーは上半身裸で、女性ダンサーはビスチェにシュミーズという衣装のまま、入り乱れて(しかしお互いに触れることなく)踊ることで表される。

女たらしの男がヘイガーを誘惑するシーンでは、彼が両手で自分の太腿の付け根を触ることで、ヘイガーを誘っていることを示している。また、ヘイガーが彼と関係を持ったことは、ヘイガーが床に横たわり、体をほんのわずかに反り返らせるという仕草で辛うじて分かる。

初日は、女たらしの男がヘイガーを家の中に引き入れたと思ったら、5秒も経たないうちにヘイガーがその家から出てきたので、ずいぶんな早○男だな〜、とつい下賎なことを考えてしまった。でも翌日の公演を観たら、ヘイガーが男の家に入る前に、上記のような仕草をしたことに気づいた。その手のシーンは、こんなふうにさりげなく示されるわけです。

「火の柱」にはハデなジャンプも回転もなく、おまけに舞台の雰囲気は暗い。そのうえ主人公のヘイガーは超内気で優柔不断なジメジメ女で、目立った表情の変化がなく、目立った踊りもない。

前の「ステップテクスト」が終わったときには大喝采だったのに、「火の柱」が終わったときにはおざなりの拍手しかなかった。やっぱりバレエでは、ハデなジャンプや回転や「人間ねじり飴」が歓迎されるのか、と気の毒だった。

ヘイガーを踊った小山久美は、見た目に目立つ表情の変化や踊りはなかったが、実はしっかりした技術と表現力を併せ持っている人だと思う。身のこなしとか、ちょっとしたステップとか、あと誰と組んで踊ってもタイミングがズレない。きっちり決まる。

蛇足だが、こんなストーリーで、しかも音楽の題名は「浄められた夜」なのに、なぜ作品名が「火の柱」なのか?と不思議に思った。家に帰って調べたら、「火の柱」、"pillar of fire"とは、聖書の「出エジプト記」に出てくる語であるという。

エジプトを逃れたモーゼ率いるユダヤ人たちを、神が昼には雲の柱となって、夜には火の柱(pillar of fire)となって現れ、ずっと彼らを導き見守った、ということである。

いつでも優しく見守っている神、という意味で、ヘイガーの苦悩に救いを与えた作品を「火の柱」という題名にした、というのは深読みしすぎでしょうか。まさかあの棒立ち超速パドブレ女が「火の柱」だったのか?確かに棒立ちだったから、柱といえなくもない。

「ウェスタン・シンフォニー(Western Symphony)」は、ジョージ・バランシン(George Balanchine)振付、音楽はハーシー・ケイ(Hershy Kay)のオリジナル曲。初演は1954年、ニューヨーク・シティ・バレエ団によって行なわれた。

作品名だけで、どんな音楽で、どんな舞台セットや衣装なのかは、観る前から想像がついた。これは気軽に楽しめる内容だろう。そして公演の最後に置かれるということは、大いに盛り上がるようなハデな作品に違いない。予想できないのは振付だけだった。

まず形式は、最初に群舞があり、次に4組の男女のカップルによって、小型グラン・パ・ド・ドゥみたいな踊りが次々と繰り広げられ、最後に群舞と4組のカップルの全員が、舞台いっぱいに広がって踊り、全員がピルエットで回っているうちに幕が下りる、というものだった。

音楽は西部劇で流れているようなメロディ。セットは意外と寂しくて、これまた西部劇に出てくるような、よそ者のガンマンと地元のならず者たちとの間で必ず銃撃戦が起きる酒場風の建物のセットが、一つぽつんと奥に置かれているだけだった。

男性陣はカウ・ボーイ風の黒い衣装に白い帽子、女性陣の衣装は超キュートだった。みな色とりどりで、ストラップ・タイプの上衣の胸元には刺繍やパッチなどの飾りがつき、スカートはカラフルなフリルが幾重にも重なった短いチュチュ。タイツは薄手の黒。衣装の色と合う羽根のついた帽子をかぶり、首には黒いチョーカーを巻き、黒いレースの手袋をはめている。

予想どおり楽しい作品だったが、振付はつまらなかった。面白かったのは最初の群舞(最初は2人一組で並んで踊っていたのが、段々と牡丹の花みたいな輪を形づくっていくところ)だけで、あとは西部劇風の音楽にクラシック・バレエのお約束的な振りを施しただけだった。しかも古典作品のグラン・パ・ド・ドゥではよくあるパターンの踊りを4回も繰り返す。

アンソニー・チューダーが1942年に「火の柱」みたいな作品をつくったのに、なんでジョージ・バランシンが1954年にこんな作品をつくったのか?西部劇風の音楽に、あえてクラシック・バレエのお約束的な振りや、グラン・パ・ド・ドゥ形式を採用することが斬新だったのか?この作品はもう観なくてもいい気がする。

ああ、思い出した。白椛祐子と西島千博との踊りで「白鳥の湖」のパロディがあった。第一幕の最後、オデットは両腕をゆらゆら揺らしながらパドブレで舞台袖に引っ込んでいく。白椛祐子は、王子ならぬカウボーイの西島千博を残して、振りも表情もオデットそっくりに退場していった。西島千博は、4羽の白鳥ならぬ4人の美女と手をつなぎながら姿を消すが、そのとき4人の美女は、これまた腕を波打たせながらパドブレをしていた。おかしかった。

ダンサーについては、群舞は振付が面白いと感じたせいもあってか、とても見ごたえがあった。最後の「全員ピルエット」も楽しい雰囲気が盛り上がってよかった。でもソロになると、振付がつまらなかったので、いまいち気持ち的に乗れなかった。

あと、これは軽々しく断定はできないが、スター・ダンサーズ・バレエ団は、ひょっとしたらモダン・ワークスは得意だが、正統派クラシック・バレエの振付作品は、あんまり得意じゃないのかもしれない。

女性ダンサー陣は今ひとつパッとしないところがある。あっ、この人すげえ、と注意を引かれる人があまりいなかった。3年前の公演を観たときにはそんな人が複数いたんだけど、どうやら彼女たちはその後、別のバレエ団に移ったようだ。

男性ダンサーの中では、前にも書いた福原大介や橋口晋策は期待の星だと思う。もしかしてすでにスターなのかな?でも福原君の「ウェスタン・シンフォニー」でのソロは、「ステップテクスト」での踊りに遠く及ばなかった。それに踊りだけではなくて、オレ様がここにいるんだぜ、という存在感と演技力はまだ要努力です。

西島千博は、バレエはアダム・クーパー以上にヘタだが、西島千博は作品に合わせて自分の雰囲気をがらりと変えることができる。それにこの人は舞台にいるだけで目立つ。彼を中心に舞台全体がひきしまる。

「ステップテクスト」ではストイックでシリアスな雰囲気を漂わせていた。「ウェスタン・シンフォニー」では、美女軍団に囲まれてニヤけている顔や、舞台の端に突っ立って、ひとりで勝手に気取っている姿を見るだけで、こっちも大いに笑えた。観客を楽しませるという、日本では稀有な能力を持ったバレエ・ダンサーだと思う。

この西島君にはやはりファンが多いようで、公演会場では「今日の西島君」談義があちこちで繰り広げられていた。彼らはけっこうミーハーな感じのお気楽なノリであった。こういうファンは、あの怖いおばさんみたいな、コアなバレエ・ファンにとっては軽蔑の対象に過ぎないだろうが、バレエ団にとっては大事にしなければならない存在である。

ただでさえ狭い日本のバレエ業界で、「ステップテクスト」の始まり方に象徴されるような、「分かる人にだけ分かってもらえればいい」という姿勢を貫くならば、そのバレエ団はいずれ自然と消滅してしまうだろう。

もしバレエ団を存続させたい、バレエをもっと日本に普及させたいと考えているのなら、客層を広げなければならない。客層を広げるということは、「ミーハー」なファンも受け入れるということだ。

日本でバレエがもっと普及し、日本のバレエ文化が盛んになることの代償は、バレエが有しているとされる芸術的な地位の高さが、ある程度低くなることである。バレエの「高次な芸術性」とバレエの普及度は反比例の関係にある。両方を同時に得ることはできない。

スター・ダンサーズ・バレエ団は、西島千博やそのファンを大事にし、西島君のようなダンサーをもっと育成していったほうがいいと思う。スター・ダンサーズ・バレエ団が、カンパニーを存続させたい、と望んでいるのなら。

(2005年3月14日)


このページのトップにもどる