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なぜアダム・クーパーをこんなに好きなのか(1)

第一回目はやはりこのテーマだろう。私がクーパーを知ったのは、マシュー・ボーン版「白鳥の湖」映像版でである。ある日、帰りに寄った山野楽器で、たまたまそのDVDを見つけた。

私はそれまでアドベンチャーズ・イン・モーション・ピクチャーズ(以下AMPと略)も、マシュー・ボーンも、アダム・クーパーも全然知らなかった。ボーン版「白鳥の湖」が欧米で大ウケしていたことも知らなかった。映画「リトル・ダンサー」も知らなかった。バレエやダンスのことにはほとんど無知だったのである。しかし、マーゴ・フォンテーンとルドルフ・ヌレエフが踊った「白鳥の湖」のDVDは持っていて、伝統版のあらすじは大体知っていた。で、最初は、ボーン版はいわゆる「斬新な新解釈」、「衝撃の新演出」だろうと思った。どの分野でもこの類は大流行で、たいていは従来版を裏返しにしただけの代物だ。しかし、私はオディールが好きなので、「男のオディール」がどうなっているのかには興味があったし、その時は特別価格(3600円ナリ)になっていたので買うことにした。

はじめに観たときには、やっぱり失敗したかな、と思った。第一幕は面白かったが、第二幕の男の白鳥たちは、不自然で、滑稽で、気味が悪かった。そこでとばして第三幕を先に観ることにした。クーパーが黒のレザー姿で出てきたときには吹き出したが、段々と目が離せなくなってしまった。

クーパーにやられた瞬間は、「黒鳥」の青年が、王子に向かって自分の額に黒い線を親指で書き入れ、ニヤ〜ッと笑ってみせるシーンである。私はそれまで、ダンサーや歌手というのは、オーバーアクションでわざとらしい大根演技しかできない、という偏見を持っていた。しかしクーパーのこの笑いには、恐ろしいほどの凄味があり、不覚にもゾッとした。ワタクシとしたことが!そして、コーダでのあの迫力に満ちた群舞である。とどめ。

その後、なんてきれいな人だろう、という思いの方が強まってきた。ハンサムだしスタイルもいいが、何よりも動きの一つ一つが、とても特徴的で、きれいにキマっている。かっこいいというより、美しい。踊っているときもそうだし、坐ってるだけでも目が吸い寄せられる。不思議だ。そこで禁断の(?)第二幕と第四幕も観た。あのメイクと衣装は、最初はやはり抵抗感があったが、徐々に慣れてきた。慣れると、第三幕よりもずっときれいだと思えた。手足を使って、藍色の背景の上に、白く球体のフォルムを描いているようだ。他のダンサーと動きがどうもちがう気がする。上手い下手じゃなくて、動きのタイプそのものが異なるようだ。

具体的に言うなら?一緒に「白鳥の湖」に出ている、他のダンサーと比べてみると、この人は体がより柔らかいようである。体の各関節が、他のダンサーよりもぐんにゃりと曲がるらしい。たとえば、腕、背骨、腰、大腿などは、他のダンサーよりも曲がる角度が大きいようである。ジャンプすると、上半身がぐいっと反り返り、腰や大腿も後ろにがっくり折れ曲がるようになって、それが妙に色っぽい。

それに、あのふにゃふにゃした波みたいな手足の動きである。これはきれいだ。また、裸足で踊っているときに分かるのだが、体や足を伸ばすときに、足の甲がぐーんと盛り上がり、足指も反って三日月型になる。こうするととても美しく見える。試しに自分でやろうとしたら足がつった。素人には無理な動きだと知る。あと、一つの動きの最後を、手首から上を動かしてシメるパターンが多かった。なぜかは分からないが、そうすると見ている方の注意がその手首に向く。それこそ手の指先から足のつま先まで、完全にコントロールして動かしているらしい。

これらがたぶんバレエの訓練の賜物なんだろう。バレエというのはおそらく、体を通常よりも柔らかくし、体の隅々までコントロールできるように訓練するもので、その上、最も美しく見えるポーズや動きというのが定式化されているのだろう。クーパーが「白鳥の湖」で際だってきれいに見えるのは、バレエ用に訓練された姿勢、身のこなし、動きなどによるところが大きいと思う。

ちなみに、クラシック・バレエを踊っているのを生の舞台で観たが、意外なことに、ガツガツしたマッスルな要素が全然無い。すごく上品で優雅に踊る。すっきりした淡麗な味わいだ。

あと、この人は独特の体型で見た目かなりトクをしている。映像版「白鳥の湖」を観て、この人はとても大きくてたくましい体なんだろうと思っていた。「リトル・ダンサー」での姿なんて、アーノルド・シュワルツェネッガーも顔負けのムキムキぶりだ。そして、身体にフィットした衣装(いや〜ん)で踊っているのを生で観ても、上半身が短くて手足が長く、やはり大きく見える。

ところが、オフステージで本人を近距離から目にしたとき、映像や舞台での大柄な印象とは全然違うので仰天した。本当に本人なのか一瞬疑ったくらいだ。そもそも、思ったほど背が高くはなかった。軽く2メートルくらいはあると思っていたが(冗談です)、たぶん180センチちょっとだろう(アングロサクソン系の白人男性でだよ)。えらいこと細くて華奢な身体をしている。これでよく女性ダンサーを二本の腕だけで頭上に持ち上げたりできるものだ。おまけに、首が細く長くて、そして顔が異常に小さい。ぱっと見で一番目立つのは、顔スゲーちっちぇー、ということである。あんなに顔の小さい人は初めて見た。私めは顔がデカくて無駄に場所をとっちゃってすみません、と申し訳ない思いにとらわれるくらいである。顔が小さいおかげで、肩幅が広く見え、「捕らわれた宇宙人」体型にならないのである。

つまり、寸詰まりの胴体に、小さい顔と、長い手足がくっついている、鶴みたいな体型をしているために、身体が実際以上に大きく見えるらしい。マシュー・ボーンも指摘していた、クーパーが「舞台で巨大化する」原因は、このせいでもあるだろう(他に「巨大化スイッチ」を持っているという説もあり)。

ハンサムな顔に、完璧なスタイルの美しい肢体、色気のあるきれいな踊り、女心をわしづかみにする要素がみ〜んな揃っている。これに加え、この人の置かれている、ある意味微妙な立場が、私を更にこの人にハマらせる原因となった。

(2002年4月29日)

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なぜアダム・クーパーをこんなに好きなのか(2)

この人は、とてもきれいな顔をしている。小さくて細面な顔で、彫りが深く、俯くと蛾の触覚のような形の直線的な眉が目立つ。瞳はオリーブ・グリーンで、デコと左目の下に傷跡らしいものがある。髪は光沢のある濃いめのブロンドで、麦の穂のようにまっすぐな毛筋である。たぶん朝起きたときは髪がバクハツしているだろう。

「白鳥の湖」では、「白鳥」のときは無表情、「黒鳥」のときは極悪ヅラであるが、これらは完全に演技である。本人の雰囲気は、これらとはまったく正反対で、おとなしくて人の好さそうな感じである(これも演技か?)。にこにことよく笑う。その笑い方っつーのがまた。男の子がてへっ、と照れ笑いする感じで、ほのかなあどけなさがある。ある記者も書いてたが、この方がむしろずっと魅力的だ。全然気さくなフツーの兄ちゃんである。悪役を演じるのが好きだそうだが、普段の反動かもしれない。インタビューの写真でも、常に顔をコワく作っており、別にこんな風にイメージを作らなくても、とワタシ的には思ったりもする。でもひょっとしたら、わざとやってるのだろうか。ある人がクーパー君が出演したバレエを観た後、彼と劇場の外ですれ違ったのだが、ほとんど本人だと気づかないところだったそうな。外を歩くには、この方が便利かも。

クーパー君は以前、英国ロイヤル・バレエのプリンシパル(最も高い地位のダンサーで、主役を踊ることができる)の一人だった。通常の昇進スピードからいえば、この人はトントン拍子に出世した方らしいが、但し本人の言によると、「何かの間違いでなってしまったプリンシパル」だそうだ。

他人からみれば羨ましいような環境でも、その中に入れば色々と苦労があるものだ。男性プリンシパルたちの間にも勝ち組と負け組とがあり、この人は後者に属していた。何が勝ち負けを分けるかといえば、王子役をあてがわれるか否かである(笑ってはいけない。マジな話である)。この人は王子を踊ることはあったが、それはいつも勝ち組プリンシパルがケガで出られないときの代役としてであり、いつもはキャラクター(悪役などの個性の強い準主役)や、コンテンポラリー(現代的な振り付けの作品)を踊っていた。私たち一般人には理解し難い価値観だが、バレエ界では、王子役を与えられない男性ダンサーは敗者とされるらしいのである。ボーンも、最初はクーパーをそう見なしていたという。

彼はロイヤル・バレエ上級学校(高等部みたいなもん?)と、ロイヤル・バレエに在籍していたほぼ十年の間、常にどこかで疎外感を抱いていたらしい。要するに、ロイヤル・バレエに気持ち的にとけ込むことができなかったのである。たぶん、内部上がりががっちり固まって、外部の人間が入り込みにくい、独特な価値観なり雰囲気なりが形成されていたのだろう。よくある話だ。更に、学生時代は教師たちに、バレエには向かない、などと言われ、ロイヤル時代は酷使される割には、さほど評価してもらえなかった。

クーパー君はプリンシパルになった頃には、バレエのダンサーとしての自信を失っていたそうだ。そんな折に、ボーンから「白鳥の湖」の白鳥を踊らないかと誘われた。クーパー君は、大バクチを打つことにしたのである(「これは僕を成功させるか、さもなければ破滅させるかだと思った」)。なんで大バクチなのかというと、当初はボーン版「白鳥の湖」を、「おカマバレエ」と揶揄する連中が結構いたそうなのだ。性的な要素がからんでいるだけに、失敗したらバレエのダンサーとしては命取りになる。

マシュー・ボーンは、ダンサーに役柄の解釈を任せ、振り付けや演技のアイディアをどんどん出させるそうだ。クーパーはAMPとの仕事の過程で、インプットされたことが本当に多かったと言っている。そして、AMPの「白鳥の湖」は大成功し、クーパーはあっという間に有名になった。彼はAMPの次作「シンデレラ」にも参加し、望まなかったこととはいえ、ついにはロイヤル・バレエを退団する。

ところが、クラシック・バレエ界の「負け組プリンシパル・ダンサー」が、ショー・ビジネス界におけるコンテンポラリー・ダンスで大成功したことは、一部の人々に、クーパーを皮肉な目で見ることを促したんではないかと思える。イギリスのダンス界では、バレエ界とコンテンポラリー界(マシュー・ボーンの呼び方による)の間に、かなりはっきりした境界線が引かれ、相互不可侵が基本だったらしい。これはボーンも明言しているし、ボーンの言動には、とかくこの境界線の意識が見え隠れする(「お姫様や王子様だけが登場するわけではないバレエを」といった発言は典型的だ)。バレエ界の一部の人々からすれば、クーパーがコンテンポラリー界で成功したことは、「真の芸術的成就」ではなく、コンテンポラリー界の一部の人々からすれば、クーパーの行為は、バレエ界の人間によるなわばり荒らしであったろう。

商業的・大衆的に成功すればするほど、芸術的価値は反比例して低くなるとみなされる。クーパーが商業演劇界で成功し、大衆的な知名度が上がったことで、クーパーは「真に芸術的に一流のバレエ・ダンサー」ではない、と胡散臭く思っている手合いは、バレエ界には割といるだろう。AMPの作品に対する批評家の文章には、商業演劇に対するバレエの優越という視点に陣取って(別にその人自身が優越しているワケじゃないのだが)、ボーンやAMPのダンサーを見下すような言い方をしているものが多い。クーパー君が映画やテレビに出演したり、新聞や雑誌に取り上げられるのが多いことも、偏見(もしくはやっかみ)に輪をかけたんではないだろうか。大衆的な知名度は、真の芸術とは相容れない。なぜならバレエとは、一部の知的にも身体的にも金銭的にも「選ばれた人間」のものだから。あるバレエファンはこう言っていた。「彼は確かに優れたタップ・ダンサーだ。」

彼がロイヤル・バレエを退団した直接のきっかけは、AMPロス公演への参加だった。彼はAMPの「シンデレラ」にも出演したから、アダム・クーパーは、AMPの「団員」になったと誤解した向きが多かったようである。ただし、AMPは専属ダンサーを持たない(芸術的に常に新鮮さを保てる。ついでにいえば経営上もとても合理的だ)そうなので、そんなことはありえないわけだが。2000年を最後に、彼はAMPにはほとんど参加しなくなる。いろんな事情があるのだろうが、この人は結局AMPにも居着けなかったわけだ。現在、AMPとクーパー君との関係がどうなっているのかは、よく分からない。AMPといっても、AMPは内輪もめ(?)で去年とうとう分裂してしまったから、ちょっとややこしい。ボーンの方とクーパーは、別に関係が悪くなったようにはみえないのだが、分裂したもう一方のAMPとクーパー君との関係は微妙だ。よって、クーパー君が果たして、来年(2003)のAMP「白鳥の湖」日本公演に参加するのかどうか、非常に見ものである。

現在の「AMP」は、映像版「白鳥の湖」が収録された頃の「AMP」に比べると、ほとんど違う性質の団体になっていると思う。現在のAMPは、「白鳥の湖」と「ザ・カー・マン」の2演目を、公演期間毎に契約、組織されたダンサーたちを率い、各地をひたすらツアーして上演することを専門に行なっている(AMPの本来の姿は、ボーンが新たにたちあげた「NEW ADVENTURES」という組織に移ったようである)。これからは別カンパニーへの上演権の貸与を始めるという噂もある。将来的には、日本のカンパニーが上演する2作品を観られるかもしれない。「驚異の大ヒットロングラン〜あなたはもう観ましたか?劇団四季が贈る!マシュー・ボーンの『白鳥の湖』」とか、「宝塚花組公演『ザ・カー・マン〜禁じられた恋に散って〜』主演:黛れい」なんてこともアリかも。

クーパー君は、クラシック・バレエも捨てなかったし、コンテンポラリーから抜け出すこともしなかった。今年の春には、自分が振り付けたミュージカルに出演し、踊るどころか、歌うこと(爆)までやっているし、この夏には再びロイヤル・バレエに出演する。一部の人々には「手を広げすぎ」と陰口を叩かれているが、彼にとってみれば、「ずっとやりたかったこと」なのだという。こんなふうに二足のわらじを履いている人は珍しいそうだ。

そんなわけで、バレエ界と、ショー・ビジネス界の両方に片足ずつ突っ込んでるおかげで、そのどちらにも定着できない、もしくは受け入れてもらえない、欲張りクーパー君を、私は全力で応援したい。ある一つの世界なり価値観なりに、身も心も染まって、その中で何の疑問もなく、仲間だけで固まって順調にやってきた人間よりは、こういう人の方が私は大好きだ。立場は不安定で、寂しい根無し草で(案外本人は全然気にしていなかったりして)、将来の仕事も保証されないが(金は持ってるのかもしれない。だがイギリスは税金が高そうだ)、何とかお気楽なペースで、自分のやりたいことをやり続けていってほしい。ただ一つだけお願いなのは、指揮者にチャレンジするのだけは、どうかやめてください。

(2002年4月30日)

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